アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の公教要理 「聖霊について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
大阪 2017年6月11日の公教要理
聖霊について
親愛なる兄弟の皆さん、
聖三位一体には三つのペルソナ、御父と御子と聖霊があります。御父は天主であり、御子は天主であり、また聖霊もまことの天主です。でも、これら三つのペルソナは唯一の天主であって、三つの天主ではありません。さて、御子の神性を否定する(そしてその結果として聖霊の神性も否定する)アリウス派という異端がありました。同様に、四世紀の終わりには、マケドニオスと言う名前の人に由来するマケドニオス主義の異端という聖霊の神性を否定する異端がありました。こんにちでさえ、聖霊が御父と御子と区別される天主のペルソナでありながらまことの天主であるということを否定する異端者たちがいます。彼らはエホバの証人であり、天主の御子である私たちの主イエズス・キリストの神性までも否定しています。ですから、聖書と教会が聖霊に関して私たちに教えてくれていることを考察してみましょう。
創世記のまさに最初の章に、天主がそのみ言葉によってこの世をお創りになったことが書かれています。「『光あれ』と仰せられた。すると光ができた」(創世記1章3節)。光は創られましたが、光を創ったみ言葉は創られたのではありませんでした。「万物はみ言葉によって創られた」(ヨハネ1章3節)。しかし、創造のみ言葉が見られるその同じ創世記第一章に、「水の上に舞う」(創世記1章2節)天主の霊も見られます。同じように、水は創られましたが、水の中に命を創った命を与える天主の霊は創られたのではありませんでした。
ヨブはこう言います。「その息吹に天は晴れわたり」(ヨブ26章13節)、そしてのちには「私は天主の息吹でつくられ、全能者の息によって永らえている」(ヨブ33章4節)。詩篇作者もまた、霊のことを二度、創り主と表現しています。「天は主のみ言葉によって、その軍勢は主の口の息吹によってつくられた」(詩篇32章6節)。「あなたが息を送れば、彼らはつくられ、地の面は新たにされる」(詩篇103章30節)。ですから、天主の霊が創り主であるのは明らかであり、それゆえにその霊は天主なのです。
でも、聖霊が[御父と御子から]区別されたペルソナであるということは、旧約においてはまだはっきりしていませんでしたが、新約において、特に、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちに対して、「御父と御子と聖霊の御名によって」(マテオ28章19節)洗礼を授けるようにと命令をなさることで明白にされました。この一節は最も重要であって、聖霊のペルソナ性をはっきりと示しています。実際、御父が一つのペルソナであり、御子が一つのペルソナであり、それゆえに、この一節で同等の扱いをされていることそれ自体がまさに、聖霊もまた一つのペルソナであるということを暗示しています。
さらに、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、聖霊に関する多くの重要な真理を教えてくださいました。特に主はこう言われました。「だがその方、つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理を教えるであろう。それは、自ら語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。教える者になるということは、ペルソナ[人格]を持つ存在に固有のことです。主のこのみ言葉は、聖霊が御子と区別されるペルソナであるということを暗示しています。
聖パウロは聖霊に関する非常に重要なことを言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コリント前書6章19節)。さて、神殿の聖所は天主を礼拝するためだけに建てられます。聖所においては、天主に犠牲が捧げられます。ですから、私たちが聖霊の聖所であるならば、そのことは聖霊が天主であるということを暗示しています。また、人は石でできた聖所よりもそれにふさわしく、人は天主に創られた生ける聖所なのです。このように、聖所は聖霊を礼拝するために教会によって建てられるだけでなく、聖所は聖霊を礼拝するために人間の創り主である天主ご自身によって建てられるのです! それゆえに、教会はニケーア信経の中で、「simul adoratur et conglorificatur―聖霊は[御父と御子と]ともに拝みあがめられ」と歌うことができるのです!
聖書の中で私たちは、御父が御子を遣わされ、御父と御子が聖霊を遣わされたのを見ます。実際、私たちの主イエズス・キリストは何回も、ご自分のことを「[天主御父に]遣わされた者」と言われています。主はカファルナウムで人々にこう言われました。「天主の御業とは天主から遣わされた者を信じることだ」(ヨハネ6章29節)。「父が聖別して世に送られた人が『私は天主の子だ』と言ったから『冒涜を言う』と言うのか。私が父の業をしないなら私を信じないでもよい。もしそうしているなら、たとい私を信じないまでも、私のする業を信じよ。そうすれば父が私にあり私が父にいることが分かって信じるであろう」(ヨハネ10章36-38節)。さて、誰も自分自身を遣わす人はいません。ですから、御父が御子を遣わされたという事実それ自体が、御父のペルソナと御子のペルソナが区別されることを証明しています。
同様に、私たちは御父が聖霊を遣わされ、また御子が聖霊を遣わされるのを見ます。四回にわたって、私たちの主イエズス・キリストは聖霊が遣わされることを予告なさいました。「私は父に願おう。そうすれば父はほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である」(ヨハネ14章16-17節)。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。「私が父からあなたたちに送る弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば私はそれを送る」(ヨハネ16章7節)。
これら四つの節を並べてみるのは有益です。なぜなら、その四つは聖霊を遣わされることにおいて御父と御子が完全に等しいことを明白にしているからです。第一は、御父だけです。「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」。第二は、御子の御名によって御父です。「父が私の名によって送り給う」。第三は、御子が御父からです。「私が父からあなたたちに送る」。第四は、御子だけです。「私はそれを送る」。主からのこのはっきりとした教えに基づいて、教会はこう教えています。聖霊は「御父と御子から発出する」。オーソドックス教会は後半部分を否定していますが、それは聖書に反しています。実際、主が「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」と言われるとき、御父が聖霊を遣わされるという事実は御子が聖霊を遣わされるという事実に反しているのではありません。それについて、主ご自身が「私はそれを送る」という詩句を数節あとで言われているとおりです。同様に、主が「父から出る聖霊」(ヨハネ15章26節)と言われるとき、聖霊が御父から発出するという事実は聖霊が御子からも発出するという事実に反しているのではありません。それについて、主がそのすぐあとこう言われるとおりです。「真理の霊は…私に光栄を与えられる。なぜなら、霊は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。父のものはすべて私のものである。だから私は、霊が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章13-15節)。
次のように言う方々がいるかもしれません。「これは複雑だ。私の頭ではとてもついて行けない」。そうです、実際、これらの真理は天主の水準にあり、天主の三つのペルソナの間の親密な関係という水準にあるのです。でも、私たちの主イエズス・キリストが私たちに対してこれらの真理を明らかにされました。なぜなら、私たちがまことに天主を愛するならば、私たちは天主のことをさらによく知りたいと渇望し、これらの言葉を通して私たちが天主の三つのペルソナに関するさらに深くてさらに近しい知識に導かれるからです。
さらに、私たちが成聖の恩寵の状態にあるなら、聖霊が私たちの霊魂の天主なる賓客です。聖霊は、主が言われたように私たちのうちに住まわれます。「それは真理の霊である。世はそれを見もせず知りもしないので、それを受け入れない。しかしあなたたちは霊を知っている。霊はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中にいますからである」(ヨハネ14章17節)。私たちがこれまで見たように、聖パウロはこう言います。「あなたたちは天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。王あるいは皇帝が私たちの家に来られるなら、私たちは家の全てが汚れなく美しいことを確認し、その王の私たちの家への訪問が可能な限り快適であるよう精いっぱい心を砕くでしょう。さて、私たちの賓客は単なる王ではなく、全能の天主、私たちの霊魂に住まわれる天主の霊そのお方です。それゆえに、私たちは、私たちの霊魂の全てが汚れなく、聖なるものであり、そのお方に快適であるよう、また、私たちの霊魂を訪問して下さるその天主なる賓客に対して、そのお方にふさわしい全ての礼拝をお捧げし、愛の従順をお捧げするよう、心を砕くべきです。
聖霊は私たちにとっての弁護者、すなわち代弁者にして慰め主です。聖霊は特に私たちの霊魂に天主の愛を注ぐことによって私たちを慰めてくださいます。それについて聖パウロはこう言います。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。愛は霊的生活の中心ですから、聖霊は私たちの霊魂に愛を注がれるので、「生命の与え主」なのです。
聖霊は「真理の霊」です。なぜなら、聖霊は私たちに真理の愛を与えてくださるからです。実際、真理を知るだけでは十分ではなく、私たちは真理を愛するべきです。真理を知った人々のうち、真理を愛さなかったため、真理を失ってしまった人々が多くいました。人が本当に真理を愛するのは、真理を実践するとき、すなわち真理を生きるときです。聖ヨハネは実際こう言っています。「天主は光であって、少しの闇もない。私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら、それは偽りで、真理を行っていない」(ヨハネ第一1章5-6節)。「『私は主を知っている』と言いながら掟を守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない」(ヨハネ第一2章4節)。聖パウロが同じことを言っています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している」(ティト1章16節)。
聖霊が私たちに愛させるために与えてくださる真理は新しいものではなく、永遠の真理、主と使徒たちによって初めから教えられた真理です。主はこう言われました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。また、聖パウロが言っています。「ある人が来て、私たちが宣教しなかった他のイエズスを宣教し、そしてあなたたちがかつて受けなかった他の霊を受け、あなたたちがかつて受け入れなかった他の福音を受けるなら、あなたたちはその人のせいで苦しむだろう」(コリント後書11章4節)。
聖にして母なる教会は、聖霊は特にその七つの賜物によって私たちを助けてくださる、と教えています。上智、聡明、知識、賢慮、剛毅、孝愛、敬畏です。イザヤはこれら七つの賜物を、有名なキリストに関する預言の中で次のように記述しています。「イェッセの根から新芽が出、その根から花が開き、その上に主の霊がやどる、知恵と分別[聡明]の霊、賢慮と剛毅の霊、知識と主への恐れの霊が。彼は主への恐れを喜びとし、目で見ることだけで裁かず、耳に聞くことだけで決定しない。むしろ、貧しい人々を正しく裁き、地の柔和な人々のために公正に決定する」(イザヤ11章1-5節)。イェッセはダヴィドの父で、イェッセの根はバビロン捕囚の時代に王位を失ったダヴィドの子孫のことを表しています。彼らはもはや美しい木ではありませんでしたが、まだ生きている根がありました。その根から出る新芽は童貞聖マリア、花は私たちの主イエズス・キリストを表しています。
まことのキリスト教的命は超自然の命、私たちの自然の能力を超えた命であるがゆえに、これら七つの賜物を必要とします。またそれゆえに、その命は私たちを強め高めるための助けを必要とします。こうして、敬畏の賜物が誘惑に打ち勝つよう私たちをおおいに助けてくれます。「主を恐れることは知恵の初め」(詩篇110章10節)。多くの人にとって、いえほとんどの人にとって、主を恐れることが、人を罪から立ち戻らせ、天主のみ言葉を真剣に受け取り始めさせることを助ける決定的な要素です。それは、「天主を侮ってはならない!」(ガラツィア6章7節)からです。ファリザイ人のように、「頭は固く、心と耳に割礼を受けず、絶えず聖霊に逆らって」(使徒行録7章51節)いる人たちは、いったいどのようにして天国へ行けるというのでしょうか? それゆえに、そのように聖霊に逆らうことをまことに恐れ、むしろ聖霊に従順でいましょう。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。天主の掟に従順であるよう聖霊に導かれることによって、「その掟を守る人は天主にとどまり、天主もまた彼にとどまられる。私たちは天主が中にとどまり給うことを、与えられた霊によって知る」(ヨハネ第一3章24節)。
孝愛の霊は、私たちが祈るのを助けてくれます。祈りは常に簡単という訳ではありません。なぜなら、私たちよるはるか上におられるお方に祈るからです。私たちはしばしば気が散って注意をそらし、疲れます。聖パウロ自ら言います。「霊も私たちを弱さから助ける。私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが、霊は筆舌に尽くしがたいうめきをもって、私たちのために取り次いでくださる」(ローマ8章26節)。また「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。絶えず目を覚まして、忍耐強くすべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。キリスト教徒の生活は聖霊の助けを受ける祈りの生活です。このことは、私たちがカリスマ運動の人のようになるべきだという意味ではありません。彼らはいつも聖霊による霊感を受けると言い張ってあらゆる種類の祈りを発明しますが、その祈りは彼ら自身から出るものであって、聖霊から来るものではありません。なぜでしょうか? そのわけは、先に説明したように、聖霊は真理の霊であって、異端とは相いれないからです。さて、カリスマ運動はすべてプロテスタントから始まり、今でもプロテスタントの影響を大きく受けています、特にエキュメニズムにおいてです。いいえ! カトリックの祈りは聖人たちの模範にあるのです。聖人たちはまことに聖霊に満たされ、どう祈るかを私たちに教えてくれます。特に、聖霊は父の中の最高の父に祈るように天主に祈ることを私たちに教えてくださいます。「あなたたちは再び恐れに陥るために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ」(ローマ8章15節)。「あなたたちが天主の子である証拠は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、天主が私たちの心に遣わされたことである」(ガラツィア4章5節)。それゆえに、カトリック信者は「[天にまします]われらの父よ」を祈るのが好きなのです。カトリック信者は、キリストが私たちに与えてくださった「われらの母」である聖母に祈るのが好きなのです(ヨハネ19章27節)。
剛毅の霊は、罪との闘いにおいて私たちを強めてくれます。実際、私たちの主イエズス・キリストは、「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11章12節)と言われました。隣人に対して暴力をふるう人々ではなく、自らに暴力をふるう人々です! それゆえに、聖ペトロはこう言います。「節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ前書5章8-9節)。
賢慮の霊は私たちを助けて、「霊の念(おもい)」を持たせてくれます。「肉の念は死であり、霊の念は命と平和である。肉の念はそのために天主の敵である。天主の法に従わずまた従うことができないからである。従って肉に生きる人は天主に喜ばれない。天主の霊があなたたちに住まわれるからには、あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる。キリストの霊を持たないならその人はキリストのものではない。…あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており、霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる」(ローマ8章6-9、13節)
知識の霊は私たちに、天主の御業、創造の御業、天主の御摂理による御業などにおける天主の御手を見させます。聡明の霊は私たちに、信仰の真理について、聖三位一体やご托身、贖いといった神秘の真理についてのより深い理解を与えてくれます。「聖霊来り給え(Veni Creator)」において、私たちはこう歌います。「御身によりてわれらは御父を知り、かつ御子を知り、そして御父と御子からの御身を知り、常に信じる恵みを与え給え!」。このように、聖霊は私たちを助けて、聖三位一体の神秘をもっとよく理解させてくださいます。ご托身は、聖霊に帰される天主の御業です。私たちは使徒信経において、キリストは「聖霊によりて宿り」と唱え、ニケーア信経においては「聖霊によりて御体を受け」と唱えます。さらにまた、贖いはキリストの犠牲によって完成されました。さて、聖パウロは、この犠牲における聖霊の役割をこう指摘しています。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。
上智の霊は、天主が上から見るように私たちにものごとを見させ、これらすべての神秘の間の関係を理解させてくれます。聖トマスは、上智は天主の親密な愛からくるものであって、それによってある種の「共質性」が与えられ、人は天主と「一つの心」になる、と説明します。聖パウロは美しく言います。「主につく者は彼と一つの霊になる」(コリント前書6章17節)。
御告げの日に聖霊が特別な方法でおいでになった無原罪の童貞マリアが、私たちに聖霊に対する深い知識と大きな愛を与え、また聖母が聖霊に対して常に忠実であられたように私たちに聖霊への完全な従順を与えてくださいますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の公教要理 「聖霊について」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
大阪 2017年6月11日の公教要理
聖霊について
親愛なる兄弟の皆さん、
聖三位一体には三つのペルソナ、御父と御子と聖霊があります。御父は天主であり、御子は天主であり、また聖霊もまことの天主です。でも、これら三つのペルソナは唯一の天主であって、三つの天主ではありません。さて、御子の神性を否定する(そしてその結果として聖霊の神性も否定する)アリウス派という異端がありました。同様に、四世紀の終わりには、マケドニオスと言う名前の人に由来するマケドニオス主義の異端という聖霊の神性を否定する異端がありました。こんにちでさえ、聖霊が御父と御子と区別される天主のペルソナでありながらまことの天主であるということを否定する異端者たちがいます。彼らはエホバの証人であり、天主の御子である私たちの主イエズス・キリストの神性までも否定しています。ですから、聖書と教会が聖霊に関して私たちに教えてくれていることを考察してみましょう。
創世記のまさに最初の章に、天主がそのみ言葉によってこの世をお創りになったことが書かれています。「『光あれ』と仰せられた。すると光ができた」(創世記1章3節)。光は創られましたが、光を創ったみ言葉は創られたのではありませんでした。「万物はみ言葉によって創られた」(ヨハネ1章3節)。しかし、創造のみ言葉が見られるその同じ創世記第一章に、「水の上に舞う」(創世記1章2節)天主の霊も見られます。同じように、水は創られましたが、水の中に命を創った命を与える天主の霊は創られたのではありませんでした。
ヨブはこう言います。「その息吹に天は晴れわたり」(ヨブ26章13節)、そしてのちには「私は天主の息吹でつくられ、全能者の息によって永らえている」(ヨブ33章4節)。詩篇作者もまた、霊のことを二度、創り主と表現しています。「天は主のみ言葉によって、その軍勢は主の口の息吹によってつくられた」(詩篇32章6節)。「あなたが息を送れば、彼らはつくられ、地の面は新たにされる」(詩篇103章30節)。ですから、天主の霊が創り主であるのは明らかであり、それゆえにその霊は天主なのです。
でも、聖霊が[御父と御子から]区別されたペルソナであるということは、旧約においてはまだはっきりしていませんでしたが、新約において、特に、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちに対して、「御父と御子と聖霊の御名によって」(マテオ28章19節)洗礼を授けるようにと命令をなさることで明白にされました。この一節は最も重要であって、聖霊のペルソナ性をはっきりと示しています。実際、御父が一つのペルソナであり、御子が一つのペルソナであり、それゆえに、この一節で同等の扱いをされていることそれ自体がまさに、聖霊もまた一つのペルソナであるということを暗示しています。
さらに、私たちの主イエズス・キリストは私たちに、聖霊に関する多くの重要な真理を教えてくださいました。特に主はこう言われました。「だがその方、つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理を教えるであろう。それは、自ら語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。教える者になるということは、ペルソナ[人格]を持つ存在に固有のことです。主のこのみ言葉は、聖霊が御子と区別されるペルソナであるということを暗示しています。
聖パウロは聖霊に関する非常に重要なことを言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コリント前書6章19節)。さて、神殿の聖所は天主を礼拝するためだけに建てられます。聖所においては、天主に犠牲が捧げられます。ですから、私たちが聖霊の聖所であるならば、そのことは聖霊が天主であるということを暗示しています。また、人は石でできた聖所よりもそれにふさわしく、人は天主に創られた生ける聖所なのです。このように、聖所は聖霊を礼拝するために教会によって建てられるだけでなく、聖所は聖霊を礼拝するために人間の創り主である天主ご自身によって建てられるのです! それゆえに、教会はニケーア信経の中で、「simul adoratur et conglorificatur―聖霊は[御父と御子と]ともに拝みあがめられ」と歌うことができるのです!
聖書の中で私たちは、御父が御子を遣わされ、御父と御子が聖霊を遣わされたのを見ます。実際、私たちの主イエズス・キリストは何回も、ご自分のことを「[天主御父に]遣わされた者」と言われています。主はカファルナウムで人々にこう言われました。「天主の御業とは天主から遣わされた者を信じることだ」(ヨハネ6章29節)。「父が聖別して世に送られた人が『私は天主の子だ』と言ったから『冒涜を言う』と言うのか。私が父の業をしないなら私を信じないでもよい。もしそうしているなら、たとい私を信じないまでも、私のする業を信じよ。そうすれば父が私にあり私が父にいることが分かって信じるであろう」(ヨハネ10章36-38節)。さて、誰も自分自身を遣わす人はいません。ですから、御父が御子を遣わされたという事実それ自体が、御父のペルソナと御子のペルソナが区別されることを証明しています。
同様に、私たちは御父が聖霊を遣わされ、また御子が聖霊を遣わされるのを見ます。四回にわたって、私たちの主イエズス・キリストは聖霊が遣わされることを予告なさいました。「私は父に願おう。そうすれば父はほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である」(ヨハネ14章16-17節)。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。「私が父からあなたたちに送る弁護者、父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば私はそれを送る」(ヨハネ16章7節)。
これら四つの節を並べてみるのは有益です。なぜなら、その四つは聖霊を遣わされることにおいて御父と御子が完全に等しいことを明白にしているからです。第一は、御父だけです。「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」。第二は、御子の御名によって御父です。「父が私の名によって送り給う」。第三は、御子が御父からです。「私が父からあなたたちに送る」。第四は、御子だけです。「私はそれを送る」。主からのこのはっきりとした教えに基づいて、教会はこう教えています。聖霊は「御父と御子から発出する」。オーソドックス教会は後半部分を否定していますが、それは聖書に反しています。実際、主が「父はほかの弁護者をあなたたちに与え[る]」と言われるとき、御父が聖霊を遣わされるという事実は御子が聖霊を遣わされるという事実に反しているのではありません。それについて、主ご自身が「私はそれを送る」という詩句を数節あとで言われているとおりです。同様に、主が「父から出る聖霊」(ヨハネ15章26節)と言われるとき、聖霊が御父から発出するという事実は聖霊が御子からも発出するという事実に反しているのではありません。それについて、主がそのすぐあとこう言われるとおりです。「真理の霊は…私に光栄を与えられる。なぜなら、霊は私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。父のものはすべて私のものである。だから私は、霊が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章13-15節)。
次のように言う方々がいるかもしれません。「これは複雑だ。私の頭ではとてもついて行けない」。そうです、実際、これらの真理は天主の水準にあり、天主の三つのペルソナの間の親密な関係という水準にあるのです。でも、私たちの主イエズス・キリストが私たちに対してこれらの真理を明らかにされました。なぜなら、私たちがまことに天主を愛するならば、私たちは天主のことをさらによく知りたいと渇望し、これらの言葉を通して私たちが天主の三つのペルソナに関するさらに深くてさらに近しい知識に導かれるからです。
さらに、私たちが成聖の恩寵の状態にあるなら、聖霊が私たちの霊魂の天主なる賓客です。聖霊は、主が言われたように私たちのうちに住まわれます。「それは真理の霊である。世はそれを見もせず知りもしないので、それを受け入れない。しかしあなたたちは霊を知っている。霊はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中にいますからである」(ヨハネ14章17節)。私たちがこれまで見たように、聖パウロはこう言います。「あなたたちは天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。王あるいは皇帝が私たちの家に来られるなら、私たちは家の全てが汚れなく美しいことを確認し、その王の私たちの家への訪問が可能な限り快適であるよう精いっぱい心を砕くでしょう。さて、私たちの賓客は単なる王ではなく、全能の天主、私たちの霊魂に住まわれる天主の霊そのお方です。それゆえに、私たちは、私たちの霊魂の全てが汚れなく、聖なるものであり、そのお方に快適であるよう、また、私たちの霊魂を訪問して下さるその天主なる賓客に対して、そのお方にふさわしい全ての礼拝をお捧げし、愛の従順をお捧げするよう、心を砕くべきです。
聖霊は私たちにとっての弁護者、すなわち代弁者にして慰め主です。聖霊は特に私たちの霊魂に天主の愛を注ぐことによって私たちを慰めてくださいます。それについて聖パウロはこう言います。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。愛は霊的生活の中心ですから、聖霊は私たちの霊魂に愛を注がれるので、「生命の与え主」なのです。
聖霊は「真理の霊」です。なぜなら、聖霊は私たちに真理の愛を与えてくださるからです。実際、真理を知るだけでは十分ではなく、私たちは真理を愛するべきです。真理を知った人々のうち、真理を愛さなかったため、真理を失ってしまった人々が多くいました。人が本当に真理を愛するのは、真理を実践するとき、すなわち真理を生きるときです。聖ヨハネは実際こう言っています。「天主は光であって、少しの闇もない。私たちが闇の中を歩いているのにキリストと一致していると言うなら、それは偽りで、真理を行っていない」(ヨハネ第一1章5-6節)。「『私は主を知っている』と言いながら掟を守らぬ人は偽り者であって、真理は彼の中にはない」(ヨハネ第一2章4節)。聖パウロが同じことを言っています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している」(ティト1章16節)。
聖霊が私たちに愛させるために与えてくださる真理は新しいものではなく、永遠の真理、主と使徒たちによって初めから教えられた真理です。主はこう言われました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。また、聖パウロが言っています。「ある人が来て、私たちが宣教しなかった他のイエズスを宣教し、そしてあなたたちがかつて受けなかった他の霊を受け、あなたたちがかつて受け入れなかった他の福音を受けるなら、あなたたちはその人のせいで苦しむだろう」(コリント後書11章4節)。
聖にして母なる教会は、聖霊は特にその七つの賜物によって私たちを助けてくださる、と教えています。上智、聡明、知識、賢慮、剛毅、孝愛、敬畏です。イザヤはこれら七つの賜物を、有名なキリストに関する預言の中で次のように記述しています。「イェッセの根から新芽が出、その根から花が開き、その上に主の霊がやどる、知恵と分別[聡明]の霊、賢慮と剛毅の霊、知識と主への恐れの霊が。彼は主への恐れを喜びとし、目で見ることだけで裁かず、耳に聞くことだけで決定しない。むしろ、貧しい人々を正しく裁き、地の柔和な人々のために公正に決定する」(イザヤ11章1-5節)。イェッセはダヴィドの父で、イェッセの根はバビロン捕囚の時代に王位を失ったダヴィドの子孫のことを表しています。彼らはもはや美しい木ではありませんでしたが、まだ生きている根がありました。その根から出る新芽は童貞聖マリア、花は私たちの主イエズス・キリストを表しています。
まことのキリスト教的命は超自然の命、私たちの自然の能力を超えた命であるがゆえに、これら七つの賜物を必要とします。またそれゆえに、その命は私たちを強め高めるための助けを必要とします。こうして、敬畏の賜物が誘惑に打ち勝つよう私たちをおおいに助けてくれます。「主を恐れることは知恵の初め」(詩篇110章10節)。多くの人にとって、いえほとんどの人にとって、主を恐れることが、人を罪から立ち戻らせ、天主のみ言葉を真剣に受け取り始めさせることを助ける決定的な要素です。それは、「天主を侮ってはならない!」(ガラツィア6章7節)からです。ファリザイ人のように、「頭は固く、心と耳に割礼を受けず、絶えず聖霊に逆らって」(使徒行録7章51節)いる人たちは、いったいどのようにして天国へ行けるというのでしょうか? それゆえに、そのように聖霊に逆らうことをまことに恐れ、むしろ聖霊に従順でいましょう。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。天主の掟に従順であるよう聖霊に導かれることによって、「その掟を守る人は天主にとどまり、天主もまた彼にとどまられる。私たちは天主が中にとどまり給うことを、与えられた霊によって知る」(ヨハネ第一3章24節)。
孝愛の霊は、私たちが祈るのを助けてくれます。祈りは常に簡単という訳ではありません。なぜなら、私たちよるはるか上におられるお方に祈るからです。私たちはしばしば気が散って注意をそらし、疲れます。聖パウロ自ら言います。「霊も私たちを弱さから助ける。私たちは何をどういうふうに祈ってよいかを知らぬが、霊は筆舌に尽くしがたいうめきをもって、私たちのために取り次いでくださる」(ローマ8章26節)。また「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。絶えず目を覚まして、忍耐強くすべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。キリスト教徒の生活は聖霊の助けを受ける祈りの生活です。このことは、私たちがカリスマ運動の人のようになるべきだという意味ではありません。彼らはいつも聖霊による霊感を受けると言い張ってあらゆる種類の祈りを発明しますが、その祈りは彼ら自身から出るものであって、聖霊から来るものではありません。なぜでしょうか? そのわけは、先に説明したように、聖霊は真理の霊であって、異端とは相いれないからです。さて、カリスマ運動はすべてプロテスタントから始まり、今でもプロテスタントの影響を大きく受けています、特にエキュメニズムにおいてです。いいえ! カトリックの祈りは聖人たちの模範にあるのです。聖人たちはまことに聖霊に満たされ、どう祈るかを私たちに教えてくれます。特に、聖霊は父の中の最高の父に祈るように天主に祈ることを私たちに教えてくださいます。「あなたたちは再び恐れに陥るために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ」(ローマ8章15節)。「あなたたちが天主の子である証拠は、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、天主が私たちの心に遣わされたことである」(ガラツィア4章5節)。それゆえに、カトリック信者は「[天にまします]われらの父よ」を祈るのが好きなのです。カトリック信者は、キリストが私たちに与えてくださった「われらの母」である聖母に祈るのが好きなのです(ヨハネ19章27節)。
剛毅の霊は、罪との闘いにおいて私たちを強めてくれます。実際、私たちの主イエズス・キリストは、「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11章12節)と言われました。隣人に対して暴力をふるう人々ではなく、自らに暴力をふるう人々です! それゆえに、聖ペトロはこう言います。「節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ前書5章8-9節)。
賢慮の霊は私たちを助けて、「霊の念(おもい)」を持たせてくれます。「肉の念は死であり、霊の念は命と平和である。肉の念はそのために天主の敵である。天主の法に従わずまた従うことができないからである。従って肉に生きる人は天主に喜ばれない。天主の霊があなたたちに住まわれるからには、あなたたちは肉ではなく霊のうちにいる。キリストの霊を持たないならその人はキリストのものではない。…あなたたちが肉に従って生きるなら死に定められており、霊によって体の行いを殺すならあなたたちは生きる」(ローマ8章6-9、13節)
知識の霊は私たちに、天主の御業、創造の御業、天主の御摂理による御業などにおける天主の御手を見させます。聡明の霊は私たちに、信仰の真理について、聖三位一体やご托身、贖いといった神秘の真理についてのより深い理解を与えてくれます。「聖霊来り給え(Veni Creator)」において、私たちはこう歌います。「御身によりてわれらは御父を知り、かつ御子を知り、そして御父と御子からの御身を知り、常に信じる恵みを与え給え!」。このように、聖霊は私たちを助けて、聖三位一体の神秘をもっとよく理解させてくださいます。ご托身は、聖霊に帰される天主の御業です。私たちは使徒信経において、キリストは「聖霊によりて宿り」と唱え、ニケーア信経においては「聖霊によりて御体を受け」と唱えます。さらにまた、贖いはキリストの犠牲によって完成されました。さて、聖パウロは、この犠牲における聖霊の役割をこう指摘しています。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。
上智の霊は、天主が上から見るように私たちにものごとを見させ、これらすべての神秘の間の関係を理解させてくれます。聖トマスは、上智は天主の親密な愛からくるものであって、それによってある種の「共質性」が与えられ、人は天主と「一つの心」になる、と説明します。聖パウロは美しく言います。「主につく者は彼と一つの霊になる」(コリント前書6章17節)。
御告げの日に聖霊が特別な方法でおいでになった無原罪の童貞マリアが、私たちに聖霊に対する深い知識と大きな愛を与え、また聖母が聖霊に対して常に忠実であられたように私たちに聖霊への完全な従順を与えてくださいますように。アーメン。