アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
「レネー神父によるシャザル神父の書簡への回答」を日本語に訳してくださった方がいらっしゃるので、感謝しつつ、それを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちら
レネー神父によるシャザル神父の書簡への回答
二〇一三年四月十九日、シンガボールにて
※[ ]内は訳者による補足
敬愛する神父様、
あなたはいつから立証責任を被告の側に負わせられるようになったのでしょうか? それはむしろ原告の側にあるのではありませんか? あなたこそがフェレー司教様は進歩主義者であると非難している人です。あなたこそそれを立証するべき人です! 従ってあなたは次のように書いて、全くの見当違いをしています。「それで、あなた【レネー神父のこと】は、"私たちがフェレー司教は間違いを証明できていない"と最初に述べています……なるほど! それなら、それを証明してみて下さい!」と
そらから、あなたは「単にフェレー司教様の言葉を引用したに過ぎない」と言い続けています。ここにもまた、別の重大な欠陥があります。何故なら、あなたが引用した文章は、不完全であり、欠陥があるものかもしれません、しかし、状況や文脈を無視して、これ以上ないほど歪曲して解釈しているからであり、これはあなたが間違っています。あなたは聖トマスの神学大全を読んだことがあるのですか?
疑いがある場合には、それを最善の意味に解釈すべきか? …… 【善意に解釈するという原則を持つと、頻繁に悪人について良い見解を持って間違ってしまうだろうし、善意に解釈しないのであれば、善良な人間について間違って悪く思ってしまうだろうが、これはあまり多くあることではない。しかし】たとえ頻繁に起きることではないとしても、善良な人間についての悪しき見解をもって間違うよりも、邪悪な人間について良い見解を持つために頻繁に間違う方が、より良いことである。なぜなら、前者の場合は相手に被害を与えるが、後者の場合はそうではないからだ。(IIa IIae qu. 60 a.4 ad 1m)
というわけで、他人の発言を悪い方向へと解釈する習慣は、重大な悪徳です。聖トマスはこのように説明しています。(上掲書 a.3)
これ【悪しき解釈をすること】は、人間が、他者に対して悪感情があるせいである。というのは、ある人が他者を憎んでいる、あるいは軽蔑している、あるいは怒り、妬んでいる時、その人は、ほんのちょっとしたことで、他者を悪く考えるようになる。何故なら、人は自分がそう望むことをたやすく信じてしまうものだからである。
明白なのは、こういった「聖ピオ十世会の指導者たち」に対して、そのような「悪感情を抱いている」ことが、あなたとあなたの仲間たちが書いたものに浸透しているということです。こういった傾向は高潔なものではありません。
あなたがどれほど悪意に満ちて、フェレー司教様の言葉を引用したと主張しているかを証明するためには、あなたの手紙の引用文を調べてみればわかることです。あなたはこう書いています。
「メンツィンゲンの二枚舌は現在進行中であり、証拠が集められつつあります;第二バチカン公会議と新ミサは、修正可能だという考えを基礎においており、従って、私たちは、新ミサがそれら【第二バチカン公会議と新ミサ】を排斥するように要求できません。>>>二月十五日のNouvelles de Franceでのインタビューより
さて、明らかに引用終了のしるし(>>>)がありますが、これは普通の終わり方ではありません。引用開始のしるしもありません。ですから「第二バチカン公会議と新ミサは、修正可能だという考え」が本当にこのインタビューの中にあるのかどうか、それをほのめかしてはいるものの、誰にもわからないのです。このような狡猾なやり方にはすでに悪意があります。その上、この文節はフェレー司教様が「私たちは、新ミサがそれら【第二バチカン公会議と新ミサ】を排斥するように要求できません」と述べていると偽っています。ここでインタビューの原文を見てみます。フェレー司教様はこう言ってるのがわかります。nous ne nous attendons pas a ce que Rome condamne Vatican II avant longtemps.「私たちは、ローマがすぐにも第二バチカン公会議を排斥することを期待してはいない」と。
この最後のavant longtemps(すぐにも)という言葉があるか無いかは、完全に文章の意味を変えてしまっています! つまり、もちろん、私たちは確かに、ローマが第二バチカン公会議と新ミサの誤謬を排斥することを要求しています。ですが、現実的に、そのことがすぐに・ただちにあるだろうと期待はしていません。従って、この最後の言葉をカットすることで、フェレー司教様が第二バチカン公会議と新ミサは、あなたの言葉を使用すれば「修正可能」であると考えていると誘導しています。しかし、その反対に、これは司教様が言ったことではないのです!
私はいつもこう言いきかせています。「近代主義者たちが教父たちの言葉を引用する場合、彼らを信用してはいけない。引用文を調べよ!」と。今となっては、こう付け加えなくてはなりません。「シャザル神父とその仲間たちが誰かの言葉、特に聖ピオ十世会の指導者たちの言葉を引用する場合、彼らを信用してはいけない。引用文を調べよ!」と。他人の言葉をねじ曲げるというあなたの率直さを欠いたやり方、肝心の言葉をカットするというやり方は、正直なところ、あなたの知性的誠実さに対する私のすべての信頼を失わせるものです。
悪意に満ちた引用例がもう一つあります。「あなた【=レネー神父様】が後に非常に素晴らしく引用したように、新しい教会は、第二バチカン公会議後に『明らかになった』」と。
私の答えは「どこに書いてありますか?」です。私が見つけられる唯一の箇所は、一九七四年十一月二十一日のルフェーブル大司教様の宣言の引用だけです。
「それどころか、私たちは第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた、公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否してきました。」
もう一度言います。あなたが悪意に満ちて引用文をねじ曲げたということが理解できない人がいると思いますか? ルフェーブル大司教様は「公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向」について述べており、「新しい教会」について述べているのではありません。これが、人が言ってもいないことを言っているかのように思わせる、あなたの悪意に満ちたやり方なのです!
その後、あなたは「教会法的正常化は……どうでもいいことです」と続けて言います。いいえ、どうでもいいことではありません。それ自体はよいことです。なぜなら位階制度自体がよいものであり、特に教会内においてはそうだからです。正常化とは「新ミサ」に服従することではなく、むしろ教会法的位階秩序に従うことです。まったく意味が違います。教会内における聖職者階級の位階制度は、第二バチカン公会議の革新者たちが作り出したものではありません。聖主イエズス・キリストご自身がお立てになったのです。このような位階制度の慣習は使徒たちの時代からあるものです。誰も罪を犯すことなく、この位階制度の有益性を拒否できないのです。
「正常化などどうでもよい」と言うことで、あなたはこのような教会法的位階秩序の有益性を拒絶しています。従って……【結論は言う必要はありません】。あなたはシャリエール司教によって承認されたことが聖ピオ十世会にとって重要なのだと主張しておられたルフェーブル大司教様の言葉に決して聞いたことがないようです。シャリエール司教による承認により私たちの会は正当に誕生しました。つまり私たちはまことに教会によって認められた「教会のわざ」であったのだと。大司教様はこの事実を──正しく──重大視しておられました。大司教様の意志に反するただ一つのことは、教会法がその目的にまさに反して使用された時、大司教様はその教会法的位階秩序の[正しい使用を]否定された、このことです。(一九七五年に、聖ピオ十世会に対してなされた初期制裁は、教会法に反してなされました。その後一九七六年には、司祭叙階のための候補者たちの資質を保証するための叙階許可証に関する教会法が、常に聖伝のミサにあずかっていた良き神学生たちを叙階させないよう使われたのでした。これが聖ピオ十世会の不当な教会法的状況の始まりでした)。ルフェーブル大司教様は、教会法的位階秩序の有益性を非常によく確信していたので、一九八八年の不完全な議定書に、教会法的位階秩序を回復させようと、サインしたのでした。
あなたは「従順から生じる悪への服従は罪である」と言って自分を正当化しようとしています。しかし、あなたはここで、聖主イエズス・キリストから来る、それ自体は良いものである、指導者たちの所有する権威と、その権威を指導者たちが悪用して──乱用して──行使するかも知れないこととの区別ができていません。
教会法的正常化ということそれ自体は、聖主イエズス・キリストから来る権威への服従であり、つまり、その権威を持つものへの服従です。不正な命令、つまり、不正な命令の行使に従うことを暗示しているのではありません。ですから、教会法的正常化は「悪に服従すること」ではありません。一九七〇年代の初めには、多くの善い聖伝の司祭たちがいました。彼らは自分たちの正当な長上たちに礼儀正しく従い、反対に長上たちによってなされた乱用には従いませんでした。
「不正な命令への抵抗することは、それらの悪しき命令が発せられた権威そのものを拒絶することである」という考えは誤りであり、聖人たちの模範からはかけ離れています。
聖ペトロ会(FSSP)、王たるキリスト会(ICKSP)、善き牧者会(IBP)、そしてカンポスに言及することで、あなたは自分をまた正当化しようとしています。ですが、彼らにおいて悪ではないことを、悪であると非難すべきではありません。聖ペトロ会の間違いは、正しい教会法的位階秩序への愛がなかったのではなく、むしろ、自分たちが一名の司教も持たなくとも、近代主義司教たちからの圧力に抵抗できるはずだと考えたことです。実際、叙階式の時に、近代主義の司教が「あなた方の神学校で第二バチカン公会議を教えないなら、私はあなたの司祭たちを叙階しませんよ」と言うなら、彼らは何を言えたでしょうか? こうして聖ペトロ会は近代主義の誤謬(特にBasile神父の主張)を彼らの神学校で教えるように誘導されて行きました。聖ペトロ会は司教一名を得ることよりも教会法的位階秩序のほうを選んだのです。これが彼らの過ちでした。
次のことはその反証が与えられるまで事実です。私たち【聖ピオ十世会】を離れていった人々は、一人の司教もローマ委員会の聖伝代表も得られませんでした。こうして彼らは自らを明け渡し、手足を縛られ、進歩主義者たちの手中へと落ちていきました。このような状況下では、彼らは決して聖伝を維持することはできないでしょう(ルフェーブル大司教、司教聖別一年後のインタビューより)
ルフェーブル大司教様は、信仰に忠実であり、典礼に忠実であり、道徳に忠実であるためには一名の、否、四名の司教が必要だと正しく判断なさいました。これこそ、聖ピオ十世会を司教聖別以来、堅固にさせている理由です。
カンポスのさらなる間違いは、彼らが一人で【聖ピオ十世会を離れて】聖伝を守ることができると考えようとしたことです。一致は堅固さを生み出します。フェレー司教様は、二〇〇〇年のホヨス枢機卿の申し出について、といった重大事項を議論するため、ランゲル司教を丁重に招いていました(二〇〇一年一月十三日の会議に私は出席し、ランゲル司教は、当時まだ神父であったリファン司教を送ってきました)。しかし、リファン神父はフェレー司教様に事前に相談することなく取り引きをしてしまいました。予想通り、ローマは、リファン神父に聖ピオ十世会と決別しなければならない、と実質的に要求しました。
リファン神父は孤立し、圧力に耐えることができませんでした(さて、このことはまた、いわゆる『抵抗軍』の緩やかな結束といった(そして、すでに公然と教皇空位主義者を宣言した一部の人々や Feeneyite たちを含めて)、カンポスとは別の方向に行った人々にもあてはまります──正しい結束が欠けていることは、大失敗への確実な方策です。すなわち、教会から離れるなら、誰も長期に渡って信仰を保つことはできないからです。)
ドナトゥス派の歴史は、次のことをはっきりと教えています。彼らは最初は離教者となり、その後、異端者となりました。ですから、あなたがドナトゥス派について言っていることは、残念ながらあなたの無知を露呈してしまっています! ドナトゥス派の誤謬は、単に秘跡の有効性についてだけでなく、「不道徳な人々との交わり」の問題をも──それ以前からも──含んでいました。つまり、彼らは、不道徳な(人物であろうと思われた)カルタゴの司教、Ceciliusとの交わりにより教会の他の人々は「堕落した」という口実のもと、教会との交わりを拒絶しました。聖アウグスティノは「善い人々は不道徳な行為に同意しない限り、教会内において不道徳な人々と交っても害を被らない」というカトリックの基本原理を述べて、ドナトゥス派を強く叱責しました。しかし、あなたは、このカトリックの基本原理を実質的に拒絶してしまっています。
そして、あなたは教皇(ベネディクト十六世)は異端者であると、何の制限条項も設けずに裁き続けています。不正な行いと教えを指摘すること─それはティシエ司教様がご自身の研究でなさっていますが──と、個人について判決を下すことは別のことです。聖トマス・アクィナスがこのように述べています。(ibid. ad 3m)
「一つの物事を判断することと人間を裁くことは別の問題である……。物事を判断するとき、私たちは一つ一つのことをあるがままに解釈しようとするべきであり、人間を裁くときには、前述したように、最善の仕方で解釈しようとするべきである。」
あなたが聖トマスの教えを実行できていないということをわからない人がいるでしょうか? 不正な行いと近代主義の誤謬については、現在でもDICIと聖ピオ十世会のウェブサイトでは触れられていますが、それは良いことです。しかし、あなたが書いたものの中には悪いことしか見当たらず、良いことですら悪の光に照らして解釈されています(例えば、スンモールム・ポンティフィクムとロザリオ十字軍についてのあなたの解釈です)。これはルフェーブル大司教様が非難した、典型的な苦々しい熱心です。
あなたの判断のなんと性急なこと! 判断保留という事実すら、あなたの能力にはないかのように思えます。フランシスコ教皇もすでに裁いてしまっています! 私たちの人生が終わるとき、聖主が要求なさるのは、私たちがすべての人々について正しく裁いたか、ではなく、私たちが自らの義務を果たしたかどうかです。そして、聖ピオ十世会におけるあなたの義務とは、いかなる不正をも押しつけなかった長上たちに従うだけでなく、司祭の職務を必要としていた信者たちのところへ、任命された修道院へ行く、これだけのことでした。あなたはこれを遂行しませんでした。
あなたの書いた内容には驚愕します。「こういった、麦ともみがらが混ざり合っているような状況で、私たちは何をすればよいのでしょうか? 畑に赴き続けるのでしょうか? いいえ!」あなたは本当に聖アウグスチノの著作も聖チプリアノの著作も読んだことがないのですね! この二人の聖人は単純にこう答えるはずです。「あなたが聖主イエズス・キリストの収穫の畑にいないなら、聖主の収穫小屋に集められはしないだろう。あなたは天国へは行かないだろう!」あなたの断固とした「いいえ!」は、間違いなく離教を断言しています! 私たちが教会の中にいるなら、聖主の収穫の畑の中にいます。ところで、あなたは二つのたとえ話を混同しているようです。すなわち、畑には麦と毒麦があり(マテオ十三章二十四節〜三十節)、麦打場には良い麦ともみがらがあります(マテオ三章十二節)。聖チプリアノが、続いて聖アウグスチノが正しく指摘していることは、もみがらの山にならないよう麦打場から離れるなら、その人は自らをもみがらであると証明する、もみがらだけが麦打場から投げ捨てられるからだ、ということです! 聖アウグスチノの著作をお読みなさい。おそらくあなたは私よりも聖人の言われることなら耳を傾けるかも知れないでしょうから。
そうしている間にも、あなたは「祈りや、教皇たちや司教たちを認めるといった、目に見えるカトリック教会に属しているものなら、なんであれ、できる限り保つ」ふりをしています。それと同時に、あなたが教皇や司教たちに対して辛辣な裁きの数々を投げつけ、彼らのさまざまな言動をこれ以上ないほど酷いやり方で解釈し、正当な教会法的秩序のいかなる可能性をも拒絶するなら、口先だけで中身を伴っていません。
警戒なさい、親愛なる神父様、あなたの蒔いた種が芽を出し始めていることを! 一部の信者たちは、あなたの言葉よりも、むしろあなたの行動に従っており、横に滑り落ち始めています。例を挙げましょう。あなたが活動を始めたマレーシアの、あなたもよくご存知の一家は、今や極端な教皇空位主義者になったことを宣言し、あなたの司祭職の有効性すら認めなくなってしまいました。別の信者は、最近、香部屋で教区司教の名前を見ると眉をしかめていました。
私たちは難しい立場に身を置きたがっているとでも言うのですか? 絶対にそうではありません! この件について、フェレー司教様は二〇〇〇年からずっと慎重に行動し続け、今なお、聖伝の擁護に熱心でおられます。ですから、十二年以上に渡る司教様の慎重な行動の結果、司教様に慎重が欠けていると非難できる人はいないのです! 私たちが活動できる教会法的状況を模索することと、組織的にいかなる教会法的正常化をも拒絶することは、別の問題です。さて、教会法的正常化を、まるでペーパーワークに過ぎないかのように「書類を準備万端に整える」ことに比較してみるなら、聖ロベルト・ベラルミノによる教会の唯一性の三番目の本質である「聖職者の交わり」の、本質的、霊的核心を見失うことになります。「聖職者の交わり」なくして誰も救われません。ですから書類上の問題ではありません。私たちの非合法的状況が私たちのせい、私たちの過ちでない限り、救霊の妨げにはなりません。しかし、正常化そのものを悪であり危険なもの、あるいは形式的には不必要なものだとして拒絶するなら、このような拒絶は救霊の妨げとなります。
私は「ディノイア大司教の間違った思い込み」には賛成していません。レムナント紙に掲載された大司教への私の公開書簡をお読みいただけましたか?
あなたの引用文を調べようとしていますが、残念ながらあなたの言っていることは間違いだらけです。あなたはルフェーブル大司教様の「一九七六年六月の宣言」を引用していると主張しています。さて、私の知る限り同年同月のルフェーブル大司教様の「宣言」とやらは、一九七六年六月二十九日の説教しかありません。さらに付け加えるなら、私はあなたに「さまざまな教会とは?」という私の書いた記事を参照していただきたく思います。「公会議の教会」についての考えに警戒なさい。公会議の教会はカトリック教会から分離した組織だと考えるなら、あなたは思い違いをしており、ルフェーブル大司教様の考えについても思い違いをしています。とても危険なことです。
さて、私は曖昧さを好みません。この意味では四月十四日の声明を好みません。しかし、"後に撤回された曖昧な声明"と、"完全な裏切り"との間には、大きな違いがあります。ルフェーブル大司教様がサインしたとはいえ、一九八八年五月五日の議定書にもいくつか不明瞭な部分があると言う人がいるかも知れません。そして、大司教様が翌日、それを拒絶したというのは間違いです。五月六日の手紙の内容を読んで下さい。これはこういった断言への最高の反論です。すなわち、ルフェーブル大司教様はその手紙の中で、サインしたことを感謝しているのです!
真実はこうです。ルフェーブル大司教様が五月六日に要求したこととは、議定書の内容の迅速な遂行と、近い将来それを果たすための日付です。つまり議定書の拒絶などではなく、むしろ切迫した思いでそれに同意を与えたのです。ローマの動きが遅々として進まないのを見て、大司教様はようやく、議定書にある承認、すなわち一名の司教の聖別を許可するという内容をローマが果たすつもりはないという危機を理解し、前進する決意を固めました。この決定は五月の下旬に採られました。拙著「ルフェーブル大司教とバチカン」を読んで下さい。要点となるすべての書類が載っています。
教皇フランシスコのもとで「ローマが聖伝へと戻りつつある」のかどうか、私にわかる唯一のことは、教会のかしらは聖主イエズス・キリストである、ということです。すなわち、私は彼に信頼を置き、彼がお立てになった秩序に信頼を置き、誤謬と妥協することなく、そうでありたいと望みます。将来に関して私にわかる唯一のことは、聖主が主導権を握っておられるということです。ですから、私は自分の日ごとの義務を果たそうとします、それがどんなに退屈なものであろうとも。
あなたが以下の私の論拠を完全にはぐらかしていることに気づいています。すなわち、あなたのフェレー司教様への反抗理由は、ルフェーブル大司教様の第二バチカン公会議、新ミサ、そしてアシジの集会へのそれよりも極度にごくごくわずかなことである、ということをです。賢明であるべきだ、には賛成しますが、あなたの公然たる反逆は否定します!
このような反逆はルフェーブル大司教様の精神では決してありません。ルフェーブル大司教様は反逆者ではありませんでした。 大司教様の最初の心構えは、目新しいことに「対抗する」のではなく、むしろ、忠実である「ために」でした。その結果、大司教様は性急に糾弾はしませんでした。待つことをご存知でした。一部の人々は大司教様にさっさと司教聖別をしてもらいたがっていました! しかし大司教様は一九八八年まで待ちました。六月三十日は大司教様が設定した四つ目の日付であることを多くの人々は忘れてしまっています。すなわち、少なくとも三回、大司教様は聖別式を延期なさいました。正当な教会法上の正常な状況になることを望みつつ。あなたの教皇様とフェレー司教様への激しい、性急な糾弾とは、なんと対照的であることでしょうか!
あなたが自分の書いたものを読み返しているのか疑問に思います。「従順が天主への不従順のために利用されたのは、今まで生きてきた中で、これで二度目です」とあなたは書いています。お待ちなさい! 正直なところ、あなた方全員、どのような「天主への不従順」を要求されたというのでしょうか??? この質問を、去年の八月にセントメリーのジョセフ・ファイファー神父へ投げかけましたが、彼は返答できませんでした。どんな罪を犯すよう要求されたのですか? 自分自身の意志で行動することをやめるよう要求されたかも知れませんが、天主のご意志に反抗するよう要求されたことは絶対にありませんでした。
人々は自分の意志を天主のご意志だと取り違えることがあります。このような主観主義はよくある傾向です。そして誰もがこのような傾向と戦わなければなりません。従順が福音の三つの勧めの一つであるのは、間違いなくこのような誤謬、まことの霊的生活への反抗に対する治療薬であるからです。「わたしのあとに従おうと思うなら、自分をすて、日々自分の十字架をせおって私に従え」(ルカ九章二十三節)
あなたは公の宣言をやめるよう要求されたかも知れませんが、そのような要求の理由──至極もっともな──は、あなたが宣言書を乱発するからだと、理解できない人がいると思いますか? ド・カクレ神父様はあなたが進歩主義者だと非難するような司祭では絶対にありません。現在、フェレー司教様はあなたをド・カクレ神父様の指揮下に置きました。このような任命を拒絶してしまうとは!? フェレー司教様のこのような命令は「天主への不従順」だったのですか? そんなはずありません。それなのになぜ従わなかったのですか? 神父様、残念ですが、あなたの主張は、つぶれてぺちゃんこになっています。
さて、あなたは「兵団、軍隊」を設立したいと嘯いています! 長上である「将軍」より与えられた立場を放棄し、無茶苦茶にやたらに大砲を打ち散らす危険人物となり、そして、軍団を組織できると取り繕っているとは!
最初の約束を破った後、二度目の約束をあなたが守るとどうやって信じられますか? これこそ、離婚して再婚しては駄目だといわれる理由なのです。最初の義務を放棄した司祭たちにも同じことが言えます。
あなたに与えられた立場とは、自分のやったこと悔やみ、行くべき場所へと戻ることです。すなわち、ド・カクレ神父様の配下へとです。これこそ、あなたが長上たちを通じて天主に対して立てた従順の「誓約を全うする」ための唯一の方法です。
このために私は祈ります。特に聖母と聖ヨゼフに祈ります。聖ヨゼフの偉大な徳は間違いなく従順でした(そして、慎重さもでした。彼は性急に非難したりしませんでした。マテオ一章十九節〜二十節をご覧なさい)。
イエズスとマリアにおいてあなたの
フランソワ・レネー神父
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愛する兄弟姉妹の皆様、
「レネー神父によるシャザル神父の書簡への回答」を日本語に訳してくださった方がいらっしゃるので、感謝しつつ、それを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
原文はこちら
レネー神父によるシャザル神父の書簡への回答
二〇一三年四月十九日、シンガボールにて
※[ ]内は訳者による補足
敬愛する神父様、
あなたはいつから立証責任を被告の側に負わせられるようになったのでしょうか? それはむしろ原告の側にあるのではありませんか? あなたこそがフェレー司教様は進歩主義者であると非難している人です。あなたこそそれを立証するべき人です! 従ってあなたは次のように書いて、全くの見当違いをしています。「それで、あなた【レネー神父のこと】は、"私たちがフェレー司教は間違いを証明できていない"と最初に述べています……なるほど! それなら、それを証明してみて下さい!」と
そらから、あなたは「単にフェレー司教様の言葉を引用したに過ぎない」と言い続けています。ここにもまた、別の重大な欠陥があります。何故なら、あなたが引用した文章は、不完全であり、欠陥があるものかもしれません、しかし、状況や文脈を無視して、これ以上ないほど歪曲して解釈しているからであり、これはあなたが間違っています。あなたは聖トマスの神学大全を読んだことがあるのですか?
疑いがある場合には、それを最善の意味に解釈すべきか? …… 【善意に解釈するという原則を持つと、頻繁に悪人について良い見解を持って間違ってしまうだろうし、善意に解釈しないのであれば、善良な人間について間違って悪く思ってしまうだろうが、これはあまり多くあることではない。しかし】たとえ頻繁に起きることではないとしても、善良な人間についての悪しき見解をもって間違うよりも、邪悪な人間について良い見解を持つために頻繁に間違う方が、より良いことである。なぜなら、前者の場合は相手に被害を与えるが、後者の場合はそうではないからだ。(IIa IIae qu. 60 a.4 ad 1m)
というわけで、他人の発言を悪い方向へと解釈する習慣は、重大な悪徳です。聖トマスはこのように説明しています。(上掲書 a.3)
これ【悪しき解釈をすること】は、人間が、他者に対して悪感情があるせいである。というのは、ある人が他者を憎んでいる、あるいは軽蔑している、あるいは怒り、妬んでいる時、その人は、ほんのちょっとしたことで、他者を悪く考えるようになる。何故なら、人は自分がそう望むことをたやすく信じてしまうものだからである。
明白なのは、こういった「聖ピオ十世会の指導者たち」に対して、そのような「悪感情を抱いている」ことが、あなたとあなたの仲間たちが書いたものに浸透しているということです。こういった傾向は高潔なものではありません。
あなたがどれほど悪意に満ちて、フェレー司教様の言葉を引用したと主張しているかを証明するためには、あなたの手紙の引用文を調べてみればわかることです。あなたはこう書いています。
「メンツィンゲンの二枚舌は現在進行中であり、証拠が集められつつあります;第二バチカン公会議と新ミサは、修正可能だという考えを基礎においており、従って、私たちは、新ミサがそれら【第二バチカン公会議と新ミサ】を排斥するように要求できません。>>>二月十五日のNouvelles de Franceでのインタビューより
さて、明らかに引用終了のしるし(>>>)がありますが、これは普通の終わり方ではありません。引用開始のしるしもありません。ですから「第二バチカン公会議と新ミサは、修正可能だという考え」が本当にこのインタビューの中にあるのかどうか、それをほのめかしてはいるものの、誰にもわからないのです。このような狡猾なやり方にはすでに悪意があります。その上、この文節はフェレー司教様が「私たちは、新ミサがそれら【第二バチカン公会議と新ミサ】を排斥するように要求できません」と述べていると偽っています。ここでインタビューの原文を見てみます。フェレー司教様はこう言ってるのがわかります。nous ne nous attendons pas a ce que Rome condamne Vatican II avant longtemps.「私たちは、ローマがすぐにも第二バチカン公会議を排斥することを期待してはいない」と。
この最後のavant longtemps(すぐにも)という言葉があるか無いかは、完全に文章の意味を変えてしまっています! つまり、もちろん、私たちは確かに、ローマが第二バチカン公会議と新ミサの誤謬を排斥することを要求しています。ですが、現実的に、そのことがすぐに・ただちにあるだろうと期待はしていません。従って、この最後の言葉をカットすることで、フェレー司教様が第二バチカン公会議と新ミサは、あなたの言葉を使用すれば「修正可能」であると考えていると誘導しています。しかし、その反対に、これは司教様が言ったことではないのです!
私はいつもこう言いきかせています。「近代主義者たちが教父たちの言葉を引用する場合、彼らを信用してはいけない。引用文を調べよ!」と。今となっては、こう付け加えなくてはなりません。「シャザル神父とその仲間たちが誰かの言葉、特に聖ピオ十世会の指導者たちの言葉を引用する場合、彼らを信用してはいけない。引用文を調べよ!」と。他人の言葉をねじ曲げるというあなたの率直さを欠いたやり方、肝心の言葉をカットするというやり方は、正直なところ、あなたの知性的誠実さに対する私のすべての信頼を失わせるものです。
悪意に満ちた引用例がもう一つあります。「あなた【=レネー神父様】が後に非常に素晴らしく引用したように、新しい教会は、第二バチカン公会議後に『明らかになった』」と。
私の答えは「どこに書いてありますか?」です。私が見つけられる唯一の箇所は、一九七四年十一月二十一日のルフェーブル大司教様の宣言の引用だけです。
「それどころか、私たちは第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた、公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否してきました。」
もう一度言います。あなたが悪意に満ちて引用文をねじ曲げたということが理解できない人がいると思いますか? ルフェーブル大司教様は「公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向」について述べており、「新しい教会」について述べているのではありません。これが、人が言ってもいないことを言っているかのように思わせる、あなたの悪意に満ちたやり方なのです!
その後、あなたは「教会法的正常化は……どうでもいいことです」と続けて言います。いいえ、どうでもいいことではありません。それ自体はよいことです。なぜなら位階制度自体がよいものであり、特に教会内においてはそうだからです。正常化とは「新ミサ」に服従することではなく、むしろ教会法的位階秩序に従うことです。まったく意味が違います。教会内における聖職者階級の位階制度は、第二バチカン公会議の革新者たちが作り出したものではありません。聖主イエズス・キリストご自身がお立てになったのです。このような位階制度の慣習は使徒たちの時代からあるものです。誰も罪を犯すことなく、この位階制度の有益性を拒否できないのです。
「正常化などどうでもよい」と言うことで、あなたはこのような教会法的位階秩序の有益性を拒絶しています。従って……【結論は言う必要はありません】。あなたはシャリエール司教によって承認されたことが聖ピオ十世会にとって重要なのだと主張しておられたルフェーブル大司教様の言葉に決して聞いたことがないようです。シャリエール司教による承認により私たちの会は正当に誕生しました。つまり私たちはまことに教会によって認められた「教会のわざ」であったのだと。大司教様はこの事実を──正しく──重大視しておられました。大司教様の意志に反するただ一つのことは、教会法がその目的にまさに反して使用された時、大司教様はその教会法的位階秩序の[正しい使用を]否定された、このことです。(一九七五年に、聖ピオ十世会に対してなされた初期制裁は、教会法に反してなされました。その後一九七六年には、司祭叙階のための候補者たちの資質を保証するための叙階許可証に関する教会法が、常に聖伝のミサにあずかっていた良き神学生たちを叙階させないよう使われたのでした。これが聖ピオ十世会の不当な教会法的状況の始まりでした)。ルフェーブル大司教様は、教会法的位階秩序の有益性を非常によく確信していたので、一九八八年の不完全な議定書に、教会法的位階秩序を回復させようと、サインしたのでした。
あなたは「従順から生じる悪への服従は罪である」と言って自分を正当化しようとしています。しかし、あなたはここで、聖主イエズス・キリストから来る、それ自体は良いものである、指導者たちの所有する権威と、その権威を指導者たちが悪用して──乱用して──行使するかも知れないこととの区別ができていません。
教会法的正常化ということそれ自体は、聖主イエズス・キリストから来る権威への服従であり、つまり、その権威を持つものへの服従です。不正な命令、つまり、不正な命令の行使に従うことを暗示しているのではありません。ですから、教会法的正常化は「悪に服従すること」ではありません。一九七〇年代の初めには、多くの善い聖伝の司祭たちがいました。彼らは自分たちの正当な長上たちに礼儀正しく従い、反対に長上たちによってなされた乱用には従いませんでした。
「不正な命令への抵抗することは、それらの悪しき命令が発せられた権威そのものを拒絶することである」という考えは誤りであり、聖人たちの模範からはかけ離れています。
聖ペトロ会(FSSP)、王たるキリスト会(ICKSP)、善き牧者会(IBP)、そしてカンポスに言及することで、あなたは自分をまた正当化しようとしています。ですが、彼らにおいて悪ではないことを、悪であると非難すべきではありません。聖ペトロ会の間違いは、正しい教会法的位階秩序への愛がなかったのではなく、むしろ、自分たちが一名の司教も持たなくとも、近代主義司教たちからの圧力に抵抗できるはずだと考えたことです。実際、叙階式の時に、近代主義の司教が「あなた方の神学校で第二バチカン公会議を教えないなら、私はあなたの司祭たちを叙階しませんよ」と言うなら、彼らは何を言えたでしょうか? こうして聖ペトロ会は近代主義の誤謬(特にBasile神父の主張)を彼らの神学校で教えるように誘導されて行きました。聖ペトロ会は司教一名を得ることよりも教会法的位階秩序のほうを選んだのです。これが彼らの過ちでした。
次のことはその反証が与えられるまで事実です。私たち【聖ピオ十世会】を離れていった人々は、一人の司教もローマ委員会の聖伝代表も得られませんでした。こうして彼らは自らを明け渡し、手足を縛られ、進歩主義者たちの手中へと落ちていきました。このような状況下では、彼らは決して聖伝を維持することはできないでしょう(ルフェーブル大司教、司教聖別一年後のインタビューより)
ルフェーブル大司教様は、信仰に忠実であり、典礼に忠実であり、道徳に忠実であるためには一名の、否、四名の司教が必要だと正しく判断なさいました。これこそ、聖ピオ十世会を司教聖別以来、堅固にさせている理由です。
カンポスのさらなる間違いは、彼らが一人で【聖ピオ十世会を離れて】聖伝を守ることができると考えようとしたことです。一致は堅固さを生み出します。フェレー司教様は、二〇〇〇年のホヨス枢機卿の申し出について、といった重大事項を議論するため、ランゲル司教を丁重に招いていました(二〇〇一年一月十三日の会議に私は出席し、ランゲル司教は、当時まだ神父であったリファン司教を送ってきました)。しかし、リファン神父はフェレー司教様に事前に相談することなく取り引きをしてしまいました。予想通り、ローマは、リファン神父に聖ピオ十世会と決別しなければならない、と実質的に要求しました。
リファン神父は孤立し、圧力に耐えることができませんでした(さて、このことはまた、いわゆる『抵抗軍』の緩やかな結束といった(そして、すでに公然と教皇空位主義者を宣言した一部の人々や Feeneyite たちを含めて)、カンポスとは別の方向に行った人々にもあてはまります──正しい結束が欠けていることは、大失敗への確実な方策です。すなわち、教会から離れるなら、誰も長期に渡って信仰を保つことはできないからです。)
ドナトゥス派の歴史は、次のことをはっきりと教えています。彼らは最初は離教者となり、その後、異端者となりました。ですから、あなたがドナトゥス派について言っていることは、残念ながらあなたの無知を露呈してしまっています! ドナトゥス派の誤謬は、単に秘跡の有効性についてだけでなく、「不道徳な人々との交わり」の問題をも──それ以前からも──含んでいました。つまり、彼らは、不道徳な(人物であろうと思われた)カルタゴの司教、Ceciliusとの交わりにより教会の他の人々は「堕落した」という口実のもと、教会との交わりを拒絶しました。聖アウグスティノは「善い人々は不道徳な行為に同意しない限り、教会内において不道徳な人々と交っても害を被らない」というカトリックの基本原理を述べて、ドナトゥス派を強く叱責しました。しかし、あなたは、このカトリックの基本原理を実質的に拒絶してしまっています。
そして、あなたは教皇(ベネディクト十六世)は異端者であると、何の制限条項も設けずに裁き続けています。不正な行いと教えを指摘すること─それはティシエ司教様がご自身の研究でなさっていますが──と、個人について判決を下すことは別のことです。聖トマス・アクィナスがこのように述べています。(ibid. ad 3m)
「一つの物事を判断することと人間を裁くことは別の問題である……。物事を判断するとき、私たちは一つ一つのことをあるがままに解釈しようとするべきであり、人間を裁くときには、前述したように、最善の仕方で解釈しようとするべきである。」
あなたが聖トマスの教えを実行できていないということをわからない人がいるでしょうか? 不正な行いと近代主義の誤謬については、現在でもDICIと聖ピオ十世会のウェブサイトでは触れられていますが、それは良いことです。しかし、あなたが書いたものの中には悪いことしか見当たらず、良いことですら悪の光に照らして解釈されています(例えば、スンモールム・ポンティフィクムとロザリオ十字軍についてのあなたの解釈です)。これはルフェーブル大司教様が非難した、典型的な苦々しい熱心です。
あなたの判断のなんと性急なこと! 判断保留という事実すら、あなたの能力にはないかのように思えます。フランシスコ教皇もすでに裁いてしまっています! 私たちの人生が終わるとき、聖主が要求なさるのは、私たちがすべての人々について正しく裁いたか、ではなく、私たちが自らの義務を果たしたかどうかです。そして、聖ピオ十世会におけるあなたの義務とは、いかなる不正をも押しつけなかった長上たちに従うだけでなく、司祭の職務を必要としていた信者たちのところへ、任命された修道院へ行く、これだけのことでした。あなたはこれを遂行しませんでした。
あなたの書いた内容には驚愕します。「こういった、麦ともみがらが混ざり合っているような状況で、私たちは何をすればよいのでしょうか? 畑に赴き続けるのでしょうか? いいえ!」あなたは本当に聖アウグスチノの著作も聖チプリアノの著作も読んだことがないのですね! この二人の聖人は単純にこう答えるはずです。「あなたが聖主イエズス・キリストの収穫の畑にいないなら、聖主の収穫小屋に集められはしないだろう。あなたは天国へは行かないだろう!」あなたの断固とした「いいえ!」は、間違いなく離教を断言しています! 私たちが教会の中にいるなら、聖主の収穫の畑の中にいます。ところで、あなたは二つのたとえ話を混同しているようです。すなわち、畑には麦と毒麦があり(マテオ十三章二十四節〜三十節)、麦打場には良い麦ともみがらがあります(マテオ三章十二節)。聖チプリアノが、続いて聖アウグスチノが正しく指摘していることは、もみがらの山にならないよう麦打場から離れるなら、その人は自らをもみがらであると証明する、もみがらだけが麦打場から投げ捨てられるからだ、ということです! 聖アウグスチノの著作をお読みなさい。おそらくあなたは私よりも聖人の言われることなら耳を傾けるかも知れないでしょうから。
そうしている間にも、あなたは「祈りや、教皇たちや司教たちを認めるといった、目に見えるカトリック教会に属しているものなら、なんであれ、できる限り保つ」ふりをしています。それと同時に、あなたが教皇や司教たちに対して辛辣な裁きの数々を投げつけ、彼らのさまざまな言動をこれ以上ないほど酷いやり方で解釈し、正当な教会法的秩序のいかなる可能性をも拒絶するなら、口先だけで中身を伴っていません。
警戒なさい、親愛なる神父様、あなたの蒔いた種が芽を出し始めていることを! 一部の信者たちは、あなたの言葉よりも、むしろあなたの行動に従っており、横に滑り落ち始めています。例を挙げましょう。あなたが活動を始めたマレーシアの、あなたもよくご存知の一家は、今や極端な教皇空位主義者になったことを宣言し、あなたの司祭職の有効性すら認めなくなってしまいました。別の信者は、最近、香部屋で教区司教の名前を見ると眉をしかめていました。
私たちは難しい立場に身を置きたがっているとでも言うのですか? 絶対にそうではありません! この件について、フェレー司教様は二〇〇〇年からずっと慎重に行動し続け、今なお、聖伝の擁護に熱心でおられます。ですから、十二年以上に渡る司教様の慎重な行動の結果、司教様に慎重が欠けていると非難できる人はいないのです! 私たちが活動できる教会法的状況を模索することと、組織的にいかなる教会法的正常化をも拒絶することは、別の問題です。さて、教会法的正常化を、まるでペーパーワークに過ぎないかのように「書類を準備万端に整える」ことに比較してみるなら、聖ロベルト・ベラルミノによる教会の唯一性の三番目の本質である「聖職者の交わり」の、本質的、霊的核心を見失うことになります。「聖職者の交わり」なくして誰も救われません。ですから書類上の問題ではありません。私たちの非合法的状況が私たちのせい、私たちの過ちでない限り、救霊の妨げにはなりません。しかし、正常化そのものを悪であり危険なもの、あるいは形式的には不必要なものだとして拒絶するなら、このような拒絶は救霊の妨げとなります。
私は「ディノイア大司教の間違った思い込み」には賛成していません。レムナント紙に掲載された大司教への私の公開書簡をお読みいただけましたか?
あなたの引用文を調べようとしていますが、残念ながらあなたの言っていることは間違いだらけです。あなたはルフェーブル大司教様の「一九七六年六月の宣言」を引用していると主張しています。さて、私の知る限り同年同月のルフェーブル大司教様の「宣言」とやらは、一九七六年六月二十九日の説教しかありません。さらに付け加えるなら、私はあなたに「さまざまな教会とは?」という私の書いた記事を参照していただきたく思います。「公会議の教会」についての考えに警戒なさい。公会議の教会はカトリック教会から分離した組織だと考えるなら、あなたは思い違いをしており、ルフェーブル大司教様の考えについても思い違いをしています。とても危険なことです。
さて、私は曖昧さを好みません。この意味では四月十四日の声明を好みません。しかし、"後に撤回された曖昧な声明"と、"完全な裏切り"との間には、大きな違いがあります。ルフェーブル大司教様がサインしたとはいえ、一九八八年五月五日の議定書にもいくつか不明瞭な部分があると言う人がいるかも知れません。そして、大司教様が翌日、それを拒絶したというのは間違いです。五月六日の手紙の内容を読んで下さい。これはこういった断言への最高の反論です。すなわち、ルフェーブル大司教様はその手紙の中で、サインしたことを感謝しているのです!
真実はこうです。ルフェーブル大司教様が五月六日に要求したこととは、議定書の内容の迅速な遂行と、近い将来それを果たすための日付です。つまり議定書の拒絶などではなく、むしろ切迫した思いでそれに同意を与えたのです。ローマの動きが遅々として進まないのを見て、大司教様はようやく、議定書にある承認、すなわち一名の司教の聖別を許可するという内容をローマが果たすつもりはないという危機を理解し、前進する決意を固めました。この決定は五月の下旬に採られました。拙著「ルフェーブル大司教とバチカン」を読んで下さい。要点となるすべての書類が載っています。
教皇フランシスコのもとで「ローマが聖伝へと戻りつつある」のかどうか、私にわかる唯一のことは、教会のかしらは聖主イエズス・キリストである、ということです。すなわち、私は彼に信頼を置き、彼がお立てになった秩序に信頼を置き、誤謬と妥協することなく、そうでありたいと望みます。将来に関して私にわかる唯一のことは、聖主が主導権を握っておられるということです。ですから、私は自分の日ごとの義務を果たそうとします、それがどんなに退屈なものであろうとも。
あなたが以下の私の論拠を完全にはぐらかしていることに気づいています。すなわち、あなたのフェレー司教様への反抗理由は、ルフェーブル大司教様の第二バチカン公会議、新ミサ、そしてアシジの集会へのそれよりも極度にごくごくわずかなことである、ということをです。賢明であるべきだ、には賛成しますが、あなたの公然たる反逆は否定します!
このような反逆はルフェーブル大司教様の精神では決してありません。ルフェーブル大司教様は反逆者ではありませんでした。 大司教様の最初の心構えは、目新しいことに「対抗する」のではなく、むしろ、忠実である「ために」でした。その結果、大司教様は性急に糾弾はしませんでした。待つことをご存知でした。一部の人々は大司教様にさっさと司教聖別をしてもらいたがっていました! しかし大司教様は一九八八年まで待ちました。六月三十日は大司教様が設定した四つ目の日付であることを多くの人々は忘れてしまっています。すなわち、少なくとも三回、大司教様は聖別式を延期なさいました。正当な教会法上の正常な状況になることを望みつつ。あなたの教皇様とフェレー司教様への激しい、性急な糾弾とは、なんと対照的であることでしょうか!
あなたが自分の書いたものを読み返しているのか疑問に思います。「従順が天主への不従順のために利用されたのは、今まで生きてきた中で、これで二度目です」とあなたは書いています。お待ちなさい! 正直なところ、あなた方全員、どのような「天主への不従順」を要求されたというのでしょうか??? この質問を、去年の八月にセントメリーのジョセフ・ファイファー神父へ投げかけましたが、彼は返答できませんでした。どんな罪を犯すよう要求されたのですか? 自分自身の意志で行動することをやめるよう要求されたかも知れませんが、天主のご意志に反抗するよう要求されたことは絶対にありませんでした。
人々は自分の意志を天主のご意志だと取り違えることがあります。このような主観主義はよくある傾向です。そして誰もがこのような傾向と戦わなければなりません。従順が福音の三つの勧めの一つであるのは、間違いなくこのような誤謬、まことの霊的生活への反抗に対する治療薬であるからです。「わたしのあとに従おうと思うなら、自分をすて、日々自分の十字架をせおって私に従え」(ルカ九章二十三節)
あなたは公の宣言をやめるよう要求されたかも知れませんが、そのような要求の理由──至極もっともな──は、あなたが宣言書を乱発するからだと、理解できない人がいると思いますか? ド・カクレ神父様はあなたが進歩主義者だと非難するような司祭では絶対にありません。現在、フェレー司教様はあなたをド・カクレ神父様の指揮下に置きました。このような任命を拒絶してしまうとは!? フェレー司教様のこのような命令は「天主への不従順」だったのですか? そんなはずありません。それなのになぜ従わなかったのですか? 神父様、残念ですが、あなたの主張は、つぶれてぺちゃんこになっています。
さて、あなたは「兵団、軍隊」を設立したいと嘯いています! 長上である「将軍」より与えられた立場を放棄し、無茶苦茶にやたらに大砲を打ち散らす危険人物となり、そして、軍団を組織できると取り繕っているとは!
最初の約束を破った後、二度目の約束をあなたが守るとどうやって信じられますか? これこそ、離婚して再婚しては駄目だといわれる理由なのです。最初の義務を放棄した司祭たちにも同じことが言えます。
あなたに与えられた立場とは、自分のやったこと悔やみ、行くべき場所へと戻ることです。すなわち、ド・カクレ神父様の配下へとです。これこそ、あなたが長上たちを通じて天主に対して立てた従順の「誓約を全うする」ための唯一の方法です。
このために私は祈ります。特に聖母と聖ヨゼフに祈ります。聖ヨゼフの偉大な徳は間違いなく従順でした(そして、慎重さもでした。彼は性急に非難したりしませんでした。マテオ一章十九節〜二十節をご覧なさい)。
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