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秋田巡礼-霊的講話【5】-2017年5月3日シュテーリン神父様「汚れなき御心に対する信心について、2つの具体的なやり方」

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2017年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5
「汚れなき御心に対する信心について、2つの具体的なやり方」
同時通訳:小野田圭志神父

先程のミサの時にも申し上げましたけれども、では汚れなき御心への信心というのは一体何なのでしょうか?それほどの約束と、それほどの実りがある信心とは一体どうすれば良いのでしょうか?

マリア様はこの汚れなき御心に対する信心について、2つの具体的なやり方を話しています。1つは初土の信心で、もう1つは奉献です。

このまず最初に、奉献の具体的なやり方について見てから、次にその意味について考えます。この具体的なやり方とその意味は、ちょうど「肉体」と「霊魂」というように、2つで1つなので、両方とも無視してはいけません。人間がある為には、肉体と霊魂が必要だからです。肉体だけでは十分ではありません。そこで肉体に対応する外的な信心の実践は大切ですけれども、それだけでは十分ではありません。

残念ながらカトリックの聖伝の信者であっても、「外的な事だけをすれば、それでもう信心は終わった」と思っている人が多く見かけられます。形だけその信心をしながらも、その心が伴っていない、中が虚ろであるので、その意味が失せてしまっている場合が多くあります。

ロザリオも見て下さい。ロザリオも外的な観点と内的な意味の観点があります。もしもロザリオが、お祈りを唱える事だけだとしたら、それは体だけです肉体だけです。

でも教皇レオ13世によれば、ロザリオの玄義を黙想する事によって、初めてロザリオをうまく良く唱える事ができたと言う事ができます。15の玄義。たくさんのロザリオを唱える人もいます。その口先だけで唱えています。でもそれだけではロザリオではないという事はまだ分かっていないと思います。めでたしを10回唱える間に、例えば第1玄義は御告げですから、その御告げについて私たちは黙想しなければなりません。

では、それほど多くの約束が付いている汚れなき御心に対する信心について黙想します。この信心の精神は、この3人の子供の生き方に表れています。この3人の子供たち一人ひとりは、汚れなき御心に対する信心の観点の1つ1つを表しています。

初土の信心、そして奉献、このこれらを通して、フランシスコがやったように、「天主様をお慰めする」「マリア様の汚れなき御心をお慰めする」というこの意向がなければなりません。

初土の信心をしながら、そして奉献をしながら、射祷を唱えて、そして「多くの霊魂を救いたい」という意向をもってそれを捧げなければなりません。これがジャシンタのやっていた信心であって、第2の観点です。

ちょうどこの第3の天使の御出現の時に、霊的な聖体拝領がありました。天使が御聖体を子供たちに授けますが、そこに表れています。というのは、天使は、「罪によって冒瀆されているイエズス様をお慰めしなさい、そして罪の償いをしなさい」と言って聖体拝領したからです。

最後にルチアの生涯を黙想します。ルチアの生涯は、フランシスコやジャシンタとはまた別の、長い人生を生きました。ルチアはこの全世界の前でファチマの目撃証人として、重要な証人として選ばれました。

ルチアは全生涯において、特別なやり方で長い間苦しまなければなりませんでした。

「マリア様とお会いした、マリア様をご覧になった方がいる」といったら、きっとこの方は全世界で一番幸せな方でなくて何でしょうか。「マリア様を見た」という事で、一生涯喜びと幸せに充ち溢れなくて何でしょうか。

でもルチアにとってはその反対でした。「御出現を受けた」という事で、ルチアは一生涯ずっと反対をされて、そして屈辱を受けました。特にルチアが一番愛していた人から受ける反対や屈辱がそうでした。

まずお母さんは、「ルチアが嘘をついている」とそれを確信していました。家族の中で兄弟姉妹たちの中で、ルチアは末っ子の女の子だったので、御出現の時が来るまでは一番可愛がられ、一番ちやほやされていた子供なのですが、御出現を受けたその時から、お姉さんたちからはいじめられて、のけ者にされました。

ルチアの住んでいた小さな村の人たちは、御出現の前まではルチアの事を皆可愛がって「良い子だ」「良い子だ」と言っていたのですけれども、御出現を受けた後には、「魔女」とか「嘘つき」とか「先導者」とか、酷い悪口だけを言われました。

それから偉い当局の人々がやって来て、この「ルチアが嘘をついているのではないか」「細かい点で間違ってはないか」「矛盾はないか」という事で、色んな調査や質問や尋問が何度も何度も絶え間なく続き、それはルチアにとってもう言う事ができないほどの拷問でした。

ファチマが遂に公認されようとされ、それから多くの方が巡礼に公式に行く事ができるようになった、そしてこれでもう全てがうまくいった、と思われるその瞬間、ルチアは永久に永久にもう2度とファチマに戻る事ができなくなり、ファチマを立ち去らなければなりませんでした。

そこで強制的にルチアは引っ越しをして、ファチマを離れて、別の女学校の寄宿舎に入れられました。そこでルチアは自分の本名を語る事を許されず、別名を付けられました。そして5年間学校にいる間、誰一人も、この子がファチマのマリア様を見たという事を誰も知らずに、唯一人、一番上の修道院長のシスターだけが知っていて、他の誰も知らずに、5年間を過ごしました。

女の子たちには、高校生の女の子やそういう若い子たちが、今真っ盛りのトピックが、「ファチマのマリア様が御出現になった、教会がそれを認可した」「あぁ、ファチマでルチアという女の子がそれ見た」「私たちと同い年だ」「あぁ、どんなマリア様だっただろうか」という話しをしている間に、真っ只中にいるルチアは何も言う事ができずに、ただ黙っているだけでした。

学校を卒業した後に、ドロテアの修道会、修道女会に入会するのですけれども、その間ルチアがいたその45年の間、誰もルチアが誰かという事を知りませんでした。ただ修道院長だけしかそれを知りませんでした。

ところで、修道会にいたルチアですけれども、ファチマがますます有名になり、世界中の枢機卿様、世界中の司教様たちもファチマに訪問するようになると、枢機卿様が、「是非ルチアに会いたい」「是非ルチアと話をしたい、マリア様の話を聞きたい」という事で、ドロテア修道会のシスタールチアの方に訪問して来るのです。

すると、「え!?一体このシスターは、一体何で世界中から司教様をこんなに集めているのか?」という事で、とうとう一体ルチアが誰かという事がバレてしまいます。

でもルチアはだからといって、「さぁ、私が誰か知っているか」とは言わずに、いつも末席に着いていて、一番謙遜な仕事をしていました。

1948年、ルチアはカルメル会に入会する事を許されます。シスタールチアを指導した霊的司祭たちは、ルチアの事を証言して口を揃えて、「ルチアの特徴は、謙遜であって、そして従順であって、そして単純さである」と言いました。

ファチマのマリア様はルチアに「私のメッセージを世界中に知らせる」という事を望んでいる事を知っていたのですけれども、ルチアはそれを自由にする事ができませんでした。そこでルチアがやる事には限界がありました。そしてルチアが例えば何かを言ったとしても、それをすぐに信じてもらえるわけではなくて、反対を受けました。

1929年からルチアは、教皇様や或いは司教様たちに、マリア様のお望みであった、「ロシアの汚れなき御心への奉献」について手紙を、お願いの手紙を書かなければなりませんでした。しかし何度もお願いしても、心を込めて何度もやっても、それは拒絶されてばかりいました。

1958年からは、ルチアはもう何も言う事も禁止されました。ローマの、ローマ聖座が許可がなければ、誰一人もルチアと話もできませんし、会う事もできなくなってしまいました。ルチアは特に、マリア様のメッセージや、マリア様のお願いが拒否されている、その元々の根源というのは、ローマ当局から来ているという事を知っていたので、その否定的な態度についてとても多く苦しみました。

時が経てば経つほど、ルチアに対するこの拷問のような取り扱いはますます酷く悪くなっていきました。1967年、命令を受けてルチアはカルメルの修道院を出て、ファチマに行かなければなりませんでした。何故かというと、その時パウロ6世がファチマに訪問していたからです。しかしその旅行の途中でルチアは、涙をずっと流していました。涙を流して、流して、流して、「教皇様に是非お会いして、話をしたい」と言うのですけれども、教皇様は、「会いたくない、時間がない」と言いました。

ではルチアがどのようにこう取り扱われたかという事は、ここでは今は話は置いておく事にして、ルチアがどのように信心を、汚れなき御心への信心を生きたか、生活したかという事に焦点を合わせましょう。

ルチアの生活を一言でまとめれば、「全ての事を、いつでもどこでも皆必ず、マリア様と共にする」という事です。

マリア様は最初に子供たちに聞きました、「あなたたちは、私が知られ、愛される事ができるように、苦しむ事を受け入れますか?」
「はい、そうします。」

ルチアはその、「はい、そうします」という事を決して引っ込めたり、否定したりする事はありませんでした。ルチアの祈りの生活は、イエズス様の聖心に対する信心とそしてロザリオの祈りで、始まり終わっていました。初金曜日になるとルチアは1日中、その日から御聖体の前でイエズス様の礼拝とイエズス様への祈りで時を過ごしました。どうやったのでしょうか?

まずルチアは、マリア様の汚れなき御心の中に入って、そのマリア様の汚れなき御心の中からイエズス様の聖心、或いはロザリオの神秘を黙想していました。昨日も申し上げましたけれども、イエズス様はこう仰います、「マリア様の汚れなき御心こそ、生きる水が聖寵の水が流れる泉であって、火の、光の焦点である。そしてそれによって多くの霊魂を照らし、そしてそのイエズス様の方へと導く磁石である」と。

ルチアと同じ事を私たちもしなければなりません。祈り始めようとする時に、まずマリア様の深い御心の中に入って、御心の中に私たちを隠して。じゃあどうしたら良いのでしょうか?隠すとは?私たちの心をグッと取って誰かに入れるわけではありません。そうではなくて、まず私たち自身の雑念、自分の考えをやめて、マリア様の考えに入ってもらうのです。皆さんの望みとか願いとかをやめて捨てて、その代わりにマリア様のお望みと願いを私たちの心に受け入れるという事です。私たちの愛さえも捨てて、あまりにもみそぼらしい、その代わりにマリア様の愛を頂いて、祈りを始めます。

これを御聖体拝領をする時になさって下さい。御聖体拝領の前に、「どうぞマリア様、私の心に来て下さい。そしてマリア様の愛を以てイエズス様を愛させて下さい。そしてどうぞ私の心に来て、マリア様、御身のように、御身と共に、御身の内に、このミサに与らせて下さい。ちょうど御身がカルワリオの足元にいらしたと同じような態度で、私がミサに与る事ができますように。」

マリア様にお願いして下さい、「私のお祈りの時に、どうぞマリア様、傍に居て下さい。マリア様の中で祈りをする事をさせて下さい。」すると私たちの祈りが、より良く祈る事ができます。

修道女としてシスタールチアは、朝から晩まで色々な労働をしなければなりません、手仕事をしなければなりませんでした。学生の時は学校の仕事や学校の色々な事がありました。たとえそのような多くの仕事が手仕事があったとしても、ルチアは心の中では射祷を唱えているのを決して忘れる事がありませんでした。その事をルチアは手紙によく書いています、「自分の日常の義務についてやりながら、射祷を唱えている。」

特にルチアの長上が、シスタールチアがやっている仕事が、完璧なのを見て褒めている事です。お掃除も、裁縫も、刺繍も、全て完璧なのです。

ルチアはある時書いています、「私たちの単純な日常の生活の義務を、汚れなき御心に合わせてそれを捧げる時に、イエズス様の聖心を非常に喜ばせて、これこそが汚れなき御心に対する最高の信心のやり方だ」と。

ですから、汚れなき御心の信心をするというのは、お祈りをちょこちょこっと唱えるというだけではないのです。私たちの生涯、人生の生き方に懸かる事です。

マリア様は、私たちも同じような生活を、「汚れなき御心との生活を送るように」と招いています。マリア様が私たちの生活に共にいらっしゃればいらっしゃるほど、全てがますます良くなります。もしも皆さんが誰かの所に行ってお話をしなければならない時に、マリア様に一緒に来て下さるように、そしてマリア様に良い知恵を下さるようにお願いして下さい。

私たちがますますマリア様と共にいるならば、私たちの中からはより少なくゴシップとか噂話とか無駄なおしゃべりは無くなり、ますますマリア様のように慎ましく、そして賢明に話をするようになり、これこそが汚れなき御心に対する信心です。

特に苦しみや試練の時には、汚れなき御心は私たちにとってとても重要になります。ルチアにとっても重要でした。ルチアは私たちの模範です。自分の家族の間であってさえもバカにされ屈辱を受けて、そして笑われていました。ルチアの生活は反対を受ける生活であり、屈辱の生活でした。私たちがバカにされたり、私たちが反対される、屈辱を受ける時に、どうやって、どういう態度を取るべきかという事を、ルチアは私たちに教えています。

私たちは、私たちの敵というのみならず、私たちの家族、或いは教会の中からもバカにされたり、屈辱を受けたり、笑われたりしていないでしょうか。もしも私たちについて誰かが悪い事を言うと、どういう態度を取るでしょうか。普通は大人しい子羊のようですけれども、そういう事を聞くと非常に憤って、ライオンのようになります。

ルフェーブル大司教様は言っています、「聖なる女性の舌には気を付けなさい。」教会の中では非常に敬虔ですけれども、教会を一歩でも出ると何を話しているか分からない。もちろんこれはオーバーですけれども、ただそういう危険があるという事です。教会を一歩出ると、さぁ誰かの批判、悪口、ゴシップ、こうだああだという話しが始まるというのは、残念ながらよく見かける光景です。

ここでルチアは、私たちにとって大きな良い模範となっています。これがマリア様が私たちが取るべき態度である事を示しています。ルチアがバカにされたり、屈辱を受けたり、或いは笑われたりする時に、ルチアはすぐに汚れなき御心の中に身を隠しました。そしてそこに平和を見出します。

ルチアは他の人に、「あぁ、私はこんな事を言われたからこんな苦しみを受けて」と他の人に言って、他の人から慰めを受けようとはしませんでした。何故ならばそれは、全然役に立たないという事を知っていたので。その代わりに、マリア様からそれを受けようとしました。

ルチアの口からは、ルチアをバカにするような蔑んだ人々、家族や司祭や他の人たちについて一切悪口を聞いた事がありません。そのお恵みを誰から受けたのでしょうか?汚れなき御心です。この汚れなき御心に対する信心によって、同じお恵みを皆さんも受けます。

ルチアの別の特徴は、誠実さでした。ルチアは母からいつも、「嘘をついてはいけないと言われた」と言っています。ルチアの母親はルチアが嘘をついているというのを確信していたので、「嘘をついてはいけない!」とますます厳しくなって、ルチアを叱ったり、ルチアを「さぁ告解に行きなさい!」と強制したり、ルチアに非常に厳しく辛く当たりました。

もしも自分の見た事、或いは受けた事に終わりまで常に忠実で、どのような脅迫、どのような恐ろしい言葉を受けたとしても、常に「そうである」と言い続けた事は、これは奇跡的な事です。

例えば何百万の人が、「あぁ、これがマリア様を見た人だ!」と言って、もう称賛の声を上げるのを聞きながら、それでも謙遜に留まるというのはこれは大変な事です。

もしもいわゆる幻視者とか、マリア様の御出現を受けた人とか、メッセージを聞いた人という人がいたとします。そのような人がその御出現から何か利益を受けた、何か得をしたという事があったとしたら、これは悪魔からです。

ルルドのベルナデッタですけれども、ベルナデッタの家族の事を知り、ベルナデッタの住んでいた家があまりにもみそぼらしかったので、単純にこの「ベルナデッタを助けたい」と思って、「家族を助けたい」と思って、「お金を寄付します」と言うと、ベルナデッタはこれを受け取る事を拒否しました。

「御出現を受けたこの方だ」という事で、誰かがプレゼントをしようとすると、シスタールチアはそれを一切そういう物を受け取ろうとしませんでした。ルチアは他の人の前に行って、自分の事をショーをするかであるかのように見せびらかす事はありませんでした。

よく私たちは、「マリア様の御出現を受けた人がいる」とか、御出現の話しを聞きますけれども、そのような人たちが信者さん達からの献金で、大きなホテルを造ったりとか、大きな何かを建てたりとか、という事よく聞きますが、そしてその人が何か金儲けをしているという事を聞く事がありますが、これは有り得ません、本物では有り得ません。

ファチマでは、ルチアは精神的な権威がありました。ですからそのようなマリア様に対する信心をちょっとだけ乱用して、ちょっとだけ利用して、注意を自分の方に引き寄せる事さえもできました。しかしもしも誰かがそのような考えでルチアに近付こうとすると、ルチアはすぐにそういうのを拒否しました。

ルチアはこうやって褒められた、或いは何かビジョンを受けた人として高められようとされたのみならず、攻撃も受けました。多くの人は同時に、「あぁ、あなたは間違っている。」「あなたは嘘をついている。」或いは「よく覚えていない。」或いは「矛盾がある」などという攻撃を批判をされるのですけれども、決して落胆する事はありませんでした。教会が言っているように、このようなルチアの態度は、それだけで奇跡です。私たちもルチアを真似なければなりません。反対を受けても謙遜にそれに忠実に、そして賛成を受けて称賛を受けても、謙遜に忠実に留まるという事です。

では10分休憩を入れます。

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