2017年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
同時通訳:小野田圭志神父
反対を受けたり、難しい状況に置かれた時に、ルチアは私たちがどういう態度を取るべきかという事を教えています。まず汚れなき御心の中に入って、マリア様にアドバイスを受け、マリア様にお願いして、そして私たちを苦しめるような人々の為に祈るという事です。これが汚れなき御心への信心です。
多くの人々が、「ルチアは汚れなき御心の生き写しだ。」
マリア様の持っている諸徳を聖徳を真似る事なく、マリア様を喜ばせる事はできません。「私は汚れなき御心の信心を行っている」と言いつつも、私たちの心をマリア様の心と合わせようと、同じようにさせようとしないならば、それは真の信心ではありません。
汚れなき御心の美しさとは何かというと、全て汚れなく、全て単純に、自分の事はなく、天主の御旨を果たそうとしている事です。
イエズス様が、「あなた方の目が単純ならば、体は全て光に輝く」と言っていますけれども、「明るい」と言いますけれども、この意味においてルチアの生活は、マリア様の汚れなき御心の生き写しだと言えます。何故かというと、「あなたの目が単純であれば」、「単純」という事は、複雑な作戦とか、裏心とか、二重性とか、例えば二枚舌とか、そういう陰謀を使うという事とは一切関係がないからです。
現代の問題は、私たちは非常に複雑になっているという事です。例えば全ての事について疑問を投げかけたり、全ての事について「もしかしたらこれは何か陰謀があるんじゃないか」とか、或いは「巨大なコンピュータが全てを感知していて統治していて、この後ろには裏には何か潜んでいる、陰謀があるに違いない」と複雑にこう考える人がいます。
でもルチアはそうではありませんでした。非常に単純で1つの事だけを考えていました。「天主様を喜ばせる、マリア様を喜ばせる。」これだけです。
「他の人が私の事をどう思うかしら」、「どんな風に言うかしら」という事は全く思いもなく、「イエズス様をお喜ばせしたい、マリア様をお喜ばせしたい。」これだけしか考えませんでした。
ルチアは他の人が一体どうであるか、他の人の態度や言った事を吟味したりとか、裁判官になろうとする事は一切ありませんでした。こういうのは現代のマスメディアが私たちに与えるメンタリティーです。例えばFaceBookでは「お気に入り」とか或いは「好き」「嫌い」とやって私たちが全ての事について投票して、好きか嫌いかと判断する、裁く、というこれが現代のメンタリティーです。
現代の人々は、「あぁ中国の指導者は主席はどうだ」とか「良いか悪いか」或いは「韓国の大統領は良いか悪いか」或いは「隣人は良いか悪いか」という事を判断して、そしてそれに吟味する事に非常に多くの時間を、そして全ての神経を集中させていますけれども、それは私たちに関わりのない事です。
でもシスタールチアはたった1つの事しか望みませんでした。それは「単純さ」という事で、「天主様だけをお喜ばせ、マリア様を喜ばせる。」そうすることによって真理に生きるという事です。
真理を生きるという事はつまり、ルチアにとっては御出現で語られたこの真理を、御出現の真理をそのまま生きるという事ですけれども、それをこの真理をいつも謙遜に、単純に、提示していました。
ルチアは決して御出現を自分の為に利用しようとして、自分を中心にもっていく為に何か活用しようとした事はありませんでした。ですから反対を受けたとしても、私たちがよくやるように怒ったり憤ったりする事はありませんでした。誰かが私に反対する、「マリア様、この方を回心させて下さい、この方が信じるようにして下さい。」そして私は平和を保つ。これがルチアでした。
ルチアは従順でした。ルチアは命令を受けるとすぐさま従順に従いました。長上の意思に、長上の命令に、マリア様の御旨を見ていました。まずルチアはマリア様の命令に、マリア様の御要求に従順でした。マリア様が、「この事は秘密にとっておきなさい」と言われると、ルチアが死の脅迫を受けたとしても、決してそれを明かそうとはしませんでした。多くの人々がそれに反対したとしても。
では一体、第2バチカン公会議の後に色々なエキュメニズムとか、新しいミサが導入された時に、なぜシスタールチアはカルメルの中で何も言おうとせずに、声を上げて「それはいけない!」と反対しなかったのでしょうか。それでは、もしもシスタールチアが私たちの模範ならば、ルチアが何も声を上げずにノブスオルドにそのままミサに与っている、私たちもノブスオルドに与っても良いのですか。
ここで私たちは、「本当の意味での従順」という事をよく知らなければなりません。ここを注意しなければなりません。
「従順」というのはまず、天主に直接関わる、「天主のみに従順」という事です。「従順」というのは、「天主の御旨のみを果たそうとする決心」です。そして人間の長上が天主の権威に属している限りにおいて、私たちはその天主の権威に従う為に、天主に従順である為に、人間の長上に従わなければなりません。
では一体誰が、天主の権威に参与している方でしょうか。それは私たちの合法的な正当な長上です。例えば家族では両親。或いは国家でいえば大統領とか首相とか市長とか、そのような合法的な首長です。教会では司祭や司教様や教皇様です。
しかしこの合法的な長上のある命令が、天主の明らかな御旨に反している場合には、それは私たちはそれに従う事ができないばかりか、それに従ってはいけなくなります。これが教会の従順に関する教えです。
もしもあるお父さんが小さな子供に、「さぁお父さんは命令するよ、このウイスキーを飲みなさい」と言ったとしたら、子供はお父さんの命令に従ってはいけません。もしも司教様がその下の司祭に、罪になるような何かを「こうしなさい」と命令したならば、その下にいる司祭は、司教様の命令を拒まなければなりません。
ペトロとパウロの例もあります、聖書によれば。イエズス様はユダヤ教を廃止しました。そこでキリスト教徒になる為には、そのなる前にユダヤ教徒になる必要はありません。そこでユダヤ教に非常に影響されたキリスト教徒が初代教会には居て、異教徒がキリスト教徒になった時に、まだユダヤ教のような考え方で、「彼らとは、異教徒であったからユダヤ人ではなかったから割礼を受けてなかったので、一緒にご飯を食べない、一緒にいない」という人もいました。でもこれはカトリックの教えではありません、キリスト教の教えではありません。
聖ペトロは、もちろんそれは悪い、そのような態度は悪い事を知っていながらも、それにもかかわらずそのような人たちと一緒に同じような行動をして、その事について非難しませんでした。その時にその事を知ったパウロは、ただ単にそのようなユダヤ教徒のやっているような事をやらなかったばかりか、ペトロの前に行って、皆の前で公に、「あなたのやっている事は間違っている!」と言いました。
ではシスタールチアの状況はどうでしょうか。まず御出現のその当時には、ルチアの合法的な長上は誰かというと、両親と神父様です。
まずルチアのお母さんがルチアに、「娘よ、告解に行きなさい。嘘だと告白しなさい。嘘だと言いなさい」と命令しました。主任司祭はルチアに、「さぁ告解に行きなさい。皆の前で嘘だと言いなさい。」それからそこの市長がやって来て、「さぁ皆の前で嘘をついたと言いなさい」と命令しました。ルチアはそれに従う事を拒否しました。その他の時にはいつもどんな事でも従順に従っていたルチアは、これだけは従いませんでした。
辛い仕事をさせられたり、嫌な仕事を命令されたり、或いは尋問を受けたりした時には、いつも従順に従いました。
「秘密を皆の前で言いなさい」或いは「秘密を言って下さい」と命令されても、それは従いませんでした。何故かというと、秘密を守るのが天主様の御旨だと知っていたからです。
もしも天主様の明確な御旨が、その天主のしもべの命令に反していたとしたら、私たちはそのしもべの命令よりも、天主の御旨を選ばなければなりません。
第2バチカン公会議のエキュメニズムでは、その色々な実践は、確かに天主様の御旨に反しています。しかしそれ以外の、確かに天主の御旨に反している、それはよく分からない命令を受けた場合には、私たちはそれに従わなければなりません。
シスターはカルメルの修道会の中に居て、そして外に出る事もなく、エキュメニズムには参加する事もなく、手に聖体を拝領する事もなくいました。
ですからシスタールチアの従順を見ると、一体どこからどこまでが従順の範囲であって、どこからどこまでが従順の範囲外であるかという事を、この模範から見る事ができます。
ルチアはどのような難しい大変な試練の時にでも、その慰めを汚れなき御心の中に見出していた、避難所は汚れなき御心の中でした。
ルチアはマリア様が仰った言葉を確信していました、「最後には私の汚れなき御心が勝利するでしょう。」
また同時に、状況が悪くなればなるほど、マリア様はその凱旋を準備しているという事を知っていました。
私たちの態度もこれでなければなりません。マリア様が仰る断言を、絶対的な言い方を私たちは信じなければなりません。
マリア様は私たちにこう言っているからです、「あなたが私に反対しようと、賛成しようと、何であろうと私は最後に凱旋します。もしも私に反対するならば、それはあなたの滅びです。でもあなた方は私の愛する子供です。だから私の凱旋を大勝利を、私と一緒に分かち合いたいのです。私に信頼して下さい、盲目的に信頼して下さい。私の望みを果たして下さい。」
「ファチマで私の要求ははっきりと言いました。他の人々から慰めを求めないで、私だけを求めて下さい。私にあなたの小さな手を与えて下さい。そして私から逃げないで下さい。そうするならばどのような暗闇も、どのような嵐の中でも、私は安全にあなたを導きます。そしたらあなたには凱旋が待っています。その時私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、逃れ場であり、あなたを天国に導く道となります。」
では、ファチマの霊性とは一体何と言ったら良いでしょうか?これは、「マリア様の汚れなき御心を通して、私たちの心を変える事」です。
マリア様の汚れなき御心のおかげで私たちは、イエズス様をお慰めする事ができるようになります。これがフランシスコへのマリア様のメッセージです。
マリア様は同時に、隣人の回心、地獄の火から天国へと導く隣人愛の実践を教えています。これが汚れなき御心のジャシンタへのメッセージです。
最後に、汚れなき御心は天主様の黄金の至聖所であって、私たちが全てのその宝を見い出す事ができる至聖所である、と教えています。
私たちの心という本当に惨めて汚ならしい、何にもない空っぽのものでも、マリア様の純粋な愛と一致する事によって天国へと導かれる、というメッセージです。
この霊性を理解した後に初めて、私たちが具体的に汚れなき御心に対する信心をどうやって実践したら良いかが分かります。
1917年6月13日にマリア様はもう一度やって来て、「この世に、汚れなき御心に対する信心について詳しく教える」という事を約束します。それが初土の信心であり、奉献の信心です。
マリア様はこの約束を実現させます。それは1925年12月にポンテベドラにお現れになって、また1929年6月にトゥイでマリア様はお現れになって、この事を約束を果たします。
マリア様は幼きイエズス様と共に現れます。マリア様は手には汚れなき御心をお持ちでした。ちょうど最初に汚れなき御心をお見せになった時と同じように、マリア様の汚れなき御心には茨の冠が被せられて、茨はマリア様の御心を貫いていました。
幼きイエズス様はルチアに言います、「茨に囲まれている私の母に同情しなさい。忘恩の、恩を知らない人間によって常に絶え間なく茨で貫かれている私の母の心に同情しなさい。この茨を御心から抜き去ってあげようと償いをする霊魂は誰もいない。」
するとマリア様は言います、「わが娘よ、私の御心を見なさい。茨に囲まれているこの御心を見なさい。冒瀆と忘恩によって私の心を常に絶え間なく刺し貫いているこの茨を見なさい。少なくともあなたは私を慰めて下さい。」「私の名において全世界に伝えなさい。私は約束します。私は救いの為に必要な全てのお恵みを持って、死の臨終の時に、あなたを助けると約束します。5ヶ月間初土に続けて、告解を受け、御聖体を受け、ロザリオを唱え、ロザリオの15玄義の内の玄義を15分間私と共に黙想する。これらを罪の償いをするという意向を以て捧げるなら。」これらの本当に簡単な、実践しやすい簡単なものを以て約束されました。
「告解」「御聖体拝領」それから「ロザリオ」「黙想」というこの外的なものがあります。そしてそのそれを生かす意向は、精神は、「マリア様の汚れなき御心をお慰めし、そして霊魂を救い、そしてマリア様を愛する」というその意向です。
これらの初土の信心をした霊魂に与えるお恵みをルチアは言っています、「確かに初土の信心は土曜日月に一回だけですけれども、でもマリア様は、私たちがそのような精神で日々、年がら年中生きる事を望んでいます。マリア様はファチマでお現れになる度ごとに、『ロザリオを毎日唱えなさい』と言いました。」
天使が霊的に聖体拝領を子供たちに与えたというのは、これは「マリア様が、私たちが頻繁に御聖体拝領をする事を望んでいる」というしるしです。そこでどうぞ、このマリア様の仰ったこの具体的な信心を実践なさって下さい。肉体が霊魂なしには生きられないように、霊魂だけでも肉体なしには生きられません、この2つが必要だからです。
マリア様のこのご要求で特別な点とは何でしょうか?
「御聖体拝領をする」「告解をする」別にこれはカトリックがいつもやってる事で、特別な事ではありません。「ロザリオを唱える」これも特別な事ではありません、いつも毎日やっている事です。
もしも特別な事があるとしたら、それは現代の人々が忘れているところで、「黙想をする」という事です。
現代の人はこれを何か忘れてしまっています。またすぐこれについてまた後にお話します。この全てについて私たちは「慰めたい」それから「同情する」そして「お愛し申し上げる」という「償いをしたい」という意向で捧げなければなりません。
もしもこの鍵となる要素ができていないならば、ファチマの事について何も分かっていない事になります。マリア様の苦しみに同情する、償いの行為によってマリア様を慰める、マリア様をお慰めして、マリア様に同情するというこの事によって、私たちがますますマリア様に近くなり、そしてマリア様が一体どのような方か、という事を深く理解するようになります。
私たちはこの秋田の修道院に行きますけれども、私たちが跪くのはただの木の木像だけではありません。マリア様の御像はマリア様のシンボルであって、マリア様が本当に涙を流された、これは私たちへの愛のシンボルです。
もしもお母さんの事を大切に思って愛してるならば、もしもそのお母さんが涙を流しているとしたら、私たちは一体どんな態度を取るでしょうか。そのような涙を流す母親を見て、私たちは何とかして慰めたい、何とかしてその悲しめる心を償いたいと思わないでしょうか。
愛する母親は子供が苦しむのを見ると、その子供の苦しみをむしろ取って、自分の方がその倍を苦しみたい、と思います。
これがマリア様の苦しみで、涙です。何故かというと、十字架の下に佇んでマリア様は、ご自分の御子が私たちの罪によって苦しんでいるのをご覧になるからです。イエズス様の苦しみを和らげようとする事は何にもできないマリア様。マリア様は十字架の下でイエズス様に同情し、イエズス様と共に苦しんでおられます、「私の子供たちが御子イエズスと私をこのように苦しめているのだ。」
マリア様の最も愛する御子であるイエズス様は、私たちがマリア様を慰めるのを望んでいます。マリア様の御像の前に行って私たちは、「あぁマリア様これを下さい、あれをして下さい、ああやって下さい、あれもお願いします、これもして下さい、ああして下さい」と言う前に、マリア様のこの苦しみと悲しみを慰めて下さい。
イエズス様はそれを私たちがするのを望んでいます。イエズス様はルチアの方を向いて言いました、私たちの罪によってこんなにも苦しんでいるマリア様のこの茨を、私たちが抜き除いてそれをマリア様を慰めて下さい。
私たちがする事といえば大した事ではありません。マリア様の前に行って跪いて、マリア様の御眼差しを眺め、そして私たちの慰めのお言葉を差し上げるだけです。
ではこの続きは、修道院に行って戻った後夕食の前に致しましょう。
同時通訳:小野田圭志神父
反対を受けたり、難しい状況に置かれた時に、ルチアは私たちがどういう態度を取るべきかという事を教えています。まず汚れなき御心の中に入って、マリア様にアドバイスを受け、マリア様にお願いして、そして私たちを苦しめるような人々の為に祈るという事です。これが汚れなき御心への信心です。
多くの人々が、「ルチアは汚れなき御心の生き写しだ。」
マリア様の持っている諸徳を聖徳を真似る事なく、マリア様を喜ばせる事はできません。「私は汚れなき御心の信心を行っている」と言いつつも、私たちの心をマリア様の心と合わせようと、同じようにさせようとしないならば、それは真の信心ではありません。
汚れなき御心の美しさとは何かというと、全て汚れなく、全て単純に、自分の事はなく、天主の御旨を果たそうとしている事です。
イエズス様が、「あなた方の目が単純ならば、体は全て光に輝く」と言っていますけれども、「明るい」と言いますけれども、この意味においてルチアの生活は、マリア様の汚れなき御心の生き写しだと言えます。何故かというと、「あなたの目が単純であれば」、「単純」という事は、複雑な作戦とか、裏心とか、二重性とか、例えば二枚舌とか、そういう陰謀を使うという事とは一切関係がないからです。
現代の問題は、私たちは非常に複雑になっているという事です。例えば全ての事について疑問を投げかけたり、全ての事について「もしかしたらこれは何か陰謀があるんじゃないか」とか、或いは「巨大なコンピュータが全てを感知していて統治していて、この後ろには裏には何か潜んでいる、陰謀があるに違いない」と複雑にこう考える人がいます。
でもルチアはそうではありませんでした。非常に単純で1つの事だけを考えていました。「天主様を喜ばせる、マリア様を喜ばせる。」これだけです。
「他の人が私の事をどう思うかしら」、「どんな風に言うかしら」という事は全く思いもなく、「イエズス様をお喜ばせしたい、マリア様をお喜ばせしたい。」これだけしか考えませんでした。
ルチアは他の人が一体どうであるか、他の人の態度や言った事を吟味したりとか、裁判官になろうとする事は一切ありませんでした。こういうのは現代のマスメディアが私たちに与えるメンタリティーです。例えばFaceBookでは「お気に入り」とか或いは「好き」「嫌い」とやって私たちが全ての事について投票して、好きか嫌いかと判断する、裁く、というこれが現代のメンタリティーです。
現代の人々は、「あぁ中国の指導者は主席はどうだ」とか「良いか悪いか」或いは「韓国の大統領は良いか悪いか」或いは「隣人は良いか悪いか」という事を判断して、そしてそれに吟味する事に非常に多くの時間を、そして全ての神経を集中させていますけれども、それは私たちに関わりのない事です。
でもシスタールチアはたった1つの事しか望みませんでした。それは「単純さ」という事で、「天主様だけをお喜ばせ、マリア様を喜ばせる。」そうすることによって真理に生きるという事です。
真理を生きるという事はつまり、ルチアにとっては御出現で語られたこの真理を、御出現の真理をそのまま生きるという事ですけれども、それをこの真理をいつも謙遜に、単純に、提示していました。
ルチアは決して御出現を自分の為に利用しようとして、自分を中心にもっていく為に何か活用しようとした事はありませんでした。ですから反対を受けたとしても、私たちがよくやるように怒ったり憤ったりする事はありませんでした。誰かが私に反対する、「マリア様、この方を回心させて下さい、この方が信じるようにして下さい。」そして私は平和を保つ。これがルチアでした。
ルチアは従順でした。ルチアは命令を受けるとすぐさま従順に従いました。長上の意思に、長上の命令に、マリア様の御旨を見ていました。まずルチアはマリア様の命令に、マリア様の御要求に従順でした。マリア様が、「この事は秘密にとっておきなさい」と言われると、ルチアが死の脅迫を受けたとしても、決してそれを明かそうとはしませんでした。多くの人々がそれに反対したとしても。
では一体、第2バチカン公会議の後に色々なエキュメニズムとか、新しいミサが導入された時に、なぜシスタールチアはカルメルの中で何も言おうとせずに、声を上げて「それはいけない!」と反対しなかったのでしょうか。それでは、もしもシスタールチアが私たちの模範ならば、ルチアが何も声を上げずにノブスオルドにそのままミサに与っている、私たちもノブスオルドに与っても良いのですか。
ここで私たちは、「本当の意味での従順」という事をよく知らなければなりません。ここを注意しなければなりません。
「従順」というのはまず、天主に直接関わる、「天主のみに従順」という事です。「従順」というのは、「天主の御旨のみを果たそうとする決心」です。そして人間の長上が天主の権威に属している限りにおいて、私たちはその天主の権威に従う為に、天主に従順である為に、人間の長上に従わなければなりません。
では一体誰が、天主の権威に参与している方でしょうか。それは私たちの合法的な正当な長上です。例えば家族では両親。或いは国家でいえば大統領とか首相とか市長とか、そのような合法的な首長です。教会では司祭や司教様や教皇様です。
しかしこの合法的な長上のある命令が、天主の明らかな御旨に反している場合には、それは私たちはそれに従う事ができないばかりか、それに従ってはいけなくなります。これが教会の従順に関する教えです。
もしもあるお父さんが小さな子供に、「さぁお父さんは命令するよ、このウイスキーを飲みなさい」と言ったとしたら、子供はお父さんの命令に従ってはいけません。もしも司教様がその下の司祭に、罪になるような何かを「こうしなさい」と命令したならば、その下にいる司祭は、司教様の命令を拒まなければなりません。
ペトロとパウロの例もあります、聖書によれば。イエズス様はユダヤ教を廃止しました。そこでキリスト教徒になる為には、そのなる前にユダヤ教徒になる必要はありません。そこでユダヤ教に非常に影響されたキリスト教徒が初代教会には居て、異教徒がキリスト教徒になった時に、まだユダヤ教のような考え方で、「彼らとは、異教徒であったからユダヤ人ではなかったから割礼を受けてなかったので、一緒にご飯を食べない、一緒にいない」という人もいました。でもこれはカトリックの教えではありません、キリスト教の教えではありません。
聖ペトロは、もちろんそれは悪い、そのような態度は悪い事を知っていながらも、それにもかかわらずそのような人たちと一緒に同じような行動をして、その事について非難しませんでした。その時にその事を知ったパウロは、ただ単にそのようなユダヤ教徒のやっているような事をやらなかったばかりか、ペトロの前に行って、皆の前で公に、「あなたのやっている事は間違っている!」と言いました。
ではシスタールチアの状況はどうでしょうか。まず御出現のその当時には、ルチアの合法的な長上は誰かというと、両親と神父様です。
まずルチアのお母さんがルチアに、「娘よ、告解に行きなさい。嘘だと告白しなさい。嘘だと言いなさい」と命令しました。主任司祭はルチアに、「さぁ告解に行きなさい。皆の前で嘘だと言いなさい。」それからそこの市長がやって来て、「さぁ皆の前で嘘をついたと言いなさい」と命令しました。ルチアはそれに従う事を拒否しました。その他の時にはいつもどんな事でも従順に従っていたルチアは、これだけは従いませんでした。
辛い仕事をさせられたり、嫌な仕事を命令されたり、或いは尋問を受けたりした時には、いつも従順に従いました。
「秘密を皆の前で言いなさい」或いは「秘密を言って下さい」と命令されても、それは従いませんでした。何故かというと、秘密を守るのが天主様の御旨だと知っていたからです。
もしも天主様の明確な御旨が、その天主のしもべの命令に反していたとしたら、私たちはそのしもべの命令よりも、天主の御旨を選ばなければなりません。
第2バチカン公会議のエキュメニズムでは、その色々な実践は、確かに天主様の御旨に反しています。しかしそれ以外の、確かに天主の御旨に反している、それはよく分からない命令を受けた場合には、私たちはそれに従わなければなりません。
シスターはカルメルの修道会の中に居て、そして外に出る事もなく、エキュメニズムには参加する事もなく、手に聖体を拝領する事もなくいました。
ですからシスタールチアの従順を見ると、一体どこからどこまでが従順の範囲であって、どこからどこまでが従順の範囲外であるかという事を、この模範から見る事ができます。
ルチアはどのような難しい大変な試練の時にでも、その慰めを汚れなき御心の中に見出していた、避難所は汚れなき御心の中でした。
ルチアはマリア様が仰った言葉を確信していました、「最後には私の汚れなき御心が勝利するでしょう。」
また同時に、状況が悪くなればなるほど、マリア様はその凱旋を準備しているという事を知っていました。
私たちの態度もこれでなければなりません。マリア様が仰る断言を、絶対的な言い方を私たちは信じなければなりません。
マリア様は私たちにこう言っているからです、「あなたが私に反対しようと、賛成しようと、何であろうと私は最後に凱旋します。もしも私に反対するならば、それはあなたの滅びです。でもあなた方は私の愛する子供です。だから私の凱旋を大勝利を、私と一緒に分かち合いたいのです。私に信頼して下さい、盲目的に信頼して下さい。私の望みを果たして下さい。」
「ファチマで私の要求ははっきりと言いました。他の人々から慰めを求めないで、私だけを求めて下さい。私にあなたの小さな手を与えて下さい。そして私から逃げないで下さい。そうするならばどのような暗闇も、どのような嵐の中でも、私は安全にあなたを導きます。そしたらあなたには凱旋が待っています。その時私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、逃れ場であり、あなたを天国に導く道となります。」
では、ファチマの霊性とは一体何と言ったら良いでしょうか?これは、「マリア様の汚れなき御心を通して、私たちの心を変える事」です。
マリア様の汚れなき御心のおかげで私たちは、イエズス様をお慰めする事ができるようになります。これがフランシスコへのマリア様のメッセージです。
マリア様は同時に、隣人の回心、地獄の火から天国へと導く隣人愛の実践を教えています。これが汚れなき御心のジャシンタへのメッセージです。
最後に、汚れなき御心は天主様の黄金の至聖所であって、私たちが全てのその宝を見い出す事ができる至聖所である、と教えています。
私たちの心という本当に惨めて汚ならしい、何にもない空っぽのものでも、マリア様の純粋な愛と一致する事によって天国へと導かれる、というメッセージです。
この霊性を理解した後に初めて、私たちが具体的に汚れなき御心に対する信心をどうやって実践したら良いかが分かります。
1917年6月13日にマリア様はもう一度やって来て、「この世に、汚れなき御心に対する信心について詳しく教える」という事を約束します。それが初土の信心であり、奉献の信心です。
マリア様はこの約束を実現させます。それは1925年12月にポンテベドラにお現れになって、また1929年6月にトゥイでマリア様はお現れになって、この事を約束を果たします。
マリア様は幼きイエズス様と共に現れます。マリア様は手には汚れなき御心をお持ちでした。ちょうど最初に汚れなき御心をお見せになった時と同じように、マリア様の汚れなき御心には茨の冠が被せられて、茨はマリア様の御心を貫いていました。
幼きイエズス様はルチアに言います、「茨に囲まれている私の母に同情しなさい。忘恩の、恩を知らない人間によって常に絶え間なく茨で貫かれている私の母の心に同情しなさい。この茨を御心から抜き去ってあげようと償いをする霊魂は誰もいない。」
するとマリア様は言います、「わが娘よ、私の御心を見なさい。茨に囲まれているこの御心を見なさい。冒瀆と忘恩によって私の心を常に絶え間なく刺し貫いているこの茨を見なさい。少なくともあなたは私を慰めて下さい。」「私の名において全世界に伝えなさい。私は約束します。私は救いの為に必要な全てのお恵みを持って、死の臨終の時に、あなたを助けると約束します。5ヶ月間初土に続けて、告解を受け、御聖体を受け、ロザリオを唱え、ロザリオの15玄義の内の玄義を15分間私と共に黙想する。これらを罪の償いをするという意向を以て捧げるなら。」これらの本当に簡単な、実践しやすい簡単なものを以て約束されました。
「告解」「御聖体拝領」それから「ロザリオ」「黙想」というこの外的なものがあります。そしてそのそれを生かす意向は、精神は、「マリア様の汚れなき御心をお慰めし、そして霊魂を救い、そしてマリア様を愛する」というその意向です。
これらの初土の信心をした霊魂に与えるお恵みをルチアは言っています、「確かに初土の信心は土曜日月に一回だけですけれども、でもマリア様は、私たちがそのような精神で日々、年がら年中生きる事を望んでいます。マリア様はファチマでお現れになる度ごとに、『ロザリオを毎日唱えなさい』と言いました。」
天使が霊的に聖体拝領を子供たちに与えたというのは、これは「マリア様が、私たちが頻繁に御聖体拝領をする事を望んでいる」というしるしです。そこでどうぞ、このマリア様の仰ったこの具体的な信心を実践なさって下さい。肉体が霊魂なしには生きられないように、霊魂だけでも肉体なしには生きられません、この2つが必要だからです。
マリア様のこのご要求で特別な点とは何でしょうか?
「御聖体拝領をする」「告解をする」別にこれはカトリックがいつもやってる事で、特別な事ではありません。「ロザリオを唱える」これも特別な事ではありません、いつも毎日やっている事です。
もしも特別な事があるとしたら、それは現代の人々が忘れているところで、「黙想をする」という事です。
現代の人はこれを何か忘れてしまっています。またすぐこれについてまた後にお話します。この全てについて私たちは「慰めたい」それから「同情する」そして「お愛し申し上げる」という「償いをしたい」という意向で捧げなければなりません。
もしもこの鍵となる要素ができていないならば、ファチマの事について何も分かっていない事になります。マリア様の苦しみに同情する、償いの行為によってマリア様を慰める、マリア様をお慰めして、マリア様に同情するというこの事によって、私たちがますますマリア様に近くなり、そしてマリア様が一体どのような方か、という事を深く理解するようになります。
私たちはこの秋田の修道院に行きますけれども、私たちが跪くのはただの木の木像だけではありません。マリア様の御像はマリア様のシンボルであって、マリア様が本当に涙を流された、これは私たちへの愛のシンボルです。
もしもお母さんの事を大切に思って愛してるならば、もしもそのお母さんが涙を流しているとしたら、私たちは一体どんな態度を取るでしょうか。そのような涙を流す母親を見て、私たちは何とかして慰めたい、何とかしてその悲しめる心を償いたいと思わないでしょうか。
愛する母親は子供が苦しむのを見ると、その子供の苦しみをむしろ取って、自分の方がその倍を苦しみたい、と思います。
これがマリア様の苦しみで、涙です。何故かというと、十字架の下に佇んでマリア様は、ご自分の御子が私たちの罪によって苦しんでいるのをご覧になるからです。イエズス様の苦しみを和らげようとする事は何にもできないマリア様。マリア様は十字架の下でイエズス様に同情し、イエズス様と共に苦しんでおられます、「私の子供たちが御子イエズスと私をこのように苦しめているのだ。」
マリア様の最も愛する御子であるイエズス様は、私たちがマリア様を慰めるのを望んでいます。マリア様の御像の前に行って私たちは、「あぁマリア様これを下さい、あれをして下さい、ああやって下さい、あれもお願いします、これもして下さい、ああして下さい」と言う前に、マリア様のこの苦しみと悲しみを慰めて下さい。
イエズス様はそれを私たちがするのを望んでいます。イエズス様はルチアの方を向いて言いました、私たちの罪によってこんなにも苦しんでいるマリア様のこの茨を、私たちが抜き除いてそれをマリア様を慰めて下さい。
私たちがする事といえば大した事ではありません。マリア様の前に行って跪いて、マリア様の御眼差しを眺め、そして私たちの慰めのお言葉を差し上げるだけです。
ではこの続きは、修道院に行って戻った後夕食の前に致しましょう。