2017年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話7
同時通訳:小野田圭志神父
マリア様がポンテベドラで教えて下さった初土の信心について、前述した通り説明させて下さい。
この初土の信心は、1つ1つが御出現に関わってきています。頻繁に出てくる単語、キーワードが、「慰める」という事です。私たちが天主様を愛する事ができる、愛するという事の最大の行為は、「マリア様の汚れなき御心を通して、天主を慰める」という事です。
この「慰める」という事は、「イエズス様に同情する」、或いは「イエズス様と共に苦しむ」という言葉と繋がっています。
そのラテン語で「同情」という言葉は「compassion」と言います。「com」というのは「共に」という事で、「passion」というのは「受難」「苦しむ」という意味なので、「同情」という意味の「compassion」という言葉は、「共に苦しむ」という意味があるのです。
マリア様はイエズス様の御受難を見て、共に苦しまれました。そこで私たちもマリア様と共にいる事によって、マリア様の苦しみと共に苦しむ、これが私たちの言っている「compassion」です。時々、「同情」と、「同じ情を起こす」と訳しましたけれども、「共に苦しむ」という事です。
私たちは一体どうやって、何を私たちがマリア様の為にする事ができるでしょうか?イエズス様の為に一体何をする事ができるでしょうか?
しかし愛の心で、マリア様の苦しみを黙想する、マリア様と共に留まるという事によって、たとえその苦しみに対して物理的に何かをする事ができなくとも、マリア様に対して犯される罪を償う事ができます。
罪というのは、大体が傲慢によって犯されます。従って、謙遜な愛の行いは、この罪を償う為に非常に有効なのです。
マリア様が私たちに望んでいるのはここです。償いの精神をもって、マリア様は罪によって傷付いているこの秩序、この天主様をそれを償う事を求めています。誰かが美しいお城を御殿を破壊してしまった、粉々にしてしまった、汚くしてしまったら、マリア様は私たちに一緒にこれを修復する事を望んでいます。この償いの精神をもって私たちは、マリア様が要求する他の事をしなければなりません。
マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質的な部分は、「償いの聖体拝領」です。
御聖体拝領というのは、イエズス様の御体と御血を拝領する事です。マリア様と一体何の関係があるのでしょうか?一体何で、御聖体拝領がマリア様の汚れなき御心と関係がある信心になるのでしょうか?
それは、私たちがよく聖体降福式の時に歌う『Ave verum corpus』、「マリア様から生まれた真の体よ、挨拶します」というラテン語の言葉に答えが書かれています。つまり、イエズス様の御体はマリア様から生まれた真の御体だからです。私たちが御聖体拝領をする時に受けるイエズス様の御体というのは、マリア様の御胎内によって形造られた御体です。マリア様がいらっしゃらなければイエズス様の御体は無いのですから、御聖体も有り得ません。
全能の天主様が私たちの元にやって来たいと望まれた、しかも私たちの食べ物となって、小さいホスチアとなってやって来られる、この事は想像できますか?そのような愛の行為である御聖体のイエズス様に対して、私たちはどうやって応えているでしょうか?
多くの場合、無関心。多くの場合、冷たい冷淡な心で御聖体拝領をしています。天主様が、そのありとあらゆる全能の愛をもって、私の救いの為にこれほどまでの奇跡を起こして、御自分がこれほど小さくなって、私たちに自分を全て与えようとしているその愛の一方、私は本当に怠けて怠惰で無関心で、その愛の事に全く無頓着で御聖体拝領をしている、そのコントラストを見て下さい。
マリア様が、その汚れなき御心の信心の中心に御聖体拝領を要求するということは、マリア様が、ご自分と共に、ご自分の心を以て、私たちが御聖体を拝領する、愛を以て聖体拝領をする、という事をお望みなるという事です。
時が来ました。私たちの御聖体拝領は今まであまりにもダラダラしていて、あまりにもケチくさくて、あまりにも雑念でいっぱいで、あまりにも無気力で、心の込もっていない聖体拝領でしたけれども、もうそれをやめて、私たちの今そのような心を捨て去って、別の心を入れ替える聖体拝領をする時が来ました。入れ替えるべき心は、私たちの心の代わりにマリア様の汚れなき御心を入れるのです。御聖体拝領の前にどうぞマリア様を招いて下さい。そして「私の心の代わりに、マリア様の心と交換して下さい」と頼んで下さい。そして「私の愛の代わりに、マリア様の愛でイエズス様を愛して下さい」とお願いして下さい。そうすると、私たちの聖体拝領が変わります。
この聖体拝領を「償いの精神をもって」するように求めています。一体何の意味があるでしょうか?
もしも皆さんがどなたかを愛しているとします、心から愛している。でもこの愛している人を、ある時に何故か侮辱して、屈辱を与えるとします。そしてその侮辱した後に、「あっ」正気に戻って、「あぁ、自分は一体何て事をしてしまったのだろうか!何て事を言ってしまったんだ。全く理由もなく私はこの愛するべき人を殴ってしまった。その為にもうその人は涙を流して泣いている、悲しいと思っている。私は一体何をしてしまったんだ。一体、私の人生で最も愛すべき人をこうやって侮辱してしまって、一体何が起こったのだろうか。」
一体、どうしたら良いでしょうか?私が今侮辱して屈辱を与えた人は、その為に泣いて、涙を流してるのですけれども、あたかも何もなかったかのように「こんにちは!どう?」などと言う事はもうできません。今もう悲しんで傷付いているからです。何とかしてそれを、そのしてしまった間違いを償わなければなりません。そこで何とかその人の所に行って、「あぁ、すみませんでした、一体何でそんな事をしてしまったのかもう分かりません」と言って何か、その過失を償う為に何かをします。
私はそんな子供でした。何故かというと、子供の頃は母にとって、とても悪い事ばかりしていたからです。母をとても好きだったのです。母はレストランを経営していたので、とても素晴らしいおいしいケーキを作っていました。ケーキを作る為にはこのスポンジの生地を作ります。そして私は子供の頃ケーキがとても好きだったので、母が作ったケーキをその準備したケーキを隠してあったのですけれども、その隠してあるのを取って、それを盗み食いしてしまいました。そしてその指でかじって食べたので、これはネズミが食べた跡のようで私が、子供の私が食べた跡だったのです。
そして母は私が食べるその現場を捕らえ、そして私に罰を与えました。そして母に叱られて、母は「そんな事をしてはいけない。何故ならば、これは天主様を傷付ける事であるし、せっかく私がやった事ももう台無しになってしまう。もうこんな事をしたらいけない」と。ですから「お母さん、絶対これからはしません」と約束しました。
でも母がまたおいしいケーキを作ると、その誘惑に勝つ事ができませんでした。また母がそれを私を見つけて叱りつけた時には、母はとても悲しい面持ちでした。何故かというと、その盗み食いをしたからというよりは、せっかく約束したにもかかわらず、それを破って、またこれを同じ事をしたからです。その時初めて私は、自分の為に母が涙を流して泣くのを見ました。
一体何をしたら良いのか、母を泣かせたくないと思いました。そこでどうしたらそれを償う事ができるかという事を考えました。「すみません、もうごめんなさい」と言ったのですけれども、まだ母は涙を流しています。そして私は自分の部屋をきれいにお掃除しました。私は未だかつてこんな事をした事がありませんでした。母を微笑まそうと思って、部屋のお掃除をやりました。母に、「すみません、ごめんなさい、でもあの、お部屋のお掃除をしました、初めて掃除をしました」と言いました。でも母は涙を流し続けました。部屋を掃除したからといって、母の涙が止まったわけではないので、一体どうしたら良いか困ってしまいました。母は今でもそうですけれども、たくさんのお花を周りに植えてお花畑を持っていました。お花が大好きなのです。そしてその花を取って摘んで、花束を作りました。たくさんの花を摘んで大きな花束を作ったので、私の顔が見えないほどの大きな花束でした。そして私は、「どうぞこの花束を取って受け止めて下さい。でももう泣かないで下さい、笑って下さい」とお願いしました。その時に母は、もう一度微笑みを戻しました。それを見てホッとしました。
てもイエズス様やマリア様に対しては、私たちはいつも罪を犯して悲しませてばかりいます。イエズス様の事を私たちはよくコロッと忘れてしまって、そしてイエズス様の御旨の事を全く無視して自分の思い通りにしたり、或いはイエズス様の事を全く考えないで生活をしていて、コロッと思い出したように、「あぁこんにちは!イエズス様!」と言う事はもうできません。
ここで、償いの精神による御聖体拝領の意味が皆さんお分かりでしょうか。イエズス様にまた罪を犯して、イエズス様を傷付けてしまったという事を非常に痛悔して、来るイエズス様に元に近付くという事です。マリア様の涙を乾かす、マリア様の御心に刺し貫かされている茨を抜き取る為に何かをする、この罪を犯されたこのダメージを何とかして償う、というそれが償いの御聖体拝領です。
償いの為の聖体拝領というのは、私たちが罪人であるにもかかわらず、真面目に痛悔して「イエズス様にその罪の償いをしたい」と思って、御聖体拝領する事です。
告解も同じです。「償いの精神で」告解をするという事です。告解はその初土曜日にその日に必ずしもする必要は義務はありません。ただ1ヶ月に1回、罪の償いの為にその精神で告解をすればよい言いわれました。しかし罪を償う意向をもって告解しなければなりません。何故かというと、罪の償いの精神というのは、私たちの告解において最も完璧な悔悛の精神を与えるからです。
罪は私たちをして、イエズス様とマリア様に裏切りをさせました。皆さんは過去数週間、長い茨をマリア様の御心にズブリズブリと罪を犯す事によって、痛い茨を刺し貫いてしまったのです。
「お母さん、一体何で私はそんな事をする事ができたのでしょうか、そんなにたくさんの茨を。この茨をぜひ取り抜きたい。この私の傲慢によって私は、イエズス様の冠に茨を、多くの多くの茨を刺し貫いてしまいました。私は私の不潔によって、イエズス様の御体を痛めつけてしまったので、その傷口に何とか香油を塗って、その傷に油を塗って差し上げたい。」
「ごめんなさい、すみません、すみません、すみません」と言うのは簡単ですけれども、それを償う精神がなければなりません。私はマリア様の汚れなき御心を泥の中に投げやってしまって、その上を歩いてしまって、これを踏み潰してしまった。私たちはこのマリア様に対してその償いの精神が大きければ大きいほど、マリア様に対して慰めをする事ができます。
償いの精神の告解は更に効果があります。告解に行く時に考えて下さい。私が付けた茨が、マリア様の御心に貫かされていると同時に、他の人々の多くの茨もマリア様の傷を貫いています。
一体罪を犯すとどんな事が起こるでしょうか?罪を犯すという事は、敵の陣地に行って、「十字架に付けろ!」と言う事です。そしてイエズス様のお母様の顔をピシャリと殴るという事です。つまり私たちがたとえ一人で罪を犯したとしても、敵の陣地に行って、イエズス様を「十字架に付けろ!」と言う事と同じですので、罪人たちの連帯が生じます。ですから罪、私の罪の茨がマリア様に1つ貫かれるのではなく、数え切れないほどの多くの茨が、マリア様の汚れなき御心をたくさん刺し貫かれているという事を考えて下さい。私たちはこの罪の1つ1つが、多くの罪がマリア様を傷付けているという事を理解できます。
もしもその他の多くの人々の茨が被さっているという事を考えると、私たちはこのような事を言う事はできません、「あぁマリア様、この罪は私の罪で、本当にこれはごめんなさい。でも他の人からたくさん茨を受けて苦しんでいるのは、私は関係ありません、私のではないから」と言う事ができるでしょうか。
マリア様は多くの罪によって苦しんでいます。ですからそれを考えると、「あぁマリア様、私の犯した罪をこの茨をどうぞお赦し下さい。でも他の人々がやった罪もどうぞ赦してください、マリア様の汚れなき御心が、誰からによっても傷付けられるのを私は望まないからです」と思うようになります。
「御身がこれほどの愛で愛して下さった子供である私が、不肖の私が御身をこうやって傷付ける事を本当に悲しく思います。そして御身に対して、或いは天主に対して罪を犯すが為に、多くの人々が御身の御心に茨を刺している、それを見て本当に私は悲しく思います。そこで私のやった罪の償いのみならず、他の人々がマリア様に与える悲しみや苦しみをも償いたいと思います。」
これほど完璧な悔悛はありません。私たちの悔悛は完璧であれば完璧であるほど、多くの赦しも完璧となります。
この次には15分の黙想があります。なぜ重要かというと、もしも私たちが口で祈っている祈りの意味をよく考えないとしたならば、私たちの祈りは必然的に表面的だけになってしまって、機械的になってしまって、雑念だけになってしまうからです。
小さな子供は暗記した、丸暗記した事をただ繰り返すだけです。何を言っているか考えずに、ただ舌を動かして言う事があります。でもこのような子供の言った繰り返しは、本当の意味での愛の表現ではありません。私たちが祈りをする時に、口先だけでは主を崇めているけれども、心はほど遠いという時があります。私たちが祈り口に出している事を、その意味を深く考える事が黙想です。
私たちはそのイエズス様にベラベラベラベラベラという口先だけではなくて、一体誰に対してそう申し上げているのか、そのイエズス様のその人柄、そのイエズス様が一体どなたなのか、というその事を考えなければなりません。
残念ながらこの黙想という事を、熱心なカトリック信者も現代ではしなくなってしまいました。この熱心なカトリックといわれる人は、口の祈りはたくさん増えますけれども、しかしその内容は考えていません。
マリア様はそこで私の所にやって来ます、「あぁ、子よ、お前は天主様と個人的なパーソナルな関係を持たなければならない。だからそれが黙想だ。」もしも黙想をするのならば、機械的な祈りから脱出する事ができます。
マリア様は、「15分」の黙想と言います。何故でしょうか?
何故かというと、皆さんの生活でよくなさっている事は大体15分かかります。たとえばミサの御説教は、「15分以上長く御説教をしてはいけない」と御説教の師は言います。「ミサの直後の公教要理は、15分以上やってはいけない」とあります。御聖体拝領の後の感謝の祈りは15分。終課も大体15分。それから朝課や、或いは晩課を唱える時には大体15分。朝起きて着替えたり準備をするのも15分。朝食のコーヒーは15分。大学での授業の間の休みは15分。ロシアには或いは東洋では講話は必ず15分遅れて始まる、これはアカデミックな15分。「もしも15分遅れて始めるのではなくて、時間通りに始めたとしたら、学術的ではない」と言います。これはポーランドだけの話で、ドイツではこういう事はありません。(^^ですからよくある事は15分くらいの時間が、日常生活でそいういう細切れの時間がよく有り得るという事です。
そこでマリア様は、「その時に15分黙想しなさい」と仰っています。ですから15分という時間を日常の中で見つけて、黙想なさって下さい。朝のお祈り15分。ですから日中に15分の休憩があって、夕方に15分終課。このマリア様の言っている15分というのは、60秒が15倍の何秒何秒というその正確な秒計自体の15分というよりは、「約15分」という風に考えて下さい。
この15分で一体何を考え黙想するか、というテーマを与えて下さいます。マリア様はそのテーマとして、「15の玄義を黙想する」という事を仰っています。マリア様はロザリオについての御出現の事が何回もありましたけれども、「15の玄義を黙想する」という風にはっきりと仰った事はありませんでした。しかしこの15の玄義には、イエズス様の御生涯と御死去と御復活の要点があります。例えばカルワリオのイエズス様の十字架のもとに、マリア様が立っておられる、その愛と、信仰と、希望の徳をそれを眺める、黙想する、15分それで過ごす。これで良いのです。
それから最後に、5回続けて初土曜日にロザリオを唱える事を求めます。
これが外的な、聖母の汚れなき御心に対する信心をどうやって行うかという事です。
もちろんこの信心を、私たちの日常の生活に適応させなければなりません。1ヶ月に1回だけという事ではなくて、それを毎日の生活に生かさなければなりません。そこでマリア様の言ったように、毎日ロザリオを唱える、毎日黙想の時間を取る、イエズス様とマリア様の神秘を黙想する、もしもミサに与れない時には霊的な聖体拝領をする。
たとえミサがなかったとしても、霊的な聖体拝領をする事は毎日のようにできます。そういうきれいな鳥がたくさん飛んでいるのをご覧になりますか。マニラで一体どのような事があるか、その例を出しますので、どうやったら毎日霊的聖体拝領できるか参考にして下さい。
マニラの教会にはすずめが入って来ます。毎朝、私たちと一緒に聖務日課を唱えるのにピーチクパーチク言っています。何故かというと、マニラのドアにはガラスがないので、それが入って来ます。
皆さんの霊魂もこの鳥と同じです。そこで体は皆さんの家に居たとしても、霊的には霊魂をきれいな教会にして、シュテーリン神父様がミサをしている所で、そしてきれいな御聖櫃の近くに行って、ここにピタリと止まって、この御聖櫃を眺めて下さい。そしてこの霊的に跪いて、霊的に御聖体拝領をして下さい。でも霊的にしたとしても、本当に御聖体拝領の効果があります。それが教会の教えです。そこで霊的に何度も1日に、毎日御聖体拝領をする事ができます。
告解で一番大切な要素は、悔悛です。そこで私たちはたとえ実際に告解の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、悔悛の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、痛悔の念を起こす事によって、告解の効果を得る事ができます。
これらはみな、償いの精神をもって実践なさって下さい。
このファチマの子供たちがやっているように、日々多くの射祷を唱える事によって、完壁なマリア様の汚れなき御心に対する信心を行う事ができます。
もしも皆さんがこの信心を実践するならば、マリア様は皆さんの救いを約束されます。マリア様が皆さんの死のその間際に、近くに現存して下さいます、来て下さいます。
この信心をするならば、皆さんが今から死に至ろうとする時に、何が起こるか分かりますか?今この息を引き取ろうとするこの瞬間、天主様の御前で皆さんはたった一人ぼっちで、孤独に現れます。もしもこの信心を実践するならば、マリア様は約束します、皆さんは一人ではない、マリア様と共に一緒にいる、と。その私たちが今から永遠の門に行こう、飛び出とうとするその瞬間、悪魔は私たちを絶望させようと、或いは地獄の門に引きずり込もうとしますけれども、その瞬間、マリア様が立っ下さいますから、悪魔は私たちに何も害を及ぼす事ができません。
この私たちがこの汚れなき御心の信心を実践した、その報いは何でしょうか?
それは、何千何万の多くの聖人たちから選ばれて、天主様の最も近くに置かれる花々のように、貴重な存在となるという事です。
皆さん、私が皆さんの為に昨日今日した事のそれを支払ってもらいたいと思います。それはこれは私の為に、もしも皆さんと日本に住んでいる多くの人の為に、この本が是非日本語に訳される事を望みます。もしもこれが印刷されて訳されたら、また日本にやって来ます。2冊訳されたら、2回来ます。(^^)/
ご清聴ありがとうございます。
同時通訳:小野田圭志神父
マリア様がポンテベドラで教えて下さった初土の信心について、前述した通り説明させて下さい。
この初土の信心は、1つ1つが御出現に関わってきています。頻繁に出てくる単語、キーワードが、「慰める」という事です。私たちが天主様を愛する事ができる、愛するという事の最大の行為は、「マリア様の汚れなき御心を通して、天主を慰める」という事です。
この「慰める」という事は、「イエズス様に同情する」、或いは「イエズス様と共に苦しむ」という言葉と繋がっています。
そのラテン語で「同情」という言葉は「compassion」と言います。「com」というのは「共に」という事で、「passion」というのは「受難」「苦しむ」という意味なので、「同情」という意味の「compassion」という言葉は、「共に苦しむ」という意味があるのです。
マリア様はイエズス様の御受難を見て、共に苦しまれました。そこで私たちもマリア様と共にいる事によって、マリア様の苦しみと共に苦しむ、これが私たちの言っている「compassion」です。時々、「同情」と、「同じ情を起こす」と訳しましたけれども、「共に苦しむ」という事です。
私たちは一体どうやって、何を私たちがマリア様の為にする事ができるでしょうか?イエズス様の為に一体何をする事ができるでしょうか?
しかし愛の心で、マリア様の苦しみを黙想する、マリア様と共に留まるという事によって、たとえその苦しみに対して物理的に何かをする事ができなくとも、マリア様に対して犯される罪を償う事ができます。
罪というのは、大体が傲慢によって犯されます。従って、謙遜な愛の行いは、この罪を償う為に非常に有効なのです。
マリア様が私たちに望んでいるのはここです。償いの精神をもって、マリア様は罪によって傷付いているこの秩序、この天主様をそれを償う事を求めています。誰かが美しいお城を御殿を破壊してしまった、粉々にしてしまった、汚くしてしまったら、マリア様は私たちに一緒にこれを修復する事を望んでいます。この償いの精神をもって私たちは、マリア様が要求する他の事をしなければなりません。
マリア様の汚れなき御心に対する信心の本質的な部分は、「償いの聖体拝領」です。
御聖体拝領というのは、イエズス様の御体と御血を拝領する事です。マリア様と一体何の関係があるのでしょうか?一体何で、御聖体拝領がマリア様の汚れなき御心と関係がある信心になるのでしょうか?
それは、私たちがよく聖体降福式の時に歌う『Ave verum corpus』、「マリア様から生まれた真の体よ、挨拶します」というラテン語の言葉に答えが書かれています。つまり、イエズス様の御体はマリア様から生まれた真の御体だからです。私たちが御聖体拝領をする時に受けるイエズス様の御体というのは、マリア様の御胎内によって形造られた御体です。マリア様がいらっしゃらなければイエズス様の御体は無いのですから、御聖体も有り得ません。
全能の天主様が私たちの元にやって来たいと望まれた、しかも私たちの食べ物となって、小さいホスチアとなってやって来られる、この事は想像できますか?そのような愛の行為である御聖体のイエズス様に対して、私たちはどうやって応えているでしょうか?
多くの場合、無関心。多くの場合、冷たい冷淡な心で御聖体拝領をしています。天主様が、そのありとあらゆる全能の愛をもって、私の救いの為にこれほどまでの奇跡を起こして、御自分がこれほど小さくなって、私たちに自分を全て与えようとしているその愛の一方、私は本当に怠けて怠惰で無関心で、その愛の事に全く無頓着で御聖体拝領をしている、そのコントラストを見て下さい。
マリア様が、その汚れなき御心の信心の中心に御聖体拝領を要求するということは、マリア様が、ご自分と共に、ご自分の心を以て、私たちが御聖体を拝領する、愛を以て聖体拝領をする、という事をお望みなるという事です。
時が来ました。私たちの御聖体拝領は今まであまりにもダラダラしていて、あまりにもケチくさくて、あまりにも雑念でいっぱいで、あまりにも無気力で、心の込もっていない聖体拝領でしたけれども、もうそれをやめて、私たちの今そのような心を捨て去って、別の心を入れ替える聖体拝領をする時が来ました。入れ替えるべき心は、私たちの心の代わりにマリア様の汚れなき御心を入れるのです。御聖体拝領の前にどうぞマリア様を招いて下さい。そして「私の心の代わりに、マリア様の心と交換して下さい」と頼んで下さい。そして「私の愛の代わりに、マリア様の愛でイエズス様を愛して下さい」とお願いして下さい。そうすると、私たちの聖体拝領が変わります。
この聖体拝領を「償いの精神をもって」するように求めています。一体何の意味があるでしょうか?
もしも皆さんがどなたかを愛しているとします、心から愛している。でもこの愛している人を、ある時に何故か侮辱して、屈辱を与えるとします。そしてその侮辱した後に、「あっ」正気に戻って、「あぁ、自分は一体何て事をしてしまったのだろうか!何て事を言ってしまったんだ。全く理由もなく私はこの愛するべき人を殴ってしまった。その為にもうその人は涙を流して泣いている、悲しいと思っている。私は一体何をしてしまったんだ。一体、私の人生で最も愛すべき人をこうやって侮辱してしまって、一体何が起こったのだろうか。」
一体、どうしたら良いでしょうか?私が今侮辱して屈辱を与えた人は、その為に泣いて、涙を流してるのですけれども、あたかも何もなかったかのように「こんにちは!どう?」などと言う事はもうできません。今もう悲しんで傷付いているからです。何とかしてそれを、そのしてしまった間違いを償わなければなりません。そこで何とかその人の所に行って、「あぁ、すみませんでした、一体何でそんな事をしてしまったのかもう分かりません」と言って何か、その過失を償う為に何かをします。
私はそんな子供でした。何故かというと、子供の頃は母にとって、とても悪い事ばかりしていたからです。母をとても好きだったのです。母はレストランを経営していたので、とても素晴らしいおいしいケーキを作っていました。ケーキを作る為にはこのスポンジの生地を作ります。そして私は子供の頃ケーキがとても好きだったので、母が作ったケーキをその準備したケーキを隠してあったのですけれども、その隠してあるのを取って、それを盗み食いしてしまいました。そしてその指でかじって食べたので、これはネズミが食べた跡のようで私が、子供の私が食べた跡だったのです。
そして母は私が食べるその現場を捕らえ、そして私に罰を与えました。そして母に叱られて、母は「そんな事をしてはいけない。何故ならば、これは天主様を傷付ける事であるし、せっかく私がやった事ももう台無しになってしまう。もうこんな事をしたらいけない」と。ですから「お母さん、絶対これからはしません」と約束しました。
でも母がまたおいしいケーキを作ると、その誘惑に勝つ事ができませんでした。また母がそれを私を見つけて叱りつけた時には、母はとても悲しい面持ちでした。何故かというと、その盗み食いをしたからというよりは、せっかく約束したにもかかわらず、それを破って、またこれを同じ事をしたからです。その時初めて私は、自分の為に母が涙を流して泣くのを見ました。
一体何をしたら良いのか、母を泣かせたくないと思いました。そこでどうしたらそれを償う事ができるかという事を考えました。「すみません、もうごめんなさい」と言ったのですけれども、まだ母は涙を流しています。そして私は自分の部屋をきれいにお掃除しました。私は未だかつてこんな事をした事がありませんでした。母を微笑まそうと思って、部屋のお掃除をやりました。母に、「すみません、ごめんなさい、でもあの、お部屋のお掃除をしました、初めて掃除をしました」と言いました。でも母は涙を流し続けました。部屋を掃除したからといって、母の涙が止まったわけではないので、一体どうしたら良いか困ってしまいました。母は今でもそうですけれども、たくさんのお花を周りに植えてお花畑を持っていました。お花が大好きなのです。そしてその花を取って摘んで、花束を作りました。たくさんの花を摘んで大きな花束を作ったので、私の顔が見えないほどの大きな花束でした。そして私は、「どうぞこの花束を取って受け止めて下さい。でももう泣かないで下さい、笑って下さい」とお願いしました。その時に母は、もう一度微笑みを戻しました。それを見てホッとしました。
てもイエズス様やマリア様に対しては、私たちはいつも罪を犯して悲しませてばかりいます。イエズス様の事を私たちはよくコロッと忘れてしまって、そしてイエズス様の御旨の事を全く無視して自分の思い通りにしたり、或いはイエズス様の事を全く考えないで生活をしていて、コロッと思い出したように、「あぁこんにちは!イエズス様!」と言う事はもうできません。
ここで、償いの精神による御聖体拝領の意味が皆さんお分かりでしょうか。イエズス様にまた罪を犯して、イエズス様を傷付けてしまったという事を非常に痛悔して、来るイエズス様に元に近付くという事です。マリア様の涙を乾かす、マリア様の御心に刺し貫かされている茨を抜き取る為に何かをする、この罪を犯されたこのダメージを何とかして償う、というそれが償いの御聖体拝領です。
償いの為の聖体拝領というのは、私たちが罪人であるにもかかわらず、真面目に痛悔して「イエズス様にその罪の償いをしたい」と思って、御聖体拝領する事です。
告解も同じです。「償いの精神で」告解をするという事です。告解はその初土曜日にその日に必ずしもする必要は義務はありません。ただ1ヶ月に1回、罪の償いの為にその精神で告解をすればよい言いわれました。しかし罪を償う意向をもって告解しなければなりません。何故かというと、罪の償いの精神というのは、私たちの告解において最も完璧な悔悛の精神を与えるからです。
罪は私たちをして、イエズス様とマリア様に裏切りをさせました。皆さんは過去数週間、長い茨をマリア様の御心にズブリズブリと罪を犯す事によって、痛い茨を刺し貫いてしまったのです。
「お母さん、一体何で私はそんな事をする事ができたのでしょうか、そんなにたくさんの茨を。この茨をぜひ取り抜きたい。この私の傲慢によって私は、イエズス様の冠に茨を、多くの多くの茨を刺し貫いてしまいました。私は私の不潔によって、イエズス様の御体を痛めつけてしまったので、その傷口に何とか香油を塗って、その傷に油を塗って差し上げたい。」
「ごめんなさい、すみません、すみません、すみません」と言うのは簡単ですけれども、それを償う精神がなければなりません。私はマリア様の汚れなき御心を泥の中に投げやってしまって、その上を歩いてしまって、これを踏み潰してしまった。私たちはこのマリア様に対してその償いの精神が大きければ大きいほど、マリア様に対して慰めをする事ができます。
償いの精神の告解は更に効果があります。告解に行く時に考えて下さい。私が付けた茨が、マリア様の御心に貫かされていると同時に、他の人々の多くの茨もマリア様の傷を貫いています。
一体罪を犯すとどんな事が起こるでしょうか?罪を犯すという事は、敵の陣地に行って、「十字架に付けろ!」と言う事です。そしてイエズス様のお母様の顔をピシャリと殴るという事です。つまり私たちがたとえ一人で罪を犯したとしても、敵の陣地に行って、イエズス様を「十字架に付けろ!」と言う事と同じですので、罪人たちの連帯が生じます。ですから罪、私の罪の茨がマリア様に1つ貫かれるのではなく、数え切れないほどの多くの茨が、マリア様の汚れなき御心をたくさん刺し貫かれているという事を考えて下さい。私たちはこの罪の1つ1つが、多くの罪がマリア様を傷付けているという事を理解できます。
もしもその他の多くの人々の茨が被さっているという事を考えると、私たちはこのような事を言う事はできません、「あぁマリア様、この罪は私の罪で、本当にこれはごめんなさい。でも他の人からたくさん茨を受けて苦しんでいるのは、私は関係ありません、私のではないから」と言う事ができるでしょうか。
マリア様は多くの罪によって苦しんでいます。ですからそれを考えると、「あぁマリア様、私の犯した罪をこの茨をどうぞお赦し下さい。でも他の人々がやった罪もどうぞ赦してください、マリア様の汚れなき御心が、誰からによっても傷付けられるのを私は望まないからです」と思うようになります。
「御身がこれほどの愛で愛して下さった子供である私が、不肖の私が御身をこうやって傷付ける事を本当に悲しく思います。そして御身に対して、或いは天主に対して罪を犯すが為に、多くの人々が御身の御心に茨を刺している、それを見て本当に私は悲しく思います。そこで私のやった罪の償いのみならず、他の人々がマリア様に与える悲しみや苦しみをも償いたいと思います。」
これほど完璧な悔悛はありません。私たちの悔悛は完璧であれば完璧であるほど、多くの赦しも完璧となります。
この次には15分の黙想があります。なぜ重要かというと、もしも私たちが口で祈っている祈りの意味をよく考えないとしたならば、私たちの祈りは必然的に表面的だけになってしまって、機械的になってしまって、雑念だけになってしまうからです。
小さな子供は暗記した、丸暗記した事をただ繰り返すだけです。何を言っているか考えずに、ただ舌を動かして言う事があります。でもこのような子供の言った繰り返しは、本当の意味での愛の表現ではありません。私たちが祈りをする時に、口先だけでは主を崇めているけれども、心はほど遠いという時があります。私たちが祈り口に出している事を、その意味を深く考える事が黙想です。
私たちはそのイエズス様にベラベラベラベラベラという口先だけではなくて、一体誰に対してそう申し上げているのか、そのイエズス様のその人柄、そのイエズス様が一体どなたなのか、というその事を考えなければなりません。
残念ながらこの黙想という事を、熱心なカトリック信者も現代ではしなくなってしまいました。この熱心なカトリックといわれる人は、口の祈りはたくさん増えますけれども、しかしその内容は考えていません。
マリア様はそこで私の所にやって来ます、「あぁ、子よ、お前は天主様と個人的なパーソナルな関係を持たなければならない。だからそれが黙想だ。」もしも黙想をするのならば、機械的な祈りから脱出する事ができます。
マリア様は、「15分」の黙想と言います。何故でしょうか?
何故かというと、皆さんの生活でよくなさっている事は大体15分かかります。たとえばミサの御説教は、「15分以上長く御説教をしてはいけない」と御説教の師は言います。「ミサの直後の公教要理は、15分以上やってはいけない」とあります。御聖体拝領の後の感謝の祈りは15分。終課も大体15分。それから朝課や、或いは晩課を唱える時には大体15分。朝起きて着替えたり準備をするのも15分。朝食のコーヒーは15分。大学での授業の間の休みは15分。ロシアには或いは東洋では講話は必ず15分遅れて始まる、これはアカデミックな15分。「もしも15分遅れて始めるのではなくて、時間通りに始めたとしたら、学術的ではない」と言います。これはポーランドだけの話で、ドイツではこういう事はありません。(^^ですからよくある事は15分くらいの時間が、日常生活でそいういう細切れの時間がよく有り得るという事です。
そこでマリア様は、「その時に15分黙想しなさい」と仰っています。ですから15分という時間を日常の中で見つけて、黙想なさって下さい。朝のお祈り15分。ですから日中に15分の休憩があって、夕方に15分終課。このマリア様の言っている15分というのは、60秒が15倍の何秒何秒というその正確な秒計自体の15分というよりは、「約15分」という風に考えて下さい。
この15分で一体何を考え黙想するか、というテーマを与えて下さいます。マリア様はそのテーマとして、「15の玄義を黙想する」という事を仰っています。マリア様はロザリオについての御出現の事が何回もありましたけれども、「15の玄義を黙想する」という風にはっきりと仰った事はありませんでした。しかしこの15の玄義には、イエズス様の御生涯と御死去と御復活の要点があります。例えばカルワリオのイエズス様の十字架のもとに、マリア様が立っておられる、その愛と、信仰と、希望の徳をそれを眺める、黙想する、15分それで過ごす。これで良いのです。
それから最後に、5回続けて初土曜日にロザリオを唱える事を求めます。
これが外的な、聖母の汚れなき御心に対する信心をどうやって行うかという事です。
もちろんこの信心を、私たちの日常の生活に適応させなければなりません。1ヶ月に1回だけという事ではなくて、それを毎日の生活に生かさなければなりません。そこでマリア様の言ったように、毎日ロザリオを唱える、毎日黙想の時間を取る、イエズス様とマリア様の神秘を黙想する、もしもミサに与れない時には霊的な聖体拝領をする。
たとえミサがなかったとしても、霊的な聖体拝領をする事は毎日のようにできます。そういうきれいな鳥がたくさん飛んでいるのをご覧になりますか。マニラで一体どのような事があるか、その例を出しますので、どうやったら毎日霊的聖体拝領できるか参考にして下さい。
マニラの教会にはすずめが入って来ます。毎朝、私たちと一緒に聖務日課を唱えるのにピーチクパーチク言っています。何故かというと、マニラのドアにはガラスがないので、それが入って来ます。
皆さんの霊魂もこの鳥と同じです。そこで体は皆さんの家に居たとしても、霊的には霊魂をきれいな教会にして、シュテーリン神父様がミサをしている所で、そしてきれいな御聖櫃の近くに行って、ここにピタリと止まって、この御聖櫃を眺めて下さい。そしてこの霊的に跪いて、霊的に御聖体拝領をして下さい。でも霊的にしたとしても、本当に御聖体拝領の効果があります。それが教会の教えです。そこで霊的に何度も1日に、毎日御聖体拝領をする事ができます。
告解で一番大切な要素は、悔悛です。そこで私たちはたとえ実際に告解の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、悔悛の秘蹟を受ける事ができなかったとしても、痛悔の念を起こす事によって、告解の効果を得る事ができます。
これらはみな、償いの精神をもって実践なさって下さい。
このファチマの子供たちがやっているように、日々多くの射祷を唱える事によって、完壁なマリア様の汚れなき御心に対する信心を行う事ができます。
もしも皆さんがこの信心を実践するならば、マリア様は皆さんの救いを約束されます。マリア様が皆さんの死のその間際に、近くに現存して下さいます、来て下さいます。
この信心をするならば、皆さんが今から死に至ろうとする時に、何が起こるか分かりますか?今この息を引き取ろうとするこの瞬間、天主様の御前で皆さんはたった一人ぼっちで、孤独に現れます。もしもこの信心を実践するならば、マリア様は約束します、皆さんは一人ではない、マリア様と共に一緒にいる、と。その私たちが今から永遠の門に行こう、飛び出とうとするその瞬間、悪魔は私たちを絶望させようと、或いは地獄の門に引きずり込もうとしますけれども、その瞬間、マリア様が立っ下さいますから、悪魔は私たちに何も害を及ぼす事ができません。
この私たちがこの汚れなき御心の信心を実践した、その報いは何でしょうか?
それは、何千何万の多くの聖人たちから選ばれて、天主様の最も近くに置かれる花々のように、貴重な存在となるという事です。
皆さん、私が皆さんの為に昨日今日した事のそれを支払ってもらいたいと思います。それはこれは私の為に、もしも皆さんと日本に住んでいる多くの人の為に、この本が是非日本語に訳される事を望みます。もしもこれが印刷されて訳されたら、また日本にやって来ます。2冊訳されたら、2回来ます。(^^)/
ご清聴ありがとうございます。