アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ファチマ100周年」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年10月15日 大阪の説教
ファチマ100周年
親愛なる兄弟の皆さん、
二日前、私たちはファチマの偉大なる奇蹟の100周年を迎えました。これは聖母の六回にわたるご出現の締めくくりに起きたことで、二十世紀の教会に非常に大きな影響を与えたのであり、今も与え続けています。聖母は、何百万人もの信者たちが信仰を守るのを助けてくださいました。しかし、他の人々は聖母のメッセージを拒否し、無視してきました。そのため、他の何百万もの霊魂に大きな害をもたらしました。聖母が非難した大きな悪の一つは共産主義であり、聖母は、それに対する治療薬をもたらすために来られたのです。
共産主義の根っこは物質主義であり、人間の霊的な次元を完全に拒否することです。共産主義にとっては、人間は単なる化学物質の集まりにすぎません。このことは、人間の自由を、天主に似せてつくられた人間の尊厳を、根本的に破壊します。またすべての道徳を根本的に破壊し、これまでにない最も残忍な暴政へと扉を開くことになります。実際、人間は、スターリンや毛沢東といった良心の呵責のない指導者たちによって思いのままに使われ、捨てられうる単なる機械になります。これらの指導者は、何百万もの人々を恐怖の強制収容所へと追放することをなんとも思わなかったのです。
その最初のご出現から、ファチマの聖母はこの物質主義の誤りを明らかになさいました。実際、聖母のあいさつは単純でした。「私は天国からの者です!」。これによって、単純かつ美しく天主の霊的な国の存在を確認されたのです。人間は霊魂を持っており、天国での最高の高みにある霊的な幸せへと呼ばれているのです!
教皇ピオ十一世は、1937年3月19日の回勅「ディヴィニ・レデンプトリス」の中で共産主義を非難しました。教皇はまず、共産主義は「地上の楽園」、つまり地上での完全な幸せを約束している、と指摘することから始めます。その約束の間違っているところは、物質主義がそんな楽園を完全に破壊してしまうということです。単なる機械が、どのような「幸せ」を持てるというのでしょうか? もし人間が単なる化学物質の塊であるのならば、どのような幸せを持てるというのでしょうか? さらに言えば、共産主義は原罪を完全に無視しており、原罪に対する治療薬を全く提供しません。天主は確かに私たちを地上の楽園につくられましたが、私たちは罪によってそれを失いました。聖母は罪のないお方であり、あらゆる罪を免れ、特に原罪を免れておられます。聖母は、原罪に対する治療薬を持って来られます。それこそ私たちの主イエズス・キリストです! ほかに治療薬はありません。「この世においてわれわれの救われる名は、そのほかにはない」(使徒行録4章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に対する謙遜な素直さによって、汚れなき御心に倣うよう呼びかけておられます。これこそが、罪に対する治療薬です。
共産主義は、物質的な力による闘争だけによって進歩がもたらされると言い張り、それゆえに、その進歩を加速させるために、闘争を促進し、「階級闘争」をするよう説教します。階級闘争以上に兄弟愛に反するものはありません! 私たちの主イエズス・キリストはこう説教されました。「隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章39節)。共産主義はこう説教しています。「隣人と戦え!」。そのような闘争は破壊するものであって、建設するものではありません。そのような闘争は憎しみを増大させます。それは悪に悪で報いるのであって、決して不正義を解決することはありませんでした。
その反対に、聖母は治療薬をもたらされました。それは、「悪に悪を返すことなく」(ペトロ前書3章9節)、むしろ「善をもって悪に勝つ」(ローマ12章21節)のです。特に犠牲の善をもって。「あなたたちは喜んで自分を天主にお捧げし、天主があなたたちに送られるすべての苦しみを、天主に対してなされる罪の償いのわざとして、罪びとの回心の嘆願として、喜んで耐え忍びますか?」。善き御母は、ご自分の子どもたちが戦うのをご覧になりたくはないのです。聖母は平和を、まことの平和をもたらされます。まことの秩序をもった平安です。徳による秩序、まことの正義による秩序です。人間の間の正義のためには、まず人間が天主に、私たちの主イエズス・キリストに服従することが必要です。私たちが天主をたたえることもしないならば、いかにして隣人を敬うのでしょうか? 聖母は、まことの回心によって、まず天主とともにある平和をもたらされ、そのあと、人間の間の平和をもたらされるのです。ファチマにおいて、聖母は翌年には第一次世界大戦が終わることを告知されました。聖母は、ポルトガルを第二次世界大戦から保護なさいました。
共産主義は階級をなくすと言い張っていますが、実践においては、共産党の党員という新たな支配階級を作り出します。彼らは、ロシアでも中国でもそうであったように、結局は自分たち以外の人々を完全に虐げるのです。それはなぜでしょうか? すべては党のために、という全体主義だからです! 党は、労働者階級に善をもたらすとされていますが、実際には、党は、ほかのすべての人の労働を搾取して、党員にすべての富をもたらすのです。
その反対に、聖母は人間の間にまことの一致、まことの平等をもたらされます。聖母は等しくすべての人の母であり、私たち一人一人を気に掛けてくださいます。聖母は、多くを受けた人々に対して、少ししか受けなかった人々へ与えるようお求めになります。これが、天主の御摂理の一般原則です。天主は、全ての人に平等にお与えにはなりませんが、愛徳が全ての人を支配するために、ご自分の善を賢明にお配りになります。天主が一部の人々に多くをお与えになるとき、天主は彼らに対して、今度は少ししか受けていない人々に与えるようお求めになっています。天主は両親に対して、子どもたちに与えるようお求めになっています。天主は健康な人々に対して、病人の世話をするようお求めになっています。天主は強い者に対して、弱い者を保護するようお求めになっています。天主は富める者に対して、貧しい者に与えるようお求めになっています。天主は知識のある者に対して、無知な者に教えるようお求めになっています。さらにもっと重要なことには、天主は、より信心深い人たちに、罪びとのために祈るようお求めになっています。これは、聖母がファチマではっきりと強く言われたことです。「罪びとたちのために自分を犠牲にしなさい…汚れなき御心に対して犯される罪の償いに犠牲を捧げ、罪びとたちの回心のために祈りなさい」。そのような愛徳は、誰を搾取するのもなく、むしろマリアの汚れなき御心を通してイエズスの聖心にすべての人を結びつけるのです。
共産主義のもう一つの恐ろしい面は、うそをつくことです。彼らは天主を信じていませんから、主への恐れを持たず、うその濫用から逃げることをしません。彼らにはうそが悪いという考えさえありません。共産主義において真理は存在せず、たとえ現実からかけ離れていたとしても、党に利益をもたらすものが今正しいことなのです。彼らは矛盾を許さないという原則を拒否するので、きょう一つのことを言い、翌日にはそれと反対のことを言うことを全くためらいません。その結果として、彼らはうそに満ちた宣伝を繰り広げ、歴史を歪曲し、事実を歪曲し、誰であれ共産主義の行く手に立ちはだかる者、特にカトリック教会に対するうその告発を繰り広げたのです。そこには、「うその父」である悪魔のわざがあることが分かります。「彼は初めから人殺しだった。彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき、心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。
その反対に、私たちは、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)私たちの主イエズス・キリストを見いだします。主は「恩寵と真理に満ちて」(ヨハネ1章14節)おられます。主はこう言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのために世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主は私たちに、天主に関する真理、三つの天主のペルソナに関する真理、罪びとであるにもかかわらず悔い改めに呼ばれ、永遠のいのちに呼ばれている私たち自身に関する真理についての知識を与えてくださいます。ですから、主は聖パウロを通して私たちに命じられます。「偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロはキリスト教徒のいのちを次のように要約します。「愛において真理を行う」(エフェゾ4章15節)。聖ヨハネはこう結論づけます。「キリストが真理であると証明するのは霊である」(ヨハネ第一5章6節)。
聖母は私たちに、真理そのものである私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました! エバは、偽りの父である悪魔に耳を傾け、悪魔の偽りのせいですべての人類を死へと導いてしまいました。聖母は善き天使に耳を傾け、天主からの真理を信じ、私たちを悪魔の偽りから救うために真理であるイエズス・キリストを与えてくださいました。共産主義のうそは、聖母や聖母への信心を持つ人々には嫌悪を抱かせるものです。私たちは共産主義のうそをよく知り、今でもいろいろなところで広く蔓延しているその宣伝をあたりまえのことと考えないようにしなければなりません。
多くの聖職者が共産主義に妥協したのは歴史上の事実です。これは二つの原因によるものでした。第一に、ロシアの共産主義の指導者たちは、教会を内部から破壊するために、仲間を神学校に送り込むことを決定しました。この謀略は1940年代の後半に明らかになりましたが、そのときまでには、すでに彼らの中には教会内部で活動する者たちがいたのです。第二に、この世を愛し、この世を喜ばせようと望む多くの者の中には弱さがありました。彼らは、最初に教会に侵入した者たちの誘惑に、簡単に耳を貸してしまったのです。そののちには、自分の霊的な義務を放棄して、工場で働こうとする「労働司祭」がいました。彼らは、実践を通じて共産主義者の代理人となったのです! また、フランスの「テモワニャージュ・クレティエン(キリスト教徒の証言)」のような1950年代のカトリックの新聞を読めば、共産主義に好意的で、共産主義者が差し伸べた(見た目には)「友情の手」を受け入れる多くの記事があったのが分かります。いったいどうして、彼らは悪魔の「友情の手」を信じることができたのでしょうか? しかしながら、教皇ピオ十一世は、そんな態度を非常に強く断罪し、回勅でこう述べました。「尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。共産主義は本質的に邪悪であって、キリスト教文明を救いたいと望む者は、誰も、いかなる領域においても、これと協力してはならないのである」(ディヴィニ・レデンプトリス58番)
しかしながら、教皇ピオ十一世自身は聖母に協力したり、ファチマを広めたりはしませんでした。教皇ピオ十二世は、確かにファチマでの聖母のお求めに応える一つの努力として世界を汚れなき御心に奉献しましたが、それは正確には聖母がお求めになったものではありませんでした。聖母は、はっきりとロシアが言及されること、世界中のすべての司教も教皇とともにそれを行うことを望まれたのです。そのあと1960年は聖母が第三の秘密を公表するよう決められた期限でしたが、聖母のお求めは引き出しの中に隠されたまま、聞き入れられませんでした。その結果は、第二バチカン公会議という悲劇であり、ルチアが言うところの正真正銘の「悪魔による誤った方向づけ」となったのです。
90年代の初めに、ロシアでの直接的な迫害は少なくなりましたが、共産主義の誤謬、特に物質主義の誤謬は西側世界に大きく広がっていきました。昔は真にキリスト教的であったヨーロッパの文化は、この物質主義および、共産主義の一形態である社会主義によって破壊されつつあります。聖母が預言なさったように、共産主義の誤謬は全世界に広がりつつあります。今やかつてないほど、私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を得て、私たちの病んでいる世界、そして教会に治療薬をもたらすために、ファチマの聖母のご保護を必要としているのです。
では実際に、私たちは何をすべきなのでしょうか? 第一に、信仰を増してくださるようファチマの聖母に祈りましょう。それは、来世すなわち天国と地獄が本当にあるということへの信仰です。聖母は、ご自分が天国から来たと言われましたが、それによって、聖母はある意味で私たちに天国を少しだけ見せてくださったのです。また、聖母は子どもたちに非常に生々しい方法で地獄をお見せになりました。「婦人は、その前のふた月になさったように、両手をさらに広げられました。光の光線が地面を突き抜けていったように思われ、私たちにはそれがまるで火の海のように見えました。悪魔と人間の形をした霊魂がその火に投げ込まれており、透明な燃えさしに似て、みんな黒または光沢のある青銅のようで、自分たちの内部から出る炎によっておおきな煙の雲と共に宙に浮いており、次には痛みと絶望による悲鳴とうめき声のうちに大きな火の中の火の粉のように重さも安定もなくあらゆる側に落ちていました。私たちは恐ろしくなって恐怖で震えました。悪魔は、恐ろしくて見たことのない動物のような怖くて不快なもので、燃えた石炭のように黒くて透明であり、それによって霊魂と区別できました。恐ろしくて助けを求めるように私たちが聖母の方を見上げると、聖母は大変優しく、しかし大変悲しそうにこうおっしゃいました。あなたたちは、あわれな罪びとの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主は、私の汚れなき心への信心をこの世に確立することをお望みです」。
これら二つの単純な真理に対する強い信仰が、私たちの生き方を真っすぐにするのに大変役立ちます。天国は、いかなる努力をしても行くに値するのです! 「実に私たちの受ける一時的な軽い患難は、それとつり合わないほどの大きな永遠の光栄の準備をする」(コリント後書4章17節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。そして、罪は地獄に導くがゆえに最も愚かなことなのです。「よし全世界をもうけて、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。
第二に、聖母がお求めになっていることを行い、忘れないように毎日ロザリオを祈りましょう。できるならば、家族一緒に祈りましょう。子どもたちが小さいならば、少なくとも子どもたちと一緒にロザリオの一部を唱え、親自身がロザリオを最後まで唱えましょう。マリアの汚れなき御心に対する特別な信心を持ち、罪と一切妥協することなく、聖母の清さに倣うよう努力しましょう。特に初土曜日にその信心を行い、できるならば、聖母への特別な祈りと聖体拝領もしましょう。
第三に、宣教師となりましょう! 家族の中で、職場の中で、隣人の中で、友人知人の中で、この世の誤謬、特に共産主義の誤謬と妥協することなく、恐れずに信仰を告白しましょう。「あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。特に、祈りと犠牲によって宣教師となりましょう。「罪びとのための自分を犠牲として捧げなさい。特に犠牲を捧げるときに、『ああイエズスよ、これは御身への愛のため、罪びとの回心のため、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためです』と唱えなさい」。罪びとの回心に対して聖母が大きな関心をお持ちなのは、ファチマで明らかになっています。聖母は気に掛けておられます! 聖母は罪びとの救いをお望みです。私たちもそれを望むべきですが、それを実際に望んでいますか? 罪びとの回心のために全生涯を奉献する司祭、修道士、修道女の召命のために祈りましょう!
ヤシンタとフランシスコに祈りましょう。聖母が信仰、信心、熱心さ、使徒的愛徳、そして犠牲の精神というこれらの恩寵を、私たちのために取り成してくださるよう、彼らが聖母にお願いしてくれますように! これらの聖寵はすべて、私たちがミサの聖なる犠牲において得ることができるものです。聖母が私たちの心を主のみわざに対して開いてくださり、その結果、主がご自身によって、主の愛徳によって私たちを満たしてくださり、私たちが霊魂たちの救いのために主の御手の道具となることができますように! アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ファチマ100周年」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年10月15日 大阪の説教
ファチマ100周年
親愛なる兄弟の皆さん、
二日前、私たちはファチマの偉大なる奇蹟の100周年を迎えました。これは聖母の六回にわたるご出現の締めくくりに起きたことで、二十世紀の教会に非常に大きな影響を与えたのであり、今も与え続けています。聖母は、何百万人もの信者たちが信仰を守るのを助けてくださいました。しかし、他の人々は聖母のメッセージを拒否し、無視してきました。そのため、他の何百万もの霊魂に大きな害をもたらしました。聖母が非難した大きな悪の一つは共産主義であり、聖母は、それに対する治療薬をもたらすために来られたのです。
共産主義の根っこは物質主義であり、人間の霊的な次元を完全に拒否することです。共産主義にとっては、人間は単なる化学物質の集まりにすぎません。このことは、人間の自由を、天主に似せてつくられた人間の尊厳を、根本的に破壊します。またすべての道徳を根本的に破壊し、これまでにない最も残忍な暴政へと扉を開くことになります。実際、人間は、スターリンや毛沢東といった良心の呵責のない指導者たちによって思いのままに使われ、捨てられうる単なる機械になります。これらの指導者は、何百万もの人々を恐怖の強制収容所へと追放することをなんとも思わなかったのです。
その最初のご出現から、ファチマの聖母はこの物質主義の誤りを明らかになさいました。実際、聖母のあいさつは単純でした。「私は天国からの者です!」。これによって、単純かつ美しく天主の霊的な国の存在を確認されたのです。人間は霊魂を持っており、天国での最高の高みにある霊的な幸せへと呼ばれているのです!
教皇ピオ十一世は、1937年3月19日の回勅「ディヴィニ・レデンプトリス」の中で共産主義を非難しました。教皇はまず、共産主義は「地上の楽園」、つまり地上での完全な幸せを約束している、と指摘することから始めます。その約束の間違っているところは、物質主義がそんな楽園を完全に破壊してしまうということです。単なる機械が、どのような「幸せ」を持てるというのでしょうか? もし人間が単なる化学物質の塊であるのならば、どのような幸せを持てるというのでしょうか? さらに言えば、共産主義は原罪を完全に無視しており、原罪に対する治療薬を全く提供しません。天主は確かに私たちを地上の楽園につくられましたが、私たちは罪によってそれを失いました。聖母は罪のないお方であり、あらゆる罪を免れ、特に原罪を免れておられます。聖母は、原罪に対する治療薬を持って来られます。それこそ私たちの主イエズス・キリストです! ほかに治療薬はありません。「この世においてわれわれの救われる名は、そのほかにはない」(使徒行録4章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に対する謙遜な素直さによって、汚れなき御心に倣うよう呼びかけておられます。これこそが、罪に対する治療薬です。
共産主義は、物質的な力による闘争だけによって進歩がもたらされると言い張り、それゆえに、その進歩を加速させるために、闘争を促進し、「階級闘争」をするよう説教します。階級闘争以上に兄弟愛に反するものはありません! 私たちの主イエズス・キリストはこう説教されました。「隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章39節)。共産主義はこう説教しています。「隣人と戦え!」。そのような闘争は破壊するものであって、建設するものではありません。そのような闘争は憎しみを増大させます。それは悪に悪で報いるのであって、決して不正義を解決することはありませんでした。
その反対に、聖母は治療薬をもたらされました。それは、「悪に悪を返すことなく」(ペトロ前書3章9節)、むしろ「善をもって悪に勝つ」(ローマ12章21節)のです。特に犠牲の善をもって。「あなたたちは喜んで自分を天主にお捧げし、天主があなたたちに送られるすべての苦しみを、天主に対してなされる罪の償いのわざとして、罪びとの回心の嘆願として、喜んで耐え忍びますか?」。善き御母は、ご自分の子どもたちが戦うのをご覧になりたくはないのです。聖母は平和を、まことの平和をもたらされます。まことの秩序をもった平安です。徳による秩序、まことの正義による秩序です。人間の間の正義のためには、まず人間が天主に、私たちの主イエズス・キリストに服従することが必要です。私たちが天主をたたえることもしないならば、いかにして隣人を敬うのでしょうか? 聖母は、まことの回心によって、まず天主とともにある平和をもたらされ、そのあと、人間の間の平和をもたらされるのです。ファチマにおいて、聖母は翌年には第一次世界大戦が終わることを告知されました。聖母は、ポルトガルを第二次世界大戦から保護なさいました。
共産主義は階級をなくすと言い張っていますが、実践においては、共産党の党員という新たな支配階級を作り出します。彼らは、ロシアでも中国でもそうであったように、結局は自分たち以外の人々を完全に虐げるのです。それはなぜでしょうか? すべては党のために、という全体主義だからです! 党は、労働者階級に善をもたらすとされていますが、実際には、党は、ほかのすべての人の労働を搾取して、党員にすべての富をもたらすのです。
その反対に、聖母は人間の間にまことの一致、まことの平等をもたらされます。聖母は等しくすべての人の母であり、私たち一人一人を気に掛けてくださいます。聖母は、多くを受けた人々に対して、少ししか受けなかった人々へ与えるようお求めになります。これが、天主の御摂理の一般原則です。天主は、全ての人に平等にお与えにはなりませんが、愛徳が全ての人を支配するために、ご自分の善を賢明にお配りになります。天主が一部の人々に多くをお与えになるとき、天主は彼らに対して、今度は少ししか受けていない人々に与えるようお求めになっています。天主は両親に対して、子どもたちに与えるようお求めになっています。天主は健康な人々に対して、病人の世話をするようお求めになっています。天主は強い者に対して、弱い者を保護するようお求めになっています。天主は富める者に対して、貧しい者に与えるようお求めになっています。天主は知識のある者に対して、無知な者に教えるようお求めになっています。さらにもっと重要なことには、天主は、より信心深い人たちに、罪びとのために祈るようお求めになっています。これは、聖母がファチマではっきりと強く言われたことです。「罪びとたちのために自分を犠牲にしなさい…汚れなき御心に対して犯される罪の償いに犠牲を捧げ、罪びとたちの回心のために祈りなさい」。そのような愛徳は、誰を搾取するのもなく、むしろマリアの汚れなき御心を通してイエズスの聖心にすべての人を結びつけるのです。
共産主義のもう一つの恐ろしい面は、うそをつくことです。彼らは天主を信じていませんから、主への恐れを持たず、うその濫用から逃げることをしません。彼らにはうそが悪いという考えさえありません。共産主義において真理は存在せず、たとえ現実からかけ離れていたとしても、党に利益をもたらすものが今正しいことなのです。彼らは矛盾を許さないという原則を拒否するので、きょう一つのことを言い、翌日にはそれと反対のことを言うことを全くためらいません。その結果として、彼らはうそに満ちた宣伝を繰り広げ、歴史を歪曲し、事実を歪曲し、誰であれ共産主義の行く手に立ちはだかる者、特にカトリック教会に対するうその告発を繰り広げたのです。そこには、「うその父」である悪魔のわざがあることが分かります。「彼は初めから人殺しだった。彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき、心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。
その反対に、私たちは、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)私たちの主イエズス・キリストを見いだします。主は「恩寵と真理に満ちて」(ヨハネ1章14節)おられます。主はこう言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのために世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主は私たちに、天主に関する真理、三つの天主のペルソナに関する真理、罪びとであるにもかかわらず悔い改めに呼ばれ、永遠のいのちに呼ばれている私たち自身に関する真理についての知識を与えてくださいます。ですから、主は聖パウロを通して私たちに命じられます。「偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロはキリスト教徒のいのちを次のように要約します。「愛において真理を行う」(エフェゾ4章15節)。聖ヨハネはこう結論づけます。「キリストが真理であると証明するのは霊である」(ヨハネ第一5章6節)。
聖母は私たちに、真理そのものである私たちの主イエズス・キリストを与えてくださいました! エバは、偽りの父である悪魔に耳を傾け、悪魔の偽りのせいですべての人類を死へと導いてしまいました。聖母は善き天使に耳を傾け、天主からの真理を信じ、私たちを悪魔の偽りから救うために真理であるイエズス・キリストを与えてくださいました。共産主義のうそは、聖母や聖母への信心を持つ人々には嫌悪を抱かせるものです。私たちは共産主義のうそをよく知り、今でもいろいろなところで広く蔓延しているその宣伝をあたりまえのことと考えないようにしなければなりません。
多くの聖職者が共産主義に妥協したのは歴史上の事実です。これは二つの原因によるものでした。第一に、ロシアの共産主義の指導者たちは、教会を内部から破壊するために、仲間を神学校に送り込むことを決定しました。この謀略は1940年代の後半に明らかになりましたが、そのときまでには、すでに彼らの中には教会内部で活動する者たちがいたのです。第二に、この世を愛し、この世を喜ばせようと望む多くの者の中には弱さがありました。彼らは、最初に教会に侵入した者たちの誘惑に、簡単に耳を貸してしまったのです。そののちには、自分の霊的な義務を放棄して、工場で働こうとする「労働司祭」がいました。彼らは、実践を通じて共産主義者の代理人となったのです! また、フランスの「テモワニャージュ・クレティエン(キリスト教徒の証言)」のような1950年代のカトリックの新聞を読めば、共産主義に好意的で、共産主義者が差し伸べた(見た目には)「友情の手」を受け入れる多くの記事があったのが分かります。いったいどうして、彼らは悪魔の「友情の手」を信じることができたのでしょうか? しかしながら、教皇ピオ十一世は、そんな態度を非常に強く断罪し、回勅でこう述べました。「尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。共産主義は本質的に邪悪であって、キリスト教文明を救いたいと望む者は、誰も、いかなる領域においても、これと協力してはならないのである」(ディヴィニ・レデンプトリス58番)
しかしながら、教皇ピオ十一世自身は聖母に協力したり、ファチマを広めたりはしませんでした。教皇ピオ十二世は、確かにファチマでの聖母のお求めに応える一つの努力として世界を汚れなき御心に奉献しましたが、それは正確には聖母がお求めになったものではありませんでした。聖母は、はっきりとロシアが言及されること、世界中のすべての司教も教皇とともにそれを行うことを望まれたのです。そのあと1960年は聖母が第三の秘密を公表するよう決められた期限でしたが、聖母のお求めは引き出しの中に隠されたまま、聞き入れられませんでした。その結果は、第二バチカン公会議という悲劇であり、ルチアが言うところの正真正銘の「悪魔による誤った方向づけ」となったのです。
90年代の初めに、ロシアでの直接的な迫害は少なくなりましたが、共産主義の誤謬、特に物質主義の誤謬は西側世界に大きく広がっていきました。昔は真にキリスト教的であったヨーロッパの文化は、この物質主義および、共産主義の一形態である社会主義によって破壊されつつあります。聖母が預言なさったように、共産主義の誤謬は全世界に広がりつつあります。今やかつてないほど、私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を得て、私たちの病んでいる世界、そして教会に治療薬をもたらすために、ファチマの聖母のご保護を必要としているのです。
では実際に、私たちは何をすべきなのでしょうか? 第一に、信仰を増してくださるようファチマの聖母に祈りましょう。それは、来世すなわち天国と地獄が本当にあるということへの信仰です。聖母は、ご自分が天国から来たと言われましたが、それによって、聖母はある意味で私たちに天国を少しだけ見せてくださったのです。また、聖母は子どもたちに非常に生々しい方法で地獄をお見せになりました。「婦人は、その前のふた月になさったように、両手をさらに広げられました。光の光線が地面を突き抜けていったように思われ、私たちにはそれがまるで火の海のように見えました。悪魔と人間の形をした霊魂がその火に投げ込まれており、透明な燃えさしに似て、みんな黒または光沢のある青銅のようで、自分たちの内部から出る炎によっておおきな煙の雲と共に宙に浮いており、次には痛みと絶望による悲鳴とうめき声のうちに大きな火の中の火の粉のように重さも安定もなくあらゆる側に落ちていました。私たちは恐ろしくなって恐怖で震えました。悪魔は、恐ろしくて見たことのない動物のような怖くて不快なもので、燃えた石炭のように黒くて透明であり、それによって霊魂と区別できました。恐ろしくて助けを求めるように私たちが聖母の方を見上げると、聖母は大変優しく、しかし大変悲しそうにこうおっしゃいました。あなたたちは、あわれな罪びとの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主は、私の汚れなき心への信心をこの世に確立することをお望みです」。
これら二つの単純な真理に対する強い信仰が、私たちの生き方を真っすぐにするのに大変役立ちます。天国は、いかなる努力をしても行くに値するのです! 「実に私たちの受ける一時的な軽い患難は、それとつり合わないほどの大きな永遠の光栄の準備をする」(コリント後書4章17節)。「今の時の苦しみは、私たちにおいて現れるであろう光栄とは比較にならないと思う」(ローマ8章18節)。そして、罪は地獄に導くがゆえに最も愚かなことなのです。「よし全世界をもうけて、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。
第二に、聖母がお求めになっていることを行い、忘れないように毎日ロザリオを祈りましょう。できるならば、家族一緒に祈りましょう。子どもたちが小さいならば、少なくとも子どもたちと一緒にロザリオの一部を唱え、親自身がロザリオを最後まで唱えましょう。マリアの汚れなき御心に対する特別な信心を持ち、罪と一切妥協することなく、聖母の清さに倣うよう努力しましょう。特に初土曜日にその信心を行い、できるならば、聖母への特別な祈りと聖体拝領もしましょう。
第三に、宣教師となりましょう! 家族の中で、職場の中で、隣人の中で、友人知人の中で、この世の誤謬、特に共産主義の誤謬と妥協することなく、恐れずに信仰を告白しましょう。「あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はそのよい行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。特に、祈りと犠牲によって宣教師となりましょう。「罪びとのための自分を犠牲として捧げなさい。特に犠牲を捧げるときに、『ああイエズスよ、これは御身への愛のため、罪びとの回心のため、マリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためです』と唱えなさい」。罪びとの回心に対して聖母が大きな関心をお持ちなのは、ファチマで明らかになっています。聖母は気に掛けておられます! 聖母は罪びとの救いをお望みです。私たちもそれを望むべきですが、それを実際に望んでいますか? 罪びとの回心のために全生涯を奉献する司祭、修道士、修道女の召命のために祈りましょう!
ヤシンタとフランシスコに祈りましょう。聖母が信仰、信心、熱心さ、使徒的愛徳、そして犠牲の精神というこれらの恩寵を、私たちのために取り成してくださるよう、彼らが聖母にお願いしてくれますように! これらの聖寵はすべて、私たちがミサの聖なる犠牲において得ることができるものです。聖母が私たちの心を主のみわざに対して開いてくださり、その結果、主がご自身によって、主の愛徳によって私たちを満たしてくださり、私たちが霊魂たちの救いのために主の御手の道具となることができますように! アーメン。