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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2017年7月2日(主) 「聖ペトロの舟と魚」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年7月2日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。

2017年7月2日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年7月2日、聖霊降臨後第4主日のミサを行っています。そしてマリア様のご訪問の祝日の記念も行っています。

今日このミサの後には、14時30分からいつもの通りに公教要理があります。今回も聖書の舞台の背景となるパレスチナについて、歴史や地理などの理解を深めていく事にします。特にヘロデ大王やその子供たち、イエズス様の時代に出てくるような人物について今回は考察します。

16時から晩課があります。明日と明後日とは、朝7時からミサがあります、月曜日と火曜日です。

実は来週の主日もミサをする予定でした。何故なら、休暇を取って帰省する予定だったからです。しかし残念ながらその休暇をどうしても縮めなければならなくなって、そこで確かに帰省する事はするのですけれども、主日にはマニラに行かなければならなくなりました。そこでここで主日のミサをする事ができずに、非常に残念に思います。その代わりに火曜日の朝にもミサがありますので、もしもよろしかったらいらして下さい。

そして再来週の7月16日の主日にも予定通りミサがありまして、17日の海の日にも朝10時30分から主日と同じようにここでミサがあります。再来週は、主日と月曜日に10時30分からミサがあります。その後にはマーチ・フォー・ライフというのが計画されています。私も参加したいと思っていますので、どうぞ皆さんも、もしよろしかったらいらして下さい。



“Ex hoc iam hómines eris cápiens.”
「今からお前たちは、人を漁る者となるだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主が、新しいイメージを私たちに出しています。漁る者、漁夫、漁師。

そこで、何で一体そうなるのか?実はそのちょうど、聖ペトロとパウロの殉教の記念がちょうどこの頃、6月29日ですけれども、毎年あるのでその事もあって、御摂理的に教会はこの「人を漁る者となるだろう」というペトロの最初の召し出しの言葉を、私たちが黙想するようにとイメージを出しています。

そこでこの典礼の精神に従って、第1のポイントには、教会の出しているイメージはどんなものなのだろうか?

第2に、では聖ペトロのその与えられた役割というのは一体何なのか?

これを2点を黙想して、次に私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教会は、「聖霊降臨」という三位一体の私たちに与える特別の賜物を黙想した後に、更なる愛のイメージを、更なる愛を黙想しました。それが「御聖体」でした、御聖体の秘跡でした。そしてその御聖体の秘跡の後に、御聖体の秘跡へと私たちを招く寛大な晩餐を準備するその人「イエズス様の聖心」について黙想しました。実は先週の主日には教会は、「良き牧者」のイメージを私たちに出しました。

聖霊を与え、御自分の体を与え、そして良き牧者として、人類を探しにこの地上までやって来たこの牧者のイメージを、私たちにありありと見せつけたのですけれども、教会は今度は、イエズス様が与えた別の画像を見せてくれます。それは「漁る者」です、「漁夫」です。そこで今日の福音に従って、このイメージを黙想する事に致しましょう。

その福音によると、一晩中一生懸命、魚を捕ろうと、ゲネサレトのガリレアの湖で、夜中くたくたになって働いて、結局一匹も取れずに、「あぁ、一体どれだけの苦労をした事か」という事でがっかりして、岸で網を洗っているペトロやアンドレアやヨハネなど、2艘の舟があった所をイエズス様がやって来ます。

そしてイエズス様のお話を御言葉を聞こうと、多くの群衆がイエズス様の後をぞろぞろぞろぞろとやって来ました。すると彼らに自分の声がよく聞こえるように、イエズス様はペトロの舟を選んで、最初にその群集たちに説教を始めます。ペトロの舟に乗って説教を始めた、というのは特別な意味がありました。

そして説教が終わった後に、「さぁ、沖に出て網を降ろせ。」「主よ、私たちは一晩中一生懸命、光を灯して、魚を誘って、一生懸命やったのですけれども、何も釣れませんでした、一匹も釣れませんでした。でも仰るのですから行きましょう」と言って網を降ろすと、福音書によるとラテン語によると、「網は裂けていた。“rumpebátur”」

あまりにも重くて、舟が沈みそうになってしまうのです。それを見て「これはやばい」と思った、もう一艘あった舟が助けに行って、その2艘の舟が沈みそうになるほど、ものすごい大量の魚が捕れたのです(conclusérunt píscium multitúdinem copiósam)。それを見て、「え!?何でこんなにも? こんな事が起こるのか!?」と思って、「主よ、私から離れて下さい」と言うと、するとイエズス様はペトロに、「いや、何も恐れる事はない。これからお前は、人々を漁るだろう。」「人々を魚釣るだろう」と言われたのです。

ここに、聖ペトロの祝日と重なる、イエズス様が聖ペトロに特別の使命を与える、という前兆がイメージが表れています。

「ペトロの舟」、イエズス様が最初にお説教を始めたその舟は、もちろん「カトリック教会」です。それによってイエズス様がそこに乗りつつ、全世界において真理の御言葉を語りかける、カトリック教会のイメージです。

「網」、これはイエズス様の命令によって人々を水の中から救い出そうとして、そして霊魂を救おうとする「使徒たちの働き」です。使徒たちは今ではその後継者、司教様たちや或いは司祭たちに助けられています。

私たちは「小さな魚」だ、とテルトゥリアノは書いています、「私たちは小さな魚たちだ。キリストの魚だ。ちょうど網で救われたのだ。そして永遠の命の為に救われたのだ」と。

それでちょうど魚が暗い水の中から出て、光の中に入るように、入祭誦も、「主よ、あなたこそ私の illuminatio、光であります。私を照らすものであります。洗礼の水から私たちが出された時に、あなたの魚となりました。あなたの元にいる事になりました。」

魚は網からペトロの舟にそのまま置かれた、たくさん乗せられたという事も、「私たちが、ペトロの教会の一員となったその小さな魚たちだ」という事を意味しています。

古代教会初代の教会から、この魚のイメージは、キリスト教信者にとって非常に大切なものでした。ですからカタコンベなどにはそのイメージがたくさん載っています。

あるイメージによれば、網の中に小さな魚があって、その網は柱にくっついています。その柱の形が"T"の形をしています。意味はこうです。網は教会です。Tの形をした柱はイエズス様の十字架です。網はこの柱にくっついています。何故なら教会の力は十字架から出るからです。十字架無しには、単なる人々の団体でしかありません。しかし十字架とくっついて、人々を救う力、救いの恵み、全ての力、祝福を得ています。十字架から、私たちの霊魂に天主様の命が流れ出て、それを私たちは教会の施す洗礼や御聖体から受けています。主日に私たちが聖伝のミサに与るのは、十字架にくっついている網の中に私たちは入っているということを意味するためです。

それは「イエズス様の十字架によってくっついている、救われた霊魂たち」というカタコンベのイメージです、壁画です。

そして実は彼らは、初代のキリスト教信者は、ものすごい事を考えました。

“ΙΗΣΟΥΣ”
“ΧΡΙΣΤΟΣ”
“ΘΕΟΥ”
“ΥΙΟΣ ”
“ΣΩΤΗΡ”

「イエズス」
「キリスト」
「天主の」
「御子」
「救い主」

の頭文字を取って縦に並べると、“ΙΧΘΥΣ”「魚」となっている。そこで私たちは小さな魚だけれども、イエズス様は大きな魚だ。そしてイエズス様の秘密のシンボルは、魚だ。

それでよくカタコンベには、或いは秘密の暗号として、迫害当時のキリスト教信者は、イエズス様、キリスト様、救い主の代わりに、「魚」という暗号を使って、合い言葉を使って、秘密のコードを使って、会話をしていました。

このイエズス様の救いの御業は、ペトロに与えられたという事を私たちはよく記憶しなければなりません。第2のポイントはそこで、ではペトロには一体どんな役割が与えられたのでしょうか?

人を漁る者、人を救う者、そのかしらとして立てられました。

ペトロは実は、イエズス様を御受難の時に3度も裏切ってしまいます、「私はこの人を知らない。」「知らない。」「知らない。」

しかし御復活の後、同じようにイエズス様は奇跡的な漁を見せます。その時には網は破れませんでした。その時には、「153匹も魚がいた」と数まで数えられています。

聖アウグスティヌスによると、「復活の前の奇跡的な漁は、これは私たちの教会のこの現世での働きで、ですから網が破れて逃げてしまう魚もいるかもしれない。しかし復活の後には、救われた魚はもう確定されて、そして時が満ちて、その救いが決まる」と聖アウグスティヌスは解釈しています。

しかし聖ペトロは、カイザリアのフィリッポという所で約束をされた通り、「私はお前の上に教会を立てる」という約束を受けた通り、復活の後にこう聞かれます、「ヨナの子シモン、お前は私を愛するか。」イエズス様は3回これを聞きます。その時にペトロは、涙を流して答えました、「主よ、御身は私がどれほど愛しているかを知っています。」

ペトロは生涯、鶏の鳴く声を聞くと、イエズス様を否んだ事を思い出して、苦い涙を流した、そしてその頬にはその涙の痕が生涯付いていていた、と言われています。

しかし67年、西暦67年の6月29日、聖ペトロは今度は涙ではなく血を流して、イエズス様の十字架に付けられて、「いや、イエズス様と同じ十字架ではもったいないので、頭を逆さまに、足を上にして欲しい」と十字架に付けられて、血を流しながら、「主よ、御身は知っています。私が御身どれほどを愛しているかという事を」という事を、愛を、殉教で示しました。

旧約時代の大司祭は、アーロンもレヴィ族も死にはしませんでした、殉教はしませんでした。何故かというと、聖パウロによれば、シナゴーグ、つまり、ユダヤの会堂は、しもべであって、召し使いであって、奴隷の女であったからです。しかし教会は、妻であって、花嫁であるので、その花嫁の為にイエズス様は血を流し、そのイエズス様の代理者であるペトロも血を流しました。

イエズス様を十字架に付けたエルサレムは、呪われた所となってしまいました、天主を死に至らせた所として。しかしペトロがイエズス様の為に血を流したそのローマは、祝福された所となりました。そしてあたかもイエズス様の全ての十字架の恵みが、ローマに移ったかのようです。ローマは昔、ロムルスとレムス、二人の双子が作ったといわれますが、そして旧約時代には、大司祭にはアーロンとモーゼがありましたが、新約ではぺトロとパウロが、そのローマで血を流して聖別して、イエズス・キリストの教会の基礎を定めました。

これを見ると、旧約時代の恐れの律法の文字だけのところから、聖ペトロの舟には殉教の愛が表れているという事が分かります。イエズス様も仰いました、「友の為に命を与えるほどの大きな愛はない。私はもはやお前たちの事を、」ペトロたちに向かって、「お前たちの事をしもべとは言わない。何故ならば、しもべは主人のしている事を知らないからだ。しかし私はお前たちに、私のする事を全て教えた。だからお前たちは私の友だ。私の愛に留まれ。」

そしてこのイエズス様への愛に結ばれた聖ペトロとその後継者は、イエズス様の司祭職、大司祭の特権を、今に至るまで繋げています。

では私たちは一体今日、どのような遷善の決心を立てたらよろしいでしょうか?

まず第1に、教会の精神に従って、私たちも小さな魚であって、イエズス様が大きな魚であって、イエズス様が私たちの救いを望む漁夫である、と同時に、大きな魚であるという事を黙想致しましょう。

そしてイエズス様は、私たちを洗礼の水によって救い出し、私たちに御聖体を以って養い給い、そして天国の本当の光へと導こうとされている、という事です。ですから書簡書も、「今のこの世の苦しみ、困難は、来たるべき栄光に比べれば、全く比べものにもならない」と言っています。その比べものにもならない喜びを与える為に、私たちは救い出されました。

その為にイエズス様は、特別の位階秩序を作り、そしてその位階秩序は十字架の秩序であって、愛の秩序であって、そしてぺトロは最もその高い愛を血を以って流し、証し、私たちの救いの道具として、イエズス様の道具として立てられました。

ですから私たちは、このイエズス様の立てたペトロの舟、イエズス・キリストのカトリック教会、そしてその代理者の為にお祈り致しましょう。ファチマの子供たちもそうでした、教皇様の為にたくさん犠牲と祈りを捧げました。

第2には、この教会のイメージは実は、マリア様のイメージとぴたりと重なります。何故かというと、マリア様というのは教会の典型であるからです。典型的なイメージであるからです。これこそが教会の姿だ、というのをマリア様が表して体現しているからです。マリア様は御自身の中に、イエズス様を御聖櫃のように運ばれました、今日。そしてマリア様はそのお言葉を以って、胎内に居る、目に見えないイエズス様のお恵みを伝えました。それによって洗者聖ヨハネは、全ての罪が赦されました。

ですから今日、聖ペトロのローマの聖座、カトリック教会について思いを馳せると同時に、マリア様の教会における役割をも果たしましょう。マリア様がいらっしゃる所には、イエズス様のお恵みが全て行きます。願わくは、私たちがいつもマリア様のようになりますように、イエズス様をいつも私たちの身に運ぶ者となりますように、そしてカトリック教会がいつもマリア様のイメージを実現する事ができますように。

では最後に、これは私の提案ですけれども、今日の教会の漁師と魚のイメージを見ると、光の中に出る事ができずに、そのまま邪魔者扱いをされてしまっている小さな赤ちゃんたちが、お母様のお腹の中で闇に葬られてしまうような赤ちゃんたちが、残念ながら日本でいます。何とかその子供たちの命が助かる事ができますように、お祈りをお願い致します。

そのような残酷な事をしようと言う人たちは、お腹の中にある赤ちゃんが、本当の人間であるという事を認めようとしません。でもマリア様は、マリア様のご訪問で私たちにはっきり教えています、「どんなに小さくても、イエズス様は真の人であり、真の天主であり、洗者聖ヨハネもその受胎の瞬間から真の人間である。だからたとえ小さくても大きくても、まだほんの数日、或いはほんの数週間の命であっても、立派な人間の命であるから、私たちは必ず守らなければならない。」その事も教会の教えとして、マリア様のご訪問の神秘として私たちに教えられているので、是非その事も私たちは今日、確認する事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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