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聖ピオ十世会日本 東京での10月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ 旧典礼のミサ トリエント・ミサ)の報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日東京で、聖霊降臨後第20主日のミサを行いました。一年前もやはり同じ聖霊降臨後第20主日のミサを10月2日に東京で行っておりました。

 最近、メデュゴリエについて知りたいという方にお会いしました。そこで、メデュゴリエについての記事もアップしてあります。20年前のものですが、どうぞお読みください。

 その方は幼児洗礼を受けた方ですが、お話ししていて子供のころ初聖体を受けた時のことを教えていただきました。まず質問があり、御聖体拝領の時に英語では「我は不肖にして主をわが家に迎え奉るに堪えず、されど一言を宣わば我が霊魂は癒えん」と言うが、日本語では「主よ、あなたをおいて誰のところに行きましょう」という、どちらのほうがラテン語の原文に正しいのか?尋ねられました。英語のほうが正しい訳だ、と答えると、スッキリ納得した、と。何故なら、子供のころ初聖体の時から、主が私のところに来てくれる場面なのに、なぜ自分が「行く」と言うのか場違いで、シックリこなかった、子供ながらおかしいと思っていた、と。

 そのお話を伺ってとても言葉の意味に繊細でなるほどなぁとこちらも気づかされました。

 さてこの前のミサのご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介させてください。

 次の聖伝のミサは、大坂で11月3日(初金)、4日(初土)、
東京で11月5日(主日)、6日(月)です。愛する兄弟姉妹の皆様とミサでお目にかかるのを楽しみにしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
御ミサをありがとうございます。
今回は特にとても慰めをいただきました。

毎日の生活のなかでこの世のことに心を遣って家族と過ごす日々です。お恵みにより慎ましくもつつがなく暮らせますことを感謝しています。それでも、いつも内的には、この世の生活は本当の生活へ向かうための準備のものとしか思われません。
家にいても道を歩いていても、自分を流され人・流浪の人と感じていて、哀切の思いでおりました。

この日の奉献文は、なんとこの思いを表してくださったものでしょう。「われらはバビロンの川岸に坐って、シオンの町。汝を思い出して泣いた」。弱い惨めな人間なので、御ミサに与り御聖体をいただきお説教で教えていただかないと倒れてしまったあとの立ち返りも難しいです。ただこの世を生きるためでなく本当に天主のもとに導いてくださるような導きがほしく思います。神父様のお説教にはどれほど慰めをいただいたことでしょう。

この日お説教を聞いて、ご聖体を拝領できることがとてもうれしくありがたく、心から感謝申し上げました。

そして私はひどいものなので み摂理による出来事を通してお恵みにより自分の姿を見せられ、今嘆いているのも罪深いものが罪を償うための時間を与えられているのだと 気づかされました。
もっと真剣に自分の罪を痛悔できますようにと思います。それから罪人の回心を願います。

神父様は「ルシアによると、震える手で書かれたたった2つの手段が与えられているだけだ」、と仰られました。私たちに与えられているのはロザリオと汚れなき御心の信心だけということです。これが残されている最後の手段だと。

それから、とても印象深いお話を伺いました。約400年前のルイ14世の聴罪司祭であったイエズス会司祭 ド・ラ・シェーズ神父様と、フランスの王国のことです。ド・ラ・シェーズ神父は、フランスを聖心に奉献せよという、指し示された、ただひとつのことを、しなかったために、与えられるはずの聖寵がいただけず、およそ100年後にフランスの王政は廃止されイエズス会も廃止された、という話に驚きました。

聖心といえば、マリア・マルガリタ・アラコック修道女を通してイエズス様から語られた聖心の信心はあまりにも有名で、私のようなものでさえ洗礼前から、初金には御ミサに与るものだと思っていました。でも、理由もわからずにそうしていただけで、当時は田舎の教会でさえ初金の御ミサが捧げられていたからに過ぎなくて、マリア・マルガリタ・アラコック修道女やイエズス様の聖心とのつながりがあるとはっきりと知ったのは、回心後でした。

今回、拝聴したお説教を思い出しているうちに、ファチマのマリア様からルシア修道女にいわれたようなこと、つまり、初土の信心と、その深い意味の聖母の汚れなき御心の信心と、それと、世界中の司教様とともに教皇様によるロシアの聖母の汚れなき御心への奉献ということの三つのそれぞれに対応することが、イエズス様の聖心についても同じくあったのだ!と思いました。

この三番目に関して言えば、ド・ラ・シェーズ神父とルイ14世がフランスを聖心に奉献することと対応しているのが、教皇様と司教様達がロシアを聖母の汚れなき御心に奉献することに対応していることになるのかなと思いました。

現在フランスの国は、王政から共和制になってしまい、天主様の聖寵が満ちていた時代とは様変わりです。またイエズス会に関して言うと、霊躁という素晴らしい祈りの方法を残してくださった聖イグナチオ・ロヨラがつくられた霊躁という祈りを思い出しますが、現代では霊躁以外に、解放の神学とかエキュメニズムとか自己実現とか各種の東洋の祈りなどを推奨する神父様たちがたくさんいらっしゃいます。霊魂の救いとは直接には関係ないものかなと感じられます。お説教を伺って、こういったことの背景を教えられたように思いました。ありがとうございます。

そしてはっきりと明らかに、聖心の信心での経緯と、現在まさに進行中のファチマのマリア様からお話いただいている聖母の汚れなき御心の信心の状況は、類似するところが多いと、考えさせられました。

イエズス様の聖心にフランスの国を奉献せよという望みを実行しなかったために廃止されたのが、フランスの王政と一修道会だったとしても、聖母の汚れなき御心に教皇様と世界中の司教様が一致してロシアを奉献せよという望みを実行しないで滅びるのが何であるか・・・、それに対応するのが何であるか想像するのが怖ろしく思います。聖母がお与え下さった救いの手段を真剣に実行しなければならないと思い、ロシアの奉献のために祈ります。

そして、ロザリオと聖母の汚れなき御心の信心を、実行したいと思います。神父様は、それを最後の二発、最後に与えらえた手段と話されて、ほんとうにそうなのだと思いました。

小野田神父様、いつも素晴らしい御ミサとお説教をありがとうございます。


【報告】
月曜日のミサで、御ミサの後に、普段は地理的なことでなかなかトリエント・ミサに与ることが難しいという方とお話する機会がありました。特にこの日は、読誦ミサのため、ラテン語でミサが進行するので、ミサ典書を見ながら順を追っていても、どの箇所がいまミサで行われているのかすぐ分からなくなりがちで・・・という感想でした。日本語でないので、内容もわからないので・・・という感想もありました。

はじめて読誦ミサに与って、特にパフォーマンス的な所が少なくて、一様に感じられたかもしれません。
ああ自分も最初の頃はそうだったなぁと、思い出しました。

それについては、何度もミサに与るうちに、耳が慣れてきて、どの部分が今行われているのかが、わかるようになると経験から、申し上げられるかなと思います。日本語も併記されているので、内容も分かるようになるのでは思います。とても良い参考書もありますし。
それから、教会のお年寄りなどの話から、昔はラテン語のミサの時にはミサの内容がわからないので、ミサ中にロザリオを祈っていたなどという話を聴きますねという話になりました。でも、実際はそんなことはなく慣れてくると、いまミサ典書のどこを祈っているかを集中して見て聞いて祈ることができるという話になりました。どこかで間違った情報がインプットされてしまって、巷に広がったのでしょうという話になりました。
そして、今通常に日本語で行われているミサの内容と、トリエント・ミサのラテン語で行われているミサの内容は、全く違うものだということが、ほとんど知られていないということも、話題になりました。

また、「初めてレオ十三世の作られた『聖会のための祈り」も、御ミサの直後に祈ることができました」、という感想もいただきました。私も10年位前から、ノブスオルドのミサの直後にはいつも一人でこの祈りをずっとお祈りしてきていましたので、こちらで読誦ミサにも与るようになって初めて、神父様と一緒にお祈りができてとても感激したことを思い出しました。歌ミサの後にはこの祈りを唱えないという規定があることも、以前は知らなかったです。

「日本語のミサだと内容がわかるからそれが素晴らしい」という人は、日本語のミサに掲載されている内容が昔のものと違うものに変更されているという事実を知らされていないだけのようです。
聖伝のミサは、単にラテン語での祈りかどうかというだけでなく、そこで祈られている内容が、今のミサのものと全然違うものだから。
そのことに気づかなければ、聖人をたくさん産み出したミサということを理解するのが難しいかもしれません。そのことを良く知れば、トリエント・ミサで祈られている内容に惹かれる人がもっと増えるに違いありません。、
私もそのことを知れば知るほど、聖伝のミサに与りたいと思います。

新しく見えた方と、いろいろ、お話できて、楽しかったです。

今回、台風で始発電車が動かなくて、ミサに与れないかもしれないという恐れがありました。始発の電車までは強風は抑えていただけましたこと、天主様に感謝申し上げます。

【報告】
公教要理では、ユダヤ教とはどういうものかを教えていただき、イエズス様の生きていらした当時の状況を教えていただきました。

1、ユダヤ教は、唯一の天主を信じていたアブラハムという人から始まった宗教で、ユーフラテス・チグリスのイラクの近辺のウルという場所から始まったもの。アブラハムはイエズス様が生まれるおよそ2000年ほども前の人で信仰の人だった。ユダヤ教の始まりを教えていただきました。

2、約1500年前に、モーセが初めて聖書を書いた。モーセはエジプトから民を脱出させたユダヤ教の指導者だった。この時、天主の十戒や、契約の櫃や、いけにえの捧げ方や、安息日の規定などが決まった。

3、カトリックは2000年前も今も変わらない宗教だけれど、ユダヤ教はそうではなかった律法を守るということに関して、移り変わりがあった。

4、ユダヤ教で大切とされているものが二つあって、中心の教えである、安息日と割礼を守るということだった。割礼は、生後8日目に割礼と名前を与えること。

5、安息日をまもるということは、労働を休み天主へお祈りをするためのものだった。しかし形式的なものとなり、身体を動かさないことが重要となった。
(どのように安息日が守られていたか具体的に聞きました。複雑な決まりが口伝で伝えられ、非常に複雑に変化していったとのこと。細かい規定があって意味もなく形式なものでユダヤ人を縛りつけていた例も多かったようだ。一般の人にとっては、ふつうは安息日はお祭りとなるもので晴れ着や御馳走など喜びの日になっていた。)

6、安息日と割礼と、どちらが律法で上位にあたるかについては、割礼が上である。(ヨハネ福音書第7章の22、)安息日でも割礼は施すことができる。

7、アブラハムから始まったユダヤ教には、いまのカトリックの前表が いくつもあるとのことでした。(イサクやイサクの背負った柴、生贄の子羊や、子羊の角が掛っていた藪もそれぞれ新約にあることの前表となっている。)

8、モーゼがエジプトから脱出したこと。(イエズス様が死から命へと移られ、キリスト者たちが罪の状態から洗礼の水を通って天国に行くという前表)

9、過越祭(パスカ)の8日間に「種なしパンの祭り」があり、子羊を屠った。(過越祭は、復活祭の前表)

10、その50日後に、「ペンテコステ五旬祭」が一日だけあった。(聖霊降臨祭の前表)

11、その6か月後の「ティシュリの月」の15日は幕屋祭があった。(神殿奉献祭のことで献堂式にあたる)

12、ティシュリの月の幕屋祭の前の10日は、「キップルの日」でユダヤ人は断食をして、大司祭は神殿に入り、いけにえをほふった。大司祭が仕事をするのは一年でこの日だけであった。(これは、イエズス様が一回だけご自分を生贄として、天の至聖所に入ったということの陰であった)

以上、授業ではもっといろいろな興味深いお話がありましたが、少しだけ箇条書きに書き出して復習をしました。神父様いつも貴重なお話をありがとうございます。

その後今回は、グレゴリオ聖歌の練習をしました。
聖霊降臨後第23主日以降は、主日が何回あっても歌う歌は同じものとなるとのことです。11月12日は御ミサの中で私たちも聖歌を歌えるようにとのことで、教えていただきながら実際に歌ってみました。
入祭唱の「Dicito Dominus Ego・・・ 」をラテン語の読み方からネウマ譜の読み方まで 教えていただいて、小さな小節に別けて歌う練習をしました。意味も教えていただきました。

普段は声を出すことも難しいですが、細かく教えていただいたので、なんとか神父様の音に合わせて、またユーチューブの歌に合わせて、声を出して歌ってみました。
音を思い出せないのですが、YouTubeで探して、自宅でも練習してみようと思います。

主日の御ミサの中で声を出して歌うまで、憶えられるかどうか心配ですが。
楽しく練習できました。神父様ご指導をありがとうございます。


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