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私的啓示と霊の識別 ファチマとメデュゴリエ その3 ファチマの御出現のポイントをメデュゴリエの出現に適応して比較してみる

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちはファチマの御出現の時に確認した幾つかのポイントをメデュゴリエの出現に適応してみましょう。

 1出現以前の幻視者 「他の人よりも良くも悪くもない」(幻視者自身の表現)

 「メジュゴルイエは種々の点で[第二バチカン]公会議後のあり方を具現し、全く別の、全く新しい状態の中にある。聖母を見た6人はもはや子供ではない(一人を除いて)。彼らは皆十六歳から十八歳までの年齢で、思春期という不安定な時期は通り過ぎている。」(ロランタン『メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現』p29)

 彼ら6人のうち5人はメデュゴリエMedjugorie村の抱える5つの部落のうちの1つであるビヤコヴィチで生まれました。メデュゴリエは、モスタルMostar教区の小教区であり、「小教区の教会はかなり大きく,1969年に建てられ、聖ヤコボに奉献されている。親鳥を囲む雛のように、この教会を囲んで5つの村[部落]があり、総勢530家族の最大の宝物はカトリックの信仰である。この5つの部落の1つがビアコヴィチで、『出現の山』の麓に位置している。ほとんどが岩のやせた土地で、主にたばこと銘品のぶどう酒を産出している。」(バルバロ神父『メデュゴーリエでの聖母の出現』pp34-35、1987年ドン・ボスコ社を参照)

 ミリヤナMirjianaはサラエボの高校に通っていました。彼女は「サラエボの金髪美人」のあだ名を持っていました。

 ミリヤナは、最初の「出現」の後にこう質問を受けました。「聖母があなたに御出現になっても、あなたは男の子たちとつき合い続けているし、彼らとのおしゃべりがそんなに好きで、一体何になるのですか。」ミリヤナは答えて、「聖母は私たちを偽りの偽善的な信心家にしようとするつもりはありません。」(P. Marijan Ljubic, "La Vierge Marie apparait en Yougoslavie", p.44, 1984)

 警察の要求で、ある女医はこう尋ねました。「あなた達はマリア様の娘にしてはあまりにも流行を追いすぎています。」(Babulo, p37)

「ミリヤナは外見上大都会のどこにでも見かける普通の現代的娘です。・・・出現は、彼女の生活様式をたいして変えませんでした。」(S. Kraljevic, "Les apparitions de Medjugorje", p68. 1984)

 ミリヤナは、ヴィッカVickaとイワンカIvankaとともにトリオを組み、この3人は離れることが出来ませんでした。この三人は「毎年の夏はいつも一緒だった」(ヴィッカ)。ヴィッカとイワンカ、そしてマリヤMarijaはモスタールで勉強をしていました。ヴィッカは洋服学校、マリヤは理容師学校、イワンカは普通高校に通っていました。

 彼女たちは、流行を追い、現代的な若者のなりをし、少し開放的です。ロランタン師によると「イワンカは背も高く顔もきれいで、部落の間ではもう恋人がいると噂されていました。」 

2第一の出現の状況

 何故彼らは、丘の上に集まったのでしょうか。モスタールの司教は『メデュゴリエの出来事に関する報告書』の中でこう書いています。

「既に最初から、嘘の臭いがすることがある。例えば、子供たちがポッドブルドーの丘(出現地)に行った動機は、違っていた。或る時は羊の群を集めにと言い、或る時は花を集めに、或る時はたばこを吸いに行ったという。」

 ロランタン師は、この幻視者となるべき彼女たちが隠れて丘の上でたばこを吸いに行っていたと言うことを不手際に否定しようとしています。しかし、モスタールの司教、ザニッチZanic司教は物事をきちんと言います。

 イワンカは、司教にたばこを吸いに丘の上に登ったとそう告白し、そう宣言しました。別の幻視者のヴィッカは、ミリヤナとイワンカがこのことを司教様の前で誓ったことを証言しています。

 ヴィッカ曰く「彼女たちは、自分の立てた誓いに恐れをなして、丘の上でたばこを吸ったと言いました。」

 ロランタン師の説明によれば、「全て真理を必ず言う」という誓いを立てたのに恐れをなして、彼女たちは司教に嘘をついたのだった!理解できる人はこれを理解してみてほしい。嘘をつかないという誓いに恐れをなして嘘をつくとは!!

 ヴィッカは、彼女たちが丘の上でたばこを吸ったことは認めますが、たばこを吸うために丘に登ったのではないと言います。「それに、あたしがもしたばこを吸ったとしれも、それが一体何になると言うの?」と彼女は言い放ちます。ロランタン師は困ってしまって「これは大したことではない」といいます。では、何故これを隠すのでしょうか。何故、司教には、最初に花を摘みにとか、羊の番をしになどと嘘をついていたのでしょうか。

3 幻視者の最初の反応

 最初の「聖母」の出現は1981年6月24日でした。私たちは、幻視者の使うクロアチア語を使って「聖母」の代わりに「ゴスパGospa」と言いましょう。

 ヴィッカはブバロ師にこう言っています。

「この日は祝日でした。でも私はミサに行きませんでした。私は数学の補習授業があってモスタールに行かなければならなかったからです。期末試験に失敗し、この補習授業があったのです。私は家にお昼頃に戻りました。バスは人で一杯で、とても暑かったのです。私たちは朝、午後に一緒に散歩をしようと決定していました。私たちはいつも一緒でした。でも、家に帰ると私は寝転がって寝てしまいました。」

 ミリヤナとイワンカがヴィッカの家に来ますと、この二人はヴィッカの母親ズラタに「起きたらすぐにヤコブくんの家で合流して」とだけ暗号のようなメッセージを残しています。

 そう言うわけで、まず、ミリヤナとイワンカが二人だけで出かけます。彼女はポッドブルドーの道を歩きます。彼女たちは隠れてゆっくりたばこを吸うために村から離れたのでした。彼女たちのポケットには町で買った紙巻きたばこが1箱入っていました。そしてたばこを一服すると村に戻り始めました。

 イワンカは言います。「私たちは二人だけで歩いていました。私たちは村の方に戻る途中でした。私は機械的に丘の方に顔を向けますと、ゴスパの影を見ました。それは光っていました。私はミリヤナに言いました。「ゴスパを見て!」ミリヤナは腕をこう出して私に言いました。「なあに、ゴスパが現れたの?」私たちは村の方に道を歩き続けました。ミリヤナは見ようともしませんでした。それから、ミルカ(マリヤの13歳になる妹)の家に行きました。ミルカは自分と一緒に羊の群を探しに行ってと私たちに頼みました。私たちは道すがらおしゃべりをし、私たちが到着すると私たちはゴスパを見ました。私たちは跪き、そこで祈りました。群は自分たちで家に帰り、それから、ヴィッカとイワンともう一人別のイワンが到着しました。」

 この間、ヴィッカの姉妹が一人ヴィッカを起こします。「『起きなさい。あんた学校に遅れるわよ。』これは冗談でした。私は起きて、服を着ました。私はミリヤナとイワンカを探しに出かけました。・・・道に出ますと、私は小さなミルカ・パヴロヴィッチと一緒の彼女たちを見つけました。3人とも何かを見つめていました。彼女たちは非常に恐れているようでした。彼女たちは、私に来るように合図をしました。私は急いで近づきました。おかしい!あの子たちは一体何をそんなに注目しているのかしら?彼女たちは叫びました。『ヴィッカ、ほら、ゴスパよ!』」(Babulo)

 彼女たちは、興奮した大きな声で近くに来いと言っていましたので、ヴィッカが彼女たちに近づき「何が起こったの?蛇でもいるの?」と叫びました。

「違うわ、蛇じゃないわ!」ヴィッカは近づきますが、出現を見て、恐れのあまり、裸足になって逃げ出してしまっています。このことは非常に重要です。ヴィッカが、出現を見て、パニック状態に陥り、逃げ出したのです。

「私は靴を脱いで、裸足で気が狂ったかのように走って逃げ出しました。村の近くまで来ますと、嗚咽が始まりました。これをやめることは出来ませんでした。何故彼女たちはゴスパと楽しんでいたのでしょうか?私には何をしたらいいのでしょうか?自分がどこにいたらいいのでしょうか?も分かりませんでした。」(Babulo)

 ヴィッカは自分の家に避難しますが、奇妙なことに、またそこに戻ろうとします。道すがら、彼女たちは、二人のイワンにあいます。当時20歳のイワン・イワンコヴィチと、16歳のイワン・ドラジーチェヴィッチであった。彼らはビニール袋にリンゴを幾つか持っていました。彼らはヴィッカにリンゴをあげようと言います。しかし、ヴィッカは「でも、リンゴなんか欲しくありませんでした。私の頭には一つの考えしかありませんでした。それは、この『ほら、ゴスパよ!』という叫びでした。嗚咽にむせびながら私はイワン[16歳の若い方のイワン、ヴィッカはこちらの方を良く知っていました。このイワンが将来幻視者になる]に、『ゴスパを見たと言っていた、あの3人の女の子たちの近くまで、私と一緒についてきて』と頼みました。『私は怖いの』と言うと『行こう、何を怖がっているんだよ』とイワンは答えました。」(Babulo)

「イワンはこうして[私と行くことを]承知して、私たちはそこに行きました。道すがら私はイワンに言いました。『私はゴスパを見ようとは思わないわ、ただあそこにいたいだけなの』と。そこに着くと私たちも、ゴスパを見ました。」(Babulo)

 16歳のイワン・ドラジーチェヴィッチもこの最初の日にゴスパを見ています。彼もヴィッカと同じように、ゴスパを見ると恐ろしさにつまされ、逃亡します。ヴィッカはこう言っています。「イワンは囲いを駆け下りてすぐに逃げ出しました。そして、リンゴや自分の持っていたものを全て放り出していきました。」(Babulo)

「私はイワン・ドラジーチェヴィッチが一目散に逃げ出すのを見ました。そして、私はイワン・イワンコヴィッチに尋ねました。

「あなた何か見た?」

「僕は何か真っ白くて動くものを見たよ」と彼は答えました。

今度は、私たちと一緒にいたミルカ、つまりマリヤの妹に何か見たかと聞いてみました。ミルカは「私はゴスパを見た」と言いました。」

 この2回目は、ヴィッカは恐ろしさをこらえて、何かを見ようとそこに残りました。

「時は夕方の6時半で、少し雨が降っていました。少し暗くなりかけていました。私はそれが本当に真っ白なのを見ました。私はその服と黒い髪を見ました。彼女は右手に何かを持っており、隠したり見せたり絶えずしていました。でも私にはそれが何か見ることが出来ませんでした。彼女はこうやって何かを見せていました。それから私たちが近くに行くようにと呼びました。でも誰が行きたがったでしょうか?私たちは互いに「彼女が私たちを呼んでいる、でも誰が行こうか?」と言い合っていました。」

 ヴィッカによると、ゴスパのシルエットは200-300メートル離れたところからでも見えたそうです。(ローランタン『メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現』p102)

 ミリヤナによると、ゴスパを見たとき彼女は、恐ろしさと言うよりも喜びの身の毛のよだつのを感じました。この晩はゴスパは何も語りませんでした。

 少し後になるとヴィッカはブバロ神父にこう語っています。

「何度も彼女は私たちに手で合図をしました。」

 ブバロ神父が「あなた達は近づきましたか?」と聞きますと、ヴィッカは「いいえ、私たちはあまりにも怖かったのです!」と答えています。

ブバロ神父「あなたはどれだけそこにいましたか?」

ヴィッカ「正確にはわかりません。もしかしたら5、6分。そのあとで私はまた自分の家に逃げました。私は嬉しかったけれども、同時に恐ろしかったのです。私は怖かった、でも満足でした。私は長椅子に身を投げ出し、泣きじゃくりました。泣きまくりました。」

 その他の者はヴィッカの後5、6分まだ残っていました。

 この第1の御出現で、この影を見て皆はゴスパであると確信していました。しかし、それと同時に、天からの出現が醸し出す畏敬の念と言うよりも、むしろ強烈な恐怖感が走りました。恐れがそこにみなぎっていました。

 ルプチッチ師の質問に、6人とも怖かったと答えています。ヴィッカによれば、「第1日目は、私たちは皆、顔をしかめてわめくような声を出しました。」と言います。(ロランタンp103)

 ヴィッカは家に帰ると全てを皆に話しました。信じる者もあり、びっくりしない者もあり、UFOだと言う人もあり、人は適当なことを言い合っていました。しかし、ミリヤナとイワンカは隠れてたばこを吸いに丘まで行ったことを言わずに黙っていたようです。

 恐怖、恐れ、失神、このような雰囲気での御出現に、私たちは少なくとも不安を感じます。

4 出現の周期

 ザニッチ司教はゴスパ自身が出現の終わりが近いことを、1981年の6月30日に既に宣言していることを指摘しています。第7回目の出現の後に、子供たちは主任司祭に、あと3回の出現があることをゴスパ自身が言ったと伝えました。

 Kraljevic神父はこう言っています。「この日に幻視者たちは、ゴスパが金曜日までの3日間しか来ないことを約束した、と宣言した。」

 実際、7月3日金曜日の出現の時に、彼らは、出現の後に「これが最期の御出現だ!」と宣言しました。

 ブバロ師にこの偽りに預言について尋ねられ、ヴィッカはこう答えました。

「本当に私はそんなこと覚えていません。もし誰かが[ソノママ]そう言ったのなら、きっとそれは人が私たちをそっとしておくためですよ。」

ヴィッカは都合の悪いことをすぐに忘れてしまいましたが、この事実は録音されてありました。

「私は[そんなことを言ったことを]覚えていません。でも、もしそんなことが録音されているのなら、私たちはそんな馬鹿みたいなことを言ってしまったのですよ。でも誰も私たちの言うことをわかってくれません。私たちの言うことを。・・・私はその時自分が何を言ったかを覚えていません。でも私たちのことも理解して下さい。私たちのことも。私たちは子供だったのです。[17歳の!]私たちは天使ではありません。私たちは出来ることを出来る限りやっている[??]のです。」

 では、7月1日に定められた出現の終わりは、聖母が決めたものだったのでしょうか?ヴィッカはこう言います。「でも、それは馬鹿話で[ソノママ]、私たちにはひどい話です。」

 ヴィッカは、忠実な伝令者と言うよりは、適当に話を作ることをためらいもしない「伝達者」なのか。それとも、出現自体が、まだどの様な出現になるかが決められていなかったのでしょうか。

5 出現の言葉遣い、態度

 ファチマでは、御出現の言葉、態度、身の振る舞いなどには、尊厳、天的な天主からのものであるという威厳がありました。ところがメデュゴリエでの出現では、ゴスパの態度は私たちを躓かせるものであって、私たちはこれにショックを受けます。

 第2の出現は、6月25日でした。「イワンカと私とミリヤナとは、最初の日にゴスパを見たところに同じ時間に行こうと決め合っていました。もしあれが本当にゴスパだったら、もしかしたらゴスパはまたやってくるでしょう。」(Bubalo)

 しかし、第1の出現は全く沈黙のうちになされ、どうしてもしそれがゴスパだったらまたやって来ると信じていたのでしょうか、奇妙です。翌々日、すなわち1981年の6月27日には、クヴァロ師に、ヴィッカはこう答えています。彼らの周りにいた人々は皆ルルドの御出現では聖母が18回来られたことを話していた、と。実際ミリヤナはルルドの本を読んでいました。

 ヴィッカがブバロ師に話すところによると、「ほとんど同じ時刻に、私たちは石だらけの道を歩き、最初の出現があったあの高いところを見ていました。突然、光が輝き、ゴスパがそこにいました。」

 最初に見たのはイワンカでした。次にミリヤナとヴィッカが見ました。マリヤと、マリヤの従兄弟で10歳になるヤコブもすぐに来ました。

 ヤコブはルプチッチ神父にこう言っています。「僕たちはマリヤの家で仕事をしていました。すると、ヴィッカが走ってきて、『ほらあそこにいるわ』と言いました。すぐに僕たちは丘の方に走って出かけ、そこでお祈りをし、涙を流して泣きました。」(ロランタンP102)

 ヴィッカによると、「私たちは丁度空中に引き寄せられているかのようでした。私は怖かった。私も裸足でしたが、足は茨で全く傷を受けませんでした。・・・私たちがだいたいゴスパから2メートルぐらいのところに近づくと、私たちは跪かなければならない感じを受けました。ヤコブは茨だらけの茂みのようなところで跪きました。私は、あの子は傷だらけになると思っていましたが、何の傷も負わずに出てきました。」

 これは、少し大げさだったようです。と言うのも翌々日の質問で、イワンカは彼女たちが勿論、傷を受けて血を出したと答えているからです。但し、その時には誰もそのことに気がつかなかったといいます。

 ゾブコ師が翌々日に質問したところによると、ヴィッカがブバロ師に話したよりも、本当はもう少し大変だったようです。村の人々もヴィッカのあとを着いてきており、ヴィッカはゴスパが見つけられずに、道をすぐ迷ってしまいました。後ろの人たちは、彼女たちに『左に!左に!』と叫びました。村の人たちには何かが見えていたようでした。しかし、何かに不思議に導かれたように、彼女たちは真っ直ぐに進み、同じところに止まります。

 ヴィッカがブバロ師に答えるところによると、ゴスパと話をする前に、「ミリヤナとイワンカは気絶をしました。でもこれはほんの少しだけのことでした。・・・私たちは、気が動転し、怖くもありました。ゴスパの前でまっすぐ立っているのは楽ではありません。でも、私たちは膝をついて祈り始めました。・・・きっと、天にましますとめでたしと栄唱だったでしょう。」(しかし、ロランタン師はその本の中で、ヴィッカがヴラシッチ師とブバロ師にした宣言を忠実に一つずつ従おうとせずに、ヴィッカが「怖かった。私たちは恐ろしかった。」と言っている2カ所を省略し、その反対に、「彼らの恐れは消え去った」と書いている!)

 ミリヤナもその後に、ルプチッチ師に「私はとっても怖かった。私たち女の子は皆気絶しました」と説明しています。(これはロランタン師の本にも載っています。p104)

 ミリヤナは最初の質問をします。彼女の母はその前の月に病院でなくなっていました。ミリヤナは母のことを知りたくてゴスパに聞きます。ゴスパは短く「あなたのお母さんは元気です」とだけ答えました。その後のいろいろな本ではこの後にいろいろな言葉が続いたことになっていますが、出現の翌々日にミリヤナのした証言によれば、ゴスパはこれしか言いませんでした。

 ヴィッカはこう言います。「私たちはゴスパに触っていました。私たちがゴスパに抱きついたりしますと、ゴスパは笑っていました。」

 彼女たちの証言は、厳と存在しています。ミリヤナとイワンカは、興奮し恐れ失神したにも拘わらず、幻視者らはゴスパに馴れ馴れしく近づきベタベタと触るのでした。彼女たちがゴスパを撫で回したことの証言は公に録音されています。ロランタン師はメデュゴリエについて十数冊本を書きますが、『メジュゴルイエにおける聖母マリアの出現』1984年で、ただ一回だけそのことに触れます。

「質問:マリア様に触りましたか?

マリヤ:私はマリア様のドレスに触りました。触るときはいつも手のひら全体で触りました。他の人も大勢触っていました。

ヤコブ:はい、僕はドレスに触りました。

ヴィッカ:はい私はドレスに触りました。けれど、金属のような抵抗感がありました。それはこういう意味なんです。マリア様が手とか頭を動かされると、ドレスも動きます。それは普通の場合と全く同じです。でも触ったら、まるで金属のようにびくともしないのです。

イワンカ:はい。

ミリヤナ:私は触ることが出来ます。・・・はじめは何か近づきにくいもののように眺めていました。が、今は、マリア様が一緒にいて下さるときは、私はお母様のように、または私を助けてくれる最良の友人のように見つめます。

イワン:僕はドレスに触りました。」(P108-109)

 しかしロランタン師は、メデュゴリエを扱ったその他の15冊の本の中では一語もそれに触れようとしません。或る本の中では、ロランタン師は、幻視者のいかなる証言にも基づかずに、彼女たちがゴスパをさわったり抱きついたりしたことを否定しています。Medjudorie, recit et message des apparitions, editions de l'O.E.I.L., 1986, p19、また、このことを取り扱った場合にしても、ロランタン師はこれについてゴスパが笑ったことや、何度も触れられたことを省略し、事実を隠そうとしています。またその他の著者のいろいろな本でも、これについては沈黙が守られています。

 ヴィッカはゴスパに不平を漏らします。「ゴスパ様、人々は私たちを信じません。私たちが家に帰りますと、皆私たちが狂っていると言うでしょう。」ゴスパは微笑むだけでした。

 そこで、ヴィッカはミリヤナに今何時?と尋ねています。

 第2の出現のこのことについて、ヴィッカはブバロ師にこう語ります。

「ミリヤナは、人が私たちについていい加減なことを言わないように、聖母に私たちに印を残すように頼みました。・・・そしてミリヤナの時計の針が回ったのです。」

 これが、何のことを意味しているかは説明を要します。別のところで、ヴィッカはもっと詳しく説明します。「私はミリヤナに『今何時?』と聞くと『3時15分よ』と答えました。『あんた何言ってるのよ、3時15分だなんて。時計を反対に付けてるの?』

 Kraljevic神父によると、時計の9の字が12に変わっていたといいます。ロランタン師によると、時計の小さい方の針が文字盤を4分の1回っていたのだそうです。ともあれ、これが幻視者にとっての奇跡的な「印」だった!・・・一体これが何を印そうとしているのでしょうか、私たちは理解に苦しみます。

 勿論、メデュゴリエを擁護する人はこのことに口をつぐんで、説明を拒みます。ロランタン師は、長い間このことを語ろうとしませんでした。この6月25日の出現はこうして終わり、ゴスパは翌日も来ると約束して消えました。

 出現の翌々日にされた質問で、マリヤはこう答えています。彼女の両親は、彼女が出現の後に家に帰ってもいませんでした。「ずっと後に、両親が夕食を出してくれると、彼らは私に食べるかどうかを聞きました。私は恐ろしかった。私はとても食べることの出来る状態ではなかったのです。私の手は真っ白でした。私が初めてゴスパを見たときに、輪たちの両手は冷たくなっていました。丁度氷のようでした。」

 1983年の6月25日の大巡礼の後で、トミスラヴ・ヴラシッチTomislav Vlasic師にこう質問がありました。どのくらいの巡礼者が来たのでしょうか?と。「幻視者たちはゴスパに正確な数を聞きました。ゴスパは100万人だと答えました!」と師は答えています。しかし、何故そのような突拍子もないことをゴスパに聞かなければならなかったのでしょうか?

 最初の出現から第4日には、幻視者は、ゴスパが、人々がゴスパのベールを踏みつけるので消えてしまったと証言しています。

 ブバロ師はこのことについてヴィッカに尋ねました。

「この日には、人々がゴスパを踏みつけたそうですが。」

「いいえ、聖母の上をこうやって歩くものではありません。でも彼らはその服、と言うよりもそのベールの上を歩いたのです。」

「ゴスパは怒りましたか。」

「あのですね、聖母は怒ることを知りません。聖母は私たちのようではありません。」

「では、何故ゴスパはそんなにも長いベールを被っていたのですか。」

「そんなこと私が知っていると思いますか、私が?」

「その日に、聖母があなた達に何度も現れたというのは本当ですか。」

「はい、3回続けて。」[最初の時期にはこのような現れては消え、消えては現れるという出現が何度も続きました。]

「これは何故ですか。」

「知りません。あの人に聞きに行って下さい。人々が本当にじゃまだったというのは本当です。」(Bubalo)

 証言によると「ゴスパは彼女にさわりに行くことをそうしたい人全てに許していた」。

 幻視者たちは彼らに「さあ、あなた達はゴスパのベール、頭、手、服を触りなさい」と引導していました。このように、ゴスパに触ったり抱きついたりするのは、10回以上ありました。ロランタン師はこれについて何も語ろうとしません。このことを咎められた師は、1985年に自著の中でこう書きました。「それは根拠が無く、あまりに些細なことなので、私はそれを記録しなかった」と。

 まだあります。例えば1981年秋に、ゴスパは、マリンコ(自動車工で、当時焼酎を醸造中であった)に、来るようにと言いますが、それは彼を抱くためだった!マリンコは「正確にはキスを感じませんでしたが、ある種の風を感じました。」(Bubalo)といっています。

 丘の上で真夜中に、出現したゴスパは自分を触りたい人を招きました。しかし、人々は「ゴスパの服を、ある人はそのベールを踏みつけ」ゴスパは去りました。(Bubalo)

 8月2日にはヴィッカはブバロ師にこう言います。「おかしかった。誰かがゴスパを触るとそこに、何か痕のようなものが付いていました。ですから、最期にはゴスパは痕だらけで汚れたようになりました。」

 9月2日、イワンへの出現の途中で、ゴスパは教皇ヨハネ・パウロ2世の大きな写真にキスをします。

 ヴィッカによると11月、教皇様の写真にまたゴスパはキスをします。

 以上のような、聖母らしくない態度を見て、カリスマ運動の指導者たちだけは、驚きもせず、ショックも受けません。

6 出現に対する聖職者の態度

 メデュゴリエの主任司祭であったヨゾ・ゾブコJozo Zovko神父は、カリスマ運動の活動的なメンバーの一人でした。彼はあまりにも早く、そして少しあまりにも近くで出現と関わっていると非難を受けました。このような疑問は全く当然のものでした。しかし、彼の嫌疑を晴らすために、やはりカリスマ運動の一員であった、クラリェビッチ師は「その当時は、彼は教区に着任したばかりで、自分の教区信者を知る機会がまだ無かった」と書いています。ロランタン師も疑いを晴らそうと「ゾブコ修道士は、最初の出現の幾日か前に主任司祭として任命を受け、まだ教区のことを良く知りませんでした。そして全ての子供たちを知らなかった」と言います。

 ロランタン師の言う「幾日か前」とは、一体何日のことでしょうか?クラリェビッチ師の言う「教区に到着したばかり」とは、到着して、1週間の後のことでしょうか。それとも、2週間のことでしょうか。1ヶ月でしょうか?いいや、違う!ゾブコ師はメデュゴリエの主任司祭となって、既に9ヶ月を経ていたのだ!ロランタン師も、クラリェビッチ師もこれを隠すのです。

 将来幻視者となるべき青年たちは、実はその年、別の司祭の元で「宗教教育」を受けていました。ロランタン師はこのようなことを注意深く隠します。何故、ロランタン師はヴラシッチ師が幻視者たちの元でほとんど直接に働きかけていた役割を隠し、私たちを騙そうとするのでしょうか?このカリスマ運動をしているフランシスコ会士、ヴラシッチ師は、既に出現のまえから彼らを知っていたではないでしょうか?私たちはそのことを既に良く知っています。何故、彼が「ずっと後になって」メデュゴリエに到着したと信じ込ませようとするのでしょうか。

 ゾブコ師は、既に4日目に幻視者たちにゴスパが何か教区のフランシスコ会士たちのためのメッセージがないかと尋ねさせています。既に、7月2日には、ゾブコ師の要求で、ヴィッカとヤコブは教区の教会の中で「出現」の話をしています。そして、ゾブコ師は既に信者たちにこの出現が超自然のものであることを保証しています。教会の全歴史の中で、聖職者が出現についてこれ程まであわてて好意的になったというのは見たことがありません。これはよい印ではありません。

7 脱魂

 ブルディエの『偽りの神秘家と偽りの予言者の識別』と言う本には、感覚が無くなることは天主からの脱魂と、悪魔からのものとのどちらでも起こりうるとあります。

 重要なことは、脱魂中に彼らが見、聞き、観想したその内容です。天主からの本当の脱魂は、常に霊魂を高め、天主の崇高な玄義に関する知識を享受させます。天主からの脱魂により、霊魂は天主への愛をいや増し、特異な方法でその霊魂の美徳を増加させます。脱魂は、いわば知性にとっては光、心にとっては燃ゆる火となります。

 メデュゴリエでは、彼らの「脱魂」中には、幻視者は自分たちの見たことを語ります。しかし、天主の御母には全く相応しくない話、堪えることの出来ないほどの平凡な内容、全く幼稚な内容に私たちは、とまどいを感じます。

 ヤコブはその脱魂中に、何度も、自分のゴスパにする質問によって、あるいは、自分がゴスパに答えるその返事によって、その他の幻視者たちを笑いに導きました。

 例えばある日、ヤコブはゴスパにディナモ・チーム(ザグレブの有名なサッカー・クラブ)が今度優勝するかを聞いた。この質問の後に、脱魂中の他の幻視者たちは、いきなり大爆笑を始めました。そんな下らないことを聞いたら誰でも笑ってしまうでしょう。

 更に驚くべきことは、1982年4月3日、ヴィッカはザニッチ司教にこう話しています。この内容は録音されて保存されています。それによると、ゴスパ自身が爆笑したそうです。

「ゴスパはこの『ヘルツェゴビナ問題』について話しました。そして、彼女は爆笑しました。彼女はそれから、ご自分だけが全てを解決しただろうと付け加えました。私は一体それが何の話なのか全く分かりませんでした。それで、私は笑い始めました。するとヤコブと私はばか笑いをしたのです。人は私たちに尋ねました。『何で笑っているのか?』私たちは、ゴスパが私たちに笑えと言ったので私たちは笑っていたのだと答えます。」

 エルゼゴビナの教会を現代引き裂くこの最も悲しい紛争について、どうして幻視者たちは爆笑し、聖母自身も爆笑できたのでしょうか?

 更に、「血で汚れたハンカチ」の話があります。ザニッチ司教は1984年10月30日付のレポートで、このことを述べています。ヴィッカはこのことをブバロ師にも話しました。ヴィッカによると、メデュゴリエの近辺のあるタクシーのドライバーが道である貧しい男と会ったと言っていました。この人は、(直ぐ後で私たちは、これがイエズス様だったと知らされるのですが)血の付いた一枚のハンカチをこのドライバーにあげ、水を見たら直ぐにその中にこのハンカチを捨てるようにと頼みました。「必ずそうしろよ!」と彼は言いました。しかし、道すがら、この運転手は黒い服を着た婦人と会い、彼女はこのハンカチを下さいと言いました。「この運転手はためらいましたが、彼女は脅迫しました。そこで、彼はこの婦人にハンカチを渡します。そして、その婦人は(聖母マリア様だったそうだ!)この運転手に、もし彼女にこのハンカチを渡さなかったら、大きな不幸が起こっていたことだろう、と言いました。世の終わり、何かこのようなことが。」

 この馬鹿話を、このちょっと頭のおかしい人がする話を、カプリィナの近くのタクシーの運転手が話したこのつまらない話を、メデュゴリエの聖母は正真正銘の話だったと保証しているのです!

 ブバロ師にヴィッカはこう言います。

「誰かが私たちに、このことが本当に起こったことなのかどうかを聖母に尋ねて欲しいと私たちに願いました。」

「それで、あなた達はそれを尋ねたのですね。」

「はい。」

「聖母はなんと答えましたか。」

「ゴスパは、ことはほとんどそのように本当に起こった、と言いました。そして、その男の人は聖子で、婦人が自分自身でしたと。」(Bubalo)

 あまりにも奇天烈で、あまりにも内容が常軌を逸脱していますので、私たちは、何らのコメントをする必要も感じません。その気力さえなくなります!

 ヴィッカとヤコブがゴスパに連れられて天国、煉獄、地獄を見せられる話もあります。ブバロ師にヴィッカは話しました。場所はヤコブの家で、ヴィッカはヤコブと共にいました。ゴスパは彼らに出現します。

「ゴスパは私たちに言いました。『イエズスは賛美されさせ給え!』彼女は私たちを天国へ連れていこうと言いました。」

 天国へ連れて行かれる!二人の幻視者たちの反応はどうだったのでしょうか?嬉しさに満ちあふれたでしょうか?いや。「私たちは恐ろしかったのです。ヤコブは泣き叫び始めました[ソノママ]。彼は、お母さんには自分しかいない、僕は行けない、私[ヴィッカ]だけが行くようにと。」

「それで聖母は?」

「ゴスパは何も言いませんでした。私たちはまだ跪いていました。ゴスパは私たち二人の間に来て顔を私たちの方に向けました。ゴスパは私たちを手で取り、私たちを上に持ち上げました。」

「家の中でね?」

「そうですとも。天井を貫いて、高く。家は消えて、私たちは離れ始めました。」

「どこへ?」

「知りません。私たちは高いところに登っていたように思えます。」

「怖かったですか。」

「ねえ、考えても見て下さい。私たちはそんなことを考えている余裕もなかったのです。私たちは直ぐに天国に着きました。」

「まだ地球は見えましたか。」

「私たちが上に上がると同時にそれは消えました。」

「誰がそれが天国だと言ったのですか。」

「私に何を言って欲しいと思っているのですか。後で聖書を読みながら、聖パウロの一節を見ました。『人の目がまだ見ず、人の耳がまだ聞いたことのないもの』と。パウロは全て言っています。」

「いつ、それから何故、聖母はそれをあなたに見せたのか言って下さい。」

「さっきこれを表現する言葉がないと言ったばかりです。これは畏れるべきで、言葉になりません。全ては素晴らしい光に包まれ、人々、花々、天使たち。全ては言うことの出来ない喜びに満たされ、・・・私の心はそれを見て止まりそうでした。」

「あなたは門のことを話したとそうですが。」

「聖母とともに私たちがいたところには、門の付いている廊下のようなものがありました。この門の前には一人の人が立っていました。[別のところでヴィッカはこの人が聖ペトロであると言っている!!]聖母は全ての人が入れるわけではないと言いました。ここにも、何らかの通行証のようなものが必要です。誰も必ずこの廊下を通らなければなりません。」

8 癒し

 このことについては、2つの質問を出さねばなりません。

1)メデュゴリエで正真正銘の癒しが生じたか。

2)出現によって或る病の癒しが約束された場合、その癒しが本当に生じたか。

 モスタールの司教であるザニッチ司教によって強調されたのは、この第2の点でした。そしてそれは全く正しい判断です。もし御出現がある病の癒しを約束したにもかかわらず、それが治らなかったとしますと、出現は約束を破ったことになります。これは、この出現が聖母からのものではなかったと言うことの証拠になります。

 ザニッチ司教はそのレポートの中でメデュゴリエの聖母が癒しを約束した5つの件をあげています。しかし、聖母から癒されると約束された彼らは、その後数週間か数ヶ月で、全員死んでいます!

 ヴィッカの証言はこれに関して矛盾だらけです。ヴィッカはブバロ師と対話します。

「私は、聖母が時々何らかの癒しを預言されたことがあったかどうかを知りたいのですけれど。」

「決してありません。私の知る限り。ゴスパはいつも信仰、祈り、天主のみ旨への依託、において堅忍すること、それだけを勧めます。」

「幼いダニエル・セッカ君の件はそれでも少し奇妙だな。カセットに録音された内容によると誰か[つまり、ゴスパの言葉を伝達した幻視者の一人]が、直ぐに、『彼は治るでしょう』と何も条件も付けずに言いました。」

「でも、動揺の中で、誰が全てを考えることが出来たでしょうか。[大切なのは全てを考えることではなく、出現が言ったことをそのまま正確に繰り返すことなのに!]そう話した人は[一体どの幻視者の話をしているのでしょうか?]聖母がダニエルの両親に生ける信仰、祈り、断食を求めていたことを良く知っていました。しかし、彼がそれを大きな声で言わなかったというのはあり得ることです。[こうしてまんまと責任回避!]」

「もう一度言いますが、あなたは聖母が全く無条件にある一人の男の子の癒しを約束されたと私に言いましたね。」

「誰の話ですか?私は覚えていません。」

「膝の上で足を切断した男の子です。そして、聖母は『約束の印が明らかにされた後で、無条件に聖母が彼をいやす』と告げられたのでしょう。」

「ああ、そう。そうそう。聖母はその時多くの癒しを約束されました・・・」(Babulo)

 メデュゴリエでは、明白で、無条件の癒しの約束が多くあるのです。ザニッチ司教がそれらの約束が守られたかどうかよく調べることを主張するのは、理にかなっているのです。

 ロランタン師はディアラ・バシレと言う女性がいやされたことをリポートしています。しかし、彼女は「内的に熱いものを感じて」癒され、これは、ペンテコステ運動の癒しと共通します。メデュゴリエを動かす霊とペンテコステ運動の霊は全く同じ霊なのです。

9 謙遜の雰囲気

 謙遜は全ての天主からのものの印です。

 ヴィッカは、50回目の出現から、1万5千人もの人が既に出現地に来るようになったことを語っています。ブバロ師はこう尋ねました。「はい、でもどうやってそこまでになったのでしょうか?聖母はあの国この国と現れましたが、聖母を見ようとそんなにも人は集まりませんでした。」

 ヴィッカは答えます。「ここはメデュゴリエです!ここには、聖母は特別な仕方でお現れになるのです。聖母は、以前どこでもこのようなことをなさいませんでしたし、将来もなさることがないでしょう。ゴスパはそのことを何度も言いました。」

 実に、メデュゴリエのゴスパははっきりこう言いました。

「私は世界を回心へと呼びかけに来ましたが、これで最後です。何故なら、私はもはや地上に現れることはないでしょうから。」(ゴスパは、地上における最後の御出現だと言いました。)

 1985年の聖木曜日にはゴスパは幻視者たちにこう宣言します。「・・・私は、世の始まり以来、歴史上かつて存在したことのない方法で、あなた達にメッセージを与えようと望みます。私の呼びかけに答えてくれて有り難う。」

 メデュゴリエのカリスマ運動の出現は、自分のことを謙遜に、イエズスの聖心の御出現されたパレ・ル・モニアルよりも、リュ・ド・バックの御出現よりも、ルルドよりも、ファチマよりも、新約・旧約時代の天主の御出現よりも、遙かに上回る大出現だと位置づけるのです。メデュゴリエの出現こそ、この世の始まり以来、かつて無く、今後も無いほどの、最高の御出現であるというのです。謙遜にも!

10 印と不思議

 メデュゴリエの「奇跡」は数多いがいつも奇妙奇天烈で、疑問を抱かせるものです。

1981年6月にはヴィッカはトラクターの道具箱の中に「天からの神秘のロザリオ」を見つけました。1981年8月2日には、150人が新しい太陽のダンスを見ました。ある晩には、「地が裂けるかのような」ものすごい轟音が聞こえました。また別の機会には、地の下からゴスパが出て来るようなシルエットを人々は見ています。

11 幻視者の霊魂の実り

 超自然の出現には、幻視者において、常に徳への前進が見られます。私たちは彼らの美徳について判断する資格はありません。しかし、彼らの誠実さについてみてみましょう。つまり、彼らの言うことは信頼が置けるのかどうかと言うことです。

 ザニッチ司教は確かな証拠を持って幻視者を嘘つきだといいます。まず、彼らは1981年6月24日丘の上に散歩に出かけた動機について嘘をつきました。6月30日チェルノCernoへ行った動機について嘘をつきました。彼らの預言通りにことが起こらないと、彼らは出現がもうすぐ終わると告げたことを否定しだしました。約束の偉大な印がいつ起こるかについて正確な日付を示した、という事実を彼らは否定しました。無条件の癒しが起こるという約束を伝達したことを否定しました。出現は、反抗的なフランシスコ会士たちに対して悪い態度を取ったことで、司教を告発するメッセージを与えました。しかしこのことについて、彼らは何度も嘘をつきました。

 ロランタン師は明らかな嘘でも幻視者を弁護しようと詭弁を使っています。

「幻視者たちは秘密を守らなければならないという難しい状況に置かれていました。[しかし、司教が、幻視者を嘘つきだと告発するのは、ほとんどの場合秘密とは全く関係ありませんので、この議論は当たりません。]彼らは、まだ子供です。[しかし、ロランタン師は1981年に既にこう書いていたではないでしょうか。『聖母を見た6人はもはや子供ではない(一人を除いて)。彼らは皆16歳から18歳までの年齢で、思春期という不安定な時期は通り過ぎています。』(p29)と。その当時では、その首謀者ヴィッカは21歳、最も若いヤコブは14歳だった!何が子供なのでしょうか!?]・・・難しい状況の脅迫を受けた状況下で、外交的な言葉を言ったとして、それを嘘だと言うべきでしょうか。・・・幻視者たちのした、難しい状況下での身のかわしは、地中海の国における、通常のやり方の範囲を越えていません。・・・」

 こうして、ロランタン師は「地中海の国では」嘘をつくのが「最上のやり方」であって「通常のやり方」だというのです。私たちは、このようなことを初めて聞きます。これがカリスマ運動の新しい道徳規範なのでしょうか?実際ロランタン師も「難しい状況下では」頻繁にこの「通常のやり方」に避難するようです。

 カリスマ運動の推進者であるスプリットの司教、フラニッチFranic司教は幻視者たちの「嘘」は重要ではないと次のように説明しています。

「一般的に、カリスマ運動者は、自分の言う全てのことにおいて熟しており、聖霊の息吹によってことを行うのであるから、それがたとえ司教であったとしても、自分の長上にでも、真理を言う義務がない。もし、この長上が霊に従って行動しておらず、刷新運動の利益に合致していないときには、である。この原理を、個々に適応しよう。メデュゴリエのフランシスコ会士と、幻視者たちとは、御出現という全てにおいて聖なることのため、この御出現を守るために、(そして、この御出現は確かに本物である、何故なら、聖霊が彼らに、おのおのに、自分の最も奥深くでそれを感じさせてくれるからであるが)司教に嘘をつくのである。これは、嘘にはならない。さらには、ザニッチ司教は真理を知るいかなる権利も持っていない。何故なら、彼はカリスマ運動者ではなく、真理を理解することが出来ないからだ!この、カリスマ者でないものにとって、多かれ少なかれ、こうやってあからさまに、故意に真理を軽蔑すること、これがメデュゴリエのカリスマ者と、その司教との間に起こった、ヴィッカの日記に関する論争の根元である。そして、カリスマ者はこの日記を彼に知らせることを拒否するのである。」

 いや、カトリックは昔から、真理を愛し、嘘を憎みます。嘘つきは天主からの真の伝令者とはなり得ません。

ヴィッカの嘘

 1985年1月14日の晩、出現の時刻は迫りました。ここは一つの小さな部屋。メデュゴリエの村の人々や、ドイツ人のカメラマン、また、スラヴコ・バルバリッチSlavko Barbaric神父(メデュゴリエの教区の助任司祭でヴラシッチ神父の後継者でカリスマ運動書)、トミスラヴ・ペルヴァンTomislav Pervan神父(教区の主任司祭)、ルイ・ベランジェLouis Belanger(カナダ人の研究家、やはりビデオ・カメラを持っていた)、ジャン・ルイ・M(Jean-Louis M.メデュゴリエに住み着いて9ヶ月になるフランス人のメデュゴリエ信奉者、しかし出現の信憑性を疑いだしていた)などがいました。幻視者たちが到着し、跪き、「脱魂」が始まりました。

 このとき、上で最後に名前を挙げたフランス人がいきなり、人差し指と親指を立ててヴィッカの目に猛烈に突き刺そうとしました。ヴィッカはびっくりして頭を後ろに反らせてそれを交わします。皆は一体何が始まるのかと自問自答し始めました。この様子は2つのビデオカメラに撮影されました。ヴィッカの後ろにいたスラヴコ・バルバリッチ神父は、明らかに嬉しそうではありません。「出現」の儀式は終わり、皆は帰っていきました。例のフランス人はバルバリッチ師に言います。

「あなたは私がしたことを見ましたか?実験でした。私はヴィッカに、自己保存の本能を呼び起こす刺激を与えてみました。そして、あなたが話していたこととは全く反対に、彼女は反応しました。以前の実験は偽物でした。私のした実験は聖母が出現になっていないということは証明しません、しかし、子供たちが確かに外的な刺激に反応すると言うことを証明しています。何故あなたは嘘をついたのですか。」

バルバリッチ師は、落ち着かず、居所を失ったようでした。彼はそのまま祈りに出かけました。このフランス人はカナダ人のルイ・ベランジェに「あなたは録画したでしょう?この画像は非常に重要です、証拠になります。」と言いました。

 バルバリッチ師は非常に狼狽していることを隠すことが出来ませんでした。しかし、彼はミサを捧げなければなりませんでした。ルイ・ベランジェとドイツ人カメラマンはまだ「出現」の部屋に居残っていました。数分の後、扉が開き、ヴィッカが微笑みながらしかし、顔を少しこわばらせて入ってきました。そして彼女の後ろには、追放された二人のフランシスコ会士のうちの一人イヴィカ・ヴェゴIvika Vegoがいました。ヴィッカはとても興奮していました。彼女は自分の唇をかんでいました。そして言いました。

「私はジャン・ルイさんも、彼の手も見ませんでした。私は聖母を見ました。聖母は幼きイエズス様を腕に抱えておられました。すると、幼子イエズスは腕から滑り落ち、私はただイエズス様が落ちないようにとしぐさをしただけです。それだけです!」

 ロランタン師は、この出来事を意味のないたわいのないことと言って、もみ消そうとしています。しかし、メデュゴリエの専門家は、故意の省略や隠し事と嘘の専門家で、ヴィッカのした戯けた説明を省略します。私たちは、この出来事において、メデュゴリエの核心に迫っているのです。一体幻視者と自称する人たちは、誠実なのでしょうか。彼らが聖母を見たと主張するとき、本当に彼らを信じることが出来るのでしょうか。

 実にこの出来事の数ヶ月前から、ヴラシッチ師や、バルバリッチ師、ロランタン師も、幻視者たちは脱魂状態の時には「不動で、外界とはいかなる連絡もない」と言っていましたし、ヴィッカもブバロ師のそう断言していたのでした。この晩のバルバリッチ師の狼狽が何故かがよく分かるでしょう。

 ヴィッカの証言をよく見ますと、彼女は二重の嘘をついていました。まず、ヴィッカが本当に幼きイエズスが聖母の腕から滑り落ちたのを見たとは考えられません。更に、前に身を乗り出して腕を差しだし、イエズスを受け取ろうとする代わりに、身を後ろに反らして「イエズス様が落ちないようにとしぐさをした」というのはあまりにも愚かで馬鹿馬鹿しいことです。また、たとえ仮にイエズスが聖母の腕から本当に滑り落ちそうとしたとしても、どうしてジャン・ルイがヴィッカを攻撃しようとしたその瞬間に落ちそうになるのでしょうか。奇妙な一致です。ヴィッカはどうしても幼きイエズスを伴った聖母の出現の話をでっち上げたとしか思われません。

 ヴィッカによれば、1981年の最初の出現からその時までおよそ1300回の出現があったそうですが、幼きイエズスを伴って聖母が現れたのはそのうち3回しかありませんでした。ヴィッカは、決して、彼女の言うところの「マリア様の腕の上に不安定に見えた」幼きイエズスを見ていたのではありません。ヴィッカが見ていたのは、私たちがビデオの録画で見るように、目に入ろうとするジャン・ルイの指でした。彼女のこの瞬間の反応があったことをだれもその晩は否定しませんでした。バルバリッチ師も、ペルヴァン師も、ヴィッカ自身も!しかし、ロランタン師は、ヴィッカがそのような本能をしたことを躍起になって否定しようとしています。そこで、1月27日から、誰一人として出現の部屋に立ち入ることが出来なくなったのです!

 神秘神学において、天主から特別な聖寵を賜った霊魂には、合法的な長上の命令に堅く従うように天主は命じられることが知られています。脱魂中の聖人でも、その長上が彼に命じると直ぐに平静の状態に戻りました。

 1984年8月、ザニッチ司教は教会の伝統的な規律を押しつけました。司教は、「出現」の正真正銘性を疑うべき充分な証拠がありましたので、ヴラシッチ師に教会の中で幻視者の「脱魂」が起こることを許してはならない、もし脱魂するなら、自分たちの家とか、個人的なところでのみ、と言うことを命じました。しかし、ヴラシッチ師は従順することを拒みました。そこで、彼は9月に隣の教区に人事異動となりました。10月31日、司教は同じ命令をスラヴコ・バルバリッチ師に与えました。彼も従うことを拒みました。1985年1月1日、司教はこれを今度は教区から追放する命令を出します。しかし、フランシスコ会の地区長はこれを追認するのを遅らせました。1月31日司教は、1週間以内に教区から出ていくようにと同じ勅令を繰り返します。しかし、この間に、司教の禁止にも拘わらず、毎晩教会内で出現がありました。

 1月3日、イワンは脱魂中に「聖母」がこう言うのを聞きました。

「私はスラヴコ[バルバリッチ師のこと]がここに留まることを望みます。彼が命を導き、新しい命を集めるように。それは私がいなくなった後にも、全て起こったことの完全なイメージが残るためです。私が特に今、スラヴコのために、この教区で働く人々のために祈ります。」

 スラヴコ・バルバリッチ師は8月までそこに留まりました。カトリック教会の伝統的な神秘神学によれば、現代の最も高度な医学上の試験よりも、神秘的が現象が天主からのものか悪魔からのものかを見分けるのには、合法的な権威に従順であるかどうかと言う試験の方がもっと意味と価値があり、神学的であり、すなわち科学的です。しかし、これらカリスマ運動をしている人々に、このことを説明しても、彼らは聞く耳を持っていません。

 ザニッチ司教は1985年3月にドレクロ神父にこう尋ねられました。

「あなたは元々、出現には反対ですか。」

「いえ、その反対です。私はルルドには8回行きました。私は巡礼団を組みました。私はマリア様の信心に大賛成です。私はバヌーBanneux、ボランBeauraing、シラクサSyracusaと言った教会から認可を受けた聖母の3つの出現地に行きました。」

「でも、メデュゴリエの出現は納得しないようですね。」

「私は自分の司教区に別のルルドがあったらどんなにいいか!と願います。これは、本当に偉大なことです。でも、私は天主様の前で、私の良心の前で、教会の歴史の前で、このメデュゴリエの出現が本当で超自然のものであると宣言することはできません。」

「あなたはまだ政府からの困難を恐れますか」

「現在は全ては落ち着いています。・・・しかし、私が思うには、メデュゴリエの周りの感情的な興奮が、幻滅に場所を譲って落ち着くとしたら、一体何が起こるでしょうか?共産主義者たちはルルドやファチマ、キリストや、カトリック信仰が、全てメデュゴリエ以上には価値がない[つまり全く価値がない]と結論付けるでしょう。そうなったら、教会の権威の失墜でしょう。」

「最後の一言は?」

「確かに私は罪人であって、司教には相応しくない人間です。しかし、私はもしそれが全て嘘であると知りつつ、偽りを言うがままにさせていたとしたら、それこそ私の人生の全ての罪の中で最大の罪となるでしょう。」

 ザニッチ司教は、毎日のように、世界中のカリスマ運動の人々から、霊の名において侮辱を受けています。司教は言います。

「私は馬鹿か悪魔付きであるこのように取り扱われています。私は全てを崩壊させ、出現に関わる全てに反対するものであると告発されています。私はサタンの人となった生まれ変わりだと言われています。」(La Libre Belgique, 11 avril 1985)

 ヨハネ・パウロ2世によって「パウロ6世賞」を受けた、この地球上の全てのカリスマ運動の教祖として崇められている神学者に、ハンス・ウルス・ファオン・バルタザールHan Urs von Balthasarと言う人がいます。彼は、ザニッチ司教がメデュゴリエの聖なるカリスマ運動の指導者トマスラヴ・ヴラシッチ師を排斥したと言うことで、非常に厳しい手紙をこの司教に宛てて書きました。手紙の内容は次の通りです。

「司教様、あなたはなんと悲しい文章を全世界中に送ったのでしょうか!司教職がこれ程退廃した[ソノママ]のを見て、私は深く悲しみました。あなたに人々が勧めるように、忍耐強くある代わりに、あなたは高みから、あなたの世話と保護を受けるに相応しい尊敬すべき、無実の人々[これはヴラシッチ師のこと]を否定し、厳しい雷を落としました。・・・私はあなたが誠実に主と聖母に祈ることを期待します[ヒドイ!]。メデュゴリエでかくも熱心に祈る人々全てと交わりなさい[コンドハ、メイレイ]。敬具」

イワンの嘘

 出現の最初の月からゴスパは印を約束しました。この印は、メデュゴリエの正真性を証しするものとなるべく、与えられると約束されました。

 1981年8月27日、ゴスパは「直ぐ来るでしょう」と言いました。

 8月29日、「もう少し忍耐しなさい。」

 9月3日、「もう少しだけ忍耐しなさい。」

 遂に、待望の印は1981年の12月8日に与えられるとゴスパは約束します。ところが、その約束も同じ年のクリスマスに延期され、更に翌年の1月1日に延期され、最後には幻視者は「私たちはそんなことは言いませんでした。」と宣言しました(!)。

 ファチマの第3の秘密をヒントに、ザニッチ司教は1982年5月10日、調査委員会の二人の委員を派遣し、幻視者にこの大いなる印とは何なのか、いつ起こるのかを書かせるように要求しました。彼らの書いたものは封印をされ、この出来事が起こるまで閉じられることになっていました。

 しかしヴラシッチ師はこのことを知り、幻視者たちに、聖母は厳しく書くことを禁じたと答えるように求めました。しかし、その当時ヴィソコの神学校にいたイワンだけは、ヴィラシッチの手が及びませんでした。従ってイワンは、司教が彼に求めたことを何も反対せずに、2部書きました。封筒の1つは封印をされて神学校のイワンの友達の兄弟に預けられました。もう一つはモスタールの司教に預けられました。1984年10月30日に司教はレポートを書きますが、この印について、幻視者たちの矛盾した態度を指摘しています。すなわち、イワンは、ゴスパは自分が印について書いたことを何ら叱らなかったことを保証しますが、他の幻視者には禁止したのだというのです!

 しかし、1985年になりますと、イワンは、おそらく自分が書いてしまったことに不安を覚えたのでしょうか、この2通の封筒を取り戻そうとします。彼はその当時、その封筒の中に「何もない、何もない、何もない!」としか書かなかったと言いました。その当時ロランタン師は誇らしげにこう解説しました。「すなわち、私は何も書くことは出来ません。聖母は私にそうすることを禁止しました、と言う意味だった」と。

 しかし、おかしなことにイワンはこの封筒が開封されるのを望みませんでした。イワンはそのうちの1通を取り戻すのに成功しています。人はそれをイワンに求めましたが、イワンはそれを無くしたと言いました。「イワンはそれを本の中に挟んだ、と思っていましたが、もう見つけることは出来なかった」とロランタン師は説明します。

 3月7日、ザニッチ司教は、司教館にまだ封をされてあった封筒を持たせて、委員会の二人の委員をイワンのもとに送りました。次に、イワンは、その中には何も書かなかったと彼らに保証しましたので、司教はもはや印が起きるまで開封を待つ理由が無くなってしまいました。そこで、司教はイワンに封筒を開封をしても良いかと尋ねました。イワンは開封に同意せざるを得なくなりました。イワンの同意を得ると、委員は司教のもとに帰りました。彼らは封筒を開封し、中身を読みました。イワンは確かに、次の通りの何かを書いてありました。

「聖母は、印を残すでしょうと言われました。すなわち、私の出現を褒め称えて、メデュゴリエにある大きな至聖所が出来るでしょう。この至聖所は私のイメージに従うでしょう。印は、第6の月に起こるでしょう。

署名:ドラギーチェヴィッチ・イワン」

 この全く意味のない印が本当に約束された印なのでしょうか?3月9日に、スラヴコ師がイワンに質問します。イワンはこう答えました。

「私はあなたが何故来たか知っています。委員会は封筒を開いて、中に何かを読んだのでしょう。でも、それは印でもなければ、その日付でもありません。」

 従って、私たちはこう言わなければなりません。まず1982年5月10日、彼は印について本当の印を書かなかったことによって、最初の嘘をつきました。次に、彼は「何も書かなかった」と言い張って第2の嘘をつきました。更に、彼は「取り戻した封筒を無くした」と言って第3の嘘をつきました。

 既に述べたように、ヴィッカはその日記についても嘘をつきました。

 別のところでは、ヴラシッチ師も天主に誓って嘘をつき、偽証しています。

 1985年1月14日のヴィッカの嘘の後、上のようにイワンも司教に嘘をつきました。

 こうして、度重なる幻視者とその周りの司祭の嘘を見ますと、ザニッチ司教の厳しい残酷な言葉が良く理解できます。「メデュゴリエの幻視者たちは嘘つきである」と。

12 信者の霊魂の実り

 ファチマで起こったこととは反対に、メデュゴリエに群衆を集めたのは、ゴスパではありませんでした。カリスマ運動の聖職者たちが彼らをメデュゴリエに動員したのでした。クロアチアのようなカトリック地方は司祭の発言には権威があります。司祭が「マリア様が御出現になりました。巡礼をしなければなりません。」と言えば信者はそう従うのです。信者はそこで祈りを熱心にし、告白もするのです。しかし、これらの信者を見て、「メデュゴリエの信者は熱心だ、だから出現は本当だ」とは言えません。クロアチアの人々の心には伝統的なカトリック信仰が根付いているのです。十字架の道行き、マリア信心、御聖体の礼拝等々、彼らの心に染みわたっています。クロアチアの人々にとって、御聖体拝領と告解とは離すことが出来ないのです。クロアチアの人々を賞賛して、或る司祭はこう書いています。

「マリア様はクロアチアの元后ではないでしょうか。ここでは、全ての婦人はロザリオを手に持っていると言われます。ロザリオをミサの間も手に持って唱えている人もかなりいます。ロザリオは5月と10月には公式に唱えられます。勿論個人的にはもっと唱えられます。日常的な宗教生活は非常に熱心です。天候の悪いときには、ミサに来る人の数が減ることもあります。しかし、彼らはどんな長い距離でも疲れを知らずに歩いてミサに来ます。もし、伝統が深く過去に根付いているとしますと、伝統は今日、共産体制に挑戦しても、維持されています。」(P. Deleclos, "Libre Belgique", 10 mai 1985)

 一言で言いますと、メデュゴリエは、クロアチアの教会が持っている公会議の前の生命力、公会議の前の聖伝への忠実さから来る生命力を、寄生虫のように利用したに過ぎません。

 更に言えば、メデュゴリエは非常に効果的なやり方で、2つの目的のために利用されています。ヘルゼゴビナの少数のフランシスコ会士は、この2つの目的のために全力を尽くして闘争しています。

 この2つの目的とは、何でしょうか。まずその1つは、教区間の軋轢に関してモスタールの司教に対する戦いです。もう1つは、ペンテコステ式のカリスマ運動を全ユーゴスラビアのみならず、全世界に広めようと言う野望です。

 ゴスパのメッセージの中には、司教の合法的決定に対する反乱の芽、カリスマ的なエキュメニスム運動による背教の芽、本当の信仰と本当の道徳また聖伝の真の神秘主義を崩壊させる芽が至る所に見られます。


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