アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
明日6月29日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日です。今年、新しい「ペトロの後継者」を選ぶ選挙が行われましたが、それは、誰も思いもしていなかったベネディクト十六世の辞任があったからです。今年は驚くべき事がたくさんありましたが、新しく選ばれた教皇様も私たちのほとんどにとって全くの意外の方でした。私たちは、教皇様のために祈り続けましょう。
私たちは、天主様の御恵みによって、カトリック、すなわち、まことのキリスト者となりました。カトリック教会にとって、真のキリストの教会に属する私たちにとって、ペトロの後継者はとても大切です。何故なら、イエズス・キリストは使徒聖ペトロの上に御自分の唯一の教会を建てたからです。
初代から「ペトロを中心とする使徒団は、全教団に対して宣教と統率の実権を握ってい」(岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫 838ページ)ました。使徒行録によると、聖都イエルサレムにおける最初のキリスト信者たちの集まりは、「神秘的な信仰の感激に燃えた一分派ではなく、その中には最初から永続的の組織のあったことが看取され」「可視的の聖職制度であり、信仰の規定があり、特有の秘蹟を備えていた」(上掲書 838ページ)からです。
パウロも、誰がキリストの神秘体に属し誰が属していなかったかよく知っていました。パウロは信徒に向かっては天主の権威をもって臨みます。教会内の秩序と正当信仰を守るためには、破門すらも躊躇しません。しかしそのパウロも、教会「外にある者は裁かない」と言います。「初代教会は主観的な体験論者の集団ではなかった」(上掲書 901ページ)のです。
岩下壮一神父の言うように、「カトリック信者の信仰意識においては、神、キリスト、教会は三位一体であって、そこに何らの背反も矛盾も有り得ない。教権か聖霊かというがごとき背反は、どこにも存在し得ない。彼にとっては、教会はキリストであり、その能力たる教権は、すなわち聖霊の働きそのものである。しかし彼のこの信仰はリヴァイヴァル式の感情昂奮の裡に感得したものではなく、冷静なる思慮の後の沈着なる決断の結果であるから、事後の自ら顧みて、その信仰内容を抽象的に分析することも可能である。彼は教会において、人間的な、従って不完全な要素のあることを知る。これあるがゆえに彼は信者であって、直感者ではないのである。彼が信者となったのは、教会がまとえる不完全な人間的な衣装の裏に、キリストを認めたからである。教権がその認めたるキリストを意志を代表する限りにおいて(代表しなくなった瞬間それは教権ではなくなる)、その命令が聖者によって彼にまで伝達さるると、小人によって下さるるとは、あえて問うところではないのである。彼の信仰は、むしろ後の場合においてその貧しき働きを為すのである。彼は目に見ゆるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(上掲書 698ページ)
「そもそも宗教生活の神髄は、神の無限の権威の前に謙遜に跪くにある」(上掲書 637ページ)からです。
聖書でさえ、教会の権威の前に跪くが故に成立するものです。「彼にとって教会はまた真理である。そのドグマは教会が教うるがゆえに信仰され、聖書は教会が保証するがゆえに神の言として受け容れられる」(上掲書 700ページ)
「彼の信仰は、教皇において全体の頭たるキリストを見る。・・・さればカトリック信者は、聖公会の人などが法王に名誉的優位(Primacy of honour)を譲ってもいいなどという妥協案を提出するときに、その浅見を笑わざるを得ないのである。もしも教皇がキリストの目に見える代理者ではないのなら、彼は何者でもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していたも、彼は一介の平信徒と撰ぶところがないのである。しかるにPrimacy of honourなどとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である。カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信じるキリストの権威に服するのである。」(上掲書 702 - 703ページ ただし一部「法王」は「教皇」に訂正した。)
それ故にこそ私たちは、日ごとに、「主は御摂理によりて主のしもべなるフランシスコを教会の牧者として、これを司らしめ給えり。願わくは教皇の上に御慈悲を垂れ、その教訓と模範とによりて、すべての信者をますます善徳に進ましめ、委ねられたる群れと共に、永遠の生命に至るを得しめ給え」と祈るのです。日本のミッションでは、この20年間、常に欠かさず聖伝のミサの後で教皇様のために祈りを一緒に捧げていまし、これからもそうし続けます。
【以上のことは、岩下壮一神父の『カトリックの信仰』を引用しつつ、18年前にナイスについて文章を書いたことがありました、また8年前には「弱い人間性をおびた教導権」を述べて引用したことがありますが、その繰り返しです。』
聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様も、正に、この態度を取っていました。ローマの神学校で勉強し、特にル・フロック神父様から歴代の教皇たちの回勅を学び、ピオ十二世教皇の教皇使節として長年働き、ローマを愛し続けてきた大司教だったからです。ルフェーブル大司教様のローマへの信仰と愛とは、例えば有名な1974年の宣言にも現れています。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」
パウロ六世から受けた否定的な態度にも関わらず、ルフェーブル大司教様は、1977年に司教聖別30周年に際してエコンで「天主からの三つの偉大な贈り物」というテーマの説教をしています。すなわち、教皇様、聖母マリア様、御聖体の三つです。ルフェーブル大司教様は、このお説教の中で、私たちは教会の危機に囲まれつつも、ただ目を閉じて、私たちのカトリックとしての義務を忠実に果たすことを説きました。使徒信経を信じ、天主の十戒を守り、山上の垂訓を黙想し、光を待ち望むこと。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けること。
何故なら、ルフェーブル大司教様は私たちにローマ・カトリックであることを教えてくれているからです。そして、カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することを教えてくれたからです。この教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することについては、以前既に述べたことがありした。私たちはそれを今日も繰り返して言います。
私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切です。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだからです。
私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている、これが故に、ルフェーブル大司教様も、私たちカトリック信者も、苦しんでいるのです。
しかし、カトリック教会は、私たちの主イエズス・キリストの真の教会です。私たちの母親です。これ以外に私たちには別の教会はありませんし、この世には別の母親はありません。教皇様は私たちの父親です。私たちの力の及ぶ限り、私たちの家族であるこのカトリック教会のために祈り、苦しみを捧げます。家族は父親を抜きにして救うことが出来ません。私たちは公会議でもなければ、天主の御摂理でもありません。しかし、天主様は私たちの祈りを、教皇様を助けたいという祈りを聞き入れて下さると信じています。
聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の遺志を受け継いで、教皇様のために祈り闘っています。だからこそ昨年の総会では、カトリック教会が、私たちの主イエズス・キリストご自身がそう望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つこと、また、私たちの主イエズス・キリストが自然的及び超自然的秩序双方の創造主であり、全人類と社会全体とが服従すべきイエズス・キリストは普遍的王権をもっていることに対する信仰を宣言しました。第二バチカン公会議の司教団体制に反対するのは、それが聖伝に反し、唯一教皇だけが持つ最高の権力を、それが否定するからです。
私たちは、私たちのカトリック生活において、私たちの御旗にこの言葉を書き込みます。「教皇様への愛、教皇職の防御、カトリック教会のための犠牲、教皇職を守るための祈りと犠牲」と。カトリック教会の本当の刷新は、聖伝へのたち戻りは、頭からでなければ起こりえません。私たち聖伝は、不当にも、公式に正当な地位を与えられていませんが、私たちは教皇様のためにカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げることによって霊的に戦い続けます。私たちの日々の義務をよく果たすことによって、祈りと償いによって、カトリック教会のために多くの貢献が出来ると知っています。教皇様のために祈りましょう!
ローマで状況が悪化すればするほど、私たちはいっそう熱心に祈ります。私たちは何度もロザリオの十字軍を起こして祈りを呼びかけました。個人個人でも、家族でも、共同体でも、私たちの教会ではローマのために、教皇様のために祈り続けています。ルフェーブル大司教に倣って、天主様が私たちに教皇様を与えてくださっていることを感謝します。教皇職というのは、この地上のどのような権威よりも上にあるのですから。教皇職というのは、超自然のレベルの権威なのですから、私たちは多く祈らなければなりません。
たとえ、見かけ上は、教皇様に反対するかのように見えても(例えば現今のエキュメニズムや司教団体主義などを私たちが実践することができないので、あるいはその近代主義に賛同することが出来ないので)、私たちは常に教皇様のその役職に対する愛と尊敬を持ち続けています。私たちの、見かけ上の反対は、できるだけ教皇様を善意に解釈しようとする、苦しみと悲しみと涙に満ちたものです。教皇様は私たちの父親であるからです。
大変デリケートな立場に私たちはいますが、聖母の汚れなき御心が私たちを助けてくれると信じています。ファティマの聖母マリアさまは幼いヤチンタに教皇様のヴィジョンを見せて諭してくれました。ヤチンタはフランチスコとルチアとにこう言います。「かわいそうな教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければなりません!」 願わくは、教皇様が一刻も早く聖伝に立ち戻りますように! カトリック教会を、その聖伝に立ち戻らせますように! 永遠のローマがその光を取り戻しますように! 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え! 聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを捧げます。教皇様を守り給え!
東欧管区のシュテーリン神父様が聖アンブロジオが聖モニカに言った言葉を私たちの状況に置き換えていみじくもこう言っていますが、正にその通りだと思います。「そのためにこれほど多くの涙を流した父は、使徒継承のカトリック聖伝に立ち戻らないことはあり得ない」と。
聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
明日6月29日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日です。今年、新しい「ペトロの後継者」を選ぶ選挙が行われましたが、それは、誰も思いもしていなかったベネディクト十六世の辞任があったからです。今年は驚くべき事がたくさんありましたが、新しく選ばれた教皇様も私たちのほとんどにとって全くの意外の方でした。私たちは、教皇様のために祈り続けましょう。
私たちは、天主様の御恵みによって、カトリック、すなわち、まことのキリスト者となりました。カトリック教会にとって、真のキリストの教会に属する私たちにとって、ペトロの後継者はとても大切です。何故なら、イエズス・キリストは使徒聖ペトロの上に御自分の唯一の教会を建てたからです。
初代から「ペトロを中心とする使徒団は、全教団に対して宣教と統率の実権を握ってい」(岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫 838ページ)ました。使徒行録によると、聖都イエルサレムにおける最初のキリスト信者たちの集まりは、「神秘的な信仰の感激に燃えた一分派ではなく、その中には最初から永続的の組織のあったことが看取され」「可視的の聖職制度であり、信仰の規定があり、特有の秘蹟を備えていた」(上掲書 838ページ)からです。
パウロも、誰がキリストの神秘体に属し誰が属していなかったかよく知っていました。パウロは信徒に向かっては天主の権威をもって臨みます。教会内の秩序と正当信仰を守るためには、破門すらも躊躇しません。しかしそのパウロも、教会「外にある者は裁かない」と言います。「初代教会は主観的な体験論者の集団ではなかった」(上掲書 901ページ)のです。
岩下壮一神父の言うように、「カトリック信者の信仰意識においては、神、キリスト、教会は三位一体であって、そこに何らの背反も矛盾も有り得ない。教権か聖霊かというがごとき背反は、どこにも存在し得ない。彼にとっては、教会はキリストであり、その能力たる教権は、すなわち聖霊の働きそのものである。しかし彼のこの信仰はリヴァイヴァル式の感情昂奮の裡に感得したものではなく、冷静なる思慮の後の沈着なる決断の結果であるから、事後の自ら顧みて、その信仰内容を抽象的に分析することも可能である。彼は教会において、人間的な、従って不完全な要素のあることを知る。これあるがゆえに彼は信者であって、直感者ではないのである。彼が信者となったのは、教会がまとえる不完全な人間的な衣装の裏に、キリストを認めたからである。教権がその認めたるキリストを意志を代表する限りにおいて(代表しなくなった瞬間それは教権ではなくなる)、その命令が聖者によって彼にまで伝達さるると、小人によって下さるるとは、あえて問うところではないのである。彼の信仰は、むしろ後の場合においてその貧しき働きを為すのである。彼は目に見ゆるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(上掲書 698ページ)
「そもそも宗教生活の神髄は、神の無限の権威の前に謙遜に跪くにある」(上掲書 637ページ)からです。
聖書でさえ、教会の権威の前に跪くが故に成立するものです。「彼にとって教会はまた真理である。そのドグマは教会が教うるがゆえに信仰され、聖書は教会が保証するがゆえに神の言として受け容れられる」(上掲書 700ページ)
「彼の信仰は、教皇において全体の頭たるキリストを見る。・・・さればカトリック信者は、聖公会の人などが法王に名誉的優位(Primacy of honour)を譲ってもいいなどという妥協案を提出するときに、その浅見を笑わざるを得ないのである。もしも教皇がキリストの目に見える代理者ではないのなら、彼は何者でもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していたも、彼は一介の平信徒と撰ぶところがないのである。しかるにPrimacy of honourなどとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である。カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信じるキリストの権威に服するのである。」(上掲書 702 - 703ページ ただし一部「法王」は「教皇」に訂正した。)
それ故にこそ私たちは、日ごとに、「主は御摂理によりて主のしもべなるフランシスコを教会の牧者として、これを司らしめ給えり。願わくは教皇の上に御慈悲を垂れ、その教訓と模範とによりて、すべての信者をますます善徳に進ましめ、委ねられたる群れと共に、永遠の生命に至るを得しめ給え」と祈るのです。日本のミッションでは、この20年間、常に欠かさず聖伝のミサの後で教皇様のために祈りを一緒に捧げていまし、これからもそうし続けます。
【以上のことは、岩下壮一神父の『カトリックの信仰』を引用しつつ、18年前にナイスについて文章を書いたことがありました、また8年前には「弱い人間性をおびた教導権」を述べて引用したことがありますが、その繰り返しです。』
聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様も、正に、この態度を取っていました。ローマの神学校で勉強し、特にル・フロック神父様から歴代の教皇たちの回勅を学び、ピオ十二世教皇の教皇使節として長年働き、ローマを愛し続けてきた大司教だったからです。ルフェーブル大司教様のローマへの信仰と愛とは、例えば有名な1974年の宣言にも現れています。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」
パウロ六世から受けた否定的な態度にも関わらず、ルフェーブル大司教様は、1977年に司教聖別30周年に際してエコンで「天主からの三つの偉大な贈り物」というテーマの説教をしています。すなわち、教皇様、聖母マリア様、御聖体の三つです。ルフェーブル大司教様は、このお説教の中で、私たちは教会の危機に囲まれつつも、ただ目を閉じて、私たちのカトリックとしての義務を忠実に果たすことを説きました。使徒信経を信じ、天主の十戒を守り、山上の垂訓を黙想し、光を待ち望むこと。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けること。
何故なら、ルフェーブル大司教様は私たちにローマ・カトリックであることを教えてくれているからです。そして、カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することを教えてくれたからです。この教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することについては、以前既に述べたことがありした。私たちはそれを今日も繰り返して言います。
私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切です。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだからです。
私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている、これが故に、ルフェーブル大司教様も、私たちカトリック信者も、苦しんでいるのです。
しかし、カトリック教会は、私たちの主イエズス・キリストの真の教会です。私たちの母親です。これ以外に私たちには別の教会はありませんし、この世には別の母親はありません。教皇様は私たちの父親です。私たちの力の及ぶ限り、私たちの家族であるこのカトリック教会のために祈り、苦しみを捧げます。家族は父親を抜きにして救うことが出来ません。私たちは公会議でもなければ、天主の御摂理でもありません。しかし、天主様は私たちの祈りを、教皇様を助けたいという祈りを聞き入れて下さると信じています。
聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の遺志を受け継いで、教皇様のために祈り闘っています。だからこそ昨年の総会では、カトリック教会が、私たちの主イエズス・キリストご自身がそう望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つこと、また、私たちの主イエズス・キリストが自然的及び超自然的秩序双方の創造主であり、全人類と社会全体とが服従すべきイエズス・キリストは普遍的王権をもっていることに対する信仰を宣言しました。第二バチカン公会議の司教団体制に反対するのは、それが聖伝に反し、唯一教皇だけが持つ最高の権力を、それが否定するからです。
私たちは、私たちのカトリック生活において、私たちの御旗にこの言葉を書き込みます。「教皇様への愛、教皇職の防御、カトリック教会のための犠牲、教皇職を守るための祈りと犠牲」と。カトリック教会の本当の刷新は、聖伝へのたち戻りは、頭からでなければ起こりえません。私たち聖伝は、不当にも、公式に正当な地位を与えられていませんが、私たちは教皇様のためにカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げることによって霊的に戦い続けます。私たちの日々の義務をよく果たすことによって、祈りと償いによって、カトリック教会のために多くの貢献が出来ると知っています。教皇様のために祈りましょう!
ローマで状況が悪化すればするほど、私たちはいっそう熱心に祈ります。私たちは何度もロザリオの十字軍を起こして祈りを呼びかけました。個人個人でも、家族でも、共同体でも、私たちの教会ではローマのために、教皇様のために祈り続けています。ルフェーブル大司教に倣って、天主様が私たちに教皇様を与えてくださっていることを感謝します。教皇職というのは、この地上のどのような権威よりも上にあるのですから。教皇職というのは、超自然のレベルの権威なのですから、私たちは多く祈らなければなりません。
たとえ、見かけ上は、教皇様に反対するかのように見えても(例えば現今のエキュメニズムや司教団体主義などを私たちが実践することができないので、あるいはその近代主義に賛同することが出来ないので)、私たちは常に教皇様のその役職に対する愛と尊敬を持ち続けています。私たちの、見かけ上の反対は、できるだけ教皇様を善意に解釈しようとする、苦しみと悲しみと涙に満ちたものです。教皇様は私たちの父親であるからです。
大変デリケートな立場に私たちはいますが、聖母の汚れなき御心が私たちを助けてくれると信じています。ファティマの聖母マリアさまは幼いヤチンタに教皇様のヴィジョンを見せて諭してくれました。ヤチンタはフランチスコとルチアとにこう言います。「かわいそうな教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければなりません!」 願わくは、教皇様が一刻も早く聖伝に立ち戻りますように! カトリック教会を、その聖伝に立ち戻らせますように! 永遠のローマがその光を取り戻しますように! 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え! 聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを捧げます。教皇様を守り給え!
東欧管区のシュテーリン神父様が聖アンブロジオが聖モニカに言った言葉を私たちの状況に置き換えていみじくもこう言っていますが、正にその通りだと思います。「そのためにこれほど多くの涙を流した父は、使徒継承のカトリック聖伝に立ち戻らないことはあり得ない」と。
聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)