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2017年聖母小黙想会【1】 8月11日「イエズス様がエルサレムを見て泣かれた、涙を流された、嘆かれた、その理由を黙想する」

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聖母小黙想会【その1】 2017年8月11日(金)聖霊降臨後の平日のミサ
小野田神父 説教

愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年8月11日、平日のミサで、聖霊降臨後第9主日のミサを捧げています。ついにファチマ巡礼の時がやって来ました。今から今日から、聖母の小黙想会を始めます。どうぞこの黙想会の中に深く入るようになさって下さい。


“Jesus videns civitatem, Jerusalem, flevit super illam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では聖母の黙想会の最初の黙想のテーマは、「イエズス様がエルサレムを見て泣かれた、涙を流された、嘆かれた」という事です。

今日黙想会を始めるにあたって、私たちは深く沈黙の中に入る事に致しましょう。今日から聖母の被昇天まで5日間、私たちの黙想会を指導して下さるのは聖霊であて、聖霊の浄配であるマリア様の汚れなき御心です。マリア様の汚れなき御心の望みを私たちが聞く事ができますように、沈黙の中に深く入る事に致しましょう。

できるだけ私たちの天主様との一致が乱されないように、関係のないものは私たちの外に締め出す事に致しましょう。ですからインターネットでニュースを見たりとか、あるいは「今日は北朝鮮がミサイルを打つのか打たないのか」、「トランプ大統領が何を言ったのか」という事は、今日から私たちにあたかも何でもないかのように、それよりももっと私たちにとって大切な事は何か、天主様とマリア様の霊魂の救霊についてますます関心を寄せる事に致しましょう。

沈黙の内に、私たちの霊魂をますます天国に上げる事に致しましょう。この5日間の黙想会の間、私たちは大学の講義を聞くというよりは、新しい事を何か学ぶというよりは、私たちの時を天主様との一致との間に、マリア様の御心の中に深く入る事に使う事に致しましょう。ですから私たちはこの時間を、礼拝と、感謝と、讃美と、祈りと、罪の償いの為にお捧げ致しましょう。その為に特別に、私たちの時間がその為だけに捧げられるように致しましょう。

今日、典礼に従ってどうしてもこのミサを、主日のミサを私は捧げなければなりませんでした。なぜかというとこの前の主日は、御変容の大祝日の為にミサを捧げる事ができなかったからです。もしもミサが捧げる事ができない場合には、必ず少なくとも1回は、その平日のミサを捧げなければなりません。もしもそれができれば、随意ミサを捧げる事ができます。

今日はその前までずっとその他のミサがあったので、平日のミサを捧げる事ができませんでした。ちょうど聖母の小黙想会の初めにこのミサを捧げる事ができるというのは、非常にミサの内容を見れば見るほど、まさにこの黙想会の為にイエズス様が特別に選んで下さったミサであるかのように思われます。

ちょうどイエズス様は、エルサレムに入城される時に、エルサレムをご覧になって嘆かれるのです、「もしもこの日に平和をもたらすべきものを、お前が知っていたら。しかし、お前はお恵みの訪問の時を知らなかった。お恵みをあれだけ与えたにもかかわらず、それを捨て去った。」そしてイエズス様は嘆かれるのです。

ですから今日は、そイエズス様の嘆かれたその理由を見て、

更にファチマではマリア様が嘆かれているという事を振り返って、

最後に、ではこの黙想会の間、この5日間どのように過ごさなければならないかという事を、遷善の決心を立てる事にします。

天主は、全人類の中から、全人類のあらゆる民族の中から、特別に1つの民を選ばれて、準備して、お恵みを与えて、祝福を与えて、約束して、そしてこの民に特別の栄光と、特別の恵みと、特別の名誉を与えようとされました。他の民々には与えられなかった特別の愛と、愛情と、関心と、そして選ばれた、選びのお恵みを与えられました。世界中探してもこのような民族はありませんでした。ユダヤの民でした、イスラエルの民でした。

天主を、真の天主を知り、真の天主を愛する事ができ、喜ばせる事ができ、唯一心に天主の御旨に適う生贄を捧げる事ができ、他の民々が暗闇の中に住んでいて、そして偶像崇拝とそれと恐怖の中に生きていたとしても、このユダヤの民だけは、この天主への愛の為に特別に選ばれて、天主に適う最も素晴らしい生贄の方法は何かを与えられて、そして聖徳の道を与えられ、お恵みを与えられて、助けを与えられて、主へのますますの聖徳、平和、福利の恵みを与えられました。

霊的なものだけでなく、地上的な富も与えられました。知恵のある王、力のある王、続々と与えられ、預言者が与えられました。この民の聖なる都市の首都であるエルサレムは、平和のビジョンであって、ここで多くの讃美と感謝が真の天主に捧げられて、真の救い主、天主の子羊の前兆となる子羊たちが生贄が捧げられて、この神殿で捧げられる生贄の為に、世界中に平和がもたらされていました。

本当に祝福された、選ばれた民族でした。天主から溢れるばかりの恵みを与えられ、憐れみを与えられ、そして赦しを与えられ、この民はますます聖徳に、ますます聖なるものとなっていくべきでした。そしてこの来たるべき救い主を受け入れて、「これこそ救い主である」と全世界に示すべき民族でした。真の宗教を持つ民族でした。

しかしこれほど恵まれた、これほど光に照らされた、これほど恵まれた民族であったにもかかわらず、愛された民族であったにもかかわらず、天主からの恵みを拒否して、それよりも地上の汚ならしい事に、偶像に身を捧げてしまっていました。

聖パウロは言っています、「だから彼らは罰を受けなければならなかった。天主は愛をもってこれらを目覚めさせなければならなかった。1日に2万3000人が亡くなった。彼らが偶像に酔いしれていたからだ。」

でも聖パウロは私たちに言います、「これは、私たちの前兆として与えられた、私たちへの戒めとして与えられた。これは、もしも選ばれた民、イスラエルの民がもしもこれほど愛されたにもかかわらず、その愛を裏切ったとしたらこのような事があったならば、私たちにも同じような事が起こる。自然のオリーブの木を捨て去る事がこれほどできるのならば、接ぎ木である私たちを捨て去る事はもっと簡単にできる、という戒めの警告の為に与えられた。」

イエズス様は今日、エルサレムを見て涙を流され、嘆いておられます、「これほど愛されて、これほど恵みを受けて、憐れみと祝福と聖寵を受けた都市。それにもかかわらずそのお恵みを、この聖なる都市は拒否した。」イエズス様は涙を流して嘆かれます。

実際歴史によると、その通りになりました。イエズス様の予言の通りになりました。

イエズス様が復活されて昇天された約40年後、西暦70年に、聖なるエルサレムはローマ軍によって全く崩壊されてしまって、神殿は真っ平らになり、もうもはやその神殿を再建しようと色々な努力が試みられましたが、それは叶いませんでした。

永遠に、エルサレムの神殿は建つ事がないのです。永久に、世の終わりまで、建つ事がありません。イエズス様が天主である限り、それはあり得ません。ユダヤ教の唯一の生贄を捧げる場所は、永久に崩壊されて、破壊されて、再建される事は決してないのです。

これは何を意味しているかというと、選ばれた霊魂の、永遠の滅びを意味しています。

多くの霊魂たちから選ばれて、イエズス・キリストを知り、イエズス・キリストを愛する事ができるようになった霊魂、イエズス・キリスト様の憐れみとお恵みを頂いて、そしてその愛に満たされて、すべての罪を赦されて、たとえ罪を犯したとしても、もしも痛悔するならばさらに赦されて、イエズス様の愛されている子供として、聖なる子供として、遺産相続を約束されたその霊魂が、イエズス・キリストをそれにもかかわらず踏みにじって、罪を犯し、イエズス・キリストを侮辱するならば、憐れみの回数にも限度がある。お恵みとその罪の裏切りの数にも限度がある。イエズス様の憐れみは果てしないけれども、しかしそれをいい事に何度も罪を犯して、イエズス・キリストを侮辱するのであれば、それにも限度がある。

聖なる街エルサレムが崩壊してしまったように、もしもイエズス・キリストを決定的にある瞬間拒否してしまうならば、大罪を犯す事によってイエズス・キリストを私たちの霊魂から追い出してしまうのならば、もしかしたらその次にはお恵みが与えられないかもしれない。永久に滅びてしまうかもしれない。もういくら望んでもチャンスがないかもしれない。エルサレムの神殿がもはや再建される事がないように、もはや聖寵のお恵みを頂く事ができなくなってしまうかもしれない。

その恵まれたにもかかわらず、不忠実であり、あえて主を拒否する霊魂たちの受けるその将来の悲惨な状態、それを思うと、イエズス様は私たちの霊魂においても向けても涙を流されています、「エルサレム、エルサレム、どれほどお前を愛してきた事か、聖なる街としてきた事か。しかしこの聖なる神殿も、罪によって汚されてしまった。何度も、何度も、汚されてしまった。そして私を、何度も、何度も、拒否している」と。

今日この主日のミサではちょうど、私たちがこの黙想会によく入る事ができるように、「イエズス様の悲しみを私たちに、私たちも一緒に共にするように」と招いています。私たちがちょうど集祷文で言われたように、主の聖心に適う事を祈り求める事ができますように、お祈り致しましょう。

主の聖心に適うという事は一体どういう事でしょうか?

つまり、主の聖心に適うという事は、「私たちが罪を避け、主の御旨のみを行う」という事です。「私たちが罪を忌み憎み、罪を悔悛する」という事です。

これはイスラエルの民だけに起こった事ではありませんでした。キリスト教の歴史を見ると、イエズス様を裏切った民族は異端に陥ってしまったり、あるいはかつてはあんなにもキリスト教が栄えていたにもかかわらず、イスラム教の手に落ちてしまったり、あるいは共産主義の手に落ちてしまったり、という国々があります。

私たちもこの黙想会で、良心の究明をする事に致しましょう。私たちがファチマの聖なる土地によりふさわしく行く事ができるように、私たちの良心を究明する事に致しましょう。私たちはどれほど天主を、イエズス様を悲しませてきた事でしょうか。これほどのお恵みを頂いたにもかかわらず、どれほどイエズス様のその受けた恵みを無にして、足蹴にしてきた事でしょうか。

イエズス様は、「ああ、そこは危険だから近寄ってはいけない。」「ああ、そうすると危ない」と、何度警告のお恵みをして下さった事でしょうか。しかしそれにもかかわらず、私たちは何度、あるいは怠惰の為に、あるいは自分の利己主義の為に、イエズス様のお恵みを捨ててしまった事でしょうか。洗礼を受けた時に、その洗礼の約束をどれほど裏切ってしまった事でしょうか。イエズス様はそのような霊魂を見て、涙を流されて、嘆かれているに違いありません。

私たちの創造主であり、私たちを愛する天主、最後の審判の裁き主である御方は、私たちの為に涙を流されておられます。私たちの罪を見て涙を流されておられます。

フランシスコもそうでした、フランシスコは見ました。フランシスコの証言によると、「天使を見るのはとっても大好きだ。」「マリア様のこの御姿を見るのはとっても好きだ。」「でも天主様を見るのはもっと素晴らしい。でも天主様はとっても悲しそうだった。マリア様もとても悲しそうだった。マリア様、天主をお慰めしたい。」これがフランシスコの願いでした。

今日この御ミサで、ちょうどフランシスコにお見せになったように、ファチマのマリア様も、イエズス様とご自分が非常に悲しい思いをされている、という事を私たちに教えて下さいます。

なぜかというと、この世がますますイエズス様を信じようとせず、希望しようとせずに、愛せずに、イエズス・キリストを愛さずに、ますますそれ以外のものを、被造物を信じ、被造物に希望して、被造物のみを愛してるからです。被造物をあたかも天主のように礼拝しているからです。偶像崇拝に陥っているからです。天主の事を忘れて、永遠の事を忘れている人々の為に、非常に悲しい思いをされています。

では、私たちは今日からどのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちはますます、この与えられた特別のお恵み、聖母の黙想会の中に深く入る事に致しましょう。私たちも聖フランシスコが持っていた望みを持つ事ができるように、お願い致しましょう。「イエズス様を、嘆かれているイエズス様をお慰めしたい。悲しみに満ちているマリア様をお慰めしたい。この5日間を、マリア様と天主をお慰めする為に使いたい。祈りと犠牲の為に使いたい。イエズス様と共に一緒にいたい。そして私たちの犯した罪と過去の罪と、そしてこの世の罪を償いたい」という望みで満たして下さるように、お祈り致しましょう。

「イエズスは、エルサレムの街を見て、涙を流された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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