アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! ご無沙汰して申し訳ありません。今日は聖母のお告げの祝日です。また今日は、ルフェーブル大司教様の二十三周年目の命日です。
先日の主日にはクチュール神父様が東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。天主様に感謝! 新しい方々もいらっしゃって大変うれしく思います。
次のようなご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。心から感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
今日クチュール神父はお説教で、全てのカトリック信者が四旬節中に行なうべ
き三つの務め、施し、断食、祈りについてお話しくださいました。
施しは福音的勧告のうち清貧に対応し、罪の赦しを得るという秘蹟のような力
さえもっており、私たちが物への執着から離れ、愛に成長できるよう教会が計
らっていると教えていただきました。断食は貞潔に対応しており、私たちが飲
食のコントロールをできることが他の情欲をコントロールできることに繋がる
こと、そして祈りは従順に対応し、私たちの高慢を抑えるものであるというこ
とを説明していただきました。
昼食後の霊的講話は旧約の歴史について教えていただきました。まず旧約の歴
史と主な登場人物から始まり、いかに旧約中の様々な出来事が新約の出来事の
徴しとなっているかについて、大変沢山の例を挙げて詳しく説明していただき
ました。それはあたかもクチュール神父から旧約聖書の集中コースの授業を受
けているようで、沢山の新発見がありました。
その後、四旬節第三主日の晩課を歌って終了しました。
ミサの参列者数
男: 15人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 33人(内、子供0人)
霊的講話の参列者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人
晩課の参加者数
男: 5人
女: 5人
計: 10人
クチュール神父様の大阪での説教です
2014年3月21日 大阪での説教
聖ヨゼフ
親愛なる兄弟のみなさん、
おととい、私たちは偉大なる聖ヨゼフの美しい祝日をお祝いしました。今月は聖ヨゼフに捧げられた月でありますし、また善き主は、私たちがキリスト教的徳を実践できるよう、聖人たちとその生涯を例として与えてくださいますので、私たちの聖なる家長である聖ヨゼフにならう大変簡単な方法をお示ししたいと思います。
聖書の中には聖ヨゼフに関する数多くの記述があります。3月19日の祝日には、母なる教会は聖ヨゼフにとっての最大の試練に関するくだりを選んでいます。聖福音を読むときいつも覚えておいていただきたいのは、天主が聖福音を通して私たちに直接語りかけておられること、また一つ一つの言葉が教えであり、神秘であり、隠された宝であるということです。聖書を読んだり聞いたりする時には、いつも御自分に問いかけてください、「我が天主よ、これを通して私に何を語ろうとしていらっしゃるのですか?どのようにしたらこれを実践することができるのででしょうか?」と。
みなさんは聖ヨゼフの七つの悲しみと喜びに対する信心のことをおそらくご存知でしょう。第一のものはもっとも大きな悲しみでした。それは私たちの聖母が聖エリザベットのもとに御訪問になったすぐ後のことでした。天主が御托身の神秘を聖エリザベットに直接お知らせになったのを見て、聖母は、御托身という特別な召命のことを御自分が聖ヨゼフに直接明かすことはあまりに恥ずかしいことでもあり、天主が、聖エリザベットにされたと同じように、聖ヨゼフにも御托身のことをお知らせになるものと思われたに違いありません。
洗者ヨハネが生まれた後、ナザレに戻る道で、聖ヨゼフがまだこの神秘についてご存知ないことに聖母はお気づきになりました。そうするうちにお二人は小さなナザレの町に着かれました。町の人々は皆この若い夫婦を愛していましたし、聖母が妊娠しておられるのは見てすぐわかりましたから、そのニュースはあっと言う間に広まりました。こうしてドラマが始まったのです。悲劇を避けるため、聖ヨゼフはすぐに行動をとらねばなりませんでした。聖ヨゼフも聖母が妊娠しておられることを見て、その事実を認めざるを得なくなりました。人々が聖ヨゼフの所にお祝いを言いに来る度に、聖ヨゼフは微笑みながら、心の奥底では剣に貫かれておられたのです。聖ヨゼフはこの子の父親ではなかったからです。では誰の子なのでしょうか?もし聖ヨゼフがこのことについていささかでも疑いや心配を表しておられたたら、あるいは自分が父親ではないことについて一言でも話しておられたら、人々は聖母と天主である御子とを石打ちの刑にしていたことでしょう。
一体どうすればよいのでしょうか?ここで聖福音は聖ヨゼフという聖人の聖性を明らかにしています。聖福音には、「夫のヨゼフは正しい人だったので、かの女を公にはずかしめようとはせず。ひそかに離別しようと決心した。」と書かれています。「ヨゼフは正しい人だったので、」と書かれていますが、他の誰かであれば、いかに簡単に、即座に、聖母マリアを裁き、断罪したことでしょうか。聖母はお告げの日に新しく満ち溢れる聖寵を受けられてから、以前に増して美しくなっておられ、また、童貞である夫に対して更に注意深くなり、最高の愛情を示しておられました。しかし聖ヨゼフがご存知でない事情があり、聖母はこれを聖ヨゼフに話しておられなかったのです。
みなさん、「正しい」人、すなわち真の正しさ、ここでは聖性のことですが、を求める人は、裁くときと裁きを保留するときを知っています。この場合のようにあまりに大きな証拠があってもです。問題が起こった時には、問題を分析して解決法を見つけようとする前にできる限り多くの情報を集める、というのが経営に関する基本的はルールではないでしょうか?
私たちはみなこのようなときによく失敗します。原罪のため、私たちの意志は、聖トマスが悪意の傷と呼んだ傷を負っています。それは、私たちのまわりにいる人たちに善きことを求めるのではなく、悪いことを望んでしまう、ということです。ほんの少しの様子があるだけでも、またしばしば全ての事情を知ることもなしに、急いで、そしてその人の意図していないことを捉えて、私たちは裁いたり、あわれみも与えずに断罪したりしてしまうのです。わたしたちがマスコミやブログで読むものは、この種のことであふれているのではないでしょうか?わたしたちは悪い噂を電子メールや携帯メールですぐ広めているのではないでしょうか?わたしたちは本当にこの悪意の傷を負っています。わたしたちがいつも聖体拝領の前に、「あなたがただ一言おっしゃってくだされば私の魂はなおります!」という祈りを天主に向かってするのは、まさにこのためなのです。わたしたちの魂が傷を負っているからです。
イエズスはいつも、まず行動で示され、その後それを教えてくださったことを聖ルカは記しています。実際、こればイエズスがお生まれになる前から、聖母と聖ヨゼフによって始まったことです。「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない!」と、イエズスは有名な山上の説教で教えてくださいました。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。」この、性急に裁いてしまうという非キリスト的な態度は、残念ながらよく見られるもので、現在聖伝のミサに通う多くの人たちにも影響を与えてしまっています。自らの良心を糾明して、もしわたしたちがこのようなことをしているのであれば、その恐ろしい精神の病を癒してくださるよう、聖ヨゼフにお祈りいたしましょう。
みなさん、私たちの主のこの教えは、聖福音の中心を成すものです。初期のキリスト教徒達、そして私たちの時代にいたるまでの歴史上の全ての本当のキリスト教徒たちーここでは特に強制労働収容所に不当に連行された人たちやその他の不当な扱いを受けた人たちのことが思い起こされますーは、皆このことを理解していたことを私たちは知っています。キリスト教徒達が悪を見たとき、悪は私たちのまわりにいくらでもありますから、その悪を非難する代わりに、いつも自分自身の罪深さと天主の自分への御憐れみを忘れることなく、罪人のために祈り、罪人の罪の償いをもとめてきたのです。
聖アウグスティノはこのような美しい考えをもっていました。悪魔は地獄にいますから、わたしたちは悪魔の救霊に関してのみ絶望することができます。それ以外の全ての人に関しては、私たちは祈ることができるのです。今日あなたの敵である人、あるいはあなたを苦しめる人が、明日になれば天主の御恵みによってあなたの最大と友とならないとどうしてわかるでしょうか?自分の兄弟に売られた旧約の家長ヨゼフにおこったことはこれであって、新約の聖ヨゼフにおこったこともまさにこれでした。
聖ヨゼフの深い苦しみの原因は、隠されていた救い主ご自身と自分の妻である無原罪の聖母だったのです!聖ヨゼフが、聖母と謎の子に自分のところから離れるように命ずるところであったほどの深い苦しみをもっていらっしゃったことを考えてください。それは本当に恐ろしい、良心のまことの危機であったに違いありません。聖母マリアに自分のもとから去ってくれ、と命ずるのです。しかし、聖パウロが言うとおり、「神は真実であるから、あなたたちの力以上の試みにはおあわせにならない」。そこで天使が現れ、この神秘を聖ヨゼフに明かし、妻のマリアを自らのもとに止めるように命じたのです。その子こそが救い主ご自身であり、本当の天主の御子であったからです!
自分の十字架を謙虚に担い、万事において天主の御意志を求める者、また、人を裁く責任を有していない時、あるいは裁くにあたっての全ての要素が揃っていない時には、全ての裁きを天主に任せ、性急な行動を避けるすべを知っている者には大きな喜びが待っている、ということを聖ヨゼフは教えてくださいます。このようにすることによって、私たちは聖ヨゼフにならい、「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない」という私たちの主の御教えを実践することができるのです。聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
クチュール神父様の2014年3月22日/23日のお説教です
2014年3月22日/23日 大阪/東京での説教
四旬節
信者のみなさん
もう四旬節第三の主日になります。伝統的には―実は古くは旧約の時代からのことですが―四旬節のような償いの季節に私たちが皆実行すべき行ないが三つあります。みなさんはおそらく後の二つをご存知でしょうが、最初の一つを知っていらっしゃるかどうかはわかりません。
四旬節の間、善いカトリック教徒が皆実行すべき三つの行ないは次の通りです。施し、断食、そして祈りです。これら三つは旧約聖書にありますし、山上の説教にもありますし、過去二十世紀にわたって全てのカトリック教徒が実行してきたことです。施し、断食と祈りです。
これら三つの行ないは、三つの福音的勧告である、清貧、貞潔、従順に対応しています。これこそがキリスト的生活の中心です。これが、過去二十世紀にわたって数えきれない修道僧、修道者、修道女の宗教生活の支柱となっています。一つずつ見てみましょう。
聖書における施しは信じられない程の力を持っています。施しは秘蹟ではありませんが、秘蹟のような効果をいくらか持っているということもできるでしょう。例えば、施しによって罪の赦しを得ることができます。大天使聖ラファエル自身が盲目から奇蹟的に癒された老いたトビトにこのように語っています。
• 断食とともにする祈り、正義とともにする施しは、罪とともにある富にまさる。黄金を蓄えるよりも、施しをするほうがよろしい。施しは人を死から救い、すべての罪を清める。施しをする人は長い日々をあたえられ[る。](トビアの書12章8-9節)
• 水は火を消し、施しは罪を消す。(集会の書3章33節)
これはどうしてなのでしょうか?私たちは物質的世界に生きており、私たちの肉体がそれを必要とするため、常に物質的な物を使っています。ここにある危険は、私たちがこれらの物を手に入れることによって、自分自身について現実よりも過大な評価をしてしまうことです。男性は大きな車を運転している時や、コンピューターの前にいる時、より大きな力を持っているように感じるものです。女性はメイキャップをしている時や、貴金属をまとっている時、より美しくなっているように感じるものです。聖トマスによれば、私たちの持っている物が私たちと一体化して、ある意味で私たちの一部になってしまうのです。
例えば子供のことを例にとって見てみましょう。小さい子供でも大きい子供でもかまいません。子供にチョコレートを渡して、しばらくしてから、それを妹と分けるように言ってみてください。この子の行動をみればチョコレートがその子の一部になったことがわかります。子供は「それは僕のだ!」といって、チョコレートを放さないでしょう。私たち大人も変わりません。自分が稼いだお金や自分が買った物を手放すのはいかに難しいことでしょうか。それらは私たちの一部となり、私たちと一体化してしまうのです。施しはこの利己主義という問題への解決策となるのです。
聖トマスの教えるのは、清貧と愛とは互いに結びついており、私たちが物から離れるに従って愛が成長する、ということです。逆もまた真実です。私たちが物に愛着を感じるに従って愛が減ってゆくのです。ですから、母なる教会は、どんな形にせよ私たちが施しを行なうことを奨励することによって、実は私たちが天主への愛や隣人への愛において成長することを望んでいるのです。この四旬節の間、復活祭は4月20日ですから来月も、施しを行なうことによって誰かを助けるようにいたしましょう。特にそれが私たちにとって困難であるとき、施しを行なうようにいたしましょう。
第二の行ないは断食です。さきほど、断食は福音的勧告の貞潔に対応していると申しました。この間の関係はよくわからないかもしれません。しかしそれはかなり単純なものです。断食と貞潔は共に体に関する枢要徳である節制の徳にあたります。私たちの主が、この種の悪魔は祈りと断食によらずには、どうしても追い出せない、とおっしゃった時、それは明らかに不潔の悪魔のことをおっしゃっていました。どうして主は断食をお勧めになったのでしょうか?
それは、人が自分の飲食の欲を制御している時、純潔であること、即ち他の情欲を制御することがより易しくなるからです。なぜ若者の中にこれほどの不潔がはびこっているのでしょうか?それは、若者が食習慣を抑制することをほとんどあるいは全く教えられていないからです。もし子供が自分の欲しい時にいつも甘い物を食べ、食べる物について大変な好き嫌いをし、あるいは自分の食器の食べ物を最後まできちんと食べないことを許されているのであれば、純潔についても重大な問題が起こることでしょう。大人でも同じことが言えます。私たちが飲食に関して不節制であれば、私たちは簡単に不純に陥ってしまうことでしょう。
動物が空腹を感じる時、食べ物を探して食べます。キリスト教徒が空腹を感じる時、時計を見て、「だめだ。次の食事まで待とう。」と言うのです。私たちの魂が私たちの体をコントロールしなくてはならず、私たちの体に私たちの魂をコントロールさせてはなりません。そこで、賢い母である教会は、私たちが飲食に関する犠牲を行なうことを求めることによって、私たちが貞潔で、純潔でいることの助けになることがわかっているのです。私たちは食事をとる度に、小さな犠牲を行なうことができます。私たちが食事を終えるまでには、なにか小さな犠牲、それが何かを飲んだり食べたりする前に数秒待つ、というような大変小さい犠牲でも、それを必ず行なわなければなりません。
最後に、四旬節の間にキリスト教徒が行なうべき第三の行ないは祈りです。四旬節以外のいつもの時に行なうより多くの祈りを唱えます。祈りは高慢を抑えるものです。真の祈りは、私たちに天主の贈り物を認識させ、私たち自身の罪を認めさせ、その罪の赦しを乞わせるものだからです。祈りは福音的勧告の中で最も難しいものである従順と繋がっています。それは、イエズスがおっしゃったように私たちの全ての罪のもとである心を祈りが清めてくれるからです。
ですから、四旬節の間、今月の残りの日々も、これまでしてきたことよりもう少し沢山してみてください。もしロザリオの祈りを定期的に唱えていないのなら、定期的に唱えてください。もし毎日ロザリオを一環唱えているのでしたら、二環か三環唱えてください。数ヶ月に一回告解に行くのでしたら、復活祭の前に行ってください。ところで、復活節の義務についてもみなさんにお知らせしておきます。みなさんは、復活節の間、すなわち教会によって定められた四旬節の第一主日から聖霊降臨後の最初の主日である聖三位一体の主日までの間に聖体拝領をしなくてはなりません。全てのカトリック信者はこの期間に聖体拝領をする義務があります。この準備として通常、よい告解を行ないます。
親愛なる信者のみなさん、これこそが四旬節であり、これこそがよい伝統的なカトリック信者としての四旬節の義務なのです。愛において成長するための施し、貞潔において成長するための断食、謙遜と従順において成長するための祈りです。私たち自身の聖化と他の多くの霊魂の救済のため私たちに命じられた行ないを私たち全員が実行することができるよう、私たちの聖母が助けてくださいますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! ご無沙汰して申し訳ありません。今日は聖母のお告げの祝日です。また今日は、ルフェーブル大司教様の二十三周年目の命日です。
先日の主日にはクチュール神父様が東京で聖伝のミサを捧げてくださいました。天主様に感謝! 新しい方々もいらっしゃって大変うれしく思います。
次のようなご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。心から感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
今日クチュール神父はお説教で、全てのカトリック信者が四旬節中に行なうべ
き三つの務め、施し、断食、祈りについてお話しくださいました。
施しは福音的勧告のうち清貧に対応し、罪の赦しを得るという秘蹟のような力
さえもっており、私たちが物への執着から離れ、愛に成長できるよう教会が計
らっていると教えていただきました。断食は貞潔に対応しており、私たちが飲
食のコントロールをできることが他の情欲をコントロールできることに繋がる
こと、そして祈りは従順に対応し、私たちの高慢を抑えるものであるというこ
とを説明していただきました。
昼食後の霊的講話は旧約の歴史について教えていただきました。まず旧約の歴
史と主な登場人物から始まり、いかに旧約中の様々な出来事が新約の出来事の
徴しとなっているかについて、大変沢山の例を挙げて詳しく説明していただき
ました。それはあたかもクチュール神父から旧約聖書の集中コースの授業を受
けているようで、沢山の新発見がありました。
その後、四旬節第三主日の晩課を歌って終了しました。
ミサの参列者数
男: 15人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 33人(内、子供0人)
霊的講話の参列者数
男: 5人
女: 6人
計: 11人
晩課の参加者数
男: 5人
女: 5人
計: 10人
クチュール神父様の大阪での説教です
2014年3月21日 大阪での説教
聖ヨゼフ
親愛なる兄弟のみなさん、
おととい、私たちは偉大なる聖ヨゼフの美しい祝日をお祝いしました。今月は聖ヨゼフに捧げられた月でありますし、また善き主は、私たちがキリスト教的徳を実践できるよう、聖人たちとその生涯を例として与えてくださいますので、私たちの聖なる家長である聖ヨゼフにならう大変簡単な方法をお示ししたいと思います。
聖書の中には聖ヨゼフに関する数多くの記述があります。3月19日の祝日には、母なる教会は聖ヨゼフにとっての最大の試練に関するくだりを選んでいます。聖福音を読むときいつも覚えておいていただきたいのは、天主が聖福音を通して私たちに直接語りかけておられること、また一つ一つの言葉が教えであり、神秘であり、隠された宝であるということです。聖書を読んだり聞いたりする時には、いつも御自分に問いかけてください、「我が天主よ、これを通して私に何を語ろうとしていらっしゃるのですか?どのようにしたらこれを実践することができるのででしょうか?」と。
みなさんは聖ヨゼフの七つの悲しみと喜びに対する信心のことをおそらくご存知でしょう。第一のものはもっとも大きな悲しみでした。それは私たちの聖母が聖エリザベットのもとに御訪問になったすぐ後のことでした。天主が御托身の神秘を聖エリザベットに直接お知らせになったのを見て、聖母は、御托身という特別な召命のことを御自分が聖ヨゼフに直接明かすことはあまりに恥ずかしいことでもあり、天主が、聖エリザベットにされたと同じように、聖ヨゼフにも御托身のことをお知らせになるものと思われたに違いありません。
洗者ヨハネが生まれた後、ナザレに戻る道で、聖ヨゼフがまだこの神秘についてご存知ないことに聖母はお気づきになりました。そうするうちにお二人は小さなナザレの町に着かれました。町の人々は皆この若い夫婦を愛していましたし、聖母が妊娠しておられるのは見てすぐわかりましたから、そのニュースはあっと言う間に広まりました。こうしてドラマが始まったのです。悲劇を避けるため、聖ヨゼフはすぐに行動をとらねばなりませんでした。聖ヨゼフも聖母が妊娠しておられることを見て、その事実を認めざるを得なくなりました。人々が聖ヨゼフの所にお祝いを言いに来る度に、聖ヨゼフは微笑みながら、心の奥底では剣に貫かれておられたのです。聖ヨゼフはこの子の父親ではなかったからです。では誰の子なのでしょうか?もし聖ヨゼフがこのことについていささかでも疑いや心配を表しておられたたら、あるいは自分が父親ではないことについて一言でも話しておられたら、人々は聖母と天主である御子とを石打ちの刑にしていたことでしょう。
一体どうすればよいのでしょうか?ここで聖福音は聖ヨゼフという聖人の聖性を明らかにしています。聖福音には、「夫のヨゼフは正しい人だったので、かの女を公にはずかしめようとはせず。ひそかに離別しようと決心した。」と書かれています。「ヨゼフは正しい人だったので、」と書かれていますが、他の誰かであれば、いかに簡単に、即座に、聖母マリアを裁き、断罪したことでしょうか。聖母はお告げの日に新しく満ち溢れる聖寵を受けられてから、以前に増して美しくなっておられ、また、童貞である夫に対して更に注意深くなり、最高の愛情を示しておられました。しかし聖ヨゼフがご存知でない事情があり、聖母はこれを聖ヨゼフに話しておられなかったのです。
みなさん、「正しい」人、すなわち真の正しさ、ここでは聖性のことですが、を求める人は、裁くときと裁きを保留するときを知っています。この場合のようにあまりに大きな証拠があってもです。問題が起こった時には、問題を分析して解決法を見つけようとする前にできる限り多くの情報を集める、というのが経営に関する基本的はルールではないでしょうか?
私たちはみなこのようなときによく失敗します。原罪のため、私たちの意志は、聖トマスが悪意の傷と呼んだ傷を負っています。それは、私たちのまわりにいる人たちに善きことを求めるのではなく、悪いことを望んでしまう、ということです。ほんの少しの様子があるだけでも、またしばしば全ての事情を知ることもなしに、急いで、そしてその人の意図していないことを捉えて、私たちは裁いたり、あわれみも与えずに断罪したりしてしまうのです。わたしたちがマスコミやブログで読むものは、この種のことであふれているのではないでしょうか?わたしたちは悪い噂を電子メールや携帯メールですぐ広めているのではないでしょうか?わたしたちは本当にこの悪意の傷を負っています。わたしたちがいつも聖体拝領の前に、「あなたがただ一言おっしゃってくだされば私の魂はなおります!」という祈りを天主に向かってするのは、まさにこのためなのです。わたしたちの魂が傷を負っているからです。
イエズスはいつも、まず行動で示され、その後それを教えてくださったことを聖ルカは記しています。実際、こればイエズスがお生まれになる前から、聖母と聖ヨゼフによって始まったことです。「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない!」と、イエズスは有名な山上の説教で教えてくださいました。「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。」この、性急に裁いてしまうという非キリスト的な態度は、残念ながらよく見られるもので、現在聖伝のミサに通う多くの人たちにも影響を与えてしまっています。自らの良心を糾明して、もしわたしたちがこのようなことをしているのであれば、その恐ろしい精神の病を癒してくださるよう、聖ヨゼフにお祈りいたしましょう。
みなさん、私たちの主のこの教えは、聖福音の中心を成すものです。初期のキリスト教徒達、そして私たちの時代にいたるまでの歴史上の全ての本当のキリスト教徒たちーここでは特に強制労働収容所に不当に連行された人たちやその他の不当な扱いを受けた人たちのことが思い起こされますーは、皆このことを理解していたことを私たちは知っています。キリスト教徒達が悪を見たとき、悪は私たちのまわりにいくらでもありますから、その悪を非難する代わりに、いつも自分自身の罪深さと天主の自分への御憐れみを忘れることなく、罪人のために祈り、罪人の罪の償いをもとめてきたのです。
聖アウグスティノはこのような美しい考えをもっていました。悪魔は地獄にいますから、わたしたちは悪魔の救霊に関してのみ絶望することができます。それ以外の全ての人に関しては、私たちは祈ることができるのです。今日あなたの敵である人、あるいはあなたを苦しめる人が、明日になれば天主の御恵みによってあなたの最大と友とならないとどうしてわかるでしょうか?自分の兄弟に売られた旧約の家長ヨゼフにおこったことはこれであって、新約の聖ヨゼフにおこったこともまさにこれでした。
聖ヨゼフの深い苦しみの原因は、隠されていた救い主ご自身と自分の妻である無原罪の聖母だったのです!聖ヨゼフが、聖母と謎の子に自分のところから離れるように命ずるところであったほどの深い苦しみをもっていらっしゃったことを考えてください。それは本当に恐ろしい、良心のまことの危機であったに違いありません。聖母マリアに自分のもとから去ってくれ、と命ずるのです。しかし、聖パウロが言うとおり、「神は真実であるから、あなたたちの力以上の試みにはおあわせにならない」。そこで天使が現れ、この神秘を聖ヨゼフに明かし、妻のマリアを自らのもとに止めるように命じたのです。その子こそが救い主ご自身であり、本当の天主の御子であったからです!
自分の十字架を謙虚に担い、万事において天主の御意志を求める者、また、人を裁く責任を有していない時、あるいは裁くにあたっての全ての要素が揃っていない時には、全ての裁きを天主に任せ、性急な行動を避けるすべを知っている者には大きな喜びが待っている、ということを聖ヨゼフは教えてくださいます。このようにすることによって、私たちは聖ヨゼフにならい、「裁かれたくないなら、他人を裁いてはならない」という私たちの主の御教えを実践することができるのです。聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。
クチュール神父様の2014年3月22日/23日のお説教です
2014年3月22日/23日 大阪/東京での説教
四旬節
信者のみなさん
もう四旬節第三の主日になります。伝統的には―実は古くは旧約の時代からのことですが―四旬節のような償いの季節に私たちが皆実行すべき行ないが三つあります。みなさんはおそらく後の二つをご存知でしょうが、最初の一つを知っていらっしゃるかどうかはわかりません。
四旬節の間、善いカトリック教徒が皆実行すべき三つの行ないは次の通りです。施し、断食、そして祈りです。これら三つは旧約聖書にありますし、山上の説教にもありますし、過去二十世紀にわたって全てのカトリック教徒が実行してきたことです。施し、断食と祈りです。
これら三つの行ないは、三つの福音的勧告である、清貧、貞潔、従順に対応しています。これこそがキリスト的生活の中心です。これが、過去二十世紀にわたって数えきれない修道僧、修道者、修道女の宗教生活の支柱となっています。一つずつ見てみましょう。
聖書における施しは信じられない程の力を持っています。施しは秘蹟ではありませんが、秘蹟のような効果をいくらか持っているということもできるでしょう。例えば、施しによって罪の赦しを得ることができます。大天使聖ラファエル自身が盲目から奇蹟的に癒された老いたトビトにこのように語っています。
• 断食とともにする祈り、正義とともにする施しは、罪とともにある富にまさる。黄金を蓄えるよりも、施しをするほうがよろしい。施しは人を死から救い、すべての罪を清める。施しをする人は長い日々をあたえられ[る。](トビアの書12章8-9節)
• 水は火を消し、施しは罪を消す。(集会の書3章33節)
これはどうしてなのでしょうか?私たちは物質的世界に生きており、私たちの肉体がそれを必要とするため、常に物質的な物を使っています。ここにある危険は、私たちがこれらの物を手に入れることによって、自分自身について現実よりも過大な評価をしてしまうことです。男性は大きな車を運転している時や、コンピューターの前にいる時、より大きな力を持っているように感じるものです。女性はメイキャップをしている時や、貴金属をまとっている時、より美しくなっているように感じるものです。聖トマスによれば、私たちの持っている物が私たちと一体化して、ある意味で私たちの一部になってしまうのです。
例えば子供のことを例にとって見てみましょう。小さい子供でも大きい子供でもかまいません。子供にチョコレートを渡して、しばらくしてから、それを妹と分けるように言ってみてください。この子の行動をみればチョコレートがその子の一部になったことがわかります。子供は「それは僕のだ!」といって、チョコレートを放さないでしょう。私たち大人も変わりません。自分が稼いだお金や自分が買った物を手放すのはいかに難しいことでしょうか。それらは私たちの一部となり、私たちと一体化してしまうのです。施しはこの利己主義という問題への解決策となるのです。
聖トマスの教えるのは、清貧と愛とは互いに結びついており、私たちが物から離れるに従って愛が成長する、ということです。逆もまた真実です。私たちが物に愛着を感じるに従って愛が減ってゆくのです。ですから、母なる教会は、どんな形にせよ私たちが施しを行なうことを奨励することによって、実は私たちが天主への愛や隣人への愛において成長することを望んでいるのです。この四旬節の間、復活祭は4月20日ですから来月も、施しを行なうことによって誰かを助けるようにいたしましょう。特にそれが私たちにとって困難であるとき、施しを行なうようにいたしましょう。
第二の行ないは断食です。さきほど、断食は福音的勧告の貞潔に対応していると申しました。この間の関係はよくわからないかもしれません。しかしそれはかなり単純なものです。断食と貞潔は共に体に関する枢要徳である節制の徳にあたります。私たちの主が、この種の悪魔は祈りと断食によらずには、どうしても追い出せない、とおっしゃった時、それは明らかに不潔の悪魔のことをおっしゃっていました。どうして主は断食をお勧めになったのでしょうか?
それは、人が自分の飲食の欲を制御している時、純潔であること、即ち他の情欲を制御することがより易しくなるからです。なぜ若者の中にこれほどの不潔がはびこっているのでしょうか?それは、若者が食習慣を抑制することをほとんどあるいは全く教えられていないからです。もし子供が自分の欲しい時にいつも甘い物を食べ、食べる物について大変な好き嫌いをし、あるいは自分の食器の食べ物を最後まできちんと食べないことを許されているのであれば、純潔についても重大な問題が起こることでしょう。大人でも同じことが言えます。私たちが飲食に関して不節制であれば、私たちは簡単に不純に陥ってしまうことでしょう。
動物が空腹を感じる時、食べ物を探して食べます。キリスト教徒が空腹を感じる時、時計を見て、「だめだ。次の食事まで待とう。」と言うのです。私たちの魂が私たちの体をコントロールしなくてはならず、私たちの体に私たちの魂をコントロールさせてはなりません。そこで、賢い母である教会は、私たちが飲食に関する犠牲を行なうことを求めることによって、私たちが貞潔で、純潔でいることの助けになることがわかっているのです。私たちは食事をとる度に、小さな犠牲を行なうことができます。私たちが食事を終えるまでには、なにか小さな犠牲、それが何かを飲んだり食べたりする前に数秒待つ、というような大変小さい犠牲でも、それを必ず行なわなければなりません。
最後に、四旬節の間にキリスト教徒が行なうべき第三の行ないは祈りです。四旬節以外のいつもの時に行なうより多くの祈りを唱えます。祈りは高慢を抑えるものです。真の祈りは、私たちに天主の贈り物を認識させ、私たち自身の罪を認めさせ、その罪の赦しを乞わせるものだからです。祈りは福音的勧告の中で最も難しいものである従順と繋がっています。それは、イエズスがおっしゃったように私たちの全ての罪のもとである心を祈りが清めてくれるからです。
ですから、四旬節の間、今月の残りの日々も、これまでしてきたことよりもう少し沢山してみてください。もしロザリオの祈りを定期的に唱えていないのなら、定期的に唱えてください。もし毎日ロザリオを一環唱えているのでしたら、二環か三環唱えてください。数ヶ月に一回告解に行くのでしたら、復活祭の前に行ってください。ところで、復活節の義務についてもみなさんにお知らせしておきます。みなさんは、復活節の間、すなわち教会によって定められた四旬節の第一主日から聖霊降臨後の最初の主日である聖三位一体の主日までの間に聖体拝領をしなくてはなりません。全てのカトリック信者はこの期間に聖体拝領をする義務があります。この準備として通常、よい告解を行ないます。
親愛なる信者のみなさん、これこそが四旬節であり、これこそがよい伝統的なカトリック信者としての四旬節の義務なのです。愛において成長するための施し、貞潔において成長するための断食、謙遜と従順において成長するための祈りです。私たち自身の聖化と他の多くの霊魂の救済のため私たちに命じられた行ないを私たち全員が実行することができるよう、私たちの聖母が助けてくださいますように。アーメン。