アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「無原罪の御宿りと結婚について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
12月17日 東京・大阪の説教
唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちは本日、ちょうど洗者聖ヨハネの証言を聞いたところです。使徒聖ヨハネがその福音書の初めにおいて、洗者聖ヨハネは「光ではなく、光[すなわち私たちの主イエズス・キリスト]を証明するために、またすべての人が彼によって信じるために証人として来た」(ヨハネ1章7-8節)と言うように。この最後の預言者である洗者聖ヨハネに対して、「この方だ!」とその指でメシアを指し示す恩寵が与えられたのです。
洗者聖ヨハネは、どのようにしてそれを行ったのでしょうか? 使徒聖ヨハネが私たちにこう告げます。「次の日、二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネは、イエズスが通りかかられるのに目を留め、『天主の小羊を見よ』と言った。それを聞いた二人の弟子はイエズスについて行った」(ヨハネ1章35-37節)。この二人の弟子は聖アンドレアと使徒聖ヨハネでした。ですから使徒聖ヨハネは非常に信頼できる証人なのです。この二人の使徒にとって、イエズスと過ごしたまさに最初の日は、いかなるものだったことでしょうか! いかに祝せられた夕べだったでしょうか! 聖アンドレアはこのことで非常に感動したため、「まず兄弟シモンに出会ったアンドレアは、『メシア―キリストの意味―に会った』と言っ」(ヨハネ1章41節)たのです。「まず」ということば自体が、もう一人の弟子もそのあとながら自分の兄弟に出会ったことを示しており、この第二の弟子は聖ヤコブを兄弟に持つ聖ヨハネであることを示しています。
私たちの主イエズス・キリストが、まさに救い主であり、まさに贖い主であり、ヘブライ人たちだけでなく、異邦人の世界の中でさえ待ち望まれていたまさにそのお方なのです。実際、選ばれた民以外でも、天主は、何人かの預言者がキリストについて語るよう霊感をお与えになりました。聖アウグスティノはローマ時代の巫女の言葉をいくつか引用しており、フランスではカルヌテス族(シャルトル周辺のケルト部族)のケースがあり、彼らは「身ごもる童貞」をたたえていました。おそらく、天使が彼らに現れて、童貞の受胎について教えたのでしょう。実際、私たちの主イエズス・キリストは全人類の唯一の救い主であり、主の来臨以前であろうと以後であろうと、救われるためには主を信じることが必要です。主の来臨以前は、主が来られることを信じることが必要だったのであり、主の来臨以後は、主が来られたことを信じることが必要だったのです。
聖ペトロは私たちに、「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名は、イエズスの御名のほかにはないからです」(使徒行録4章12節)と告げています。こういう訳で、クリスマスが大変重要なのです。救い主の来臨なのですから! 私たちの主イエズス・キリストに対するこの信仰が、聖フランシスコあるいはルフェーブル大司教といったすべての偉大なる宣教師を力づけた宣教精神の原則です。彼らはイエズスを霊魂たちに与えることを願いましたが、それはその霊魂たちが救われるようにするためです! なぜなら、すべての人がイエズスを必要とし、すべての人が救い主を必要とするからです。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。「しかし、信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。
しかし、「まだ信じなかった者をどうして呼び求められよう。まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『平和の福音を宣教する者、よきことの喜ばしい知らせをもたらす者の足は美しい!』と書き記されている」(ローマ10章14-15節)。それゆえに、異邦人の回心のため、韓国人、日本人、中国人、インド人、すべてのイスラム教徒、またすべての異端者たちの回心のため、多くの宣教師が必要とされます。なぜなら、教会であるキリストの体(コロサイ1章24節)、キリストまで直接さかのぼる唯一の教会であるカトリック教会の中にいるのでなければ、キリストのいのちを生きることはできないからです。
しかし、次のように言う人がいるかもしれません。「聞かなかった人々に何が起きるのでしょうか?」。第一に、天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前書2章4節)ということを知る必要があります。それゆえに、天主は常に各人が救われるために十分な恩寵をお与えになるでしょう。もしある人が救われないならば、天主が十分な恩寵をお与えにならなかったからではなく、その人が天主の恩寵に抵抗し、救いを拒否したからです! 聖パウロが先に述べた一節の続きでこう言いました。「だがみなが福音に従ったのではない」(ローマ10章16節)。聖ステファノを死刑に処したファリザイ人たちのような人々は、「絶えず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。
宣教師が訪れることのなかった民族でさえ、天主の天使が訪れることがあり得ます。天主を探し求める人々を天主はお見捨てにならないでしょう。ヨブ記にこう書かれているようにです。「天主は一度話しかけ、二度目は同じことを繰り返されない。人に眠気が襲い、床に寝ているそのとき、夢によって、夜の幻によって、天主は人の耳を開き、人が知るべき教えの戒めを与え給う。それは行っている悪しきことから人を遠ざけ、人をその高ぶりから救うためである」(ヨブ33章14-17節)。
どのような場合でも、たとえ天使の訪問を受けなかったとしても、人には自分自身の罪があるのであって、そのために正当に罰せられるのであり、御摂理に不平を言うことはできません。ですから、ニューカレドニアでは、宣教師が来る前は人々は人食いをしていましたが、審判の日には、彼らは「それは私たちの罪ではありません。私たちはイエズス・キリストを知ることがなく、一人の宣教師も来てくれなかったのですから」と述べることはできないのです。主は彼らに「おまえたちが『なんじ隣人を食するなかれ!』ということを知るために宣教師は必要なかった」と言われるでしょう。そして現代世界では、妊娠中絶が罪であることを知らなかったと主張できる異邦人は誰もいません。自分が生まれる赤ん坊を愛してその子の面倒を見なければならないということは、妊娠している母親のはらわたに書かれているのです。他の多くの罪についても同様です。
でも、これらの罪びとに対してさえも、天主は彼らの救いを望んでおられ、その目的のために彼らに宣教師を遣わそうと望んでおられるのです。天主は霊魂の扉を、特に若者の霊魂の扉をたたいておられます。「あなたたちは、これらの霊魂の救いのために、自分のいのちを捧げるつもりがあるか? 霊魂を求める私の渇きが満たされるために?」。実際、天主はその愛を聖フランシスコ・ザビエルのような人々の心にお注ぎになり、彼らにおいて、霊魂を回心させようとする望みを、永遠の滅びから霊魂を救おうとする望みを、霊魂に永遠のいのちを与えようとする望みを燃え立たせ給うのです。
これらの宣教師たちはしばしば、この目的のためにいのちを捧げてきました。殉教によってだけでなく、彼らが直面した危険によってもです。多くの宣教の初期には、熱帯地方の病気のために亡くなった多くの宣教師がいました。十九世紀の「Pères Blancs(白衣の神父たち)」については、アフリカに派遣された人の三分の一が、その奉仕の最初の二年間で亡くなってしまったのですが、それはアフリカのあらゆる種類の病気のためだったのです! 彼らも霊魂の救いのために、いのちを捧げたのです!
隣人が地獄の火の中に落ちていくのを見ているのに何もしないのならば、どうして私たちは隣人を愛すると言えるでしょうか? 非常に多くの霊魂が地獄に落ちていると考えるだけで、私たちは彼らに対して何かをしようと熱心に思い、まず「刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わし給えと祈」(マテオ9章38節)り、さらに、恐れることなく信仰を告白することによって、彼らに信仰を教えることによって、彼らに私たちの主イエズス・キリストの道を勧めることによって、彼らに私たちの心に燃えている光と火を与えることによって、これら私たちの隣人、友人たちを助けるのです。
さらに言うべきことがあります。司祭だった宣教師は、他人の救いのために自分のいのち以上のものを与えました。司祭は、彼らに天主ご自身を与えたのです。実際、聖別することによって、司祭は私たちの主イエズス・キリストをご聖体において、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに本当に現存させるのです。それゆえに、司祭は隣人に天主を本当に与えるという立場にあるのであり、文字通りそうなのです! ですから、たぶん私たちの主イエズス・キリストは、皆さんの霊魂、特に若い人の霊魂の扉をたたいておられるはずです。そして皆さんにこうお尋ねになるのです。「あなたは、この霊魂の救いのための素晴らしい仕事に喜んで自分を捧げますか、私はそのためにクリスマスにここ地上にやって来たのですから。あなたは、霊魂を求める私の愛の道具に喜んでなりますか?」。
汚れなき童貞が、私たちのために、また他の多くの人々のために、この恩寵を取り成してくださいますように! アーメン!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「無原罪の御宿りと結婚について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
12月17日 東京・大阪の説教
唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト
親愛なる兄弟の皆さん、
私たちは本日、ちょうど洗者聖ヨハネの証言を聞いたところです。使徒聖ヨハネがその福音書の初めにおいて、洗者聖ヨハネは「光ではなく、光[すなわち私たちの主イエズス・キリスト]を証明するために、またすべての人が彼によって信じるために証人として来た」(ヨハネ1章7-8節)と言うように。この最後の預言者である洗者聖ヨハネに対して、「この方だ!」とその指でメシアを指し示す恩寵が与えられたのです。
洗者聖ヨハネは、どのようにしてそれを行ったのでしょうか? 使徒聖ヨハネが私たちにこう告げます。「次の日、二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネは、イエズスが通りかかられるのに目を留め、『天主の小羊を見よ』と言った。それを聞いた二人の弟子はイエズスについて行った」(ヨハネ1章35-37節)。この二人の弟子は聖アンドレアと使徒聖ヨハネでした。ですから使徒聖ヨハネは非常に信頼できる証人なのです。この二人の使徒にとって、イエズスと過ごしたまさに最初の日は、いかなるものだったことでしょうか! いかに祝せられた夕べだったでしょうか! 聖アンドレアはこのことで非常に感動したため、「まず兄弟シモンに出会ったアンドレアは、『メシア―キリストの意味―に会った』と言っ」(ヨハネ1章41節)たのです。「まず」ということば自体が、もう一人の弟子もそのあとながら自分の兄弟に出会ったことを示しており、この第二の弟子は聖ヤコブを兄弟に持つ聖ヨハネであることを示しています。
私たちの主イエズス・キリストが、まさに救い主であり、まさに贖い主であり、ヘブライ人たちだけでなく、異邦人の世界の中でさえ待ち望まれていたまさにそのお方なのです。実際、選ばれた民以外でも、天主は、何人かの預言者がキリストについて語るよう霊感をお与えになりました。聖アウグスティノはローマ時代の巫女の言葉をいくつか引用しており、フランスではカルヌテス族(シャルトル周辺のケルト部族)のケースがあり、彼らは「身ごもる童貞」をたたえていました。おそらく、天使が彼らに現れて、童貞の受胎について教えたのでしょう。実際、私たちの主イエズス・キリストは全人類の唯一の救い主であり、主の来臨以前であろうと以後であろうと、救われるためには主を信じることが必要です。主の来臨以前は、主が来られることを信じることが必要だったのであり、主の来臨以後は、主が来られたことを信じることが必要だったのです。
聖ペトロは私たちに、「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名は、イエズスの御名のほかにはないからです」(使徒行録4章12節)と告げています。こういう訳で、クリスマスが大変重要なのです。救い主の来臨なのですから! 私たちの主イエズス・キリストに対するこの信仰が、聖フランシスコあるいはルフェーブル大司教といったすべての偉大なる宣教師を力づけた宣教精神の原則です。彼らはイエズスを霊魂たちに与えることを願いましたが、それはその霊魂たちが救われるようにするためです! なぜなら、すべての人がイエズスを必要とし、すべての人が救い主を必要とするからです。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。「しかし、信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。
しかし、「まだ信じなかった者をどうして呼び求められよう。まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『平和の福音を宣教する者、よきことの喜ばしい知らせをもたらす者の足は美しい!』と書き記されている」(ローマ10章14-15節)。それゆえに、異邦人の回心のため、韓国人、日本人、中国人、インド人、すべてのイスラム教徒、またすべての異端者たちの回心のため、多くの宣教師が必要とされます。なぜなら、教会であるキリストの体(コロサイ1章24節)、キリストまで直接さかのぼる唯一の教会であるカトリック教会の中にいるのでなければ、キリストのいのちを生きることはできないからです。
しかし、次のように言う人がいるかもしれません。「聞かなかった人々に何が起きるのでしょうか?」。第一に、天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前書2章4節)ということを知る必要があります。それゆえに、天主は常に各人が救われるために十分な恩寵をお与えになるでしょう。もしある人が救われないならば、天主が十分な恩寵をお与えにならなかったからではなく、その人が天主の恩寵に抵抗し、救いを拒否したからです! 聖パウロが先に述べた一節の続きでこう言いました。「だがみなが福音に従ったのではない」(ローマ10章16節)。聖ステファノを死刑に処したファリザイ人たちのような人々は、「絶えず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。
宣教師が訪れることのなかった民族でさえ、天主の天使が訪れることがあり得ます。天主を探し求める人々を天主はお見捨てにならないでしょう。ヨブ記にこう書かれているようにです。「天主は一度話しかけ、二度目は同じことを繰り返されない。人に眠気が襲い、床に寝ているそのとき、夢によって、夜の幻によって、天主は人の耳を開き、人が知るべき教えの戒めを与え給う。それは行っている悪しきことから人を遠ざけ、人をその高ぶりから救うためである」(ヨブ33章14-17節)。
どのような場合でも、たとえ天使の訪問を受けなかったとしても、人には自分自身の罪があるのであって、そのために正当に罰せられるのであり、御摂理に不平を言うことはできません。ですから、ニューカレドニアでは、宣教師が来る前は人々は人食いをしていましたが、審判の日には、彼らは「それは私たちの罪ではありません。私たちはイエズス・キリストを知ることがなく、一人の宣教師も来てくれなかったのですから」と述べることはできないのです。主は彼らに「おまえたちが『なんじ隣人を食するなかれ!』ということを知るために宣教師は必要なかった」と言われるでしょう。そして現代世界では、妊娠中絶が罪であることを知らなかったと主張できる異邦人は誰もいません。自分が生まれる赤ん坊を愛してその子の面倒を見なければならないということは、妊娠している母親のはらわたに書かれているのです。他の多くの罪についても同様です。
でも、これらの罪びとに対してさえも、天主は彼らの救いを望んでおられ、その目的のために彼らに宣教師を遣わそうと望んでおられるのです。天主は霊魂の扉を、特に若者の霊魂の扉をたたいておられます。「あなたたちは、これらの霊魂の救いのために、自分のいのちを捧げるつもりがあるか? 霊魂を求める私の渇きが満たされるために?」。実際、天主はその愛を聖フランシスコ・ザビエルのような人々の心にお注ぎになり、彼らにおいて、霊魂を回心させようとする望みを、永遠の滅びから霊魂を救おうとする望みを、霊魂に永遠のいのちを与えようとする望みを燃え立たせ給うのです。
これらの宣教師たちはしばしば、この目的のためにいのちを捧げてきました。殉教によってだけでなく、彼らが直面した危険によってもです。多くの宣教の初期には、熱帯地方の病気のために亡くなった多くの宣教師がいました。十九世紀の「Pères Blancs(白衣の神父たち)」については、アフリカに派遣された人の三分の一が、その奉仕の最初の二年間で亡くなってしまったのですが、それはアフリカのあらゆる種類の病気のためだったのです! 彼らも霊魂の救いのために、いのちを捧げたのです!
隣人が地獄の火の中に落ちていくのを見ているのに何もしないのならば、どうして私たちは隣人を愛すると言えるでしょうか? 非常に多くの霊魂が地獄に落ちていると考えるだけで、私たちは彼らに対して何かをしようと熱心に思い、まず「刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わし給えと祈」(マテオ9章38節)り、さらに、恐れることなく信仰を告白することによって、彼らに信仰を教えることによって、彼らに私たちの主イエズス・キリストの道を勧めることによって、彼らに私たちの心に燃えている光と火を与えることによって、これら私たちの隣人、友人たちを助けるのです。
さらに言うべきことがあります。司祭だった宣教師は、他人の救いのために自分のいのち以上のものを与えました。司祭は、彼らに天主ご自身を与えたのです。実際、聖別することによって、司祭は私たちの主イエズス・キリストをご聖体において、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに本当に現存させるのです。それゆえに、司祭は隣人に天主を本当に与えるという立場にあるのであり、文字通りそうなのです! ですから、たぶん私たちの主イエズス・キリストは、皆さんの霊魂、特に若い人の霊魂の扉をたたいておられるはずです。そして皆さんにこうお尋ねになるのです。「あなたは、この霊魂の救いのための素晴らしい仕事に喜んで自分を捧げますか、私はそのためにクリスマスにここ地上にやって来たのですから。あなたは、霊魂を求める私の愛の道具に喜んでなりますか?」。
汚れなき童貞が、私たちのために、また他の多くの人々のために、この恩寵を取り成してくださいますように! アーメン!