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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭:本当の平和の条件と基礎

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭について黙想してみました。





 最近のニュースによると、NPO法人「チャリティーサンタ」(東京)が今年の9月に調査したところ、103人の回答のうち10人に1人が、お金の余裕がないことなどが理由で子どもに「うちにはサンタは来ない」と伝えたことがあるそうです。

 この調査によると、クリスマス時期の気持ちを複数回答で尋ねると「楽しい」が58・3%でトップ。「子どものためにもっとやってあげたい」が56・3%、「お金がかかって大変」が42・7%と続いたとのことです。年収が低くなるにつれ「切ない」「しんどい」という回答が増えた、そうです。シングルマザーの3人に1人が、残念なことに「クリスマスなんてなければいい」と考えたことがあるのだそうです。きっと生活が大変なのだと思います。

 でも本来は、クリスマスとうのはサンタクロースの日でもなければ、「セールス」の日でもないし、「切ない」「しんどい」日でもないんです。

 「サンタクロースのクリスマス」なんて、なくてもいいけれど、「本当のクリスマス」はなければ困ります。

 何故なら、本当のクリスマスは、天主が人となって幼子としてお生まれになった日だからです。本当のクリスマスは、この全世界の創造という贈り物を超える、人間が天主と結びついたという無限の贈り物を頂いた日だからです。

 クリスマスは、天主が私たちを赦すために、私たちにご自分を贈り物として与えるために、人となって生まれた日です。だから世界中で祝っているのです。

 天皇陛下のお誕生日は私たちにとって大切な日ですが、クリスマスは天皇陛下のお誕生日よりももっと大切な日です。

 日本は、はやぶさという小惑星探査機を打ち上げましたが、それが地球に戻らせて大気圏再突入させました。これもすごいことですが、全宇宙を無から創造した天主が、私たちのうちに幼子としてお生まれになったというものすごい出来事を祝う日です。

 どのうちにもサンタは来ませんが、私たちのため天主は人となって来られました。

 それは、私たちの罪を赦すためです。私たちから罪の負債を取り除くため。私たちに代わって罪の償いを果たすため。十字架の苦しみを受けるためです。

 天主が人間を通してお働きになる、永遠が時においてお働きになる、天主が幼子の姿でお生まれになる、そんなことを聞くと、人々はつまずいて転んでしまいそうになるかもしれません。はい、何というつまずきでしょうか!

 聖性そのものであり罪がない天主が、極悪人のように苦しみ屈辱を受けて十字架に付けられる、何というつまずき!

 天主がパンの外見において真にましまし給う、なんというつまずき!

 天主が人間を通して不可謬の真理の教えを垂れる、なんというつまずき!

 天でも地でも罪を赦すことができるという天主の力を人間に与える天主、なんというつまずき!

 水によって洗礼を受けることによって、罪が全て洗われ赦される、なんというつまずき!

 人類の全ての罪を負って無罪であるにもかかわらず冤罪で死刑とされるためにお生まれになる天主、なんというつまずき!

 待降節第二主日の福音でイエズス・キリストはこう言いました。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 静けき真夜中、ベトレヘムで私たちの主は御母の元で安らかに眠っておられました。あたかも何も知らないかのように。

 ゲッセマニの園では、同じ主は苦悩のうちに祈られます。愛する三名の弟子達には、彼らが警備員であるかのように「目覚めて祈れ」と命じました。祈るイエズス・キリストには、罪の重みが私たちの主の上に重くのしかかります。人類の犯す公然の大犯罪と秘密のうちに犯される恥ずべき罪と全ての悪の行いをあたかもご自分が犯したかのように。主は、血の汗すら流し、真っ赤な血潮が滴り落ちます。

 三人の弟子達は眠りこけていました。エルサレムも眠っていました。起きていたのは、イスカリオトのユダと、主を捕らえようとする人々だけでした。あるいは、酒盛りで酔いつぶれつつ「天主なぞどこにいるのか」とうそぶく青年だけかもしれません。

 人々は疲れると眠ります。しかし心配事があると眠られません。使徒たちは、その時の重大さを知らなかったので、危険を知らなかったので、人類の罪の重みに気がつかずに、眠っていました。

 ペトロは剣を持って寝ていました。武装して、しかし、寝ていました。物理的な敵の攻撃に警戒してはいましたが、罪については心配していませんでした。

 弟子たちが「主よ、ごらんください。ここに剣が二ふりあります」というと、主は「もうよい!」とおおせられました。Domine, ecce, gladii hic duo. Sed Ipse dixit illis ; sufficit. 私たちはペトロのようなのかもしれません。物理的な活動さえすれば良い、と思っていたとしたら。

 どうして人間は兄弟同士で戦争をするのでしょうか?何故なら、人間は父なる天主にたいして罪を犯すことによって戦いを挑んでいるから。天主の創った自然に反する法律を作ろうとしているから。善と悪とを同じだとし、真理と誤謬も区別しないようにしているから。ニーチェの言葉に従えば、価値の転換(Umwertung aller Werte)を行い、悪はこれからは善と見なし、善を悪とみなそうとするから。

 天主の掟を無視し、家庭という聖なる家族制度は偽りの自由(放埒)によって汚され、子供たちは、十字架もなく救い主もなく天主の愛もなく、人間が罪を犯すことが自由であり人権であるという世界を作るようにと教えられているから。罪なき胎児を殺害するのが人権であるとうそぶいているから。そのような時、剣だけで足りるのでしょうか?

 聖ペトロはローマで殉教する直前にこう書きます。ローマが天主を忘れて生活していることを警告します。「かれら(=偽預言者・偽教師)の裁きは、古くからはたらきつづけ、その亡びは眠っていない。…かれらは知らないことがらをののしり、…けもののように、亡び、そして不義のむくいをうけるであろう。」(ペトロの後の手紙第2章)

その後、西暦370年、西ゴート族の王家に、ドナウ川河口でアラリックという子供が生まれました。だれもこの子供の歴史的な重大性を予見したものはいませんでした。アラリックは、ローマを3回包囲します。第3回目は410年8月24日、野蛮で凶暴な兵士たちがローマになだれ込み、ローマの富を強奪・略奪しました。多くの公共施設が略奪され、歴代皇帝の墓所が暴かれ、フォールム・ロマーヌムの複数のバシリカは破壊され、多くが捕虜となり、奴隷として売り飛ばされ、強姦・虐殺されました。

ローマ略奪の後、アラリックはアフリカ属州を征服しようと船舶にのり込みますが、突然死亡します(西暦410年、40歳)。ゴート族の古い慣習に従って、兵士たちはブゼント川の水を迂回させてアラリックの墓穴を掘り、永遠のローマを破壊した男を埋葬しました。

紀元前387年、ローマは、ブレンヌス率いるガリア人に侵略された以来、侵略されたことがありませんでした。800年の間なかったことが、想像もできなかったことが起こってしまったのです。ローマの驚きは、その体験した恐怖よりも遥かに大きいものでした。ローマの屈辱は、その驚きよりもさらに大きなものでした。聖エロニモは、ベトレヘムでそのニュースを聞いてショックで嗚咽します。

 私たちがいまもっている日本国憲法は、終戦直後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。

「日本国民は、…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

しかしそれとほぼ同時に、1948年7月13日、優生保護法によって、日本の母親の胎内の子供たちへの戦争が可決されました。自国民の子供たちへは、恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を認めませんでした。この子供たちが流した血の償いは誰かがしなければなりません。「剣をとる者は剣で亡びるのだ。」

金正恩が、大阪出身の高英姫を母として1984年1月8日に生まれたとき、だれも彼の将来を予見する者はいませんでした。21世紀のアラリックとなるのでしょうか?その様なことがありませんように!

金正恩にはクリスマスを目の敵にしています。ニュースによると、2016年、金正恩はクリスマスを祝う行事を公式に禁止しました。その代わりに国を挙げて1919年12月24日生まれの、祖母の金正淑(キム・ジョンスク)の誕生日を記念しています。

天主教では、人々は天主イエズス・キリストを全てに越えて愛します。しかし、共産主義国家では人民は共産党に忠誠を誓わなければなりません。金正恩は、祖父の金日成を崇拝することを望んでいます。


 Vigilate et orate.「目覚めて祈れ」と主は言います。Vigilate とは「目覚めていなさい」「外的に警戒していなさい」ということです。

 Orate とは「祈れ」「内的に武装していなさい」ということです。ペトロは剣だけに信頼して、祈りを怠ってしまいました。外的な活動は、よく祈りよりも大切にされがちです。肉体上の敵は剣や銃や戦車やミサイルなどの軍事力で勝つことができます。しかし精神的な悪は、祈りと十字架でなければ勝てません。「祈りが一体何の役に立つのか?」ペトロはそう考えて剣を手にとって安心して眠りました。

 北朝鮮は、大陸間弾道ミサイルを開発し、核弾頭を大量に生産しようとしている、米ドル紙幣や中国の紙幣を偽造し、インターネットでハッキングし不正に資金を調達している、だから北朝鮮の耳を剣で切り落としてしまえばよい、金正恩を排除すればよい、と。それで全てが解決すると思っていたとしたら、私たちはペトロのようなのかもしれません。問題はもっと根の深いところにあります。

 罪こそがこの世での最大の悪であること、ルターの宗教革命も、ボルシェヴィキ革命も、戦争も、罪の結果であること、それを知ってこそ私たちは本当の平和への道を歩み始めることができます。革命も戦争も、私たちの生活態度の結果が熟した時に生じるものだからです。

 材木に熱をかけると炭になって火を出すように、天主の掟に反して人々が生活すると、その結果が社会全体に現れます。重力に逆らってみようとして高いところから飛び降りたとしても、怪我をするのは人間の方です。天に向かってつばを吐けば、その結果は自分に返ってきます。天主に悖って、自然の秩序に刃向かって行動すれば、苦しむのは人間です。天主の掟に逆らうことによって、天主の掟を破壊することはできません。そうすることによって破壊されるのは自分自身です。

 自分の蒔いたものを刈り取らねばなりません。天主に対して戦争を起こせば、人間は戦争を望んでいなかったにもかかわらず戦争を呼び起こしてしまいます。

 いたずら坊主を父親が叱ってビンタするように天主が私たちを罰するのではありません。何故なら、いたずらとビンタは、必ず起こるという因果関係がないからです。

 しかし、雨が降るとどうしても大地がぬれるというように、天主に背くとどうしても人間が罰を受けるのです。天主無しに、人間の力だけで平和な世界を築き上げることができるという幻想のうえに、この世界を作ろうとしているがゆえに、戦争を起こしてしまうのです。

 聖父なる天主を認めないところに、どうして人間が互いに愛すべき兄弟であることを認めることができるでしょうか。兄弟ではなく「人間は人間にとってオオカミである」とホッブスは言ったではないでしょうか。天主という土台を切り崩しつつ自分の住む世界が崩壊していっても、自分であたりに毒をばらまきながらそこから汲む飲み水が苦くなっても、そのことを天主に文句を言うべきではありません。

 地獄が罪の結果であるように、戦争も罪の結果です。

 ゲッセマニの園に、ユダがやって来ます。武装してやって来ます。司祭長、律法学士、長老たちからおくられた人々が、剣や棒をもってついてきます。裏切り者は、「私がくちづけするのがその人だ。捕えて厳重にひいていきなさい」とあらかじめ合図しました。

 愛情のしるしの接吻は、キリスト教の歴史におけるトロイの木馬でした。現代では、「人類の一致のため」「世界平和のため」という名目で、キリストが否定されています。「メリー・クリスマス」の代わりに「幸せな休暇」と言い、カトリックの聖伝のミサの代わりにエキュメニカルな礼拝式が取って代わろうとしてます。

 「天主が悪を許すわけがない」というのは、一般に広まっている大きな誤解です。悪の存在を見て、人々は「天主は一体どこにいるのか?」と冒涜しあざ笑う人々がいます。何故私は交通事故にあったのか?何故私はこんなに不幸な目に遭っているのか?何故私はこんなに苦しんでいるのか?俺がいったい何をしたのか?俺は苦しまなければならないような悪いことはしていないぞ!俺のやってきたことはすべて正しい!苦しみたくない!

 イエズス・キリストの十字架の左に付けられた盗賊は、自分を十字架から解き放ち、自分がまた働くことができるようにさせることが救い主の証拠であると主張しました。「もしもおまえがキリストなら、自分を救い、俺たちを救え!」(ルカ23:39)

 私たちが繁栄を満喫しているとき、人は天主について疑問に思いません。天主のしなければならない義務は、私たちが思い通りの人生を送ることができるようにすることであると考えているのかのようです。

 不幸なとき、天主を信じるという人でさえも、天主の存在を疑うかのような態度をとってしまうかもしれません。天主とは、あたかも私たちのこの世の成功を叶えてくれなければならないものであると考えているかのようです。

 この世の成功と、天主の性質とを一緒くたにするということは、悪には天主の力が及ばない、悪があることは天主が負けたことだ、と誤解することに起因しています。しかし、私たちの主は言います。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 最後の晩餐の後、かんらん山に向かいつつ、私たちの主は弟子達にこう預言しました。「今夜、あなたたちは、みな、私についてつまずくだろう。"私は牧者を打ち、そして羊の群れは散る"と書かれてあるからだ。」

 天主の全能は、ご自分の御旨を果たそうとしない道具でさえも使って自分の目的を果たすことができる全能です。天主は、遙かにより大いなる善のために、時には悪が起こるのを許可するほどの全能をお持ちです。聖パウロは言います。「罪が増したところには、それ以上に恩寵はあふれるばかりのものとなった。」

 ローマ人の百夫長は、十字架の上で息絶えた私たちの主、天主の子羊であるイエズス・キリストの心臓に槍を貫き指します。ユピテルとマルスの神々を信じていたこの軍人は、その時イエズス・キリストについて「この方は天主の子だ」と叫びます。その天主の子の御受難の記録はトリノの聖骸布に残されています。

 ベトレヘムで天主が幼子として生まれた時、天使たちは大喜びで歌を歌いました。
天の軍勢の大群が「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和」と天主を賛美しました。

 何故なら、私たちがうけるべき罰を全て自分の身に引き受けるために天主が赤子となって生まれたからです。救世主がお生まれになったからです。私たちが受けるべき苦悩を受けるために、私たちに本当の平和を与えるために、お生まれになったからです。

 私たちが、本当のクリスマスに戻るとき、イエズス・キリストを真の天主として信じ、礼拝し、希望し、愛する時、この世界に平和が戻ります。

 ミサ聖祭で司祭が聖変化の時、御聖体を奉挙します。その時、私たちは死と聖トマスのようにこう言います。「わが主、我が天主なり!」と。ミサ聖祭で司祭が御聖体を私たちに示す時、洗者聖ヨハネの言葉を繰り返して、こう言います。見よ、天主の子羊を!Ecce Agnus Dei!

 馬草おけに横たわる幼子は聖母によって布に包まれましたが、十字架から下ろされたイエズス・キリストは聖母によって聖骸布に包まれました。

 願わくは、聖母よ、私たちが幼きイエズスを心から迎え入れることができますように助けてください。願わくは、私たちが主のおっしゃったとおり、自分の十字架を日々になって主の御後を歩むことができますように。

 ベトレヘムのクリスマスとゴルゴタの聖金曜日とミサ聖祭の挙行は、一致します。ベトレヘムの幼子とトリノの聖骸夫とミサ聖祭の御聖体は一致します。

 東京では、明日、朝8時半からトリノの聖骸布の展示と、御降誕の前日のミサがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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