2017年9月3日(主日)証聖者教皇聖ピオ十世のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年9月3日、聖霊降臨後第13主日、聖ピオ十世教皇のミサです。特に聖ピオ十世会では一級祝日、守護の聖人の祝日なので、特別の御ミサを捧げております。
今日の御ミサの後に14時からは公教要理、そして16時からは晩課も行います。明日は朝の7時からミサがあります。
次の主日のミサですが、少しイレギュラーになっています。
次のミサは来週のミサです、来週の9月10日にあります。
その次のミサは10月1日です。どうぞお間違えないようになさって下さい
それからこの前予告申し上げましたように、皆さんの名前を書いた紙をマリア様の御心の中に入れて、ファチマのコヴァ・ダ・イリアの御出現のマリア様の前に置いてきました。その後、係の方にまた元に戻してもらって、今大阪の御聖堂に安置してあるのですけれども、マリア様の汚れなき御心に皆さんを全て奉献する意向で、奉献の祈りとをマリア様に捧げてきました。どうぞマリア様の御心の中にいつも守られていらっしゃいますので、その事をぜひ知って下さい。皆さんの名前を書いたのはこの額の裏にもずっと記念にとっておかれます。どうぞその事も覚えていて下さい。
「聖ピオ十世、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ピオ十世会の守護の聖人、聖ピオ十世、列聖された最後の、20世紀のこの教皇様で、ぜひこの聖ピオ十世の生涯をまず垣間見て、
その教皇職の一番の原理は、指導原理は何だったのか?何をやろうとしていたのか?という事を知ってもらいたいと思います。
そしてその為に、一番最大の手段として使ったのは何だったのか?そしてその結果具体的にどんな事があったのか?どんな事をなさったのか?という事を第3点に見て、
最後に私たちもその結論を、私たちはでは一体、聖ピオ十世教皇様のその今日模範を見て、何をしなければならないかという事を結論付ける事に致しましょう。
ざっと聖ピオ十世教皇様の生涯を垣間見ると、聖ピオ十世教皇様は、イタリアの寒村、リエゼという所に1835年に生まれました。その優秀さをすぐに認められて神学校に送られ、1858年に司祭に叙階されました。
非常に良い司祭という事で評判であったジュゼッペ・サルト神父は、マントヴァの司教としてレオ十三世によって上げられ、1884年に司教に聖別されました。司教として非常に典礼を大切にし、また聖職者の養成に心を尽くしました。特に司教として神学校に住み、神学生の教育に最善を尽くしました。自ら教鞭を取った事もあります。
そのあまりの業績の良さに、ヴェネツィアの枢機卿となりました、1893年の事でした。レオ十三世が亡くなると、ヴェネツィアの人に、「すぐ帰ってくるから」と言ってコンクラーベに出たまま、帰らぬ人となりました。1903年に教皇に選ばれたからです。
1914年、第一次世界大戦の勃発の悲しみに、その心痛の内に、その霊魂を天主様に返しました。
ピオ十二世教皇様によって1954年、亡くなって40年後に列聖されました。特にピオ十二世教皇様はこのピオ十世教皇様に対して特別の尊敬を持っていて、「これこそが教皇としての模範である」と高い称賛の声をもって列聖されました。
その普通の人でも列聖されるには大変ですけども、教皇として列聖されるというのは、その教皇としてなした職務がその難しい職務が、あまりにも英雄的であり、あまりにも聖であったからです。
ではまず、聖ピオ十世教皇様が教皇登位以後、その行動の原理は何だったのでしょうか?
ぜひ皆さんこれを覚えて下さい。聖ピオ十世教皇様がまず教皇様となって出したその最初の回勅、“エ・スプレーミ・アポストラートゥス”の中ではっきり言った事があります。
「私はできれば、涙を流して、『お願いだから、これ(教皇職)はぜひ受けない事ができるように』と祈った。涙を流した、避けようとしたけれども、しかしこれ(教皇職)は天主の御旨としてどうしても受けなければならなかったので、十字架として受けた。兄弟たちの皆の為に受けた。」
「だから私は言う。まずこの全世界を見ると、今人類の状況は非常に重い病気にかかっている。その病気の名前は、『天主からの背教』である。天主を捨て去ってしまっている事である、信じない事である。この人類の無残な嘆くべき状況に対して、私は1つモットーがある。それは聖パウロの言葉を繰り返す事であって、『全てをキリストにおいて復興させる』事だ、“Instaurare omnia in Christo.”」
「もしも私が他の政治的な、あるいはどんな党派に属しているか、と探る人があったら、全く空しい事だ。私の立場は天主のしもべであって、私の利益は天主の利益である。天主の利益こそが私の利益であって、全てはキリストにおいて復興させる事しか求めない。つまり全てを救霊の観点から、超自然の観点から、霊魂を天国に運ぶという事から、罪を痛悔し、そして聖徳に人々を導く事、それだけしか私には関心がない。霊魂の救い、イエズス・キリストにおける霊魂救い、これを求める」と宣言しました。
「人々は平和を求めているけれども、イエズス・キリストのない平和などという事は全く空しい。なぜかというと、平和というのは正義の業であって、天主が無いところには正義が無いからだ。正義が無いところには秩序が無いからだ。そして真の天主というのは、イエズス・キリストであって、イエズス・キリストを知るにはカトリック教会しかない。だから本当の平和を求める為には、イエズス・キリストをよく知らなければならない。イエズス・キリストをよく知る為には、カトリック教会に行かなければならない。なぜかというと、イエズス・キリストはカトリック教会を建てたのであって、ペトロの上に建てたのであって、イエズス・キリストを知る事がすなわち、永遠の命であるからだ。」
「では一体、どうしたらイエズス・キリストをみんなが知る事ができるだろうか?今の『宗教の敵』というのは知識ではない、科学知識ではない。そうではなくて、『人々がイエズス・キリストの事をあまりにも知らない事』である。無知である事。だから、人々が深く本当のイエズス・キリストを知る事ができるように、そして深く知る事によってイエズス様をますます愛する事ができるように、聖なる司祭を養成したい。学徳のある、イエズス・キリストに対する信心深い、聖なる司祭が多く必要である。私にとって神学校は非常に大切だ。神学生を養成する全てが聖でなければならない。なぜならば、全ての権威というのは天主から来るのであって、この地上の権威、社会の権威は天主から来るのであって、それを教える司祭がまず聖でなければならないから。司祭を聖とする事によって、世界全体を聖化しなければならない」と、訴えていました。
「全てはキリストにおいて復興させられなければならない。もしもそうならなければ、社会は滅びる、人類は滅亡する」と。
第2の点は、ではこの壮大な聖パウロの言葉をこだまさせた聖ピオ十世教皇様のプログラム、モットーは、一体どうやったら最高度に実現する事ができるでしょうか?一番それをうまく、イエズス・キリストを養成する、イエズス・キリストを形付ける、イエズス・キリストにおいて全てを作る、最も最高の、安全な、優しい、簡単な手段とは何だったのでしょうか?
その絶好のチャンスを聖ピオ十世教皇様は、マリア様の無原罪の御宿りの協議がドグマが発布されて50周年、1904年2月11日に見出しました。この時に回勅を、マリア様についての回勅を立てて訴えました。
「旧約聖書を見てもそうであるが、イエズス・キリストの予言の時には必ず、マリア様の予言も一緒になっている。マリア様のないイエズス・キリストの予言はない。なぜかというと、天主の御旨によって、私たちにイエズス・キリストが与えられたのは、マリア様を通してであるから、マリア様を通してのみ与えられるから。だからもしも私たちがイエズス・キリストを知ろうと知識を持とうと思うならば、マリア様を通さなければならない」と言って、イエズス様の幼年期の事を思い出させます。
「イエズス様がどうやってお生まれになったのか、一体どのように生活されたのかを考えてみるだけで良い。マリア様だけが世界中のあらゆる人々の全ての中で、ただ一人、イエズス様と母と子供の関係で30年間、最も緊密にイエズス様と過ごした、そんな様な御方はマリア様だけである。マリア様以上にイエズス様の事を知っている人が、どこにいるだろうか?」
「だから、もしもイエズス様まで行きたいと思うなら、マリア様こそが私たちを連れて行って下さる方であって、マリア様こそが私たちをしてイエズス様を深く知らせる方である。更にマリア様は、私たちの霊的母であって、イエズス様の十字架の下で共に、霊的に私たちを生んだお方である、私たち全ての母であるから、私たちはマリア様に行かなければならない。マリア様、御母である聖母マリア様を通さずには、私たちはイエズス・キリストへと辿り着く事はできない。」
『マリア様を通して、イエズス・キリストに行く』というカトリック教会の昔からの言葉をそのまま実践したのが、聖ピオ十世教皇様でした。
では、マリア様の御助けをもって、無原罪の御宿りの助けをもって、インマクラータの御助けをもって、聖ピオ十世教皇様はイエズス様を知らせる為に、イエズス様を私たちにおいて養成する為に、形作る為に、何をしたでしょうか?
まず、御聖体を大切にしました。「頻繁な聖体拝領をするように。良き準備をして、イエズス・キリストの御聖体を、子供も大人も、頻繁に聖体拝領をするように」と計らいました。そしてミサに私たちがよく与る事ができるように、ミサをよく祈るように、ミサでグレゴリオ聖歌を大切にするように、教区民がグレゴリオ聖歌を共に歌う事ができるようにとしました。
実はそのちょっと前までは、グレゴリオ聖歌というよりは、別の曲が音楽が流れていた時代があったからです。「そうではなくて、グレゴリオ聖歌や、あるいはパレストリーナ、霊魂を高める聖歌を使わなければならない」と強調しました。
そればかりではありません。「イエズス・キリストを深く知る為に、イエズス・キリストを包み隠してイエズス・キリストを歪めてしまっている異端がある。近代主義だ。」そしてその近代主義を排斥しました、“パッシェンディ”。この“パッシェンディ”という回勅は、今でも燦然と輝く、「異端のゴミ溜め、下水管」と言われる、「汚水管」と呼ばれる近代主義を見事に、なぜこれがいけないのかを排斥して、それを説明しているものがあります。
また聖ピオ十世教皇様は、今まで複雑であった教会を1つに体系付けて、まとめて、イエズス・キリストを生きる為により簡単な、容易にするように、私たちを助けてくれました。
では私たちはそのような教皇様の模範を見て、現代、何をすればよいでしょうか?
聖ピオ十世教皇様の教えは、聖パウロの教えのまさに忠実なこだまであって、それの反復にしか過ぎません。カトリックの教皇様が言うべき事をただそのまま忠実に伝え、教えて、それを実行したという事です。あまりにも平凡に、しかも超平凡にそれを、当然あるべき事を英雄的になさったのが、聖ピオ十世教皇様です。ですから私たちは21世紀の今でも、このこだまを聞かなければなりません。私たちの修道会も聖ピオ十世会も、2000年間伝えられたこの忠実なこだまの声を今でも伝えようと、マリア様の御助けと、聖ピオ十世教皇様の御取り次ぎを、天主イエズス様の御助けによって、それを伝えようと努力しています。どうぞこの声によく耳を傾けて下さい。
私たちの生活の中心は、イエズス・キリストでなければなりません。私たちを創造して下さった、無から創造して下さって、この美しい秋の青空、良い天気、すがすがしい空気と大自然、この日本の山々と、海と、川と、花々と、動物とを下さった、私たちに命を与えて下さる天主。
そればかりか、私たちを永遠の命に導く為に、罪を犯した身であるにもかかわらず、それを赦す為に人となられた天主。
そればかりか、私たちと1つになる為に、私たち個人個人と一致する為に、私たちの糧となる、パンとなって食されるイエズス・キリスト。
王の王、真の天主、この世の救い主、全能の御子、永遠の御知恵、このイエズス・キリスト。
私たちの道であり、命であり、真理であり、全ての人類の来世の父であるべき天主イエズス・キリストを、私たちも深く知らなければなりません。そしてイエズス様を愛さなければなりません。
なぜかというと、そのようなイエズス・キリストのなさった、私たちの為になさった愛を深く知れば知るほど、どうしても愛さずにはいられなくなるからです。このような恩人は大恩人は、世界中どこを探してもいません。このような高貴な方は、王の王は、世界中どこを探してもいません。このような信実な友は、どこを探してもいません。その友が、王の王は、全能の天主が、私たちの元に貧しく、謙遜に、愛をもって近寄って、私たちを愛に招いておられるからです。
この私たちの生活は、そのイエズス様の前に、もはや自分の利益というよりは、イエズス様のお望みの通りに、私たちの善と愛、平和と命の事を考えるイエズス様の事をまず最優先するように、どうしてもならざるを得ません。「最大の掟は何か?」と言われれば、「全てを尽くし、心を尽くし、力を尽くして、天主を愛する事。天主を愛する為に隣人を愛する事。」まさにこれこそがイエズス様の御望みです。このイエズス・キリストにおいてのみ、本当の幸せと平和と繁栄と文明があります。もしもここから離れてしまう事は、私たちにとっては滅亡と破壊と混乱と苦しみと悩みと悲しみでしかありません。私たちを創造された天主は、その事を決して望んではいません。
その為には私たちは何が大切かというと、聖伝のミサが大切です。御聖体を愛して、御聖体を崇敬して、御聖体を愛をもって拝領する事が必要です。
まさにこれこそ、聖ピオ十世教皇様が私たちに、涙ながらにお願いしている事です。グレゴリオ聖歌のある、荘厳な美しい、天主にふさわしいミサを捧げて、司祭はますます聖なるものとなり、その聖なる司祭の導きの元で、カトリック信徒は聖徳へと導かれて、イエズス・キリストと一致して、イエズス・キリストを礼拝して、御聖体と一致して、主の御旨を果たす、悪と誘惑と戦う、罪を捨て去る、「イエズス・キリストの利益こそ私たちの利益だ」と言う。「私たちにとって生きるとはすなわち、キリストである。」
「ではその為にどうしたら、一番良い方法はどうか?」「マリア様だ。」
私たち聖ピオ十世会も、教皇様の言葉を聞いて同じ事を繰り返します。ぜひ、ぜひマリア様の方に行きましょう。無原罪の御宿り、汚れなき御心に行きましょう。ファチマのマリア様のその方に行きましょう。マリア様は、私たちがイエズス様を知る為の最も簡単な、最も優しい、最も忠実な手段です。私たちを連れて、イエズス様へと連れて行って下さる御方であるからです。ですからどうぞ皆さん、続けて聖ピオ十世教皇様の精神に、この教えに従って、共に歩く事に致しましょう。御聖体と、イエズス・キリストを中心の、マリア様に祈る生活をする事に致しましょう。
「聖ピオ十世、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年9月3日、聖霊降臨後第13主日、聖ピオ十世教皇のミサです。特に聖ピオ十世会では一級祝日、守護の聖人の祝日なので、特別の御ミサを捧げております。
今日の御ミサの後に14時からは公教要理、そして16時からは晩課も行います。明日は朝の7時からミサがあります。
次の主日のミサですが、少しイレギュラーになっています。
次のミサは来週のミサです、来週の9月10日にあります。
その次のミサは10月1日です。どうぞお間違えないようになさって下さい
それからこの前予告申し上げましたように、皆さんの名前を書いた紙をマリア様の御心の中に入れて、ファチマのコヴァ・ダ・イリアの御出現のマリア様の前に置いてきました。その後、係の方にまた元に戻してもらって、今大阪の御聖堂に安置してあるのですけれども、マリア様の汚れなき御心に皆さんを全て奉献する意向で、奉献の祈りとをマリア様に捧げてきました。どうぞマリア様の御心の中にいつも守られていらっしゃいますので、その事をぜひ知って下さい。皆さんの名前を書いたのはこの額の裏にもずっと記念にとっておかれます。どうぞその事も覚えていて下さい。
「聖ピオ十世、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ピオ十世会の守護の聖人、聖ピオ十世、列聖された最後の、20世紀のこの教皇様で、ぜひこの聖ピオ十世の生涯をまず垣間見て、
その教皇職の一番の原理は、指導原理は何だったのか?何をやろうとしていたのか?という事を知ってもらいたいと思います。
そしてその為に、一番最大の手段として使ったのは何だったのか?そしてその結果具体的にどんな事があったのか?どんな事をなさったのか?という事を第3点に見て、
最後に私たちもその結論を、私たちはでは一体、聖ピオ十世教皇様のその今日模範を見て、何をしなければならないかという事を結論付ける事に致しましょう。
ざっと聖ピオ十世教皇様の生涯を垣間見ると、聖ピオ十世教皇様は、イタリアの寒村、リエゼという所に1835年に生まれました。その優秀さをすぐに認められて神学校に送られ、1858年に司祭に叙階されました。
非常に良い司祭という事で評判であったジュゼッペ・サルト神父は、マントヴァの司教としてレオ十三世によって上げられ、1884年に司教に聖別されました。司教として非常に典礼を大切にし、また聖職者の養成に心を尽くしました。特に司教として神学校に住み、神学生の教育に最善を尽くしました。自ら教鞭を取った事もあります。
そのあまりの業績の良さに、ヴェネツィアの枢機卿となりました、1893年の事でした。レオ十三世が亡くなると、ヴェネツィアの人に、「すぐ帰ってくるから」と言ってコンクラーベに出たまま、帰らぬ人となりました。1903年に教皇に選ばれたからです。
1914年、第一次世界大戦の勃発の悲しみに、その心痛の内に、その霊魂を天主様に返しました。
ピオ十二世教皇様によって1954年、亡くなって40年後に列聖されました。特にピオ十二世教皇様はこのピオ十世教皇様に対して特別の尊敬を持っていて、「これこそが教皇としての模範である」と高い称賛の声をもって列聖されました。
その普通の人でも列聖されるには大変ですけども、教皇として列聖されるというのは、その教皇としてなした職務がその難しい職務が、あまりにも英雄的であり、あまりにも聖であったからです。
ではまず、聖ピオ十世教皇様が教皇登位以後、その行動の原理は何だったのでしょうか?
ぜひ皆さんこれを覚えて下さい。聖ピオ十世教皇様がまず教皇様となって出したその最初の回勅、“エ・スプレーミ・アポストラートゥス”の中ではっきり言った事があります。
「私はできれば、涙を流して、『お願いだから、これ(教皇職)はぜひ受けない事ができるように』と祈った。涙を流した、避けようとしたけれども、しかしこれ(教皇職)は天主の御旨としてどうしても受けなければならなかったので、十字架として受けた。兄弟たちの皆の為に受けた。」
「だから私は言う。まずこの全世界を見ると、今人類の状況は非常に重い病気にかかっている。その病気の名前は、『天主からの背教』である。天主を捨て去ってしまっている事である、信じない事である。この人類の無残な嘆くべき状況に対して、私は1つモットーがある。それは聖パウロの言葉を繰り返す事であって、『全てをキリストにおいて復興させる』事だ、“Instaurare omnia in Christo.”」
「もしも私が他の政治的な、あるいはどんな党派に属しているか、と探る人があったら、全く空しい事だ。私の立場は天主のしもべであって、私の利益は天主の利益である。天主の利益こそが私の利益であって、全てはキリストにおいて復興させる事しか求めない。つまり全てを救霊の観点から、超自然の観点から、霊魂を天国に運ぶという事から、罪を痛悔し、そして聖徳に人々を導く事、それだけしか私には関心がない。霊魂の救い、イエズス・キリストにおける霊魂救い、これを求める」と宣言しました。
「人々は平和を求めているけれども、イエズス・キリストのない平和などという事は全く空しい。なぜかというと、平和というのは正義の業であって、天主が無いところには正義が無いからだ。正義が無いところには秩序が無いからだ。そして真の天主というのは、イエズス・キリストであって、イエズス・キリストを知るにはカトリック教会しかない。だから本当の平和を求める為には、イエズス・キリストをよく知らなければならない。イエズス・キリストをよく知る為には、カトリック教会に行かなければならない。なぜかというと、イエズス・キリストはカトリック教会を建てたのであって、ペトロの上に建てたのであって、イエズス・キリストを知る事がすなわち、永遠の命であるからだ。」
「では一体、どうしたらイエズス・キリストをみんなが知る事ができるだろうか?今の『宗教の敵』というのは知識ではない、科学知識ではない。そうではなくて、『人々がイエズス・キリストの事をあまりにも知らない事』である。無知である事。だから、人々が深く本当のイエズス・キリストを知る事ができるように、そして深く知る事によってイエズス様をますます愛する事ができるように、聖なる司祭を養成したい。学徳のある、イエズス・キリストに対する信心深い、聖なる司祭が多く必要である。私にとって神学校は非常に大切だ。神学生を養成する全てが聖でなければならない。なぜならば、全ての権威というのは天主から来るのであって、この地上の権威、社会の権威は天主から来るのであって、それを教える司祭がまず聖でなければならないから。司祭を聖とする事によって、世界全体を聖化しなければならない」と、訴えていました。
「全てはキリストにおいて復興させられなければならない。もしもそうならなければ、社会は滅びる、人類は滅亡する」と。
第2の点は、ではこの壮大な聖パウロの言葉をこだまさせた聖ピオ十世教皇様のプログラム、モットーは、一体どうやったら最高度に実現する事ができるでしょうか?一番それをうまく、イエズス・キリストを養成する、イエズス・キリストを形付ける、イエズス・キリストにおいて全てを作る、最も最高の、安全な、優しい、簡単な手段とは何だったのでしょうか?
その絶好のチャンスを聖ピオ十世教皇様は、マリア様の無原罪の御宿りの協議がドグマが発布されて50周年、1904年2月11日に見出しました。この時に回勅を、マリア様についての回勅を立てて訴えました。
「旧約聖書を見てもそうであるが、イエズス・キリストの予言の時には必ず、マリア様の予言も一緒になっている。マリア様のないイエズス・キリストの予言はない。なぜかというと、天主の御旨によって、私たちにイエズス・キリストが与えられたのは、マリア様を通してであるから、マリア様を通してのみ与えられるから。だからもしも私たちがイエズス・キリストを知ろうと知識を持とうと思うならば、マリア様を通さなければならない」と言って、イエズス様の幼年期の事を思い出させます。
「イエズス様がどうやってお生まれになったのか、一体どのように生活されたのかを考えてみるだけで良い。マリア様だけが世界中のあらゆる人々の全ての中で、ただ一人、イエズス様と母と子供の関係で30年間、最も緊密にイエズス様と過ごした、そんな様な御方はマリア様だけである。マリア様以上にイエズス様の事を知っている人が、どこにいるだろうか?」
「だから、もしもイエズス様まで行きたいと思うなら、マリア様こそが私たちを連れて行って下さる方であって、マリア様こそが私たちをしてイエズス様を深く知らせる方である。更にマリア様は、私たちの霊的母であって、イエズス様の十字架の下で共に、霊的に私たちを生んだお方である、私たち全ての母であるから、私たちはマリア様に行かなければならない。マリア様、御母である聖母マリア様を通さずには、私たちはイエズス・キリストへと辿り着く事はできない。」
『マリア様を通して、イエズス・キリストに行く』というカトリック教会の昔からの言葉をそのまま実践したのが、聖ピオ十世教皇様でした。
では、マリア様の御助けをもって、無原罪の御宿りの助けをもって、インマクラータの御助けをもって、聖ピオ十世教皇様はイエズス様を知らせる為に、イエズス様を私たちにおいて養成する為に、形作る為に、何をしたでしょうか?
まず、御聖体を大切にしました。「頻繁な聖体拝領をするように。良き準備をして、イエズス・キリストの御聖体を、子供も大人も、頻繁に聖体拝領をするように」と計らいました。そしてミサに私たちがよく与る事ができるように、ミサをよく祈るように、ミサでグレゴリオ聖歌を大切にするように、教区民がグレゴリオ聖歌を共に歌う事ができるようにとしました。
実はそのちょっと前までは、グレゴリオ聖歌というよりは、別の曲が音楽が流れていた時代があったからです。「そうではなくて、グレゴリオ聖歌や、あるいはパレストリーナ、霊魂を高める聖歌を使わなければならない」と強調しました。
そればかりではありません。「イエズス・キリストを深く知る為に、イエズス・キリストを包み隠してイエズス・キリストを歪めてしまっている異端がある。近代主義だ。」そしてその近代主義を排斥しました、“パッシェンディ”。この“パッシェンディ”という回勅は、今でも燦然と輝く、「異端のゴミ溜め、下水管」と言われる、「汚水管」と呼ばれる近代主義を見事に、なぜこれがいけないのかを排斥して、それを説明しているものがあります。
また聖ピオ十世教皇様は、今まで複雑であった教会を1つに体系付けて、まとめて、イエズス・キリストを生きる為により簡単な、容易にするように、私たちを助けてくれました。
では私たちはそのような教皇様の模範を見て、現代、何をすればよいでしょうか?
聖ピオ十世教皇様の教えは、聖パウロの教えのまさに忠実なこだまであって、それの反復にしか過ぎません。カトリックの教皇様が言うべき事をただそのまま忠実に伝え、教えて、それを実行したという事です。あまりにも平凡に、しかも超平凡にそれを、当然あるべき事を英雄的になさったのが、聖ピオ十世教皇様です。ですから私たちは21世紀の今でも、このこだまを聞かなければなりません。私たちの修道会も聖ピオ十世会も、2000年間伝えられたこの忠実なこだまの声を今でも伝えようと、マリア様の御助けと、聖ピオ十世教皇様の御取り次ぎを、天主イエズス様の御助けによって、それを伝えようと努力しています。どうぞこの声によく耳を傾けて下さい。
私たちの生活の中心は、イエズス・キリストでなければなりません。私たちを創造して下さった、無から創造して下さって、この美しい秋の青空、良い天気、すがすがしい空気と大自然、この日本の山々と、海と、川と、花々と、動物とを下さった、私たちに命を与えて下さる天主。
そればかりか、私たちを永遠の命に導く為に、罪を犯した身であるにもかかわらず、それを赦す為に人となられた天主。
そればかりか、私たちと1つになる為に、私たち個人個人と一致する為に、私たちの糧となる、パンとなって食されるイエズス・キリスト。
王の王、真の天主、この世の救い主、全能の御子、永遠の御知恵、このイエズス・キリスト。
私たちの道であり、命であり、真理であり、全ての人類の来世の父であるべき天主イエズス・キリストを、私たちも深く知らなければなりません。そしてイエズス様を愛さなければなりません。
なぜかというと、そのようなイエズス・キリストのなさった、私たちの為になさった愛を深く知れば知るほど、どうしても愛さずにはいられなくなるからです。このような恩人は大恩人は、世界中どこを探してもいません。このような高貴な方は、王の王は、世界中どこを探してもいません。このような信実な友は、どこを探してもいません。その友が、王の王は、全能の天主が、私たちの元に貧しく、謙遜に、愛をもって近寄って、私たちを愛に招いておられるからです。
この私たちの生活は、そのイエズス様の前に、もはや自分の利益というよりは、イエズス様のお望みの通りに、私たちの善と愛、平和と命の事を考えるイエズス様の事をまず最優先するように、どうしてもならざるを得ません。「最大の掟は何か?」と言われれば、「全てを尽くし、心を尽くし、力を尽くして、天主を愛する事。天主を愛する為に隣人を愛する事。」まさにこれこそがイエズス様の御望みです。このイエズス・キリストにおいてのみ、本当の幸せと平和と繁栄と文明があります。もしもここから離れてしまう事は、私たちにとっては滅亡と破壊と混乱と苦しみと悩みと悲しみでしかありません。私たちを創造された天主は、その事を決して望んではいません。
その為には私たちは何が大切かというと、聖伝のミサが大切です。御聖体を愛して、御聖体を崇敬して、御聖体を愛をもって拝領する事が必要です。
まさにこれこそ、聖ピオ十世教皇様が私たちに、涙ながらにお願いしている事です。グレゴリオ聖歌のある、荘厳な美しい、天主にふさわしいミサを捧げて、司祭はますます聖なるものとなり、その聖なる司祭の導きの元で、カトリック信徒は聖徳へと導かれて、イエズス・キリストと一致して、イエズス・キリストを礼拝して、御聖体と一致して、主の御旨を果たす、悪と誘惑と戦う、罪を捨て去る、「イエズス・キリストの利益こそ私たちの利益だ」と言う。「私たちにとって生きるとはすなわち、キリストである。」
「ではその為にどうしたら、一番良い方法はどうか?」「マリア様だ。」
私たち聖ピオ十世会も、教皇様の言葉を聞いて同じ事を繰り返します。ぜひ、ぜひマリア様の方に行きましょう。無原罪の御宿り、汚れなき御心に行きましょう。ファチマのマリア様のその方に行きましょう。マリア様は、私たちがイエズス様を知る為の最も簡単な、最も優しい、最も忠実な手段です。私たちを連れて、イエズス様へと連れて行って下さる御方であるからです。ですからどうぞ皆さん、続けて聖ピオ十世教皇様の精神に、この教えに従って、共に歩く事に致しましょう。御聖体と、イエズス・キリストを中心の、マリア様に祈る生活をする事に致しましょう。
「聖ピオ十世、我らの為に祈り給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。