アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
最近、新しいミサについてコメントを求められました。私は、個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。
一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。
私が指摘したいもう一つは、ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問です。そのうちここでは3つの証拠を提示します。
詳しくは12年前に発表したマニラのeそよ風(第328号 2006/02/05)をご覧ください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、典礼改革に対する疑問を『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』の中で述べています。
(1)第二バチカン公会議後の典礼改革には問題があった。
【公会議後の典礼改革は、典礼の凡俗化・司牧的不賢明・軽はずみ】
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(158ページ)
【公会議後の典礼改革は、典礼レベルの低下化・司牧的幼稚症、見直しが必要】
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(159ページ)
【公会議後の典礼改革は、陳腐・平凡・愚鈍・退屈】
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(161ページ)
(2)典礼改革に問題があったのは、公会議文書の文字ではなく精神に従うべきだとする「断絶の解釈」に従ったため。
【典礼において、第二バチカン公会議の憲章と実際的適応とに著しい差異がある】
ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 「第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。」(161ページ)
【グレゴリオ聖歌を切り捨てたことにおいても、公会議からの理論的・実践的離反がある】
第二バチカン公会議が「教会の宝」、すなわち全人類の宝と呼んで、「最大の勤勉さで」保存するだけでなく、盛んにするようにと奨励して称賛を惜しまない教会音楽、西方カトリック教会の伝統的音楽・・・ ところで、この第二バチカン公会議の意志は受け継がれたのか?・・・「多くの典礼学者たちは、その宝を "僅かの人にしかなじめないから (esoteric)" と言って切り捨て、公会議後の典礼の "どんなときにもみんなに分かりやすい" 聖歌の名において、教会音楽を敬遠した。だから、特別な機会に大聖堂などで例外として使用されても、教会音楽はもう存在しない。その代わりに、"ありきたりの音楽(utility music)"、易しいメロディー、カンツォネッタ、はやり歌(catchy tunes)が取り入れられることになった。」(168ページ)
【グレゴリオ聖歌の「美の放棄」は「司牧的敗北」の原因】
「美を追放し、ただ実利だけを追求するところで示される恐るべき貧しさは、ますますはっきりしたものになってきた。"みんなに分かりやすい" 唯一のカテゴリーですまそうとすることが、本当に典礼をより分かりやすく、より開かれたものにしたのか、ただ貧相な典礼にしかしなかったのではないか、経験はそれを示している。・・・ "活発な参加" という名のもとに、素晴らしい教会音楽は排斥された。それにしても、この "参加" は、精神と五感を持って知覚することをも意味していないだろうか? 傾聴し、直感し、感動することは、"活発な" ことではないというのか?・・・ "はやり" の音楽をつくるだけに矮小化した教会は無能のうちに没し、教会そのものも無能になるだろう。」(168-169ページ)
(3) 「断絶の解釈」の根本に、公会議は、新しい典礼を作る会議であるかのように考える誤りがある。何人であっても、たとえ司祭であっても、典礼の僕であって、天主の神秘の主人ではない。
【典礼はショーや演劇ではない】
「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」(165ページ)
「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(166ページ)
ラッツィンガー枢機卿は『里程標:1927年から1977年の思い出』1997年(日本語訳『わが信仰の歩み』春秋社)でも典礼改革に対する疑問を述べています。
--------引用開始---------
私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。
しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。
トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。
典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。
いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。
しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。
これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。
教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。
もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。
--------引用終わり---------
ラッチンガー枢機卿は『典礼の精神』の中でも、典礼改革に対する疑問を述べています。
「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」
【参考資料】
聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか
愛する兄弟姉妹の皆様、
最近、新しいミサについてコメントを求められました。私は、個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。
一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。
私が指摘したいもう一つは、ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問です。そのうちここでは3つの証拠を提示します。
詳しくは12年前に発表したマニラのeそよ風(第328号 2006/02/05)をご覧ください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、典礼改革に対する疑問を『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』の中で述べています。
(1)第二バチカン公会議後の典礼改革には問題があった。
【公会議後の典礼改革は、典礼の凡俗化・司牧的不賢明・軽はずみ】
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(158ページ)
【公会議後の典礼改革は、典礼レベルの低下化・司牧的幼稚症、見直しが必要】
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(159ページ)
【公会議後の典礼改革は、陳腐・平凡・愚鈍・退屈】
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(161ページ)
(2)典礼改革に問題があったのは、公会議文書の文字ではなく精神に従うべきだとする「断絶の解釈」に従ったため。
【典礼において、第二バチカン公会議の憲章と実際的適応とに著しい差異がある】
ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 「第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。」(161ページ)
【グレゴリオ聖歌を切り捨てたことにおいても、公会議からの理論的・実践的離反がある】
第二バチカン公会議が「教会の宝」、すなわち全人類の宝と呼んで、「最大の勤勉さで」保存するだけでなく、盛んにするようにと奨励して称賛を惜しまない教会音楽、西方カトリック教会の伝統的音楽・・・ ところで、この第二バチカン公会議の意志は受け継がれたのか?・・・「多くの典礼学者たちは、その宝を "僅かの人にしかなじめないから (esoteric)" と言って切り捨て、公会議後の典礼の "どんなときにもみんなに分かりやすい" 聖歌の名において、教会音楽を敬遠した。だから、特別な機会に大聖堂などで例外として使用されても、教会音楽はもう存在しない。その代わりに、"ありきたりの音楽(utility music)"、易しいメロディー、カンツォネッタ、はやり歌(catchy tunes)が取り入れられることになった。」(168ページ)
【グレゴリオ聖歌の「美の放棄」は「司牧的敗北」の原因】
「美を追放し、ただ実利だけを追求するところで示される恐るべき貧しさは、ますますはっきりしたものになってきた。"みんなに分かりやすい" 唯一のカテゴリーですまそうとすることが、本当に典礼をより分かりやすく、より開かれたものにしたのか、ただ貧相な典礼にしかしなかったのではないか、経験はそれを示している。・・・ "活発な参加" という名のもとに、素晴らしい教会音楽は排斥された。それにしても、この "参加" は、精神と五感を持って知覚することをも意味していないだろうか? 傾聴し、直感し、感動することは、"活発な" ことではないというのか?・・・ "はやり" の音楽をつくるだけに矮小化した教会は無能のうちに没し、教会そのものも無能になるだろう。」(168-169ページ)
(3) 「断絶の解釈」の根本に、公会議は、新しい典礼を作る会議であるかのように考える誤りがある。何人であっても、たとえ司祭であっても、典礼の僕であって、天主の神秘の主人ではない。
【典礼はショーや演劇ではない】
「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」(165ページ)
「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(166ページ)
ラッツィンガー枢機卿は『里程標:1927年から1977年の思い出』1997年(日本語訳『わが信仰の歩み』春秋社)でも典礼改革に対する疑問を述べています。
--------引用開始---------
私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。
しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。
トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。
典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。
いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。
しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。
これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。
教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。
もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。
--------引用終わり---------
ラッチンガー枢機卿は『典礼の精神』の中でも、典礼改革に対する疑問を述べています。
「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」
【参考資料】
聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか