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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「使徒職の秘訣」第一部 二 イエズスこそが使徒的活動の生命――これが天主のお望みである

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の 第二 イエズスこそが使徒的活動の生命 をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


  二、イエズスこそが使徒的活動の生命 ――これが天主のお望みである

 なるほど、科学は、その数おおい、そして花々しい成功を、ほこることができよう。
 しかもそれは、ただしいほこりである。
 だが、科学に、どうしてもできないことが、ひとつある。今日まで、そうだったが、いつまでたっても、同じことだろう。
 科学に、どうしてもできないひとつのこととは、化学者の実験室から、生命をつくりだすことである。
 麦のひと粒を、サナギの一匹を、つくりだすことである。
 自然発生説の主張者たちが味わった、痛ましい敗北は、右の真理を、われわれに教えてくれた。
 生命をつくりだす機能は、ひとり天主のみが持っておられる。
 植物界・動物界において、いわゆる活魂をもっているものは、自身で生長し、自身で繁殖することができる。だが、それでも、かれらの生長や繁殖は、造物主から規定された条件下においてのみ、可能である。
 ところが、理知をそなえた生命の創造にかんするかぎり、天主はこれを他人まかせにしないで、ただご自分お一人だけの権限内に留保される。理性をそなえた霊魂は、天主から直接につくられる。さらに、“超自然的生命”の創造にかんしては、天主はいっそう大きな嫉妬の念をもって、これをただご自分お一人だけの権限内に留保される。なぜなら、超自然的生命とは、三位一体の天主的生命がまず、人となられた天主の聖言のご人性にそそぎ入れられたもの、―― 次に、この同じ天主的生命の流れが、被造物に、いわば“放出”されたものに外ならないからである。
 聖言の受肉と人類救済――この二大事実が、イエズスを、この天主的“生命”の源泉、しかも“唯一の”源泉にした。そして、すべての人は、この天主的生命に参与すべく、天主から召されている。そのために要求される条件は、「われらの主イエズス・キリストによりて」「Per Dominum Nistrum Jesum christum」である。「かれによりて、かれとともに、かれにおいて」「Per Ipsum, cum Ipso, et in Ipso」である。天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、教会が使用する実質的手段は、秘跡であり、祈りであり、伝道であり、その他、これにかかわりのある一切の使徒的事業である。
 天主は、その御ひとり子の仲介なしには、いかなるものも、おつくりにならない。「万物は、かれによって造られた。造られた物のなかに、ひとつとして、かれによらずに造られたものはない」(ヨハネ1:3)
 自然界において、すでにそうであるのなら、なおさら超自然界においては、そうなのである。すなわち、天主がご自分の内的生命を人びとにわかちあたえ、人びとをご自分の本性にあずからせて、これを“天主の子ども”となされる、超自然のわざにおいては、なおさらのことである。
 「聖言に、生命があった」(ヨハネ10:10 )
 「わたしは、生命である」(ヨハネ14:7 )
 「わたしがこの世に来たのは、人びとに、生命を得させ、いっそうゆたかに得させるためである。」(ヨハネ10:10 )
 なんとハッキリとしたお言葉だろう。右の真理を、主ご自身お説きあかしになった、「ぶどうの樹とその枝」のたとえ(ヨハネ15章参照)は、なんと光明にみちたものだろう。
 「かれだけが、イエズスだけが、生命である。したがって、この天主的生命のいとなみにあずかるためには、さらにまた、これを他の人にあたえるためには、どうしても、まず自分が、天主の人イエズス・キリストに、つながっていなければならぬ」
 この根本真理を、使徒たちに十分納得させるために、イエズスはどれほどの熱情をかたむけつくされたことだろう。
 それゆえ、この天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、救い主に協力する栄光に召されている人たちは、自分自身にかんしては、どうしても謙遜して、次のように考えていなければならぬ。――すなわち、自分は天主の恩寵を人びとの霊魂に通じるための、運河にすぎないのである。したがってそこを流れる恩寵の水は、始終これを、その唯一の源泉なるイエズスから、引いてこなければならないのだ、と。
 使徒職にたずさわる人びとの中に、右の原理を知らないで、キリストのお助けがなくても、自分の力だけで、超自然的生命を生みだすことができる、と少しでも考えている者があれば、そういう人は、神学を知らないか、それともうぬぼれが強いか、どっちかである。
 また、こんな人もいる。すなわち、キリストが、天主的生命の唯一の源泉であることは、理論的には百も承知である。だが、事実上、この真理を全く忘れ去っているかのように行動する。キリストにたいして失礼になる、愚かなうぬぼれのために、心の目がくらんで、自分自身の力だけを頼りにしている。これは、前者にくらべて、罪は軽いが、そのやりかたは、無軌道であり、天主の御眼には、がまんできない代物(しろもの)である。
 右の真理を、頭から排せきする。もしくは、理論的には、りっぱに承認していても、行動面では、それを念頭におかない。――どちらも、「知的無軌道」である。理論からいっても、実際からいっても、無軌道である。
 それは、われわれの行動の土台であり、指導原理であるべき根本真理を、頭から否定することである。そして、この真理が、使徒職専従者の心に、罪と故意の冷淡の結果、いっさいの光りの源なる天主に背を向けることにより、もはや光りを放たないようになると、右にいった無軌道はますます増長する。これは、明白な事実だ。
 さて、使徒的事業を遂行するにあたり、実行面で、あたかもイエズス・キリストが、超自然的生命の唯一の源泉でないかのように行動するなら、それはメルミヨ枢機卿が、いみじくも言明しているとおり、あきらかに“事業の異端”である。
 事業の異端! 自分は天主のみ手に使われている、ただ第二義的な、しかも従属的な道具にすぎないのに、このぶんざいを忘れて、自分の使徒的事業の成功を、専らおのれ自身の活動と、才能にだけ期待している使徒の感覚を非難して、枢機卿はそういっているのである。これは、あきらかに、「天主の恩寵がなければ、人間は超自然的には何もできない」という、カトリック教会の伝統的恩寵論を、事実上、根本から否定し去ったやりかたではないか。
 ――いや、そうではない、そういう結論はでてこない、とあなたはおっしゃるかも知れないが、しかし、ちょっと考えてみれば、筆者のこの断定は、深く真実をうがっていることが、おわかりになろう。
 事業の異端!よく言ったものである。
 熱に浮かされたような、落着きのない人間的活動が、天主のお働きに取ってかわる。天主の恩寵なんて、こっちの知ったことではない。――人間の高慢が、イエズスの王座に肉迫する。超自然の生命も持たない。祈りの効果も信じない。霊魂の救いのために、せっかく天主から定められた方法を排除して、採用しない。理論的にはともかく、すくなくとも実行的には、それらを、ゆるがせにして、かえりみない。――こういうケースは、われわれの想像の程度をはるかに超えて、世間にはざらにあるものだ。使徒職にたずさわっている人びとの霊魂を解ぼうしてみれば、各自、程度の差はあっても、この悪弊があまりに暴威をふるっているのに、驚かされるくらいである。
 現代は、天主を無視した自然主義、人間万能主義の横行する時代である。人びとは、とりわけその外観によって、事物の価値を判断する。使徒的事業の成功が、主として、人知の巧妙な事業組織によって獲得されるもののごとくに信じこんで、そのように行動している。
 生まれつき、すばらしい素質や才能にめぐまれた人が、ここにいる。
 だが、かれは、おのれのうちに他人がみとめる、これらの驚嘆すべき才能が、天主の賜ものであること、わざと否認する。こういう人にたいして、われわれはあわれみの念を禁じえない。あながち、超自然の光りに照らされるまでもなく、健全な良識さえ持っておれば、こういう人が、きのどくな人間だということは、すぐにわかる。
 いわんや、ここにひとりの使徒がいて、天主のお助けを全然無視し、自分だけの力で、天主的生命のごくわずかでも、人びとの霊魂にそそぎ入れることができるとうぬぼれているなら、たとえ口にだしてそういわなくても、心でそう考えているなら、こういう使徒をみて、いやしくもひとかどの宗教的教養をもっている信者ならば、なさけない思いがしないだろうか。
 福音の伝道に従事する人で、こんなことを言っている者があるとする。
 「天主よ、わたしの使徒的事業に、いかなる障害もおいてくださいますな。げんにある障害はすべて、取りのぞいてください。そうしましたら、わたしは責任をもって、この事業をみごとに成功させて、お目にかけましょう・・・」
 こんな言葉を耳にするなら、われわれは、「ああ、なんてバカな人間だろう!」と、冷笑せざるをえないだろう。
 それもそのはず、こんな人を冷笑するこの考えは、実は天主から来ているからである。
 天主は、このような秩序の逆転、このような無軌道ぶりをごらんになるとき、怒りにたえない。高慢のあばれ馬にムチうつとき、人間はどこまで暴走するか。――かれは、ただ自分ひとりの力で、人びとに超自然の生命を与えたいのだ。人びとの霊魂に、信仰を生みだしたいのだ。罪をおかすのをやめさせ、善徳を実行させ、熱心な信者にしたいのだ。――ただ自分ひとりの力で。
 このようなすばらしい超自然的成果を、天主の恩寵に帰したくないのである。いっさいの恩寵と、いっさいの超自然的生命の代価であり、存在理由であり、手段であるイエズス・キリストの尊い御血の、直接な、たえまない、普遍的な、無限に強いお働きに、それを帰したくないのである。こんなにうぬぼれのつよい使徒をごらんになっては、さすがに忍耐づよい天主も、とうていがまんできないのである。
 そんなわけで、天主は御子のご人性のメンツにかけても、これらの偽キリストを、なさけ容赦もなく、処分せねばならぬ。で、高慢が生みだすかれらの事業を、天主はめちゃくちゃにし、かれらの事業が、砂漠の蜃気楼のように、はかない幻影におわることを、お許しになるのだ。
 Ex opre operato (行なわれる業そのものによって効力を生ずるもの)に、霊魂に働きかけるもの、たとえば秘跡のようなものは、これを執行する聖職者の個人的聖性のいかんにかかわりなく、確実に、恩寵を霊魂にほどこす。
 で、これは、ここでは問題にならないが、事ひとたび、業をおこなう者の個人的価値いかんによって(Ex opre operantis)、その効果が左右される事業にかんするかぎり、天主は救世主イエズス・キリストの名誉回復のために、自己満悦にひたっている使徒には、その最上の祝福をこばみ、代わりに、イエズスという天主的ぶどうの樹からだけ、恩寵の樹液を吸収することを知っている謙虚な枝に、それをお与えになるのである。
 そうでなく、もし天主が、“事業の異端”と呼ばれるこの病毒に虫ばまれた活動に、りっぱな、そして長続きのする効果をお与えになることによって、このような活動を祝福されるようなことでもあれば、それはいったい、どういうことになるのか。――この無軌道を助長するのは、天主ご自身である、この病毒の感染を平気で放任しているのは、天主ご自身である――といわれても、仕方なかろう。


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