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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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レネー神父様のお母様が亡くなられました。お祈りください。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

レネー神父様のご母堂様が霊魂を天主様にお返しになりました。

霊魂の永遠の安息のためにお祈りください。RIP

トマス小野田圭志神父

2016年8月の【聖母黙想会】について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の8月には、聖ピオ十世会日本として初めて、シュテーリン神父様のご指導の下に「聖母黙想会」を行う予定です。
来年2017年のファチマ100周年準備のために、この黙想会はとても大切です。ファチマの聖母の100周年をふさわしく迎えるためにも、黙想会に参加されることを強く推薦します。
特に、世界中から要望を受けているシュテーリン神父様が黙想会を指導して下さるのは特別の機会です。最初で最後の機会かもしれません。改めて強く聖母黙想会に参加されることをお願いいたします。

◆黙想会形式: 聖母の黙想会

◆指導司祭: アジア管区長シュテーリン神父様(日本語通訳 小野田神父)

◆日時: 8月10日(水) 夕方 現地集合 ~ 8月15日(月) お昼頃まで。全日程の参加をお願いします。

  8月11日(木)【山の日】朝7:00AMのミサから黙想会が始まります。
  8月15日(月)午前9時30分から始まる歌ミサと聖体降福式をもって、黙想会が終了します。

◆黙想会の場所: ホテルコスモスクエア国際交流センター 大阪市住之江区南港北1-7-50 http://www.kensyu-center.jp/ 

◆交通: 
  10日、15日は新大阪駅←→ホテルをバスが送迎してくれます(無料サービス)。

  詳しくはアクセスのサイトをご覧下さい。
  http://www.kensyu-center.jp/access/

◆宿泊費: シングル ひとり 61,000円
  ◇ツインをご希望の方々は、55,500円です。
   もしツインご希望の方がおられる場合はなるべく早く連絡すれば変更できます。ツインをご希望の方々は、その旨ご連絡ください。
  ◇部屋の数の都合により、必ずしもご希望に添えない場合もあるかもしれません。どうぞご容赦くださいますようお願いします。

◆御ミサは、会議室を仮の聖堂として使います。また、同じ場所で講話を行います。

◆持ち物: 祈祷書、ミサ典書、キリストに倣いて、新約聖書、ミサ用ベール(女性)、筆記用具やノート類。個人で使用する衣服など。
   男性の方も女性の方も、慎み深い服装でお願いします。

◆お申し込み方法:参加ご希望の方は、このブログからメールを送られるか、

聖ピオ十世会

あるいは、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITA
のブログから、メールでメッセージをお送りくださいますようお願い申し上げます

   クリックすると【メッセージ入力フォーム】が開きますので、
   1-お名前、2-メールアドレス、 3-件名="聖母黙想会参加申込" 、
   本文に, 4-お電話番号、 5-霊名(カトリック信者の場合は)、 6-シングルあるいはツイン希望、7-ご住所、8-ご年代 をご記入の上、
   画面下に見えている【認証数字4桁】を入力して、【送信ボタン】を押してください。
   後ほど「確認のメール」を返信させていただきます。
   ※複数の方もまとめてお申し込みできます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月の聖伝のミサの報告(その1):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝! 6月は、私にとって、大阪の新しい聖堂での初ミサをすることができました!美しい聖堂が与えられたことを天主様に感謝します。またこれができるために多くの愛する兄弟姉妹の皆様から受けた協力を感謝します!


 大阪と東京での公教要理には、「一粒の白米が地に落ちて死ぬなら --- 福者中浦ジュリアン」という題で、日本の地に落ちた「一つの白米」である百八十八福殉教者の一人である中浦ジュリアンに焦点を絞って、お話をしました。
何故、「一粒の麦」ではなく「一つの白米」なのか? 
福者中浦ジュリアンは、ヨーロッパに行ってどんなことを思っただろうか?
私が福者中浦ジュリアンだったら、何を思い、何をしただろか?
殉教者の心を理解することを求めました。


 ハーバード大学のリチャード・ライト(Richard Light)教授によると、効果的な学習のために「一分間ペーパー(one-minute paper)」を最後に実施することを提案しています。これは、授業の最後に、一枚の白紙に、名前を書かずに、二つの質問を学生に書いてもらうことです。

最初の質問は、今日の授業であなたが学んだ重大な観念、これだ!と分かった核心的なアイデアは何でしたか?今日の授業であなたが学んだ一番重要なことは何ですか? What was the big idea you learned in class today? What was the most important thing you learned during this session?」です。

第2の質問は、今日の授業でよく分からない点、明確ではなかったところは何ですか?回答を得なかった疑問は何ですか? What is the unclear point in class today? What important question remains unanswered?」

教室を出るときにこの紙を指定の段ボール箱に入れていきます。

学生は、この二つの質問に答えるために、授業を一生懸命に聞きますし、何を理解したか、何が理解できなかったのかを頭を使って考えます。

教授は、この回答を五分以内に全て読むことができ、この授業の「でき」のフィードバックを得ることができます。次の授業は、この回答を基礎にして始めることができます。

そこで、私も公教要理や聖伝のミサに与った方々に、もしもよろしかったら、より効果的な黙想や、信仰の知識が私たちの実際の生活へより良く転移するために、ハーバード大学式にこの小さな「報告」をメールに書いて下さることを提案しています。更にこの報告を、このブログで分かち合うことによって、報告をより有益なものに書こうと努力して下さることが期待できます。

これは、ミサ聖祭に与ることが単なる受け身のことではなく、あるいはカトリック信仰の知識が断片的な情報としてとどまるだけではなく、21世紀に生きる私たちの生活を照らす光とするための一つの手段です。ライト(Light)教授の提案が、私たちの信仰生活を照らす助けの一つとなると思うからです。

「カトリック信仰について学ぶ」ことと、「カトリック信者となることを学ぶ」と言うことには違いがあるからです。頭の中だけの公教要理の知識だけではなく、公教要理の知識を使って生活することを狙っているからです。

是非、今まで報告を書いたことがなかった方々も、次の聖伝のミサに与って、「ああ、そうか! これか!! と分かったこと、これだ!と思った核心的な内容は何だったか、そうだったのか!と感じた一番重要なこと、などを教えて下されば幸いです。それを書こうと努力すること、それだけでミサ聖祭に能動的に集中するようになります。

また、よく分からない点、明確ではなかったところ、回答を得なかった疑問は何だったのか、またまだ未解決に残っている点について、も書こうとすることによって、自分はいったい何を理解しているのかが分かってきます。

ロヨラの聖イグナチオも、黙想の終わりに似たようなことをさせています。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様が、聖伝のミサに与ってますます多くの霊的な実りを得ることを祈っております。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

6月の初金、初土の大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

6月3日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の祝日 には14名が、
6月4日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ には15名が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!

大阪に新聖堂が出来て初めての小野田神父様の御ミサが、イエズス様の聖心の大祝日のミサである事に、天主様の御摂理を感じます。
小さな聖堂ではありますが、ここから多くの御恵みが発信されることを予期せずにはいられませんでした。

金曜日のお説教をうかがって、イエズス様がどれ程私達を愛したい、また私達に愛してもらいたいと思っていらっしゃるかを強く感じました。
「美門」というエッセイを書いたイスラム教徒の青年の回心の話をしていただきました。全く私自身も足なえで、そのうえライ病にかかっていたのに、イエズス様の御恵みで聖伝の御ミサと、ほんとうのカトリックの信仰を知る事が出来たことがどれ程大きな御恵みであったかと思うと涙が出てきました。
そのあまりにも大きな愛ゆえに聖心は破裂して憐みと御恵みを流れださせる傷を作ったに違いないというお話にはイエズス様の深い大きすぎる愛に感動という言葉では物足らない何か、心に火が付くというか、ほんとうに何かが燃えているかのような感じがしました。
この日の御聖体拝領、ミサの後の御聖体降福式と聖時間までその火が続きました。

初土曜日のお説教ではイエズス様の聖心を知り、お愛しするためには全く同じ御心を持たれるマリア様に依り頼むことを確信させてくださいました。
自分がどれ程今までイエズス様とマリア様の御心を悲しませたかを考えて、今後は全身全霊でその御心をお慰めしなければならないとおもいました。

公教要理の時間の福者中浦ジュリアンについてのお話の中で「一粒の『米』が落ちて百倍もの多くの実を結ぶ」とのお話に、日本のカトリックの将来への大きな希望をもちました。
「一粒の米」として、天主様への愛のために、日本のためにご自分を殺して働いて下さる小野田神父様に天主様の大きな御恵みとお助けと、マリア様の特別の御保護がありますように!!!

昼食後、聖堂で聖歌練習がありました。この日は「Christus Vincit」を4声で練習しました。 感動して涙する方もいらっしゃったくらい うまくいったので次の御ミサの入堂の聖歌で歌う事になりました。
ちゃんとそれまで各パートを覚えていられるかどうかちょっと不安ではありますが・・・・。 

【お返事】
よい黙想ができて大変うれしく思います。

昼食後、聖堂で聖歌練習をして下さってうれしく思います。
是非、私も「Christus Vincit」を聞いてみたいと思います。
この頃、年を取ったせいか涙腺が弱くなっているので、私の時には退場の聖歌として歌って下さいね。ミサができなくなってしまうと困りますから。(^^;)

日本の開国後の最初の教会が、横浜の山手の「イエズスの聖心教会」でした。
日本で、聖ピオ十世会の名義による最初の聖堂で、私が6月の初金にイエズスの聖心の大祝日のミサを捧げることができたという御摂理を深い意味があることだと私も思いました。この日に聖伝のミサと、御聖体降福式による聖時間とを捧げることができて、ただただ天主の憐れみに感謝するばかりでした。

福者中浦ジュリアンを含む百八十八の福殉教者たちは、百倍もの多くの実を結ぶべく日本の地に落ちた「一粒の白米」、「一白米」だとこの列福の話を聞いたときにピーンと思いました。
これは東京では、スライドショーとホワイトボードがあってうまく説明できたのですが、何故なら、百八十八の福殉教者は、






なので、





だからです。(^_^)v


【ご報告】大阪の御復活の御ミサでの感想
+Ave Maria! Immculata!

私たちの大切な小野田神父様、大阪のミッションをありがとうございました。
終わることのないミッションで、どんなにかお疲れでしょうか。
神父様は、どんどんお痩せになっておられるように思います。

御聖体を安置くださり、その隣りの部屋でお目覚めになった朝に、どんなにか神父様がお喜びになられたかをお聞きして、天主様に、大阪の御聖堂をお与えくださったことを、改めて感謝いたしました。

小野田神父様が大阪の新御御堂で、初めてお捧げくださった御ミサが、至聖なるイエズス様の聖心の大祝日であったことに、天主様の特別な御摂理を感じ、感謝いたしました。
お説教では、イエズス様がどれほど、私たち人類を愛しておられ、無でしかない私たちからの愛を渇望されていらっしゃるかを、ひしひしと感じ、心に染み入りました。私は初金曜日の信心を初めて、来月で9回目となります。初金、初土の御ミサの恩恵を感謝しきれません。

初土曜日のお説教では、マリア様が天主に帰した栄光は、諸天使、諸聖人、全人類を合わせても、大海と一滴の水よりもかけ離れている。というお言葉が心に残りました。
また、飛行機の中でご覧になったニュースの話(ゴミ処理場であさっている子供たち、ゴミを奪いあって争っている姿に、韓国の大統領や女優さんが涙していた。)から、神父様は、その悲惨な状況は「罪の中にいる人類」であると連想されました。滅びの場所にいて、自分に害としかならない、滅ぶものに執着し、争っている状況だと。そしてその続きには永遠の滅びがあると。

お説教の後も、その話が心から離れませんでした。普通の人である韓国の女優さんでさえ涙するのなら、私たちでさえ、お風呂にいれてあげたい、清潔な服を着せて、栄養のある食べ物、飲みものをたくさん与えたい。そこから救ってあげたい。どうにかしてあげたい。と思うのならば、憐れみの御母は、どのように思われるか?何をなさろうとされるだろか?と黙想しました。そしてマリア様は憐れみの業を行い続けてくださっていることを痛感いたしました。

インマクラータを通してお与えくださる天主の恩恵、永遠の幸福を拒んだり、少しだけで良いです、と限定することの愚かさを、今ではとても良くわかります。願わくは、私の心が、清潔で、余計なものが入っていない、天主の恩恵をたっぷり受け止めることができる「器」となりますように。

初土曜日は、小野田神父様のご希望のとおり、神父様が出発された後、お昼ご飯のあとに聖堂に戻って、信徒で初土曜日の15分間の黙想をお捧げし、聖歌練習をいたしました。”Christus Vincit”を4声で歌う練習をいたしました。練習の最後には、心をこめて「祈り」として”Christus Vincit”を歌い、天主イエズス様の君臨を讃え、また地上で全ての人に讃えられますように、と願いました。

神父様、くれぐれもご無理なさいませんように。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

【お返事】
大阪では、お説教の時に韓国で見た高速バスでちらりと見た映像の話を、黙想に提案しました。

本当にその通りですね。韓国の方々が「国民の妹」と呼ぶ人気女優さんでさえ涙するのなら、私たちの憐れみの御母は、どれほど私たちのことを思って涙されていることでしょうか!私たちを悲惨な状態から救いたいと願っていることでしょうか!


【報告】
​アヴェ・マリア・インマクラータ!

6月3日の至聖なるイエズスの聖心の大祝日の御ミサ、そして御聖体降伏式、そして初土の御ミサなど色々ありがとうございました!!

日本で最初の聖ピオ十世会の常設の御聖堂ができて、主任司祭である小野田神父様が立てられる最初の御ミサが、この至聖なるイエズスの聖心の大祝日の御ミサになったということで、本当にマリア様のお取りはからいに感激致しました!!

その後の御聖体降福式でも、与った方々と一緒にイエズス様の聖心への奉献のお祈りができてとても嬉しかったです。

そして初土の御ミサのために御聖体がそのまま御聖櫃に安置されて、小野田神父様が司祭室にお泊まりになられて、その夜、御聖体と神父様が今大阪の御聖堂にいらっしゃる、という事を思うと幸せな気持ちになりました(*^^*)

日本に神父様の常駐の御恵みが与えられますように、M・Iの祈りの十字軍の意向の1つにさせて頂こうと思います!p(^^)q

初土の御ミサが終わって、皆さん昼食が終わった後に、小野田神父様が仰ってくださいましたので、数人で聖歌の練習をしました!♪長崎秋田巡礼でよく歌った「Christus Vincit」をポリフォニーで歌えるように練習しました!マリアさんがオルガンを弾いて下さり、会長様がBassを歌って下さり、とても良い感じになりましたので、来週の主日のレネー神父様の御ミサの入堂で歌う予定だそうです!(*^▽^*)とても楽しい一時でした♪
このように、御ミサの後に信者の方皆で聖歌の練習ができるというのも、常設の御聖堂ができたからこその御恵みで、そのように仰って下さった小野田神父様に感謝致します!

デオ・グラチアス!

【お返事】
新しい常設の御聖堂が新大阪の新御堂にできたことを、天主様に感謝します!
願わくは、天にあるごとく、極東にも御国の来たらんことを!
Christus Vincit! Christus Regnat! Christus Imperat!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供0人)
女: 26人(内、子供1人)
計: 41人(内、子供1人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

ミサ聖祭後の小野田神父様による福者中浦ジュリアンの講話に関する報告
以下のとおり報告させていただきます。

1.これだ!と分かった点
「天正遣欧使節」なる歴史上の存在意義が、学生時代には、ピンとこなかったのですが、実にカトリック教皇様に最初にお会いできた日本人たちであり、教皇様に直接お会いすることの困難さを知る今からすると、その歴史的な意義は、単に東洋文化と西洋文化の出会いというにとどまらず、摂理的に大きな意味を有す るものであったということが理解できました。
ある意味で、摂理という点では、聖フランシスコ・ザビエルの来日と同じような意味を有する重要なイベントであったというようにも言えると思います。

2.今回そうだったのかと分かった一番重要な点
「天正遣欧使節」が4名おられたということは知っておりましたが、その行く末が(当然ながら)それぞれ違っており、殉教された方が福者中浦ジュリアンのみであり、中には、千々石ミゲルのように棄教するものもいたということは驚きました。

3.今回でもよくわからない点
殉教された福者中浦ジュリアンと棄教した千々石ミゲルの 行く末を分からしめたもの(こと)は一体、何だったのかという点がよくわかりません。
ともに天主様に選ばれて、同じ道を歩んでいたはずですが、天国と地獄(あるいは煉獄)とその歩みには大きな隔たりが生まれました。
その点、もう少し、知りたいと思いました。

以上、甚だ簡単ではありますが、ご報告とさせていただきます。

デオ・グラシアス!

【お返事】
ご報告をありがとうございます。
天正遣欧使節の副使節であった福者中浦ジュリアンと天正遣欧使節の正使節の千々石ミゲル、この二人はほぼ同じ出身であり、同じ選びを受けたにもかかわらず、その終わりは違っていました。
イエズス・キリストから選ばれた十二使徒たちも、同じ選びを受けたのですが、その末は違っています。
堅忍のためには、人間的な才能や能力ではなく、主の特別の憐れみが必要だと言うことを思い知らされます。
聖母マリアさまに、この御恵みをひたすらに乞い求めましょう。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

御ミサのレポートをお送りいたします。

今回の御ミサを通して、お説教を拝聴して理解したことは
天主様がイエズス様が、どれほど私たちを愛し、霊魂を救い天国へ導きたいとお考えか、ということです。
この私たちの霊魂に対する深い愛、イエズス様の御心の愛熱、今現在この瞬間も
私たちへのその愛のために深く燃え続け、燃え尽きることなくるイエズス様の御心の愛への理解を深めることができました。
地獄の炎が霊魂達の罪を燃料に燃え続けて、硫黄の匂いと罵声と悲鳴を生み続けるのとは全く対象的に
イエズス様の聖心は私たちを助けたい、天主御父の御旨を果たしたい、という純粋な愛のために燃え続け
香しい聖徳の香りと多くの清い霊魂達の喜びと讃美の歌声を生んでいるのだ、と思いました。
全く対象的で私たちが死後行くべき道は、どちらか2つに1つであることを思うと
どちらを選ばねばならいか、またどちらを選ぶことが人間自然の判断か、といことは一目瞭然だと思いました。
また、そのお考え・ご計画に忠実であるということが私たちの義務であるということ
そのお考えを実行なさるために天主様はどれほど多くの助けを私たちにくださったのか、ということ
そして、その助けをいただくために私たちは自らを無であると認め、謙遜にならねばならないこと理解致しました。

優しい羊飼いが、1匹の羊を探すために夜の暗い森の中に入っていって、暗いので足を怪我したり
手を傷付けてしまって血を流しながら、獰猛な動物もいる中を大きな声で羊を呼んで夜通し歩き
声も枯れ果て、夜も明けてくる頃にやっと羊を見つけると、羊は木の枝に体が挟まって動けなくなっていて
白い毛はひどく汚れて怪我もしています。羊飼いは羊よりもっと大きな怪我をして、夜通し歩いているので疲れ果てているのに
羊を連れ帰るために手を更に傷つけて枝を折って、毛に枝や泥を付けて重く汚くなった羊を抱き抱えて、
でも羊が助かったのだから良かった!と言って森を出て行く姿を想像しました。
そんな姿を想像したら涙が出てきました。
しかし、これよりもっともっと大きな十字架の苦しみとその他にも数え切れない多くの無数の鞭打ちや嘲りや断食や、もっと多くの多くの犠牲を払ってイエズス様が私たちを愛し、探し求めて、罪から解放し、天国へ連れて行こうと思っていらっしゃるのだ・・・それがこの世に起こっている現実なのだ、と思うと涙が出てきました。

そして、いつもイエズス様が迎えにきて下さっているにも関わらず
それに対し、冷淡を持って応じる自分自身を深く反省致しました。
イエズス様の呼びかけと、送ってくださる様々な助けを借りることで、大きな慰めを受けることができるにも関わらず、
この世に死に切っておらず、この世の慰めを受けたがる惨めな罪人の私ですが
イエズス様!マリア様!憐れな罪人の私はここにおります、憐れんでください、
このイエズス様の聖心からあふれる憐れみと、その御血と、マリア様の汚れなき御心によって、マリア様のご謙遜に倣って罪から清めて、また聖寵を蒙らせてください!!とお願いすることができますように。

疑問に思った点は、①なぜ御心に対する信心はイエズス様とマリア様だけに限定されているか、②その私達のために美しい優しい愛熱に燃える御心とは何なのだろうか、ということです。
天主や天主なる聖霊や、他の聖人の方々も愛に燃える御心をお持ちだと思います。
天主と聖霊は完全なる霊でいらっしゃるので、御心をもたないのでしょうか...?
しかし、持たないという事はないので
霊=御心となるのでしょうか...?
とすると、イエズス様とマリア様お二人の御心に対する信心が特に私達に示され勧められているのは、イエズス様とマリア様が特別に際立って私達の救霊のために御心=霊魂を砕いて尽くしてくださったからなのでしょうか?

レポートではないのですが、
聖福音の例の中で、よい羊飼いがイエズス様ならば
ドラクマ銀貨を探す女性はマリア様のことではないかと思いました。
マリア様に依り頼めば、声も出せない小さな命を持たない銀貨でも
高い確率で見つけてくださるのではないかと思いました。

19日の御ミサにも与ることができる予定です。!!!
多くのお恵みを与えてくださる天主様に感謝致します。
マリア様をますます深く愛することができますように!

【お返事】
レポートをありがとうございます。
御ミサに与りながら、福音を黙想して私たちの実際の状況に当てはめて考え、それを生活に生かそうとしていることを見て、とてもうれしく思います。

疑問に思った点を教えて下さって感謝します。
以前も、別の方からですが、いったい何故聖ヨゼフはマリア様のようにイエズス・キリストの受難を共にしなかったのか?という質問を受けました。無原罪の聖母と聖ヨゼフ、イエズス・キリストが、いわば地上の三位一体として共に苦しむこともあり得たのに、何故そうならなかったのか? そうしたら聖ヨゼフの功徳はますます高まったのではないか?という疑問を教えていただきました。そのように黙想しておられることを知り大変うれしく思います。

次は、私の理解で、それについて教父たちはすでにこう言っていますよということをご指摘はできずに、ただ私の思うのはこうだと言うだけですが、黙想の助けになれば幸いです。

ご指摘の通り、天主御父と聖霊とは、完全なる霊でいらっしゃるので、肉の御心をもちません。ですから御父と聖霊の「聖心」の信心は、特別にありません。だからといって、御父と聖霊とは愛を持たないと言うことではありません。
天主三位一体が私たちに対して持つ愛の結果としてそのシンボルが、イエズス・キリストの聖心であるということです。天主三位一体が、被造物に働きかけるとき、その働きには三位一体の全てのペルソナが関わっているからです。

たとえば、天主が被造物を創造し給うのは三位一体の聖父と聖子と聖霊との全ての御業です。聖ピオ十世の公教要理にも、

【問】世界は「御父」だけの創造になるものですか。
【答】世界は三位一体の三つのペルソナによって造られました。三位一体の一つのペルソナが被造物に対してお働きかけになるときは、他の二つのペルソナもひとしく同じ働きをなさるのです。
【問】しかし、なぜ天地の創造が特に「御父」に帰せられるのですか。
【答】天主の三つのペルソナはいずれも全能、全知、全善ですが、全能は御父の、全知は御子の、そして全善は聖霊の特性とされていますから、天主の全能の顕われである創造は特に「御父」に帰せられています。

とあります。また、御托身も三位一体の聖父と聖子と聖霊との全ての御業です。聖ピオ十世の公教要理にも、

【問】御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。
【答】イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、天主の三つのペルソナが一緒に参与されました。
【問】なぜ「聖霊によりて宿り」とだけ言いますか。
【答】天主の御子の御託身は、善性と愛の働きの結果ですが、これは聖霊に帰せられますから、「聖霊によりて」とだけ言うのです。

とあります。

そこで、イエズス・キリストの至聖なる聖心、つまりイエズス様の御心臓の形成には、三位一体の全てのペルソナが参与されました。つまり、天主の愛の結晶が、イエズスの聖心というです。

イエズス・キリストが成した救いの玄義は、三位一体の全てのペルソナが関わっています。御托身も、御降誕も、御受難も、御復活も、御昇天も、聖霊降臨も、実はそうです。そこで、カトリック教会の典礼では、たとえば御降誕を祝いつつ、これは三位一体の全てのペルソナの御業を祝います。ですから、カトリック典礼には、「御父の祝日」というように、ただ一つのペルソナだけの祝日というのはあり得ません。たとえ「聖霊降臨」であっても、聖霊の一つのペルソナだけの祝日ではないのです。

第二に、イエズスの聖心と聖母マリア様の汚れなき御心だけに限定されているのは、マリア様の御心が、他の聖人の方々の燃える御心を遙かに超える「汚れなき御心」、協贖者としての御心だからです。


ローマと聖ピオ十世会の関係について(前半) 2016年5月22日 聖ピオ十世会レネー神父様による講話

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長

先程話ました、最近フェレー司教様がアメリカの新聞とインタビューされた件について、ちょっとお話させて頂きたいと思います。

【信仰も典礼も道徳も1つのもの、これを分けることはできない】

「聖ピオ十世会が一体どういう事をやっているのか」という事で、日本語で何といいましょうか、忠実ですか。信仰に関しても、それから道徳に関しても、典礼に関しても、教会に関しても、聖ピオ十世会は「いつも忠実である」というのが原則です。この全ては当然教会の中にあるものですけれども、分かれているものではありません。全部、信仰も、道徳も、典礼も、教会も、全部1つのもので教会の中にあります。ですから、この3つのどれかが欠けても、「教会の中にいる」という事は言えません。当然1つのものです。例えば「教会の外なのに信仰を持っている」というのは、それは矛盾していますから、そういう事は起こり得ません。

ですからこの「忠実」という事、単純なようなのですけれども、世の中にはこの私たちが「忠実であろう」とする事を、「忠実でないようにしてくる力」があります。それでこの私たちが「忠実でありたい」と思っているのですけれども、それをさせないようにする力は、教会の外からも内からも来る事です。例えば「外から」来るというのは、例えば共産主義国に住んでいたらそうかもしれません。ムスリムの国に住んでいたらそうかもしれません。しかし、教会の「中から」もそういう力がかかってきます。これが聖ピオ十世会始まった時からの立場で、ずっとそうでしたし、今日もそうですし、これからも変わる事はありません。


【近代主義との闘い:ルフェーブル大司教の生涯を見る】

歴史をまず見てみたいと思います。ルフェーブル大司教が生まれたのが1905年です。1929年に司祭に叙階されました。それで1932年からミッションに行かれます。1945年に上長になられて、1947年に司教になられます叙階されます。1948年にローマ教皇の使節となりました。1959年にアフリカのダカールという所の大司教になられます。1962年にはフランスのチュールという所の大司教に任命されて、その後「聖霊修道会」という所の総長になられます。1968年にその聖霊修道会という所を辞められました。1968年に辞められた後に、1969年になって、神学生がルフェーブル大司教の所に来て、「あの、すいません。あの、司祭になりたいのですけれども」という事を言って、1970年に聖ピオ十世会が修道会として出来ました。

1905年に生まれて、大変良い家族で8人兄弟の1人なのですけれども、複数司祭が出て、それから修道女も何人も出た兄弟でした。そして23歳の非常に若い時に叙階されまして、1929年ですね。そして1932年にガボンのミッションに行かれて、それから1945年からは哲学の教授をされていました。1947年に司教に叙階されたという事です。

私は、このさっきの聖霊修道会の神父様が書かれた本を読んでいるのですけれども、それが面白い事に、ルフェーブル大司教に非常に反対した方で、1963年に、ルフェーブル大司教のやってらっしゃる事に反対で、その聖霊修道会を辞めてしまった、という方の書かれた本なのです。いわばルフェーブル大司教の敵のような方なのですけれども、この人の書いた本なので非常に面白い。

何が面白いかと言いますと、例えばルフェーブル大司教が自分で仰っていたのですけれども、「子供の頃から非常に、生まれたフランスの北の方の町ですけれども、リベラル(自由主義)なアイデアがあって、学校に行ってもそれが普通の事で、特に、教会と国家の関係だとか、そういう事に関してはリベラルな考え方が周りで普通で、それを吸収していた。」「ところがローマに行く時に、この非常に良い神父様と会った」と。


【ローマのフランス神学校とル・フロック神父様:近代主義との戦いはすでに始まっていた】

これでローマの神学校の先生だったのですけども、ル・フロック神父様という方がいらっしゃって、その方は神学生に教えてらっしゃったのは、「“現代の問題”というのを、現代の考え方じゃなくて、歴代の教皇様たちが、聖ピオ10世とかピオ9世とかグレゴリオ16世とかレオ13世とか、歴代の教皇様たちがどう見てきたか、という見方で考える事を教えてくれた」と。その中でさっきの例えば、「教会と国家の関係」に関しては、教皇様の書かれたものを見てみると、どういう事を言っている事かというと、「国家というのが、まずその教会というものを認めなくてはいけない」と。国家と教会がただ分離するのではなくて、一緒に、それは霊魂と体が一緒になって人間になるように、一緒に活動しなければいけない」というような事を教わって、で、ルフェーブル大司教は、「自分の間違いにここで気づいた」という風に仰っています。

1907年に聖ピオ10世が、近代主義者を批判する文書を出されました。これで1907年に聖ピオ10世教皇が近代主義者を批判する書類を出されたのですけれども、(教会の中の)近代主義者の方は、これで聖ピオ10世と違う事を考えていたので、いわば「仕返しをしよう」と思って、1926年に、「アクション・フランセーズを批判する」という文書を出しました。

「アクション・フランセーズ」というのは、これはフランスの問題で、日本の方には関係ないかもしれないですけれども、ちょうど歴史の話なのでお教えしますと、このフランスの運動に関しては良い所と悪い所が混ざっています。良い所というのは例えば先ほどの話で、「教会と国家が一緒に働かなくてはいけない、共同してやらなきゃいけない」というのを支持していたのは良い事です。それに関して例えば「フランスの王家」というのを支持していました。これは良い事です。ところがこのアクション・フランセーズというのは、始めた人というのは「モーラス」という方で、元カトリックなのですが辞めてしまって、無神論者になったという方なので、その影響で悪い事も混ざっていました。

この先程の神学校では当然、聖ピオ10世、他の教皇様の教えに従って、「教会と国家は一緒に働かなくてはいけない」という事を信じていましたので、その内容が書いてあるこのアクション・フランセーズという所の新聞を読んでいる購読者でした。ところが先程言いましたように、このアクション・フランセーズは良くない事もありましたので、近代主義者がやって来て、「これは何という新聞を読んでいるのだこの人たちは!」という風に批判しようとしました。この批判というのはあまりにも酷いものでしたので、ピオ12世が教皇になられて1ヶ月以内に、これ(新聞の購読)を止めるようになさいました。

それでこの時に、近代主義者がやはりこのル・フロック神父という人を神学校からどけようとして、まずバチカンの方から訪問をしてもらって、「この人が良くない人だ」という事を示そうとしました。ところがこのル・フロック神父様という方は、先程言いましたように、このアクション・フランセーズの新聞を「これは良い事を書いてある。」と読んでいたのですが、バチカンの方から「それは読んじゃいけない。」と言われた時に、「もうじゃあ読むのをやめましょう。」という事で、非常に従順に従っておられました。最初に枢機卿の、シュースター枢機卿という人が来たのですけれども、「これは非常に良い方で、このル・フロック神父というのは良い事をやっている。」という良い報告書を出されました。しかし近代主義者は負けずに、もう一度訪問をして結局、ル・フロック神父様をその神学校からどけてしまう、という事をしてしまいます。

ルフェーブル大司教様はこれが起こっている時はもうここには居られませんでした。非常にこれで面白い事が起こったのですけれども、先程言いました通り、ル・フロック神父様というのがこうやって攻撃されていた時には、ルフェーブル大司教はここにはいなかったですし、政治には興味なかった方だったのですけれども、1947年にダカールで司教に叙階されたという時に、司教に叙階されて、「昔、神学校で習った先生のル・フロック神父に感謝して、乾杯しましょう。」と言ったのを見て、近代主義者が、「これは近代主義者の敵である。」という事で、司教になった瞬間から近代主義者の方からは、「この男は×である。近代主義者ではない。」と。「きっと保守的すぎるんだ。」という風にしるしを付けられてしまったと。

質問者:近代主義者というのは、教会の中にいる聖職者の事ですか?それともまた別の人ですか?

レネー神父様: 近代主義者とは、教会の中の聖職者の事です。


【近代主義との闘い:ピオ十二世の元で】

この近代主義とルフェーブル大司教の戦いというか対立が、1970年とかに起こったのではなくて、実は1960年、1950年、1940年、1930年、そして1907年に、聖ピオ10世が既に、その近代主義者を批判する書類を出していらっしゃるという事で、例えば1930年代になると、コンガーというドミニコ会の神父様が明らかな近代主義の神父様が、本を出し始めたりします。それから1940年代、1950年代なると、今度は神学校の先生の中に、近代主義の人が明らかに出てきます。1950年代になるとピオ12世教皇が、「近代的な誤りについて」という 「フマニ・ジェネリス『Humani generis』」という回勅を出されまして、例えば「テイヤール・ド・シャルダンという人が書いているものがいかに間違っているか」というのを出したのですが、その後も1950年代、1960年代、先程のコンガーだとかリュバックだという人が出てきて、この人たちが司祭になって、或いは神学校の先生になる、という事で近代主義がだんだん広まってきます。

ところが一方、1947年にルフェーブル大司教はその司教になられて、1947年に司教になられてもう1年後には、この「アフリカの教皇の代表」と。これは「nuncio(ローマ教皇大使)」のようなものなのですけれども、nuncioと違うのは、アフリカのもう半分ぐらい、数十カ国の代表だと。ルフェーブル大司教の下に40,50人の司教様がいるという事で、ここで非常に良い働きをされて、教区もどんどん増やされて、非常にカトリックが広まるのに貢献されたので、その聖霊修道会の中では、その総長に後なられたのですけども、皆さん「この人が良いだろう」という事で、当然の如く総長になられたという事です。それで先程1948年にアフリカの代表として選ばれたのですけれども、その後アフリカで活躍された時も、ルフェーブル大司教というのは、「非常に人々に人気がない事でも、やらなければいけない事は断行する」という方でしたので、「この人は良い」「この人は悪い」という判断をなされていましたので、敵も作られるという方でした。


【近代主義との闘い:ヨハネ二十三世】

それで1958年にピオ12世が亡くなられて、ヨハネ23世になったのですが、この新しい教皇様は非常に特異な方で、それまで、「こういう神学者は近代主義なので良くない」というコンガーとかリュバックという方とも友達で、後で公会議に呼ばれる、というような方でした。これまで教会ではそういう事がなかったのですけれども、以前「この人は良くない」と言っていた神学者を、この教皇様は、「友達なので呼ぶ」という事をなさいました。

その間にも、1962年にルフェーブル大司教は非常にそのアフリカの教区が広まったので、「アフリカの地元の人が司教になるべきだ」という事でフランスに帰って来られました。

ところが、フランスの司教団はルフェーブル大司教の事が好きではなかったので、他にも空いてる所があったのですけれども、フランスで一番小さい司教区というのを探し出して、チュールという一番小さい司教区に任命しました。任命したのですけども、その6ヶ月後にはこの聖霊修道会の総長に選ばれてしまうのですが、この聖霊修道会の中でも例えば、聖霊修道会のパリの神学校の方というのは近代主義者でしたので、非常にこのルフェーブル大司教が総長になるというのに非常に強く反対されていました。

それで先程の、例えば聖霊修道会のフランスの神学校の人たちが、「ルフェーブル大司教が良くない」と言っていた例を例えば挙げるのですけれども、彼らの批判は、「フランスの司教団がやっている事と反している」と。「ルフェーブル大司教は、フランスの司教団の方針と反した事をやっている」と。フランスの司教団は例えば何をやっていたかといいますと、「司祭はもうスータンを着なくていい」という方針を出しました。そういう事をやると、だんだんだんだん酷くなるのは分っているので、「これは、聖霊修道会ではスータンは必ず着なくてはいけません。」これが、先ほど最初に言いました「忠実」という事ですけれども、「それまでのやってきた事、教会に忠実に、スータンは着たままにしましょう。」という事を、ルフェーブル大司教は決められました。

これに対して近代主義者であった神学校の人たちは、「これは良くないのだ。」と。「1人だけ反対するな。」と言っていました。

もう一つの例は例えば「テレビ」です。ルフェーブル大司教がどなたかの所に行ってお話をされようとすると、そこの神父様とか他の方が皆、「夜8時になったらテレビを見に行ってしまう」「夕べの祈りもしない」と。「これは良くない。」と。ルフェーブル大司教が仰ったのは、「これは、それまでと同じ、忠実に、テレビを見ないようにして、ちゃんと生活を保っていきましょう。」と仰いましたが、近代主義者にとっては、「これは新しい傾向に反している」という批判に繋がりました。


【教会のミッション:昔の教えと近代主義の考えの違い】

それで、このルフェーブル大司教と近代主義者の間であと1つ大きく差が出たのは、「ミッション」でした。宣教のミッションというのは、一体何をするものであるかを見てみます。

ルフェーブル大司教は、昔からの事に忠実、教会の教えに忠実であって、これは「精神的なものを教える」例えば「教義を教える」。「精神的なものが第1であって、その他のものは第2、第3である。」と言ったのですけれども、近代主義者の神父様たちの方は、「いや、そうではなくて、もっと社会的なもの。家であるとか、井戸を掘るのであるとか、労働者の権利であるとか、この社会的なものが第1なんだ。これこそがミッションなんだ。」という風に考えていました。

こういう事が起こったのは、1950年代ぐらいになりますと、社会の中では教会が非常に良い社会での活動をしていました。例えば「教育機関」ですとか、「病院」ですとか、これは愛徳に基づいたものでしたけれども、非常に素晴らしい教育機関があって、小学校も中学校も高校も大学もあって、貧しい人たちの為の学校もあって、病院もあって、非常に社会的にも良い事をしていました。そうだったので、近代主義者の人たちにとっては、「これこそが教会がすべき事だ」と思ってしまいました。「これこそが教会がすべき事なのであって、『教会の教え』だとか、『霊的な事』ではないのだ。」という風に考えてしまいました。

でも事実は、「教会の霊的な事があって、祈りがあって、それの愛徳からこういう社会的な実態が出てくる」という事になります。

例えば、第2バチカン公会議の後を見て頂くと分かると思いますけども、私はニュージーランドにいたのですが、例えばニュージーランドの近所の所に4つ小学校が、カトリックの小学校があるのですけれども、神父様はもう誰もいません。中学校が1つあったのですけれども、これも男女一緒にしてしまって、神父様がただ1人いるだけだ、という事で分かる通り、元々霊的な事がなくなってしまうと、それから流れ出る社会的な善もなくなってしまいます。

ルフェーブル大司教は、「この霊的なものが大事だ。」と。「霊的なものがあるからこそ、社会的な成功があって、社会的な善が行えて、そこに正義があったり、平和があったり」という事だったのですけれども、近代主義者はそれを逆転させてしまって、「こっちが主だ」と思ってしまった、という事です。

その後、ルフェーブル大司教が聖霊修道会の総長になられたのですけども、そこでもルフェーブル大司教は「忠実に」こう実行しようとされたのですが、すでに聖霊修道会の中でも、ルフェーブル大司教の考えを持った方が少数派になっていて、多数派の方は、近代主義の考えを持った方が多数派になってしまっていて、下に良い方がいなくて、そのやりたい事が実現できない風になってきてしまいました。


【地に落ちて死ぬ麦:ルフェーブル大司教】

ルフェーブル大司教の生涯を見てみますと、最初良い家庭に生まれて、司祭に叙階されて、で、その後アフリカに行って非常に良い働きをして良かったのですけれども、1962年にフランスに帰って来てから、その後聖霊修道会に行ったのですけれども、何もできなくて、一旦全部失ってしまったという事になりました。聖書の「麦の話」があって、「一度死なないと良い実を得られない」という事がありますが、ルフェーブル大司教も同じで、他の聖人の事もありますけれども、1968年には、天主がルフェーブル大司教の持っているものを全部奪われて、何も無くなってしまう。その為にその後もう一度、高みに達するという事になりました。

1968年になった時には、その自らの自分の聖霊修道会からも拒絶されてしまって、ある意味ではバチカンからも拒絶されてしまって、その「アフリカの為のカテキズムの秘書をやって下さい」と言われて、全然に似合わない職を頼まれて、実質的にはもう「無視されてしまった」という事になりました。

しかしこのルフェーブル大司教の事を知っている方がいらっしゃいまして、その何も全部無くしてしまったルフェーブル大司教の所に来て、若者がやって来きて、「良い神父になりたいのですけれども、是非助けて下さい。」という人が来ました。それでルフェーブル大司教は63歳だったのですけれども、その若者が何人か来た時に、「いや、もう私は年を取り過ぎているので、今更始めるという事はないでしょう。」と言っていたのですが、説得されて、スイスのフリブールという所で神学校の、近くの神学校に行っている神学生にお話をしたり、夕方にお話をする、と。9人の神学生に夕方に話をするという事をされていました。


【エコンの神学校の始まり】

それで、1970年にこのエコンの神学校を始められて、1973年にはローマの近くのアルバノという所に小さな地を構えました。これ両方とも、先程のフリブールもエコンもアルバノも、「その現地の司教の許可を得て始められた」のですけれども、この5年間の間に、その神学生が最初9人だったのですが、90人になりました。

これでフランスの司教様たちが心配をし始めました。何故かというと、フランスでは召命がすごく少なくて、神学校を閉めなきゃいけないのに、何故かルフェーブル大司教の所に神学生が9人が90人になって、「ひょっとしたら神学生を取られてしまうのではないか」という風に思いだしました。

1975年、76年にその後の事件が起こるのですけれども、1975年にフリブールの新しい司教様が「聖ピオ十世会を廃止するんだ」と言い出します。ところが教会法によると、『その教区の司教は、新しい修道会を始められるのですけれども、一旦設立した場合は、その司教が辞めさせる事はできません。』『ローマしかできません。』ところがそれに反して、「これは廃止するんだ。」と言ってしまいます。

1976年に「実際に新しい神父様を叙階しよう」という時に、普通の手続きとしては、その元の神学生が属していた元の司教区の司教様から、「この人を叙階してよろしい」という手紙をもらうのですけども、その手紙がないまま叙階するという事になってしまいます。ここでルフェーブル大司教様は非常に「ジレンマに打ち当たる」という事になってしまいます。

何故かといいますと、教会が司教には、「『こういう事をしなさい。』と何千年2000年教えていた事をただ繰り返していて」で、「新しいその近代主義者のやっている事に反対していただけ」なのですけれども、このように正式の、ローマのその現地の司教からは「『やってはいけない』と言われていた」というジレンマに当たってしまいます。

例えば、私の生まれた教区ですけれども、1930年代には神学校が満員でもう足りなくて、「増設しなきゃいけない」というような状況でした。ところが1970年になると、その神学校がもう閉鎖されてしまいます。「誰も神学生がいない」と。

このように神学生がいなくなって、神父も辞める人が出るというのは、1975年、76年までには、もう明らかに世の中には見えていました。その近代主義の実は見えていたのですけれども、近代主義者である現地の司教様たちは、ルフェーブル大司教に対して「この若者を叙階してよろしい」という手紙を与えるのを拒否する、という事で、そのシステムが悪用されて、「どうしようか」という事になりました。


【「どちらを選ぶか」】

今、こういうお話をしているのは、1976年この「聖ピオ十世会が廃止されるんだ」という時、そして1988年に「司教の叙階」をした時、それから「現在、今日」ですけれども、「2016年」ですけども、基本的に同じ事、同じ選択をしなければいけない。

一方では信者さんがいて、「良い神父様を下さい」と言っている信者さん。もう一方では上長の人がいて、「いや、その若者を叙階してはいけない」と。「何故かというと、その若者を叙階すると、彼は伝統的な神父になって、昔からやっている事をやって、今の新しい傾向に反対するからである。」と。「そういうのを叙階してはいけない。」と。

これは、この「そういう人を叙階してはいけない」と言う人は、ちゃんとそれを言える権威を持ったポジションにいる方です。司教様です。あるいは教皇様かもしれません。しかし、その権威のある立場にいるのですけれども、その権威を、「天主様から頂いたその権威の目的に反した」使い方をしています。

この時に「どちらを選ぶか」という事で、ルフェーブル大司教は、「じゃあ、私は信徒の皆様をお手伝いしましょう。」というそちらを選びました。もしそうでなければ、「いや、63歳でもう年寄りなので、私は自分の昔からのミサを立てて、静かにしてて、うるさくしないで下さい。」と言う事もできたのですけれども、誰かが、「助けて下さい」と言われたので、「じゃあお助けしましょう。」その代わり、自分が罰せられたり、誰かの怒りを買ったり、教皇様に怒られたりするかもしれないけれども、「私が助けましょう。」という方を選ばれました。

私の生まれた教区でも同じような事がありました。近くの教会に私が少年の時に行っていたミサがあって、ドミニコ会の神父様だったのですけれども、古いミサを立てていらっしゃったのですが、その為に上長から、「日曜日にミサを立ててはいけない。」「信者を呼んではいけない。」と言われたと。ところがそこの香部屋に行くと、「なぜか仏教の仏像が置いてあって、みんなそれに挨拶をしている」という状況でした。そっちの方は何も言われないのに、このちょっと年老いた神父様、古いミサを立てている神父様の方が、「それはいかん」と言われた、という事です。

そうするとその(ドミニコ会の)神父様も同じように、「いや、どっちを選ぼうか」、少年の私が来て「ミサに与りたいです。」と言う方を選ぶのか、上長が、「いや、それはいかん。」と言うのを選ぶのか。それは、「元々のその権威がどうやって与えられたか」という正しい方を選ぶのだ、と。

1988年にルフェーブル大司教が選ばれたのも、「良い神父を作っていく為には司教が必要で、自分が死んだ後にも司教が必要なので、司教を作らなくてはいけない。」という事で同じジレンマにぶつかられて、同じように「信者を助ける方」を選ばれた、と。

ですから、ローマとのその正式な立場、聖ピオ十世会が正式な立場にして頂けるという事も、ずっと否定してきたわけではなくて、あればもちろんそれに越した事はないですけれども、それが目的の為に聖ピオ十世会をやっているのではないので、「信者の霊魂を救う為」にやっているので、もしどちらかのジレンマに面したら、ルフェーブル大司教の選ばれた方を選ぶ、という事です。


【信仰も典礼も道徳も、全てを守る】

ですから最初に申しましたように、「信仰」も「典礼」も「道徳」も1つに固まっているので、これを分けるという訳にはいきません。ですから例えば、新しいその傾向を持った人たちが何をしているかというと、「信仰」も新しいものにしようとしています。同時に「典礼」も新しいものにしようとしてしまって、で、同時に「道徳」も新しいものにしようとしています。これをバラバラにする訳にはいきません。

ですから、これを守ろうとする時にも、3ついっぺんに守らないと、例えば「教会の中ではないのだけれども、信仰だけ守る」という事とか、そういう事はできません。これが1つなので、1番問題になるのは今回もそうですけれども、いつもそうですけれども、「自分の上の権威の方が、その権威を乱用して、正しくない事を言っている時に、一体じゃあ私はどうしたら良いのか。」


【教会の権威とは】

教会の中には「権威」というものがありますけれども、聖ペトロから始まって聖書に明らかに書かれていますが、「教会の中の権威」というものがありますけれども、権威の中には、「権威を持っている、所有している」という事と、「権威を使う」という事を、はっきり区別して考えなくてはいけません。

まず「権威を持っている」という人に関しては、それを「尊敬、尊重」しなくてはいけません。それは何故かというと、「天主様から権威をもらっている方であるから」です。これははっきりしています。権威を持っている方は、権威を「使う方」と「使わない方」があります。使わないというのは変ですけれども、使わなくてもその人を尊重しなければなりません。

権威を実際に使われる時に、「良い使い方をされている方」と、「良くない使い方、乱用をされる方」があります。「良い使い方」をされた時には、当然従わなくてはいけません、「従順」が必要です。しかしそれを「乱用」された場合、「悪い事に使われた」場合は、私たちはそれを「拒否」しなくてはいけません。

トマス・アクィナスによると、「従順の徳」というのは道徳的な徳でありますので、色々な段階があります。例えば「全然従わない」と。「不従順である」と。これは良くない事です。しかし逆の方の反対にいきますと「従いすぎる」と。これも良くない事です。

例えば、今職場に皆さんがいるとして、職場の上司が「こういう事をやってくれ。」と。「それは詐欺じゃないですか。」「いや、大丈夫、大丈夫。誤魔化しとくから大丈夫。」

これはやってはいけません。これに従うという事は、「従順しすぎる」という罪になります。

聖書にもこの例があります。聖書の中には「従順」というのがたくさんあるので分かりやすいのですけれども、この「従順でありすぎて」という例があります。それは、アブサロムが自分の兄弟を殺そうとする時に、宴会を開いてこの手を伸ばして、自分の奴隷に対して、自分の兄弟「アムノンを殺して来い。」と言って、その奴隷がそれに応じてしまう、という事があります。

これは「いや、いくらそのアブサロム様とはいえ、私はできません。」と言うべきだった所を「応じてしまう」という事は、これは罪になります。


【従順の模範:ルフェーブル大司教】

今、現代の教会の危機の中では、「ルフェーブル大司教は不従順だ」と思われているかもしれませんが、よく見ると、「従順さのモデルであった」という事が分かります。何故かというと、先程の「間違った命令に従いすぎる」という事を明確に拒否されたからです。「何が本当の従順であるか」という事を示されたからです。

このような事をする勇気というのは、当然その人にあるのではなくて主から来ます。私たちの主から来るので、そのお言葉は「天主に従うか、目の前の人に従うか」という言葉ですから、その勇気は「天主から来る」と言わなくてはなりません。自分の目の前の人の言う事を「何であっても全部聞いてしまう」という事は、「天主について、天主の事を忘れてしまっている」という事になります。

あと1つ注意しなくてはいけないのは、その「間違った、乱用した権力者に対して拒否する」というのと、その「権威を持っている方を尊敬しない」というのを混ぜてはいけません。

ルフェーブル大司教はいつも、「これはいけない。」と言って拒否されても、その「権威を持った方に対して、敬意を表する」という事は忘れませんでした。

教会の中にはヒエラルキーがあって、「叙階の秘蹟」と言われています。これは英語では「Holy Order」と言って、「聖なる秩序」と言うのですけれども、秩序があるからです。何故なら、秩序というのは良いものだからです。その秩序というものが良いものだという事を言いましたが、「不秩序を愛する」というのはおかしいです。いつも秩序というのは良いものです。例えば聖ピオ十世会が、この「信者さんを助ける」「どこかの教区に行く」という事があります。その時に「そこの教区の司教様の許可を取らないで行く」という事がよくあります。それは良きサマリア人がやったような事で、「助けて下さい」と言う人の所に助けに行く、という事なのですけれども、これで大事な事は、そのもし許可が出たのであれば、それは別に良いのですけども、大事な事は、「私たちが助けに行く」という事です。


【ローマと聖ピオ十世会】

今のこのローマとの話をします、「ローマとの聖ピオ十世会の正式な立場をどうするか」という事なのですが、もちろんそれは先程申しましたように、「あったらあったで、非常に良い」という事です。ただ「それがないと、私たちがしなくてはいけない事ができない」という事ではありません。ただ1988年に司教様の叙階があった時に、ルフェーブル大司教が仰っていたのは、「もう私が死にそうなのでこういう事をするのだけれども、数年の内にはローマと話がまとまって戻れるのではないか。」という事を仰っていました。

その後、時代が十何年過ぎてしまうのですけれども、2000年の8月になって、聖ピオ十世会が、ちょうど聖年の時でしたので8月にローマで巡礼、ローマの巡礼に行って、ローマの市内を5,000人から6,000人の信者が行列するという事がありました。これは一応ローマの許可を取って行列したのですけれども、その時にローマの人はバチカンの人は驚いて、「この5,000人、6,000人は一体どこから来たのだ」と。その中には「神父もたくさんいるし、何か修道女もたくさんいるし、若い人もたくさんいるし、一体この人たちは誰なんだ。」。覚えているのですけれども、その次の日の朝のローマの新聞の一面にそれが出まして、「5,000人の破門された人たちがバチカンにやって来た」という風に一面に出ました。それを見て驚いたホヨス枢機卿という人が、ちょうどその日にはいらっしゃらなかったのですが、次の日に戻って来て、「これはこんな人がいるんだったら是非会わなくてはいけない。」と。「問題はすぐ解決できるだろう。」と思って、聖ピオ十世会の司教様たちを呼んで会議をされたのですけれども、で、その次に12月になって、フェレー司教様が当時のヨハネ・パウロ2世教皇様に会われたという事があったのですが、話が進み出しました。

2001年の1月になって、聖ピオ十世会の全体の会議があって、この「ローマとのこの話を一体どうしようか」という事で、私もその一員でしたので、そこで皆で議論して、で、その中で2つ条件がありました。1つは「ミサを自由化して下さい」この「自由化」というのは、「昔の伝統的なミサを、誰でも捧げられるようにまずしてもらわないといけない」で、もう1つは、「その『破門した』と言っているのを、これをやめて下さい。」と。この2つを条件として出す事に決定しました。

それでその後、その2つの条件を出したのですけれども、2001年3月に枢機卿様たちの会議があって、「この聖ピオ十世会の言っている2つの事はどうなんだ」と。「ミサの自由化」というのと、「その『破門』をと言うのをやめるというのはどうなんだ」という事だったのですが、この「ミサの自由化をする」という、「古いミサを自由化する」という事に関しては、「およそ80%の人が反対した」と言われています。それを受けてホヨス枢機卿はフェレー司教様の所に戻って来て、「これはできません。」と言われて、ヨハネ・パウロ2世の頃は結局何も進みませんでした。

ところがベネディクト教皇様になった時に、このベネディクト教皇様というのはおそらく、そのさっきの「古いミサを自由化して良いんじゃないか」と言った少数派の20%の中の1人であったのは確実です。と言いますのは、昔その1988年の問題があった時にも、実は聖ピオ十世会との交渉を担当された事がある方でした。それはラッツィンガー枢機卿として担当された事がある方です。このラッツィンガー枢機卿、ベネディクト教皇ですが、彼は非常に古いミサを好まれた方で、1950年代、60年代には近代主義的な考えを持っていらっしゃったのですけれども、1970年にドイツのミュンヘンの司教様になられた時に、その「新しいミサでいかに酷い事になっているか」というのを目にされて、考えをちょっと変えられたようです。ローマに行ってからも、「その古いミサというのは、教会の2000年の宝なのに、これをやめてしまうというのは絶対おかしい。」という風に主張されていました。

例えば1984年に「インダルト」というものがあって、「非常に厳しい条件の下では、古いミサをして良い」という制度が出来たのですが、これに関しても、当時のラッツィンガー枢機卿が非常に貢献された、という事が分かっています。それから1988年に、結局うまくいかなかったのですが、その時の「プロトコル」と言われる合意書を用意されたのもラッツィンガー枢機卿でした。その時に失敗したのを、今度教皇になったら「何とかしよう。」という風に考えられたと思われます。

2007年に「スンモールム・ポンティフィクム『Summorum Pontificum』」という書類を出されまして、で、この文書によって、「古いミサを基本的に自由化された」というか、「元々禁止されていませんでした」という宣言をされて、2009年に、「その1988年の“破門”というのは、それは取り除きます」という宣言をされました。

2009年から12年まで、聖ピオ十世会と「教義についての話をされる」という事をされました。ところがもう引退される寸前になってきて、非常に年を取ってこられて、「とにかくこの問題を解決したい。」と思われたので、「色々条件を付けないで、この聖ピオ十世会というのを認めたらどうか。」という風な考えを持っておられたのです。ところが、バチカンの近代主義者の人たちがこれに反対をして、「いや、条件を付けないとダメだ。」という事で、“聖ピオ十世会が参与できないであろう”合意書を作られまして、それでまたダメになってしまった。

今度は2013年になって、新しい教皇様、フランシスコ教皇様がなられた時に、このこの方は非常に不思議な方で、「教理があんまり好きではない」と。本当は良い事ではないのですけども、「教理よりも実践のほうに興味がある」いう方で、「実際的な事を解決すれば良いのだ」と。「聖ピオ十世会というのは、見たら良い事をしてるじゃないか。この人たちは良い人たちじゃないか。」という事で、言ってみれば、その天主様が悪の中から善を取り出すというのか、本当はその教皇様の良くない性質なのですけれども、そこから何故か、その教皇様から「聖ピオ十世会を正式に認めれば良いのではないか」という言葉が出てきたという事です。

フェレー司教様が最近仰っているのですけれども、「非常に、教区の状態を見ていると、どんどんどんどん教会の中の物事が悪くなっている。」と。例えば、最近バチカンでも議論がありましたけれども、「離婚して、いわゆる再婚をしたような人たちまでにも、御聖体を渡すのかどうか」という議論があったと。それでローマで話を解決しなきゃいけないのは、例えば「司教様の中にも、もう信仰を持っていないような人がいる」と。或いは「異端の司教様がいる。」と。「こういう問題をしなきゃいけないのに、ここの聖ピオ十世会というのは信仰を持っているし、異端でも何でもないじゃないか。」と。「こういう人たちは、」まぁ変な意味で言うと、「そんな大きな問題じゃない。」と。「もっと大きな問題が起こっている」という事に気が付きました、と。「この聖ピオ十世会というのは、ずっと昔から信じていた事を、今も信じているだけなのであって、カトリックというのに何も問題がないのだから、これで良いじゃないか」という、これが非常に大きな最近の変化です。

ベネディクト教皇の場合は、第二バチカン公会議に実際に出て貢献された方でしたから、自分でそれに未練もありましたし、周りの近代主義者の人が、「それはいかん。」と言ったら、それは反対する事はできない方でしたけれども、新しいフランシスコ教皇というのは、さっきの新しい見方で、「この人たちに問題はないんじゃないか。」という見方をされたというのが、非常に新しい点です。

それから最新のフェレー司教様のインタビューにありますけれども、ローマの方からもう既に、「実際的なこういう合意をしましょう」というドラフトが何か草案が来ている、と。

6月の叙階式のあった後に、聖ピオ十世会の方の会議が行われて、「そこでこれを議論する」と。おそらくそこではどういう事が起こるかというと、「ローマの方から保証を取り付ける」という話になるでしょう、と。例えば「今ある、」これは当然ですけれども、「今ある修道院ですとか、ここのような場所ですとか、そういうところを認可してもらう」という事と、他に「おかしな、私たちの既に批判している事はこういう事で、それに関しておかしな圧力を受けない」というような保証を取り付ける、という議論をすると思います。

ただ1つ言っておきたいのは、そういうのは「すぐに普通は決まらないであろう」という事です。思い出して頂きたいのは、すでにローマと話が始まってから16年経っていますし、先ほど歴史でお話ししましたように、その前に40年、50年歴史がありますから、これがすぐ決まると、いう事は多分ないと思います。教会というのはそんなに早く動かないものなので、フェレー司教様も慌てて合意をされる、という事はないでしょうから、時間がかかっても驚いてはいけない、という風に思います。

後はおそらくは、今の聖ピオ十世会の司祭等のメンバーと、それから信者も新しい「属人区」に、そこに入る事になるでしょうし、フランシスコ会とか、ベネディクト会とか、色々聖ピオ十世会に関連しているそういう修道会も入る事になるだろうと思います。
(後半に続く)


(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書

ローマと聖ピオ十世会の関係について(後半) 2016年5月22日 聖ピオ十世会レネー神父様による講話

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

5月22日(主)三位一体の大祝日の御ミサの後の霊的講話の時間に、
レネー神父様がなされた講話「ローマと聖ピオ十世会の関係について」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様御講話
同時通訳:東京の信徒会長

前半の講話の続き・・・

レネー神父様:ご質問は?

質問者Aさん:あの、先程の従順と不従順の中で、非常にこう分かりやすい、例えば「跪いたらダメだ」とか「天主はいっぱいいる」とか、そういう分かりやすい信仰を「No」とは言いやすいのですけれども、ものすごくこう繊細な、「教皇様は本当に異端じゃないのか」とか、あと「同じ聖ピオ十世会の神父様でも、“上の長上の言っている事が間違っているから私たちは出ます”というレジスタンスになる」だとか、そう非常にこう微妙な問題が出た時に、私たち一般信者たちはどういう判断を下していけば良いのでしょうか?

レネー神父様:まず信者、それから神父様たちもそうなのですが、まず最初に想像するのは、「上長が、上司が、上が言うんだから、正しいんであろう。」と、まず推定する、と。「明らかにそれが間違っている」という証拠があるのであれば、それは拒絶しなければいけないけれども、「どちらか微妙で分からない」という時は、上長に言うように従うのが正しいのです。

例えば1960年代、70年代に「新しいミサ」というのがありましたけれども、これは新しいミサを作るのに、プロテスタントの牧師が6人参加しました。「これは明らかにおかしい。」と。これは誰が見てもおかしいので、これは拒否しなきゃいけない。或いは「御聖体を手で受ける」そんな事は教会の歴史でこれまでありませんでした。「これは明らかにおかしい。」と。そういう事については反対します。

例えばルフェーブル大司教が反対されたのは、第二バチカン公会議でおかしかった事、新しいミサでおかしかった事が導入されてから、「明らかにこれはおかしい」という事で、「これはできません。」と仰いました。

前に私は文書を書いたのですが(※1)、そのレジスタンスという、先程例があった人たちの言ってる事は、「いや、何かフェレー司教様がここで言ったのは、こういう“感じがする”【主観】」とか、「こういう“調子で言っている”【思い込み】」とか、非常に不確かな、証拠も無い事に関して自分の上長に、「だから反対」。これは態度としておかしい、と。

私たちも皆さんもやらなくてはいけないのは、「自分の上が上長が言った事は、『明らかにそれは違うだろう』という事で、拒否しなければいけない事がなければ、まずは従わなくてはいけない。」と。

ルフェーブル大司教の、まずそのレジスタンスの方が言っているのは、例えば「フェレー司教が後でこういう妥協をするだろう【予想】。だから私はもう反対します。」という風に言っています。

それと対照となるのは、例えばルフェーブル大司教が仰ったのは、「第二バチカン公会議が起こった後、その実がどうであるか。」例えば新しいミサに関しても、一番最初の頃は、来た神学生に対して、「新しいミサに行って良い。」と仰っていました、ルフェーブル大司教は。実際にその新しいミサに行った時に、「どういう実が出るのか、本当に良いものなのか、大丈夫なのか。」で、それが「悪い」という事になって、それがはっきりしてから、行くのを禁止されました。

例えばシャザール神父がマニラにいた時に、「私は上長の言う事は聞きたくない。」という風に言っていました。例えばクチュール神父様が上長なので、「ちょっとヒゲを切りなさい。」と言っても、「いや、それには応じられない。」と言っていました。上長が言った別に何も悪い事がない命令なのに、まずそれに対して反対する、というのは良くない事です。この時にシャザール神父が言っていたのは、「私はヒゲを伸ばしているのは、その“抵抗のしるし”なんだ。」と。「だから応じないんだ。」と言っていたのですけれども、上長が言った、法に基づいた命令、正式の命令に関して、そういう意味を持って反対するというのは、これはおかしな事です、非常におかしな事です。

例えば聖ピオ十世会を見て頂いたら分かりますけれども、過去からずっと、教えている事も、典礼をやっている事も、全くどこにも変わりがありません。いわゆるレジスタンスが反対するというのは、「実際、教皇様と話をしている」という事について反対していたのです。

「教皇様と話をしている事に反対する」というのは、「教皇様と話をする事さえ反対しているのに、カトリックである」というのは、非常にこれはおかしな話です。

例えば、フェレー司教様が間違いをした時に、「いや、それは明らかな間違いなので従えません。」これならばよろしいです。そういう証拠が無い時には、「私は従います。」これがカトリックの立場です。

カトリックには、「天主様のご意志というのは、私たちが自分の義務を守った時には、天主様がいつも守って下さる。」というのがあります。ですから、自分の上長に間違った事をする人がいる時、というのは非常に注意しなくてはいけませんけれども、でも原則は「従う」。どうしても「これはおかしい」という「証拠」があれば、「従わない」という事が原則なのであって、「この人が悪い事をしそうだから、いや、無視するんだ。」とか、「最初から従わない」というのは、カトリックの方法ではありません。


質問者Bさん:ある司祭にこう聞きました。そうすると、この「カトリック教会が間違っていた、間違ったんだ」と。「100年前から間違った」とか、或いはね、「ニケア公会議から間違った」で、「『Immaculata Conceptio(無原罪の御宿り)』とか『Assumption(聖母被昇天)』」ね。「これも間違いなんだ。」というような事なんでしょう?「間違えたのだ。」と。

信徒会長:そういう方がいらっしゃる、と。

質問者Bさん:えぇそういうカトリックは間違っていたという教えを、セミナリー(神学校)辺りで教えてるから、みんな今そういう傾向なんですね。それはどういうような?

レネー神父様: 今挙げて頂いたのはちょうど良い例で、そこまでおかしければこれは明らかにどう見ても、「仰る通り」という訳にはいきません。ですけれども、「証拠が無くてよく分からないけれども」という時は、「まずは従う」というのがカトリックの立場ですけども、今の例であれば、もうこれは明らかに違うので、もう論を待たずに、「それはちょっと違いますね。」と。「言う事には従えません」「仰る事には従えません。」

質問者Aさん:何度もすいません。あと、あの信者さんたちが一番怖いのは、「色んな事をたくさん知りたい」とか、「色んな事を勉強したい」というのがありますが、例えば日本の場合は聖ピオ十世会の神父様が常駐でいらっしゃらない。頼る知識というのは、本とかインターネットとかテレビとか、色んなその情報媒体なのですけれども、そこには沢山のその「嘘」とか「偽善」とか「異端」とか色んなものが入り混じっていて、でも自分がその間違っている所に、「良い」とか同調した部分があった場合に、それを信じ込んでしまう危険がある、全く異端の事を信じ込んでしまったりする場合もあるのですけれども、そういう事をなくす為に、何かアドバイスとかありますでしょうか?

レネー神父様:まず、「聖人」の書いたものは非常に信頼ができます。これは注意して頂きたいのは、「聖人」の書いたものであって「聖人をフォローしている人」の書いたものではないという事です。聖人のご自身の書かれた本。日本語で翻訳されているかどうかよく分かりませんと仰いましたけれども、そういうものはそれ自体は大丈夫です。

例えば皆さんがそれで、インターネットで良いものを探している時は良いものに当たるのでしょうが、良くないものはたくさんあります。良いものもありますけれども良くないもの物もあるので、よく見て選んで下さい。

それで書きもので言いますと、良い教皇様、基本的には「1960年より前の教皇様が出された文章」であれば、これはほぼ信用に足りるものなのでぜひ読んで下さい。1960年以降のものは、悪いものとは言いませんが、良いものと悪いものが混ざっています。良いものが9割あって悪いものが1割あっても、これは非常に混乱の元です。どれが良いとか悪いとか言わなきゃいけないので、基本的には避けた方がよろしいでしょう。

そういう聖人以外にも、ここにあります「ドン・マルミオン」ですとか、「ドン・ショタール」ですとか、「ドン・スクポリー」ですとか、こういう方の書かれた本は非常に良い本です。それから一般的に言いますと、「良い方によって勧められた本」というのは良い本であるという事です(※2)。

本の読み方ですけれども、インターネットではなくて本ですが、読む時には、「5ページ読んで、またこっちに行って10ページ読んで」という風にはしないで下さい。良い本がありましたら「一番最初から最後まで」読んで下さい。この「秩序立った話を読んで、自分の知識がしっかりする」というのが非常に大事な事です。それと比べて、例えばインターネットでしたら、「ここで1ページ読んで、ここで2ページ読んで」というバラバラの知識になるので、良い秩序が生まれませんので、良い本を見つけた時は、最初から最後まで全部読んで下さい。

それからさっきのインターネットの事ですけれども、プロテスタントの方が書いたものだとか、そこには良い事も悪い事もあるかもしれません。そういうややこしい所にはそもそも行かない方をお勧めします。先程言ったように、混ざっているものは非常に危険というか、混乱の元になります。

例えば「SSPXのサイト」だとか、SSPXは関係ありませんけれども「ロラテ・チェリ」というこれは英語ですけれども、そこのウェブサイトだとか、「Life Site News」というのは、pro-lifeの関係の英語のウェブサイトですとか、こういう所は比較的良いものが載っています。

あと本については、今仰った通り、最初から最後まで通しでしっかり読んで下さい。

例えば現代の人というのは、よく毎日のニュースを追っかけて見たりしますけれども、それが現代の病のようなものだと思いますが、「今はこれだ」「今はこういうニュースだ」と言ったとしても、明日になったら忘れ去られてしまいます。

例えば「トリビアだ」と言って、「二十何年前のこの試合がどうだった、こうだった」と覚えてみても、それは「無くなってしまう知識」です。それと比べて、聖人の書いた本というのは、「永遠の意味がある内容」が入っています。ですからこれを読んで頂くと、「永遠にずっと、一生役に立つ知識」が得られます。

それと比べて、毎日毎日ニュースを追いかけているだけ、というのは、「明日意味の無くなるものを見ているだけ」という事になります。


質問者Cさん:すみません、これから洗礼をちょっと一応受けようと思っているのですけれど、近くの教会だと、普通の、「トリエント・ミサ」じゃなくて、普通の日本語とスペイン語でミサをされていて、聖体拝領も手でされているような感じなんですけど、やはりそういった所は避けるべきでしょうか?

レネー神父様:主が、私たちの主が仰ったのは、「これが私の体であり、私の血である。」と仰ったのですけれども、例えば「ユスティニアヌス」という人がその50年後に本に書いているのですが、「確かに、イエズス・キリストがこう仰いました。」と。「自分の体であり、自分の血である。」と。「50年前で、私の父から聞いた」というのは、もうその本人、「使徒の本人から聞いた」という事で、一番最初からこれは伝統なのです。

私たちがずっと使徒から持っている信仰というのは、「その御聖体の中に、イエズス・キリストが本当におられる。」で、「本当のイエズス・キリストなので、それを礼拝しなければいけない。」という事です。

ところがそれはいいのですけれども、それに応じて、例えば今私たちはカトリックの中でもこれは西の典礼なので、「御聖体を跪いて舌で受ける」という事で、これは例えば東の典礼でありましたら、昔今もそうですけれども、「御聖体を御血の方につけて、スプーンで口に与える」という事もありますが、どちらにしても、キリスト教の伝統というのは、「御聖体の中にイエズス・キリストが現存しておられる」という事を信じているから、そういう形を取っているのであって、その証拠に16世紀になった時に、プロテスタントが跪いたり、口で御聖体を受けるというのやめたのですけども、それは「そういう事を信じていないぞ。」というしるしの為に、プロテスタントの人がやった、「私たちは、そのパンの形の中に、イエズス・キリストはいないだろうと思う。その反対をする為に、いやそれは手でもらっていいんだ。それはパンに過ぎないんだ。」という事を始めた、そういう経緯があります。

1960年代になって、近代主義者の人たちがこの「立って、手で受ける」という事を再び導入したおかげで、信者の方が「信仰をなくす」という事が起こりました。これはその、前2000年間やってきた正しい伝統をやめてしまったので、悪い結果が生まれたという事です。

違う面から言いますと、例えば私の経験で、小さい子供、3歳、5歳、10歳の子供でも、大人がみんなちゃんと跪いて舌で御聖体を受けていると、「あ。これは何か特別なものを受けているのだ。」と。「大人の人が。」「私もこれをもらいたい。」と思って、同じようにこう跪いて口を開けて待っている、というのを見たら分かりますけれども、カテキズムを勉強しない子供でも、「これが普通のパンではないのだ。」という事が心の中で分かります。

ところがプロテスタントの影響がある所を見てみますと、プロテスタントの方も、新しいカトリックの典礼もそうですけれども、立って手で受けていると、「これが何か分からないであろう」と。実際そういう事が私にもあったのです。新しく聖伝のミサに来られた方で、そのお父さんお母さんは跪いて受けられたのですけれども、12歳ぐらいの子供がよく分からなくて、手を出してこうやって、「下さい。」と言ってきた、と。「そうじゃないですよ。」と言って、ミサの後に、「どうしたの?」と聞いてみて、「あれは何をもらっているか分かってる?」と言ったら、「何かよく分からない。何かよく分からないけど、私も皆ももらっている。」

こういう風に信者にとっても、「一体その御聖体というのは、どういう事なのか」というのが分からないような、後で信仰を無くしてしまうようなやり方なので、信者にとっても良くない。「天主様を礼拝する」という、「正しく礼拝する」という事で、手で受けるんじゃないでしょう、という事でも大事ですし、「信者の為にも」大事な事、2つ大事な事があります。


質問者Dさん:あの、Yahooニュースか何かなのですけれど、教皇フランシスコ様が、何か女性が、何か聖職者か何か検討する、という風なものがあるのですけれども、もし仮に、可能性はないとは思うのですけれども、もしそれが結論に達した場合、それに従うべきなのでしょうか?

レネー神父様:「教皇様」というのは、教皇様であっても変えられない事があります。例えば「秘跡が7つある」というのは変えられません。それから「『御聖体を作る』という事は司祭しかできない」という事は、これは天主が決められた事ですから、教皇様が変えられる事ではありません。それから「神父になるのは男しかない」というのも、これも教皇様が変えられる事ではありません。

その今話題になっている、「『助祭』のような人が、聖書に書いてあるんじゃないか」と「女性ではないか」という話なのですが、これはその時の様子を見てみると、「どういう人であったか」というのは、おそらく「60歳以上の人で、未亡人の方で、非常に信心深い方」で、「主に何をされていたか」というと、どうやら「当時の女性が、洗礼を受けるのを手伝われていた」と。何故かというと、当時の洗礼というのは、「全浸礼」と言いまして、頭に水をかけるのはではなくて、こうプールのような川のような所に全部入る事をしていたので、服を脱いだりしなきゃいけない事があるので、「これを神父がやる訳にはいかないだろう」という事で、「その世話をしている人を『助祭』というような名前で呼んでいた女性であった」という事なので、後は貧しい人を助けていたかもしれませんけども、これは現代で言えば『修道女』がやっている事なので、いわゆる『叙階された助祭』というのは全然話が違う。それを『助祭』というものに教皇様がする事はできません。

例えばそうは言いましても、新しいミサでは、祭壇に登ってお手伝いをするのに女の子が行ってみたり、女性が行ってみたり、或いは、聖書を読むのに女性がやってみたり、という事があるのですけれども、これもいわば、「なし崩しにやってきた事」で、「本来あるべきではない」。何故かというと、その聖書を読んだり、祭壇の上で神父様の手伝いをするというのは、元々は「神父というその叙階される前の段階、もっと下級の品位の叙階」という事はあったのですけれども、そこに、それはバチカンが廃止してしまったのですけれども、そこに叙階される、その代わりをやっていたので、これは「男だけである」という事だったので、それを混ぜこぜにしてしまってはいるのですが、で非常に怪しい事をしていますけれども、「女性を叙階する」という事は、いくら教皇様でもできない、という事で、それだけは明らかです。

「どうしてじゃあ、司祭は男性しかできないのだ」という事ですが、色々教会も考えたのですけども、基本的な答えとしては、「主が男性ばかりを選ばれたのだろうから、主の事を信じましょう。」と。「きっと理由があってされたのでしょう。」というのが一番代表的な答えです。それ以上詳しくすると時間がもっとかかってしまうので(^^;

(※1)レネー神父著 『偽りの反リベラル主義者の錯覚』The pseudo-anti-liberal illusion
(※2)トマス小野田神父のお薦めの良書

長崎巡礼-霊的講話-2016年5月1日シュテーリン神父様「終わりまで赦せ。そうすればあなたたちも赦される。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話【その2】をご紹介いたします。どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年5月1日 長崎巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【その2】
同時通訳:小野田圭志神父様


皆さんは、特別な極めて特異な殉教者たちの人生の場所に行って、ご覧になって、そして本当に大きな感動を受けて今おられる事と思います。この信じられないような、もう耐える事ができないような拷問を長い間耐え忍んだ、この殉教者のその力に、本当に私は感嘆して、もう驚くばかりです。この殉教者たちが全ての力を、耐え忍ぶ力を、天主様から、マリア様を通して、インマクラータを通して受けた、という事を理解しなければなりません。マリア様は、罪人を異教徒をそれを選んで、それを回心させて、その人たちを最も高い聖徳にまで引き上げたのです。マリア様はですから皆さんも、皆さんをも極めて高い聖徳にまで引き上げる事ができる、という事を信じて下さい。

今日はまた、この殉教者たちのとは別の角度から、しかし非常に驚くべき観点に光を当ててみたいと思います。

まず私自身の体験から話す事を赦して下さい。
告解の時によく痛悔する方々が告白するのは、「私は腹を立てた」という事です。「私は忍耐を失った。」「私は大きな声で怒鳴ってしまった、叫んでしまった。」どうも私たちは、99%いつも怒っている人たちの間に住んでいるようです。

「怒る」というのは、この腐ったトマトのように真っ赤になって「ヴーッ!」という時だけが怒るのではありません。こう外見上は大きな笑顔と微笑みを浮かべながら、心の中で「ヴーッ!」と怒っているという事もあります。何故怒るかというと、この自分の思っていた通りに人生がうまくいかないから怒るのです。或いは誰かが、「こういう事をやってもらいたいなぁ」或いは誰かに、「こういう事をしてもらっては困るなぁ。」と思うと、全くその思っていた事と反対の事を誰かがする、或いは私を侮辱する、或いは屈辱する、という時に怒ります。そのような否定的なシグナルが私たちのところに来て、それが来て怒りの炎が巻き起こって、そして私はその否定的な事をした人を赦す事ができなくなります。

多くの人々が過去に生きていました。そしてその過去に生きていた人のリストをですね、こう私たちはこう作ります、「昨日、妻は本当に俺に悪い事を言った。あの態度は赦せない。」「1週間前、同僚は俺にこんな事を言った、こうやって悪口を言った。」「1ヶ月前、電話を長距離電話を受けて、私のおばさんが私の悪口を言った。」「20年前、会った人が私のポケットから1,000円を奪った。」

問題は何かというと、いつも怒っているのは、私たちは「赦す」という事ができないからです。特に、「誰かが私を騙した。」「お金を取った。」「損害を与えた。」「傷つけた。」「私に危害を与えた」という時に、その赦すのが難しくなります。「神父様、私は子供に、この子に全てを与えました。良い教育を与えて、もうお金も費やして、こうやって教育をやって、ここまでやってしたのに、この子は私に“ありがとう”も言いません。私の事を悪く言います。私はもう赦す事ができません。」もっと悪い例もあります。これは私の自分の耳で聞きました、「神父様、私はその人の為に人生を全て与えました。私の持っているものを全て、この彼のこの方の為に与えました。そして子供ももうけました。しかしそのそれがどこかの、どこかの誰かといなくなってしまって、子供も私もほっぽらかしにして、どうして私はこの人を赦す事ができるでしょうか。」

大きな、或いは小さな問題が私たちにはあります。私たちの人生には必ず、誰かが私たちの事を傷つけたり、悪さをしたりする人もいます。危害を与えるか、危害を与えようとしています。ですから或いは皆さんは、その彼に対して怒りを買ったり、或いはこの人を赦す事ができなかったりするかもしれません。皆さんはもしかしたら、「天にまします」の祈りを祈るのが難しいかもしれません。「御国の来たらん事を、御旨の天に行わるる如く、地にも行われん事を、」とは簡単に祈る事ができるかもしれません。「我らが人に赦す如く(-_-;)、我らの罪を(-_-;)赦し給え。(-_-;)」

そして、こういう私たちが長崎に行くと、殉教者を見ます。私たちの人生には、この西坂の丘で起こったような事は起こっていません。立派な侍で、もう何も不足する事がないのに、しかし全てをもぎ取られて、そして死刑をされる人々。財産を全て没収されたのみならず、自分の愛する家族や子供たちを、自分の目の前で殺される。唯一犯した罪というのは「キリストを信じていた」という事だけです。

「私は、私は何をやったでしょうか?」「私たちはこの国の最も偉大な恩人ではないでしょうか?この国の為に良い事をしました、善を施しました。その報いとしてあなたたちは私たちに、最も悪い“死”を与えようとしています。」

この侍のお父さん、最も力のあったお父さんのその3人の子供全部が、12歳、そして一番小さいのは5歳、自分の目の前で指を切られて捨てられ、海の中に捨てられるのを見て、お父さんはどれほど怒らなければならなかったでしょうか。しかしそれらの殉教者たちは、そのそれらにどのように反応するかというと、「赦し」でした。

パウロ三木のお説教を聞くのは簡単です。しかし皆さんが実際に十字架の上に付けられて、そしてその自分を殺そうとしている人々に、「私たちは何の恨みもありません。」と大きな声で心からそう言う事ができるでしょうか。

何も不足もなく、もう何の問題もなく、皆さんソファーに寝て、こう葉巻を吸ってゆくゆくとふかして、こっちにはサントリーのウイスキーがあって、それを飲みながら、「あぁ、赦します。」と言うのはどれほど簡単でしょうか。皆さん、皆さんの目の前に敵が恐ろしい形相をしてこう睨んでいて、そして皆さんを殺そうと拷問の道具を見て、こう皆さんを痛めつけていて、その目の前で「赦します。」と言うのはどれほど難しいでしょうか。

ここで「インマクラータ“無原罪のマリア様”」の力が分かります。私たちの本性から言えば、もしも私たちに危害を与えた時には怒り狂って、それを「絶対赦さないぞ!」というのが本性です。私たちの本性は、「友人には友人となり、敵には敵となれ」と言います。しかしこの殉教者たちは、それらの自然のやり方をほっぽり投げて、それと全く別の事をします。ですから、この殉教者たちを殺そうと拷問をかけた人たちはそれらを見て、「この人たちは本当に月から来たのではないか。宇宙からどこから来たのではないか。」と思った事でしょう。

このような事は、世界どこを探してもカトリック教会でしかありません。この「赦し」というのは、「何故カトリック教会の中でしかないか」というと、自然の本姓に全く反対する傾向であって、この「赦す」という事は、1つの所から流れ出て、1つの源泉地からしか流れ出ないからです。その源というのは、『十字架』です。

これは、この「赦し」というメッセージは、この長崎からの殉教者が皆さんに伝える、非常に大切なメッセージです。もしも私たちが本当にマリア様の子供であるならば、もしも本当にカトリック信者であるならば、「赦す」という事を知らなければなりません。ただ単にこう悪口を言った人を赦すのみならず、私たちの最悪の、もう最低の、もう極道の事をした人たちさえも赦す事ができなければなりません。

私たちには2つの態度があります。「長崎のように反応するか、長崎の人々のように行動するか」或いは「広島での行動のように反応するか」です。広島にも長崎にも原爆が落ちました。

でも広島は憎しみと怒りがあります。復讐しようという望みがあります。「このような事をして、決して忘れない。」と。これは異教の答えです。この非常に自然的な傾向で、よく理解できます【*】。でもこれは本当の答えではありません。広島のこの態度からは、憎しみと復讐の念が沸き起こってくるからです。

でも長崎はまた別です。1945年のこの原爆の時のその被害者は犠牲者は、これは殉教者の子孫でした、殉教者に続くものでした。ここではカトリックの共同体に原爆が落ちます。たったの1分で、たったの数秒で、カトリックの大聖堂が全く破壊されてしまって、カトリック信者は8,000人亡くなって、そして病院もなくなって、もう廃墟となります。何十万人の人が傷付いて、傷を受けて焼かれて、そして命を失いました。これは世の終わりのしるしでした。でもこのおかげで戦争は終結します。これは第二次世界大戦です。

でも広島の後では、戦争はまだたくさん続きました。何故かというと、戦争というのは憎しみの連鎖反応だからです。

でも長崎には平和を生み出しました。何故かというと、長崎では高貴な態度、心を生み出したからです。

例えば永井博士がその被害に合って、そしてその受けたその原爆の態度は、「赦し」でした。永井博士は自分の家のあった所に行くと、何もありませんでした。ただ灰があっただけです。「妻はどこにいるだろうか。」と探しました。博士は自分の家のあった所にちょっとした骨を見つけます。そしてロザリオを見つけます。「これは私の妻の手の骨だ。これは妻が握っていたロザリオだ。」とすぐ分かりました。

この有名な長崎大学病院のこの博士は、全てを失いました。最も愛する妻を失いました。怒る事もできました。この責任者に対して怒り狂う事もできたはずです。それも普通の反応でした。

でもこのロザリオの十字架を見て、マリア様のメダイを見て、「天主様に感謝します。」何故かというと、「妻はロザリオ唱えながら死ぬ事ができたから。」「天主様に感謝する。」何故かというと、「この犠牲によって戦争が終わる事ができたから。」

永井博士は夢想家ではありませんでした。お医者さんでした。何故こう言うかというと、最初の、原爆が落ちて最初の2日間は、お医者さんとして運ばれてくる患者をもう休みなくずっと看病し続けていて、自分は気絶しつつ気を失いつつも患者の為に全ての時間を使っていました。このような極めて大変な時に、自分の命をこうやってかけて患者を診て、そしてしかも赦す事ができるというのは、殉教者たちの態度と同じレベルの赦しです。

この長崎にはまた別の人も来ます。この男は長崎で、「インマクラータの、無原罪の聖母の町」を作ります。この長崎に6年間住んだだけです。長崎に居た後で、6年居た後に、自分の祖国に帰ってそこで亡くなります。聖マキシミリアノ・コルベ神父様は、ゲシュタポによって逮捕されます。そして遂に強制収容所に収容されます。

アウシュビッツの刑務所では、囚人たちは獣のように取り扱われました。特に司祭は、言葉で言う事ができないほど残酷に取り扱われました。強制収容所に入れられた人々の、普通の共通の多くの人々の反応は、「憎しみ」「復讐」「怒り」「憤り」でした。でもアウシュビッツのブロック60地区には怒りがありませんでした。何故かというと、このブロックには1人の男がいたからです。この男は、拷問を受けて辱めを受けて、もう痛み苦しみを受けながら微笑んで、そして平和を皆に撒き散らしていたからです。そしてこの一緒にいた、この監獄にいたポーランド人の友人に、「おぉ友よ、私たちは赦さなければならない。ドイツ人さえも。」

最後に10人の囚人が死刑を受けなければならない。何故この人が死刑になるかというと、誰か1人が監獄から逃げ出してしまったので、その罰として10人が死ななければならない事になったからです。その死も最もひどい死に方でした。どのようにして死ななければならないかというと、監獄の中に小さな所に押し込められて、何も与えられず、食べ物も飲み物も、何も、そのまま放置されます。10人選ばれたのですけれども、そのうちの1人がいきなり泣き出します、「おぉ!私の家族はどうなるのだ!私の妻はどうなる!子供はどうなるのか!」と。

すると突然、信じられないような事が起こりました。ある人がこの監獄の責任者の所の前に立ち進んで現れるのです。もしも誰かがこの列から、整列から離れるような事があればすぐに殺されます、射殺されます。しかしこの時には誰も、この男を射殺しようとする人がいませんでした。そしてこの出てきた男は立ち現れて、「私がこの代わりになる事を赦して下さい。この人の身代わりになる事を赦して下さい。」と言いました。

ここにいた監長責任者(Lagerführer, camp leader)は、“血に飢えたクロト”というあだ名を付けられた人(本名は Karl Fritsch)で、とても残酷で、もう非常に非道な人でしたが、このような事は今まで見た事がありませんでした。「お前はこの、一体このポーランドの豚は何が欲しいんだ。」そこでこの立ち進んできた男は「身代わりなりたい。」と言うと、「お前は一体誰なのか。」と聞きました。コルベ神父様はその時に、「私はマキシミリアノ・コルベです」とか或いは「ニエポカラヌフのインマクラータの騎士の総長で」とは言いませんでした。「私は、カトリックの司祭です。」と答えました。このような事を体験した事がない監長は本当にびっくりして、「それなら良い。」と、「代わっても良い。」と許可を出しました。

一体何でこのような人が、今までこの残酷で、「絶対ダメだ!俺のやる事をやるんだ!」というような人が態度を変えて、コルベ神父様の言うままに許可したのでしょうか?コルベ神父様のその素晴らしい勇気に感動したのでしょうか?

私の思うには、コルベ神父様はその男に、平和な目で、その目と目をじっと見つめたからです。この神父様の目には憎しみがありませんでした。この目には愛と赦しで満ちていました。でもクロトはこれが理解できませんでした。しかし、このような目は一度も見た事がありませんでした。この為にコルベ神父様は、最も偉大な英雄となりました。神父様は憎しみや怒りを、自分の愛で打ち勝ちました。

全てはこの長崎に集中しています。長崎は私たちにとってしるしです。こう私たちにとても貴重なメッセージを与えています。私たちはここに、キリスト教信者となる為に、カトリックとなる為に来ました。カトリックとは何か、そしてカトリックそれ自体になる、学ぶ為に来ました。カトリックというのは、美しい典礼や歌だけではありません。もしもそれだけでしたら、私たちの人生にはそれほども大きな影響力はなかったかもしれません。離教の正教がそうです。正教会は、素晴らしい長い長い豪華な典礼と、豪華な教会がありますが、しかし命がありません。カトリック信仰というのは、美しい典礼や、美しい神学や、美しい理論、それだけではありません。もちろんそれも大切です。

多くの殉教者たちは長崎の殉教者たちは、カテキスタでした。そして信仰を伝えた人でした。永井博士は自分の体を動かす事ができませんでした。ですから床に横たわって、本を書きました。横たわっていても本を書いたのは、「信仰を伝えたかったから」です。

日本に到着したてのコルベ神父様も何をしたかというと、『無原罪の聖母の騎士』という雑誌を作って、「是非信仰を日本の方に知ってもらいたい」と思って宣教しました。

でもそれだけではありません。もっと大切なのは「生き方」であり「命」でした。天主様がマリア様を通して私たちに与えようとしている、具体的なこの生活の生き方です。昨日のメッセージは、「終わりまで耐え忍んで忠実であれ。そうすれば栄光の冠を受けるだろう。」という事でした。今日のメッセージも同じです。「終わりまで赦せ。そうすればあなたたちも赦される。」

おそらく多くの皆さん、私たちの多くは殉教者にはならないでしょう。でも全て私たちは赦さなければなりません。ここからキリスト教信仰が生活が始まります。ですからこの精神を、私たちの心の中に浸透させなければなりません。長崎から始まらなければなりません。このここから、これが私たちを秋田に運んでくれます。それはマリア様です。そのように難しい状況において赦す事ができるというのは、マリア様が私たちの為に勝ち取って、お祈りして下さって得てくれる特別の、唯一の十字架からのお恵みだからです。

マリア様のご生活、マリア様の役割を、このポイントからこの観点からご覧になって下さい。マリア様の全生涯は全て「赦し」で始まり終わっていました。マリア様はイエズス様の命を狙うヘロデの手から逃れる為に、エジプトに行かなければならなかったのですけれども、これを赦さなければならなかったのではないでしょうか。

もしも明日突然、市長があなたの皆さんの家にやって来て、「さぁこの家を没収します。平地にします。出て行って下さい。追放です。全て財産も没収です。銀行も凍結です。」と言ったら、どのように反応するべきでしょうか。その時には、その人を赦すのは非常に難しいかもしれません。

皆さん想像して下さい、考えて下さい。ヨゼフ様もマリア様も、夜中に出てエジプトに逃げて、そして家も失い全て没収され、全くものすごい貧困のうちに生活する事を外国で余儀なくされたという事を。

「イエズス様が十字架の上で亡くなった」という事も考えて下さい。誰がイエズス様をこうやって処刑したのでしょうか。一体誰が「十字架に付けろ!十字架に付けろ!」と叫んでいたのでしょうか。イエズス様が癒した人。彼らがまだ病で苦しんでいた時に、或いはらい病だった時に、或いはお腹が空いていた時にご飯を与えられた人。色々な奇跡でお恵みを受けた人が「十字架に付けろ!」と言ったではないですか。

イエズス様だけが、「主よ、彼らを赦したまえ。彼らは何をしているか知らないからです。」と言ったのではありません。マリア様はイエズス様のお母様ですから、イエズス様の名誉を守る権利があります。

もし皆さんのお子さんは非常に良い教育を受けて、皆さんの手によって育てられて、そしてとても立派な子供になっていましたが、しかし不正な裁きを受けて、不当にも「死刑の宣告を受けた」とします。もしもそのような事があったら、皆さんお母さん自身が死刑の宣告を受けたよりも、もっと苦しみを感じるではないでしょうか。

マリア様はそのイエズス様を苦しめた、身分の高い人から身分の下にいる人まで、全ての人を赦しました。マリア様は、「皆は赦すけれども、アンナと、カイファと、それからピラトだけは!」と言いませんでした。マリア様は全て赦しておられました。

私たちを、十字架の上で私たちを子供として受けた時に、マリア様ですから、私たちをどれほど赦さなければならないでしょうか。マリア様が自分の愛する御子イエズス・キリストから、皆さんを「自分の子供として、頼むよ。」と頼まれた時に、どれほど苦しんだか分かりますか?一体どのような人を子供として受けたのでしょうか?

イエズス様という、この世の救い主であり、王であり、最も素晴らしい子供の代わりに、本当につまらない、無のように等しい私たちを受けたのです。無だけではありません。もう私たちは、その御子をそのマリア様の愛する御子を、何度も何度も侮辱して、罪を犯して、屈辱を与えた存在です。

愛する子供を持っていますね?「お母さん、この子を自分の子供として僕の代わりに受け取って下さい。この子は言っておきますけれども、この子供はあのおじさんの子供で産んだ子供で、このおじさんはお母さんの財産を全部没収して、こんなに悪い事をした人の子供なんです。」

マリア様は、「はい。」と言って、皆さんと私を本当の子供として受け取って下さいます。マリア様の私たちに対する最初の行為は、「私たちを全て赦す」という事でした。私たちはマリア様に対して、どれほど多くの悲しみを与えてきた事でしょうか。私はマリア様の愛するイエズス様に対して、苦しみと悲しみと、大罪を以って死にまで至らせました。そのような私を、マリア様は赦して下さいます。

この観点から長崎を見ると、今、今日ここで、特別な事を私たちが学ぶ事ができます。その一番深い意味というのは、「イエズス様もマリア様も、私たちを『赦したい』と思っている事」です。そして「イエズス様とマリア様からの赦しを得るのは、本当に簡単だ」という事です。私たちが不幸にして罪を犯して、罪の泥の中にドシャーン!と落ちてしまった時に、私たちはよく思うのは、「あぁ!何でだ!」と怒ったり、「これからどうなってしまうんだろう」と恐れたり、「あぁっ、本当にもう…」と悲しんだりするのですけれども、自分の弱さに悲しんだりするのですけれども、しかし私たちを「赦そう」「赦そう」と待っている方の事を忘れています。

愛する友人の皆さん、イエズス様は夜に昼に、皆さんを「赦そう」「赦そう」「赦そう」と待っておられます。イエズス様が「赦そう」と待っているのをご覧なれば、私たちはどれほど隣人を赦す事が簡単になる事でしょうか。告解に行くのをもう恐れる事はありません。何故かというと、「イエズス様は赦す事を待っているから」です。たとえ私たちが、もう最悪の最低の罪を犯したとしても、マリア様の元に行くのを恐れません。何故かというと、「マリア様は私たちを『赦そう』と待っているから」です。

お母さんが、小さな赤ちゃん子どもが、こう、よちよち歩きするのを見ています。このよちよち歩きをしている子が「あっ!」とこう倒れてしまうと、お母さんはすぐにその赤ちゃんをこう抱きかかえて起こします。その時にお母さんは、「え!?何だよ何!?倒れちゃったの!?ほら起きて起きて起きて!もう起きないの!?知らないよ!もうほっぽらかすよ!」と言うでしょうか。

これが長崎のメッセージで、本当の真正の全きカトリックのメッセージです。マリア様のこの模範が、私たちの心の中にもこう染み通らなければなりません。もしもこの私のような者をイエズス様・マリア様はこうやって赦して下さるのならば、どうして私が他の私に害を与えるような人を赦さないわけがあるでしょうか。そして赦し始めると、私たちの心の中には平和がやって来ます。私たちの心の中にいつもあった重い石が取れていきます。いつもこう怒って怒って、憤って、というのがなくなっていきます。そこで本当の微笑みがやってきます。これが殉教者のにっこりした微笑みです。これが永井博士のにっこりした微笑みで、そしてコルベ神父様の微笑みです。これがマリア様の微笑みです。

長崎には非常に多くのものがあります。皆さん長崎に来れて良かったですね。では行きましょう。


【*】【訳者追記】
2016年5月27日に、オバマ米大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問しました。

安倍晋三首相は5月10日、記者団に対し、オバマ米大統領が安倍首相とともに5月27日に広島を訪問すること、心から歓迎すること、オバマ大統領の広島訪問を「全ての犠牲者を日米で追悼する機会とする」こと、また、原爆投下に対する大統領からの謝罪は必要ないことを述べています。

広島市も日本政府も、米国には謝罪を求めたことはかつてありません。第二次世界大戦が終結して以来、政府はアメリカ政府に対して、原子爆弾投下について直接抗議を行ったことはありませんでした。

広島訪問前に共同通信が実施した「広島と長崎で被爆した百十五人に面接方式のアンケート」によると、原爆投下の是非に踏み込み謝罪することを78・3%が「求めない」と回答しています。(「求める」とした人は15・7%。)

朝日新聞デジタル(貞国聖子氏)の記事によると、1956年8月に結成された、被爆者唯一の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」は、1984年の基本要求で「米国への謝罪要求」を明記し、1990年代には、米国を相手取った訴訟を検討したこともありましたが、2016年5月18日付けで直接、ホワイトハウスにメールで、オバマ米大統領に要望書を送りました。日本被団協の事務局長の田中熙巳(てるみ)さん(84)によると、要望書は謝罪を求めていませんでした。要望書は、広島で被爆した男性が起草し、全国から集まった約20人の代表理事会に諮ったところ、異論は出なかったそうです。また、NHKが広島県内の被爆者231人の9割を超える人がオバマ大統領の広島訪問を「評価できる」、「どちらかといえば、評価できる」と回答しました。(広島県内の被爆者321人の内回答を得ました、72%に当たる231人。)NHKが実施した被曝者に実施したアンケートでも、オバマ大統領に謝罪を求める人は14%と少数でした。

被曝されて、今生存されている方々は、幼い頃に被曝されたのであり、戦争に関していかなる決定権もなく、全く受け身で犠牲となった方々です。実際に被曝されて、放射線によるさまざまな健康被害に苦しんでおられる方々が、謝罪を求めないとされていることは、すばらしいと思います。

今年の聖ピオ十世会の長崎巡礼に参加して、生まれて初めて長崎に来た巡礼者の中に、私の母もいました。母は、原爆記念館を訪問して初めてその悲惨さが分かったと言っていました。母は戦争中は広島から遠く離れた田舎に住む子供でした。被曝していない私たちは、被曝者のこの赦しの精神を心から尊重し、褒め称えたいと思います。被曝者の方々の大部分がそうであるなら、日本に今住んでいる大部分の方々も、謝罪は求めないと思います。

また、オバマ大統領を始め今アメリカに住んでいる方々も、戦争作戦について決定権を持っていたわけではなく、アメリカでも日本でも戦争を指揮したその当事者たちは皆亡くなっています。

今生きているの世代のアメリカの方々が、70年前に広島と長崎に原爆を落とそうと決定したわけではありません。日本にも、アメリカにも、第二次世界大戦後に生まれてきた方々が、大多数住んでいます。戦争を直接に体験していない人々は、戦争を直接しなかった人々に、謝罪を求めることが何故できるのでしょうか。

日本とアメリカとが、手を合わせて平和な世界を作っていこうという願い、その尊い思いが、被曝者の方々が、日本がアメリカに謝罪をあえて求めなかった理由だと思います。

私たちの主イエズス・キリストの赦しの精神、十字架の精神が、長崎と広島とから、日本中に、世界中に広がりますように!

天主は、私たちの罪の為に傷付いた御子の聖心において、 その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月3日(初金)イエズスの至聖なる聖心の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月3日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の大祝日 
小野田神父様御説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月3日、イエズス様の至聖なる聖心の大祝日。初金です。今日、このイエズス様の聖心の大祝日に、この聖母の汚れなき聖心教会で私は初めてミサをする事ができて、その御摂理に感謝しております。日本が開国して、そして横浜に山手教会ができて最初に作られた教会が「イエズス様の聖心」の教会でした。その御摂理に感謝致します。今日はこのミサの後に、聖時間をいつものように行いましょう、そしてイエズス様の愛に感謝を致します。それから昨日、日本の時間で夕方の16時半頃、レネー神父様のお母様がフランスの老人ホームで、2人の自分の司祭である息子たちに看取られながら帰天されたとの事です。レネー神父様のお母様の霊魂の永遠の安息の為にどうぞお祈り下さい。


“DEUS, qui nobis in Corde Filii tui nostris vuluneratio peccatis,
infinitos dilectionis thesauros misericorditer largiri dignaris.”

「天主は私たちに、御子の聖心に、私たちの罪の為に傷付いた聖心において、
その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。」

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の大祝日おめでとうございます。
この大祝日の、私たちの聖心の信心において、一番大切な所は一体どこにあるのでしょうか?私たちはイエズス様の聖心に対して何を行っているのでしょうか?聖心に対する信心というのは、その一番の本質というか中核という核心はどこにあるのでしょうか?イエズス様の聖心が傷付いて、その傷付いた聖心を私たちが何故崇めているのでしょうか?何でイエズス様の聖心は十字架の上で傷付いたのでしょうか?一体これは何を意味しているのでしょうか?イエズス様は一体私たちに何をして下さっているのでしょうか?私たちはその傷付いた聖心を見て、一体何をしなければならないのでしょうか?一体イエズス様が私たちに何をして下さったのでしょうか?イエズス様の聖心のこの大祝日において、私たちは一体何をそんなに信心深く大切に思って、その神秘の一番の極みというのはどこにあるのでしょうか?

それを今日一緒に黙想して、イエズス様の聖心の、傷付かれた聖心の、私たちに何を仰りたいか、というのを黙想して、そのイエズス様の聖心に対して何をしなければならないのかを黙想してみたいと思います。

集祷文によると、「天主様は、御自分の愛の全ての宝を、この罪によって傷付かれた、私たちの罪によって傷付かれた御子の聖心においてのみ、憐れみ深く、私たちにたくさんそれを与える事を望んでいる」と言っています。

イエズス様の聖心はまさに、愛の無限の宝を私たちに与えようとするその根源であって、その源であって、その原因なのです。イエズス様はこの聖心を以て、永遠の昔から、私たちの事を考えておられました。

これが入祭誦でそう言っています、「その天主様の心の考えは、昔から、永遠の昔から、私たちを死から救い、そして私たちを飢えから養う、飢えにおいて養う事であった。」

イエズス様の聖心は傷付いています。聖務日課によるとその理由は2つあると言います。

何故傷付いたかというと、1つは、「私たちの罪が、罪の行列が、兵士の槍を導いて、イエズス様の心を傷付かせた。私たちの罪が故に、イエズス様の聖心は砕かれた。私たちが罪をあまりにも犯すので、私たちの罪の為に、その罪を償うが為に、イエズス様の聖心は潰されて、そして罪の償いを果たした。」

もう1つ、聖務日課ではこう言うのです、「イエズス様の聖心は、実は傷付いたのは、私たちを愛するがあまり、目に見えない愛、私たちに対する目に見えない愛があまりにも大きかったので、私たちに対する愛に燃えていたので、私たちに対する愛に満ち充ちていたので、あまりにも私たちに対する愛が激しかったので、その愛によって聖心は傷付いていた。私たちを愛するがあまり、その心は傷付いていた。私たちを愛する純粋の花婿として、純潔な花婿として愛に狂ってしまったが為に、その既に目に見えない傷を負っていた。その目に見えない愛の傷が見える事ができるように、どれほど私たちを愛しているかという事が見える為に、敢えて十字架の上で聖心は開かれた、傷付けられた。これは、『イエズス様が私たちをどれほどまでに愛しているか』という事の、目に見えるシンボルである。」と、聖務日課は謳っています。

イエズス様は私たちの為に何をして下さったのでしょうか?イエズス様は、永遠の昔から私たちの事を考えて下さって、愛しておられて、私たちの為に、頭で考えた事もないような、目で見た事がないような、耳でも聞いた事がないような、心で思った事もないような、ものすごい幸せを、永遠の天主の命を与えようと考えて下さいました。

そしてその為に、私たちをこの地上において、そしてこの地上に美しい大自然と、喜びを、私たちに与えようと思って下さいました。そしてこの地上での幸せな人生の後に、永遠の命を与えようと思いました。

この愛の計画が、人間の罪によって崩されても、それにもかかわらず、なんとか私たちに「永遠の命を与えよう」と、愛の限りを尽くして下さいました。イエズス様は私たちを愛するがあまり、私たちと同じ人間の姿をとって人間の本性をとって、私たちと共に生活されました。33年間苦しみの生活を送られました。私たちを愛するがあまり、イエズス様は十字架の受難さえも喜んでお受けになりました。私たちが本当なら払うべきであった罪の償いを、イエズス様が全て払って下さいました。

そればかりではありません、それで満足しませんでした。イエズス様は愛するがあまり、私たちに御聖体をも下さろうとしました。御自身を御聖体として、霊的な糧として下さろうとしました。その昔、天主は「婚姻」という制度を作って、2人の、「もはや2人ではなく1人だ。この2人は1人の肉体となる。」と言われましたが、それはまさに御聖体の前兆でなくて何だったでしょうか。

イエズス様は私たちに、全く御自身を、「残り尽くす事なく与えたい」とさえも思いました。私たちの肉体と御自分の肉体を1つにしたい。私たちの肉体をイエズス様の肉体と同じようにしたい、と思われました。

そればかりではありません。御聖体の中には、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性が含まれておられるので、私たちの霊魂とイエズス様の神性は1つとなる事ができます。もはやイエズス様と私たちの間には、何も分け隔てるものがなくなるほどまで、イエズス様は愛されました。

私はこのイエズス様のなさった愛の例え話を色々考えました。このように似たような話はあるだろうか。どうやったらこの私たちは、このそれに似通った話をうまく説明できるだろうか。色々考えました。私たちの目の前に、あるお友達がやって来て、毎日のように、「どれほど私たちを愛しているか」という事を態度で示そうとして、私たちにきめ細かい親切をして下さる方が現れた。そしてその方が私たちの為に、自分の持てるものを全て与えてくれる、親切をして下さる、これをやってくれる、あれもしてくれる。そしてもう私たちのそのきめ細かい愛情によっても、もう私たちはその彼が、或いはこの彼女が、私たちにとって「とても好意を寄せて下さる」という事がよく分かる、という話。でもそれはイエズス様の、天主様の無限の愛と比べれば、太陽に映った影のように、ほんの憐れなものにしか過ぎません。

例え私たちの友人が、その命を尽くして、全てを、全財産を尽くして、こう私たちの為に、「さぁこれを使って下さい。自分をもう捧げます。どうぞ奴隷として、奴隷のように考えて欲しい。もう友人として考えて欲しい。」と言ったとしても、それも全く影法師のような、イエズス様の愛と比べれば何でもありません。

私たちの目の前に突然王子様が現れて、とても親切を尽くして、私たちをいつも、「私たちをこれほども愛している」という事を見せて下さって、行動で表わして下さる方が現れたとしても、イエズス様の愛に比べれば全く何でもありません。

そこで、色々考えたのですけれども、できればシュテーリン神父様が色々話して下さったように、色んな例え話を思い浮かべたのですけれども、でもイエズス様の私たちに本当になさって下さった愛の行動をみると、想像の世界と、そしてこのイエズス様が与えて下さった秘蹟と、御聖体と、十字架の上の御受難。この愛の宝を目の前にすると、もう例え話は全く何でもないように思われて、もう考えるのをやめました。ですから、それは皆さんが考えて下さい。一体、イエズス様は私たちにどれほどの事を、「愛している」という事を、証拠を見せて下さっているか。

今日来る前にフィリピンで、Angelus Pressから出ている「Love in the Ruins」という本を読みました。それは今から7年前に出版されたものですけれども、その中に「18歳の子が洗礼を受けた。聖伝のミサで洗礼を受けた」という話が載っていました。そしてその話を読んで、読みながらほんの数ページなのですけれども、もう涙が出て止まりませんでした。何故かというとその彼が自分の回心の話を非常にうまく、きれいに書いていて、ぐいぐいと読んで、もうあまりにも美しいので、とても感動して読んだのです。

その彼の回心の話を少しだけさせて下さい。何故かというと、「イエズス様がどれほど私たちを愛しているか、愛して下さっているか」という事の1つの具体的な例だと思うからです。

彼は匿名で、「美門と言われる門」、「美しい門と言われる門」という題で、自分の回心の話を書いていました。「自分はちょうど、イエズス様から愛を受けて、奇跡的に治癒を受けた、生まれつき足なえの歩く事のできない、『美門』美しい門の前に置かれていたあの乞食と同じだ、そのように思う。私は、奇跡を得る為に、『美しいものを美しい』と理解する事ができる為に、何ら別に特別の功徳もなかった。でも私はただ、イエズス様の憐れみを受けて、『美しいものを美しい』と見る事ができた。」

彼は言うのです、「私が聖伝の御ミサに与ったのは17歳の頃で、その時に英語の先生が私をミサに連れて行ってくれた。で、その同じ先生が、私が1年後に洗礼を受ける時に、この代父になってくれた。でも自分の生活というのは、この足なえのようにもうメチャクチャで、何の秩序もなかった。自分の親友の両親は離婚した。自分の父親は数年前に亡くなった。母親は結婚していない男性と、父が亡くなった後に、結婚していない男性と同居しだして、そして子供を産んだ。そして私には最初のガールフレンドがいた。そして自分の目の前にあったのは、秩序の無い愛の生活だった。その結果も考えないで、自分の好きな放題に生活している人たちがいた。そしてそんな中に、英語の先生が、私を『聖伝のミサ』に、つまり『美しい門』の前に連れて行ってくれた。そして美しいものを発見する事ができた。」

「自分は中産階級の子供で、音楽気違いだった。自分がやっていたのはいつも、勉強もしないで、自分の家の地下室にこもって、音楽を聴いて、ギターを弾いて、タバコと酒を飲んでいた。それだけだった。自分の友達はドラッグを麻薬をやっていて、かなりオープンにやっていて、親は自分の友達の事をもう放棄していて、それで“警察だけには捕まるな”という事しかアドバイスをしなかった。自分のお母さんはカトリックの大きな家族の7番目の娘で、一番下の子で、でも自分のこの教区の神父様が、まだ自分が子供の時に、教区の神父様がいつも主日ごとに夕方、自分のおじいさんおばあさんの家で夕食を食べているのだけれども、この神父様がシスターと結婚して、司祭職を離れた時に、このお母さんも教会に行く興味がなくなってしまった。それから家を出てヨーロッパに渡った。(この子はアメリカで生まれた子なんですけれども。)それでお父さんは、カイロから出身のイスラム教の人で、そのお父さんの両親は、3歳の頃非常に醜い離婚をして、それで一人ぼっちでロンドンに行って、そしてその自分のお母さんと会った。それでアメリカに来て生活をして、自分が生まれた。でもお父さんが死んで、お父さんが死んだので自分もちょっと真面目になろうと思って、金曜日ごとにモスクに行って断食もしたし、お祈りもして、イスラム教の勉強もした。でもあとで、お父さんが実は、『お母さんと結婚する前に別の女性とも結婚していた』という事を知って、『そんな事を許す宗教がどうして良い宗教と言えるのか。そんな宗教が良いという事を見出す理由が見つけられない』と言ってそれでイスラムを離れた。音楽を聞いてばかりいた。」

「そして高校を卒業しなければならないのだけれども、しかし成績が良くなかったので、成績を卒業する為に必要な点が取れなかった。そこで校長先生が特別のプレゼントをしてくれて、英語の家庭教師をつけてくれた。その先生がとても良い先生で、本当に誠実な方で、カトリックだった。それでその先生と一緒に英語の勉強をして、詩を読んだりして話をした。でも今まで自分の周りにいた大人たちはいつも、何か悪い事をすると言い訳をしたけれども、この先生は言い訳をせずに、『良い事は良い、悪い事は悪い』と言ってくれて、そして自分が悪い事をした事を認めれば、すぐにそれを聞いてくれて許してくれて、そしてとても誠実だった。今まで自分の周りにはカトリックの人がいたけれども、その先生は、その人たちから聞いた事がないような話をしてくれた。」

「自分のガールフレンドの家にたまたまいた時に、公教要理の本を見て、たまたま開いたのが『婚姻』のページで、その時に、『婚姻というのは、男が1人女が1人、結婚するもので、離婚はできない』という事が書かれていた。『ハッ。これだ。これこそが正しい。』と思って、『やっぱりカトリックだ。』と思った。」

「今まで聞いたのは、『悪い事でも、それはそれでいいんだ。それが憐れみだ。』という事を聞いたけれども、しかしそうじゃない。『悪い事は悪い、という一線があるのだけれども、天主様はそれを、私たちを憐れんで、罪は罪で、それは罪は罪として残るけれども悪だけれども、その罪を悔やんだ時に、それを赦して下さる。それこそが本当の憐れみだ。本当の赦しだ。』という事が分かった。『そうでなければ罪を正当化する事であって、罪を否定する事であって、それは本当の憐れみではない。天主様は居て、そして私たちを憐れんで下さる。』という事がその時に分かった。」と言って、「ちょうど雪の降っている時に、その静かに雪がこんこんと降り続く時に、その英語の先生に電話をした。その時に英語の先生は、『じゃあ、一緒に会って話そう。天主様は私たちに静かに話をして下さる。ちょうどこの雪のように、静かに話をして下さる』と言ってくれた。」

彼がその英語の先生に、「僕はイスラムじゃなくて、カトリックだけが正しいと思う。何故ならば、カトリックでは離婚ができないからだ、もしも自分が結婚するならカトリックで結婚したい」と言うと、その英語の先生は、「それもそうだけれども、カトリックでは他の宗教と違う点が1つある。それは、『天主様が私たちを愛して、人間となった』事だ。」

「そう言って、先生はミサに連れて行ってくれた。そしたら、そのミサに連れて行ってくれたのが、今まで知った事のないミサで、ちょうど雪が降っているかのような静かなミサだった。ミサの時に鈴が鳴った。その鈴はちょうど、『私たちに規則があるんだ。』『天主様の規則があるんだ』『秩序があるんだ。』という事を沈黙の内に教えてくれた。最初のカトリックのミサで、その最初のカトリックのミサでは、自分の人生の色んな事が始まり、色んな事が終わりを告げた。そしてこのそこから新しい人生が始まって、そしてこの天主様の憐れみを、何故私がこのように受けたのか。そのような功徳もなかったけれども、今までの生活、酒と音楽とタバコだけの生活と全く断ち切られた、新しい生活が始まった。」という内容でした。

「イエズス様は、イエズス様の聖心の憐れみは、私たちが過去どのようなものであったとしても、良いものであったとしても悪いものであったとしても、私が罪を犯してろうが犯さなかろうが、私たちの事を無限に愛しておられて、そして私たちの為に御自分の命を、御自分の永遠の命を、永遠の喜びを与えようと愛して下さっている。憐れな罪人である私たちを愛して下さっている。」という事が、この彼の文を読んでひしひしと分かった、何か伝わってきたのです。そして何か読んでいてもう涙が出て止まりませんでした。

1週間前に私は韓国に行ってきました。韓国でソウルから田舎に、やはり巡回教会があって、そこに平日にミサをしに行くのですけれども、高速バスで移動します。そのバスの中で、ロザリオを唱えたり、聖務日課をしたり、或いは居眠りをしたりするのですけれども、そのバスの前にはテレビの画面があって、テレビスクリーンがあって、テレビでパク・クネ大統領がアフリカに行っていた映像が時々チラチラ映っていました。アフリカで何かの会議をやっていたらしくて、何かパク・クネ大統領が、アフリカの色んな大臣や偉い人を前に、演説をしていて、大臣はこう話を聞いている。

そしてその次に、韓国の有名な女優、若い女優さんがもう涙を流している姿が出て、「何で泣いてるのかなぁ。」と思ったのですけれども、この女性は話によると、韓国の「国民的妹」と言われるほど何か人気がある女優さんなんだそうです。その女優さんが、アフリカの子供たちが、ゴミの焼却場で住んでいるような子供たちがいて、そこでトラックが、ゴミを捨てていると、焼却して灰がボンボン出るのです。その中でもゴミを漁って、「食べ物がないか」と子供たちがやって来るのです。それである子は、空になったジュースの瓶から飲もうとしたりとか、或いは「このゴミを誰が分けるか」という事で、何か大人が争ってたりする映像があって出て、その女優さんがこうそれを見て涙を流している。「もしかしたらヤラセじゃないかなぁ。」などと思って、「これはテレビ局がこういう風に、いくらなんでもこの空の瓶を、こんな古いジュースをやっぱり飲まないだろうなぁ。」とも思ったのですけれども、「でももしかしたら子供だから飲むかもしれない。」などと思っていました。

そんな画面が映っていたのです。そしてすると、その次に電話番号が載って、“もしもアフリカに献金をしたい人は募金をしているので、もしも助けたい人はどうぞここにお金を送って下さい。”というのがあって、「あぁ、これを見ると、韓国の人たちはきっとたくさんアフリカにお金を送るだろうなぁ。」とそういう事を、「皆これを見ながら涙を流しながら、たくさん助けるだろうなぁ。」という風に思いました。

と、そう思ったのですけれども、同時に、ちょうどこのゴミを漁っている子供たちの姿と、自分の姿が重なってきて、「もしかしたら、このアフリカの子供たちの姿は、私たちの私の姿ではないか。地上の、もうゲヘンナに焼かれるべき、地獄の火に焼かれるべき、被造物のくだらない、腐った、もう本当は食べても飲んでもいけないようなものを漁って、それを欲しい、その為に喧嘩をして“これは俺のものだ”“お前のものだ”と言ったり、もう腐った食べ物を食べたり、罪の醜いものに愛着をしていたり、そして結局はもうそれによって体が健康が破壊されたり、或いはもう病気になったり、もう地獄の有り様、もう地獄へとまっしぐらのような私たち私の姿ではないか。」と思って、「それを王の王である、大統領ではない王であるイエズス様が、聖心を以て私たちを憐れんで、『何とかしてこの悲惨さから健康を与えたい。幸せを与えたい。何とか助けたい。』と思っているのではないか。或いは、マリア様がそのような私たちを見て、涙を流されて、『あぁ、こんなような汚い腐ったものではなくて、もっと天の、天の喜びと、天の食べ物と、天の命に満たされるように』と何か涙を流されているのではないか。」と思いました。

これもイエズス様の聖心の本当になさって下さった事から見ると、本当に影のようですけれども、でも「悲劇」はここにあるのです。アフリカの子供たちは、韓国の方から集められたお金や援助をきっと喜んで受け取る事でしょう。そして韓国の大統領と韓国の国民に感謝をする事でしょう。しかし、「イエズス様が私たちの為にして下さった愛、私たちに与えようとして下さった宝物を、多くの人が拒否して拒む」という事です。

イエズス様は私たちに全てを捧げて、自分の御血全てを、御聖体によって御自分全てを、愛し尽くして私たちに「さぁ、もっと与えたい。」と思っているにもかかわらず、私たちは私たちの大部分は、イエズス様に対して、「いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。」と言っている事です。

これは私が勝手に考えた事ではなくて、イエズス様が今から400年前に、聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、「この聖心を見よ。」と嘆いた事でした。「人類をこれほどまでに愛し、そしてこの人類の為に全てのお恵みを与えたこの聖心を見よ 。そしてこの限りのない愛の代わりにお礼として、この聖心は感謝を受けなかったどころか、その反対に、冒涜と、無関心と、忘却とを受けている。そして時には、私に愛の、特別の愛の義務のある、そして負債のある者たちからそれらを受けている。」

「もしも、」そしてイエズス様は言葉を続けて言うのです。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに言うのです、「お前はこの事を知ってもらいたい。私が人間からどれほど愛されたいか。私はそれに渇いている。もしもそのような事を知ったら、お前は私のその『愛されたい』という望み、渇きを知ったら、お前はその私の心を満たす為に、どんなものも惜しみなくするだろう。私は渇いている、『愛されたい』という事に焼き焦がれている。人類をこれほどまで愛したこの心を見よ。人類を愛する為に何の惜しんだ事が1つもないこの心を見よ。人類に対する愛を証明する為に全てをしたこの心を見よ。」

もしも私たちが誰かに親切をして、誰からもその親切が報いられなかった時に、たった1人、鼻水をたらした男の子がやって来て、「ありがとう。」と言ったとしたら、きっとこの子を「おぉ、お前いい子だな!もっと何か他に欲しいものがあるか?」鼻水を垂らしながら、「うん、これも欲しい。」とか言うと、「あぁ、そうかそうか!」と言うかもしれません。

イエズス様も、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに同じ事を言っていました、「もし、その忘恩冒涜だらけの中で、少しでも私に感謝する者があれば、私に何かする者があったら、私はその彼からのこの愛を非常に特別に思う。そしてその愛にさらに愛を以て返したいと思う。」と。

では私たちは、このイエズス様のこの聖心の愛の前に一体何をすれば良いのでしょうか?

愛には愛を以てお返し致しましょう。つまり私たちは、イエズス様の御旨を愛を以て果たす、という事と、そしてイエズス様の愛が愛されていないという事に対して、罪の償いを果たす事に致しましょう。特に今日、この聖時間は、イエズス様に対する愛を、愛で以てお返しする為に過ごす事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

天主の十戒「第八戒」ー汝偽証するなかれー心から真実を語り、舌でそしらぬ人となれ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第9回目は、第八戒「汝偽証するなかれ」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月12日 聖霊降臨後の第4主日―大阪 お説教「第八戒」

親愛なる兄弟の皆さん、
私たちはこれまで、すべての掟が命を扱っていることを見てきました。それらの掟は、永遠の命に到達するための、地上での聖なる命(人生)とはどんなものであるべきかを示す道です。それらの掟は、私たちに命の至高の作者である天主を礼拝し、私たちが受けた命の経路として両親を敬い、命そのものや、命の伝達、命を維持する手段を尊重するよう命じています。しかし今回、第八戒は命とどのような関係があるのでしょうか? 第八戒は社会的な命、社会生活を保護するのです。

人間は一人で生きるようにつくられたのではなく、他人と一緒に共同体で生きるようにつくられました。つまり、人間は「社会的」存在です。実際、生まれてすぐから、人間は自分を育て、自分を保護してくれ、自分に教育を受けさせてくれる両親を必要とします。それも長年にわたって必要とします。そのため、家族は最初にして最も自然な社会です。しかし、さらに言えば、一人の人間があらゆる技能を持っていることはあり得ませんから、人間は各自が他人の技能による助けを必要とします。ですから、農民であったり、建設業者であったり、衣服を製造したり、医者であったり、教師であったりするなどです。従って、人間は他の人間と共に社会の中で生きる必要があります。また、こういった違いや相互の必要性は、私たちが愛徳を実践するように、天主によって意図されたのです。各自が、天主がその人に与え給うた技能によって、他人に利益を提供するのです。

社会での生活は、個人と個人の意思の伝達を必要とします。人間は単なる動物ではないため、感覚で知ることのできる命を持つだけでなく、さらに重要であるのは知的な命を持つことです。人間の意思の伝達は単に感覚的レベルだけでなく、知的レベルにあることが欠かせません。それは霊魂の働きである心で思ったこと、概念の伝達です。でも、自分の概念を心で直接他人に伝達することはできません。私たちは天使ではありません。天使ならそれができますが、私たちにはできません! このように、人間は自分の心の中の概念を、感覚で知ることのできるものである言葉というものによって表現します。これが人間の言語です。同じ心の中の概念を、いろいろな言語で表現することができます。言語は概念を表す単なる記号に過ぎません。さてここで、これらの記号は偽りではなく真実であることが不可欠です。

うそをつくこと、思っていることと反対のことを言うこと、これは社会生活に不可欠である意思の伝達を台無しにします。仲間を信頼できないなら、その人は独りぼっちになってしまいます。皆さんの周りが皆うそつきだったら、皆さんはもはや信頼できる人はおらず、独りぼっちです。このように、うそをつくことは社会生活を台無しにします。従って、聖パウロは言います。「だから偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロが、真実を話す義務と、私たちは独りぼっちではなく、「互いに肢体」であるという事実を、どれほど強く関連づけているかを見てください。

永遠の命は正直な人間に約束されています。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行い、心から真実を語り、舌でそしらぬ人。隣人(となりびと)に悪をせず、ののしらぬ人。主に見捨てられた者をあなどり、主を恐れる者を尊ぶ人。友に誓ったことを破らず、利息をとって金を貸さず、賄賂を取って罪なき人に損害をかけぬ人。こう言う人は永遠に揺らぐまい」(詩篇14章1-5節)。また、イザヤが同じことを言います。「正義を歩む者、まことをもって話す人、強奪した物を退ける人、手を振って、賄賂を取らない人、耳をふさいで、血なまぐさいことを聞かない人、目を閉じて、悪を見ない人、この人たちは高いところに住」(イザヤ33章15-16節)む。「彼の口には忠実の教えがあり、そのくちびるには悪がなかった」(マラキア2章6節)。

聖アウグスティヌスは、うそをつくことは常に罪であり決して許されない、と教えています。しかし、それが常に大罪だという訳ではありません。隣人に対して深刻な害がなされたのでないなら、それは小罪です。でも、それは罪であって、うそをつくべきではありません。しでかしてしまった失敗を隠すためにうそをつく場合(例えば、生徒が宿題をするのを忘れ、言い訳として作り話をする場合)、 第一の悪に第二の悪を加えるのです。これは決して良い解決法ではありません! 良い解決法は、「第一の罪を告白」した上で、二度とその罪を犯さず、その償いをするという固い決心を持つことです。

しかし、うそが隣人に対して深刻な害を及ぼす場合、それは大罪です。それは例えば、商売で詐取したり騙したりすることで起こり得ます(第七戒と第八戒に反する二つの罪)。しかしまた、中傷によって他人の評判に深刻な害を及ぼす場合にも起こり得ます。中傷(または言葉による名誉棄損)とは、その人が犯していない罪でその人を非難することです。これはまた、他人の罪を誇張する場合に起こり得ます。誇張されていれば、それは偽りであり、従って名誉毀損になります。気を付けてください。人が他人によって傷つけられたとき、その人はそのことを誇張し、傷つけてきた相手を実際よりも悪く見せようとしがちです。ですから、自分を抑えるよう気を付けなければなりません。強く非難するのではなく控えめにし、非難するのは確実であって疑いのない場合だけにとどめるのが、常に、より安全です。そして、すぐに赦すべきであり、隣人に対して恨みを持ち続けるべきではありません。

中傷と関連しているのが、悪口の罪です。それ自体はうそではありませんが、誰かの隠された罪を理由もなく人に知られるようにすることです。でも、それは罪です。なぜなら、悪を拡散させ、状況をさらに悪くするからです。いくつかのケースでは、誰かの罪を公表することが許されます。しかし、その場合、常にそれに釣り合った善い目的が必要です。許されるのは例えば、犯罪者の矯正を実現するためです。ですから、隣人が、悪いことをしている子どもを目撃した場合、その隣人はその子どもの親にそれを報告することが許されますが、そうするのは腹いせや悪意からではなく、はっきりとその子どもの善のためであるべきです。あるいは、教師が子どもを虐待している人物である場合、親は学校当局や他の親たちに自分たちの子どもが被害を受けないよう警告することが許されます(また、すべきです)。しかし、その状況にまったく関係のない第三者にその悪について話すことは許されません。話せば、悪口の罪になるでしょう。善が知られる価値があるのと同じほどには、悪は知られる価値はありませんから、周囲に広がらないようにすべきです。

もっと低いレベルでは、うわさ話をするという罪があります。それは、公に知られた他人の罪について話すことです。そのことはすでに公になっているため、そのうわさ話をすることは、その内容を知らせることではありません。しかし、他人の悪について話をすることで満足感を得るのは悪いことです。このことは、公人の罪が新聞で報道されるときに起こり得ます(新聞記者であって、うわさ話の罪を避けることは困難です!)。もっと限定されたレベルでは、職場や隣人などの間でのうわさ話があり得ます。これは良くありません! 私が言う意味は、周囲で起きていることを見ないようにすべきだというのではなく、聖パウロが次のように言っていることです。「すべて徳を立てるためにしなければならぬ」(コリント前書14章26節)。何かを言うことが徳を立てないなら、それを言うべきではありません。

聖トマス・アクィナスは第八戒に反する罪に、あと二つの罪を付け加えています。まず、「いいふらすこと」、これはすなわち、友人たちの間に疑いや不和を引き起こすことであり、従って友情を引き裂いて傷つけるのです。これは、家族の間にある友愛に害を及ぼす場合、特に夫婦の関係に害を及ぼす場合、とりわけ悪いものになり得ます。第二の罪は嘲笑の罪であり、これは隣人を尊ぶべきことに反しています。他人をからかうことは良くありません。

預言者ザカリアは言います。「おまえたちが、守らねばならないのは、互いに真実を語り、門で平和の裁きを行うことである」(ザカリア8章16節)。これらの言葉で彼は、真理が特に必要とされているのは裁判である、法廷であると明確にしています。そして、これがもっと正確な第八戒の目的です。実際、掟は広く適用されるよう意図されていますが、掟は通常、特別な領域での主要な罪を禁じています。ですから、第六戒は貞潔の徳を守ることが意図されており、貞潔に反するすべての罪を禁じていますが、直接的には主要な罪である姦淫を禁じています。そのため、第八戒は直接的には偽証を禁じています。偽証は法廷外においてよりも、法廷内で行われる方がずっと重い罪であることは明らかです。

法廷は危険なところです! 聖トマスは説明します。裁判官の側に罪があり得るのは、裁判官が賄賂を取って判決をねじ曲げ、天主の法や国家の正しい法律を適用しないときです。検察官の側に罪があり得るのは、検察官が偽って訴追したり(第八戒によって直接禁じられています)、悪事を行う者を起訴しなかったりしたときであり、賄賂のせいであっても脅迫に屈していても、その結果は悪事を行う危険な者に反社会的な犯罪を犯し続けることを許してしまうことになるからです。被告の側に罪があり得るのは、自分が行ったことを偽って否定したり、他人に対する自分の過ちを認めなかったりするときです。証人の側に罪があり得るのは、特に偽りの証言をしたり、するべき証言をしなかったりして、無実の者を有罪にさせたり悪事を行う者が放免されるのを助けたりするときです。弁護人の側に罪があり得るのは、特にどんな種類の偽りであってもそれを使ったり、単に悪の原因を擁護したりして、悪事を行う者を助けるときです。

しかし、正義は素晴らしい善であり、良きかつ正直な裁判官は多くの善を行うことができます。例えば、イングランドの大法官だった聖トマス・モアです。彼は国王ヘンリー八世によって殉教しました。彼は最後まで正直であり、真理を守り抜いたのです!

聖ヤコボは、舌は体の最も小さい肢体であるが、最も邪悪なものである、と言います! 舌に関する聖ヤコボの一章全体を、第八戒に関連して考察することが非常に重要です。「私たちはみな多くの点で道を踏み外す者である。言葉を踏み外さない人は完全な人であって、全身にくつわをつけることのできる人である。私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。また船を考えよ。形は大きくて強い風に押されているが、小さい舵によって操る人の思いのままに操縦される。同様に舌も小さい部分であるが、大事にすると誇ってよい。大きな森を燃やすために、ほんの小さな火で足りることを考えよ。舌は火であって不義のかたまりである。舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして地獄から火をつけられ、一生の車輪を燃やすのである。獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって死の毒に満ちている。それによって私たちは主なる父を賛美し、またそれによって天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から賛美と呪いが出る。しかし兄弟たちよ、そうであってはならない。泉が同じ口を通して甘い水と苦い水を出すだろうか。兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブを、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶだろうか。同様に塩辛い泉は甘い水を出せない。あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。しかし。心で苦々しい熱心と争いを好んでいるのなら、自らを誇らず、また真理に背いて偽るな。その知識は上から下るものではなく、地上的な情欲的な悪魔的なものである。ねたみと争いの心のあるところには乱れとすべての悪がある。上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである。義の実は平和を行う人々のために、平和のうちにまかれるものである」(ヤコボ3章2-18節)。

私たちの主イエズス・キリストは真理(ヨハネ14章6節)であり、真理のみ言葉であって、「恩寵と真理に満ちておられ」(ヨハネ1章14節)ます。主はピラトに言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主に請い求めましょう、主のための、真理のための偉大なる愛を、そして真理を語り決して偽りを言わない恩寵を! 実際、私たちの主は悪魔について言われました。「彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。(対立する)二つの陣営は明らかです。ですから私たちは、キリストの陣営につき、悪魔の陣営に対抗することを固い決意で選びます。私たちは真理に従い、あらゆる偽りを避けることを選ぶのです!

聖霊は、「父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。これは、最も正しい証言です! 「その方つまり真理の霊が来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導かれるであろう。それは、自らを語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。聖霊は、私たちにこう教えてくださいます。「真理にあって愛により、すべてにおいてかしらであるキリストによって成長するためである」(エフェゾ4章15節)。

童貞聖マリアは常に、ほかの誰よりも、愛徳において真理を行われました。これが、聖母がまったく光の中におられ、まったく汚れなき方である理由です。聖母を通じて祈りましょう。私たちが真理を愛し、真理を実践することができ、そうすることで、天国で永遠の真理を観想すること、見つめることが許されますように! アーメン。

2016年秋田巡礼のアンケートコメントをご紹介します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の秋田巡礼参加者からのアンケートコメントをご紹介します。

すでに巡礼者の方々がコメントを寄せて下さっています。 メールで受けた感想などはすでにご紹介いたしました。

多くの方々が満足され、全ては聖母の汚れなき御心が計らって下さったことだと感謝しています。

巡礼者の方々と一緒に、シュテーリン神父様、そして巡礼を準備して下さったスタッフの方々に心からのお礼を申し上げます。ミサ聖祭において、ロザリオにおいて、お祈り申し上げます。天主様が、何百倍もの報いを与えて下さいますように!!

長崎の部のアンケートについては、別にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


===== 秋田巡礼2016 感想・コメント =====

【1】 今回の巡礼で一番心に残ったこと、一番良かったこと、一番印象深かったことは何ですか? 
                    
・司祭3名による荘厳ミサが良かったです。講話も素晴らしく、感謝でいっぱいです。秋田の聖母への坂道の行列も登っていく感じで良かったです。

・都合がつかず聖伝のミサも講話もあまり参加できず残念でした。しかしシュテーリン神父様、小野田神父様、もうひとりの神父様(お名前失念いたしました。)方のお話等、側にいらっしゃるだけで身も引き締まり、日頃の生活や態度を省みることができました。デオ・グラチアス!

・今回の巡礼に与り、聖ピオ十世会の信徒の方々の交友を深めることができたか?について、あまり人と話すのが苦手ですが、皆さん良い人ですね。ホテルの食事は美味しかったです。聖ピオ十世会の秋田巡礼を友人に色々教えたいです。今回秋田巡礼に行く事を所属教会の神父様に話したら、「行ってらっしゃい。」と喜んでました。職場のおかみさんも喜んでました。帰ったら、神父様とおかみさんに「よかった」と話したいです。代母さんにも言おうと思います。

・今回の巡礼で30度の御ミサに与るお恵みを心から感謝いたします。その全てを自分と自分に委ねられた人々の救霊のためにもお捧げできました。

・バスの座席が足らなくなってしまって、一部の方に別の車で移動してもらって気の毒でした。

・せめて秋田巡礼だけでも参加してくれたら良いなあと思っていたら、弟夫婦が長崎秋田巡礼の全日程に参加したこと。夫婦で30度の御ミサに与り、計り知れないお恵みを頂いたこと。弟夫婦がインマクラータの騎士になれたこと。弟が全ての御ミサ(交代はありましたが)を務めることができたこと。インマクラータにどんな感謝の言葉をもっても、感謝しきれません。

・今回の巡礼で、30度のミサに与ることができた。

・巡礼期間中の毎日の御ミサ、素晴らしい荘厳ミサ、ベネディクション、マリア様の前で聖なる神父様方と黙想しながら、ロザリオを捧げることができたこと。十字架の道行などなど・・・10回目にもお呼びくださったマリア様に感謝いたします。

・Beautiful choir and organ

・シュテーリン神父様の講話。あわれみの御母。

・今回の巡礼中、困ったことは、日本語が聞き取りにくいところがあった。

・バスの移動について、雰囲気は良かったが、席不足。

・久しぶりに告解ができて、とても良い記聞になりました。無原罪の聖母の騎士になれたこと。

・シュテーリン神父様の講話が心に残りました。

・Spiritual talks, Presence of Our Lady of the convent.

・The singing of hymns

・天主のあわれみ、あわれみの御母の講話。あわれみの聖年の意味が理解できた。

・シュテーリン神父様の御講話の天主様のあわれみ、マリア様のあわれみ、マリア様のご謙遜などのお話を聞いてから、聖体奉仕会のマリア様の所にお祈りに行けた事。フォルティン神父様が秋田に来たいと仰ってくださり、来てくださった事。

・Very excellent choir / sublimity / novelty

・Private prayers especially at the vigil

・During the mass especially when the choir sing the prayer of the mass with the clarity on the words and the Gregorian notes was well read by the choir, as if I was in Heaven during the mass and most of the Japanese knows how to sing also in the choir.

・シュテーリン神父様の講話、「謙遜」の意味を今まで長い間誤解していたことに気づき、目からうろこでした。また長崎~秋田というルートを通して殉教者達と彼らの進行を学んで、マリア様の偉大さ、そのような方々が私たちに母として与えられたという事実に深く感動しました。

・荘厳ミサに3回も与れる御恵みを頂けて。日々非常な御恵みの聖なる至福の御ミサに3回ずつ与る御恵みを頂けまして。聖なる神父様方が御3人も。御一緒くださいまして本当に嬉しかったです。

・同じカトリックの新ミサとの違いがわかった事。

・シュテーリン神父様の御説教はとても深いものです。深く考えさせられました。でもシュテーリン神父様に、秋田で神様が教えようとした共贖の教理と101回の涙との関係に気がついて欲しい。聖母の苦しみの意味と101回の涙の関係がどのように秋田で天使によって説明されたかと秋田の出来事と創世記の3章15節の関わりが、どのように説明されているかに気がついて欲しい。されにもっと巡礼が豊かな見を結ぶでしょう。

・to be able to pray and visit Our Lady of Akita

・The most memorable impressive of best activity in this pilgrimage was walk to the convent of the stations of the cross, spiritual talks rosary.

・TO MEET OTHER WAPONS AND BE THEIR NEW FOUND FRIEND

・Everything!

・秋田に殉教者が多かったことに驚かされた。

・初めてでしたけど、ミサにも講話にもすぐに溶け込めました。12才まで背面ミサでラテン語でしたので、なつかしかったです。講話でもとても力を頂いた。(巡礼のプログラムについて)とても良いプログラムでした。すべてのお説教がすばらしかった。もっと講話が聞きたいほど良かった。すべてすばらしい聖歌でした。湯沢台の聖母を巡礼し、祈り、道行、講話、どれもすばらしかった。ロザリオ行進も感動でした。
(修道院での皆でのロザリオについて)とてもふさわしく祈りの良い時間でした。湯沢台での道行を楽しみにしてました。すばらしいプログラムでした。尊い御聖体の前で祈り賛美できて感謝です。(ホテルでの食事について)とてもおいしく感激しました。(宿泊施設について)森に囲まれ静かで毎日そうじが入り、使いやすいお部屋でした。(巡礼中困ったことはなかったかについて)とても親切に声をかけてくださったり、声をかけやすかった。(巡礼のしおりについて)3冊ともすばらしい編集でわかりやすく、よく調べられて感動でした。
(巡礼の特別冊子について)とてもわかりやすく、たくさんの事を学べました。(巡礼の参加費について)日割りになっていて、都合で日程をかえられて助かりました。(聖ピオ十世会の秋田巡礼を友人に推薦したいですか)すばらしい聖伝ミサと講話で人にすすめたい。
聖伝ミサがすばたしかった。聖歌もきれいではもってコーラスの時は涙がでました。感動でした。講話の「天主のあわれみと正義」「御母のけんそん」の話が心にひびき力を頂きました。

・The Stations of the Cross in the garden. The hole program was very rewarding ・・・. Both Nagasaki and Akita are powerful places where the grace of God poured down and our prayers were collected in Heaven.
Please pray the Station of the Cross on a Friday. The choir singing was angelic!
EVERYHTING WAS VERY ORGANIZED!!! THANK YOU VERY MUCH FOR THIS WONDERFUL PILGRIMAGE I WILL KEEP IN THE MEMORY ALWAYS. GOD BLESS YOU!!!

・点数が少しきびしいのは、自分が足りなかった意味であります。スタッフのみなさま、神父様、信者様は5点満点です!

・霊的講話で謙遜の事を良く理解できました。

・マリア様のご像にお会いしに行くことができたこと。皆一致してマリア様を讃美したこと。素晴らしいお説教をお聴きしたこと等。

・夜中までの御聖体顕示式と聖体礼拝について)個人的には「5」ですが、御聖体顕示式はハードスケジュールすぎるとおっしゃっている方の声を聞きました。祈っている人をまたいで席を立てるのは少数なので、9時ちょっと前に一度区切りをつけたほうがよかったと思います。

・ユーモアを交えながらの心に響くシュテーリン神父様の素晴らしいお話を通して、あわれみの御母を身近に感じられるようになったこと。「天主のさまざまの恩寵のよき分配者」(きょうの書簡使徒聖ペトロ)にならせて頂きたいという想いを抱くようになったこと。

・I would like to commend & thank the Japanese organizers who took so much trouble & effort to make our pilgrimage possible & comfortable. God bless you!!

・シュテーリン神父様の霊的講話(特にけんそん)

・日本でのカトリックの歴史などを知る事が出来てとてもよかったです。長崎では永井隆さんの如己堂が一番印象深かったです。秋田では十字架の道行きはもちろんですが、シュテーリン神父様の講話がとても良かったです。

・御ミサがたくさんあって良かった。講話がどれも心に残りました。「あわれみ」

・Benediction シュテーリン神父様のお話。小野田神父様の通訳。

・3 Masses – daily

・シュテーリン神父様の霊的講話がとてもすばらしくて、バスの中で思い出して涙するほど感動し、信仰・・・カトリック信仰とは何かということを、今回初めて教えていただいたと感じています。この喜びは口では表現しきれないほどで、巡礼から帰ったら、ゆっくりと味わい直して、まわりに祈りの中で伝えられるようにしたいです。本当にありがとうございます。

・Praying the rosary before the image of Our Lady of Akita

・-prayer time in front of OUR LADY of AKITA- Thanks so much, that each day also time for silent prayer was included! – Father Stehlin’s conferences which really raised me up spiritually! - -The wonderful community of all these wonderful people! THANK YOU SO MUCH AND GOD BLESS YOU ALL!!!-

・The whole pilgrimage to Akita is the best & memorable pilgrimage I experienced in my whole life. It might be my first & last because of financial difficulties unless Our Lady of Akita will allow me to come here again.

・The Station of the Cross, Although it is solemn & everybody participated, the cobble stones are too rough for my knees, Hope you can provide some kneeling pads next time especially for the senior citizens, or at least announce before we go to the convent so that pilgrims will come prepared of jackets ( telling people of weather conditions) and kneeling pad or some sort of towels to protect the kneels when kneeling.



【2】 今回の巡礼について何かコメントがありましたら、お書きください。
                                     
・聖堂入口のドアのきしみが少し気になりました。

【お返事】
(^^:)

・2週間位まえより、自立神経を病み、目を開けるのもつらかったです。告解してもらいました。行く事が出来て良かったです。少しずつ元気が出てきました。又行く時に代母さんや受付けのおねえさんも誘えたらなあと思いました。神父様も。素敵な講話聞けてうれしかったです。

・10周年に全くふさわしい、インマクラータの準備された聖なる巡礼でした。シュテーリン神父様、通訳を10日間してくださった小野田神父様、どんなにお忙しいなか、しおりの英訳もしてくださった小野田神父様、柔和なフォルティン神父様に心から感謝申し上げます。この巡礼とこの巡礼を与えてくださった天主様に感謝!インマータに感謝!聖ヨゼフに感謝!聖コルベ神父様に感謝!日本の尊き殉教者に感謝申し上げます。10回目も私たちをお招きくださり、参加させてくださったインマクラータに、秋田の聖母マリア様に心から感謝申し上げます。

・しおりの忘れ物、紛失が度々あったので必ず名前を書くように記名欄を作ったらどうでしょうか?

・フィリピンやシンガポール、ドイツの方と交流が持てたので楽しかった。また終課、聖体礼拝が何十年ぶりかに与れて、外国の方がよく祈ったり、歌ったり、よくできることにに驚いた。

・準備や進行など、ありがとうございました。

・Continue the good work. God Bless you!

・No comments, everything is excellent. Thanks!

・ご聖櫃に御聖体のある聖堂を、全日利用できたことに感謝。

・今回は秋田巡礼10周年記念として長崎からのロングスケジュールでしたが、忙しい中日本の為に、長い時間と労力を割いてくださったシュテーリン神父様、日本語への通訳や引率を全力でいつも遂行して下さった小野田神父様、そして日本に来てくださったフォルティン神父様、この巡礼の為に準備をして下さった全ての方々に、心から感謝とお祈りを申し上げます。とても素晴らしい巡礼でした。本当にありがとうございました!!デオ・グラチアス!!

・I hope a prayer before the mass I offered to honor of St. Joseph.

・3度の荘厳ミサ、1日3回の講話、ロザリオ、ベネディクション等、盛りだくさんの内容で、とても信仰が深められた、とても良い4泊5日でした。天主様の憐れみに深く感謝することができますように、マリア様の元に迷わず参りたいと思います。毎年すばらしい巡礼をご準備下さる神父様、マネージャーの方々に心から感謝いたします。デオ・グラチアス!!

・シュテーリン神父様が聖母マリア様を深く御講話くださいまして、とても嬉しかったです。本当に素晴らしい御企画をトマス・マリア小野田圭志神父様に感謝いたします。大変な本当に有難い御準備、素晴らしいお花、ヨゼフさんご家族様、毎年ですが、本当に有難うございます。本当に御優しい天主イエズス様、聖母マリア様、聖ヨゼフ様感謝いたします。

・PLEASE CONTINUE AND REMAIN THEIS KIND OF ACTIVITIES.

・バスの座席数の不足

【お返事】
これからはますます多くの巡礼者を募ってバスを数台出したいですね!


・ぜひまた参加したい。本当のミサに与ったように感じて、天主のあわれみ、正義につつまれたように思いました。初めての参加でしたが、聖伝ミサにも講話にもすぐに溶けこんで、感動の連続で、また参加したいです。

・できれば1回のミサを夕方にまわしてほしい。

・私も謙遜になりマリア様の御憐れみをいただきたい。マリア様と完全に一致して生きたい。そのため努力する決意をしました。

・善意の人たちの集まりは、それぞれ悪気がないだけにやっかいです。ただ参加するだけの私たちとは違い、いろいろとご苦労があると思います。心からの感謝と祈りのうちに。

・秋田巡礼としては最長の10日間。大変な事も多かったですが、とても実りのある巡礼でした。

・長崎と秋田と今回は長い期間の巡礼となりましたが、普段よりたくさんの御ミサにもあずかることができ、とても充実した巡礼になりました。そしてこの巡礼を影で支えて頂いた多くの方に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。お疲れ様でした。

・ありがとうございました。御ミサをありがとうございました。講話をありがとうございました。しおりやホテル、巡礼地もろもろ準備をありがとうございました。各行き先のスタッフの方々ありがとうございました。

・御聖体拝領がいつできるのか?いつするべきか?はっきり明確に教えてほしい。

・小野田神父様、私たち、いえ迷える子羊の私を、巡礼に誘ってくださってありがとうございます。小野田神父様は本当の神父様だとあらためて感動の中で確信できました!!!本当に激務の中めんどうをみてくださりありがとうございます。スタッフのヨゼフ家の皆様、ご迷惑をどれほどおかけしたことでしょう。申し訳なく思っています。そしてこんなにすばらしい巡礼を10年も続けられてきたということに驚き、心からお世話になったことを感謝申し上げます。

・Please include in Booklet No.1 the following
1. Prayers before mass
2. Prayers after holy communion
3. Adoration of the Blessed Sacrament Prayers

・I didn’t notice at first ( because I had already read two books about Akita I didn’t look for information), but is it possible , that no information about Akita is included in the guide book? MAY OUR LADY OF AKITA PROTECT AND LEAD YOU TO HEAVEN!!!

・In this pilgrimage, I learned a lot about the great Mercy of God & Our Lady. All the topics that Fr. Stehlin talks during the conferences directed me to a deeper devotion to the Sacred Heart of Jesus and to the Immaculate Heart of Mary. Deo Gratias Fr. Stehlin, Fr. Onoda & Fr. Fortin for this great privilege to be among the pilgrims during the Akita Pilgrimage and Deo Gratias Our Lady of Akita for allowing me to come here to Akita to see you in your convent.

・Good Work, well organized. Keep it up!!! Congratulations. Some points to consider also is that during the spiritual talk “ can the speaker (in English) finish all his speech & talk first before the Japanese translation so that the impact or momentum of the message is not confusing to the listeners & be conveyed to the pilgrims easily.

・I would like to commend & thank the Japanese organizers who took so much

・PLEASE CONTINUE AND REMAIN THIS KIND OF ACTIVITIES.


2016年長崎巡礼のアンケートコメントをご紹介します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は、聖ピオ十世会日本では、長崎と秋田とに巡礼に参りました。今回は、長崎巡礼の部のアンケートのコメントをご紹介します。

大阪の信徒の方々とだけでは、以前、長崎に巡礼に行ったことがありましたが、こうして国際的な規模で聖ピオ十世会として長崎に行ったのは初めてでした。

日本のカトリック教会の歴史の深さ、長崎の素晴らしさと豊かさを、私たちは改めて認識しました。

多くの巡礼者の方々が、充実した時を過ごし、祈りと黙想と恵みに満ちた巡礼を過ごすことができて、聖母の汚れなき御心に感謝します。外国からの巡礼者の方々にとっては、お土産を買う時間があまりなかったことだけが残念だったようです。

すばらしい巡礼にして下さった聖母マリアさまに感謝すると同時に、この巡礼の準備のために多くの時間を使いお世話をして下さったスタッフの方々には重ね重ねお礼を申し上げたいと思います。特にすばらしいしおりには特別の感謝を申し上げます。天主様が、聖母マリア様が、何百倍もの報いを与えて下さいますように!

ほとんどの方々が、来年もまた巡礼に行きたいとおっしゃって下さって心から幸福に感じます。

すでに巡礼者の方々がコメントを寄せて下さっています。 メールで受けた感想などはすでにご紹介いたしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 ===== 長崎巡礼2016  感想・コメント =====

【1】 今回の巡礼で一番心に残ったこと、一番良かったこと、一番印象深かったことは何ですか?

・浦上天主堂、大浦天主堂は心が静まる聖堂でした。

・聖ピオ十世会も大浦天主堂のような教会を建立出来たら良いと思いました。

【お返事】
本当にそうですね!(^^)v

・長崎にこれほど多くの殉教者のいたことに驚いた。また、あれほど多くの原爆投下予定地があったことにも驚いた。

・4日間本当に充実した日々でした。いかに日常生活で時間を無駄にして来たか反省しきりです。もっともっと沢山祈らなければと思います。教会があまりにも変わってしまい、戸惑っていましたが、しっかりと信仰をもって生きなければと思います。世界中が孕んの時代です。自然災害や戦争やテロにいつ巻き込まれるか、死は紙一重のところにあると思います。島原の乱は300年以上前のことですが、今の日本に通ずると思います。民衆が圧政に苦しむのはいつの世も変わらないと思いました。印象深く、心に残った所(雲仙地獄、如己堂、西坂の丘、原爆資料館)

・全てにおいて良かったと思います。日本人として殉教者のことを知らなかった自分を恥ずかしく思いました。

・殉教者方、禁教下、司祭不在の250年の間信仰を10代に渡って守ったキリシタンも、原爆をうけてもキリスト信者として多くの苦しみを犠牲として天主に捧げた人々も、無原罪の園とコルベ神父様も、そして今の私たちも、インマクラータ(聖母)、マリア様に全てを委ね、マリア様の望まれることだけをすれば、私のようなみじめな者でも、マリア様を通して、全ての恵みをいただけることを確信しました。

・聖なる殉教者の方々のイエズス様。御聖体への本当に深い信仰と愛を迫害する人々への許しの心がとても心に残りました。微笑。聖マリア様が微笑んでくださって本当に近くに居てくださるので微笑むことがおできになられたのだろうなあと思いました。聖コルベ神父様も永井博士も本当に清貧を生きられたのだなあ、聖母様への深い愛によって、完徳に達せられたのだなあと思いました。

・今日の実際を詳しく聞いて、その地を訪れ、今まで知らなかったことを知ることができた。これほど多くのカトリック信者が殉教していたことに驚いた。マリア様の取次ぎにより、このようなことがなされたということが大きなポイントと教えられて、いっそうマリア様の子供としてくださったことに感謝し、より頼み、自分の無と惨めさを捧げるしかないと思った。

・神父様方、準備をし、世話役をしてくださった方々に感謝です。ありがとうございました。

・I am delighted to see the sights of nature, appreciating God’s creation.

・to know the lives of martyrs in Japan that enlighten you.

・霊丘公園、有明会への巡礼のように、目立たない小さな殉教地までお祈りしたことが印象に残りました。大浦天主堂は日本で一番素晴らしい教会だと思います。信徒発見時の聖母像や江戸時代と明治時代の色々な資料を見ることが出来、大変勉強になりました。

・マリア様に深く深く信頼すること。マリア様は私たちの為に天主様からお恵みを得ようと待って、招いていらっしゃるということがよく理解できました。そのようなマリア様に信頼した為に、殉教の栄冠を手にすることができ、今も天国で私たちの為に祈ってくださる祖先がいるということは、とても恵み深いことです。またそのような日本にすばらしいマリア様の使徒、コルベ神父様がいらしたことも、また恵みの深いことだと思います。天主様とマリア様のご計画の偉大さとお恵みの深さに感嘆せずにはいられませんでした。デオ・グラチアス!!

・今回巡礼で長崎を訪れたのは初めてでしたが、殉教者の地がたくさんあり、聖遺物もあり、秋田にマリア様はお現れくださり、改めて日本という国はすごい所だなあと実感しました。一番心に残ったのはやはり世界でも例を見ないほどの殉教者の数を出した西坂です。そしてこの殉教地の近くで毎日3度の御ミサ、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサに与れてとても良かったです。

・Okay.

・All activities are memorable.

・The visit to the A Bomb Museum. What happened was very depressing. A nuclear explosion should never happen ever again.

・250年もの間、7世代に渡ってカトリックの信仰を守り続けられたこと。過酷な拷問を耐え忍び、主を讃美し自分を害する者をも許しながら信仰を貫き通したこと。神父様のお話と巡礼によって、すべてマリア様の取次ぎによる大いなる恵みだということを実感できたことが一番良かったです。

・中浦ジュリアン記念館にはいつも行きたいと思ってきたので、行けなくて残念。

・聖母マリア様が母であることを、もっと深く心にしみこませたいと思った。毎晩のように巡礼のしおりの中の巡礼者たちの人生の説明を読んでいた。また神学校にあったゼノ修道士の写真の目が優しかったので(ものすごく)ロザリオを心から唱えるひとの霊魂には、神の恵みが大きく流れ込むものだと思った。聖母が信者の母であることと、秋田の101回の涙の意味の関係に深く気がついてほしい。

・長崎という地に注がれた恵みの意義深さを、シュテーリン神父様の講話で改めて深く知ることができました。「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉の通り、私たち聖伝のカトリック信者は長崎の殉教者の態度、永井隆、コルベ神父、ゼノ修道士の態度を選ばなければならないのだと悟りました。

・Visiting the city of the Immaculata and the places of martyrdom.

・About the special guide-booklet of Nagasaki Pilgrimage, very impressed! Excellent work done! God bless you!

・The various talks & conferences by the Fathers.

・長崎には何度かちいさい頃に来たことがあったが、観光でサラッっと見ただけだったので、その場所で何が行われ、どういう人物がどんな事を行ったのかと、いろんな事を勉強できて、とても有意義なものになりました。そして御ミサにも普段よりたくさんあずかれたので、すごく幸せです。

・コルベ神父様の無原罪の園。特に資料館(コルベ神父様のお部屋と直筆の手紙などが置いてある場所)が特にこころにグっとき、よく黙想でき、有意義な時間を過ごすことができた。

・巡礼のしおりのおかげで、ほんとうに良く黙想、準備ができて巡礼地をめぐることができた。

・長崎巡礼の特別冊子について、浦上天主堂の「被爆のマリア像」の元の美しい御像の貴重な写真が良かった。

・信徒発見の聖母子像の御前で巡礼団として祈ることができた。

・無原罪の園のルルドでインマクラータへの奉献の祈りを4言語で唱え、奉献を更新できた。ルルドのお水を汲んで持ち帰れた。

・雲仙地獄について、イオウの臭いだけで、殉教者に思いをはせることができた。ここに辿り着くまで歌っておられた「ラウダテ」「ミゼレレ」が聞こえてくるかのようでした。

・西坂の丘について、殉教の特別な地に接吻し、殉教者の取次ぎを願うことができた。

・島原城について、パウロ内堀やその息子たちが裁きを受け、指を切られたり、拷問をうけた、多くのキリシタンの血と汗で築きあげられた城なんだとかんじました。

・島原キリシタン記念館について、貴重な資料が多くあり、とても良かった。

・有明海への巡礼について、パウロ内堀の息子たちや、多くのキリシタンが生きながら沈められた静かな美しい海が、その拷問、殉教とあまりにも対照的に感じました。当初の予定にはなかった今村刑場跡の殉教地にも接吻し、祈りを捧げることができた。

・印象に残ったのは、西坂、雲仙、有明などの美しい自然と静けさでした。この美しい景色の中で、静けさの中で殉教者たちは想像を超える拷問を耐え、天主に苦しみと命を捧げた。そのあまりの対照に心を打たれました。その静けさの届かぬ所では、天国では殉教者たちを、両手を広げて聖母が迎えてくださり、天使の万軍、諸天使も共に喜び迎え入れ、天主の光栄のうちに永遠の喜びに入られたのだなあ。その凱旋の歌のとどろきが届かぬ静けさなのだなあと思いました。無原罪の園のルルドに初めて巡礼することができました。聖コルベ神父様についてのシュテーリン神父様の解説がすばらしく、今回の巡礼で聖コルベ神父様を今までよりも、もっと敬愛するようになりました。特に大浦のふもとの極貧の貸家に居られなくなった時、ゼノ修道士が遠い、不便な山の上に新しい土地を探して来たときに、聖コルベ神父様方がインマクラータのお望みとして忠実に従い、その後の大変な不便さ、貧しさ、労働の厳しさをお捧げしていたが故に、原爆から全く被害を受けなかったことに深く感動しました。コルベ神父様方にとって無原罪聖母の騎士の発行という最大の善を行ううえで、郵便局から遠く離れた場所に引っ越すことは、御旨と違うように思えます。このことは私たちの毎日の生活にも同じように起きていると思いました。一見道理に合わなく見えることも、前より大変になったように見えることも、インマクラータのお望みのとおりに従い、それを忍耐することで、私たちの予想を超えるご計画をされ、必ずとてつもない大きなお恵みをお与えになられることを。良き主の御母も、良きことしかなさらない、良き御母であられることを深く感じました。

・総ての巡礼地、甲乙つけがたく素晴らしいものでした。その巡礼地ごとに神父様のわかりやすいお話、説明があり、無知な私にとって天主様に感謝するのみです。

・マリアさんの「長崎の鐘」の歌声。日本のカトリックの歴史。

・一番こころに残ったこと:雲仙。 良かったこと:講話。

・St Maximiliano Kolbe’s life and Museum.

・Nishizaka, Unzen Hell were very impressive it would have been nice to **** all the walk round Unzen Hell. It is a good opportunity go talk about Hell and Purgatory.

・To be honest: the visit to Fr. Kolbe’s places – which is a rather personal matters which seems to be linked to another personal matters : Japan. To experience Japan’s catholic history not only as member of a group of Japanese catholics but as a welcome family member within fellow catholics will be unforgettable. Thank you so much for your kindness!



【2】 今回の巡礼について何かコメントがありましたら、お書きください。

・今回の巡礼を企画・運営・実行された(関係する方々)に心より感謝いたします。

・3人の神父様方、お世話してくださった方々に心から感謝いたします。特に外国から参加された方々はとても気配りがよく、高齢の私の怪我を防いでくれました。車止めに気づかず転ぶところを、とっさに支えてくれました。私の視線をよく見ていてくださったのです。感謝感激でした。

・シュテーリン神父様、小野田神父様、フォルティン神父様、ごミサ、そしてお説教、霊的講話など、素晴らしかったです。シュテーリン神父様の講話を聞いて、マリア様の所に行きたいと思わない人はきっといないと思います。頭の中がマリア様でいっぱいになって幸せでした。

・去年から今年にかけて聖年で、どの教会でも祈ることができて(本当は当然!なのですが)嬉しかったです。御御堂の十字架も長崎は正しく保たれていてホっとしました。お天気も聖母マリア様が保たせてくださいました。本当に色々な事が心に有ります。とてもとても素晴らしい長崎巡礼を聖母様、聖ヨゼフ様、きれいなお花、とてもとても大変だったと思います。色々のお手配も。ヨゼフさんご家族様にも感謝いたします。ヨゼフさん侍者様を感謝いたします。ヨゼフさんの花のお世話などもありがとうございます。今回の巡礼はいつもの巡礼より倍ほどの帰還があり、本当に本当に嬉しいです。日々3回の非常なお恵みの聖なる至福のおミサ、荘厳ミサ、それから深夜の御聖体礼拝。
聖母マリア様、聖ヨゼフ様、の御元へ。本当に本当に至福の巡礼をご企画くださいました日本の宝、トマス・マリア小野田圭志主任神父様、お忙しいなかご一緒くださいますシュテーリン管区長様、初めてお目にかかりますフォルティン神父様、本当に感謝いたします。本当に本当に御優しい吾主、天主なる天地万物の創造主なるイエズス様、感謝いたします。どうぞ聖ピオ十世会を、特に日本の聖ピオ十世会を御護りくださいませ。デオ・グラチアス!アレルヤ!

・I find that this pilgrimage to Nagasaki is little short of time for personal prayers and to cover other areas. An extra day added will be good.

・大変貴重な素晴らしい巡礼を体験させていただき深く感謝いたします。五日間ともとても良い天気に恵まれ、天主様に感謝でした。シュテーリン神父様の熱のこもったお話、小野田神父様の通訳がお見事でした。巡礼の準備をしてくださった皆様にも深く感謝します。

・長崎と神父様方や他の信徒の方々と一緒に訪ね、信仰を深めることができたことをとても感謝いたします。多くの準備が必要だったと思いますが、それを行ってくださった皆様、神父様方に心から感謝いたします。インマクラータが豊かに報いをくださいますように!デオ・グラチアス!!

・今回のこの長崎巡礼の為に大変な準備をしてくださった神父様、ヨゼフさんご一家、そしてその他のスタッフの方々に心から感謝申し上げます。無原罪のマリア様からの何万倍ものあふれる豊かなお恵みがありますようお祈り申し上げます。

・No comment – Satisfied.

・Could you give the pilgrims a half day free time.

・今回の巡礼を導いてくださった神父様、縁の下の力持ちとなって準備してくださった方々に心から感謝いたします。素晴らしい巡礼に参加させていただき、本当にどうもありがとうございました!

・今回の巡礼中、困ったことや連絡が行き届かなかったもとは無いか?で、私個人にはありません。が外国人の方には配慮が必要かと思いました。

・巡礼の冊子(NO.1)のみ、サイズが大きすぎたと思います。他の2冊と同じサイズにしていただけたらと思います。

【お返事】
今年は外国からの巡礼者のために、特別にラテン語・日本語・英語と三カ国語で対訳版のミサ典書を作りました。それが巡礼の冊子(NO.1)です。三カ国語で対訳版のために、どうしてもサイズが大きくなってしまいました。他の2冊と同じサイズだと、かえって見にくくなり使いにくくなってしまうからです。しかし、外国の方々は、今年は私たちと同じミサ典書を使うことができるようになりました。

・三人の神父様たちに心から感謝申し上げます。お忙しい中、暑い中、険しい坂道の多い長崎の街を大勢の巡礼者を率いて歩いてくださり、ありがとうございました。管区長様であるシュテーリン神父様が小野田神父様のお願いにいつも快く応えてくださるご様子に謙遜な長上の姿を見ました。

・One day, we can go to Goto & Amakusa islands where there are many catholics. Hirado as well.

・巡礼に行ったことによって、マキシミリアノ・聖コルベ神父様や、日本の殉教者たちのことが前よりよく知ることができ、もっと大好きになった。

・全てを用意し、準備してくださり、この巡礼に参加させてくださったインマクラータに感謝しきれません。またおびただしい数のキリシタンたちが、あまりにも酷すぎる拷問を耐え抜いて、天主を否むことなく殉教したことは、聖ヨゼフの階段のように、自然法則、物理法則を無視した、人体の限界、精神力の限界をはるかに超えていました。天主がなされた、天主から(聖母マリア様をとおして)与えられた超自然の力の働きによる「奇蹟」なのだとひしひしと感じました。

・海外の人が多かったので、英会話を習得しなければ・・・。全日程、御聖体のある聖堂を利用でき感謝。

・Everything was well prepared, and A big THANK-YOU to Maria for the flowers at the Altar Table and the exquisite embroidery of the Holy Spirit, St Joseph Chasuble. HONTO NI ARIGATO GOZAIMASHITA. GOD BLESS YOUR MOTHER AND ALL OF YOU.

・If possible I’d like to grant you even more than 5 points far each :-) question as everything was exceptionally super! I mean it! :-) ・・・

2016年6月17日から20日までの聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

6月の聖伝のミサのご報告です。
大阪では、土曜日にベルナデッタさんの追悼ミサを行いました。新しい聖堂では初めてのレクイエム・ミサを歌いました。ミサの後に赦祷式も行いました。

東京では、主日のミサに侍者が子供達を入れて5名で執り行われました。東京では44名の方々が聖伝のミサに与ることができ、天主様に感謝いたします。
午後の公教要理では、希望の徳について考察しました。

ところで、先日「天主は、私たちの罪の為に傷付いた御子の聖心において、 その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。2016年06月15日」をお読みになった方が、「イエズスさまがわたくしたちにしてくださっている愛について、ほんの小さな一つを思い出しました」とメッセージを下さいました。フェリーニの映画「道」を思い出したと教えて下さいました。

引用することをお許しくださいますようお願いいたします。

==引用開始==

わたくしたちがイエズス様のしてくださっている愛を拒んでいること、『いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。』と言っているところで、フェリーニの映画「道」(1954年、イタリア)を思い出しました。

わたくしはこの映画は、主人公のザンパノがジェルソミーナを愛し始めて、その思いが自分の重荷になってしまい、彼女を置き去りにしてしまったように思っていましたが、ある時、このザンパノを演じたアンソニー・クインがTVに出ていまして、この映画の話になった時、真っ先に、この映画は自分の中に芽ばえた愛を自分でどうすることもできなくなってしまった男の話なのだと言っていました。

彼は後になってジェルソミーナを探しますが、彼女は死んでいました。暗い浜辺で波に打たれて彼は泣きます。ジェルソミーナはザンパノへの天主さまからのプレゼントでしょう。そんな風に思いました。

神父様がお考えになって、あげてくださったイエズスさまのしてくださっている愛の例えのような人たち、きめ細かい配慮がゆきとどいた親切の人、命を尽くし自分を奴隷のようにもする友だち、愛を実行してくれる王子様、イエズスさまはこうした人たちのことをとても喜んでくださっていることでしょう。太陽の影のような憐れなものに過ぎず、とってもちっぽけなものだとしても、愛を実行する人、一人ひとりのその実行の中にある労苦や涙を知ってくださっているでしょう。

それは鼻水を垂らしてイエズスさまに「ありがとう」といっている少年のようにも思われました。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに仰ったイエズスさまのお言葉は、とてもすごいことだと思いました。少しでも感謝するものがあれば、それを特別なものと見てくださり、さらに愛をもってお返ししたい、とは!!お返ししきれないのはこっちなのに!!

心の柔和謙遜なるイエズス、われらをあわれみ給え!
イエズスさまがお与えくださった秘蹟、とりわけ日毎のご聖体のことを、わたくしは痛みながらいつも思います。わたくしが新ミサの洗礼を受けたカトリック教会の御聖櫃を思い出しながら・・・。

それから、先日のフェリーニの「道」で、ザンパノのことで思い出されたシーンがあります。旅の途中で日が暮れて来たので、ザンパノはそこにあった女子修道院に、小屋のようなところでよいからと無理を言って一夜の宿を願います。お礼に男手の必要な仕事をしますと言って。翌朝、修道女たちがスコップで仕事をしているのを見て、ザンパノはこれを手伝います。このザンパノを見ていて、彼は、ジェルソミーナに酷い扱いをするような男だけれども、神妙な感じになっている彼は、礼拝の心などがその態度や仕草に現され、そうした環境の育ちで染みついて、身についているのだな、と思ったものでした。わたくしの好きなシーンです。

それはミサの時にベルが鳴るのを聞いた18歳で洗礼を受けた子のお話の、秩序や規則があるのだとわかり、そこに確信と安心があるような感じのように思われました。

わたくしが洗礼を受けた新ミサの教会でも、ミサの時にベルが鳴ります、そして皆がいっせいに跪きました。今はそれがどうなったのかはわかりません・・・。
==引用終わり==

【お返事】
フェリーニの映画「道」のお話をありがとうございます。この映画について初めて知りました。お話をお伺いして、ザンパノは人類の代表、ザンパノを助けるジェルソミーナは、人類を愛するあまり知性を失ってしまったかのようなイエズス様を表しているような感じを受けました。
映画監督のフェリーニは、この映画を作成するときに出会ったジェルソミーナ役の女優と結婚したのだそうです。ザンパノから捨てられたジェルソミーナ役だった彼女は実生活でも、フェリーニから捨てられてしまったそうです。しかし彼女は最後までフェリーニのことを思い続けていたそうです。

イエズス様は、たとえ人類がイエズス様を拒否しても、私たちを捨てることなく愛して下さっている、なんと巨大な、計り知れない愛でしょうか!
新しいミサで、御聖体が軽んじられ、ないがしろにされている、それが強要されている、御聖体におけるまことの現存がもはや信じられていない、単なる「霊的な現存」にすり替えられたとしても、イエズス様は私たちが聖伝のミサに立ち戻るのを優しく待って下さっておられます。

新しいミサは、「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭に「ミサの一般的構造」というタイトルで、次のようにミサを定義しています。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」

しかし、カトリック教会のトリエント公会議は「聖変化の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と天主性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた」と教えています。

「聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血がその御霊魂と天主性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれていると言う者は排斥される」とも言っています。

残念ながら、新しいミサでは、キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは暗示さえされていません。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されています。

今では、新しいミサの聖変化の時には、跪くことが「禁止」されたと聞きました。

ヨゼフ・ジェンマさんという方の研究によると、新しいミサでは「典礼集会に現存される主に意識を向けさせるために、聖櫃の前を通過するときでも、表敬はしない」のだそうです。

こうして新しいミサでは、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっています。しかしキリストの名前のもとに集まっている集りにおいてキリストが現存し給うことと、御聖体における現実の実体的な現存とは、全く別の性質のことがらです。

「わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる」(マテオ18:20)という霊的現存だけを選んで信じているのです。

よく考えると、キリストが、その名のもとに集まっている集会の中におられるとは、集まっている間だけの現存です。

キリストの御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、現実のものとなります。

「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(新しいミサ総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)ということは、話す・聞く・理解という主観的な人間の精神的行為をしているだけのことです。

しかし、「これは私の体である」(マテオ26:26、マルコ14:22、ルカ22:19、コリント前11:24)については、客観的に、恒常的に、常にそうです。

どういうことかというと、御聖体における現存は、主観的ではなく、人間の精神活動に全くよらず、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、人間がその現存を信じていようがいまいが、人間がそれを意識していようがいまいが、人間がそれを実際に活用していようがいまいが、それに意識を向けさせていようがいまいが、主は真に、現実に、実体的に現存するということです。

御聖体における現実の現存は、御言葉における主の現存のように、それを聞いている・話している・受けているということに結びついているのではないのです。つまり「御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存しない」のではないのです。

イエズス様は、私たちが主をうち捨てて、もういらないと言っているにもかかわらず、私たちを離れずに私たちが立ち戻るのを待っています。これこそ主の憐れみです。

私たちが聖伝のミサを捨ててしまったのは、あたかも「私たちを食らい尽くそうと狙ってうろうろ回っている獅子」から襲われた子供のようです。つい数日前、アメリカのコロラド州で、5歳の男児が兄と自宅前で遊んでいると、野生のピューマに襲われたそうです。 突然叫びを聞いて、母親は駆けつけてピューマを子供から引き離したそうです。少年は顔、頭、首を負傷し、母親は手と脚に軽傷を負っただけですみ、命は助かりました。少年は父親によって病院に担ぎ込まれました。経過は良好だそうです。

私たちも、聖母の汚れなき御心に祈りをあげます。聖母マリア様は、私たちの心からの祈りの声を聞き、すぐに駆けつけて私たちを、誤謬と悪魔とから引き離して下さるでしょう。

では、ミサのご報告をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
大阪でのミサの報告をお送りいたします。

6月17日(金)司教証聖者 聖グレゴリオ・バルバディコ のミサには13名が、
6月18日(土)故 テレジアさんの追悼ミサには11名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!
土曜日の御ミサの後は、公教要理で「信仰」について勉強しました。

追悼ミサでは故テレジアさんが一刻も早く天国の永遠の幸福に入られることを祈るとともに、自分もいつ死んでも良いように準備しなければならないと感じました。
ミサ固有文を歌いながら公教会の故人への優しさ、天主様の裁き、天主様の憐みをかみしめました。

Pie Jesu Domine, dona eis requiem.


【報告】
私たちもテレジア吉崎さんのように、イエズス様のお望みの事、イエズス様を喜ばせようという事だけを考えて生き、その裁き主であるイエズス様の前に喜んで出ることができますように!そして多くの日本の方々が、死という現実の後には、天国か地獄という永遠が待っているという現実を知り、創造主であり救い主であり裁き主であるイエズス様への愛の為に生きる事ができますように!

デオ・グラチアス!


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

金曜日にしてくださったお説教がとても心に残りました。
証聖者聖グレゴリオ・バルバディコの御ミサの福音は有名なタレントのたとえで、それについて小野田神父様は、私たちに理解しやすいように、かみくだいてお教えくださいました。

「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのにたとえてもよい。」
主人から渡されたタレントは、聖寵であり、天主からの愛であることは、すでに小野田神父様から教えていただいておりました。
でもずっと疑問に思っていたことがありました。
人にはそれぞれ器があって、主人から渡されるタレントの数も違う。けれど、5タレントを受けた人や、2タレントを受けた人は、それぞれ、渡された全てのタレントを使って、それと同じ数のタレントを儲けました。5タレントから20タレントを儲けたのではないのです。ここで、どうして同じ数しか儲けていないのかと疑問をもっておりました。
受けたタレント=天主からの愛であり、他に儲けた5タレント=天主への愛なので、多いほうが良いはずなのにと。
が、この日、天主様から答えを教えていただいたようです。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=自分の全てをあますところなく使って。ということだったこと。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=受けた愛には愛をもって返す。ということだったこと。
また、1タレントを受けたしもべが、主人を恐れ、1タレントを全て使わずに埋めておいたことの意味に、天主よりも自己愛に縛られる人だと初めて気がつかされました。全く良く理解できました。

お説教では、パドゥアの聖アントニオが幼い子供だった時の美しいエピソードも教えてくださいました。
伝記は読んだことがありますが、このエピソードは知りませんでした。天主であるイエズス様が、無である私たちの愛を心をどれほど切望してくださっているかが、心に突き刺さりました。インマクラータよ、どうぞ私の心を御身の汚れ無き御手でイエズス様のリュックに入れてください!とお説教を聞きながらお祈りいたしました。毎日インマクラータにお祈りしております。

天主イエズス様の至聖なる聖心の愛を以前よりも、深く理解し、その愛に私の全てをもって私の愛をもってお応えしようと決心することができるようになりました。インマクラータの汚れ無き御心をとおして私の全てをお捧げいたします。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

乱文お許しください。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日、今日と、御ミサ、そして信仰についての公教要理など色々本当にありがとうございました!m(_ _)m
幸せな時間はあっという間でした!

御ミサが終わり、皆さんで昼食を食べた後、「O bone Jesu」 と「Stabat mater(パレストリーナ)」のポリフォニーを練習しました!

本当に御恵みの2日間でした。
デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(^O^)/
マリア様のように、諸聖人、殉教者の方々のように、頂いたタレントを全てイエズス様、天主様の為に使って増やして、愛を愛で以てお返しする事ができますように!!
信仰についての公教要理のレポートを書かせて頂きます!

1.分かった点
・信仰が第1である理由…究極の天主様を対象としており、真理を認めること、知性の上にあるから。
認めないと、求めること(希望・愛)ができないから。その秩序による為。
ただ、恐れを取り除くためや、傲慢を取り除いて素直に認めるために、剛毅の徳や謙遜の徳が先にくる事もある。

・不信仰が最大の罪である理由…「罪」とは天主から離れることであるが、天主を信じないことによって、最も天主から離れるから。
しかし不信仰にも、信仰を成り立たせる要素のどれが欠けているかによって色々種類があって、
 ・最初から反対-異教徒
 ・一部に反対-異端者
 ・信仰を捨てる-背教
という事が分かりました。

また、信者の方のご質問で、「山を動かすほどの信仰があっても、『愛』がなければ無に等しい。」「もっている全ての物を施し、私の体を焼かれるために与えても、『愛』がなければ益するところがない。(コリント第13章)」というこの『愛』が、『成聖の恩寵の状態』であるという事も今更ながらに知りました!これが、大罪の状態では、どれだけ良いことをしても全く永遠の功徳を積むことができないという事の説明だったのですね!

また、未信者の方で、とても親切な良い方もたくさんいらっしゃいますが、その方々がどれだけ良いことをしても、成聖の恩寵の状態、洗礼を受けていないが為に、天国の永遠の功徳を全く積むことができないということも、本当にもったいないなぁとも思いました。もちろん天主様は本当に善い方でいらっしゃいますので、そのような方々がした善には必ずこの世で報いて下さるでしょうけど、いつか去りゆくこの世の善は本当に儚いものですので、そのような方々が、永遠の善を受けることができるように、お祈りをたくさんしようと思いました!

2.分からなかった点
あまり色々理論的に考えた事がないので、何が分からないのか分からない状態ではありますが、ヨハネの第一の書簡第4章8節に「愛する者は神から生まれ、神を知るが、愛さない者は神を知らない」と書いてありますが、どういう意味なのでしょうか?

この「知る」とは信仰とはまた違う意味なのでしょうか?それとも信仰(天主様を知る、認める)という事にも、やはり愛が必要、愛が含まれるのでしょうか?しかし、悪魔も全知全能全善の天主様を認めて信仰がありますが、愛はありませんので、信仰にも、愛のある信仰と愛の無い信仰があるという事でしょうか?そのあたりがよく分かりませんでした(T_T)

デオ・グラチアス!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 26人(内、子供2人)
計: 44人(内、子供5人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様
ミサ聖祭後の公教要理(希望の徳を中心に)のご報告をさせていただきます。

1.これだと分かった点

いわゆる対神徳といわれる信仰、希望、愛(以下「信望愛」)の徳は、ややもするとその優先順位を相対的に理解してしまいがちですが、今回の講義で、対神徳は「信仰」から始まるというトマス・アクィナスの言説に接し、対神徳に対する自分自身の理解の度がより深まりました。(「信仰」が最も重要であると理解しました)
また、今回、希望の徳も度が過ぎると高慢になり得ること、少なすぎると絶望になってしまうことなど改めてお話しを伺い、得心するものがありました。

2.今回そうだったのかと分かった一番重要な点

「完全な愛」は「相手の幸福」を望むに対し、「不完全な愛」は「自分の幸福」を望む
という愛の完全性の違いが、非常にわかりやすく、改めて、気づかされました。
そして、天国の聖人達の「愛」は「完全な愛」であり、天国は「完全な愛」の所有者達
の世界であるということもよくわかりました。

3.今回でもよくわからない点

公教要理は奥が深く、ここがわかった、あそこがわかったとはとても言えません。
わからないところだらけで、今回もよくわからない点自体が まだ、わかっておりません。
小野田神父様の講義を通じ、少しでも理解を深めてゆきたいと思います。

デオ・グラシアス!


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

日本でのミッション、本当にありがとうございました。
御ミサと公教要理のレポートをお送りいたします。

お説教について
分かった点:
怒ることが、理性を失うことであり、不正義・冒涜・憎悪などの様々な罪に
対するドアを開けてしまうことだ、ということなので、イエズス様は、様々の罪のドアが開いてしまうことに対し最も効果のある対策として「怒るな」「兄弟におこる人は審判をうける」という掟をお与えになったこと。
イエズス様は自らおっしゃっていらっしゃるように、確かに旧約の律法を完成なさったのだと確認しました。

分からなかった点:
「怒るな」という教えは、十戒のどの掟に特に帰せられるものなのでしょうか。

講話について
分かった点:
理性は知性と意志から成り立っているということ
(公教要理の中に「理性によって天主の存在を理解する。」ということについて、今まで漠然と「ああ、そうか。」と、その程度にしか考えていなかったのですが、理性は何であるかとうことを理解すると、要理に書かれているその意味も理解できました。「怒るな」というイエズス様の掟はこの理性を守るもので、怒る人は天国へは行くことができないという掟は決して厳しいものではなく、当たり前のことをおっしゃっていらして、そして私たちが地獄へ行ってしまわないようにと常に聖心を砕いて下さるイエズス様の優しいお言葉だと思いました。)

分からなかった点:
聖トマス・アクィナス様が『神学大全』の中で、1つの命題を考察する際,天主様の視点から見ると・私たちの視点から見ると、というように幾つかの観点から1つ1つの命題を考察していらっしゃることが分かりました。これは、常に天主様が最もお望みのことと、私たちの望みが一致していない、という理解で正しいのでしょうか。

お説教と講話を通して、
小野田神父様の深い知識や、神学の理解は聖トマス・アクィナス様のようでお説教の雄弁は聖パウロ三木様のようだと思いました。!!

小野田神父様のご提案で、ライト教授の授業方式のレポート提出をするようになってから,お説教や公教要理の時間に、今まで以上に考えながら話を聞くことができるようになっています!神父様のご提案に感謝しております。カトリックの教えは本当に奥が深くて、(人間のつくったものではないので)よくよく学ぶと心底から納得・感嘆・驚嘆して、本当に感動いたします。この感動は世の他の物では感じられません。天主様に感謝致します。

また、神父様に1つ質問がございます。
仏教の焼香は、カトリック信者は避けるべきでしょうか。家族から質問を受けましたので、神父様に質問致します。礼拝は天主にのみ捧げるもので、外的礼拝行為のみだとしても避けるべき、と私は思います。家族は「先祖に捧げるもので、神に捧げるのではないのでは。」と言いますが、先祖の霊魂の安息を祈ることは良いが、これは、先祖を礼拝対象にすり替えてしまっているので良くないと答えました。私の答えは、間違ってはおりませんでしょうか。お時間ございます時にお答えいただけましたら幸いです。

お知り合いの方のお見舞いはいかがでしたでしょうか。洗礼をまだ受けられていないとお聞きしましたので、マリア様に御取次を願い、洗礼を受けられますようお祈りをしております。

小野田神父様のため、マリア様とヨゼフ様の特別の御取次を願ってお祈りしております!!
イエズス様の聖心の特別のお恵みが小野田神父様を助けてくださいますように。


【お便り】
小野田神父様、
「教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言 2016年05月28日」とこの一週間の記事を読ませていただきましたが、少しお便り申したいと思います。

「結婚が失敗に終わったものの、与えられた状況下において、非常に有徳に、ある時には英雄的に、彼らが祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまるカトリック信者たちは裏切られたと感じる。あまりに悲しくて涙が出る。」とありますが、わたくしも共に涙を流します。それには、二つのことがあります。

一つは、福音書や使徒たちの書簡にあるように、「偽教師」などに悩まされながらも、およそ二千年にわたって伝えられてきた教えが生きているカトリック教会と信じていましたが、第二ヴァチカン公会議によって、かなり大きな変化がカトリック教会にもたらされていたことを、わたくし自身が知るに至って、「騙されていたのか?と思うべきかなァ・・・?」と幾度も思いをいたしましたことと重なりますゆえに。

もう一つは、結婚の失敗によって結びついたわたくしの近しい人たちの、霊魂の救いを、毎日のように祈りますが、彼らについて祈る時、彼らは信者ではありませんが、それゆえなおさらなのですが、ここでフェレー司教さまが仰っているように、失敗や挫折を見ても、与えられたことを受け入れて行ってほしいと言う思いをいつも持ちます。そして信者の方たちの中には、苦しいい状況の中にあって、祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまる方たちがいらっしゃることを知り、共に涙したい思いですが、また一方で励まされるので嬉しくもあるのです。ですからこの記事を読んで、ゆうべはこの方たちのために祈りました。今日もそしていつも、信者になるお恵みがまだいただけていない同様な状況にあるわたくしの近親者たちのために祈る時、祈ります。まったく拙い祈りですが、祈ってお願いし聞き容れていただきたいのですからそうします。

「司祭のための祈り」が幼きイエズスの聖テレジアの作ったものだったことも昨日知りました。昨日はこの祈りをした後でこのことを知ったので、今日は聖テレジアを思いつつ祈りました。

かつてこの祈りを初めて口に出して読んだとき、悲しい思いがしました。イエズス様の至聖なる聖心のもとでは誰も彼らに悪を成すことができないのなら、いってぇ誰が彼らをきずつけやがった!?ばかたれっ!と言うような気持でした。ある神父さま方には、自分で自分を傷つけているように思われ、悲しみと怒りがありました・・・。そしてそこでしばらく止まってしまいましたが、祈りを途中でやめることは最悪なことのように思われたので、何とか最後まで声を出して読み上げました。一応跪いて祈りをしていましたから・・・。

今では、どの祈りも、その言葉に従っていくようにして祈っています。朝夕の日々の祈りの中にわたくしの汚れたものが出てきますので、実に主に対し、天に対して申し訳ないですが、祈らなかったら、天ではもっと悲しむだろうと思い、何とか縋り付かせていただいている感じがすることがあります。

以上、長くなりましたがこれでもかなり心の騒ぐのを一晩落ち着かせました。何とか何かをお伝えしたかったのです。それは悲しみの中からも喜びや励まし慰めをこのフェレー司教さまの涙と共にいただいていることをお伝えしたかったように思います。昨日は、同時に読みましたレネー神父様の第五戒から第七戒のお説教も合わせてわたくしどもの近親者たちのことと教会のことで思いが寄せては返す波のようでした。
あとは祈りの内に・・・。

小野田神父様がこのブログをしてくださったおかげで。わたくしは助けられています。感謝などいろいろなことは申しますまい・・・。ただ事実のみ今申します。


天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教
聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。

今日は2016年6月4日、初土曜日、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。
今日のこのミサの後に、いつものように公教要理を勉強しましょう。
今回は長崎の巡礼の事がどうしても忘れられずに、長崎の巡礼で一番私の記憶に残った、是非「福者中浦ジュリアン」について、もし皆さんもう一度話をする事ができればと思います。

皆さんお食事お昼の後には、ここで聖歌の練習があります。聖歌の練習をここでまた集まってやります。
せっかくのマリア様に捧げられた聖堂ですので、このこれをたくさんマリア様の讃美をより良くする事ができる為に、聖歌の練習をして下さればと思っています。

8月10日から被昇天まで、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会が開かれます。ただの聖母黙想会ではなくて、聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会で、これを指導して下さる方は世界中広しといえども、そんなに多くあるわけではありません。特にそれを深く研究されていた、聖マキシミリアノ・コルベ気違いである、失礼しました、シュテーリン神父様が、この黙想会を指導して下さるので、是非この機会に、ファチマ100周年を記念する為にも、マリア様に捧げられたこの汚れ無き御心をますます愛する私たちとしても、是非その黙想会にいらして下さる事をお願い致します。
場所は大阪です。大阪の去年した所と同じ所であります。どうぞたくさん、皆さんお友達を誘ってたくさん集まって下さい。


「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、
この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の随意ミサをしているので、マリア様の御心について、その「マリア様の御心は一体何なのか」を黙想したいと思います。

「イエズス様の聖心は愛の聖心で、私たちを永遠の昔から愛する、開かれた、傷付いた、愛に傷付いた聖心、愛するがあまり、愛に燃えるがあまり、その愛の痛みにズキズキと傷を受けたように痛む聖心であった」という事を黙想しました。

ではマリア様の御心は一体何なのでしょうか?私たちはどうして、マリア様の御心に信心があると、イエズス様の聖心に従って生きる事ができる様になるのでしょうか?何でそういう事を集祷文で祈らせているのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

皆さんも黙想をしながら、「一体、マリア様の御心とは一体何なのだろうか?」「マリア様の御心に対する信心とはどういう事を意味するのだろうか?」「イエズス様の聖心に従って生きるというのはどういう事なのだろうか?」という事を考えながら黙想なさって下さい。

昨日、イエズス様の聖心の愛に燃える聖心、傷付いた聖心を黙想して私たちは、「イエズス様の聖心が、ちょうど『美しい門』であるかのようだ。」と黙想しました。「美しい門にちょうど私たちが連れて来られて、その門に、生まれつき足なえの、生まれつき歩く事のできない、1人ではもうどうする事もできない私たちが、美しい門に連れて来られてきて、聖ペトロと聖パウロにこの乞食が願ったように、『何か憐れんで欲しい、恵んでほしい。』と願っているかのようである。」

イエズス様は仰いました、「確かに、私は羊の門である。私を通らなければ誰も父の元に行けない。私を通らない者は泥棒である、強盗である。」

ですから誰もが、この美しい門であるイエズス様を通って行かなければなりません。ちょうど愛によって傷付いて開かれた聖心は、私たちの為に開かれた門であるかのようです。「さぁこの傷口から、愛に燃える傷口から入っていらっしゃい。入って来なさい。お前たちに全てのもの与えてあげよう。私はこれほど愛している。愛に傷付いている。愛に狂っている。お前たちに与えたくて、与えたくて、与えたくて、轟々とこの愛熱の竈の様に燃えているこの門を大きく開いて、私たちがその聖心の愛の中に、入るように、入るように」と、言っています。

私たちにするべき事は、その門の前でこの乞食が、昔この使徒行録にある乞食がやったように、「そのお恵みを欲しい。」と言う事です。聖ペトロとパウロに言われたように、「イエズス様の聖名によって歩け。」と言われたら、そのイエズス様の聖名によって歩く、つまりイエズス様の、「イエズス様の御旨を行う。イエズス様のお望みの通り、イエズス様からの溢れる愛を受ける。それだけでいいのだ。ただ望みさえすれば良い。ただイエズス様から受ける愛を受けさえすれば良い。」

「問題は、『私たちがイエズス様の愛を知らない』という事であって、私たちは、『イエズス様の愛を受けようとしない。自分の事だけでいっぱいだ。自分でもう十分だ。イエズス様はもういらない。』と思っていることです。

ゴミを漁ったり、この地獄のゲヘンナの火で焼かれてしまうべき被造物にあまりにも愛着して、それから目を離さずに、それだけの事を考えて、もう腐って食べてはいけないようなものを食べて、飲んでいけないようなもの、毒を飲んで、腐ったものを飲んで食べて、それで満たす事ができない腹を満たそうとしたり、それで却って健康を害してしまったり、永遠の死に至ってしまったり、私たちのまさに悲惨な状態は、イエズス様の愛を理解しようとしない、受け入れない、そこにある。」という事を昨日黙想しました。私たちはこれをヤラセでやっているのではなくて、本当にそれをやってしまっているという事が、それが現実であるという事が、あまりにも悲惨なのでした。

その悲惨な状況を見て、「私たちは一体どうすればよいか」という時に、この初土の信心がやって来ました。マリア様は、そのような悲惨な状態を見て、天から涙を流されておられます。私たちを、私たちが健康な永遠の命を、健全な食べ物を食べる事ができるように、健康である事ができるように、永遠の命を得る事ができるように、マリア様は母として全てをされた方でした。

アダムとエワが蛇にそそのかされて、禁断の木の下で罪を犯した時に、この2人はこの地上に死をもたらしました。エワは人類の母となるべき方でしたが、実は死をもたらした母となりました。

それにちょうどその罪を償うかのように、十字架の下で、第2のアダム、第2のエワがおりました。第2のアダムは十字架に、第2のエワの実りとして、胎内の実りとして木に付けられ、あたかも盗んだ実を、果実を返済したかのように十字架に付けられ、エワは第2のエワは、第1のエワが、堕ちた天使の悪魔の声を聞いたのに反して、天主から送られた大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、主の御旨のままに全生涯を送ってきた方でした。

第2のアダムと第2のエワは2人協力して、私たちに永遠の命を与えようとされたのでした。第2のアダムの聖心と、第2のエワの御心は、心は全く1つの事を望んでいました、「天主の栄光、天主御父の栄光と、全人類の救霊」この2つです。

神学者たちによると、「全ての人類の生んだ、全ての聖人、聖女、殉教者、その全ての成聖の聖寵を集めて、全天使たちを集めてその聖寵を集めて、マリア様が最初に無原罪の御宿りの時に受けたその聖寵と比べると、そのマリア様の受けた最初に受けたお恵みの方が、全人類と全天使たちが集めたものよりもさらに大きい。」と言っています。

神学者たちによると、「更には、全ての被造物が、この世の始まりから終わりまで讃美した天主様の栄光、この天使大天使たちの何千何億何兆何京ものすごい数の天使たち、大天使たちケルビム、セラフィム、座天使、権天使、能天使、主天使、全てが集まって、全人類が集まって、多くの殉教者たち、多くの証聖者たち、博士たち、童貞、全ての聖なる教皇様と全ての人たちが集まって天主様を賛美したその栄光、また全被造物が捧げたその栄光と、マリア様が生涯捧げた栄光とを比べると、マリア様が御一人でなさって天主に捧げた栄光の方がはるかに多い。」「マリア様のその天主に捧げた栄光は大海原のようであって、それに比べて、全被造物が捧げる栄光は1滴の水であるかのようだ。」

マリア様は何故そうだったのでしょうか?何故かというと、マリア様は聖寵に充ち満ちた方であって、イエズス様から天主から受ける、天主が「与えたい」と思ったその愛と、天主が「与えたい」と思ったお恵みを全て、1つも拒否する事なく、純粋に「はい。我は主の婢女なり。」と受け、更に受け、更に受けた御方であったからです。聖霊の素晴らしい宿として準備されたのが、このマリア様の御心だったからです。

ですから、このマリア様の御心に対する信心を行うと、行えば行うほど、私たちはますますマリア様のその御心の影響を受ける事になります。マリア様の信心を行えば行うほど、私たちもマリア様に倣って、マリア様に於いて行動するようになります。するとどうしても、私たちはマリア様のそばにいるので、マリア様の御心によって「美しい門」の近くに、つまり「聖伝のミサ」の近くに、「イエズス様の十字架の生け贄」の近くに、「開かれたイエズス様の聖心」のそばにいつもいる事になります。

私たちがマリア様の信心をすればするほど、マリア様に倣って、「あぁ、マリア様が受けたように、イエズス様の聖心から来る愛とお恵みを全て、私たちも受けたい。」とますます思うようになります。

マリア様の信心をすればするほど、イエズス様の聖心にますます近寄り、イエズス様からますます受けるようになるのです。

ですから、集祷文で何故こういう風にお祈りをさせているのか、私たちはますます理解できます。

書簡で言うように、マリア様に於いて全てのお恵みがあります。道と真理の全てのお恵みがあります。マリア様は美しき愛の母であります。命と徳の全ての希望がマリア様に於いてあるからです。

マリア様は十字架の下にいつも、第2のエワとして立って、第2のアダムから宣言されました、「汝の子、ここにあり。」と。私たちに向かって、「汝の母、ここにあり。」と。イエズス様は、イエズス様の聖心はマリア様の事をそう宣言なさっています。

では、私たちは一体これから何をしなければならないでしょうか?

聖ピオ10世教皇様によると、その教皇様はその教皇様になった最初の時に、「全てをキリストにおいて復興させる。“Omnia instaurare in Christo." 」というモットーを出しましたけれども、それに続いてマリア様に対する回勅を出しました、「Ad Diem Illum」それでそこにおいて教皇様の言葉を一言でまとめると、「もしも私たちがイエズス様に対する、本当のイエズス様の聖心に対する信心を行いたいならば、マリア様の信心を、真の信心を行わなければならない。マリア様の御心に、恵みの玉座に近寄らなければならない。マリア様を母として愛さなければならない。無原罪の、汚れの無い御心に近寄らなければならない。」と教えています。

では今日は、私たちは是非その遷善の決心として、私たちは聖母の騎士の会員でもありますから、マリア様に1日1回でも、「原罪の汚れ無き宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らの為に祈り給え。」と、マリア様にお祈りする事に致しましょう。「御身により頼み奉らない者にも、フリーメイソンの会員の為にも、また御身に委ねられた者の為にも、我らの為に祈り給え。」と。マリア様の信心をますます行う事によって、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、お祈り致しましょう。

「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



もしも1人の罪人が痛悔するならば、 痛悔の必要のない99人の義人たちよりも、 大きな喜びが天国ではあるだろう。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月5日 聖霊降臨後第3主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月5日(主日) 聖霊降臨後第3主日 
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年6月5日、聖霊降臨後第3主日のミサをしております。

2つ特別のお知らせがあります。
8月10日の夕方から15日まで、聖母の、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会が大阪で企画されています。これはファチマの100周年を祝う為に、またシュテーリン神父様が聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会の専門家でもあるので、特別にお願いしてあります。是非今回、この機会に多くの方が黙想会に参加される事を願っております。是非この黙想会に参加する事ができるように、計画を立てて下さればと思っています。

9月は9月10日の主日に、ティシェ・ド・マルレ司教様が東京にいらして下さって、堅振式、それから講話をなさって下さいます。どうぞその時はたくさん皆さんいらして下さい。堅振を、聖伝のやり方によって堅振の秘蹟を受けたいという方は、どうぞ私にご連絡下さい。その堅振の受ける準備をする事に致します。


「もしも1人の罪人が痛悔するならば、痛悔の必要のない99人の義人たちよりも、大きな喜びが天国ではあるだろう。」


聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、福音の中でとても有名な、「失われた、迷子になった羊の例え話」をして下さいました。この何でそのような話をしたかというと、「イエズス様が罪人たちと一緒に食事をしている、おしゃべりをしている、楽しそうに会話をしている」という事を見て、ファリサイ人たちがそれを怒って、「何だ。彼は預言者でも義人でも何でもない。罪人と一緒に同じ事をしている。何が面白いのか。何がお食事会だ。」と言って冷たい目で非難しているのを、イエズス様は、「自分が何故こうしているか」という事を説明する為に、この例えを出しました。

そこで皆さんには今回、この今日の黙想では、イエズス様のこの燃えるような聖心の愛の火、罪人を愛する、罪人の回心を求めて、探し求めるその心を是非、同じこのイエズス様の心を私たちは知り尽くし得ません。私たちはそのイエズス様の本当の心を知ったつもりになっていますが、それでも計り知れないその望みがあります。でもその望みを少しでも味わう事ができるように、どうぞ今回は想像力と色んな考えを巡らせて、「もしも私だったらどうするだろうか。私だったらどうだろうか。どんな思いだろうか。」あれやこれや、例えを自分で見つけてどうぞ考えて下さい。イエズス様の心の気持ち、このどれほどのお気持ちがあるのか、或いはその、その心を感じる事ができるように努めてみて下さい。「イエズス様の心はこんな感じではなかったのかな。こんな事を思っただろうな。」という是非その考えを、後で私にメールで教えて下さい。

その後に、この黙想の後に、「私たちはでは一体、このようなイエズス様に何をしなければならないのか。私たちはどうするべきなのか。」という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

このちょうど今日の主日の為に、全日本は私たちの心の準備をしていたかのようです。

イエズス様は今日の主日で、まず100匹の内の1匹がいなくなった。その為に99匹をほっぽり置いても、荒れ野に置いても、その1匹を探して、一生懸命探した。「おぉーい!シロやー!おぉーい!白の子羊やー!どこにいるのかー!」声が枯れるまで探し求めた、この良き牧者の姿が目に映るようです。きっともう喉も枯れ枯れで、「メエ~。」という声を聞くと、「あっ!あそこにいるのか!?声が聞こえる!」と言ったかもしれません。

次に出たのは、同じような例えをします。今度は10枚の内に1つがなくなった、10枚の銀貨の内の1つを失くした婦人の話です。今度は100匹のうちの1匹よりも、もっと割合が少なくなっています。「一体どこにあるのか。あぁ、あの銀貨は一生懸命働いて貯めたお金なのに、あれがないとどうしようか。」と言って、もうあっちを開け、こっちを開け、もう「冷蔵庫の中にもないか、」と、色んな所を探して、「あそこでもない、ここでもない、」電気をつけて、もう家中ひっきり回しても探し出す。という話です。でも見つかったら、「あぁ!」喜ぶ、もう家中をあげて喜ぶ。という話です。

ちょうど今日、昨日やはり似た話がありました。小学校2年の男の子が、7歳の男の子が6日間、北海道で行方不明になって、日本中で、「一体この子はどうなったのか。熊に食べられたんじゃないのか。」一生懸命探して、200名の警察がもう総動員して、「どこにいるのか?どこにいるのか?おぉーい!大和くーん!おーい!いるかー!?元気かー!?おーい!返事をしろー!おーい!」と言って、もう色々な所を探し回りました。お父さんはもう、「あぁ、自分は何て事をしたんだ。あの子は生きているか、どうなったか。食べ物はあるのか。寒くて凍えてはいないか。あぁ。」と、もうオロオロオロオロして、「あぁ、俺があんな事をしなければよかった。」色々心配なさったのではないでしょうか。色んな事が頭の中に駆け巡って、「あぁ、あの子は今どうしているだろうか。あぁ、今日も1日このまま見つからずに過ぎてしまった。あぁ、これもダメだ。」日本中でも、もう北は北海道から沖縄まで、「あぁ、あの男の子は一体どうなったのか。」新聞やインターネットやテレビでも報道されて、「あぁ、一体どこにいるのか。どこにいるのか。」

しかしこの子供が、自衛隊の、陸上自衛隊の訓練施設で、風と寒さを凌いで、水を飲んで、それが見つかって、写真でもこうこのVマークで出て来て、ニッコリ笑って出て来て、「あぁ!」お父さんもお母さんも家族も、「あぁ!よかった!」と言って、「あぁ、よく見つかって良かった!良かった!」と言っているではないでしょうか。

しかしこの遭難の話も、「イエズス様がどれほど私たちを探し求めているか」というのに比べたら、太陽に映るこの影法師のように、全くうっすらとしたものでしかありません。イエズス様は私たちを探して、探して、探して、探して、探して、探して尽くしても、何とかして呼び求めて、声も枯れるほど、「おぉーい!どこにいるのかー!おぉーい!おぉーい!」と言って探している、その熱情と比べれば、何でもありません。

「え!?何を言ってるんですか。何を証拠に。」

イエズス様は、私たちに永遠の命を与える為に、全宇宙を創りました。美しい大自然を創り、きれいな山と、太陽と、花々と、動植物を創りました。

私たちはそのイエズス様から受けた、天主から受けたその恵みをほっぽり出して、「天主はいらない。」と言って、「俺はもうどっかに行く。」と言って、掟を破り、罪を犯して、もう永遠の地獄の火に落ちなければならない身となった者でした。

しかしそれにもかかわらず天主御子は、預言者をまず送って、遂には時の終わりには、御子が、天主御子が人となって、私たちと同じ生活をして、「さぁ、天国に行こう。」と呼びかけて下さっています。

そればかりではありません。私たちが犯したので私たちが払わなければならない罪の償いを、「さぁ、私が全部身に背負って払うから、もう心配しないで。さぁ私の元に来なさい。私はあなたに賠償金とか保証をするとか何か、そんな事は要求しない。ただ私の所においで。私が全て負債を払ってあげよう。」天主の御血を全て払い、全て流し尽くし、十字架の上で御命を全て、私たちの為に捧げて下さいました。これほどの恩人、これほどの友人は他にはいません。

それだけではありません。私たちと共に一緒にいたい、私たちと離れたくない、日夜一緒に居る、という事で、「1つの体になりたい。」と、御聖体さえも私たちの為に、私たちによって食べられる、食されるパンとさえなった。天主が奴隷の食べ物となり、私たちと共に日夜、世の終わりまで留まりたい、と私たちを求めています。

イエズス様は十字架の上で、「私は渇く。」と言いました。「霊魂を渇き求めている。」もしも必要であれば、イエズス様は私たちが天国の栄光、天国の命を得る為に、何千回でも何万回でも、同じ十字架の苦しみを受ける覚悟です。

天からわざわざここに探しに来ました。天使たちを天国に置いて、人となって、私たちの霊魂を探して来ました。「なんとかちゃん。どこにいるのか。天国に行こう。」

書簡書によると、「天主は私たちを、永遠の命に呼び求めた。“vocavit nos in aeternam”」とあります。この“vocavit”というのは「呼んだ、呼び求めた、探して呼んだ」ということです。イエズス様が私たちを探して、探して、「さぁ天国に、永遠の命に行く為に、さぁ私たちの元に来なさい。」と、もう声を枯れて、それでも呼びかけている、その姿が映るではないでしょうか。

イエズス様は私たちを探して一体何の、何の得があったのでしょうか?

ただ私たちを愛するがあまり、愛に、愛に傷ついて、愛するがあまり、全てを忘れてしまったかのように、狂ってしまったかのように、私たちを求めていたのです。私たちが永遠の命に導かれる為に。私たちが死なない為に。私たちが寒さで凍えてしまわないように。私たちが飢え渇きで死んでしまわないように。私たちが冷たいこの世の風で倒れてしまわないように。あたたかい天主の愛を感じる事ができるように。永遠の住処に導かれるように。御父の元で一緒に、平和に、仲良く楽しく生活する事できるように。私たちの元に探して来たのです。

私たちは一体その時に何をすれば良いのでしょうか?

ただこの、「そこに誰かいるの?」「うん。」「名前は何ていうの?」「大和。」「お腹が空いてるの?何か食べる?」「うん。」と。私たちがしなければならない事は、その探し求めてるイエズス様の元に、「あぁイエズス様、私ここにいます。見つけて下さってありがとう。イエズス様、私の父として、友として親友として、兄弟として探して下さって、私が命が助かるように探して下さってありがとう。」それでよかったのです。

日本は色んな警察とか何百人も導入しましたが、イエズス様は被造物を導入して私たちに呼びかけています。ある時は読書を通して、ある時は司祭の説教を通して、ある時はもうふと読んだ、ふと聞いたちょっとした話によって、イエズス様は、「あぁ、天主様から呼ばれている。」「天主様が真に在し給う。」「天主様は私を愛して下さっている。」と感じるように、呼びかけておられます。

聖パウロはこの事をよく知っていました。そこで、「イエズス様は、キリストは私を愛して、私の為に自分の命を全て捧げられた。」と言っています。

私のやる事は、私が今までやっていた、その飲んでいた自衛隊の水道の蛇口を飲むのをやめて、或いは凍えていたマットの中ではなくて、温かい車の中に入って、温かいお父さんの腕に抱かれて、それで自分の家に帰ればよいのです。それ以外の事は何もイエズス様は要求しません。

悲劇はどこにあるかというと、残念ながら、「イエズス様がこうして私たちを探して、私たちを求めているのにもかかわらず、それに答える人は僅かだ」という事です。イエズス様は私たちの霊魂を求めて、天から降りて来られたにもかかわらず、御聖体として私たちの元に留まっているにもかかわらず、私たちはそれを受けようとしません。イエズス様が探して来ても耳を閉ざしています。

イエズス様が、「さぁ、そんな汚いものを食べるのはやめて、さぁもっと綺麗な、健康な食べ物を食べなさい。」「さぁ、こっちの方が美味しいよ。こっちのほうが安全だ。そんな危ない所はいけない。危ないよ。」と言っても、「嫌だ。俺は俺のやり方をやる。俺の好きな事をやる。帰れ。行かない。戻らない。」「あぁ、でも日本中で皆探してるよ。」「嫌だ。出て行け。」と言って、イエズス様に心を閉ざしているのです。

イエズス様はそれでも私たちを諦めません。「何とか憐れみの、憐れみを注ごう、注ごう、」「何とか永遠の命の方に導こう、導こう、」としています。私たちはどれほど多く耳をこう閉ざして、その声を「聞かないように、聞かないように、」イエズス様の元に「行かないように、行かないように、」してきて拒み続けてきた事でしょうか。

それにもかかわらず、イエズス様は私たちを求めて、探しておられます。

私たちは何を恐れているのでしょうか?罪の生活を放棄するのを恐れているのでしょうか?イエズス様はそれよりももっと楽しい生活を、素晴らしい生活を準備して下さっています。もしも、「被造物が与える満足を、或いはコンピューターが与える罪の満足を、イエズス様が与えないから。」いや、イエズス様はそれよりももっと美しい喜びと、楽しみを、私たちに下さいます。

イエズス様が下さる愛の喜びは、私たちは体験した者でなければ言う事ができません。

聖女マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言いました。現われて、「見よ、この愛に燃えるこの聖心を見よ。しかし、この愛は誰からも感謝されていない。私が受けるのは、忘却と、軽蔑と、冒瀆だけだ。こんなにも愛しているにもかかわらず、誰も私の事を、私の呼びかけに答えてくれない。それが非常に大きな悲しみだ。」と仰っています。「でももしも、誰かが私の元に帰ってくるならば、この事に答えるならば、その声を本当に嬉しく思う。」と。

「天国で、たった1人の罪人が変わるならば、その罪の痛悔の必要のない99人よりも優って大きな喜びがある。」とはまさにこの事です。

では私たちは今回は、何をどんな遷善の決心をしなければならないでしょうか?

イエズス様の愛をどうぞ信頼なさって下さい。「イエズス様が私たちを愛して下さって、私たちの喜び、本当の幸せだけを求めている」という事をどうぞ信じて下さい。イエズス様に全てを委ねて、それにイエズス様のなさるように、お計らいのままに、これを信頼なさって下さい。私たちの過去がとても醜い、罪深いものであっても、もうぐちゃぐちゃであったとしても、イエズス様にとってそれは問題ではありません。イエズス様にとっては、それをアッという間にきれいする事ができます。イエズス様は、ただ私たちがイエズス様の元に行く事だけを求めています。「ここにいます、イエズス様。」と。イエズス様に信頼なさって下さい。

第2に、イエズス様に答えない多くの方々の為に、どうぞお祈りなさって下さい。この方々が、イエズス様の聖心の愛に触れる事ができますように。

最後に第3に、この大和くんが避難所で6日の間いたので、本当に幸運が重なって見つかったそうです。願わくは多くの方々が、イエズス様の聖心に見つかるまで、聖心の呼びかけに答えるまで、マリア様という罪人の避難所にその身を寄せる事ができますように。マリア様の元であれば、悪はどんな害を犯す事もできません。願わくは、大和くん、つまり日本が、日本の全ての方々が、マリア様の御心に匿(かくま)われて、イエズス様の声に、導きに答えて、日本の全ての霊魂が、イエズス様の探している父の声に気付いて、イエズス様の元に帰って来ますように、お祈り致しましょう。

「1人の罪人が痛悔するならば、痛悔の必要のない99人よりも、大きな喜びが天国であるだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月17日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年6月17日 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ 
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月17日、聖グレゴリオ・バルバディコの祝日を祝っております。

7月の御ミサの予定は少し不規則になっています。7月は7月1日・2日、初金・初土と、それから8日・9日の1週間続けて、その次に17日・18日、主日・月曜日とレネー神父様がいらして下さいます。どうぞお間違えのないようにお願いします。


「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、
今日証聖者グレゴリオ・バルバディコのミサで、福音書では有名な例えを読みました。ある人が旅を立つ時にしもべたちを呼んで、しもべの能力に従って、ある人には5タレント、ある人には2タレント、ある人には1タレント預けて、「さぁこれをお前たちに委ねる。」と言って、自分は遠くに旅立ちます。帰って来ると、5タレントを預かった人は、そのそれを非常にうまく使って、更にそれを有効に利用した為に、もう5タレントを儲けた。もう1人は2タレントを受けたのですけれども、その2タレントを非常にうまく使って、また2タレントを儲けた。「ご主人様、ここにお返しします。更に儲けました、どうぞ。」1タレントを受けた人は、実は主人を怖がっていたので、何か恐れて、「罰せられるのではないか。」と思って、それを無くさないように、非常に大切に隠して土に埋めておいた。主人が帰って来たら掘り起こして、「はい、ここに預けておられた1タレントがあります。ちゃんととっておきました。」この5タレントを受けた人、2タレントを受けた人は儲けたので褒められて、「さぁ、私のもっとたくさんのものをお前に委ねよう。天の国に入れ。」と言われるけれども、1タレントを受けた人は、「何だ、お前は預けたものを何の有効利用もしなかったのか。」と言って、相手にされなかった。

一体これはどういう意味なのでしょうか?私たちは、私たちのこの人生において受けたタレントというのは、何を意味するのでしょうか?一体その私たちは何をする事が期待されているのでしょうか?この福音の例えの意味は何なのでしょうか?一体これで何を言おうとしているのでしょうか?

これを今日一緒に皆さんと黙想する事を提案します。特にこの黙想、この福音は、6月のイエズス様の聖心の月に於いてとても重要なテーマだと思います。何故かというと聖心は、「イエズス様の聖心は私たちを愛している、イエズス様の聖心は天主は、私たちをここまで愛している」というのを、私たちに目に見える形になったのが、イエズス様の聖心ですから、私たちはますます「主から、天主から愛されている」という事をますます自覚するのみならず、「それに対して応えていかなければならない」それがイエズス様の聖心の月であり、聖心への信心であるからです。何故かというと、愛は必ず愛を呼ぶからです。もしも私たちが人から親切を受けると、どうしても私もそれに感謝して、「親切をして返したい、お礼をしたい。」と思うのが普通であるからです。イエズス様から天主からこれほど受けた愛があるので、これほど受けた御恩があるので、「その御恩にどうしても返したい。」それが私たちの自然な反応であるべきであるからです。

ですから聖務日課やミサの典礼では、「私たちをこれほど愛したお方を、どうして愛さない事があるだろうか。救われた身分でありながら、救い主を熱烈に愛し返さない事ができる者がいるだろうか。」というのがテーマになっています。愛に応えて、天主である愛を、「愛である天主を、愛を以て返す。」これこそがイエズス様の聖心の信心のテーマです。

私たちはどのような愛を受けたでしょうか?私たちが今こうやって生きているのも、こうやって健康であるのも、こうやってミサに与る事ができるのも、私たちが「何が良い、何が悪いか」という事を知る事ができるのも、全てこれはお恵みです。

そればかりでありません。私たちが持っているお友達、或いは家族、或いは食べ物がある事、それを超えて超自然のお恵み、例えば信仰の恵み、私たちの持っている希望、或いは愛のお恵み、或いは色々な徳を積む事ができるというのも、これも全てお恵みによって与えられたものです。私たちが1人で全てできたわけではありません。与えられて、その機会が与えられて、その力が与えられて、助けられて初めて、私たちができたものです。私たちがもしも何かその仕事ができたとしたならば、もしも何か役に立てる事ができたとすれば、それはそのような機会が与えられたからです。もしも私たちがより大きな地位を持てば持つほど、より多くの善をする事ができます。より大きな地位が与えられるという事は、それは多くの愛が与えられた、その機会が与えられた、これもますますお恵みです。

天主から与えられたものを私たちはどのように使う事が期待されているのでしょうか?もちろんこれは自分の利己主義の為にではありません。自分の都合の為ではありません。例えば特別な地位を与えられているにもかかわらず、その地位を乱用して、公用車を使って別荘に行ったり、あるいは芸術品を買ったり、あるいは公費を使って高級のホテルに泊まって何とかをすれば、やはりそれは一体「公私混同だ」とこの世でも追及されるではないでしょうか。ある地位のある人は、離職さえもしなければなりませんでした。

イエズス様から頂いた私たちのお恵みはやはり、イエズス様を主を愛するが為に与えられているのです。天主への奉仕の為に与えられました。それを良く使う為に与えられました。与えられた才能や、時間や、健康や、お恵みを、天主を愛するが為に、或いは天主を隣人に於いて愛するが為に、天主が隣人に於いてますます愛されるようにする為に、与えられました。もしもそれを私たちが自分の為だけに、天主様から与えられたものを無頓着に、或いは冷淡に、自分の事だけで打算的に、自分の事だけに隠しておいているならば、「あぁ、恐ろしい方だから罪さえ犯さなければいいんだ。大罪を犯すのはしないけれども、でも大罪は犯さない程度で、自分の好きな事をしたい。自分のやりたい事はこうだ。イエズス様の望みはというよりは自分の望みをする。」これはまさに、タレントを隠して、自分の為だけに取っておく事に過ぎません。それを主の為にたくさん増やす事ではありません。

タレントを5つ、5タレントを頂いた人はこれを良く使って、「全て自分の持てるものを主の為に使おう」と努力した人でした。このような人はたくさんいます。日本でもたくさんいました。つい最近私たちの巡礼に行った長崎でも、本当に素晴らしい人がいました。

福者中浦ジュリアン神父様。いつもローマの方に手を向けてこう銅像が立っていますけれども、絶対死ぬまで、ローマ教皇様に会ってその恩を受けた事を忘れずに、死ぬまで、自分の全ての持ち物を全て使って、4,000人の霊魂たちの司牧と救霊の為に全てを尽くした方でした。

福者ペトロ岐部神父様。日本人として初めて聖イグナチオや聖フランシスコ・ザヴェリオの列聖式にも与り、イエズス会士として、司祭としてローマで勉強して、ローマで司祭になったにもかかわらず、日本に帰って、命をかけて司牧をして、この「自分の司祭職を善の為に使いたい」と思って、江戸で拷問を受けて亡くなりました。

或いは司祭でなかったとしても、例えば雲仙地獄と呼ばれる所で殉教をしていった、パウ内堀親子。子供の例えばアントニオ内堀は、まだ18才にもかかわらず、指を切られて、3本の中の指を切られて、「キリシタンは動物と同じだから」といって切られて、このものすごい痛みを受けて、あと寒い冬だったにもかかわらず、溺れるか溺れないか、引っ張られたり出されたり、遂には亡くなる時にお父さんに、「お父さん、この大きな殉教のお恵みを感謝しましょう。」と言って死んでいきました。お父さんもお父さんで、その溺れるか溺れないかの時には、この浮かび上がる度に息がつくと、「御聖体に在すイエズス様は、至聖なる秘蹟は讃美せられさせ給え。」「イエズス様の御聖体は讃美せられさせ給え。」とそれだけを言って、遂に殉教していきました。御聖体に対するものすごい愛を持って、御聖体の為に、イエズス様の愛の為に生きていた人でした。

そのローマの教皇様に書いた手紙の中に、12名サインされた手紙が残っていますけれども、その内の1人にパウロ内堀のサインもありました。それには、「お恵みによって私たちは、聖なる公教会への証をする為に命を捧げる準備ができている。」と。そのサインした12人の内の6名は殉教しています。感謝しながら全てを捧げて、生きていた人でした。

やはりここに愛の本質があります。受けたものを、受けた愛を愛で返す。受けた全てのお恵みをイエズス様に全て返す。これが殉教者であって、今日の聖人グレゴリオ・バリバディコもまさに、「受けた愛をお恵みを全て良く使って、イエズス様の為に主の為に、愛を愛で返した」という聖人でした。イエズス様の愛が私たちをもう駆り立てたのでした。

もしも私たちがイエズス様に対する、聖心に対する奉献をするとしたら、まさにこれです。私たちにとってイエズス様に対する奉献というのは、イエズス様にただお祈りの文だけではなくて、「自分の持てる全ての時間、才能、この全生涯、全存在、全ての命を、主の為に捧げる」という事です。自分の好み、自分のやり方、自分の利益、自分の考えを放棄して、「イエズス様のやり方、イエズス様の考え、イエズス様の御望み、イエズス様の御希望、イエズス様の御望みの通りにさせたい。イエズス様の一番気に入るようにしたい。」もしもその為に自分のやりたい事ができなかった、自分の地上への愛着を放棄しなければならないとしたら、それを喜んで放棄する。これがイエズス様の聖心に対する奉献であって、受けたタレントを最大限に活用する事であって、イエズス様の為にたくさんのタレントをまた儲けるという事であって、愛を愛で返すという事です。

今日聖グレゴリオ・バリバディコは私たちに、イエズス様の聖心にどうやって、愛を愛で返すれば良いかという模範を示してくれています。私たちの過去の先祖たち、諸聖人、殉教者たちもその見本を示して下さいます。

今週の月曜日にはパドゥアの聖アントニオの祝日を祝っていましたけれども、パドゥアのアントニオも5歳の時に、ポルトガルの裕福な家に生まれた子供ですけれども、5歳の時に冬、ある誰かがノックをするので開けてみると、子供が立っていたのだそうです。貧しい服を着た子供で、裸足で、何か背中にリュックを背負っていて、「一体この子誰だろう?」と思ってリュックの裏を見ると、心臓のようなルビーのような、赤々とした物がたくさん荷物の中に入っていた。あまりにもおかしいのでびっくりして聞いてみると、「あなたは誰ですか?何の為に来たのですか?誰ですか?」と聞くとこの子は、「私は王子だ。私は人々の心を探して来て、乞い求めている。この乞食をしている。名前は、私の名前は君に言う必要はない。何故なら君はよく僕の事をよく知っているからだ。私はイエズスだ。」と言って消えたのだそうです。その時に幼きパドゥアの聖アントニオは、「イエズス様が私たちの愛を求めている。」という事を理解しました。

例えば聖ブリジッタも同じような事を体験しています。聖ブリジッタがある時、イエズス様がもうボロボロの傷だらけの姿で現れた時に、「主よ、一体誰があなたにこの様な事をしたのですか?何でこんな、そんな傷だらけで血をもうタラタラ流して、もういかにも半死半生でもう死なれるような御姿なのですか?一体誰がこうしたのですか?」すると、「私が特に、私が敵から受けるものよりも、私が特に愛した霊魂から愛が返って来ない時に受けるのがこれであって、愛を受けない、愛するべき者が私の事を愛さないが為に、私は今こうなっている。」と聖ブリジッタに説明しました。イエズス様は悪魔から受ける侮辱よりも、愛する者、特にイエズス様から愛された者がそれを、愛を愛で返さない時に受けるその事を、非常に辛く思っておられます。

そこで今日良い決心を立てて、イエズス様の聖心をますますお愛しする、という決心を立てる事に致しましょう。この私たちの受けたタレントを全てうまく使う事ができますように。決して恐れて、「あぁ、大罪さえ犯さなければいいんだ、罪さえ犯さなければいいんだ。あとは面白おかしく過ごせばいいんだ。」と、私たちの受けた時間や、大切なお恵みを、無駄に土に隠して埋めてしまうだけではなく、それを私たちは更に使って、イエズス様をますますお愛しする事ができますように、ますますイエズス様の愛のタレントを増やしていく事ができますようにお祈り致しましょう。

マリア様はそうなさいました。マリア様は御受胎のその瞬間から、ますます愛に成長して、多くのタレントを増やした方です。マリア様に是非お祈りして、イエズス様をマリア様のようにお愛しする事できますように、愛を愛で返す事ができますようにお祈り致しましょう。

「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのに例えてもよい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年 7月の聖伝のミサの予定 SSPX Japan Traditional Latin Mass July 2016

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2016年 7月の予定(携帯でこのブログをご覧になっている方々のために記事として7月の予定を掲載することをお許しくださいますようお願いいたします。)

【大阪】2016年5月15日よりミサの場所が変更になりました!
聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

   7月1日(初金) イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤 
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月2日(初土) 童貞聖マリアのご訪問(2級祝日)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月8日(金) 寡婦聖エリザベト女王(3級祝日)白
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月9日(土) 聖母の土曜日(4級)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月17日(主) 聖霊降臨後第9主日(2級)緑
           午後5時半  ロザリオ及び告解
           午後6時  ミサ聖祭

   7月18日(月) 証聖者聖カミロ・デ・リリス(3級祝日)白
           午前6時半 ミサ聖祭


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   7月3日(主) 聖霊降臨後第7主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月4日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭

   7月10日(主) 聖霊降臨後第8主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月11日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「聖母黙想会(聖グリニヨン・ド・モンフォールによる)」へお招きいたします。

2016年8月10日~8月15日 指導司祭:アジア管区長シュテーリン神父様(日本語通訳:小野田神父)聖ピオ十世会日本 2016年 聖母黙想会についてのお招き

 


御聖体の祝日の続誦 Lauda Sion(ラウダ・シオン)の日本語訳と中文訳「圣体节继抒咏」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 御聖体の祝日の続誦 Lauda Sion(ラウダ・シオン)の日本語訳と中国語訳と韓国語訳をご紹介します。韓国語 시온이여 찬송하라はここにもあります。

 簡体の「圣体节继抒咏」は、8・8・7という音節で書かれています。
 繁体の「基督聖體瞻禮繼抒詠」は、必ずしもそうとは限りません。
 韓国語は、8・8・8とうまく訳せています。

 訳者の苦労がにじみ出ていますね。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


LAUDA Sion Salvatorem,
lauda ducem et pastorem,
in hymnis et canticis.

シオンよ、救い主を讃えよ、
指導者を、牧者を讃えよ、
賛歌と頌歌によって。

Quantum potes, tantum aude:
quia maior omni laude,
nec laudare sufficis.

力のかぎり、大胆になれ、
全ての賛美に優る方であるが故に、
単なる賞賛では足りぬから。

Laudis thema specialis,
panis vivus et vitalis
hodie proponitur.

賛美の特別のテーマは、
命を与える生けるパン、
これが、今日、提示される。

Quem in sacrae mensa cenae,
turbae fratrum duodenae
datum non ambigitur.

聖なる晩餐の食卓で、
十二の兄弟たちの群れに
明らかに与えられたそれだ。

Sit laus plena, sit sonora,
sit iucunda, sit decora
mentis iubilatio.

賛美は満ちあふれ、響きわたれよ、
喜びにあふれ、歓喜の精神の
美しさよあれ。

Dies enim solemnis agitur,
in qua mensae prima recolitur
huius institutio.

実に、それは荘厳な日のこと、
その日に、この制定が
最初に食卓に収穫した。

In hac mensa novi Regis,
novum Pascha novae legis,
phase vetus terminat.

新しい王のこの食卓で
新しい契約の新しい過越は、
古い過越を終わらせた。

Vetustatem novitas,
umbram fugat veritas,
noctem lux eliminat.

新しさは古きを
真理は影を追い払い
光は夜を除去した。

Quod in coena Christus gessit,
faciendum hoc expressit
in sui memoriam.

キリストが晩餐で行われたことを、
御自分の記念として
これを行うよう命じられた。

Docti sacris institutis,
panem, vinum in salutis
consecramus hostiam.

聖なる制定により教えられ
パンとぶどう酒とを
私たちは救いのホスチアと聖別する。

Dogma datur christianis,
quod in carnem transit panis,
et vinum in sanguinem.

キリスト者たちに、ドグマが与えられた、
パンが肉となり、
ぶどう酒が血と変化する、と。

Quod non capis, quod non vides,
animosa firmat fides,
praeter rerum ordinem.

あなたが理解せず見えないことを、
通常の秩序の外にあることを
生きた信仰は堅固にする。

Sub diversis speciebus,
signis tantum, et non rebus,
latent res eximiae.

いろいろな外見のもとに
物ではなく、しるしだけのもとに、
貴重な現実が隠れ給う。

Caro cibus, sanguis potus:
manet tamen Christus totus
sub utraque specie.

肉は食べ物、血は飲物に、
しかし、全キリストは
両形色のもとましまし給う。

A sumente non concisus,
non confractus, non divisus:
integer accipitur.

拝領者によって、切断されず、
裂かれず、分かたれず、
完璧に領受される。

Sumit unus, sumunt mille:
quantum isti, tantum ille:
nec sumptus consumitur.

一人が拝領しても、千人が拝領しても、
この人が受けたように、あの人も同じく、
尽き果てることがない。

Sumunt boni, sumunt mali:
sorte tamen inaequali,
vitae vel interitus.

善人が拝領するのと、悪人が拝領するのとでは、
しかし、命の或いは内的な
結果は異る。

Mors est malis, vita bonis:
vide paris sumptionis
quam sit dispar exitus.

悪人には死が、善人には命が
同じ受領が、どれ程の異なる
結末となるかを見よ。

Fracto demum sacramento,
ne vacilles, sed memento
tantum esse sub fragmento,
quantum toto tegitur.

ついに秘跡がさかれても、
ゆるがされずに、思い出せ、
一片のもとにも、
全体のもとと同じように、包まれている。

Nulla rei fit scissura:
signi tantum fit fractura,
qua nec status, nec statura
signati minuitur.

現実はさかれない、
しるしだけが砕かれる、
それによって意味された方の
状態も背丈も小さくならない。

Ecce Panis Angelorum,
factus cibus viatorum:
vere panis filiorum,
non mittendus canibus.

見よ、天使達のパンを、
旅人の糧となったこれを、
正に子らのパンであり、
犬へ投げやってはならない。

In figuris praesignatur,
cum Isaac immolatur,
agnus Paschae deputatur,
datur manna patribus.

前表において、既に予告されていた。
イザクが屠られるとき、
過越の子羊が食されるとき、
太祖らにマンナが与えられるとき。

Bone pastor, panis vere,
Iesu, nostri miserere:
Tu nos pasce, nos tuere,
Tu nos bona fac videre
in terra viventium.

よい牧者よ、まことのパンよ、
イエズスよ、われらをあわれみたまえ。
われらを牧し、われらを守り、
生きる人々の地において、
我らをして善を見させ給え。

Tu qui cuncta scis et vales,
qui nos pascis hic mortales:
tuos ibi commensales,
coheredes et sodales
fac sanctorum civium.

御身は、すべてを知り、おできになり給う、
ここで死すべき我らを牧し給う。
あそこで御身と共に食卓に着く者として
共に天の遺産の相続者としてまた友人として、
諸聖人の市民として我らをなさしめ給え。

アーメン、アレルヤ。


圣体圣血节继抒咏
1、
熙雍请你吟咏歌唱,
赞颂我人类的救主,
我众领袖和善牧。
2、
请尽所能歌颂欢呼,
称扬赞不胜赞之主,
千赞万颂也不足。
3、
主耶稣基督的圣体,
是给人生命的活粮,
今天歌颂的主题。
4、
祂在最后晚餐席上,
把饼酒分予十二徒,
正是同一的活粮。
5、
用雄壮嘹亮的歌声,
唱出你愉快的心情,
向救主欢呼歌咏。
6、
因为我们今天所庆祝的,
实在是一个伟大的节日,
纪念主建立圣体。
7、
今天举行新王盛宴,
由新逾越节的羔羊,
取代旧约的祭献。
8、
新约的祭祀取代了旧礼,
真实的牺牲取消了预像,
驱走暗夜现阳光。
9、
基督举行最后晚餐,
命令后世常行不断,
作为对祂的纪念。
10、
我们遵从祂的命令,
将饼和酒予以祝圣,
作为赎罪的牺牲。
11、
麦面之饼成为圣体,
葡萄之酒成为圣血,
是我坚信的真理。
12、
不能理解不能观察,
这原超越感觉范围,
信德活泼无少疑。
13、
饼形酒形只是标记,
只是标记并非实体,
伟大奥迹藏形内。
14、
圣体为食圣血为饮,
无论面形或酒形内,
都有基督的全体。
15、
或领圣体或领圣血,
所领基督完整无缺,
不受撕裂和分割。
16、
一个人领千万人领,
每人所领完全相等,
使人分食保完整。
17、
善人也领恶人也领,
所领天粮虽然相同,
致生致死效不同。
18、
善人获生恶人丧亡,
所领虽是同一神粮,
结局完全不一样。
19、
不可怀疑应当牢记,
祭品虽然可以剖分,
但在每一小份之内,
都有耶稣的全体。
20、
饼形酒形随时可分,
分的只是面酒外形,
至于其中基督真体,
丝毫无增亦无损。
21、
请看这天使的食粮,
今成为游子的神粮,
这天主子女的食物,
切不可投给狗尝。
22、
昔依撒各充作牺牲,
又逾越节宰杀羔羊,
旷野中玛纳自天降,
都是圣体的预像。
23、
耶稣你是我人真粮,
耶稣你是我众善牧,
求你怜悯求你照顾,
求使我们同登天乡,
永远享受主真福。
24、
你既全能而又全知,
你以圣体滋养我们,
赐我来日伴同诸圣,
齐聚天国与你同席,
从此永不在分离。
阿们。


繼抒詠
1、熙雍!請吟詠歌唱,讚頌人類的救主、我們的領袖和善牧。
2、請盡所能,歌頌歡呼,稱揚讚不勝讚的救主,因為言語有限,何能勝讚。
3、耶穌基督的聖體,是給人生命的活糧,是今天特別歌頌的主題。
4、基督在最後晚餐的席上,把餅酒給十二宗徒分享,這正是那同一的活糧。
5、請用雄壯嘹亮的歌聲、唱出你愉快的心情,向救主歡呼歌詠。
6、因為我們今天所慶祝的、是一個偉大節日,紀念耶穌建立了聖體聖事。
7、今天舉行的是新王的盛宴,新逾越節的羔羊,取代了舊約的祭獻。
8、新的祭祀、代替了舊禮,真實的犧牲、取消了預像,光明驅走了黑暗,帶來了新希望。9、基督舉行了最後晚宴,命我們重複舉行,不可間斷,作為對祂的永久紀念。
10、我們遵從祂的命令:祝聖酒餅,作為贖罪的犧牲。
11、麥麵餅成為聖體,葡萄酒成為聖血,這是我們堅信的真理。
12、理智不能了解,肉眼不能覺察,這原是超越感覺的事蹟,唯有活潑的信德、才能堅信不疑。
13、餅形酒形只是標記,並非實體,餅酒形內,隱藏著偉大的奧蹟。
14、基督的聖體作為食品,基督的聖血作為飲料,餅酒形內都有基督的全身。
15、或領聖體,或領聖血,所領的基督完整無缺,不受撕裂或分割。
16、一個人領或千萬人領,每人所領的完全相等,基督供人分食,卻永保完整。
17、善人領或惡人領,所領的天糧雖然相同,所得的效果卻截然不同:
18、善人獲得生命,惡人招致喪亡,所領的雖是同一神糧,結局卻完全不一樣。
19、不可懷疑,應當牢記:祭品雖然可以剖分,每分都是耶穌全身。
20、餅形酒形隨意分,分的只是餅酒外形,基督聖體毫無增損。
21、請看天使的食糧,成為遊子的神糧;天主子女的食物,不可投給狗嚐。
22、依撒格充作犧牲,逾越節宰殺羔羊,曠野中瑪納自天降,都是聖體奧蹟的預像。
23、耶穌,祢是真糧,耶穌,祢是善牧,求祢憐憫,求祢照顧。使我們同登天鄉,永享真福。
24、祢既全能,而又全知,我們的塵世生活,轉瞬即逝,祢以聖體滋養我們,如育赤子。求祢賜我們伴同諸聖,齊聚天國與祢同席,永遠不再分離。
阿們。阿肋路亞!

1.
시온이여 찬송하라.
목자시요 인도자신
구세주를 찬양하라.

2.
만유 위에 높으시다.
미약하온 우리 인생
찬송할 능 부족하다.

3.
초성생명 주시도다.
천상양식 묘한 성사
오늘 특히 찬송하라.

4.
거룩하온 저녁이라,
열두 종도 이 양식을
주 예수께 영하였다.

5.
유쾌하게 찬미하라.
즐겁고도 명랑하게
용약하며 찬송하라.

6.
기념하올 저녁이라,
오주 예수 이 잔치를
설정하신 날이로다.

7.
새 임금의 잔치로다.
새 희생이 새 법으로
낡은 예식 없이하다.

8.
새것 오니 옛것 간다.
진리 광명 찬란하니,
암흑미망 간데없다.

9.
주 예수의 명이시다.
저녁상에 행하신 예
기념하여 계속하라.

10.
거룩하온 명이시라,
떡과 술을 축성하여
희생으로 봉헌하다.

11.
오묘하온 도리로다.
떡과 술로 주 예수의
살과 피를 이룸이라.

12.
우리 지식 못미친다.
오직 굳센 신덕으로
이 도리를 믿을찌라.

13.
다만 면주 형상이나
만유위에 높이실 이
그 가운데 계시도다.

14.
피와 살을 음식하나,
그 둘 안에 그리스도
온전하게 계심이라.

15.
주 예수를 영함이라,
저의 체는 나누지도
없애지도 못하도다.

16.
단 한 사람 영하거나,
천만 사람 영하거나,
같은 체를 영함이라.

17.
선인 악인 다 영하나,
선인에겐 영생이요,
악인에겐 멸망이라.

18.
선한이겐 생명이나
악한이겐 죽음이니,
그 효과는 각각이라.

19.
면병 천만 나누어라.
나누어진 떡속마다,
오주 예수 계시도다.

20.
주의 체는 못나눈다.
오직 면형 나누나니,
오주 항상 완전하다.

21.
천상떡을 볼찌어다.
인생양식 되셨으니,
개에게는 주지 말라.

22.
이사악의 희생이나
바스카나 만나 역시
이 성사로 표하도다.

23.
참 목자신 예수시라,
우리 인생 기르시며
영생 인도하옵소서.

24.
전능 전선 오주시라,
천당 잔치 영복 속에
우리들을 들이소서.

아멘. 알렐루야.

私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月18日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月18日 ベルナデッタ吉崎さんの追悼ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2016年6月18日、 6月4日の初土曜日に魂を、霊魂を天主様に返しましたベルナデッタさんの為に追悼ミサをしております。

今日のこの御ミサの後に、いつものように公教要理、特に今回は公教要理の続きの「信仰について」信仰の徳は色々な徳の内の中で1番なのか2番なのか、或いは信仰の徳に反する罪について、或いは不信について不信仰について、或いは異端について、皆さんとこの話を進めていきたいと思っています。今日この公教要理が終わった後にも、皆さんどうぞ聖歌の練習をなさって下さい。

7月1日はここでミサがあります。特にイエズス様の尊き御血の祝日です。


「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は追悼ミサをしているので、私たちも「死」について、私たちがどうしても避ける事ができない死について、黙想する事に致しましょう。

一体、死というのは何なのか?死というのは義人にとって、或いは罪人にとってどのような違いがあるのか?イエズス様は私たちの為に、このどのような事をなさって下さったのか?私たちは死の時に、私たちにこれほどして下さったイエズス様に対して、どのようにお会いするのか?遷善の決心を立てる事に致しましょう。

ベルナデッタさんは、もう20年以上前からずっと聖伝のミサに与ってきました。最初に大阪の方でミサをし出すようになった最初の時からミサに与ってこられて、ミサがある時に必ず、1度も欠かした事がなくミサに来られていました。ミサに来られて、お祈りをされて、色々なところで働いて、お掃除をされたりとか、公教要理を勉強したり、とてもイエズス様の為に、「イエズス様の御旨を果たしたい。イエズス様をお愛ししたい。イエズス様を讃美したい。イエズス様の為に何か役に立ちたい。」という事を、口で、体で、いつもこの思ってそれを表現していた方でした。

お姉様は聖体奉仕会のシスターで、シスター杉岡で、シスター笹川と一緒に聖体奉仕会で生活して、シスター笹川が聖体奉仕会の秋田を出されても、その後も一緒になってシスター笹川から離れずに、ずっと共同生活をされていた方でした。この姉妹2人共が、イエズス様への愛に燃えていた姉妹でした。

特に大阪の私たちにとっては、ベルナデッタさんとかシスター杉岡、またその他私たちの侍者をなさって下さっている福島さんとか色々な深い関係があって、或いは藤枝教会のヨゼフ・マリ・ジャック神父様とかと深い関係があって、秋田の聖母とは深い関係が与えられました。

このベルナデッタさんの生涯を見ると、イエズス様の事だけを、イエズス様の愛に満ちた生活でしたので、その死は私たちにとって大きな希望と安心を与えてくれます。イエズス様が仰ったように、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」という事がまさに実現するべき方であるからです。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、「ちょうど、死を迎えるというのは、牢屋に閉じ込められていたお姫様を解放するかのようである。」と言っています。「お姫様が牢屋でジメジメとした所で、苦しみと悲しみと、故郷から離れて一人ぼっちで辛い思いをしている所を、『さぁ、もう牢屋にいる必要はない。さぁ、祖国に帰りなさい。さぁ、お姫様の玉座につきなさい。さぁ、王国に戻りなさい。』と言って、誰かがドアを開けてくれる。それに似ている。」と。

或いは、聖カルロ・ボロメオという聖人は偉大な聖人でしたが、自分の司教の家に「死」の絵を書かせたのだそうです。その死の死神というか、死の象徴が刀を持って、死を表していたのですが、それを画家に言って、「いや刀ではなくて、黄金の鍵をつけてほしい。何故かというと、「死」というのは義人にとって、永遠の喜びへの始まりだからである。何故かというと、もはやこれによって、イエズス様を罪によって悲しませる事もないし、罪を犯す事によって天国の永遠の福楽を失ってしまうという危険もなくなるし、イエズス・キリスト様の為に自分を全て、自分の持てるものを全て捧げる事ができるから。イエズス様に倣って自分の命を天主に捧げる事ができるから。死というのはもはや喜びだから。永遠の天国への鍵だから。ここをどうしても通らなければ入れないものだから。だから黄金の鍵に変えてほしい。」と言ったそうです。

ある時には、これはやはり聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ある時お父さんが自分の子供が病気にかかって、その教会に多くの献金をして、このお願いをしたのだそうです、「天主様、どうぞこの子が長い、長い長い命が与えられますように。」するとお祈りをした、そのようなお祈りしたのですけれども、その子供は亡くなってしまったそうです。するとがっかりしたお父さんがその悲しんでいると、そのお父さんに天使が現れて、「心配するな。お前の子は永遠の命に入った。本当に長い、長い長い喜びの中に入った。これこそがお前の望んでいたものだ。心配するな。」と慰めたのだそうです。

私たちイエズス様に従う者にとって、死は永遠の始まりであります。

私たちは、シュテーリン神父様が仰って下さった黙想を何度も思い返します、「この世の悲劇は実は、『現実』、どうしても私たちの変える事ができない『現実』と、『自分の思い』とを混同してしまっているという事だ」と。どういう事かというと、「現実というのは、例えばこの目の前にある『壁』は、どうしても壁であって、これが在るのが好きでも嫌いでも、或いはこれが在ってほしくなくてもこれは壁であって、どうしても私たちが変える事ができない現実である。私たちの色んな想像や妄想や、その願いというのは、私たちの頭の中だけにあるのであって、それはそれが必ずしも現実ではない。それを、でもこの人たちは現代の悲劇は、それを混同してしまっている事である。」という事です。

私たちがどうしても、どのように思っても、大きな「現実」があります。それは「私たちが死を迎えなければならない。どうしてもこの肉体は滅びてしまう」という事で、「この世に永久に住む事はできない」という事です。「この地上での生活をこのままずっと続ける事はできない」という事です。もう一つの現実は、「この短い生涯の後に、永遠が待っている」という事です。「天国、或いは地獄」「この世を創った創造主であり、私たちを救って下さった救世主、イエズス・キリストが私たちを必ず裁かれる」という現実です。

私たちが好きであっても好きでなくても、これがどうしても変わる事のない現実です。それを認めようとしなくても、認めなくても認めても、それは「どうしても避ける事ができない」という事です。

しかし悲劇は、それを「認めたくない」という人は、それを「自分の思う事が現実である、自分の思う通りになる」と幻想しているからです。

しかし「この世が偶然にできたのではなく、この全ての在る目に見えるものが偶然できたものではなく、私たちも創られたものであり、イエズス・キリスト様は真に復活され、私たちの為に今天に上げられて、裁きに来られる」という事が現実である限り、私たちは、「私たちには死の直後、イエズス・キリストが裁き主として私たちを裁かれ審判され、永遠が決められる」という現実が待っています。

その時その死を迎えた時に、イエズス・キリストを否んできた人、イエズス・キリストの望みよりも自分の望みを大切にしてきた人、或いはイエズス・キリストの教えを迫害した人、イエズス・キリストを信じるような人々を、「信じているから」といって嫌がらせや悪さをした人、或いは迫害をして死に至らせたような人々は、どれほどその時に、赤面と苦しい立場に置かれる事でしょうか。

考えてもみて下さい。私たちがもしも自分のお友達の為に一生懸命、命懸けになって朝夕働いて、その友達が借金がある、サラ金で困っている、もうしょうがない、もう首が回らない、もう食べ物もない、もうお金もない、という時に、「あぁ、じゃあもう自分の貯蓄を使ってそれを払いなさい。もうこれでサラ金しちゃだめだよ。」と言ったにもかかわらず、密かにそのお金を使って、またギャンブルをしたり、ろくでもない使い方をして、「あぁまた 、また借金だ。」

或いは自分が、その人が「病気だ」というから、自分が自分の臓器を移植させてあげた。それにもかかわらず、生活を改めないし、そうやって恩を受けたにもかかわらず、他の人の前ではその恩人についてバカにして笑っている、「ははっ。何でもないよ。」と悪口を言っている、遂には悪さをする。その時に、そのような恩人がちょうど悪口を言っているその最中にふと通りかかったら、その人はどんなにバツが悪いでしょうか。

もしもその悪さをした人が、その犯罪を犯したその人が、その犠牲者が実は日本の裁判官の長官で、自分の裁判官だとしたら、どれほどバツが悪いでしょうか。

その代わりにイエズス様、私たちに善には善を報いて下さるイエズス様が裁判官として立った時に、生前生きてる間にイエズス様の事だけを考えて、イエズス様の利益を全てに勝って優先させて「イエズス様の御望みの事、イエズス様を喜ばせよう」とした事だけを考えた人にとって、その裁き主の前に出る事はどれほど喜びでしょうか。

愛する兄弟の皆さん、今日テレジアさんの追悼ミサで、ベルナデッタさんが早く煉獄から解放されて天国に行かれますように祈ると共に、私たちも多くの殉教者、多くの良い先輩たちに倣って、イエズス様の為にこの一生をより良く使う事ができますように。私たちに与えられた時間と才能とタレントを、イエズス様を愛する為にのみ使う事ができますように、この御恵みをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

O felix Roma - o Roma nobilis おお、幸せなローマ、おお、高貴なローマよ 教皇行進曲

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日でした。

 フィリピンや南米における聖ピオ十世会の神学校や教会で、この聖ペトロとパウロの祝日によく歌われる歌をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラテン語

O felix Roma – o Roma nobilis:
Sedes es Petri, qui Romae effudit sanguinem,
Petri cui claves datae
sunt regni caelorum.
Pontifex, Tu successor es Petri;
Pontifex, Tu magister es tuos confirmans fratres;
Pontifex, Tu qui Servus servorum Dei,
hominumque piscator, pastor es gregis,
ligans caelum et terram.
Pontifex, Tu Christi es Vicarius super terram,
rupes inter fluctus, Tu es pharus in tenebris;
Tu pacis es vindex, Tu es unitatis custos,
vigil libertatis defensor; in Te potestas.

VOX ACUTA, VOX ALTERA AB ACUTA
Tu Pontifex, firma es petram, et super petram
hanc aedificata est Ecclesia Dei.

VOX MEDIA, VOX GRAVIS
Pontifex, Tu Christi es Vicarius super terram,
rupes inter fluctus, Tu es pharus in tenebris;
Tu pacis es vindex, Tu es unitatis custos,
vigil libertatis defensor; in Te potestas.

CHORUS
O felix Roma – O Roma nobilis.







【意味】
おお、幸せなローマ、おお、高貴なローマよ、
おまえは、ローマで血を流したペトロの座、
天国の鍵が与えられたペトロの。

教皇よ、あなたはペトロの後継者、
教皇よ、あなたは自分の兄弟たちを固める教師、
人間たちをすなどる者、群れの牧者、天と地を結ぶ者。
教皇よ、あなたはキリストの地上における代理者、
高波の中の岩、闇を照らす灯台、
あなたは、平和の護り主、あなたは一致の守護者、
自由の用心深い擁護者、あなたに権能がある。

(高い声)
あなたは教皇、堅い巌、この巌の上に天主の教会は建てられた。

(普通の声、低い声)
教皇よ、あなたはキリストの地上における代理者、
高波の中の岩、闇を照らす灯台、
あなたは、平和の護り主、あなたは一致の守護者、
自由の用心深い擁護者、あなたに権能がある。

(コーラス)
おお、幸せなローマ、おお、高貴なローマよ、


【イタリア語での歌詞】
Roma immortale di Martiri e di Santi,
Roma immortale accogli i nostri canti:
Gloria nei cieli a Dio nostro Signore,
Pace ai Fedeti, di Cristo nell'amore.
A Te veniamo, Angelico Pastore,
In Te vediamo il mite Redentore,
Erede Santo di vera e santa Fede;
Conforto e vanto a chi combate e crede,
Non prevarranno la forza ed il terrore,
Ma regneranno la Verita, l'Amore.

【意味】
殉教者と聖人達の不死のローマよ、
私たちの歌を受けよ、不死のローマよ。
私たちの主なる天主に天国においては栄光あれ
愛においてキリストの信徒らに平和あれ
天使のごとき牧者(教皇)よ、私たちはあなたのもとへ来た。
あなたにおいて私たちは優しいあがない主を見る。
真なる聖なる信仰の聖なる後継者よ、
戦い信じる者たちを強め、誇れ。
力と恐怖がうち勝つことはない、
真理と愛が統治する。

教皇行進曲

Salve Salve Roma, patria eterna di memorie,
Cantano le tue glorie mille palme e mille altari.
Roma degli apostoli
Madre e guida dei Rendenti,
Roma luce delle genti, il mondo spera in te!
Salve Salve Roma, la tua luce non tramonta,
Vince l'odio e l'onta lo splendor di tua belta.
Roma degli Apostoli
Madree guida dei Redenti,
Roma luce delle genti, il mondo spera in te!

【意味】
ローマよ、挨拶する、記憶の永遠の祖国よ、
何千の勝利の棕櫚の葉と何万の祭壇とが、あなたの栄光を歌う。
使徒たちのローマよ、購われた者たちの母にして指導者よ、
異教徒らの光なるローマよ、世界はあなたに希望する。
ローマよ、挨拶する、あなたの光は決して消えない。
あなたの美の輝きで、憎しみと恥辱とに打ち勝て。
使徒たちのローマよ、購われた者たちの母にして指導者よ、
異教徒らの光なるローマよ、世界はあなたに希望する。

http://www.vatican.va/news_services/press/documentazione/documents/sp_ss_scv/inno/inno_scv_musica.mid


楽譜はここにあります。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8d/Pontifical_March.pdf


英語訳
O Rome immortal of Martyrs and Saints,
O immortal Rome, accept our praises:
Glory in the heavens to God our Lord,
And peace to men who love Christ!
To You we come, Angelic Pastor,
In You we see the gentle Redeemer,
The Holy Heir of true and holy Faith;
Comfort and refuge of those who believe and fight.
Force and terror will not prevail,
But Truth and Love will reign.


ポーランド駐箚日本帝国公使河合博之氏の受洗 『無原罪の聖母の騎士』1933 年 12 月号より

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖伝の無原罪の聖母の騎士のウェブ・サイトに、ポーランド駐箚 日本帝国公使河合博之氏の受洗についての聖コルベ神父様が書いた記事(『無原罪の聖母の騎士』1933 年 12 月号、354 〜 363 ページ)が引用されていました。今から約85年前の実話です。

 「私は去る四月、長崎を立って、暫くポーランドに帰国していた。河合公使と知合になったのは公教信者である夫人の紹介によってであった。 ・・・」で神父様の文章が始まります。

 どうぞポーランド駐箚 日本帝国公使河合博之氏の受洗についてをお読み下さい。

 加藤久子氏は、これについて資料紹介として「河合博之駐ポーランド特命全権公使の改宗と客死(1933年)─『無原罪の聖母の騎士』誌より─」という論文を別に、國學院大學研究開発推進機構 日本文化研究所年報 第7号のなかで、発表しています。そこには写真もいくつか掲載されています。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

長崎巡礼-お説教-2016年5月2日 「聖アタナシウスはどのような義人であったか」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎巡礼で5月2日(月)教会博士証聖者司教聖アタナシウスのミサでの御説教をご紹介いたします。
どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月2日 長崎巡礼 教会博士証聖者司教聖アタナシウスのミサ 
小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する巡礼者の皆さん、5月は聖母の月で、毎日、別のお恵みが準備されています。今日はマリア様は私たちに、聖アタナシウスを通して、特別のお恵みを与えようとして下さいます。そこで聖アタナシウスの、聖アタナシウスという別の義人について、その義人がどういう方であったのか、義人のその聖アタナシウスの義の特徴は何だったのかを見て、その義の結果、義人であった結果、どんな事をしたのか。その目標とするものは何だったのか。一体聖アタナシウスにとって、一番何が大切だったのかを黙想して、最後に私たちの遷善の決心を取る事に致しましょう。

第1のポイント。聖アタナシウスの人生について少し垣間見てみます。聖アタナシウスは今から約1700年前に生きていた方です。ちょうど今から400年前に、江戸では元和の大殉教で400人や500人の人々が焼かれ、或いは雲仙では、内堀家族と内堀の兄弟が指を切られ、有明に捨てられましたが、今から1700年前、ちょうどエジプトのアレキサンドリアという大都市に、それはナイル川の河口に位置する大きな都市ですけれども、そこの助祭として既にニケア公会議において、「イエズス・キリストが真の天主であった。イエズス・キリストは天主御父と全く同じ本性を持っていた。ただの人間ではない、真の天主にして真の人である。」という事を、公会議で一生懸命雄弁に弁護した方です。その信仰の、信仰の証人として生きた方です。

義人というのは「正義」というのは、「他者に、その人に与えられるべきものを与える」という事ですが、聖アタナシウスはまさに「天主に、天主の真理に、知性と意志の同意を全く与えた」という意味で義人でした。

聖書にも、ローマの手紙の中にも聖パウロはこう言っています、「義人は信仰によって生きる。」と。聖アタナシウスは、信仰によって生きたが為に、やはり義人でありました。

第2のポイントは、では聖アタナシウスはその後、どのような信仰生活を送ったのでしょうか?

それはまさに、今日の聖パウロの書簡に書かれている、素晴らしく書かれている通りです。聖アタナシウスはこの信仰を守ったが為に、アリウス派のこの信仰を否定する、「イエズス・キリストはただの人間だ」と言う人々の迫害を受けました。自分の司教区を5回追放されました。17年間逃亡の身でした、追放の身でした。遂にはアレクサンドリアの司教になるのですけれども、教皇リべリウスから破門をされています。

有名なニューマンというカトリックの神学者がいます。このニューマン枢機卿の研究によると、「もうこれは疑いのない事実として、外見上聖アタナシウスは教皇によって破門され、あたかもも離教徒であったかのように目に映ったのだけれども、しかし事実は現実は、聖アタナシウスこそが信仰のチャンピオンであって、正当な信仰を終わりまで守り通したその人であった。」
その当時に生きていた聖ヒエロニモによると、その「私たちが朝起きると、全世界はアリウス派の司教によって占められていた。」とあります。アタナシウスや聖バジリオなど少数の人々を除いて、皆司教様たちはアリウス派の異端に染まってしまいました。ニューマン枢機卿によると、「80%以上の司教がアリウス派になってしまった」という事です。

いわばあたかも、教導教会がその時口を閉ざしてしまって、あたかも停止してしまったかのようでした。あたかも、全世界はイエズス様の御教えの約束の通り「この地獄の門に負けない。」と言ったその教会があたかも打ち負かされてしまったかのように見えていました。

しかし事実はそうではありませんでした。聖アタナシウスが最後までニケア公会議のこの信仰箇条を、このアリウス派に対して1人で、少数の司教たちと守り通したのでした。たとえ迫害を受けようとも、たとえ破門の汚名を受けようとも、「いや、カトリック信仰は、祖先から受け継がれた、使徒たちから受け継がれた信仰はこれである。」と。

まさに聖パウロと同じく、「私たちは生きているが、しかしキリストの死を帯びている。私たちは迫害はされているけれども、しかし捨てられてはいない。私たちは許す事によって許され、私たちは命を与える事によって命を与えられるのだ。」と。

今日イエズス様の聖福音に書かれてあることとまさに同じです。聖アタナシウスは、永遠の命を与えるイエズス・キリストを、真の天主を信じていました。「イエズス・キリストはただの人ではない。真の天主だ。イエズス・キリストだけが私たちに永遠の命を与える事ができる。だから私たちの体を殺す人を恐れるのではなく、私たちを永遠の火に落とす事ができる方を、天主を傷付ける事、天主を否む事をのみ、天主に対して罪を犯す事だけを恐れる。」という人生を送ったのでした。

では最後に、私たちは今日どのような決心を取ったら良いでしょうか?

イエズス様が十字架にかかった時に、マリア様がいらっしゃいました。殉教者が自分の命を捧げる時に、いつもマリア様がそれを助けて下さいました。聖アタナシウスも同じです。もしも私たちがイエズス様に続き、殉教者に続き、聖アタナシウスと同じ信仰を持つなら、持とうとするなら、聖アタナシウスの人生はまさに私たち聖伝のカトリック信者とぴったりと映るのではないでしょうか。ルフェーブル大司教様は第2の聖アタナシウスのようではないでしょうか。私たちには必ずマリア様が必要です。マリア様インマクラータの御取り次ぎを求めて、今日の巡礼の良い日を過ごす事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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