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オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究(続き)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究の続きをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」

2ミサの定義 

3ミサの目的 

4いけにえの本質 

5いけにえを実現させる4つの要素
 
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

7宗教統一運動

8結論 


6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

 以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。
 新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。
 私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。
 第二奉献文127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。
 新しいミサはローマに「司牧上の仕事の豊かな源」として、「法律的と言うよりもむしろ司牧的な文章」として導入された。そして、各国の司教協議会はそれぞれの状況に合わせて様々な民の「精神」にそれを適応させることが出来るとされた。
「典礼のための新しい聖省」の第一部門はさらに「典礼書の出版と絶え間ない見直し」のための責任者とされた。
 この考えは、ドイツ、スイス、オーストリアの典礼研究所の公式出版物の中に最近、反映されてこう書かれた128。
 「今ではラテン語が様々な国の言葉に訳されなければならない。「ローマ式」は地方教会のそれぞれの個性に適応されなければならない。かつて時を越えて考えられたものは、絶えず変わる文脈と具体的な状況に合わせ、普遍教会の絶え間ない流動とその無数の会衆に会わせなければならない。」

 新しい司式を発布する際の使徒座憲章それ自体でさえ、第二バチカン公会議の明らかな望みに反して「言語の多様相違のうちにも、全ての人によって同じ一つの祈りが[?]、大祭司イエズス・キリストを通して、聖霊のうちに、どの香にもまして芳しい香りとして、父に捧げられることになるからです」という全く曖昧な表現により教会の普遍的な言語であるラテン語に対し最後の一撃を与えている。
 これゆえに、ラテン語を失うことは当然だと考えられる。また第二バチカン公会議はグレゴリオ聖歌がローマ典礼のローマ典礼であることを示すものであると認め、「典礼儀式に置いて名誉ある地位が与えられなければならないと」命じたが、新しいミサでは特に入祭文や昇階誦を自由に選んで良くなったために論理的にグレゴリオ聖歌さえも失われてしまうだろう。
 従って、その仕組みから、新しい司式は多様で実験的なものであり時と場所によって変わるものだった。礼拝の単一性がこうして一度、そして永久に壊れてしまうなら、いったい信仰の単一性を保つための基礎として何が存在することだろうか。かつては信仰と単一性に礼拝の単一性が結びつき、それが妥協することなく信仰を常に守っていたと私たちは教えられてきた。

 新しいミサが、トレント公会議で教えられた信仰を私たちに提示する意向を全くもたないことは明らかである。ところでカトリック信者の良心が永遠に結ばれているのはまさにこの信仰である。従って、新しいミサが発布されると真のカトリック信者は劇的な選択の必要に直面する。



7宗教統一運動

 使徒座憲章は、新しい司式が東方教会から借りたことになっている信心と教義の豊かさについて明確に言及している。しかし、結果は東方典礼の精神からあまりにも遥かに離れ、そして実にその精神とは対立することになり、信者をして東方典礼様式からうんざりさせて離れさせるのみである。
 この宗教統一運動の為に東方典礼から借りたものはいったいどんなものがあるだろうか。基本的には「奉献文」を導入させるための数多くの文章(これをアナフォラと言う)。しかし、そのうちのどれ一つとして東方典礼のアナフォラの複雑さや美しさに及ばない。また、その他のものとして両形色での聖体拝領と助祭の使用である。
 東方典礼に近づくために導入したいくつかの要素に反して、新しい司式はローマ典礼がかつて東方典礼に最も近づいていた要素を、全て故意に取り除いてしまった129。同時に、新しい司式は、紛れもなくローマ的で、またいつ始まったかも分からないほどの古いローマの性格を放棄してしまっている。そうすることによって、霊的にそれ自体で貴重であったもの全てから切り離されてしまった。
 この代わりに新しい司式は、プロテスタントの一部の典礼に近くなったが、プロテスタント化したその新しい要素はカトリックの信仰にとって非常に近くにあった要素というわけではない。同時にこれらの新しい要素はローマ典礼を退廃させ東方典礼からもさらに疎外化させた。それは新しい司式の先駆者であるプロテスタント宗教改革で起きたことと全く同じことであった。
 新しい典礼はその見返りとして、かつてなかったほどの霊的危機の時代に於いて棄教・背教の境界線をうろつき今や教会の組織に毒を入れ、教会の教義・礼拝・道徳・規律の一致を崩そうとして教会の破壊を企てているものどもを全て喜ばすだろう。




8結論 

 使徒座憲章も述べているとおり、聖ピオ5世はカトリック信者の間の一致を作るための道具としてローマ・ミサ典書を作った。トレント公会議の命令に従って、その当時プロテスタントの反乱によって脅かされていた典礼的礼拝あるいは信仰それ自体に対しての危険を全て排除するためのミサ典書であった。全く正当化されうる重大事態そしてさらに預言的でさえもあることには、聖ピオ5世は1570年このミサ典書を発布する勅書の最後にこう荘厳な警告を与えた。
「もし誰であれ、このミサ典書を勝手に変更しようとあえてするものがあるとするならば、彼は全能の天主の御怒りと主の聖なる使徒聖ペトロと聖パウロの怒りとを自分の上に呼び起こすものであると言うことを良く知るが良い130。」
 「新しい司式」がバチカン報道局に提出されたとき、トリエント公会議が述べていた[ミサを変えるのを禁止する]様々な理由はもはや存在しなくなったと、全く不賢明なことさえ言っていた。トリエント公会議のこれらの勅令は、今日でもまだ適応するばかりでなく、それらの勅令を存在するに至らしめた条件が今日ではさらに非常に悪化して存在している。教会が天主の息吹を受けて、教会の防御としてドグマ上の定義や教義上の声明を出したのは、まさに信仰の純粋な遺産を脅かす、いつの時代にもある罠を追撃するためであった131。これらの教義上の定義や宣言は典礼によって守られると共に教会の典礼に影響を与えた。そして典礼は教会の信仰の最も完璧な記念碑となったのである。この礼拝をキリスト教の古代の実践へと戻し、古代にあった原初の自発性を人工的に再構成しよう、という試みはピオ12世があれほど声を高めて排斥した「不健康な考古学主義132」に身を投じることである。さらに言えばそのような試みは典礼様式の保護のために建てられた神学的防御の壁を全て崩し、過去数世紀の長きに亘って典礼を豊かにしてきた全ての美しさを取り除いてしまうことである133。しかもこれら全てが教会の歴史に於いて最も危機的な時(たとえそれが最高の危機を迎える時でなかったとしても)の一つである今なされるとは!

 今日、教会の外だけでなく教会の中に於いてでさえ分裂と離教が公に認められている134。教会の一致はただ単に脅かされているだけではない。教会の一致は既に悲劇的にも蝕まれている135。信仰に反する誤謬はただ単に暗示されているだけではない。謬説は典礼的乱用と逸脱を通して今では公に認められ強制的に押しつけられている。136

 過去4世紀に亘って典礼における一致の印と保証として立ち止まった典礼の伝統を打ち捨てることは、そしてこの典礼を別の典礼で取り替えることは、しかも、それが暗に許可する無数の自由のために、分裂の印以外の何にもなり得ない別の典礼、カトリック信仰の完全性に反する暗示や明らかな誤謬を多く含む典礼によって取り替えることは、われわれは良心上はっきりこう言わなければならないが、はかり知ることの出来ない誤りである。

御聖体の祝日に 1969年6月5日

【注はここにあります。】

英語訳はここにあります。


オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿の、新しい「ミサ司式」の批判的研究 注

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1969年9月25日、オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿が、教皇パウロ6世に提出した、新しい「ミサ司式」の批判的研究(Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae)の注です。

1 Missa normativa
2 Consilium ad exequendam Constitutionem de Sacra Liturgia
3 non placet
4 juxta modum
5 Missale Romanum
6 Novus Ordo
7 Quo Primum ここで著者は公布の日付を7月13日と書いているが7月14日の誤りなので訂正して訳した。
8 原注1:「私たちのカノンの祈りは既にDe Sacramentis(4-5世紀)という論文の中に見いだすことが出来る。・・・私たちのミサは本質的な変化なしに、最も古代の共通の典礼から初めて発展したその時代にまで遡ることが出来る。このミサはカエサルが世界を支配しキリスト教信仰を地上から消滅させることが出来ると希望したその時代の原初の典礼の香りをそのまま残している。つまり、われわれの祖先が自分たちの天主であるキリストに賛美も歌を歌うために夜も明ける前から集まり祈ったその時代のものである。・・・キリスト教世界全てを見回しても、ローマ・ミサほど崇敬すべき典礼様式は存在しない。」(A. Fortescue神父 The Mass, a study of the Roman Liturgy, 1912)
「今日あるままのローマ・カノンは大聖グレゴリオにまで遡る。今日まで使われている聖体祭儀の祈りのうち東方教会にも西方教会にもこれ程まで太古に遡るものは存在しない。ローマ教会がそのミサを投げ捨てると言うことは、とどのつまり、ギリシャ正教会だけではなく英国聖公会やまだ聖伝の感覚をいくらかでも残しているプロテスタントの目にさえも、真のカトリック教会であるという主張をすることをもはや否定していることを意味するだろう。」(Louis Bouyer神父)
9 "innumeri praeterea sanctissimi viri animorum suorum erga Deum pietatem, hausitis ex eo ... copiosus aluerunt." 日本語訳は、『新しいミサ典礼書』11ページから始まる使徒座憲章の公式日本語訳を参照した。
10 "ex quo tempore latius in christiana plebe increbescere et invalescere coepit sacrae fovendae liturgiae studium."
11 Sacrosanctum Concilium
12 "ut sigularum partium propria ratio necnon mutua connexio clarius pateant."日本語訳は、南山大学監修の『第2バチカン公会議公文書全集』1986年を参照した。


13 De generali structura Missae
14 Institutio Generalis
15 原注2: このような定義をした理由として新しい式次第は脚注を付け、第二バチカン公会議文章の2つの文章を参照しろと言う。しかし、この2つの文章を見てみてもこのような定義を正当化させるのもはまったく見あたらない。
 この2つの文章のうちの最初のものは、司祭の役務と生活に関する教令(Presbyterorum Ordinis)の5番から取られている。「...司教の役務執行によって、司祭は天主から聖別されて特別な方法でキリストの司祭職に参与するものとなり、聖なる祭儀の挙行においては、典礼の中で常にわれわれのために自分の霊を通してその司祭としての任務を行うキリストの役務者として行動する。司祭は...特にミサの挙行によってキリストの供え物を秘蹟的に捧げる。」
 2つ目は、典礼憲章の33番から取られている。「典礼において、天主はその民に語り、キリストは今も福音を告げている。そして、民は歌と祈りとをもって神に答える。」「なお、キリストに代わって(in persona Christi)集会を司る司祭が神に捧げる祈りは、聖なる民全体と、参加者一同の名によって唱えられる。」
 しかし、これらの文章からどうやって新しい式次第によって定義づけられたミサの定義へとたどり付くのか見当が付かない。
 さらに、この新しいミサの定義は第二バチカン公会議の与えたミサの定義と抜本的に変わっていることを指摘しよう。なぜなら、第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令Presbyterorum Ordinis」(5番)には、「聖体祭儀の集会は信者の集いの中心である」"Est ergo Eucharistuica Synaxis centrum congregationis fidelium"とあるのにもかかわらず、新しいミサの式次第では「中心」という言葉が取り除かれ、「聖体祭儀の集会は、信者の集いである」となっているからである。こうして「集会・集うこと"congregatio"」という言葉がミサの定義の地位を不正にも奪ってしまった。
16 "Cena dominica sive Missa est sacra synaxis seu congregatio populi Dei in unum convenientis, sacerdote praeside, ad memoriale Domini celebrandum. Quare de sanctae Ecclesiae locali congregatione eminenter valet promissio Christi 'Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum'(Mt.XVIII, 20)."
 日本語の公式翻訳では、sacerdote praesideの翻訳が「キリストを代理する司祭を座長として」と原文にはない言葉が補われて訳されている。日本語に訳した方は、ミサの定義が、あまりにも不十分なので、敢えてこの語を追加したのだろう。
17 cena
18 原注3: トリエント公会議は、次のように主の御聖体における実際的現存を宣言した。「聖なる公会議は、次のことを教え、明らかに絶対的に宣言する。まず第1に、聖体の畏れ多き秘跡において、パンとぶどう酒の聖別の後、まことの天主であり、まことの人である我々の主イエズス・キリストが、パンとぶどう酒という感覚的な外見もとに、真に、現実に、実体的に現存する。」(DS1636)
また、トリエント公会議は、ミサが目に見える真の犠牲であり、象徴的な表現ではないことを宣言した。「我々の主であるイエズス・キリストは、自分の花嫁である教会に目に見える犠牲を残そうと望まれた。…この犠牲によって十字架上でただ一度成就されようとしていた流血の犠牲が眼前に現れ、…その救いの力が、我々の日々の罪が赦されるように適応されるためであった。」(DS1740)
しかも、公会議はいけにえを捧げ、犠牲を執行し、司式する者は、このために聖別された司祭であり、天主の民の集会ではないことを宣言した。「イエズス・キリストは『メルキセデクの位による永遠の司祭』であると宣言し、ご自分の体と血をパンとぶどう酒の形色のもとに、聖父である天主に捧げた。そして、使徒たちにパンとぶどう酒のもとに拝領するように自分の体と血を与え、彼らをその時、新約の司祭として制定した。彼らと、彼らの司祭職における後継者たちに、主は「これを私の記念として行え」という言葉をもって、この犠牲を捧げることを命じた。これは、カトリック教会が常に理解し教えてきたことである。」(DS1740)「『私の記念としてこれを行え』という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の御体と血を捧げるように定めたのでもないという者は、排斥される。」(Canon 2, DS 1752)
さらに、ミサが、単なる十字架の記念ではなく、罪の赦しの力を持つ真実の犠牲であることを宣言した。「ミサの犠牲は、ただ賛美と感謝のためであるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いのためでないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきではない、と言う者は排斥される。」 (Canon 3, DS 1753)
更に、次の2つの排斥文も記憶しておこう。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきであるという者は、排斥される。」(Canon 6, DS1756)
「司祭だけが聖体の秘跡を拝領するミサは不法であるから廃止すべきである、と言う者は、排斥される。」(Canon 8, DS1758)
19 superamento
20 原注4: 改めて言うまでもなく、もし定義された教義のうち一つでさえも否定するなら、最高位階制度による教導権の不可謬性の原理そのものを否定することになるので、その一つ教義の否定自体ですべての教義は否定されることになる。
21 "eminenter"
22 instituantur et reficiantur
23 tutto illegittima
24 separatamente e in assoluto
25 Actio Christi et populi Dei; Cena Dominica sive Missa; Convivium Paschale; Communis participatio mensae Domini; Memoriale Domini; Precatio Eucharistica; Liturgia verbi et liturgia eucharistica
26 ossessivamente
27 Memoriale Passionis et Resurrectionis Domini
28 原注5: もし、この表現がUnde et memoresと言うミサ中の祈りから発想を得たものだとするなら、この祈りにあるように、ご受難とご復活の後に御昇天を付け加えるべきであった。しかし、この祈りを詳しく研究すると、決して本性を異とする現実をごちゃ混ぜにはしていないことがわかる。いや、この祈りは繊細に、それでいて鮮明に、それらを区別している。「我らは主の幸いなるご受難を思い起こすのみならず、さらには、主の古聖所からのご復活、そして尚かつその栄光ある天への昇天を記憶する(… tam beatae Passioni, necnon ab inferis Resurrectionis, sed et in caecum gloriosae Ascensionis)」となっているからである。


29 詩編40:7-9、ヘブレオ10:5
30 原注6: 「感謝の祈り」(日本語では「奉献文」)と言われている新しい3つの典文は、やはり同じように、強調される部分がずれている。驚くべきことに死者の記念が取り除かれ、煉獄における霊魂の苦しみに関する言及が一切ない。しかし、償いの犠牲は、煉獄で苦しむ霊魂に適応されなければならない。
31 新しいミサのなかで、日本語では「供え物の準備」と言われている。
32 "Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate acceptimus panem (vel vitis) quem offerimus, fructum terrae (vel vitis) et manuum hominum, ex quo nobis fiet panis vitae (vel potus spiritualis)"(このラテン語を日本語に直訳すると次のようになる。「主よ、宇宙の天主よ、御身は賛美せられさせ給え。そは、我らが御身に捧げ奉るパン(或いは、ぶどう酒)は、御身の御恵みによりて我ら受け取り奉りたるがゆえなり。そは大地(或いは、ブドウの木)と労働の実り、そこから、我らのために命の糧(或いは、霊的飲み物)となるものなり。」)
原注7: パウロ6世の回勅Mysterium Fideiを参照せよ。この回勅の中で、パウロ6世は象徴主義の誤謬と同時に「意味変化transignificatio」や「目的変化transfinalizatio」という新説を排斥している。
33 Panis vitae
34 Potus spiritualis
35 原注8: 教父や教導職の文章に、確かに言葉としては見いだされる、言い回しや言葉使いが、それらが持っていた意味や文脈、また教義全体から離れ、それに言及されずに絶対的かつ新しい意味で再び使われている。(例えば、霊的糧spiritualis alimonia, cibus spiritualis, 霊的飲み物potus spiritualis)しかし、このようなことは、パウロ6世の回勅Mysterium Fideiの中で充分に摘発され排斥されたことである。
36 "Deus qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condidisti et mirabilius reformasti"
37 "Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam: ut in conspectu divinae majestatis tuae, pro nostra, et totius mundi salute cum odore suavitatis ascendat. Amen."(主よ、我らは御身に救いのカリスを御身の憐れみをこいねがいつつ捧げ奉る。そは、我らと全世界の救いのために、御身の天主の御稜威の御前に、芳しき香りと共に立ち上らんがためなり。)
38 cum odore suaviatis
39 総則49「感謝の典礼の始めに、キリストの体と血になる供え物が祭壇に運ばれる。…教会のため、また貧しい人のために信者が持ってくるか、あるいは道内で集めるかした献金または他の捧げものも奉納される。」


40 原注9: このことは、第2バチカン公会議の典礼憲章48番の規定と明らかに矛盾している。
41 prex eucharistica
42 "ut tota congregatio fidelium se cum Christo coniungat in confessione magnalium Dei et in oblatione sacrificii."
43 "Nunc centrum et culmen totius celebrationis initium habet, ipsa nempe Prex eucharisitica, prex scilicet gratiarum actionis et sanctificationis."
44 Suscipe, sancte Pater, omnipotens aeterne Deus, hanc immaculatam hostiam quam ego indignus famulus tuus offero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabilibus peccatis et offensionibus et negligentiis meis, et pro omnibus circumstantibus, sed et pro omnibus fidelibus christianis vivis atque defunctis: ut mihi et illis proficiat ad salutem in vitam aeternam.(聖なる聖父、全能永遠の天主よ、私のまことの生ける天主である御身に、私の無数の罪と犯罪と怠りのため、また周囲にいる全ての人々のため、さらには、生存している、そして、既に亡くなった全てのキリスト教信者のために、御身の不肖なるしもべである私が、捧げる、この汚れなきいけにえを受け入れ給え。それは、私と彼らとにとって、永遠の生命へと救われるために益となるためである。)
45 nutrimentum
46 "Veni, Sanctificator omnipotens aeterne Deus: et benedic hoc sacrificium tuo sancto nomini praeparatum."(聖とならしめ給うもの、全能の永遠の天主よ、来たりて御身の聖なる聖名にそなえられたこのいけにえを祝し給え。)
47 総則233番には、「ミサの中ではひざまずく表敬が3回行われる。すなわち、パンを会衆に示した後、カリスを会衆に示した後、及び拝領前」とある。ただし、日本では、跪くことが全て「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の84番や98番、同じく233番などを見よ。また、祭壇に接吻することも「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の85番を見よ。
48 総則103「カリスをコルポラーレの上に置き、場合によってはパラで覆う。」となっており、パラの使用は義務ではなくなっている。
49 総則294「金属製の祭器は、さびを生ずるものであれば、内側全面を金メッキしなければならない。さびを生じない金属や上等な金製のものは、金メッキの必要はない。」
50 総則265「固定祭壇であれ、可動祭壇であれ、典礼書に記載されている儀式にしたがって聖別される。ただし可動祭壇は、ただ祝福することだけ[で使用すること]が出来る。」
51 mensa
52 総則265「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机には、聖別された石を置く必要は全くない。」
53 総則268「主の記念祭儀に対する尊敬、ならびに主の体と血が供される会食に対する尊敬を表すために、祭壇上には少なくとも1枚の食卓布を敷く。」
54 grottesco ringraziamento di prete e fedeli seduti
55 reverenter accipiatur
56 quasi sarcastico
57 mensa 原注10: 祭壇のもっとも主要な機能が述べられているのは、ただ1度だけ総則の259番でしかない。"Altare, in quo sacrificium crucis sub signis sacramentalibus praesens efficitur."(祭壇は、十字架のいけにえが秘跡的なしるしのもとに現在のものとなる場所である。)しかし、これだけでは、その他の名称が頻繁に使われていることによる不明確さを消し去るには、あまりにも少なすぎる。
58 "Altare, seu mensa dominica, quae centrum est totius liturgiae eucharisticae"(n.49)
59 総則262「中央祭壇は、容易に周りを回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から離して建造する。またその位置は、全会衆の注意が自ずから集まる真に中心となる場所であるようにする。」
総則276「聖体を保存する場所は、信者の個人的な礼拝と祈りに相応しい小聖堂のなかに設置されることが切に勧められる。これが出来ない場合には、…聖体は、ある祭壇、もしくは教会堂内の、…他の場所に保存するものとする。」
60 原注11: ピオ12世教皇は、1956年9月23日、典礼大会への講話の中でこう言っている。「祭壇から御聖櫃を切り離すこと、それはその起源と本性とによって結合していなければならない2つのものを切り離すことです。」
61 原注12: 新しい式次第は「ホスチア」という言葉をほとんど使っていない。「ホスチア」という言葉は典礼書における伝統的な表現であり、「いけにえ」という正確な意味を持っている。「ホスチア」という言葉が使われていないことに、またもや、「晩餐」とか「食べ物」という観点にのみ焦点を当てようとしている計画的な同じ意志を読まざるを得ない。
62 原注13: 一つのことを別のことで置き換える、あるいは取り替える、という常套手段によって、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっている(総則7「「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。十字架のいけにえが続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」及び54番)しかし、真実は、この2つのことは別の本性の事柄である。御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、つまりそれを使うということにおいてin usu、現実のものとなる。しかし、御聖体における現存は客観的に、恒常的に、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、常にある。次のような言い回しは、典型的にプロテスタント的な言い方である。「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)このような言い方には、厳密に言って、いかなる意味もない。なぜなら、天主が御言葉のうちに現存することは直接的ではないからである。この御言葉における現存は、人間の時間と空間に限られた精神の行為に結びついているからである。この間違った言い方による悲劇的な結論は、このような言い方によって、御聖体における現実の現存が、御言葉における主の現存のように、それを使うということに結びついているのではないかということを暗示していることである。すなわち、それを使っていなければ、つまり、御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存していない、ということを暗示してしまっている。
63 Haec quotiescumque feceritis, in mei memoriam facietis.
64 in mei memoriam
65 volti alla mia memoria
66 Haec…, in mei memoriam facietis.
67 Hoc facite in meam commemorationem.
68 原注14: 秘跡を執行するということは、『新しい司式』の総則の中で命令されている限りにおいて、イエズスが使徒たちにご自分の御体と御血をパンとぶどう酒の形色のもとにおいて「食べるために」与えられたという事実と同時であったということも意味されている。そのために、秘跡を執行するということは、もはや聖別という行為に存していない、すなわち、御体と御血との分離である、ということに存していない。しかし、このことにミサのいけにえという現実の本質のもののが属しているのである。(ピオ12世の回勅『メディアトル・デイ』を見よ。)
69 "naratio institutionis"
70 Ecclesia memoriam ipsius Christi agit.
71 「エピクレーシス」とは、奉献されたホスチアが聖変化するように天主の力を祈り求める教会の祈願のことである。
72 Hoc est Corpus meum
73 Hoc est Corpus Christi
74 原注15: 新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉は司祭の意向のお陰によって有効であり得る。しかし、この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。[Le parole della Consacrazione, quasi sono inserite nel contesto del Novus Ordo, possono essere valide in virtu dell'intenzione del ministro. Possono non esserlo perche non lo sono piu ex vi verborum o piu precisamente in virtu del modus significandi che avevano finora nella Messa. I sacerdoti che, in un prossimo avvenire, non avranno ricevuto la formazione tradizionale e che si affideranno al Novus Ordo al fine di "fare cio che fa la Chiesa" con-sacreranno validamente? E lecito dubitarne.]
75 "Mortem tuam annuntiamus, Domine, etc… donec venias."(主よ、御身の来るまで、我らは御身の死を告げ知らせよう。)
76 "Quotiescumque manducamus panem hunc, et calicem bibimus, mortem tuam annu-tiamus, Domine, donec venias."
77 原注16: プロテスタント的な批判がよくやるようにこれらの表現は聖書の同じ文脈に載っている(コリント前書11:24-28)と言わないように。なぜなら、教会は異なった表現で表される異なった現実を混同しないように、常にそれらの表現を並べたり、重ねたりするのを避けてきたからである。


78 Autonoma (absoluta)
79 Missa est sacra synaxis seu congregatio populi.
80 "Qua salutatione et populi resonsione, manifestatur ecclesiae congregatae mysterium."(この挨拶と会衆の応答は、ともに集まった教会の神秘を表す。)
81 cum populo
82 sine populo
83 "populus sui sacerdotii munus exercens"(総則45番「共同祈願、すなわち信徒の祈りにおいて、会衆は、自分の祭司職の務めを実行して、全ての人のために祈る。」)
84 Prex eucharistica III
85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Descl?e 1930, t. III)
87 in persona Christi
88 "quidam de populo"
89 エピクレーシスについて、総則の55番「ハ」は、こう言っている。「この特別な祈りによって、教会は神の力を願い求め、…祈る。」
90 in persona Christi
91 原注18: キリスト教を信ずる民にとって信じられないほどの、且つ、悲惨な改革は、聖金曜日の祭服の色が黒ではなく、赤になったことである(総則308番のロ)。赤は、特に殉教者を記念する色であり、教会がその花婿であるイエズス・キリストの死を喪に服す色ではない。
92 原注19: これは、フランスのドミニコ会司祭Pere Roguet O.P.のことである。
93 "un homme un peu plus homme que les autres"
94 actio Christi et Ecclesiae
95 "Presbyter celebrans... populum... sibi sociat in offerendo sacrificio per Christum in Spiritu Sancto Deo Patri"
96 per Spiritum Sanctum Deo Patri
97 paschalismo
98 "prex eucharistica IV"
99 "pro omnibus orthodoxis atque catholicae fidei cultoribus"
100 "omnium qui te quaerunt corde sincero"
101 "cum signo fidei, et dormiunt in somno pacis"
102 "obieunt in pace Christi tui"
103"Quorum fidem tu solus cognovisti"
104 原注20: ローマ・カノンの翻訳のうちいくつかは、"locus refrigerii,lucis et pacis"(すずしみと光と平和の場所)が、「至福、光、平和」という状態として訳されている。「苦しむ教会」に関して明確な言及が消え失せてしまったことについては何と言ったらよいだろうか!
105 原注21: この省略omissionの病熱の最中に、ただ一つ付け加えられた言葉がある。それは、告白の祈りのなかで罪を告白し、「思い」と「言葉」と「行い」に続けて「怠りomissio」の罪が付け加えられたことである。
106 Communicantes, et momoriam venerantes, in primis gloriosae semper Virginis Mariae, Genitricis Dei et Domini nostri Jesu Christi, sed et beatorum Apostolorum ac Martyrum tuorum, Petri et Pauli, Andeae, Jacobi, Joannis, Thomae, Jacobi, Philipi, Bartholomaei, Matthaei, Simonis et Thaddaei: Lini, Cleti, Clementis, Xysti, Cornelii, Cypriani, Laurentii, Chrysogoni, Joannis et Pauli, Cosmae et Daminai: omnium Sanctorum tuorum; quorum meritis, precibusque concedas, ut in omnibus protectionis tuae muniamur auxilio. Per eundem Christum Dominum nostrum. Amen.(聖なる一致をしつつ、我らは、まず、我らの天主なる主、イエズス・キリストの御母、終生童貞なる光栄あるマリアの記念を謹んで行い奉る。また更に、主の聖なる使徒かつ殉教者、ペトロとパウロ、アンドレア、ヤコボ、ヨハネ、トマ、ヤコボ、フィリッポ、バルトロメオ、マテオ、シモンとタデオ、また、リノ、クレト、クレメンテ、シクスト、コルネリオ、チプリアノ、ラウレンチオ、クリソゴノ、ヨハネとパウロ、コスマとダミアノ、および主の全ての聖人らの記念を恭しく行い奉る。願わくは、彼らの功徳と祈りとによって、我らが全てにおいて御身の保護の助力を与え給わんことを。同じ我らの主キリストによりて、アーメン。)
107 Libera nos, quaesumus, Domine, ab onmibus malis, praeteritis, praesentibus, et futuris: et intercedente beata et gloriosa semper Virgine Dei Genitrice Maria, cum beatis Apostolis tuis Petro et Paulo, atque Andrea, et omnibus Sanctis, da propitius pacem in diebus nostris: ut ope misericordiae tuae adjuti, et a peccato simus semper liberi, et ab omni perturbatione securi.(主よ、願わくは、過去、現在、未来の全ての悪より我らを救い給え。終生童貞なる永福の光栄ある天主の御母マリアと御身の至福なる使徒ペトロとパウロ、また、アンドレアとともに、全ての諸聖人のおん取り次ぎにより、おん慈悲をもって今日平安を与え給え。そは、おん憐れみの御業に助けられ、常に我らが罪から救われ、全ての惑わしから安全に守られんがためなり。)
108 原注22: 新しい司式が提示されたとき記者会見の席で、レキュイェ神父P?re L?cuyerは理性だけを信じているという「信仰宣言」をはっきりとし、会衆の参加していないミサでの挨拶は、「Dominus tecum主はあなたと共に」「Ora, frater兄弟よ祈れ。」という言い方を考えているとさえいった。これは、「作り事がなくなり、真理に適わないことがなくなるためである」(ソノママ)とのことである。
109 "tremendum mysterium"
110 "Aufer a nobis"の祈り
111 "Oramus te, Domineの祈り
112 "Aufer a nobis"
113 "Omramus te, Domine"
114 "mensa" 総則の260番には、「感謝の祭儀は、…聖堂以外の場所においては、…適当な机の上でも行うことが出来る。但し必ず食卓布とコルポラーレを備えなければならない」とある。総則の265番には「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机(260参照)には、聖別された石をおく必要はない」とある。
115 "convivium"
116 総則244番の「ニ」によると、「助祭または教会奉仕者[これは、いわゆる侍者のことである。]は、カリスとプリフィカトリウムを拝領者に差し出し、拝領者は、適宜に、自分の手で、カリスを口に持って行く。拝領者は、左手でプリフィカトリウムを口の下に保ち、こぼさないように注意しながら、少量の御血をカリスから拝領する」とある。
117 総則65:「教会奉仕者は、祭壇での奉仕と、司祭及び助祭を助けるために選任される。教会奉仕者には、特に祭具の準備をすること、及び特別奉仕者として聖体を信者に授けることが委ねられる。」
118 総則66:「聖教奉仕者は、福音を除き、聖書を朗読するために選任される。また共同祈願の意向を述べ、詩編朗読者がいないときには、朗読の合間に詩編を唱えることが出来る。宣教奉仕者は、感謝の祭儀において、固有の役割を持っている。この役割は、より上級の位階の奉仕者がいる場合にも、宣教奉仕者自らが果たさなければならない。」
119 総則67:「朗読の間にある詩編または聖書参加を朗唱することは詩編朗唱者の務めである。」
120 総則68の「イ」:「解説者=信者を祭儀に導き、よりよく理解させるために、信者に指示や説明を与える。」
121 総則68の「ロ」:「案内係=地方によっては、教会の入り口で信者を迎え、適当な席に案内し、また行列を整理する。」
122 総則68の「ハ」
123 総則68「また、ミサ典礼書、十字架、ろうそく、パン、ぶどう酒、水、香炉を運ぶ者がある。」
124 mulier idonea 総則70:「助祭に固有な役務以外の役務は、選任を受けていなくとも、男子信徒が行うことが出来る。司祭席の外で行われる役務は、…女子にも委ねることが出来る。」
125 "ministeria quae extra presbyterium peraguntur"
126 原注23: このことに関して、今ではたとえ司祭が共同司式の前或いは後に一人でミサを捧げなければならない時でさえも、司祭はもう一度共同司式の時に両形色で聖体拝領することが合法的になってしまったようである。


127 原注24:「ヒッポリトのカノン」として提示されたが、実際はいくらかの言葉がそのまま使われているだけで何も残ってはいない。
128 原注25: "Gottesdienst" no.9, 14 Mai 1969


129 原注26: ビザンチン典礼に於いて見いだされる次の要素を考察せよ。長い何度も繰り返される悔悛の祈り。司式司祭と助祭の祭服を着るための荘厳儀式。プロスコメディアという捧げものの準備のそれ自体で完全な一つの典礼様式。たとえ奉献の祈りの最中であっても聖母や諸聖人への何度も繰り返される祈祷。福音を読むときに「目に見えない共同司式者」としての天使の諸階級への祈り。聖歌隊はケルビコンと名付けられ、天使の階級の一部と見なされている。聖所を教会のその他の部分と区別し聖職者を平信徒と分離させる至聖所の幕(イコノスタシス)。全典礼がそれへと意味付けられている天主の神秘を象徴する隠れた聖変化。天主へと面し決して会衆に対面しない司式司祭の姿勢。聖体拝領は必ず司式司祭によってのみ配られること。聖変化した両形色に対する絶えざる礼拝の印。会衆の本質的に観想的な態度。東方典礼に於いてはたとえそれがあまり荘厳でない様式に於いてでも1時間以上続き「敬虔の念を起こさせ、言語を絶する、・・・天的な、命を与える神秘」として常に定められている。また、ローマ・ミサに於いてそうであったように、聖ヨハネ・クリソストモの典礼と聖バシリオの典礼に於いて、いかに「晩餐」や「会食」の考えがいけにえの考えに明らかに従属しているかということを最後に記しておく。


130 "Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem Omnipotentis Dei ac beatorum Petri et Pauli Apostolorum eius se noverit incursurum."
原注27: トレント公会議第23総会に於いて(御聖体についての教令に於いて)その宣言の目的をこう定義した。「御聖体の使用と礼拝についての信仰の教えに於いて、この宿命的な時代に於いて敵がまいた排斥されうる誤謬と離教の毒麦を完全に根こそぎにするため。主は御聖体によって全てのキリスト者を一つにまとめ結びつけようと望まれ、我らの主はご自分の教会に一致と愛との象徴として御聖体を残された。」(DB.873)
131 ティモテオへの第一の手紙6:20「おまえに委ねられたものを守れ。新奇な言葉に惑わされるな。」
132 原注28: ピオ12世回勅『メディアートル・デイ』1. §3には、こうある。
「心と魂によって、教会の典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。典礼の研究、特にその起源の研究によって、祝日の意味や、用いられる式文の意味、教会の儀式の意味をより深くより正確に知ることが出来る。これに反して、何が何でも全てを古代の状況に戻そうとするのは、賢明でもないし、賞賛すべきことでもない。例えば、祭壇のもとの形を復興しようとしてテーブルのこれに変えようとするもの、祭服には決して黒色を用いないと言う人々、聖画や聖像を聖堂から取り除こうと言う人々、救い主がお受けになった激しい苦難を表さないような十字架を要求する人々、そして使徒座から与えられた規定に合っているのに混声音楽を非難したり否定したりする人々は、正しい道から外れている。…このような思想や態度は、非合法なピストイアの教会会議があおり立てた不健全な考古学主義を復興させようとするものであり、またそれは、この会議を不法なものとし、人々の霊魂に大きな害を与えた種々の誤謬を復古しようとするものである。天主である創立者から委ねられた「信仰の遺産」の常に忠実な守護者である教会は、当然のことながらそれを否定した。」
 ここで、ピオ12世は、1794年8月28日ピオ6世が発布した使徒憲章Auctorem Fideiを参照させている。たとえば、
(33)「ピストイア会議は、典礼に関する諸原則の一部を忘れてきた原因を除くために、『儀式の簡素化、自国語による典礼、声高く唱えること』を望んでいる。こうして、教会によって認められている現行の典礼は、諸原則の一部を忘れたことから導入されたかのように主張している。…この命題は軽率、信心深いものを傷つけ、教会を傷つけ、教会を攻撃する異端者を助長する。」(DS2633)
また、(66)には、「『信徒が全教会と声を合わすようにしなければ、それは使徒自体の実践と天主の勧めに反することである』と主張することは、すなわち、典礼上の祈祷に国語の使用を取り入れようとすることは、誤りであり、軽率であり、諸秘義の執行の秩序を乱すものであり、数多くの悪弊を導入するものである」とある。
133 原注29: パウロ6世回勅『エクレジアム・スアム』1964年4月3日
134 原注30: パウロ6世、1969年4月3日聖木曜日の説教「実際上離教的なパン種が、教会を分裂させ、分断し、粉々にしています。」
135 原注31: パウロ6世、同じく、1969年4月3日聖木曜日の説教「私たちが今読んだばかりのコリント人への第1の手紙の中で聖パウロが優しく告発しているこの離教とこの分裂が私たちの中にもあるのです。」
136 原注32: 第2バチカン公会議について、よく知られた事実が、現在、自ら自分がその教父であったと自慢している人たちがこの公会議を否定していることである。彼らは公会議の内容を「爆発させよう」と決心して公会議を終えて帰路についた人たちである。反対に、教皇聖下は閉会の時に、この公会議はいかなる変化をも導入しなかった、と宣言された。不幸なことに聖座は、「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」を仲介にして、説明の出来ないほどの早さで、公会議の文章に不忠実であることを(しかもこの不忠実さは日増しに増加ばかりするのであるが)許し、しかも推奨している。この不忠実さは、見かけ上はただ単に形式的なものに過ぎない変更(ラテン語、グレゴリオ聖歌、尊敬を払うべき典礼様式、等々)から信仰の実体に触れさえする様々な変更にまで至っている。私たちがこの研究によって明らかにしようとした恐るべき結果は、また更に心理学上より劇的に、規律の部門において、またキリスト教会の教導権の分野において、影響を及ぼしており、それと同時に、聖座が持つ名誉ある地位とこれに払わなければならない従順とを揺るがしてしまっている。

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳) 1969年9月25日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、東京でのミサが終わった後、新しいミサについてコメントを求められました。そこで、私個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。

 ご指摘したものの一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。

 以下に、オッタヴィアーニ枢機卿がバッチ枢機卿と連名で教皇パウロ六世に提出したお手紙をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)
1969年9月25日、ローマにて

教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由係に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけださざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

 オッタヴィアーニ枢機卿・バッチ枢機卿(署名)

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙の原文

Beatissimo Padre,
esaminato e fatto esaminare il Novus Ordo preparato dagli esperti del Consilium ad exquendam Constitutionem de Sacra Liturgia, dopo una lunga riflessione e preghiera sentiamo il dovere, dinanzi a Dio ed alla Santità Vostra, di esprimere le considerazioni seguenti:

1) Come dimostra sufficientemente il pur breve esame critico allegato - opera di uno scelto gruppo di teologi, liturgisti e pastori d’anime - il Novu Ordo Missæ, considerati gli elementi nuovi, suscettibili di pur diversa valutazione, che vi appaiono sottesi ed implicati, rappresenta, sia nel suo insieme come nei particolari, un impressionante allontanamento dalla teologia cattolica della Santa Messa, quale fu formulata nella Sessione XXII del Concilio Tridentino, il quale, fissando definitivamente i «canoni» del rito, eresse una barriera invalicabile contro qualunque eresia che intaccasse l’integrità del magistero.

2) La ragioni pastorali addotte a sostegno di tale gravissima frattura - anche se di fronte alle ragioni dottrinali avessero diritto di sussistere - non appaiono sufficienti. Quanto di nuovo appare nel Novus Ordo Missæ e, per contro, quanto di perenne vi trova soltanto un posto minore o diverso, se pure ancora ve lo trova, potrebbe dar forza di certezza al dubbio - già serpeggiante purtroppo in numerosi ambienti - che verità sempre credute dal popolo cristiano possano mutarsi o tacersi senza infedeltà al sacro deposito dottrinale cui la fede cattolica è vincolata in eterno. Le recenti riforme hanno dimostrato a sufficienza che nuovi mutamenti nella liturgia non porterebbero se non al totale disorientamento dei fedeli che già danno segni di insofferenza e di inequivocabile diminuzione di fede. Nella parte migliore del Clero ciò si concreta in una torturante crisi di coscienza di cui abbiamo innumerevoli e quotidiane testimonianze.

3) Siamo certi che questa considerazioni, che possono giungere soltanto dalla viva voce dei pastori e del gregge, non potranno non trovare un’eco nel cuore paterno di Vostra Santità, sempre cosí profondamente sollecito dei bisogni spirituali dei figli della Chiesa. Sempre i sudditi, al cui bene è intesa una legge, laddove questa si dimostri viceversa nociva, hanno avuto, piú che il diritto, il dovere di chiedere con filiale fiducia al legislatore l’abrogazione della legge stessa.

Supplichiamo perciò istantemente la Santità Vostra di non volerci togliere - in un momento di cosí dolorose lacerazioni e di sempre maggiori pericoli per la purezza della Fede e l’unità della Chiesa, che trovano eco quotidiana e dolente nella voce del Padre comune - la possibilità di continuare a ricorrere alla integrità feconda di quel Missale Romanum di San Pio V dalla Santità Vostra cosí altamente lodato e dall’intero mondo cattolico cosí profondamente venerato ed amato.

A. Card. Ottaviani
A. Card. Bacci


新しい「ミサ司式」の批判的研究(1969年6月5日)
Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae

1規範ミサと新しい「式次第」

2ミサの定義 

3ミサの目的 

4いけにえの本質 

5いけにえを実現させる4つの要素
 
1) キリスト
2) 司祭
3) 教会
4) 信者

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

7宗教統一運動

8結論


ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近、新しいミサについてコメントを求められました。私は、個人のコメントではなく、カトリック教会を代表する方々がどのようなコメントをしているかをご紹介しました。
 一つは、新しいミサが出た当時「険邪聖省」の長官であったオッタヴィアーニ枢機卿の批判です。

 私が指摘したいもう一つは、ベネディクト十六世引退教皇(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)が長い間何度も指摘した典礼改革についての厳しい批判と疑問です。そのうちここでは3つの証拠を提示します。



 詳しくは12年前に発表したマニラのeそよ風(第328号 2006/02/05)をご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、典礼改革に対する疑問を『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』の中で述べています。

(1)第二バチカン公会議後の典礼改革には問題があった。

【公会議後の典礼改革は、典礼の凡俗化・司牧的不賢明・軽はずみ】
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(158ページ)

【公会議後の典礼改革は、典礼レベルの低下化・司牧的幼稚症、見直しが必要】
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(159ページ)

【公会議後の典礼改革は、陳腐・平凡・愚鈍・退屈】
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(161ページ)

(2)典礼改革に問題があったのは、公会議文書の文字ではなく精神に従うべきだとする「断絶の解釈」に従ったため。

【典礼において、第二バチカン公会議の憲章と実際的適応とに著しい差異がある】
 ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 「第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。」(161ページ)

【グレゴリオ聖歌を切り捨てたことにおいても、公会議からの理論的・実践的離反がある】
 第二バチカン公会議が「教会の宝」、すなわち全人類の宝と呼んで、「最大の勤勉さで」保存するだけでなく、盛んにするようにと奨励して称賛を惜しまない教会音楽、西方カトリック教会の伝統的音楽・・・ ところで、この第二バチカン公会議の意志は受け継がれたのか?・・・「多くの典礼学者たちは、その宝を "僅かの人にしかなじめないから (esoteric)" と言って切り捨て、公会議後の典礼の "どんなときにもみんなに分かりやすい" 聖歌の名において、教会音楽を敬遠した。だから、特別な機会に大聖堂などで例外として使用されても、教会音楽はもう存在しない。その代わりに、"ありきたりの音楽(utility music)"、易しいメロディー、カンツォネッタ、はやり歌(catchy tunes)が取り入れられることになった。」(168ページ)

【グレゴリオ聖歌の「美の放棄」は「司牧的敗北」の原因】
「美を追放し、ただ実利だけを追求するところで示される恐るべき貧しさは、ますますはっきりしたものになってきた。"みんなに分かりやすい" 唯一のカテゴリーですまそうとすることが、本当に典礼をより分かりやすく、より開かれたものにしたのか、ただ貧相な典礼にしかしなかったのではないか、経験はそれを示している。・・・ "活発な参加" という名のもとに、素晴らしい教会音楽は排斥された。それにしても、この "参加" は、精神と五感を持って知覚することをも意味していないだろうか? 傾聴し、直感し、感動することは、"活発な" ことではないというのか?・・・ "はやり" の音楽をつくるだけに矮小化した教会は無能のうちに没し、教会そのものも無能になるだろう。」(168-169ページ)

(3) 「断絶の解釈」の根本に、公会議は、新しい典礼を作る会議であるかのように考える誤りがある。何人であっても、たとえ司祭であっても、典礼の僕であって、天主の神秘の主人ではない。

【典礼はショーや演劇ではない】
「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」(165ページ)

「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(166ページ)


 ラッツィンガー枢機卿は『里程標:1927年から1977年の思い出』1997年(日本語訳『わが信仰の歩み』春秋社)でも典礼改革に対する疑問を述べています。

--------引用開始---------

 私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。

 しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。

 トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。

 典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。

 いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。

 しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

 これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

 教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。

--------引用終わり---------

 ラッチンガー枢機卿は『典礼の精神』の中でも、典礼改革に対する疑問を述べています。

 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」

【参考資料】
聖伝のミサについて黙考 --- 教会のため私たちに何が出来るでしょうか

初金・初土の聖伝のミサとファチマの聖母行列(大阪) 聖家族の祝日のミサと二人の幼児洗礼(東京)を天主に感謝します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

新年最初の聖伝のミサは、おおくの恵みと祝福で満ちたものでした。

大阪では2018年初の初金曜日、初土曜日の信心を行うことができました。
初金曜日には、顕示されたご聖体の前で聖時間を賛美と祈りと黙想とで過ごしました。

1月6日の初土曜日には、御公現の大祝日でもあり、主の御降誕と御公現の神秘を黙想しつつ、ミサの直後は日本と世界の平和を祈願してファチマの聖母行列を行いました。
聖堂を出る前に、ファチマの聖母に意向をはっきりと述べ、御憐れみを乞い求めつつ、行列を始めました。出発は12時半を過ぎていました。

ロザリオを一連ずつ唱えては、「ファチマのアヴェ・マリア」を歌詞の5番ずつ歌い、喜びの玄義から始まって苦しみの玄義第2連を唱え終わったころ、「北中島公園」に到着し、そこで「ファチマのアヴェ・マリア」の残りを全て40番まで歌いました。その後、「聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り」を皆で唱えました。
最後には、「無原罪の聖母の騎士の歌」を皆で歌いました。























1月7日の主日は聖家族の祝日でした。東京では、二名の赤ちゃんたちが幼児洗礼を受けました。一人はミサの後「日本の聖なる殉教者巡回教会」で、もう一人は生まれたばかりの赤ちゃんで外出できなかったので、晩課の後で洗礼を授けに司祭が参りました。

ミサ聖祭には、56名がミサに与る恵みを得られました。幼児洗礼式にはほとんどの兄弟姉妹の方々が残って洗礼を受けるヨゼフ君を見守って祈ってくださっていました。感謝します! 聖家族の祝日にふさわしい、祝福に満ちた日でした。この大きな御恵みに感謝致します。

この男の子たちが聖なる家庭の元でますます聖徳に導かれますように!日本で聖なる家族がますます増えますように!その聖なる家庭から、日本で多くの召命が輩出されますように!

1月8日の月曜日は成人の日で休日でもあり、12名の方々がミサに与りました。(ミサの後で来られた方を含めると13名の方々が来られました。)天主に感謝します。

最後にこのブログ Credidimus Caritati(略して「クレ・カリ」)のお話しで恐縮です。年末年始にかけて多くの方々が訪問して下さいました。先週の一週間(2017.12.31 〜 2018.01.06)の訪問者の数が、gooブログの全体の中で 949 位となりました。多くの方々が関心を寄せていただいて、ご訪問下さり、心から感謝申し上げます。


いくつかの報告をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

聖母行列をありがとうございました!
ファチマのマリア様と共にロザリオと聖歌をお捧げできたことを心から感謝申し上げます。
あんなに小さな行列で、マリア様に申し訳ありませんでしたが、憐れみ深き御母であられるマリア様は、私たちの意向、小さな行動、小さな犠牲さえも素晴らしく美しく整えられて、イエズス様にお捧げくださったに違いないと思います。
天主の真の平和が聖母の汚れ無き御心により与えられますように!
ファチマの聖母の御取り次ぎをこれからも願います。

天主にまします幼きイエズスの聖心よ、我らを憐れみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

1月7日イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日の御ミサは12年に1度の聖ピオ十世会総会の成功を祈りささげられました。これから7月までの月の第1主日には、この意向で御ミサがささげられるとのこと、心を込めてお祈りしたいと思います。またこの聖家族の祝日に2人も幼児洗礼があるのは素晴らしい祝福のようでした。

産まれて3週間めのヨゼフ君はまだ小さくとても可愛らしかったです。 もう一人のレイモンド君は、まだ産まれて1週間も経ってないので、ご自宅での洗礼式になりました。

聖家族の御ミサではマリア様とイエズス様とヨゼフ様のベトレヘムとエジプト、ナザレトでの御生活を黙想し、聖家族の御生活から、
従順であること、
マリア様に倣うこと
祈りと犠牲をお捧げすること
という3つ遷善の決心をするよう招かれました。

御聖体拝領は、聖ピオ十世会総会の成功のための意向で行いました。

洗礼式には、ほとんどの方がそのまま残られました。正式の赤ちゃんの洗礼式は時間もかかりましたが、小さなお姉ちゃまたちも嬉しそうにちょこちょこ歩きまわる中 たくさんの参列者に見守られての感動する洗礼式でした。

洗礼により罪が許されてこれからの人生が始まるという大切な場面に立ち会うことができたのは、私たちにとってもお恵みでした。

この日、日本中で最も祝福された2人は、この2人の赤ちゃんとご両親たちだったと思いました。

聖ピオ十世会総会の成功をマリア様とヨゼフ様にお祈り致します。マリア様の汚れなき御心を通してイエズス様のもとへ向かいたいと思います。

全世界で活動している聖ピオ十世会(Society of Saint Pius X: SSPX)を統計で見てみます

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会を統計で見てみることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




 2018年1月1日現在、

司祭:637名
神学生:204名
神学校入学準備生:56名
修道士:123名
奉献修道女:79名
ケニアの宣教修道女:19名
聖ピオ十世会のシスター会:195名(修道院:27)【誓願者:178名、修練者:16名、志願者:1名】

本部:1
神学校:6校
管区:14管区
自律修道院:4
小修道院:167(その内フランス管区には40、アジア管区には7)
巡回聖堂:772(その内日本には2)

大学:2校
養老院:7
常駐司祭のいる国:37カ国
宣教に行く国:35カ国
聖ピオ十世会が働いている国:72カ国

2017年9月8日(金) 童貞聖マリアの御誕生 「教会はなぜこんなにマリア様の誕生日を祝うか」「マリア様にお誕生日の贈物を考える」

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2017年9月8日(金)童貞聖マリアの御誕生のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年9月8日、マリア様のお誕生日のミサを捧げています。

この御ミサの後に、マリア様のお誕生日を祝って、小さなお誕生日パーティーがあります。
明日はここで10時30分からミサがあります。
主日にはレネー神父様が夕方の18時からミサをしてくださいます。月曜日も、フィリピンに行かれる前に朝の7時からミサがあります。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様のお誕生日です。
カトリック教会でお誕生日を祝うのはたった3名しかいません。その他の聖人たちは天国での誕生を祝いますが、この3人についてはこの地上での誕生を祝います。イエズス様とマリア様と洗者聖ヨハネです。なぜかというと、この3人は原罪の汚れ無く、罪の汚れ無く生まれてきたからです。

では、この教会が特にマリア様の誕生日になぜこれほど祝うのか、喜ぶのかという事を少し黙想して、

次に、私たちもマリア様をお喜ばせする為に、何か誕生日のプレゼントする事を考える事を提案します。

そして最後に3番目に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では一体なぜ、教会はこんなにマリア様の誕生日を祝うのでしょうか?これはマリア様が原罪の汚れなく生まれてきたからだけなのでしょうか?

聖アウグスティヌスによると、「マリア様は第2のエヴァだから。なぜならエヴァは、私たちの母として全人類の母として自然の母として罪人を生むようになったけれども、原罪を持って子供を生むようになったけれども、マリア様がお生みになったのは、罪のないイエズス・キリストであって、そして私たちを超自然の命にイエズス様と共に十字架の下で生んだから。エヴァは私たちに死をもたらしたけれども、マリア様は私たちに命をもたらしたから。エヴァは不従順によって天主に背いたけれども、天主の言葉を信じなかったけれども、マリア様は天主の言葉を、天使の口から伝えられた天主の言葉を信じて、そして従順によって私たちに命を与えたから。エヴァは私たちに嘆きと悲しみと苦しみをもたらしたけれども、マリア様は私たちに喜びと慰めと救いをもたらしたから。」

まさに、この蛇に負けてしまった最初のエヴァが、約束された通りに人類に約束された通り、蛇の頭を踏み砕く創世記に約束された待ちに待った御方が、マリア様だったからです。

ですから、このマリア様の誕生を全人類は待ちに待っていましたし、教会は心からこの御誕生をお喜びするのです。このマリア様がお生まれになったという事は私たちにつまり、私たちを超自然の命に生んで下さる霊的な母が与えられた、ですから教会は喜んでいます。

マリア様が私たちに一番心を砕いていらっしゃるのは、私たちが天国へと必ず導かれるように、天国に生まれるように、永遠の命に生まれるように、という事です。ですからマリア様は、天国で私たちの為に一生懸命にお祈りなさって、私たちの為に取り次いで下さり、そして私たちが天国に行く事ができるようにと、いつもハラハラドキドキされています。

このマリア様に私たちはどうやったらお喜びを与える事ができるでしょうか?

マリア様はただ天国でこうやって、こう指をくわえて私たちの為に待っているだけではありませんでした。天国から100年前にファチマに現れて、子供たちにお教えになりました。マリア様は6回現れた時に、そのたび毎にお願いした事があります。子供たちに、そして子供たちを通して私たちにお願いした事があります、「毎日ロザリオを唱えなさい。あなたたちを助ける事ができるのはこの方だけです。」

マリア様は決して決して無駄な事は仰いませんし、嘘はつきません。もしもマリア様が天からわざわざ私たちの元にやって来て、「どうぞ子供たちよ、聞いてください。今から大切な事を言いますよ。ロザリオを唱えなさい。」6回が6回すべて仰いました。これを見ると、ロザリオを唱えるという事がどれほど大切か、マリア様にとって私たちに願っている事か、という事が分かります。

シスタールチアによると、ジャシンタが一番心に打たれた事は4つあるそうです。

1つは、地獄の光景。地獄を見て、多くの霊魂が落ちるというのを見て、そしてたくさんこの霊魂を救う為にロザリオを唱えるようになった。

また、マリア様の汚れなき御心が第2の印象付けだった。それを見て、「マリア様の汚れなき御心をお慰めしたい」といつも思うようになった。

その次にジャシンタが心配したのは、戦争の事でした。ある時ルチアはジャシンタに尋ねます、聖ジャシンタに尋ねます、「ジャシンタちゃん、何を考えてるの?」「あのねルチアちゃん、私戦争の事を考えてるの。マリア様が戦争が起こると言ったから。戦争が起こったら多くの霊魂が地獄に落ちるから」と。

それから第4にジャシンタが考えていたのは、教皇様の事でした。ある時ルチアに聞きます。

「ねぇルチアちゃん、あのマリア様が仰っていたのは、この教会でお祈りをして皆からいじめられているあの人の事?」
「そうよ。」
「あぁ、教皇様がかわいそう。教皇様は教会の中で跪いて、こうやって頭を腕の中に沈めながらお祈りしていて、その周りにはたくさんの人が悪口を言っていて、汚い言葉を言っていて、また教会の外には道路や色んな所に多くの人が何も食べるものがなくて、お腹を空かせて苦しんでいる。その事を見て教皇様は悲しんでいる。教皇様が苦しまれている」と。

ジャシンタはいつもその事を心配していました。そこでジャシンタは必ず、罪人の回心の為に、教皇様の為に、お祈りをしていました。ロザリオをたくさんお祈りしていました。

ある時ルチアは、聖ジャシンタと聖フランシスコの列福列聖の為の特別な役割を推進の役目を受けた、メキシコ人のフエンテス神父様という方にインタビューを受けた事があります。この職務を受けてルチアに、シスタールチアにインタビューをしに行ったのでした。するとルチアはこのフエンテス神父様にこう言っていました。

「神父様、マリア様は、マリア様からのメッセージは誰も注意を払っていないので、マリア様は非常に悲しんでいます。善人も悪人も、マリア様のメッセージに心を傾けませんでした、耳を傾けませんでした。神父様、聞いて下さい、この世に最後の手段に、霊魂を救う最後の手段に、2つの事が与えられました。1つは『ロザリオ』ともう1つは『聖母マリアの汚れなき御心の信心』です。特にイエズス様はロザリオに特別の力を与えました。国際問題であれ、社会問題であれ、経済問題であれ、家庭の問題であれ、個人の問題であれ、どんな問題であっても、ロザリオで解決しない問題はありません。神父様、もしもこの手段が私たちが今使わないなら、もう他には手段はありません。」

シスタールチアは家族への手紙の中でもこう書いています。

「もしも教会の中で、『ロザリオは古臭い、時代遅れだ』あるいは『子供がやるお祈りだ』という批判を聞いたら、聞かないでください。なぜかというと、マリア様はこれに特別の力を効果を与えているからです。ロザリオの祈りは、マリア様がファチマで毎回お願いしたお祈りです。どうぞこのお祈りを決して忘れないでください」と、家族に何度も何度も書いていました。

シスタールチアの話を聞くと、手紙を読むと、どれほどロザリオがマリア様にとって大切か、そしてマリア様はこのロザリオをもって私たちの霊魂を救い、教皇様を助け、カトリック教会の為に善を施したいか、という事が分かります。

ですから今日マリア様のお誕生日に、マリア様にプレゼントを、良い遷善の決心を立てる事に致しましょう。

以前にも増して、ロザリオを心から唱えるようになさってください。イエズス様を愛する為、そしてマリア様の汚れなき御心をお慰めする為に、罪人の回心の為に、そして多くの霊魂が救われますように、そして特に教皇様の為にたくさんお祈りをなさってください。そして私たちがそれを実行すれば、マリア様はきっと非常にお喜びになって、今日マリア様のお誕生日のプレゼントを皆さんから受けたマリア様は、私たちにその100倍1000倍もの御恵みを返してくださるに違いありません。

「聖マリア、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年8月15日から2017年8月22日まで行われたロザリオの十字軍の全世界での統計結果

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年8月15日から2017年8月22日まで行われたロザリオの十字軍の全世界での結果をご紹介します。残念ながら、今回は1200万環の目標は到達することができませんでした。
 特に注目に値することは、アメリカ管区はそれだけで300万環のロザリオを捧げたことです!

 フェレー司教様が2017年8月20日ファチマ巡礼のミサでお説教されたように、ロザリオの十字軍は終わっても、その祈りと犠牲の精神は続かなければなりません。

日本からは、26417環が報告されていますので、日本はラレハ(アルゼンチン)の神学校と同じようなロザリオの数を報告することができました。
さすがカナダは日本の10倍のロザリオを捧げています!
ドイツは日本の20倍です。
アメリカ管区は日本の100倍以上です!すごい!

私たちは、ロザリオの十字軍の精神を続けていきましょう!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

本部 16999     神学校   エコン 13461 フラヴィニー 11644 ツァイツコーフェン 31442 ディルウィン 7701 グルバーン 29872 ラレハ 28066     モンガルダン 12687 サルヴァン 12965     管区   アフリカ 233755 アジア 835683 英国 85569 オーストラリア 361151 スイス 296700 スペイン 40416 東欧 158729 ドイツ 511583 メキシコ 317537 イタリア 323883 アイルランド 44232 ベルギー 78284 南アメリカ 308227 フランス 839255 オーストリア 60517 アメリカ 3061506 カナダ 282282 日本(参考) (26,417) モルゴン 41618 サンミシェルアンブレン 37650 ルトレヴ 17776     総計 8101191

聖ピオ十世会日本 2018年1月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX JAPAN Traditional Latin mass in Tokyo and in Osaka

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年1月の日本での聖伝のミサのご報告をさらにいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 次の聖伝のミサは、

 大阪:
1月19日(金)午後6時
1月20日(土)午前10時半

 東京
1月21日(主)午前10時半
1月22日(月)午前07時

です。

 大阪で、今年の1月の初土に行ったファイルの聖母行列の記事フランス管区のウェブサイトに取り上げられましたので、ご報告致します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

1月の最初の大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

2018年、初めての御ミサ、しかも初金曜、初土曜日の御ミサに与る事が出来て、ことしも早速大きなお恵みを頂き感謝しています。

初金曜日の御ミサではお説教をヒントに、特に幼きイエズス様の小さな聖心を感じ、ご公現を黙想しながらミサに与りました。
初土曜には初土曜日のミサに続いて世界と日本の平和の為にファチマのマリア様のお取次ぎを願って行われた聖母行列に参加しました。

ミサに来られたほとんどの方が参加され小さな行列でしたがお天気にも恵まれ、年明けの新大 阪のオフィス街のメイン通りをマリア様と歩くことが出来ました。
静かとは言えないオフィス街の雑踏の中、小野田神父様の静かな深い祈りの先唱に続いて私たちもロザリオを唱え、ファチマのアヴェマリアを歌いながら行列は進みました。最初から最後までマリア像を担がれた方、歩行が困難であられるのに押し車を押しながら歩かれたり、着物を着て履きなれない草履に足をとられながら歩く方、空腹を押して行列に参加された方、御公現の祝日に行われた小さな行列の中には確かに、三人の博士がイエズス様に捧げられたように黄金の礼拝と、祈りの乳香と、犠牲の没薬がマリア様を通して捧げられたように思いました。

途中の公園でマリア様を安置して、跪き聖ピオ十世会を聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に捧げる祈りを唱え、聖歌を捧げました。
公園で遊んでいた4,5人の子供達がマリア様に引き寄せられるように寄ってきて、神父様に誘われるまま一緒にアヴェ・マリアの聖歌を歌って帰って言ったことにも大きな喜びを感じました。

聖母行列を計画して、ご同行下さった小野田神父様にも心から感謝を申し上げたいと思います。
始まったばかりのこの一年もこの日の行列の精神で最後まで過ごす事ができますように、そして最後にはマリア様を通してイエズス様の御元へたどり着くことが出来ますように!!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日の御ミサをありがとうございます。
この日のお説教で、神父様はイエズス様がどのようにマリア様とヨゼフ様との家庭での生活をお過ごしなられていたか、深く黙想してくださいました、ありがとうございます。

今回、聖家族の聖書の小さな一字一句にも、深い意味がその背景には隠されているということを、教えていただいたように思います。公教要理にて教えていただいたこともお説教の中のあちらこちらに出てきて、いろいろ思い出されました。

聖書の背景となっている地理や当時の社会情勢や登場人物の性格や行い生活の様子などを知ることは大切なことだということがよくわかりました。たとえば、ヘロデ王の残忍さについての具体的な事柄から類推して、聖家族がどうしてもエジプトへ避難しなければならなかった根拠や三人の博士の動きなども類推できるのですね。あらためて公教要理での学びを感謝いたしました。ありがとうございます。

イエズス様がお生まれになられてから、公生活に入られるまでの30年間は、イエズス様の人生の90パーセントで、その人生のほとんどにおいて、御母マリア様と御養父ヨゼフ様に、従われていらっしゃったということを、教えていただきました。

イエズス様の三年間の公生活の方に視線が行ってしまいますが、それ以前の隠れた生活のイエズス様と御家族の三人の過ごされた時間にも、私たちへの模範を示される大事な無言の教えが隠されていることがわかりました。

そして、聖家族は、まったく最初から、財産も地位も仕事も知り合いも所有物も、食糧や安全とか保険などというものもないまま、ただ御摂理を信頼して、預言の成就を心に留め、天主様の信頼とご保護に全てをお任せして、ベトレヘムの馬小屋から小さな家へ、そこからエジプトへ、そしてナザレトへと移られて、家庭生活を営まれたということを、思い巡らすことができました。

三人の博士が、贈り物を携えてきたその象徴的な意味を味わうことに心を奪われるのですが、それとともに現実的にもどれほどこの贈り物が聖家族の激動の移動の多い不安定な生活を助けてくれたことかと想像することができました。

それも十分とは言えないほどの、激変する生活を乗り越えねばならなかったに違いありません。天主の御摂理を信頼するということの模範というには、あまりにも大変であったのではと思われます。経済的にも社会的にも非常に不安定な中で、どれほどの祈りと犠牲の日々だったことでしょう。

それから、「イエズス様は、マリア様にそっくりだった、いやマリア様がイエズス様にそっくりだった」というお話も、とても印象に残りました。ナイロの一人息子に死なれたナイロのやもめの女へのご配慮とその奇跡には、イエズス様の愛情深い優しさに隠されたより深い意味があるのだとわかりました。御自分のご死去の後のマリア様のお悲しみを思われたに違いないというところに胸を打たれました。

そして、マリア様に倣って、マリアの汚れなき御心の信心を深くできるようになればなるほどイエズス様に倣ってイエズス様に似るものとなる、という教えられたことを思い出すことができました。

神父様が示してくださった三つの提案、天主が被造物に従ったのだからイエズス様に倣って私たちは置かれたところにある権威に従うことができるよう従順の徳を希い、イエズス様に似奉ることができますようマリア様に瓜二つとなることができますようにと希い、聖家族がおくられていた生活のように御摂理に信頼して祈りと犠牲の生活ができますよう希いました。自分の弱さをかえりみると、あまりにも大きな願いのように思われますが。

それから、この聖家族の祝日に2人の赤ちゃんのための幼児洗礼式が行われました。とても良い巡り会わせで聖家族の日に洗礼を受けることのできる赤ちゃんとそのご両親とご家族はなんて幸せなのだろうと思いました。洗礼式は、とても感動しました。貧しい仮の場である教会のなかが、皆の喜びと祈りに満ちあふれて、厳かな中にも明るく希望が輝いて、とても素晴らしい場所に感じられました。洗礼がどれほど大切なものであるかを直接感じることができました。2人の赤ちゃんのためにお祈りいたします。

また、日本では月の第一主日が7月の聖ピオ十世会の総会のために捧げられるとのことで、聖ピオ十世会の総会の成功を願い、祈りをお捧げしました。

小野田神父様、フィリピンからいつも来ていただきましてありがとうございます。神父様の往路復路そしてご健康と全ての無事をいつもお祈りいたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

名著「使徒職の秘訣」序説(Dom Chautard 著 山下房三郎 訳)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳を、兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 原著はL'Ame de Tout Apostolatで、聖ピオ十世会の神学生は、神学校入学と同時にこれを読むことを課されます。

序説

Ex quo omnia,     すべては、天主から
Per quem omnia,    すべては、天主によって、
In quo omnia.     すべては、天主のために
                         (ローマ 11 : 36 )

ああ、かぎりなく偉大、かぎりなく善良な天主よ。あなたの内的生命にかんして、信仰がわたしたちに啓示するもろもろの真理は、まことに感嘆すべきものです。また完全に、わたしたちを驚倒させます。
 聖なる御父よ、あなたは永遠から永遠にわたって、あなたの完全なイメージなる聖言(みことば)のうちに、あなたご自身を、静観していらっしゃいます。
 聖言は、あなたの美しさに見とれて、こころおどり、―かくて、あなたと聖言との双方のご恍惚から、無限愛の炎が、すなわち聖言が、発出されます。
 ああ、拝むべき三位一体の天主よ、あなただけがタダひとり“内的生命”でいらっしゃいます。―円満な、みちあふれている、そして終わりのない!
 はてしもなく善良な天主よ、あなたは、あなた自身を、その内的生命の外部にも、そそぎだそうとお望みになりました。あなたがひとこと、言葉をおだしになりますと、御手のわざなるすべての被造物は、虚無の中からおどり出て、あなたのもろもろの完徳をあらわし、あなたの栄光をうたいます。
 創造主なるあなたと、あなたのお息のひとふきによって造られ、そして生かされたちりにすぎない人間とのあいだには、無限にふかいふちがよこたわっていましたのに、あなたの霊なる愛の聖霊は、これをあとかたもなく、埋めつくそうとおぼし召されました。
 このようにして、聖霊は、愛したい、おのれを他の者に与えたい、というそのはてしないご意欲を満たす手段を、お見いだしになるのです。
 かくて、聖霊は、ちりにひとしい人間を、天主の境地にまで高め、これを“天主化”しようとのご計画を、あなたのふところで、おたてになりました。このご計画によりますと、御手によって、人間のかたちにつくられましたこのひとかたまりの土は、“天主のように”なり、あなたの永遠の幸福にあずかることができるのです。
 ああ、前にも後にも絶えてあるまじき、愛の奇跡でありますことよ―このご計画は!
 この驚嘆すべき大事業の達成を、あなたの聖言は、みずから進んで、お引き受けになります。
 かくて、聖言は、人となられました―人間を“天主”にするために!(聖アウグスチヌスの言葉)
 しかし、聖言よ、あなたは人におなりになっても、“御父のふところ”を絶対に、お離れになりません。
 「御父のふところ」―ここにこそ、あなたのご生命の実質があるのです。ここにこそ、あなたのご生命の源泉があるのです。ここからこそ、あなたの使徒職の、賛嘆すべきすべての活動が、流れでているのです。
 ああ、イエズス、わたしたちとともにいます天主―エンマヌエルよ、あなたは使徒たちに、あなたの“福音”と、あなたの“十字架”と、あなたの“ご聖体”を、おあずけになりました。さらに、全世界に出て行って、すべての国民に福音を述べ伝え、天にいますわたしたちの御父のために、無数の子どもをもうける―という使命を、かれらにお授けになりました。
 それがすむと、あなたは、御父のみもとに、お帰りになりました。
 それ以来、天主の人イエズス・キリストの神秘体を聖化し、これを統治する任務をお引き受けになりましたのは、聖霊よ、あなたでございます。
 神秘体の頭なるキリストから、肢体なるわたしたち信者の霊魂に、“天主的生命”をそそぎ入れるためのお仕事に、聖霊よ、あなたはかたじけなくも、人の子らの中から、協力者を、助手を、お選みになりました。聖霊降臨のよき日、天からふりそそいだ天主の火に燃えさかった使徒たちは、全世界に出て行って、天主のお言葉を、人びとに述べ伝えて、その精神を照明し、天主の恩寵を、人びとの心にそそぎ入れて、天主の愛に燃えあがらせ、―このようにして、あなたが、ご自身のうちに、あふれるほどに持っておいでになる“天主的生命”を、あまねく世の人びとにも、わかちあたえられるのでした。

 ああ、天主の“火”よ。ああ、イエルザレムの高間のしあわせな黙想者なる使徒たちを、一瞬にして別人にされました聖霊よ、あなたの使徒職に参加するすべての人の心に、主を愛する熱心の火を、燃えさからせてください。そういたしましたら、かれらはもはや、ただカトリックの教義や道徳の説教者となるだけでは満足せず、さらに進んで、キリストの尊い御血を、人びとの霊魂にそそぎ入れる、生ける“輸血者”となるでしょう。
 光の聖霊よ、どうぞ使徒職にたずさわる人びとの心に、次の真理を、不滅の文字をもって、きざみつけてください。すなわち―
「かれらの使徒的活動は、あなたを究極の原理とし、イエズスを唯一の源泉とするこの超自然的生命を、かれらが自分自身で生きぬく度合いに応じてのみ、効果を生ずるものである。」
という真理を!
 ああ、無限の愛なる聖霊よ、どうぞかれらの心に、内的生活にむかっての、はげしいあこがれの火をたきつけてください。あなたのおやさしい、ちからづよい愛の火花で、かれら
の霊魂を浸透し、そしてかれらに深くさとらせてください。―うつし世の旅路における、まことの幸福は、ただ内的生活のいとなみにだけある、ということを。
 そして、この内的生活とは、一切の慈悲の父、一切のやさしさの父なるあなたのふところでいとなまれる、あなたご自身のご生活と、イエズスの聖心のご生活を、できるだけ忠実に模倣し、かつこれに参与することにほかなりません。
 ああ、原罪のけがれなき聖処女、使徒の元后なる聖母マリア!どうぞ、このつたないページを祝福してください。これを読むすべての人に、次の真理をふかくさとらせてください。―天主が、その恩寵を、人びとの霊魂にそそぎ入れるため、摂理のふだんの道具として、使徒職にたずさわる人たちの活動をお使いになるとき、かれらの活動がゆたかな実をむすぶためには、どうしてもその活動が、「ある仕方で、天主ご自身の活動に、参与せねばならぬ」―という真理を。
 そして、あなたこそは、受胎告知の日、聖言がご胎内で人となられた瞬間、永遠に不動、永遠に静かな、この”天主ご自身の活動”が、御父のふところでいとなまれているのを、静かに眺めておられたのです。そして、聖言のご托身のおかげで、わたしたちはあなたを、”われらの母”とお呼びすることができるのです。

(続く)

「使徒職の秘訣」第一部 その一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を天主はお望みになる

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を、天主はお望みになるを
兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


第一部 天主は、外的活動も、内的活動も、お望みになる

一、使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる

 このうえなくおおらかであること、絶対に物惜しみをしないこと―これこそは、天主性の特長である。
 天主は、無限に、善良であられる。さて、善良なる者の心のあえぎは、ただひとつ―それは、自分がもっている善や幸福を、他の者にもわかちあたえたい、ということである。
 わが主イエズス・キリストの地上生涯をみれば、そのことがよくわかる。それは、天主のこの汲めども尽きないおおらかさの、たえまない表れだった。福音書をちょっと見てもわかるとおり、イエズスの聖心は、世の人びとを、天主の真理に、永遠の生命に引きよせようと、かわくほど望んでおられる。そして、そのたどられた道々に、慈悲と哀憐と博愛のたからを、おしげもなくまきちらしていく。
 この使徒職の炎を、イエズス・キリストは、ご自分の花よめなる教会にも、おわかちになった。それは、かれの愛のプレゼントである。かれの生命のあふれである。かれの真理の解明であり、かれの聖性のかがやきである。この天主的炎にあふられ、活気づけられたればこそ、カトリック教会は、世紀の流れを通じて、天主なる花むこのお手本にならって、使徒的事業を継続していくのではないか。
 「人間は、おなじ他の人間によって、救霊の道を、示されねばならぬ」(レオ十三世のお言葉)
 ああ、天主の摂理がうちたてた、感嘆すべくも世界的なこの計画よ、この法則よ!なるほど、ただイエズス・キリストだけが、世のあがないの代価である。尊い御血を流された。キリストは、ちょうど聖体の秘跡においてそうなされるように、単独で直接、人びとの霊魂に、御血の功徳をほどこし、そこでお働きになることができたにちがいない。しかし、かれは、その恩寵の分配の仕事において、協力者を、助手を、お求めになる。なぜだろうか。
 むろん、天主としてのかれの威厳が、それを要求するにちがいなかろうが、それにもまして、人びとにたいするかれの永遠の愛が、かれにそうさせるのである。その臣僕をして、霊魂の統治にあたらせるのは、天地の王なる天主にとって、ふさわしいことではあろう。だが、この貧しい、いやしい被造物なる人間を、ご自分の事業の労苦と栄光に参加させてくださるのは、天主のがわからいって、どれほどのおおらかさであることだろう!
 十字架の上でうぶごえをあげ、救世主のつらぬかれた脇腹から生まれでた教会は、おのれの使徒職にたずさわる人びとを使って、天主の人イエズス・キリストの慈悲と贖罪の事業を、世の終わりまで続けていく。イエズス・キリストのご意志によって生まれたこの使徒職は、教会が、万国民の霊魂に、天主的生命をそそぎ入れるための、実質的機関であり、人びとの霊魂を征服してゆくための、最も通常の武器なのである。
 使徒職にたずさわる人びとの中で、第一番にくるのが“聖職者”であって、その聖なる階級は、キリストの軍団の幹部を形成している。かくも多数、かくも聖にして奮発と熱誠にもえる司教・司祭たちから成る聖職者階級は、それだけでもすでに、栄光と称賛にあたいする存在だが、特にアルスの聖司祭の列聖によって、ひときわ異彩を放った。
 聖職者についで、教会の初期から、いわば“志願兵”の軍団が存在してきた。それはまことに、精鋭の軍団で、その持続的な、花々しい生長発展の姿は、まさしく教会が、活気に富む霊体であることを示す、最もあきらかな証拠の一つとして、指摘されるべきである。
 これに属する者では、まず初代の世紀における、観想的修道会の人びとがあった。かれらは、そのたえまない祈りと、はげしい苦業によって、異教世界の回心に貢献するところが甚大であった。
 中世紀に起こったのは、説教修道会、托鉢(たくはつ)修道会、騎士修道会、および異教徒から信徒の俘虜をあがないもどす英雄的使命を目的とした、種々の修道会である。
 最後に、現代においては、あたかも雨後の竹の子のように、諸種の修道会が群起している。その中には、教育を目的とするもの、職業を教えるもの、外国宣教を主要目的とするもの、その他、多種多様の修道会がある。そして、かれらの使命は、種々の形式のもとに、物心両面の恩恵を世の人びとにほどこすことにある。
 そのほか、教会は、あらゆる時代を通じて、信徒のあいだに、一騎当千の協力者を見いだしてきた。それは、たとえば、熱心なカトリック信者であった。現代では、何々団、何々会、と名のついているもの、いわゆる“事業の人”と名づけられるもの、伝道熱にもえる人たちがそれである。かれらはいずれも、自分たちの力をたがいに結集して、共通の母なる教会への奉仕に、一切をささげつくしている。一切を ― 時間も、才能も、財産も、そしてしばしば自由さえも。また、時としては、おのれの血、おのれ自身のいのちさえも。
 使徒職に献身するこれらの人びとの雄々しい姿は、だれも感激なくして眺めることができない。それはまた。大きな励ましとなる。
 このように、天主はおぼし召しの時に、時代の要請と情勢にみごとに即応した、いくたの事業を、摂理のみ手をもって、さかんに起こしてくださるのである。教会の歴史は、このことを雄弁に物語っている。 ― 教会に、なにか新しい必要が起こって、これを満たしてやらねばならない時、教会がなにか新しい危険におびやかされて、これからおのれを安全にまもらねばならない時、そういう時には、きまって、当代の必要が要請する新しい修道会の創立をみるのである。
 そんなわけで、今日でも、とりわけ現代社会のひどい罪悪の激流に抵抗するために、昨日まではほとんど知られていなかった、諸種の新しい使徒職が起こりつつある。すなわち、初聖体をよく準備させるためのカトリック要理の教授、初聖体拝領後の少年、少女、および信者、未信者へのカトリック要理の教授、各種の信心会、祈祷の使徒会、レジオ・マリエ、慈善の使徒職なる聖ビンセンシオ・ア・パウロ会、黙想会、学生連盟、カトリック学士会、カトリック医師会、カトリック文芸協会、カトリック経営の諸学校、カトリック出版物・・・などなど。
 これらの使徒職は、いずれもみな、「わたしは、あなたたちの霊魂のために、大いに喜んで、すべてを費やし、わたし自身さえも費やすつもりである」(コリント後12:15 )といった、聖パウロの魂を燃えたたせていた、火のような伝道精神に霊感されて、起こったものである。じっさい聖パウロは、イエズス・キリストの御血の功徳を、すべての人の心にそそぎ入れようと、かわくほど望んでいたのである。
 キリストの王国の伸張発展をめざして、布教戦線の第一線に立つこれらの人びとに、わたしはこのつたないページをささげる。かれらは、おのれの尊い使命を達成するために、熱誠と奮発に燃え、情熱をかたむけつくして、働いてはいるだろう。だが、同時に、ある種の危険にもさらされてはいないだろうか。
 外面的活動が激しいので、身も心も消耗しつくした結果は、「何よりもまず、内的生活の人」でありえない状態に在るのではなかろうか。また、いつの日か、どうにも説明のできない不成功により、さらにおのれの霊魂にこうむった甚大な損害によって、内生不足の当然の罰を受けることでもあるなら、そんなとき、すっかり意気消沈して、全く戦意をうしない、まるで敗残兵のように、布教戦線を脱落するようなことはないだろうか。
 本書に盛られている思想は、実は筆者自身のためにも、少なからず利益となったことを、ここに告白する。いろんな雑務に追いまくられている関係上、ややともすれば、外面の世界におし流されようとする危険にむかって、たたかうために。
 どうか本書が、筆者と同じ危険にさらされている人びとを、世俗化の不幸から、救ってくれますように。また、かれらに、天主の事業のために、“事業の天主”を棄ててはならぬ、という真理をなっとくさせて、かれらの勇気を鼓舞し、かれらの活動を、正しい軌道にのせてくれますように。
 さらにまた、聖パウロが、「ああ、もしわたしが、福音を述べ伝えないならば、わざわいなことよ」(コリント前9:16)といった言葉は、けっしてわれわれに、「人は、たとえ全世界をもうけても、もしその霊魂をうしなうならば、なんの利益があるだろう」(マテオ16:25)とのキリストのお言葉を、忘れさせる口実を与えるものではない、ということを、ふかくさとらせてくださいますように。
 ここに、家庭の父母がある。
 かれらは、『信心生活の入門』を、愛読している。
 ここにまた、キリスト信者の夫婦がある。かれらは、たがいに使徒職にたずさわるのは、自分の義務である、また、子どもたちを、キリストへの愛と模倣にむかって教育していくのも、自分らの義務である、と信じている。こういう人たちは、本書のあたえる教訓を、たやすく、自分に適応することができるであろう。
 かれらの使徒的奮発心を、いっそう効果的にするためには、ただ信心深くあるということだけでは足りないのだ。どうしても内的生活がなければならぬ。さらにまた、かれらの家庭を、イエズス・キリストの精神をもって、かおらせるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。最後に、かれらの家庭を、永久にかわらない平和―いろんな試練があっても微動だにしない、そしていつまでも、真にキリスト教的家庭の家宝として存続するこの平和をもって、きよく美しくかざるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。この内的生活の必要を、もしかれらが本書によって、いっそう痛切に感ずるようになるなら、まことにさいわいである。

シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。

 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ダニエル・フュレップ「キコの共同体、ネオカテクメナート(新求道共同体)の道について司教様のご意見は何ですか?」

シュナイダー司教「これは極めて複雑で悲しい現象です。オープンにはっきり言ってしまうと、これはカトリック教会におけるトロイの木馬です。私は彼らのことをよく知っています。何故なら私はカザフスタンにおいて、カラガンダにおいて、数年間彼らのための司教代表だったからです。私は彼らのミサや会合にも何度も出席しましたし、彼らの創立者であるキコの書いたものを読みました。ですから私は彼らのことをよく知っています。

私が外交なしにオープンに話すなら、私はこう言わなければなりません。ネオカテクメナートは、教会の内部における、カトリックの飾りだけを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体[23]です。

最も危険な側面は、御聖体に関するものです。何故なら御聖体は教会の中心部(心臓)だからです。この中心部(心臓)がおかしくなっているとき、体全体もおかしくなります。ネオカテクメナートにとって、御聖体とは第一に兄弟的な宴会です。これはプロテスタントです。典型的にルター的な態度[24]です。彼らは御聖体が真の犠牲であるという概念と教えを拒絶します。彼らは御聖体を犠牲であるする聖伝の教え、そして聖伝の信仰は、キリスト教的ではなく異教的である[25]という見解さえ持っています。
これはまったく馬鹿げてきます。これは典型的にルター的でありプロテスタント的です。彼らの御聖体の典礼の間、御聖体をまったく軽々しく取り扱います。時として恐るべきこととなります[26]。
御聖体拝領の時に彼らは座り、小さな破片には神経を払わないのでそのまま捨てられます。御聖体拝領の後、沈黙のうちにイエズスに祈り、礼拝する代わりに、彼らはダンスを踊ります。これは本当にこの世的であり、異教的で、非超自然的です。

第二の危険は、彼らのイデオロギーです。ネオカテクメナートの主要な考えは、彼らの創立者であるキコ・アルグェジョ(Kiko Argüello)によれば次の通りです。すなわち、教会は理想的な生活をしていたが、しかしこれは四世紀のコンスタンティノ皇帝の時までで、その時までだけが効果的に現実の教会であった。ところがコンスタンティノ皇帝とともに教会は不健康となり始めた。教義的にも、典礼的にも、道徳的にも廃退していった。[27] そこで教会は、この教義と典礼の廃退のこれ以上落ちることができない岩盤の底に到達したが、それがトリエント公会議の教令である、と。

しかしながら、キコの意見とは反対に全く正反対が真実です。つまり、トリエント公会議は教会歴史の最高点の一つでした。それはトリエント公会議の教義と規律の明快さによります。

キコによると、教会の暗黒時代は四世紀から第二バチカン公会議まで続いたことになっています。第二バチカン公会議によって初めて教会に光がやって来た、と。

これは異端です。何故ならこれはつまり聖霊が教会を捨て去っていたと言うことだからです。これは本当にセクト的(新興宗教的)でマルチン・ルターと同じ線にあります。ルターは、自分が来るまで教会は暗闇の中にいた、自分を通してのみ教会に光がある、と言いました。キコの立場は、ルターと根本的に同じです。ただ違うのはキコは教会の暗黒時代をコンスタンティノ皇帝から第二バチカン公会議までとしたことだけです。従って、彼らは第二バチカン公会議を間違って解釈しています。彼らは自分たちこそが第二バチカン公会議の使徒であると言います。そう言うことによって、自分たちがやっている全ての異端的な実践や教えを第二バチカン公会議を使って正当化するのです。これは重大な乱用です。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

(続く)


[23] この共同体は、教会の典礼をプロテスタントとユダヤ教の要素を混ぜ合わせている。
[24] この共同体は、典礼聖省が彼らの典礼乱用を承認することを長い間待っていた。典礼聖省に照会をして、信徒のための教皇庁評議会が新求道共同体の求道方針(Catechetical Directory)とそこにある典礼外の実践を承認した。従ってがこの許可は典礼以外の実践のみ適応する。2012年1月20日の教令は、新求道共同体の「典礼革新」と何の関係もない。この「典礼革新」は、直ぐさま終わらせなければならない。何故ならそれは教会の普遍的な法規と実践に反しているからだ。
[25] トリエント公会議(1545–63)は、プロテスタントの見解に反対して、次のことをドグマとして宣言した。すなわち、ミサ聖祭の犠牲は罪の償いの要素を含める(DH 1743, 1753)。犠牲はキリストご自身によって命じられた。これは単なる記念でも栄光化でも感謝でもなく、生ける人と死せる人のために捧げられる罪の償いの現実の犠牲である。しかし、ミサが現実の犠牲であるという事実は、キリストの犠牲が繰り返されなければならない、ということではない。教会はキリストの犠牲を異教の人身御供に変えるのではない。ミサ聖祭は十字架の犠牲の繰り返しではない。ミサ聖祭は秘蹟の印のもとでキリストの唯一の犠牲が現前することである。この意味において、ミサ聖祭は「記念」である。ここにおいて、秘蹟の経綸の現実が現前する(DH 1740)。キリストは、ミサ聖祭においても十字架の上に置いても同じ最高司祭である(DH 1743)。
[26] 新求道共同体の典礼は、ローマミサ典書の総則にも従わず、その他の典例法規にも従わず、自分自身の「典礼革新」にのみ従う。新求道共同体の典礼のやり方は乱用で一杯である。実際、バチカンは平信徒が彼らのミサで説教をしたり、典礼の最中に信徒が踊ったり、感謝の祭儀の祈りの時に跪かずに立ったままでいたり、座ったまま聖体拝領したり、キリストの御血が入った大きなカリスを手渡したりすることについて注意した。教会音楽についての規定も全く無視されている。別の問題は、新求道共同体は信徒たちを小教区と教会から分離させる。主日のミサ聖祭は乱用だらけで、常に共同体の「プライベートなミサ」として土曜日の夕方に捧げられる。普通は教会の中ではなく、世俗の場所、たとえば共同体の部屋で。
[27] 313年6月13日、コンスタンティノ皇帝はミラノの勅令を発し、キリスト教の迫害を終わらせ、キリスト教をローマ帝国の有効な宗教として認めた。315年、同じ皇帝は死刑の方法としての十字架を廃止し、異教の諸宗教が有していた特権をカトリック教会にも与えた。321年コンスタンティノ皇帝は主日を休日とした。ローマ帝国の絶対的な支配者として、324年からローマ帝国中における教会の制度的基礎を確立することを助けた。プロテスタントらは、カトリック教会の制度的構造と社会政治的強さの確立、及び王座と祭壇の結びつきは、異教主義の勝利であると考えている。

聖ピオ十世会日本の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)御公現後第三主日(2018年1月21日)の楽譜や動画のリンク

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。次の日本での聖伝のミサは次の通りです。

 大阪:
1月19日(金)午後6時
1月20日(土)午前10時半


 東京
1月21日(主)午前10時半
1月22日(月)午前07時

をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

3rd Sunday after Epiphany
Introit • ScoreVideoMp3Organist • Adorate Deum omnes Angeli ejus

Adorate Deum omnes angeli ejus. Audivit, et laetata est Sion; et exsultaverunt filiae Judae. Dominus regnavit; exsultet terra; laetentur insulae multae.

Gradual • ScoreVideoOrganist • Timebunt gentes

Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam. V. Quoniam aedificavit Dominus Sion, et videbitur in majestate sua. Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam.

Alleluia • ScoreVideoOrganist • Dominus regnavit exsultet terra

Alleluia alleluia. Dominus regnavit a ligno, exsultet terra, laetentur insulae multae, alleluia.

Offertory • ScoreVideoOrganist • Dextera Domini(聖木曜日のOffertoriumと同じです)

Dextera Domini fecit virtutem, dextera Domini exaltavit me. Non moriar, sed vivam, et narrabo opera Domini.


Communion • ScoreVideoMp3Organist • Mirabantur omnes

Mirabantur omnes de his quae procedebant.

「使徒職の秘訣」第一部 二 イエズスこそが使徒的活動の生命――これが天主のお望みである

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の 第二 イエズスこそが使徒的活動の生命 をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


  二、イエズスこそが使徒的活動の生命 ――これが天主のお望みである

 なるほど、科学は、その数おおい、そして花々しい成功を、ほこることができよう。
 しかもそれは、ただしいほこりである。
 だが、科学に、どうしてもできないことが、ひとつある。今日まで、そうだったが、いつまでたっても、同じことだろう。
 科学に、どうしてもできないひとつのこととは、化学者の実験室から、生命をつくりだすことである。
 麦のひと粒を、サナギの一匹を、つくりだすことである。
 自然発生説の主張者たちが味わった、痛ましい敗北は、右の真理を、われわれに教えてくれた。
 生命をつくりだす機能は、ひとり天主のみが持っておられる。
 植物界・動物界において、いわゆる活魂をもっているものは、自身で生長し、自身で繁殖することができる。だが、それでも、かれらの生長や繁殖は、造物主から規定された条件下においてのみ、可能である。
 ところが、理知をそなえた生命の創造にかんするかぎり、天主はこれを他人まかせにしないで、ただご自分お一人だけの権限内に留保される。理性をそなえた霊魂は、天主から直接につくられる。さらに、“超自然的生命”の創造にかんしては、天主はいっそう大きな嫉妬の念をもって、これをただご自分お一人だけの権限内に留保される。なぜなら、超自然的生命とは、三位一体の天主的生命がまず、人となられた天主の聖言のご人性にそそぎ入れられたもの、―― 次に、この同じ天主的生命の流れが、被造物に、いわば“放出”されたものに外ならないからである。
 聖言の受肉と人類救済――この二大事実が、イエズスを、この天主的“生命”の源泉、しかも“唯一の”源泉にした。そして、すべての人は、この天主的生命に参与すべく、天主から召されている。そのために要求される条件は、「われらの主イエズス・キリストによりて」「Per Dominum Nistrum Jesum christum」である。「かれによりて、かれとともに、かれにおいて」「Per Ipsum, cum Ipso, et in Ipso」である。天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、教会が使用する実質的手段は、秘跡であり、祈りであり、伝道であり、その他、これにかかわりのある一切の使徒的事業である。
 天主は、その御ひとり子の仲介なしには、いかなるものも、おつくりにならない。「万物は、かれによって造られた。造られた物のなかに、ひとつとして、かれによらずに造られたものはない」(ヨハネ1:3)
 自然界において、すでにそうであるのなら、なおさら超自然界においては、そうなのである。すなわち、天主がご自分の内的生命を人びとにわかちあたえ、人びとをご自分の本性にあずからせて、これを“天主の子ども”となされる、超自然のわざにおいては、なおさらのことである。
 「聖言に、生命があった」(ヨハネ10:10 )
 「わたしは、生命である」(ヨハネ14:7 )
 「わたしがこの世に来たのは、人びとに、生命を得させ、いっそうゆたかに得させるためである。」(ヨハネ10:10 )
 なんとハッキリとしたお言葉だろう。右の真理を、主ご自身お説きあかしになった、「ぶどうの樹とその枝」のたとえ(ヨハネ15章参照)は、なんと光明にみちたものだろう。
 「かれだけが、イエズスだけが、生命である。したがって、この天主的生命のいとなみにあずかるためには、さらにまた、これを他の人にあたえるためには、どうしても、まず自分が、天主の人イエズス・キリストに、つながっていなければならぬ」
 この根本真理を、使徒たちに十分納得させるために、イエズスはどれほどの熱情をかたむけつくされたことだろう。
 それゆえ、この天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、救い主に協力する栄光に召されている人たちは、自分自身にかんしては、どうしても謙遜して、次のように考えていなければならぬ。――すなわち、自分は天主の恩寵を人びとの霊魂に通じるための、運河にすぎないのである。したがってそこを流れる恩寵の水は、始終これを、その唯一の源泉なるイエズスから、引いてこなければならないのだ、と。
 使徒職にたずさわる人びとの中に、右の原理を知らないで、キリストのお助けがなくても、自分の力だけで、超自然的生命を生みだすことができる、と少しでも考えている者があれば、そういう人は、神学を知らないか、それともうぬぼれが強いか、どっちかである。
 また、こんな人もいる。すなわち、キリストが、天主的生命の唯一の源泉であることは、理論的には百も承知である。だが、事実上、この真理を全く忘れ去っているかのように行動する。キリストにたいして失礼になる、愚かなうぬぼれのために、心の目がくらんで、自分自身の力だけを頼りにしている。これは、前者にくらべて、罪は軽いが、そのやりかたは、無軌道であり、天主の御眼には、がまんできない代物(しろもの)である。
 右の真理を、頭から排せきする。もしくは、理論的には、りっぱに承認していても、行動面では、それを念頭におかない。――どちらも、「知的無軌道」である。理論からいっても、実際からいっても、無軌道である。
 それは、われわれの行動の土台であり、指導原理であるべき根本真理を、頭から否定することである。そして、この真理が、使徒職専従者の心に、罪と故意の冷淡の結果、いっさいの光りの源なる天主に背を向けることにより、もはや光りを放たないようになると、右にいった無軌道はますます増長する。これは、明白な事実だ。
 さて、使徒的事業を遂行するにあたり、実行面で、あたかもイエズス・キリストが、超自然的生命の唯一の源泉でないかのように行動するなら、それはメルミヨ枢機卿が、いみじくも言明しているとおり、あきらかに“事業の異端”である。
 事業の異端! 自分は天主のみ手に使われている、ただ第二義的な、しかも従属的な道具にすぎないのに、このぶんざいを忘れて、自分の使徒的事業の成功を、専らおのれ自身の活動と、才能にだけ期待している使徒の感覚を非難して、枢機卿はそういっているのである。これは、あきらかに、「天主の恩寵がなければ、人間は超自然的には何もできない」という、カトリック教会の伝統的恩寵論を、事実上、根本から否定し去ったやりかたではないか。
 ――いや、そうではない、そういう結論はでてこない、とあなたはおっしゃるかも知れないが、しかし、ちょっと考えてみれば、筆者のこの断定は、深く真実をうがっていることが、おわかりになろう。
 事業の異端!よく言ったものである。
 熱に浮かされたような、落着きのない人間的活動が、天主のお働きに取ってかわる。天主の恩寵なんて、こっちの知ったことではない。――人間の高慢が、イエズスの王座に肉迫する。超自然の生命も持たない。祈りの効果も信じない。霊魂の救いのために、せっかく天主から定められた方法を排除して、採用しない。理論的にはともかく、すくなくとも実行的には、それらを、ゆるがせにして、かえりみない。――こういうケースは、われわれの想像の程度をはるかに超えて、世間にはざらにあるものだ。使徒職にたずさわっている人びとの霊魂を解ぼうしてみれば、各自、程度の差はあっても、この悪弊があまりに暴威をふるっているのに、驚かされるくらいである。
 現代は、天主を無視した自然主義、人間万能主義の横行する時代である。人びとは、とりわけその外観によって、事物の価値を判断する。使徒的事業の成功が、主として、人知の巧妙な事業組織によって獲得されるもののごとくに信じこんで、そのように行動している。
 生まれつき、すばらしい素質や才能にめぐまれた人が、ここにいる。
 だが、かれは、おのれのうちに他人がみとめる、これらの驚嘆すべき才能が、天主の賜ものであること、わざと否認する。こういう人にたいして、われわれはあわれみの念を禁じえない。あながち、超自然の光りに照らされるまでもなく、健全な良識さえ持っておれば、こういう人が、きのどくな人間だということは、すぐにわかる。
 いわんや、ここにひとりの使徒がいて、天主のお助けを全然無視し、自分だけの力で、天主的生命のごくわずかでも、人びとの霊魂にそそぎ入れることができるとうぬぼれているなら、たとえ口にだしてそういわなくても、心でそう考えているなら、こういう使徒をみて、いやしくもひとかどの宗教的教養をもっている信者ならば、なさけない思いがしないだろうか。
 福音の伝道に従事する人で、こんなことを言っている者があるとする。
 「天主よ、わたしの使徒的事業に、いかなる障害もおいてくださいますな。げんにある障害はすべて、取りのぞいてください。そうしましたら、わたしは責任をもって、この事業をみごとに成功させて、お目にかけましょう・・・」
 こんな言葉を耳にするなら、われわれは、「ああ、なんてバカな人間だろう!」と、冷笑せざるをえないだろう。
 それもそのはず、こんな人を冷笑するこの考えは、実は天主から来ているからである。
 天主は、このような秩序の逆転、このような無軌道ぶりをごらんになるとき、怒りにたえない。高慢のあばれ馬にムチうつとき、人間はどこまで暴走するか。――かれは、ただ自分ひとりの力で、人びとに超自然の生命を与えたいのだ。人びとの霊魂に、信仰を生みだしたいのだ。罪をおかすのをやめさせ、善徳を実行させ、熱心な信者にしたいのだ。――ただ自分ひとりの力で。
 このようなすばらしい超自然的成果を、天主の恩寵に帰したくないのである。いっさいの恩寵と、いっさいの超自然的生命の代価であり、存在理由であり、手段であるイエズス・キリストの尊い御血の、直接な、たえまない、普遍的な、無限に強いお働きに、それを帰したくないのである。こんなにうぬぼれのつよい使徒をごらんになっては、さすがに忍耐づよい天主も、とうていがまんできないのである。
 そんなわけで、天主は御子のご人性のメンツにかけても、これらの偽キリストを、なさけ容赦もなく、処分せねばならぬ。で、高慢が生みだすかれらの事業を、天主はめちゃくちゃにし、かれらの事業が、砂漠の蜃気楼のように、はかない幻影におわることを、お許しになるのだ。
 Ex opre operato (行なわれる業そのものによって効力を生ずるもの)に、霊魂に働きかけるもの、たとえば秘跡のようなものは、これを執行する聖職者の個人的聖性のいかんにかかわりなく、確実に、恩寵を霊魂にほどこす。
 で、これは、ここでは問題にならないが、事ひとたび、業をおこなう者の個人的価値いかんによって(Ex opre operantis)、その効果が左右される事業にかんするかぎり、天主は救世主イエズス・キリストの名誉回復のために、自己満悦にひたっている使徒には、その最上の祝福をこばみ、代わりに、イエズスという天主的ぶどうの樹からだけ、恩寵の樹液を吸収することを知っている謙虚な枝に、それをお与えになるのである。
 そうでなく、もし天主が、“事業の異端”と呼ばれるこの病毒に虫ばまれた活動に、りっぱな、そして長続きのする効果をお与えになることによって、このような活動を祝福されるようなことでもあれば、それはいったい、どういうことになるのか。――この無軌道を助長するのは、天主ご自身である、この病毒の感染を平気で放任しているのは、天主ご自身である――といわれても、仕方なかろう。

聖ピオ十世会司祭 レネー神父様:お説教・霊的講話 【総集篇】

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私たちの敬愛するレネー神父様は、2017年11月22日にフェレー司教様から、2018年の2月付きでオーストラリアのタイノン(Tynong)というところにある聖トマス・アクイナス学校の校長先生として新しく任命を受けました。

私たちは2013年3月から、レネー神父様の素晴らしいお説教を聞く機会に恵まれ、神父様の豊かな知識と経験とから多くの指導やアドバイスをいただくことが出来たことを深く感謝します。

神父様の我が身を忘れるほどの献身的で奉仕的な聖務と祈りは、私たちの模範でした。神父様の勤勉さと責任感と謙遜と愛徳は、私たちにとっての宝でした。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今からちょうど30年前に故郷を離れて聖ピオ十世会の神学校に入学しました。知性においても愛徳においてもその他の徳においても、優れた神学生や司祭たちの中で、共同生活を送るというお恵みを頂いてきました。そのお恵みの偉大さは、天主様にどう感謝したら良いか分からないほどです。

小教区の教会で一人で任命を受けて働いておられる司祭がおられます。そのお仕事はどれほど大変でありましょうか! 同じ兄弟である司祭とともに喜びと責任とを分かち合って司祭生活ができると言うことは、どれほど偉大な善でしょうか!Ecce quam bonum et quam jucundum habitare fratres in unum!

その中でも、日本と韓国のミッションを一緒に分かち合って協力して働いてくださったレネー神父様には、心からの感謝で一杯です。
レネー神父様の新しいミッションのために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱烈な祈りをお願いいたします。

2013年3月~2017年12月までの、レネー神父様の素晴らしい「お説教と霊的講話」をリンク集にしてまとめました。
どうぞお読みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2013 年
「共贖者である聖母について」 2013年3月23日大阪

「二つの復活」 2013年3月31日復活祭 大阪

「生命の目的についての真理」 2013年8月11日大阪

「無原罪の御宿りについて~いけにえの条件」 2013年12月15日大阪


2014 年
「聖母の七つの悲しみ:共贖」 2014年4月11日大阪

「キリストの偉大さについて」 2014年4月12日大阪 13日枝の主日東京

「復活祭 説教」 2014年4月20日大阪

「天主が罪びとを本当に癒やす恩寵」 2014年7月13日大阪

「被昇天の説教」 2014年8月15日大阪 17日東京

「聖ピオ十世の生涯」 2014年8月31日大阪

「聖母マリアへの信心」 2014年9月12日大阪

「十字架の神秘」 2014年9月14日大阪

「天主のお与えになる報酬」 2014年11月1日大阪

「死に関する真理」 2014年11月9日大阪

「洗者聖ヨハネの使命」 2014年12月7日大阪

「無原罪の御宿りについて~天主の傑作」 2014年12月5日大阪

「クリスマス 説教~天主は御独り子与え給うたほどこの世を愛された」 2014年12月25日大阪


2015 年
「聖家族の祝日の説教~家族の善について」 2015年1月11日大阪

「聖パウロの道徳~キリストに倣う」 2015年3月16日大阪

「五旬節の主日の説教~霊戦における3つの武器」 2015年2月15日五旬節の主日 大阪

「共同受難の聖母」 2015年3月27日 大阪

「枝の主日の説教~キリストの統治」 2015年3月29日枝の主日 東京

「復活祭の説教~現代の教会の受難 イエズス・キリストの権威」 2015年4月5日復活祭 大阪

「復活祭の霊的講話~良い麦と毒麦の神秘」 2015年4月5日復活祭 大阪

「主の御昇天後の主日~御昇天の有益性」 2015年5月17日 大阪

「主の御昇天後の主日~聖霊を待ち望む」 2015年5月17日 大阪

「イエズスのご聖体、聖心がいかに天主的であるか」 2015年6月14日 大阪

「恩寵が律法を守るということ」 2015年7月12日 大阪

「マリアの聖なる御名~謙遜の徳」 2015年9月13日 大阪

「創造の歌と贖いの歌」 2015年9月13日 大阪

「王たるキリスト~天国への道における二重の助け」 2015年10月25日 大阪

「カトリックの黙想と仏教の黙想の大きな違い~前編」 2015年10月25日 大阪

「煉獄の霊魂について」 2015年11月15日 大阪

「アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説」 2015年11月15日 大阪

「待降節第三主日~洗者聖ヨハネ」 2015年12月13日 大阪

「無原罪の御宿り~原罪について」 2015年12月13日 大阪



2016 年
「十戒について~私達の究極の幸せとは何であるか」 2016年1月10日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第一部)命の掟、十戒」 2016年1月11日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第二部)「礼拝」について」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第一戒』(の最後)と 『第二戒』」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第三戒』 ー私たちは日曜日に何をする義務がありますか?」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第四戒』 ー隣人に対する掟の中で、第一の掟ー」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第五戒』ー汝殺すなかれー人間の命は天主のみわざである」 2016年5月20日大阪

「天主の十戒『第六戒』ー汝姦淫するなかれー命の伝達を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第七戒』ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第八戒』ー汝偽証するなかれー心から真実を語り、舌でそしらぬ人となれ」 2016年6月12日大阪

「天主の十戒『第九戒』ー汝、人の妻を恋うるなかれー私たちが罪と闘わなければならないのは、そのまさに根っこ、心の中においてである。」 2016年7月17日大阪

「天主の十戒『第十戒』ー汝、人の持ち物をみだりに望むなかれーこの世に愛着するな、至高の善、いと高き天主、永遠の救いを無視するな。」 2016年7月17日大阪

「聖霊は「主であり命の与え主」であるー聖霊降臨の大祝日お説教」 2016年5月15日大阪


「三つの福音的勧告」 2016年8月14日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(前半)」 2016年5月22日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(後半)」 2016年5月22日大阪

「ロザリオについて―聖なるロザリオの神秘と黙想」 2016年10月9日大阪

「罪の結果、恩寵の必要性」 2016年10月9日大阪

「恩寵はどのように働くのか」 2016年10月9日大阪

「聖母の連祷についての解説」 2016年8月15日ソウル

「秘蹟について 『洗礼の秘蹟』」 2016年11月13日大阪

「秘蹟について 『幼児洗礼』そして『堅振』について」 2016年11月13日大阪

「ルターの誤謬と異端思想について」 2016年11月13日大阪

「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」 2016年12月11日大阪

「無原罪の御宿りについて」 2016年12月11日大阪


2017 年
「秘蹟について 『ご聖体』 その2)犠牲」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『ご聖体』 その3)聖体拝領」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『悔悛』 」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『悔悛』(続き)」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『終油』 」 2017年3月12日大阪

「秘蹟について 『聖なる叙階』」 2017年5月14日大阪

「秘蹟について 『結婚』 」 2017年7月9日大阪

「御変容について」 2017年3月12日大阪

「リベラリズムについて」 2017年4月9日大阪

「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」 2017年5月14日大阪

「いとも聖なる三位一体の祝日の説教」 2017年6月11日大阪

「聖霊について」 2017年6月11日大阪

「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」 2017年7月9日大阪

「霊的戦い(霊戦)について」 2017年9月10日大阪

「聖ピオ十世について」 2017年9月10日大阪


「ファチマ100周年」 2017年10月15日大阪

「聖ピオ十世会は離教状態にあらず」 2017年10月15日大阪

「ルターの誤謬について」 2017年11月12日大阪

「聖マルティノと祈りの諸段階」 2017年11月12日大阪

「無原罪の御宿りと結婚について」 2017年12月10日大阪

「唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト」 2017年12月17日大阪・東京

「聖骸布についての講話」 2017年12月4日東京

「2017年のクリスマスの説教」 2017年12月25日大阪・東京

シュナイダー司教「教会がネオカテクメナート(新求道共同体)をロビー活動の圧力無しに深く客観的に調査する時が来る。その時彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされる。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。


 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

前回の記事:シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」の続きです。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

シュナイダー司教「これは別の悲劇です。彼らはバチカンにおいて少なくとも30年前に強力なロビーを確立しました。また別の騙しがあります。多くのイベントで、彼らは極めて多くの回心の実りと多くの召命を司教たちに提示します。多くの司教たちは実りによって盲目となり、彼らの誤謬を見なくなってしまい、彼らを吟味しません。彼らは大きな家族らを持っており、多くの子供たちがおり、家庭生活において高い道徳の規準を持っています。これはもちろん良い結果です。しかし、家庭を圧迫して最大限の数の子供たちを得るようにするというオーバーな行動もあります。これは健康的ではありません。彼らは、私たちはフマネ・ヴィテ[28]を受け入れている、と言い、これはもちろん良いことです。しかし、究極的にはこれは幻想です。何故なら現代では世界で多くのプロテスタントのグループも高い道徳の規準をもち、多くの子供たちを産み、ジェンダー・イデオロギーや同性愛に反対して抗議し、フマネ・ヴィテを受け入れているからです。

しかし、私にとって、これは真理の決定的な判断基準ではありません!多くのプロテスタントの共同体も罪人らを、つまりアルコールや麻薬の中毒になっている人々を回心させています。ですから、回心の実りは私にとって決定的な判断基準ではありません。また私は、罪人らを回心させて多くの子供たちを持っているようなプロテスタントのグループを自分の司教区に招いて使徒職をするように頼みません。これは多くの司教たちの抱いている幻想です。彼らはいわゆる「実り」に盲目になっています。

ダニエル・フュレップ「教えのうちで隅の親石は何ですか?」

シュナイダー司教「御聖体の教えです。これこそが心臓部です。まず実りを見て教義と典礼を無視するあるいは気にかけないというのは間違っています。教会がこの共同体を、ネオカテクメナート(新求道共同体)のロビー活動の圧力無しに、深く客観的に調査する時が来ると確信しています。その時、彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされるでしょう。」

[28] フマネ・ヴィテ(Humanae vitae)は、パウロ六世によって書かれ1968年7月25日に発布された回勅である。副題は「産児調節について」であり、ほとんどの産児制限の形式を拒否している。

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一部 三 内的生活とは何か?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」(ドン・ショタール著 山下房三郎 訳)の
第一部の 第三、内的生活とは何か? をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


三、内的生活とは何か? 

 本書によくでてくる“念祷の生活”とか、“観想”とか、“観想的生活”とかいう言葉は、実はカトリック教会の教父や、スコラ神学者が好んで用いた術語であるが、ここではきまって、“どんな人にもできる、通常の内的生活”の意味であって、けっして神秘神学の研究対象である、並はずれた念祷の状態でもなければ、まして恍惚とか、示現とか、脱魂とか、そういう異常の状態を意味するものでないことを、お断りしておく。
 このへんで、神秘神学の研究に道ぐさを食っていたんでは、本書のかんじんな主題から、脱線してしまうおそれがある。で筆者はここでは、「おのれの霊魂を、内的に調整してゆくために、各自が受けいれねばならぬ諸真理のうち、絶対的確実性を持つもの」だけを、いくつか簡単に記述するにとどめたいと思う。

第一の真理 超自然的生命とは、信・望・愛によって、私の霊魂の内部においていとなまれる、イエズス・キリストご自身の生命である。

 なぜなら、イエズスこそは、成聖の恩寵がわれわれの霊魂にほどこされるための、功徳による原因(Causa meritoria)、われわれの聖性の模型となる原因(Causa exemplaris)、目的となる原因(Causa finalis)であり、そのうえ、聖言として、御父と聖霊とともに、恩寵を生じる原因(Causa efficiens)でもあられるからである。
 この超自然的生命によって、キリストは、われわれの霊魂のなかにお住まいになるのであるが、その臨在の仕方はけっして、聖体拝領の時のように、肉身をそなえた臨在ではない。それはあたかも、頭や心臓が、四肢五体におよぼす活動のように、“生命の活動”による臨在である。そして、この活動は、霊魂の秘奥においていとなまれ、そのありさまは、心には実感されない。私の信仰の功徳を増すために、天主がわざとそうされるのである。
 ゆえに、それはふだんに、知・情・意などの私の自然能力には感知されない。ただ、信仰だけが、この活動の実際にいとなまれていることを、私に確信させる。
 だが、それはひとつの高貴な天主的活動であって、私の自由意志の行使に、なんらのコントロールもおかず、いっさいの第二次的原因―日常茶飯の出来ごとも、有情の人間も、心なき事物も―みんなこれを縦横に駆使して、私に天主のみ旨を知らせてくれる。私に、天主的生命への参与を獲得し、もしくは深化させる機会を与えてくれる。
 超自然的生命は、洗礼のとき、霊魂に“恩寵の状態”がかたち造られた瞬間に始まる。この生命はまた、堅振の秘跡によって完成され、罪によって失われたときは、告解の秘跡によって回復され、聖体の秘跡によって維持され、ゆたかにされていく。
 この生命こそは、私の霊魂の“生命”―キリスト教的生命そのものなのである。

第二の真理 この生命が、霊魂に芽ばえると、イエズス・キリストは私に、ご自分の霊なる聖霊をお与えになる。聖霊は、私さえそのお働きにじゃまをしなければ、私にとって、高貴な霊的活動の源泉となる。すなわち、聖霊のインスピレーションによって、私はキリストとともに、キリストにおいて、キリストによって、またキリストのごとくに、考え、判断し、愛し、望み、苦しみ、かつ働くように仕向けられる。私の外面的活動は、私の霊魂にお住まいになるキリストご自身の生命の、外的表示でしかなくなる。「もはや私が生きるのではなく、キリストこそ、私のうちにお生きになるのである」(ガラツィヤ2:20)
 このようにして、私は、聖パウロによって方式化された“内的生活”の大理想を、すこしずつ実現していく。
 キリスト教的生活、信心生活、内的生活、聖なる生活――これらはいずれも、それぞれ本質的に異なる別種の生活をさしていっているのではない。たったひとつの愛の太陽から放射される、光度と熱度の差異を称して、そういっているまでにすぎない。同じ太陽の光線でも、宇宙を照らす度合いに応じて、薄明、あけぼの、真昼の明るさ、さん然たるかがやき、などと呼ばれるではないか。
 本書に使われている“内的生活”という言葉は、誰もが常時に、潜在的に、霊魂の内部にもっている、静止的な内的生活をさしているのではない。それは、いわば“天主的生活の資本”とでも呼ばれるべきものであって、成聖の恩寵さえもっていれば、誰もがこの種類の内的生活はいとなんでいる、といえるのである。筆者がここに使っている“内的生活”の真意は、霊魂が自身の活動と、また助力の恩寵への忠実な協力とによって、この天主的生命の資本を活用して、超自然的な仕事をする、いわば行動的な、実用的な内的生活のことである。それは次のように、定義することができよう。

内的生活とは――
 「霊魂が、おのれの自然的傾向を善導するため、これに向かって戦いをいどみ、かつ万事において、福音の光りと主イエズス・キリストのお手本にしたがって、ものごとを判断し、おのれの動きを正しい方向に調整してくれる良い習性を獲得しようと努力する、その活動の状態」
をいうのである。

 それゆえ、内的生活には、必ず二つの運動がある。
 第一の運動によって、霊魂は、超自然的生命にとって障害となることのできる、すべての被造物から離脱する。(Aversio a creaturis)
 第二の運動によって、霊魂は、天主にあこがれ、天主と一致する。(Conversio ad Deum)

 このようにして、霊魂は、キリストが生命の各瞬間に、自分にお与えになる恩寵に、忠実でありたいと望む。一言でいうなら、霊魂は、イエズスと一致して生活する。そして、イエズスの仰せられた、「もし人が私につながっており、また私がその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)とのお言葉を、わが身に実現するのである。

 第三の真理 私の霊魂の内部に、イエズスが臨在して、ちからづよく活動しておいでになる、というこの事実を、私は確実に、徹底的に、信ずるように努力しなければならぬ。とりわけ、イエズスのご臨在が、私にとって、私の霊魂の全能力をくまなく浸透する、一つの生き生きとした、最高に生き生きとした現実となるように、その獲得にむかって、修業しなければならぬ。もしそうでなかったら、私はこの内的生活を獲得するための、最も有力な手段の一つを、欠くことになろう。このご臨在によってこそ、イエズスは私の光り、私の理想、私の忠告者、私の支柱、私の助け、私の避難所、私の力、私の医師、私のなぐさめ、私のよろこび、私の愛 ―― 一言でいえば、私の“生命”となってくださるのである。このようにして私は、すべての善徳を獲得することができよう。そのとき初めて私は、ミサ聖祭のあとで、感謝のために、母なる教会が私のくちびるにのせてくれる、聖ボナヴェントゥラの ≪Transfige, dulcissime Domine Jesu……》(いとも甘美なる主イエズスよ……)という、あの感動にみちた祈りを、ほんとうにまごころこめて、となえることができよう。

 第四の真理 天主に対する愛が、ますます深くなっていくにつれ、私の超自然的生命も、いのちの各瞬間ごとに、成長発展することができる。私の霊魂の内部におけるイエズスの、ちからづよい活動をともなうご臨在は、いのちの各瞬間ごとに、いちいち新しい恩寵を、私の霊魂にそそぎ入れてくれるからである。

 この恩寵は、次のような機会に、霊魂にそそぎ入れられる。
(一)――功徳になる行為を、なすたびごとに。すなわち、善業、働き、種々の苦しみ、被造物からの自発的離脱、心の痛み、身体のわずらい、謙遜、自己放棄、祈り、ミサ聖祭、聖母マリアにたいする信心行為、などなど。
(二)――すべての秘跡、とりわけ、聖体の秘跡によって。

 これは、ほんとうに、確実な真理であり、事実である。そしてこの真理は、その高さと深さによって、私を驚倒させるが、同時に、とりわけ私の心をよろこばせ、はげましてくれる。

 ああ、イエズスよ、あなたはほんとうに、一つ一つの出来ごと、ひとりひとりの人物、一つ一つの事物によって、客観的に、そして生命の各瞬間ごとに、あなた自身を、私にお与えになります。あなたは、ご自分の知恵と愛を、これらの出来ごと、人物、事物などの外観のもとにおかくしになり、私の内にあるあなたのご生命に、私がますます成長していくようにと、私の協力をうながしてやみません。

 ああ、私の霊魂よ、イエズスはまことに、“現在の恩寵”というありがたいおめぐみによって、いのちの各瞬間に、ご自身を、おまえに与えてくださる。祈りをするとき、ミサ聖祭をささげるとき、またはこれにあずかるとき、信心読書をするとき、苦業をするとき、熱誠、克己、心戦、信頼、愛のわざをするとき、ああ私の霊魂よ、おまえはこのイエズスのご注視から、のがれることができるだろうか。

第五の真理 原罪によって生じ、一つ一つの自罪によって勢力を増していく三つの邪欲が、私の内に、“死の元素”をかたち造り、これがイエズスのご生命にむかって、たえまなく戦っている。さて、この死の元素が、私の内に、成長し発展すればするほど、逆に天主的生命のいとなみは弱くなる。最後には、死滅してしまうことすらある。
 しかしながら、この超自然的生命に反抗する私自身の、自然のわるい傾向も感情も、またはどんなに烈しい、どんなに長びく悪魔の誘惑さえも、私の意志が、それに強く抵抗しているかぎり、この天主的生命を害することはできないのだ。これは、なぐさめにみちた真理だが、それらは他のあらゆる心戦の要素のように、この天主的生命を、私の霊魂の内に発展させ、ふやしてくれさえもする。ただし、それは、私の奮発心の度合いに応じて……。

第六の真理 ある手段を、忠実に実行しないなら、知恵は暗くなり、意志は弱り果てて、私の内にある天主的生命を持続し、発展させるために、イエズスに協力することができなくなるだろう。したがって、天主的生命は、だんだん弱くなっていき、ついには、“意志の冷淡”に落ちこむ。このようにして私は、心の散漫、怠け、錯覚、迷いなどによって、小罪と手をにぎるようになる。その結果、私の救霊は、不安定となる。たやすく大罪をおかす心がまえが、できあがっているからである。

 もし私が、不幸にも、このような冷淡におちいっているのなら、(いわんや、冷淡よりももっとひどい処まで行っているのなら)、あらゆる手段をつくして、これから脱け出るように、精をださねばならぬ。そのためには――

 (一)――天主の畏敬の念を、あらたに心によび起こす。そのためには、四終――すなわち、死、審判、天国、地獄、永遠、罪などを、生き生きとした、印象深い姿のもとに、眼前に思いうかべる。
 (二)――痛悔心を、あらたに起こす。
 ああ、いつくしみ深い救い主よ、あなたの御傷の語る愛の知識によって、私は精神的にカルワリオへ行き、あなたの尊いみ足のもとにひれ伏します。どうか、あなたの生ける尊い御血が、私の頭に、心に、雨のようにふりそそいで、心のやみをはらいのけ、魂の氷をとかし、意志のねむりを、ゆりさましてくださいますように。

(この章 続く)

【注】聖ボナヴェントゥーラの祈りは次の通り。
TRANSFIGE, dulcissime Domine Iesu, medullas et viscera animae meae suavissimo ac saluberrimo amoris tui vulnere, vera serenaque et apostolica sanctissima caritate, ut langueat et liquefiat anima mea solo semper amore et desiderio tui, te concupiscat et deficiat in atria tua, cupiat dissolvi et esse tecum.
Da ut anima mea te esuriat, panem Angelorum, refectionem animarum sanctarum; panem nostrum cotidianum, supersubstantialem, habentem omnem dulcedinem et saporem, et omne delectamentum suavitatis. Te, in quem desiderant Angeli prospicere, semper esuriat et comedat cor meum, et dulcedine saporis tui repleantur viscera animae meae; te semper sitiat fontem vitae, fontem sapientiae et scientiae, fontem aeterni luminis, torrentem voluptatis, ubertatem domus Dei.
Te semper ambiat, te quaerat, te inveniat, ad te tendat, ad te perveniat, te meditetur, te loquatur, et omnia operetur in laudem et gloriam nominis tui, cum humilitate et discretione, cum dilectione, et delectatione, cum facilitate et affectu, cum perseverantia usque in finem; ut tu sis solus semper spes mea, tota fiducia mea, divitiae meae, delectatio mea, iucunditas mea, gaudium meum, quies et tranquillitas mea, pax mea, suavitas mea, odor meus, dulcedo mea, cibus meus, refectio mea, refugium meum, auxilium meum, sapientia mea, portio mea, possessio mea, thesaurus meus, in quo fixa et firma et immobiliter semper sit radicata mens mea et cor meum. Amen.

【参考資料】
L'Ame de Tout Apostolat par Dom Jean-Baptiste Chautard


聖ピオ十世会 2018年1月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX JAPAN report of Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、天主様に感謝します。今月は、毎年恒例の「踏み絵への償いの式」をすることができました。

絵踏みは1628年長崎で始まりました。長崎奉行を勤めた元外様大名竹中采女が発案したものです。

竹中采女は残酷な男で、信者の墓あばきや女・子供に至るまでに拷問をし、信徒をことごとく検挙して棄教を強要しました。従わない者は、雲仙で熱湯による責苦が与えられ、西坂では逆吊しによる拷問を受けました。

悪魔は、竹中に非常に恐ろしい事を思いつかせました。悪魔はマリア様の踵によって踏まれたので「マリア様を踏んでやろう」と。そこでピエタとか、マリア様の御像、あるいは御メダイを、毎年信者に踏ませました。230年の間、1858年に締結した日米修好通商条約によって踏絵制度が廃止されるまで、キリシタンと一緒に、マリア様も迫害を受けて苦しまれました。隠れキリシタンたちは、まず「サンタ・マリア様」を探しました。1866年にプチジャン神父様が大浦天主堂で信徒発見できたのは、マリア様のおかげです。

絵踏みの儀式は、毎年一月に行われました。そこで、私たちも毎年一月に償いの儀式を行っています。レプリカの踏み絵に映っている悲しみのマリア様をお慰めするために、ことしも接吻を捧げました。私たちを愛しているにもかかわらず、子供たちからつらい拒絶を受けておられるマリア様に、すくなくとも私たちの愛をお捧げしました。

マリア様は涙を流しておられます。日本の救霊の為に苦しむ涙です。悲しみのマリア様は、1975年の初土曜日から1月の初土曜日から、1981年の9月15日の悲しみの聖母の日まで、101回の涙を流しています。日本をこんなにも愛しているにもかかわらず、無視されて、冷淡で、無関心で、マリア様の愛は足蹴にされている事を嘆いている涙でした。

天使はある時言います。「日本はマリア様に捧げられたという事を喜んでいるけれども、この信心は全く無視されている。非常に悲しんでおられる」と。

愛する兄弟姉妹の皆様も、どうぞご自宅で絵踏みの償いとしてマリア様の御影にあるいは御像に接吻をお捧げください。

マリア様は「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えてくれます。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、偽りの教えである、と。

聖母よ、私たちを憐れんでください!















天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
この度は、御ミサに、終課、絵踏みの償いとしての踏絵への接吻式、御公現のチョークの祝別、御浄めのローソク行列の聖歌練習と、
盛りだくさんのスケジュールでとても濃い二日間となりました。
ハードなご聖務の中きっとお疲れになっておられたと思いますが、日本の信徒のために目いっぱい働いて下さる神父様に、どれ程感謝しなければならないかとつくづく思いました。本当にありがとうございました。

御公現のチョークで 20+C+M+B+18 と、家の玄関ドアの上に書くカトリックの習慣については前から知っていましたが、どうして三人の博士の頭文字を書くのか知りませんでした。
C.M.B.が、Chrisutus mansionem benedicat .「キリストがこの家を祝福して下さいますように」という言葉の頭文字と同じだからというご説明を聞いて、この習慣の意味もわかり、人に尋ねられてもお答えできるようになりました。

19日金曜には13名の方々が、20日土曜日には16名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のミサの聖福音ではカナの婚礼の部分が朗読されました。神父様のお説教で、聖福音についてよく黙想させて頂くことができました。
私達はミサに与るたびにキリストの花嫁として教会の一員としてキリストと霊的一致という結婚を再現している。そう黙想しながらミサに与り、御聖体を拝領しました。

また、私の水がめにはただの水、いえそれ以下のものしか入れることができなくでも、マリア様が仰るとおりにイエズス様のみ摂理に従えば、たとえそのみ摂理が自分に理解できないような無駄なようなことに思えても、イエズス様は最高の葡萄酒に変えて下さるという訓示には感動して嬉しくなりました!

また、カナの新郎新婦がマリア様を一番に婚礼にご招待した事に倣う事も決して忘れてはいけない、簡単で大事な事だと痛感しました。
自分の水がめを、マリア様のみ心への信心でいっぱいにすることを頑張ろうと思います。

土曜日のお説教で聖ファビアノ教皇様と、聖セバスチアノの生涯について黙想させて頂きました。
今年の8月、ローマへ巡礼に行くお恵みをいただき、まさにこの聖セバスチアノの聖堂、ご遺骸が安置されているすぐそばへ行った事を思い出しました。
セバスチアノが治癒の取次ぎをして下さる聖人だとは知らなかったのでお祈りしそこねた事があってちょっと残念ですが、大阪のマリア様の御心の中から、聖セバスチアノ様にお祈りしてお取次ぎを願う事にします。

また、聖歌練習 ではローソク行列の説明をして頂き、長い間救い主を待ちわび、やっとマリア様の御浄めの日に救い主を見、抱くことができたシメオンに倣い、御浄めのロウソクの行列には、私達一人一人がシメオンになって、光であるイエズス様をあらわすローソクに接吻して、抱き、最後まで命つきて天国に入るまでこの火を胸にもっていなければならない教会の意向があったのだと初めて知りました。当日は力が入りそうです!聖歌練習をがんばらねば・・・。

この度も本当にたくさんのお恵みに感謝致します。
天主様からどれほど多くのお恵みを頂いているかを知らない人々のためにもたくさんお祈りしなければいけないと思う出来事もあった日でした。
いつも神父様から頂くお言葉ですが、小野田神父様の上にも天主様の大きな祝福とお恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 28人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 55人(内、子供6人)


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「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」(2017年1月21日(土)殉教者童貞聖アグネスのミサ 小野田神父 説教)

「『主よ、主よ』と口で言う者が天の国に入るのではない。私の聖父の御旨を果たす者が、天国に入る。」 聖父の聖旨とは何か?(2017年1月22日 御公現後の第3主日のミサ フルーガー神父様御説教)

「聖家族の祝日」。その核心のメッセージとは?「御降誕と御公現」のミサとの違いとは?(2017年1月8日(主日)イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日のミサ)

マルレ司教様来日)2016年9月8-12日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 「堅振式の訓話では、ディオクレティアヌス帝の治世、ローマの殉教者である聖セバスチアノの話をしていたただきました。聖セバスチアのは皇帝の近衛兵で、妻子もありました。当時のローマは皇帝を神のように崇拝していましたが、しかし、セバスチアノはイエズス・キリストを信じ皇帝の前で公にカトリック教徒であることを宣言し、ついに殺されることになりました。・・・」

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か?(続き)L'Ame de tout apostolat

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か? の続きをご紹介いたします。


第七の真理 私はまじめに、恐れおののかねばならぬ。イエズスが私から、強く要求しておいでになる内的生活の度合いに、自分がまだ達していないのを思って。

 (一)――もし私が、イエズスのご生命に生きたいとの渇望を、ますます増大させることをやめるなら、――万事において、天主のみ心にかなうことを望ませ、どんなに小さな事がらにおいても、天主を悲しませることを怖れさせるこの渇望を、心から捨て去るならば、そのとき、私の内的進歩のあゆみは、とまってしまうだろう。
 さて、もし私が、この渇望を増大させるための手段を用いないなら、すなわち、朝の黙想、ミサ聖祭、秘跡および聖務日課、特別糺明および一般糺明、信心読書などを怠るなら、もしくは自分の過失によって、これらを十分に利用しないなら、そのとき私は、イエズスのご生命に生きたい、というこの渇望を、わざと枯らしてしまうのである。

 (二)―― もしも私が最少限の潜心 (recueillement) を持たず、そのために自分の用務にたずさわっている間でも清さのうちに私の心を保ってイエズスの御声を塞いでしまわないほどのかなり大きな寛大さを守らないなら、現れてくる死の要素を私に示し、これらの要素に対して戦うように私を招くイエズスの声を聴くことができなくなってしまう。

 さて、これを確保するための手段である典礼生活、射禱(とりわけ嘆願を含んだ)、霊的聖体拝領、天主の現存を考える修業、などを怠るなら、私はこの最少限の潜心さえ持つことができない。

 潜心がなければ、私の霊的生活に、小罪が、次から次へと、ふえてくる。そして、不幸にも、私はそれに気づかない。このなげかわしい状態を、ひたかくしにかくそうと、霊魂は、自分がその中におちこんでいる妄想さえ利用することを忘れない。信心は、実のいった実行的なものよりも、漠然とした理論的なものになってしまう。事業熱には取りつかれる。……これは、あきらかに、心の盲目である。そして、罪の責任と罰は、当然、私がこうむらねばならぬ。絶対に持っていなければならぬ潜心の不足によって、私はこの罪の原因を、自分で作りだし、それを養い、ながくたくわえていたからである。

第八の真理 私の内的生活は、せんじつめれば、“心の取り締まり”に帰着するだろう。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れでるからである」(格言の書4・23)

 “心の取り締まり”とはほかでもない、私のすべての行動を監視して、それが起きるとすぐ、動機において、成就の過程において、これを毒することのできる不純なものが、いっさいはいりこまないように警戒する、ふだんの、また少なくともひんぱんの、こころづかいをいうのである。このこころづかいは、静かで、そわそわしない。たやすく実行でき、心の平安をみださないものではあるが、天主にたいする子供ごころの信頼にもとづいているから、いたって強固である。

 心の取り締まりは、精神の働きというよりむしろ、心と意志の働きである。おのれの義務をはたすために、心と意志を、いっさいのそくばくから解放し、自由にしてくれるものは、心の取り締まりである。

 心の取り締まりは、私の行動をそくばくしないばかりか、かえってこれを自由にし、完成する。なぜなら、それは、私の行動を、天主の霊にしたがって調整し、これを正しく導いて、身分上の義務に合致させてくれるからである。

 心の取り締まりは、いついかなるときも、実行できる修業である。それは私に、心の目をもって、現在の行動を監視させる。一つの行動でも、そのあらゆる部分を、それが生起するとたんに、しずかに、注意ぶかく眺めさせる。それは“Age quod agis” 「あなたが現在、なしつつあることをなせ」(他のことに気を取られてはならぬ、あなたの現在の仕事に専心せよ)という格言を、きちょうめんに守ることなのである。霊魂は、ちょうど歩哨(ほしょう)のように、自分の心のあらゆる動きに、心奥に生起するすべての現象に――感受する印象、意向、欲情、感情、心の傾きに――一言でいえば、内的、外的のすべての仕業、すべての思い、望み、言葉、行ないに、警戒の目を光らせている。
 心の取り締まりは、ある程度の潜心を要求する。
 注意の散漫な霊魂には、心の取り締まりはない。
 心の取り締まりの修業を、しばしば実行しているうちに、すこしずつ、その習慣が身につぃてくる。
 “Quo vadam et ad quid ? “ 「私はいったいどこへ行くのか? そして何のために?」
 イエズスは、このさい、何をなされるだろうか。イエズスが、私の代わりに、これをなされるとしたら、いったいどんなふうになされるだろうか。どんなお忠告を、私にしてくださるだろうか。ただいま、この瞬間、イエズスは何を、私に求めていらっしゃるのだろうか。――内的生活に飢えている霊魂は、自発的に、このような質問を、心にいだくのである。
 マリアをへてイエズスに行く――ということを知っている霊魂にとって、心の取り締まりは、いっそう容易であり、そのうえ、愛情のこもった修業となる。聖母によりすがることは、かれの心にとって、たえまない必要とさえなってくるからである。

第九の真理 霊魂が、イエズス・キリストを模倣しよう――まじめに、全面的に、そして愛情こめて、模倣しようと、心から烈しく望むとき、そのときイエズス・キリストは、霊魂の内部で、絶対の統治をお行いになる。だが、イエズス・キリストを模倣する過程には、いろいろの段階がある。

 (一)――霊魂は、いっさいの被造物にたいして、無関心となる。その被造物が、自分の気に入ろうと、入るまいと。……霊魂は、イエズスのお手本にならって、万事において、ただ天主のみ旨だけを、自分の行動の唯一の基準にする。「わたしが天からくだってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみ旨を行うためである」(ヨハネ(6・38)

 (二)――「キリストは、ご自身をよろこばせることは、なさらなかった」(ローマ15・3)
 霊魂は、おのれの自然の感情にとって、気に入らないもの、いやなものに、いっそう喜んで近づく。イエズス会の創設者・聖イグナチオが、その有名な『霊操』の一章「キリストのみ国」の中でいっている、“Agendo contra” 「万事において、おのれ自身に逆らって行動せよ」という境地が、このとき実現する。

 これはおのれの自我、おのれの自然的傾向に逆らう行為であって、そのめざすところは、キリストの清貧、その苦しみへの愛、その屈辱への愛を、なにものにもまさって模倣することにある。聖パウロの表現をかりるなら、霊魂は、このとき、「ほんとうにキリストを知る」(エフェゾ4・20)のである。

第十の真理 私が、どんなにみじめな罪びとだろうと、私が祈りたいと望み、また天主の恩寵に忠実でありたいと望みさえすれば、イエズスは私に、内的生活に立ちもどるためのいっさいの手段を、よろこんでお与えになる。そして、この内的生活のおかげで、私はイエズス・キリストの親友となり、私の霊魂のなかにあるかれのご生命を、ますます成長発展させることができる。そうだったら、この苦しい、困難な霊的試練の途上においてさえ、私はたえまなく、内心の喜悦を味わうことができる。かくて、イザヤ預言者の言葉が、私において、みごとに実現するのである。

  そうすれば、あなたの光りが暁のようにあらわれ出て、
  あなたは、すみやかにいやされ、
  あなたの義は、あなたの前に行き、
  主の栄光は、あなたのしんがりとなる。
  また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、
  あなたが叫ぶとき、
  「わたしは、ここにおる」と言われる。
  主は常に、あなたをみちびき、
  よき物をもって、あなたの願いを満ち足らせ、
  あなたの骨を強くされる。
  あなたは、うるおった園のように、
  水の絶えない泉のようになる。(イザヤ58・8~11)

 第十一の真理 天主が、もし私に、私の活動を、ただ私一個人の成聖のためばかりでなく、さらに使徒的事業のためにも活用することをお求めになるなら、そのときは、万事に先んじて、心の中に、次のような強い信念をかたち造らねばならぬ。
 「イエズスこそは、私のこの事業の生命でなければならぬ。イエズスはそれをお望みになるのだ!」と。
 私の努力だけでは、ダメである。絶対ダメである。
 「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
 私の努力が、りっぱな実を結ぶための、また天主に祝福されるための、唯一の条件は、それが、ほんとうの内的生活によって、イエズス・キリストの万物を生かす天主的ご活動に、たえまなく一致していることである。そうすれば、私のつたない努力でも、じつに全能のちからをおびるのだ。「わたしは、わたしを強くしてくださるかたによって、何ごとでもすることができる」(フィリッピ4・13)
 だから、もし私の努力が、高慢な自負心から生まれているなら、もしそれが、各自身の才能と力量にたいする過度の自信から、または成功だけをこいねがう功名心の一念から出ているなら、それは天主から排せきされるにきまっている。
 天主の栄光から、その幾分かを奪い取り、これをもって、おのれをかざろうとするのは、私にとって、ゆるすべからざる汚聖の罪ではないだろうか。
 「キリストを離れては、自分は何もできないのだ!」この信念が、霊魂の活動を、よわよわしく消極的にすると思ったら、大まちがいだ。かえって、これを強壮にし、男性的にする。
 この信念こそは、私の“力”である。この信念があればこそ、謙遜を修得するためのに、どんなにか、祈りの必要を、痛感することだろう。
 謙遜こそは、霊魂の宝である。天主のお助けの確証である。事業成功への保証である。

 この点、最も大切な根本原理である。このことを、身にしみてさとった上は、心霊修業のあいだに、次の諸事項を、まじめに検討して、自己反省をしなければならぬ。
 私の活動は、単独では超自然的にゼロである。だがしかし、それがイエズス・キリストの天主的ご活動に合流されるときは、全能のちからをおびる――というこの信念が、私のうちに、よわくなってはいないか、どうか。

 はたして、私は、いっさいの自己満足と虚栄を、――わが使徒的活動において、その成功をおのれに帰せようとするいっさいのウヌぼれを、私の心から、なさけ容赦もなく、追放しているか、どうか。

 はたして、私は、自分自身にたいして、絶対の不信用をおいているか、どうか。

 自分の事業を生かしてくださるように、また、天主のお助けにとって第一の、そして根本的障害となる高慢から、自分を救ってくださるようにと、はたして私は、天主に祈っているか、どうか。
 上の事がらを、まじめに反省してみることだ。

 これこそは、内的生活の“信条”なのだ。これが、霊魂にとって、その存在の土台となるとき、霊魂はすでにこの世ながら、天国の幸福にあずかるだろう。

 内的生活こそは、天国の永遠の幸福に予定された人びとの生活である。

 内的生活こそは、天主が人類を創造するにあたっていだいておられた、人間の終局の目的に、ピッタリ即応する生活なのである。
 それはまた、天主の御ひとり子のご托身の目的にも、りっぱにそっている。「天主が、その御ひとり子を、世におつかわしになったのは、わたしたちを、かれによって、生きさせるためである」(ヨハネⅠ 4・9)

 内的生活こそは、人間が心のそこから願いもとめる、最高の幸福の状態なのである。
 「人間の終局の目的は、天主と一致することである。ここにこそ、人間の幸福は存するのだ」
 聖トマス・アクィナスが、こう言っている。
 内的生活のよろこびは、地上の歓楽とはちがって、たとえ外部にはイバラのとげがあっても、内部にはいつも、幸福のバラが咲きみだれている。
 「この世の歓楽をのみ追及する人びとは、あわれである。その姿は痛ましい……」アルスの聖司祭が、こういっている。「かれらは、裏にイバラのとげのあるオーバーを着ている。すこしでも身を動かせば、肩がチクチク痛む。これに反して、まことのキリスト信者は、やわらかい毛皮のついたオーバーを着ている」
 世人は、「十字架だけを見つめて、その背後にかくされている、なぐさめと喜びを見ない」(聖ベルナルド)

 内的生活こそは、天国の生活である。霊魂は、生ける天国となるのだ[1]。
 聖女マルガリタ・マリアのように、かれもまた、こう歌うことができよう――
  
われは、いつでも所有する、われは、いずこにも持ち運ぶ、
わが心の天主を、わが天主の聖心を。

Je possède en tout temps et je porte en tout lieu
Et le Dieu de mon coeur et le Coeur de mon Dieu.

 これこそは、聖トマス・アクィナスが言っているように[2]“永遠の幸福の開始”“Inchoatio quaedam beatitudinis” でなくて、なんであろう。
 まことに、成聖の恩寵こそは、地上における天国の芽ばえなのだ。

[1] Semper memineris Dei, et coelum mens tua evadit (St. Ephrem). Mens animae paradisum est, in qua, dum coelesitia meditatur, quasi in paradiso voluptatis delectatur (Hug. a Sancto Victore).
[2] 2a 2ae, qu. 180. art. 4.

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その四、内的生活が、どれほど知られていないか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その四、内的生活が、どれほど知られていないか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

L'Ame de Tout Apostolat par Dom Jean-Baptiste Chautard



四、内的生活が、どれほど知られていないか

大聖グレゴリオ教皇は、人も知るごとく、すぐれた教会統治者であり、熱烈な使徒、偉大な観想家だが、聖ベネディクトの内的生活を一言で集約して、Secum vivebat「かれは、自分自身とともに生きていた」といっている。
 聖ベネディクトは、スビヤコの修道院で、かれの有名な『聖戒律』の土台をきずいたが、この聖戒律こそは、天主がこの世でお使いになった、使徒職の最も強力な道具の一つである。
 現代において、使徒職にたずさわっている人びとの大部分にかんして、「かれらは自分自身とともに生きている」と言い切れないのは、まことに残念である。聖ベネディクトは、自分自身とともに生きていた。

 現代の人々はこれと全く反対の生き方をしていると言わねばならない。

 自分自身とともに自分において生きる、自分自身を統治する、外部からのことによって支配されるがままにしない、想像を抑制し、あまりに敏感で傷つきやすいことや知性と記憶さえをも意志の忠実な下僕の地位に戻す、人々がますます受け入れないプログラムを受け入れる。この落ち着きのない時代には一つの新しい理想が生まれた。それは「活動ための活動への愛」である。

 じっさい、感覚にうずもれて生活することを、余儀なくされている現代人にとって、内的生活の修業は、そうとうつらい。つらいから、これをふりすてるために、いろんな口実を、まことしやかに、ならべたてる。

――勤め先の仕事が、あんまりいそがしいので、内的生活なんかやっているひまがない。自分は、家族のことを、心配しなければならぬ。制欲や苦業をすれば、からだをこわす。せっかくの養生が無駄になる。信心を鼻にかける、といって人に笑われる。自分の名声が台なしになる。愛国心がうすらぐ。自分が加入している何々会の顔にかかる。信心家は、天主のいっそう大いなる光栄のために、と口先ではりっぱなことをいっておるが、そのじつ、自分自身の光栄をさがしている。――

このような申しわけが、次から次へと出てきて、自分自身の内部に沈静して生きる内的生活を、不可能にしている。

 いっそうなげかわしいことは、自分自身から完全に脱けでた浮世の生活 ―― 一種の精神錯乱ともいうべきこの空虚な生活にたいして、われわれは抵抗できないほど強烈な魅惑を感じていることだ。内的生活が、人びとに知られず、なおざりにされているゆえんが、よくわかろうというもの。

 内的生活の価値は、人びとに知られていない。いや、知られていないというだけでは、なんとなくいい足りないのだ。内的生活は、軽べつされている。しばしば、物笑いのタネとなっている。わけても、内的生活の価値を、だれよりも高く評価し、その必要を、だれよりも痛切に感じていなければならぬはずの人びと――司祭、修道者からさえも……。

 われわれは、このなげかわしい事態に直面して、いまさらながら、レオ十三世教皇が、北米合衆国のバルチモアのギボンス枢機卿におくられた、あの有名な書簡のおしえを想起する必要がある。そこには、事業一点ばりの使徒職が、いかに危険な結果を招致するかが示されてい、したがって事業や活動だけを礼賛して、内的生活をなおざりにする人びとに、痛烈な一撃が加えられている。

 内的生活は、前にも一言したように、かなりつらい修業である。つらいから、その労苦をさけるために、聖職者までが、「イエズスとともに、イエズスにおいて、イエズスによって」いとなまれる、この超自然的生活の優越性を、いっこうにさとらなくなってきた。救世事業の天主的計画においては、いっさいが、ペトロの岩(教会統治権)よりむしろ、聖体を中心とする内的生活に、土台がすえらえ、重点がおかれていることを、かれらは忘れてしまった。使徒的事業をいとなむにあたり、“本質的”なものをあとまわしにして、第二義的なものを第一位におく――こういう人たちは、しらずしらずのうちに、アメリカニズムという流線形霊生の味方となって働いているようなものだ。

 かれらにとって、聖堂はまだ、プロテスタントの会堂のようには、淋しくなっていない。聖櫃もまだ、からにはなっていない。だが、かれらにいわせると、聖体を中心とする内的生活は、こんにちの文化生活には合わないのだそうだ。それはまた、文化生活の要求も満たしてもくれない、したがって、聖体の信心から必然的にでてくる内的生活は、すでに過去のもの、中世紀の残骸(ざんがい)だそうだ。

 このような考えにとらわれている人たち――しかも、かれらの数はひじょうに多い――にとって、聖体拝領は、本来の意味をうしなった。初代協会の熱烈な信者たちがいだいていた、聖体拝領のほんとうの意味は、もはやかれらのうちに見いだせない。かれらは、聖体がなんであるかぐらいは、知っている。そこに、キリストが臨在することは、読んで知っている。だが、聖体こそは、自分たちの霊魂にとっても、自分たちの使徒的事業にとっても、絶対に欠くことのできない生命源である、ということを、すこしも理解していない。だからして、聖体のイエズスと「顔と顔をつきあわせて」語りあう、いたって親密な内心の一致も、ほとんどできないところから、内的生命は中世紀の残骸にすぎない、と信じこむようになったのだ。なにも驚くには当らぬ。

 じじつ、かれらはよく大げさな言葉を連発して、自分たちのした使徒的事業の手柄ばなしをする。そばできいていると、じつにコッケイだ。――天地万物を、ただの一言で、お作りになった天主が、そして広大無辺の宇宙も、みまえにあっては、ただひとかたまりのちり、ただの虚無にすぎない、それほど偉大な天主が、自分らの手をかりないでは、なにもおできにならない、かのような話ぶりである。

 あなたは、これを他人事のようにおもってはならない。いかに多くの熱心な信者たちが、いや、司祭、修道者たちまでが、使徒的事業を、過大に評価・礼賛するのあまり、しらずしらずのうちに、このような考えを、一種の永遠不易なドグマ(信条)でもあるかのように信じこんでいることか。そして、このまちがった信念から、かれらの態度や行動をふきこまれた結果は、とうとう自分自身から脱けでた空虚な生活に、おのれを際限なくゆだねてしまっていることか。――教会も、教区も、小教区も、修道会も、事業も、みんな、この“私”を必要としている。私がいなければ始まらぬのだ。……天主にとって、私はためになる存在、いや、なくてはならぬ存在なのだ!
 なるほど、口にだしては、そういわないだろう。だが、この愚かな考えは、かれらの心の奥ふかく、どこかに潜伏しており、そこから、ウヌぼれはますます強くなり、反対に、信仰はますます弱くなっていく。

 神経衰弱にかかれば、頭を使う仕事は、いっさい禁物である。しかも長い間、そのままでいなければならぬ。そのわけは、この病気の特徴が、病人を、ちょうど熱に浮かされたような興奮の谷底へ投げこみ、この異常状態が、いわば第二の天性となり、たえまなく病人をしげきして、さらに新しいエネルギーの発散へ、さらに強い興奮の獲得へと、しゃにむに追いまくり、その結果、前よりもいっそう病勢をつのらせるからである。
 これと同じような現象が、事業一点ばりの人びとのあいだに、見受けられる。

 内的生活こそは、いらだったかれらの神経にとって、唯一の鎮静剤であるのに、かれらはこれを不愉快に思うのみか、なおそのうえ、これにたいしてはげしい嫌気さえ感じている。あきれた話だ。内的生活を、まじめに実行してこそ、かれらの霊魂の神経衰弱は、いやされるのではないか。

 そればかりではない。かれらは事業を、どんどん、ふやしていく。血気にはやって、向こう見ずの冒険をやる。ますます事業に熱中する。いそがしい業務に、おしつぶされる。――こうなったら最後、どんな療治でも、テンでききめがない。自分からそれをいやがって、受けつけないのだから。

 大海原を、全速力で航行している、一隻の汽船がここにある。船長は、速力のすばらしいのを、たいそう自慢している。だが、舵取りが、ぼんくらだ。めくら滅法に、船をあやつっている。いつなんどき、なにかにぶつかって、海底のもくずと消えないとも限らぬ。それを知っているのは、ただ天主だけだ。

 「霊とまことをもって、天主を礼拝する」――この一事をこそ、キリストはいっさいに先だって、人びとに要求されるのだ。
 アメリカ主義の信奉者たちは、ただ自分らがやってのけた外的事業だけを数え立てて、自分たちこそは、天主に大いなる光栄を帰したのだ、と盛んに自慢している。
 使徒職にたずさわっている人びとの精神が、こんなに嘆かわしい状態であればこそ、当世のカトリック系の学校や病院、養護施設や教会が、どんなにりっぱな建物で、またどんなに評判がよくても、これと正反対に、苦業や祈りによる内面的に深みのある信心生活が、ますます閑却され、ますます衰退していく一方であるゆえんが、よくわかるのである。

 当世の人びとは、人目にかくれ、ただ天主だけがごらんになる、秘めたる犠牲や苦業の価値を、もはや信じなくなってきた。だから、修道院の奥ふかく、弧寂の独房にひきこもって、かくれた犠牲と祈りに身をゆだねる観想修道者を、やれ怠け者だ、やれ空想家だ、といって盛んにけなす。

 だが、この人たちこそは、どんなに熱心で、どんなにいそがしく走りまわっている宣教師たちよりも、はるかに多く、救霊の熱情をもっているのだ。はるかに多く、霊魂を救ってもいるのだ。こういう人たちをけなすだけでも、すでに大きな過ちなのに、かれらはなおも腹の虫がおさまらぬとみえて、こんどは活動に従事する人びとの信心行為をやりだまにあげる。この人たちが、そのいたって大切な、いたって繁忙な仕事の真ッ最中に、わずかな時間をさいて、聖堂に走る。聖櫃のそばで、自分たちの冷えかかった奮発心を、再び暖めていただく。浮き世のちりでよごれた自分たちの意向を、再びきよらかにしていただく。自分たちの仕事に、りっぱな実りを与えてくださるようにと、ご聖体のイエズスにお願いする。そうでもしなければ、とうていやっていけない、と心からさとっている。――こういうけなげな活動家を、かれらはまた、盛んにくさすのである。 
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