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ヨハネによる聖福音の朗読(日本語)MP3録音ファイル:Audio files of the Gospel of Saint John (Japanese)

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2019年5月1日(初水)勤労者聖ヨゼフの主日、令和の時代が祝福されますように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年5月1日(初水)勤労者聖ヨゼフの主日、令和の時代が祝福されますように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。

御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。

この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。

御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。

御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


2019年5月1日には新天皇陛下の御即位にあたり、私たちは「天皇陛下のための祈り」を唱えました(ラテン語、日本語、英語、スペイン語、フランス語を紹介します)

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天の元后喜び給え、アレルヤ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちは只今、秋田巡礼をしておりますが、2019年5月1日には新天皇陛下の御即位にあたり、「天皇陛下のための祈り」をミサ聖祭の後に、ミサの後の感謝の祈りで唱えました。

「天皇陛下のための祈り」は以下の通りです。(また5月5日の主日にも、東京と大阪での主日のミサの後の祈りでも付け加えます。)


Oratio pro Imperatore

V. Dómine, salvum fac Imperatórem nostrum.
R. Et exáudi nos in die, qua invocavérimus te.

Orémus.
Quǽsumus omnípotens Deus, ut fámulus tuus Imperátor noster, qui tua miseratióne suscépit regno prǽesse, virtútum étiam ómnium percípiat increménta : quibus decénter ornátus, et vitiórum monstra devitáre, et ad te qui via, véritas, et vita es, cum Imperatóre Emérito, Imperatríce Emérita, Imperatríce cónsorte et prole imperiáli, gratiósus váleat perveníre. Per Christum Dóminum nostrum.
R. Amen.

天皇陛下のための祈

主よ、我等が天皇陛下を護り給え。
▲我等が主を呼び求め奉る日に、我等の願いを聞き給え。

祈願
全能なる天主、御憐れみによりて我が国の君主としての務めを与え給いし御身の僕(しもべ)なる我等が天皇陛下をして、天主よりあらゆる徳を受けしめ給わんことを乞い願い奉る。願わくは陛下に然るべき徳を備えしめ、悪を避けしめ、上皇、上皇后両陛下、皇后陛下、皇族方と共に、道、真理、生命にまします天主に至らしめ給わんことを。我等の主、キリストによりて願い奉る。
▲アーメン。

Prayer for the Emperor

V. O Lord, save our Emperor.
R. And hear us in the day that we shall call upon Thee.

Let us pray
We beseech Thee, almighty God, that Thy servant our Emperor, who in Thy merciful providence has been called to rule over this nation, may also receive from Thee an increase of all virtues: thus becomingly adorned may he avoid all evil doing, and, by Thy grace attain, together with the Emperor Emeritus and the Empress Emerita, the Empress consort and their Imperial offspring, to Thee, Who art the Way, the Truth and the Life. Through Christ Our Lord.
R. Amen.

Oración por el Emperador

V. Haz salvo al Emperador, Señor.
R. Y nos escucha en el día, Señor, que te invoquemos.

Oremos.
Solicitamos, Omnipotente Dios, que tu siervo nuestro Emperador. que por tu misericordia recibió el gobierno del país, también por ella reciba los aumentos de todas las virtudes ; con las que convenientemente adornado, pueda huir los monstruos de los vicios, y llegar, con el Emperador Emérito, la Emperatriz Emérita, la Emperatriz y la prole imperial, favorecido a Tí, que eres camino, verdad, y vida. Por nuestro Señor Jesucristo tu Hijo.
R. Amén.

Prière pour l’Empereur

V. Seigneur, sauvez l’Empereur ;
R. et daignez nous exaucer au jour que nous vous invoquerons.

Prions.
Accordez à nos prières, Dieu tout-puissant, que votre serviteur notre Empereur, qui, par votre miséricorde a reçu la conduite de ce pays, reçoive aussi l'accroissement de toutes les vertus ; afin que, revêtu de leur force, et saintement orné de leur éclat, il ait les vices en horreur, comme autant de monstres ; et qu'agréable à vos yeux par ses bonnes œuvres, il puisse enfin arriver, avec l'Empereur émérite, l'Impératrice émérite, l'Impératrice et les descendants impériaux, jusqu'à vous, qui êtes la voie, la vérité et la vie; par Christ, notre Seigneur.
R. Ainsi soit-il.

【聖ピオ十世会日本】2019年5月聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、旧典礼のミサ)の報告 Traditional Latin Mass in Japan, SSPX

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本では、5月1日から4日まで、聖母聖月が始まるとともに、聖ヨゼフの主日から恒例の秋田巡礼に参りました。また5月1日には、秋田で新天皇陛下のためにミサの後で巡礼者の皆で祈りました。秋田巡礼は、今回は、外国からの巡礼者の数が少なく(フィリピンから一人だけ)、35名が参加されました。天主に感謝!

アメリカの「聖ピオ十世会の修道女会」では、4月28日の白衣の主日に二名が着衣式、更に別の二名(両者ともフィリピンの方々)が終生請願を立てました。愛する兄弟姉妹の皆様のおいのりをお願いいたします。

5月5日の主日は、東京と大阪とで同時に聖伝のミサがおこなわれました!
愛する兄弟姉妹の皆様にレポートをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

簡単ですが、5月の初土と続く主日のミサの報告をお送り致します。

5月4日(初土)のミサには29人
5月5日(ご復活後第二主日)のミサには22人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

5日の主日は大阪では珍しく10時半のミサでしたので、時間の連絡があまり出来ていませんでしたし、秋田巡礼後でいらっしゃる事が出来なかったご家族もいらっしゃったのに、普段、夜のミサには与る事が出来ないご家族や遠方の方、初めての方々が来ることが出来て夜の主日ミサよりも多くの人が集まりました。

主日の午前中のミサだと、ご家族で無理なく与る事が出来るので聖堂が家族でいっぱいになって、教会らしくていいなあと感じました。

今日はアジア管区長サマーズ神父様が、天主の御摂理について力強くお説教をしてくださいました。

天主様の御摂理は時には私達に悪に見えたり、辛く、理解出来ない事もあるけれども、天主の御憐みと完全な善、私達への愛を信じて全てを快く受け入れなければいけないのだとよく分かりました。

ミサの後すぐに天皇陛下のためにもお祈りし、新しく始まった令和の時代と天皇陛下に天主様の祝福を願いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

4月28日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。(司式サマース神父様)

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供7人)
女: 25人(内、子供4人)
計: 49人(内、子供11人)

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

5月5日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。(司式小野田神父)

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 26人(内、子供4人)
計: 50人(内、子供8人)

聖ピオ十世会 秋田巡礼2019年の報告:SSPX JAPAN Akita Pilgrimage 2019 report

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の秋田巡礼は、新しい管区長であるサマーズ神父様と共に、とても有意義なものとなりました。特に今年は、単にロザリオを唱えて歩くのみならず、ファチマの聖母と共にロザリオを唱えて、修道院まで聖母行列をしたり、マリア庭園を歩いたり、ファチマ百周年を思い出して夕方にファチマの聖母行列をしたりしました。すがすがしい天まで届くような青空、野に咲く微笑んでいるような花々、風に飛ぶ桜や木蓮の花びら、空を飛ぶ鳥たち、澄んだ空に遠くに見える雪をかぶった連峰、聖母聖月の美しいひとときを天主の御母と共に過ごしました。

今年は小さなお友達もたくさん来て、愛らしい声で「アヴェ・アヴェ・マリア!」と歌っていました。



2019年秋田巡礼のご報告を頂きました!愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
秋田巡礼のミッション、ありがとうございました。

初めての参加でしたが、皆様のお心遣いもあり素晴らしい日々を過ごすことができました。天主様とマリア様に感謝です!

子どもたちにとっても、霊的に成長できる機会となり、特に長男ぺトロにとっては侍者のお恵みが一番でした。

秋田のマリア様の講話を聞いて、次男のベネディクトは「秋田のマリア様を通して、もう一度イエズス様は十字架で血を流されたんだね」と感想を述べていました。シスターアグネス笹川の左手、秋田のマリア様の右手をお水がすくえるように横並べにして、それぞれの掌にできた傷から血と汗が流れた様子をイメージしたら、イエズス様が見えたそうです。

また、今回私たちは秋田まで車での旅路でしたが、帰り道、妙高を経由していたことに気付きました。ちょうど妙高周辺で軽い渋滞が起きていたことも幸いし、シスターアグネス笹川が居た妙高の町並みを眺めることもできました。

娘にとっても、同じ霊名のシスターアグネス笹川のお話は興味を持てたようで、帰り道の車内ではロザリオを熱心に唱えていたので、私もお兄ちゃんたちも大喜びでした(^-^)
ちょうど今、私の実兄(プロテスタント)がいろいろな宗教について学びたいと思っているようです。実家で顔を合わせる機会があり、秋田巡礼のしおりを机上に置いていたところ、手にとってパラパラと覗いていました。私と同じように、兄家族もマリア様へのまことの信心に導かれるようお祈りいただけると嬉しいです。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

秋田巡礼に参加させていただきありがとうございました。

東京や大阪の他に、岩手・秋田・福島・山形・埼玉・千葉・静岡・愛知・石川・兵庫・岡山などの県、さらに遠いフィリピンからも、秋田のマリア様の地に巡礼して聖伝のミサに与るために集まってきていることに驚きました。

秋田の湯沢台の地で、サマーズ管区長様と小野田神父様のお捧げくださる聖伝のミサに与ることができ、また四回の聖母行列が行われてともにマリア様を讃えることができましたことを感謝いたします。

聖母行列では、いつもそれぞれ違う場所を巡り、みんなでロザリオと歌をマリア様にお捧げしました。

一日目は、いつのように、聖体奉仕会へ向かう途中、山道のふもとのバス停の場所でマイクロバスを降りて、ゆるい坂道を上り畑の中の道路を聖母行列しました。幾つもの旗が春の風になびいて、だんだん聖体奉仕会の聖堂に近づいていくのが懐かしくうれしかったです。御聖堂のマリア様の御前にてのロザリオの祈りの後に、みんなで今度はマリア庭園を、マリア様の御像を先頭にロザリオと聖歌を捧げながら幾度も廻りました。

二日目は、マリア様の御像の御前にてのロザリオの後に、聖体奉仕会の子羊の苑にての十字架の道行きを捧げることができた日でした。とても良かったです。(そして特別なお恵みがありました。なんと神父様のお友達の巡礼グループの方が誘ってくださって聖体奉仕会のマリアの家に上がって、お茶とお茶菓子を御馳走になりました。この建物が最初の聖体奉仕会の聖堂だったと伺いました。秋田のマリア様と天使がシスター笹川に伝えたことを、今回小野田神父様のお話で学んでいる私たちの様子を、マリア様はお喜びになっているのかしら、と感じました。)

そして夜には夕食の終わった後に、ホテルと近くの大学の間の付近を聖母行列しました。夜間の聖母行列は、これまでにない試みでした。ちょっぴり肌寒い夜の暗闇の中で、歌いながらロザリオを唱えながら、歩きました。予定のロウソクを使えなくて残念でしたが、ロウソクがなくてもとてもよかったです。

三日目は、聖体奉仕会からまだ離れているところでバスを降りて、いつもより長い道を聖母行列しました。桜の並木のある河辺を歩きましたがとても良いお天気でうっとりするような美しい春の風景でした。そして、初めて、裏山を登るような、細い山道を通って、聖体奉仕会に向かいました。熊に注意と書いてある看板がありました。シスターから、こちらが近道だよと以前教えていただいたことがあったことを思い出しました。遅れて到着された山形にお住いの聖ピオ十世会の信者さんたちもここから合流して一緒に狭い山道を登りました。

それぞれがとても良い聖母行列で素晴らしかったです。聖母の御台はいつもすばらしく香しい美しいユリの花で飾られていました。小野田神父様はいつも行列の先頭に立ってロザリオと聖歌を先導してくださいましてありがとうございました。このマリア様の御台を担いでくださった男性の方々も、長時間さぞ大変だったに違いありません。特に山道を登るのはご苦労だったと思います。聖ピオ十世会の旗、無原罪聖母の騎士会の旗、国旗などを担いでくださる方々が小野田神父様の後に続きました。しっかり旗を持って歩くまだ小学生の男の子の姿は、頼もしくもほほえましかったです。皆さま本当にありがとうございました。

最後の日には、夕食後に終課を唱えてから、そのまま夜間礼拝に入りました。みんなでずっとロザリオと沈黙の礼拝をさせていただきました。最後に歌った深夜の「汚れなき聖母の騎士の会の歌」格別な響きでした。

秋田巡礼に参加できてよかったです。サマーズ神父様、小野田神父様、スタッフの皆様、一緒に巡礼したすべての皆様、ありがとうございます。

【報告】
Dear Fr. Onoda,

Ave Maria! Good day to you!

I just want to THANK YOU for everything! You’ve been so kind and helpful despite your busy times organizing everything during our pilgrimage, you still managed to care for my schedule & made sure someone could take me to the airport. You did it by faith - imagine, Francis gave me a ride to the airport (...)! What a privilege! Thank you, Blessed Mother, for this wonderful opportunity!

Please, Father, let the faithful there know that I’m truly thankful for all the care & kindness that they showed me all throughout our pilgrimage; everyone was very, very friendly, they helped me in so many ways, & provided things that I needed.

Our Lady of Akita gave me so many beautiful memories in Japan. I thought at first that our pilgrimage would be all about bodily sacrifice, mortifications, & suffering, that I already prepared myself for this, but instead first class treatment and experiences were provided: we had a pleasant, comfortable & beautiful hotel, and the food were so very good & abundant!

But the best part was the fellowship I had there with the faithful. They give reverence & respect to the Holy Sacrifice in such a unique way! I was deeply touched & moved by their dedication & devotion to the Blessed Mother! It encouraged me to become more zealous as well, it strengthened my faith. I want to thank you, Father, for allowing me to be a part of this great journey - to become closer to the Immaculate Heart of Mary!

May God & the Blessed Mother continue to bless all of you more abundantly!

In Christ,

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今年も2019年(令和元年)5月1日(初水)から始まる秋田巡礼を本当にありがとうございました!!(*^∇^*)

今回は去年アジア管区の管区長になられたサマース神父様も初めていらしてくださり、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサ、聖母の七つの御悲しみの御ミサ、初金のイエズス様の聖心の随意ミサ、初土の聖母の汚れなき御心の随意ミサ、そして2回の御聖体降福式、御聖体の深夜礼拝、3回の聖母行列、天主様との緊密な一致に至るための霊的生活に関するサマース神父様の霊的講話、秋田のマリア様の奇跡と、それが起こるまでの準備としてシスター笹川の辿られてきた道に関する小野田神父様の霊的講話、本当に祝福と御恵みに溢れた素晴らしい4日間でした!デオ・グラチアス!!

4月30日には、夜に小野田神父様が御ミサを秋田で御捧げして下さるとは思っていなかったので、それを聞いた時とても嬉しかったです。でも小野田神父様の荷物がアメリカから届いていないという大変なハプニングが起きていて、(…)結局夜の9時半頃から御ミサを御捧げ下さり、大変な犠牲の中で13回目の秋田巡礼は始まりました。とてもお疲れにも関わらず、小野田神父様はそんな様子は全くお見せにならず、いつものようにニコニコして逆に私たちに労いの言葉をかけて下さいました。

日本がマリア様の汚れ無き御心に捧げられた日である5月1日には、聖体奉仕会のマリア庭園で聖母行列ができてとても嬉しかったです。またその日は、ちょうどヨゼフ様の祝日が初水曜日にも当たっていたので、夜の御聖体降福式の中で「TE JOSEPH」も歌う事ができてとても嬉しかったです。素晴らしい日本の新時代の幕開けに、秋田のマリア様とファチマのマリア様とルルドのマリア様とヨゼフ様に心から感謝致しました。

今年は例年よりも御聖体降福式の数が増えて、また聖母行列もたくさんできて、秋田のマリア様の所でも例年より多くの時間を過ごすことができ、ロザリオの黙想もする事もでき、そして霊的生活や秋田のマリア様に関するお話も改めて拝聴する事ができ、本当に素晴らしい巡礼でした。

秋田のマリア様が仰った、「世の多くの人々は主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります」という御求めに、少なくとも私たちはお応えする事ができたのかなと思います。

パラリャーニ総長様のご伝言である、「召命の為に」また「聖ピオ十世会の為に」そして「日本に修道院ができて司祭が常駐しますように」という意向で、この秋田巡礼では特にお祈りさせて頂きました。

今年はビザの関係で残念ながらフィリピンの方が10名くらい来ることがおできにならなかったそうですが、この日本の新しい時代に祝福をこい願うために、日本の方が例年より多く来て下さっていて嬉しく思いました。

今年もこの秋田巡礼を企画、遂行して下さり、小野田神父様には心より感謝と祈りを申し上げます。そして御多忙の中、秋田巡礼前から日本入りして下さり、28日から6日までずっと日本で御ミサをお捧げして下さったサマース管区長様にも心より感謝と祈りを申し上げます。

そして毎年この素晴らしい秋田巡礼を準備して下さり、大変な労を執って下さっているヨゼフさん御一家様とスタッフの方々にも、心より感謝と祈りを申し上げます。

秋田のマリア様とファチマのマリア様とルルドのマリア様とヨゼフ様から、溢れるばかりの祝福と御恵みが豊かにありますように!!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

秋田巡礼に参加させていただいたお恵みを聖母に感謝しながら、個人的な感想をお伝えいたしますこと、お許しください。

たくさんの聖伝のミサに与ることができましたこと、幸せでした。今年は、これまでとは違った巡礼のように思いました。三つあります。一つは、秋田のマリア様についての霊的講話をしていただきまして、秋田のマリア様のところに巡礼する大切さをよく黙想できたことです。もうひとつは聖母行列が毎日できたこと、それから霊的生活とは何かという講話をしていただきましたことです。

特に今回は、この秋田湯沢台の聖体奉仕会というところで笹川シスターへマリア様と天使を通して伝えられたことを霊的講話で聴きながら、日本のカトリック信者に何が伝えられようとしたのか、あらためて黙想することができたように思います。

たぶんまだ、笹川シスターに伝えられたこと(内容)は、まだ続いているので(現在進行形なので)、私たちはもっともっとたくさん祈らなければならないだろうと思いました。

講話の途中で、蛇がシスター笹川をぐるぐると巻き込むのを見て安田神父様がそれを三位一体の神の名で十字を切って追い払ったときにその蛇が逃げていったという夢の意味を説明する安田神父様のことを聴いていたら、教会がいまエキュメニズムと第二バチカン公会議の後の混乱によってぐるぐると巻かれて縛られてしまって、今にも死に絶えようとしているかのような姿を想像してしまい、思わず涙がこぼれそれを抑えるのが大変でした。カトリック教会にあるはずの霊的生命・霊的生活が見失われようとしているから・・。

そういうことをはっきりと話す司祭が日本にほとんどいなくなり、マリア様はどんなに悲しまれていることでしょう。聖ピオ十世会の司祭たちは、これまでもずっとその教会の危機のことを話し続けてきていたのだと改めて思いました。そしてこの秋田の湯沢台の巡礼地でも、直接当時笹川シスターに起こったことを通し確かにはっきりその同じ教会の危機への警告をいただいていたのだと、小野田神父様の講話を聴きながらハッと思ったのでした。

ザカリアのように疑ったことへの罰であるかのようにそのすべての日本のカトリック信者の身代わりのように聾の状態になって、音の全くなくなった深い静寂の中で、笹川シスターに起こったことなのですという言葉で始められた講話でした。その出来事を順序立てて話していただいて、いまのカトリック教会のためにもっともっとたくさん祈らなければと思いました。

最後の日は、草の生えた川岸の桜並木の土手を、ロザリオとファチマの聖母の聖歌を歌いながら聖母と行列を成して歩きました。春の陽射しがたっぷり降りそそぐなか、名残りの桜の花びらが舞い散り、チューリップや水仙や白い花が道端を飾り、遠くの山並みには真っ白の残雪が輝き、鳥のさえずりの声、きれいな雪解け水の流れるせせらぎの音、を聴きながら聖母とともに歩いて、聖体奉仕会を目指して杉木立の根元にはスミレの花の咲き乱れる狭い山道を登りました。夢のような美しさの北国の春の景色でした。

その日はそれから静かな御聖堂の中でマリア様とともにゆっくりと静かに長く祈れたこともうれしかったです。

東京に聖ピオ十世会の修道院ができるために必要なすべてをヨゼフ様が準備してくださいますように祈りました。マリア様が、取り次いでくださるように祈りました。イエズス様が私たちの願いをみ旨のままに叶えてくださるよう祈りました。聖ピオ十世会の司祭さまたちは、きっと天使とマリア様がシスター笹川に伝えたとおり、安田神父様のように三位一体の天主を奉じて、カトリック教会から蛇を追い出してくださる司祭方の一人となってくださることと思います。ですからますます一所懸命に祈ろうと思います。

また、管区長様からの霊的生活とは何かという講話は、カトリックの信仰生活をしていくうえでどうしても知っておかなければならない大切な基本事項と感じました。古いカトリックの書籍では読むことができましたが、霊的講話でこうやって直接学ぶ機会を与えていただくことにとても感激しました。信仰を実践していきたいと思っても、どんなふうに生活をあらためたらよいのか、どんな心で天主様や家族や友人や隣人に向かえばよいか、わからなくなることが多いです。悩んだり迷ったりします。

霊魂の適切な態度は、日常の作法(身体の態度)や気遣い(心の態度)とはまた違うものかもしれないと感じるからです。そして巡礼の最後、聖母の汚れなき御心の御ミサのお説教で、そのようなときマリア様を見倣ってくださいと話していただいて、私たちはいつもその霊的生活の真髄を教えていただいていたのだと思いました。

この巡礼でたくさんのお恵みをいただきましたことを感謝いたします。こんな素晴らしい天候に恵まれるとは思っていなくて、不信仰な自分を反省いたします。ロザリオをたくさん唱え、聖歌や連祷をたくさん唱えました。

この巡礼でのお恵みを毎日の信仰生活によく生かせますように努力していこうと思います。

スタッフの方々はこの巡礼のために準備や当日の運行など大変なご苦労だったと思います。ありがとうございます。サマーズ管区長様、小野田神父様、ご指導をありがとうございました。

2019年5月5日 御復活後第2主日 サマーズ神父様「天主の御摂理」

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御復活後第2主日お説教 「天主の御摂理」
パトリック・サマーズ神父様(聖ピオ十世会アジア管区長)

「あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである。だから、まず、天主の国とその正義とを求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな、お与えくださる。」(マテオ6章32-33節)


今日、天主の御摂理についてお話しする機会を頂いています・・・この御摂理に関する事実を理解して、私たちがこの世において生きている間ずっとこれを頭においておくことは、真に必要なことです。

福音にはしばしば、私たちの主は全ての物事を治めておられ、全てのことはうまく行くと書かれているので、私たちはそれを見て安心します。私たちがただ、 主の教えを信じ、それに従えば、すべてのことが完璧にうまくいくのです。しかし、それはいったいどのようにしたらよいのでしょうか・・・ミサの後の感謝の祈りを終えた後、私たちが生きている現代のあらゆる困難や試練の中を生き、更には私たちの母なる教会の危機と、また同時に社会の恐ろしく狂った異教主義の中で生きるには、いったいどのようにすればよいのでしょうか?
人がこれに降参して、パニックになって、山に逃げようという誘惑に駆られるのも自然で人間的だといわざるを得ません!!居心地の良い洞窟か大きな森を見つけてこの世から離れる・・・本当にこれが私たちの出来る唯一の対策でしょうか?


しかし、もし私たちが今直面している酷い状況に対してこのようなことを考えているのなら・・・私たちは天主が何者であるかを誤解してしまったか、忘れてしまっているのです・・・天主の全能が何であるかを、究極的には、天主の御摂理というものが何であって、それが何を意味するのかを忘れてしまっているのです・・・
天主の御摂理がどのように働いて、私たちがその御摂理にどのように協力しなければ行けないかを・・・なぜなら、私たちの主が、「心配するな。あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである」とお話しになるのは、天主の御摂理に対する信頼のことだからです。私たちはみな、恐らく、 言うは易く行うは難し、ということを認めなくてはいけないでしょう。


では、この天主の御摂理とは何でしょうか?

御摂理はラテン語ではProvidentia(英語ではProvidence)ですが、それはPro(「何々の前に」)とVidere(「見る」)から成っていて、前もって見ること、準備すること、すなわち永遠の全てを現在の一瞬としてご覧になる天主の洞察力を意味しています。

御摂理というのは、天主ご自身が、その知性において、被造物が造られた目的が実現されるよう、全宇宙の全てのものごとを司っておられることです。その目的というのは、全ての被造物が天主の栄光を表し、とりわけ人が天主に栄光を帰し、自然のうちに天主の御手の働きを認め、従順と愛徳において天主に仕え、永遠の幸福をもって報われることです。天主がお許しになった人の自由の濫用から生じた罪にも拘わらず、また罪の結果として生じた悪にもかからず、天主は全てのものごとを、悪や罪それ自体まで、この宇宙が創造された最終目的のために司られます。天主のなされるこれら全てのことが御摂理とされます。


私たちは、聖人の生涯においてこれを幾度となく見ることができるのではないでしょうか?例えば、

聖ヨゼフ — マリアを妻として娶りなさい、天主がマリアの奇蹟的な懐妊に手を下しておられるのをあなたが理解できなくとも。天主の御子を迫害からお守りするために、エジプトに行き、すべてのものを置いて逃げなさい。(そもそもどうして幼子イエズスをお守りする必要があるのでしょうか?)

いつも私たちが自らに問うことのできる大事な問いは、「私たちはどのようにしたら、この天主の御摂理を愛し、それに協力することができるのか」ということです。もしそうすることがそれほど必要なことであって、もし御摂理を愛することが霊魂の幸福と平安に繋がる唯一の道であるならば、もしそれが聖性と霊魂の救いに至る確実な道であるならば、私たちはいったいどのようにして御摂理に協力することができるのでしょうか?

天主の御摂理とは、どのようにすれば私たちが知ることができるのでしょうか — 聖人達が、私たちに例を示して、「各瞬間の義務こそが、天主の御摂理の働きが潜んでいる陰である」と教えてくださったので、私たちにとってこれが大変実行しやすいものとなりました。

実際、聖性というのは、天主によって与えられた義務への忠実というたった一つの行為に帰することができます。

この私たちの義務への忠実というのは、能動的な行為であっても、受動的な行為であっても、私たちひとりひとりが実行することができるものです。

能動的な忠実の行為というのは、天主の掟や教会の掟によって、または私たちが受け入れた自分の身分(例えば親、修道者、学生、子、独身者、既婚者、退職者、未亡人など)に従って定められた義務を果たすことです。

受動的な忠実の行為というのは、各瞬間に天主が私たちにお与えになる全てのことを、愛をもって受け入れることです。これは、私たちの生活において、私たち自身が思い通りにしたり影響を行使したりできないような全ての物事を受け入れることです・・・それは私たちに降りかかる状況であったり、十字架であったり、あるいは報いであったりさえしますが、私たちが正義あるいは愛徳において拒むことのできないものです。だれかの裏切りであっても、私たちの人生において望まない状況であっても、楽しくも面白くもない仕事であってもです・・・私たちの思い通りにならない、とても沢山の物事です・・・


天主はこれらの行為を、私たちの力以上にお求めになるのでしょうか?能動的な行為については、そのようなことは決してありません。その理由は、課された義務というものが、私たちがそれを実行する力をもう持っていない時には、義務ではなくなるからです。もしあなたの健康状態がすぐれないのでミサに行くことができないのであれば、ミサに行く義務はありません。定められた掟の全てについて、同じ規則が当てはまります。そうであるなら、これ以上に道理にかなったことがあるでしょうか?どんな言い訳ができるでしょうか?それでも、霊魂の聖化の行いとして天主が求められることはこれが全てです。天主は、自身の力を超えること、自分の適性を超えるようなことは決して誰にも強制されません。これ以上に正しいことがあり得るでしょうか?


私たちの生活における目上からの難しい命令についてはどうでしょうか?子どもたちが両親から命じられ、信者が教区司祭から命じられ、司祭は別の司祭から命じられる等の場合です。天主の御摂理を理解すれば、私たちの好みに反することや、私たち自身に適性が全く備わっていないと思われることであっても、それを拒否することができないことがわかります。

「私は天主に希望し、全てのことについて解決法がみつかることを知っています。私にあらゆる困難を克服させてくださる天主の御摂理を信頼しています。加えて、当然私がそのことで圧倒されてしまうものと思っていた数々の心配事の中でも、平安と静寂を持つことができます。」私たちが自分自身の能力の範囲内でできることを全て行って、あとは天主の御摂理の御手にお任せして、天主がお望みのままに成功、もしくは全くの失敗として・・・毎晩赤ん坊のように眠ることができるというのは、なんと大きな安心と慰めを与えられる思いでしょうか。


まことに、この大いなる平安をもたらす最も大きな要因は、天主が、天主の御摂理に従う霊魂から恐れを取り除かれ、その霊魂がこの短く惨めな生活からは何も望まない、ということです。ですから霊魂は、自分のできる全てのこと、あるいは天主の御前においてすべきであると感じた全てのことを行った後、あとは全て天主にお任せし、全てのものを全く、全きこころをもって天主に明け渡し、あらかじめ全てのことにおいて天主を祝福し、全てのことにおいて、とりわけ天主の御旨が行われることを望みます。

それは、私たちは信仰によって、全てのものが天主からくること、天主の御力は限りなく、また天主は善き父でおられるが故に、天主は全ての物事が親愛なる子供らのために栄えるようにしてくださることを確信しているからです。天主は私たちへの愛のためにご自分の命を犠牲にされることによって、命自体より私たちをもっと愛していらっしゃることをお示しになったのではないでしょうか?ですから、天主が私たちへの愛のためにそれほどのことをしてくださったのですから、天主が私たちをお忘れになることはない、と私たちは確信しているのではありませんか?
(これこそが私たちの主の御教えの本当の理解です。「信仰うすい人々よ。だから、何を食い、何を飲み、何を着ようかと心配するな。それらはみな、異邦人が切にのぞんでいることである。あなたたちの天の父は、あなたたちに、それらがみな必要なことをご存じである。だから、まず、天主の国とその正義とを求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな、お与えくださる。」)


ですから、親愛なる信者のみなさん、私たちの日常の生活において、天主の御摂理に関するこの二つの原則を覚えておきましょう。

第一に、この世においては、霊的なことでも物理的なことでも、天主がお望みであるか、少なくともお許しになることでなければ、どんなことも起こらないことを深く確信することです。従って、私たちが望まないことが(たとえそれが最も重い十字架であったとしても)、天主によって許されたとき、天主の御旨に従わなくてはなりません。

第二に、天主がお望みになるかお許しになる全てのことは、限りない力と御父としての御摂理のご計画に従って、いつも、天主の御計画を愛し受け入れる者たちのためになる、ということを固く信じることです。

” PROVIDENCE ” Sermon by Fr Patrick Summers, District Superior of Asia, SSPX

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2nd Sunday after Easter = PROVIDENCE

Fr Patrick Summers, District Superior of Asia, SSPX

For your Father knows that you have need of all these things. Seek ye therefore first the kingdom of God, and his justice, and all these things shall be added unto you. (Mtt 6:32-33)



Yes, today we have the opportunity to speak on Divine Providence…this reality that is so necessary to understand and reflect upon continuously in our lives here below.

We are reassured oftentimes from the Gospels that Our Lord has all things in hand, that all will be well. We must simply believe and follow His teachings and everything will be fine and dandy. But how does one do this…how do we get up from our Thanksgiving at the end of Mass and live amidst all the difficulties and trials of our modern times, sandwiched between a crisis in our Holy Mother Church and the simultaneous horrible/insane paganism in civil society? It is only natural and human to be tempted to throw up our hands, panic and run for the hills!! To find a nice cave or a large forested region and get off the grid…surely this is our only option?


However, if we are thinking this when faced with the disastrous situation in which we live…we have misunderstood or forgotten what God is…what His Omnipotence is, ULTIMATELY, we are forgetting what Divine Providence is and what it means…how it operates and how we ought to cooperate with it...for it is the trust in Divine Providence which Our Lord speaks of when He tells us “Be not solicitous/anxious for your Father knows you have need of all these things.” Perhaps we can all admit it is easier said than done…


But what is this Divine Providence?

Providence = Pro + Videre = To see ahead, to prepare, foresight of God who see all of eternity as one present moment.

Providence is nothing else than God Himself in His wisdom ordering all events within the universe, that the end for which they were created may be realized. That end is that all creatures should manifest the glory of God, and in particular that man should glorify Him, recognizing in nature the work of His hand, serving Him in obedience and love, to be rewarded with eternal happiness. In spite of sin, which is due to the wilful perversion of human liberty, allowed by God, and in spite of evil which is the consequence of sin, He directs all, even evil and sin itself, to the final end for which the universe was created. All these operations on God's part are attributed to Divine Providence.


Can we not see this countless times in the lives of the saints? For example:

St Joseph - Take Mary as your wife even though you don’t understand God’s working in Her miraculous pregnancy, Go into Egypt and leave behind everything to save the Son of God from persecution (why does the infant Jesus need protecting anyhow?)


The big questions that we can always ask is “How can we ourselves love and cooperate with this Divine Providence?” If it is so necessary, if love of Providence is the only way to happiness and peace of soul, if it is the sure/certain way to sanctity and salvation of souls, again, how can we cooperate with it?


How do we find Divine Providence - The saints have made it very practical for us in giving us the example and teaching that “Duties of each moment are the shadows which hide the working of Divine Providence.”

Yes, for in reality sanctity can be reduced to one single practice, faithfulness to the duties appointed by God.

Now this fidelity to our duties is equally within each one’s power whether in its active practice, or passive exercise.


The active practice of fidelity consists in accomplishing the duties which devolve upon us whether imposed by the laws of God and of the Church, or by the particular state in our lives that we may have embraced. (parent, religious, student, child, single, married, retired, widow, widower)

Its passive exercise consists in the loving acceptance of all that God sends us at each moment. This is the embracing of all those things in our lives which are outside our control or influence…the situations/crosses/or even rewards that fall upon us and we cannot get rid of them in justice or charity. Whether it is the betrayal by another person, a situation in our life that we don’t like, a workload that is not pleasant or interesting… it is so many things outside our control…


Does God ask of us these practices above our strength? Certainly not the active fidelity, since the duties it imposes cease to be duties when we have no longer the power to fulfil them. If the state of your health does not permit you to go to Mass you are not obliged to go. The same rule holds good for all the precepts laid down. Can there, then, be anything more reasonable? What excuse can be made? Yet this is all that God requires of the soul for the work of its sanctification. He never impels anyone beyond his strength, nor in any way beyond his aptitude. Again, what could be more just?


What about a difficult order from our superiors in this life? Children commanded by their parents, parish priest to his parishioners, priests commanding other priests, etc. In understanding Divine Providence, we have no power to refuse a charge that is contrary to all our likes/dislikes and for which we do not believe ourselves to have any aptitude. ”In God I hope and know I will find a remedy for everything, and I feel a confidence in Divine Providence which enables me to surmount all difficulties. Besides this I enjoy peace and tranquility in the midst of a thousand cares and anxieties, such as I should have imagined ought naturally to overwhelm me.” It is that consoling/comforting thought that we can do all that is within our abilities and powers and then leave the remainder in the hands of Divine Providence, to make it a success or a total failure as He wishes…and sleep like a baby each night.


It is true that what most contributes to produce this great peace is, that God has rendered the soul which follows Divine Providence impervious to fear, and it desires nothing for this short and miserable life. Therefore, when it has done all in its power or that it felt before God that it ought to do, the soul leaves the rest to Him, abandoning everything entirely and with its whole heart to Divine Providence, blessing Him beforehand for all things and wishing in all, and above all, that His holy will may be done because we are convinced by faith that all comes from God, and that He is so powerful and such a good father, that He will cause everything to prosper for the advantage of His dear children. Has He not proved that He loves us more than life itself since He has sacrificed His life for love of us? Therefore, as He has done so much for love of us, are we not convinced that He will not forget us? (This is truly the understanding of Our Lord’s teaching O ye of little faith? Be not solicitous therefore, saying, What shall we eat: or what shall we drink, or wherewith shall we be clothed? For after all these things do the heathens seek. For your Father knoweth that you have need of all these things. Seek ye therefore first the kingdom of God, and his justice, and all these things shall be added unto you.)


Therefore, my dear faithful, let us remember these two principles of Divine Providence in our daily lives:

1st, To be profoundly persuaded that nothing takes place in this world either spiritually or physically, that God does not will, or at least, permit; therefore we ought to submit to the Will of God when He permits things that we dislike, (even the heaviest of crosses).

2nd, Believe firmly that everything that God wills or permits to happen will, according to the plan of His all-powerful and paternal Providence, turn always to the advantage to those who love and accept His Divine Plan.

日本での聖伝のミサのご案内【2019】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

2019年の御ミサのスケジュールをお知らせいたします。

スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

いつものように、左のカレンダをクリックして、最新のミサ日程で、ご確認できますが、

修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2019】』の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。

この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

聖ピオ十世会 年間の予定はこちら


【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図


**** 5月の予定  ****

 5月12日(主) ←追加されました
 復活後第3主日(2級)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月13日(月) ←追加されました
 教会博士証聖者司教聖ロベルト・ベラルミノ(3級祝日)白
 午前6時半 ミサ聖祭

 5月14日(火)←追加されました
 平日(4級)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月15日(水)←追加されました
 証聖者聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月16日(木)←追加されました
 証聖者司教聖ウバルド(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月17日(金)
 証聖者聖パスカレ・バイロン(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月18日(土)
 殉教者聖ヴェナンチオ(3級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 5月19日(主) 
 復活後第4主日(2級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭    ← 時間が変更されました

 5月20日(月) ←追加されました
 証聖者シエナの聖ベルナルディーノ(3級祝日)白
 午前6時半 ミサ聖祭

 5月31日(金)
 元后なる童貞聖マリアの祝日(2級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 【東京】
 5月5日(主) 
 復活後第2主日(2級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 5月6日(月) 
 平日(4級)白
 午前7時 ミサ聖祭

 5月18日(土) ←追加されました
 殉教者聖ヴェナンチオ(3級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 5月19日(主) 
 復活後第4主日(2級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 5月20日(月) 
 証聖者シエナの聖ベルナルディーノ(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭



**** 6月の予定  ****
 【大阪】
 6月1日(初土)
 童貞聖アンジェラ・メリチア(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 6月21日(金)
 証聖者ゴンザガの聖アロイジオ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 6月22日(土)
 証聖者司教聖パウリノ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 6月2日(主) 
 御昇天後の主日(2級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 6月3日(月) 
 平日(4級)白
 午前7時 ミサ聖祭

 6月23日(主) 
 聖霊降臨後第2主日(2級)緑 【日本】御聖体の荘厳祭 白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 6月24日(月) 
 洗者聖ヨハネの誕生(1級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭



**** 7月の予定  ****
 【大阪】
 7月5日(初金)
 証聖者聖アントニオ・マリア・ザカリア(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 7月6日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月12日(金)
 大修院長聖ヨハネ・グアルベルト(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 7月13日(土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月19日(金)
 証聖者聖ヴィンチェンチオ・ア・パウロ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 7月20日(土)
 証聖者聖ヒエロニモ・エミリアノ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 7月7日(主) 
 聖霊降臨後第4主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月8日(月) 
 寡婦聖エリザベト女王(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 7月14日(主) 
 聖霊降臨後第5主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月15日(月) 
 証聖者聖ヘンリコ皇帝(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 7月21日(主) 
 聖霊降臨後第6主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 7月22日(月) 
 悔悛女マグダラの聖マリア(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭



**** 8月の予定  ****
 【大阪】
 8月2日(初金)
 教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 8月3日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月16日(金)
 童貞聖マリアの御父聖ヨアキム(2級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 8月17日(土)
 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 8月4日(主) 
 聖霊降臨後第8主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月5日(月) 
 雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 8月18日(主) 
 聖霊降臨後第10主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月19日(月) 
 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭


**** 9月の予定  ****
 【大阪】
 9月6日(初金)
 聖霊降臨後の平日(4級)緑
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 9月7日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月20日(金)
 9月の四季の斎日 金曜日(2級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 9月21日(土)
 使徒福音史家聖マテオ(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 9月8日(主) 
 聖霊降臨後第13主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月9日(月) 
 日本205福殉教者(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

 9月22日(主) 
 聖霊降臨後第15主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月23日(月) 
 殉教者教皇聖リノ(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭



**** 10月の予定  ****
 【大阪】
 10月4日(初金)
 証聖者聖フランシスコ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 10月5日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月18日(金)
 福音史家聖ルカ(2級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 10月19日(土)
 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 10月6日(主) 
 聖霊降臨後第17主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月7日(月) 
 ロザリオの聖母(2級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 10月20日(主) 
 聖霊降臨後第19主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月21日(月) 
 聖霊降臨後の平日(4級)緑
 午前7時 ミサ聖祭



**** 11月の予定  ****
 【大阪】
 11月1日(初金)
 諸聖人の祝日(1級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月2日(初土)
 全ての死せる信徒の記念(1級)黒
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月15日(金)
 教会博士証聖者司教大聖アルベルト(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月16日(土)
 童貞聖ジェルトルード(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 11月3日(主) 
 聖霊降臨後第21主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月4日(月) 
 証聖者司教聖カルロ(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 11月17日(主) 
 聖霊降臨後第23主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月18日(月) 
 聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭




**** 12月の予定  ****
 【大阪】
 12月6日(初金)
 証聖者司教聖ニコラオ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月7日(初土)
 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月20日(金)
 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月21日(土)
 使徒聖トマス(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月24日(火)
 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午前0時 ミサ聖祭
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 12月8日(主) 
 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月9日(月) 
 待降節の平日(3級)紫
 午前7時 ミサ聖祭

 12月22日(主) 
 待降節第4主日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月23日(月) 
 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日)
 午前7時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

2019年秋田巡礼 5月1日(初水) サマーズ神父様お説教「童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフ」

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2019年5月1日(初水)秋田巡礼 証聖者、童貞聖マリアの浄配、勤労者聖ヨゼフのミサ
サマース神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


神父様、そして親愛なる兄弟の皆さん、今週、また偉大な巡礼を始める御恵みが、特権が与えられました。

皆さんと共に、特に聖ヨゼフの大祝日において巡礼を始める事ができるというのは、とても偉大な名誉です。

聖ヨゼフのみならず、それ以外にも多くの美しい典礼暦の祝日に囲まれています。昨日はシエナの聖カタリナの祝日で、ローマの教皇様を助けた偉大な聖人でした。今日聖ヨゼフは、母なる教会の守護者の聖人でもあります。明日は聖アタナジオの祝日でもあり、信仰の為に戦った人で、そして同僚の聖職者たちからも迫害を受けた方です。

では今日は、短く聖ヨゼフ様の聖徳を見てみます。

私たちの主の養父であり、そしてマリア様の夫であった聖ヨゼフについて、非常に少しの事しか知られていません。聖家族においては、聖寵のレベルに段階においては、一番下の方でした。しかしながら聖家族においては、聖ヨゼフをその頭として選びました。

聖ヨゼフは特別な称号で呼ばれています、「義人である」と。

これは、現在カトリック教会の危機において、私たちに良い、大切な点を思い出させて下さいます。つまり「危機」は、特に男である、男性としての父性の、「父親の危機」でもあるからです。

「男性としての徳」というのは、「義人である事」であって、特につまり「天主に与えなければならない相応しいものを与える」という事です。

また、その「義」という事は「正義」という事は、「天主に自分の務めを果たし、そして家族に対する務めも果たす」という事です。

今日ミサで、この偉大な義人、聖人、聖ヨゼフにお祈り致しましょう。聖ヨゼフ様の徳に倣い、そしてそれを真似する事ができますように、お祈り致しましょう。

また、聖ヨゼフ様がマリア様の近くにいらして、そしてイエズス様を養い、愛されたように、私たちも聖ヨゼフに倣ってそうする事ができますように、お祈り致しましょう。

聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

5月18日殉教者、聖ヴェナンツィオ 三級祝日 赤

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殉教者、聖ヴェナンツィオ 三級祝日 赤
アンコナ付近のカメリーノ(イタリア)の少年であった聖ヴェナンツイオは、十五才のとき、信仰を守って殉教した。(二百五十年頃)
ミサ聖祭

SANCTI VENANTII 聖ヴェナンツィオ Martyris 殉教者 III classis  三級祝日 Ant. ad Introitum. Ps. 63, 3. 入祭文  詩篇、63ノ3 Protexísti me, Deus, a convéntu malignántium, allelúia : a multitúdine operántium iniquitátem, allelúia, allelúia. 天主よ、御身は私を悪人らの集いから守り給うた、アレルヤ、邪悪を行う人々の群れから、アレルヤ、アレルヤ。 Ps. Ibid., 2. 詩篇、63ノ2 Exáudi, Deus, oratiónem meam, cum déprecor : a timóre inimíci éripe ánimam meam. 天主よ、私が祈るとき、私の祈りを聞き入れ給え、私の霊魂を敵の恐怖から救い出し給え。 V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……。(栄誦) Protexísti me, Deus, a convéntu malignántium, allelúia : a multitúdine operántium iniquitátem, allelúia, allelúia. 天主よ、御身は私を悪人らの集いから守り給うた、アレルヤ、邪悪を行う人々の群れから、アレルヤ、アレルヤ。 Oratio. 集祷文 Deus, qui hunc diem beáti Venántii Martyris tui triúmpho consecrásti : exáudi preces pópuli tui et præsta : ut, qui eius mérita venerámur, fídei constántiam imitémur. Per Dóminum. 天主よ、御身はこの日を、御身の殉教者聖ヴェナンツィオの凱旋によって聖となし給うた。御身の民の祈りをききいれ給え、彼の功徳を崇敬するわれらが、信仰の固さを真似る恵みを与え給え。天主として(…)。 Léctio libri Sapiéntiæ. 智書の朗読 Sap. 5, 1-5. 智書 5ノ1-5 Stabunt iusti in magna constántia advérsus eos, qui se angustiavérunt et qui abstulérunt labóres eórum. Vidéntes turbabúntur timore horríbili, et mirabúntur in subitatióne insperátæ salútis, dicéntes intra se, poeniténtiam agéntes, et præ angústia spíritus geméntes : Hi sunt, quos habúimus aliquándo in derísum et in similitúdinem impropérii. Nos insensáti vitam illórum æstimabámus insániam, et finem illórum sine honóre : ecce, quómodo computáti sunt inter fílios Dei, et inter Sanctos sors illórum est. 義人らは、自分たちを迫害し、あるいは自分たちの労苦を侮っていた人々に対して毅然として立ち、大いなる安全さの中にある。これを見て悪人らは、非常におそれ、思いがけなかったこの突然の救いを見て驚嘆するであろう。 かれらは、呵責を受け、心は思い乱れ、嘆きつつこういうであろう。「われわれがかつて、あざけり、あなどったあの人々を見よ。われわれは、実におろかであった。われわれは、かれらの生活を狂気かのように、かれらの死を恥辱かのように考えていた。それなのに、かれらは天主の子らとして教えられ、聖人らとともに遺産をうけるのだ」と。 Allelúia, allelúia. V/. Ps. 88, 6. Confitebúntur cæli mirabília tua, Dómine : étenim veritátem tuam in ecclésia sanctórum. アレルヤ、アレルヤV/. (詩篇、88ノ6) 主よ、天は主の不思議を語るだろう、実に、聖人らのつどいにおいて、御身の真理を。 Allelúia. V/. Ps. 20, 4. Posuísti, Dómine, super caput eius corónam de lápide pretióso. Allelúia. アレルヤ V/.(詩篇 20ノ4) 主よ、御身は、彼の頭の上に、貴重な宝石の冠を置き給うた、アレルヤ。     + Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦 Ioann. 15, 1-7. ヨハネ 15ノ1-7 In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Ego sum vitis vera : et Pater meus agrícola est. Omnem pálmitem in me non feréntem fructum, tollet eum : et omnem, qui fert fructum, purgábit eum, ut fructum plus áfferat. Iam vos mundi estis propter sermónem, quem locútus sum vobis. Mane te in me : et ego in vobis. Sicut palmes non potest ferre fructum a semetípso, nisi mánserit in vite : sic nec vos, nisi in me manséritis. Ego sum vitis, vos pálmites : qui manet in me, et ego in eo, hic fert fructum multum : quia sine me nihil potéstis fácere. Si quis in me non mánserit, mittétur foras sicut palmes, et aréscet, et cólligent eum, et in ignem mittent, et ardet. Si manséritis in me, et verba mea in vobis mánserint : quodcúmque voluéritis, petétis, et fiet vobis. そのとき、イエズスは、弟子らにおおせられた。「私は本当のぶどうの木で、私の父は栽培者である。父は、私にあって実を結ばない枝をすべて切りとり、実を結ぶのをすべて、もっと豊かに結ばせるために刈りこんでくださる。あなたたちは、私の語った言葉を聞いたことによって、もう刈りこまれたものである。私にとどまれ、私があなたたちにとどまっているように。木にとどまっていない枝は自分で実を結べないが、あなたたちも、私にとどまっていないならそれと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。あなたたちが私にとどまり、私のことばがあなたたちにとどまっているなら、あなたたちは、のぞみのままにすべてを願え。そうすればかなえられるだろう。」     Ant. ad Offertorium. Ps. 88, 6. 奉献文 詩篇 88ノ6 Confitebúntur cæli mirabília tua, Dómine : et veritátem tuam in ecclésia sanctórum, allelúia, allelúia. 主よ、天は主の不思議を語るだろう、実に、聖人らのつどいにおいて、御身の真理を、アレルヤ、アレルヤ。 Secreta 密誦 Hanc oblatiónem, omnípotens Deus, beáti Venántii mérita tibi reddant accéptam : ut, ipsíus subsidiis adiuti, glóriæ eius consortes efficiámur. Per Dóminum. 全能の天主よ、この供物を、聖ヴェナンツィオの功徳によって、よみし給わんことを。かれの助けに助けられ、われらをも、彼の光栄を共にする者らとなさしめ給え。天主として(…)。 Præfatio paschalis. 序誦  御復活の序誦 VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, te quidem,  Dómine, omni témpore, sed in hoc potíssimum gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特にこの聖節において、より大いなる光栄を盛大に讃えることは。なぜなら、われらの過ぎ越しなるキリストが、屠られ給うたからである。彼は、世の罪を除き給うたまことの小羊であって、死なれることによってわれらの死を亡ぼし、御復活されることによって、生命を取り戻し給うた。ゆえに、天使ら、大天使らと共に、座天使らと主天使らと共に、また、天の万軍と共に、われらは、御身の光栄の讃歌を終わりなく、こう言いつつ歌う。聖なるかな… Ant. ad Communionem. Ps. 63, 11. 聖体拝領誦 詩編 63ノ11 Lætábitur iustus in Dómino, et sperábit in eo : et laudabúntur omnes recti corde, allelúia, allelúia. 義人は主において喜び、主に希望するだろう、全ての心正しい人々は讃美するだろう。アレルヤ、アレルヤ。 Postcommunio. 聖体拝領後の祈 Súmpsimus, Dómine, ætérnæ vitæ sacraménta, te humiliter deprecántes : ut, beáto Venántio Mártyre tuo pro nobis deprecánte, véniam nobis concílient et grátiam. Per Dóminum. 主よ、我らは、御身にひれ伏して願いつつ、永遠の生命の秘蹟をうけ奉った。願わくは、御身の殉教者、聖ヴェナンツイオが我らのために祈ることにより、われらにゆるしと恩寵とを与え給わんことを。天主として(…)。

2019年5月19日 御復活後第四の主日二級祝日 白

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御復活後第四の主日二級祝日 白
ミサ聖祭<入祭文>は、御復活の祝日によって受けた聖寵を思い出させるが、<聖福音>と<聖体拝領誦>とは、復活し給うた御者の御昇天と聖霊降臨という、他の重大な出来事を記している。主が、天にお昇りになることは、必要なことである。そうでなければ、あがないの御計画は、半途で終わることになり、また、弟子らは、天主の国がこの世にはないことを、確と知りえなかったであろう。

Dominica Quarta post Pascha 御復活後第四の主日 II classis 二級祝日 Ant. ad Introitum. Ps. 97, 1 et 2. 入祭文  詩篇  97ノ1,2 Cantáte Dómino cánticum novum, allelúia : quia mirabília fecit Dóminus, allelúia : ante conspéctum géntium revelávit iustítiam suam, allelúia, allelúia, allelúia. 主に新しい歌を歌え、アレルヤ、主は不思議を行い給うたからである、アレルヤ。万民の前に、天主は御自分の正義を啓示し給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 Ps. ibid, 1. 詩篇97ノ1 Salvávit sibi déxtera eius : et bráchium sanctum eius. 主の御右の手は御自分のために【我らを】救い給うた、そして、主の聖なる御腕は。 V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……(栄誦)。 Cantáte Dómino cánticum novum, allelúia : quia mirabília fecit Dóminus, allelúia : ante conspéctum géntium revelávit iustítiam suam, allelúia, allelúia, allelúia. 主に新しい歌を歌え、アレルヤ、主は不思議を行い給うたからである、アレルヤ。万民の前に、天主は御自分の正義を啓示し給うた、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。 Oratio. 集祷文 Deus, qui fidélium mentes uníus éfficis voluntátis : da pópulis tuis id amáre quod prǽcipis, id desideráre quod promíttis ; ut inter mundánas varietátes ibi nostra fixa sint corda, ubi vera sunt gáudia. Per Dóminum. 天主よ、御身は信徒たちの心を、一つの意志のものとなし給う、御身の民々に、御身の命令し給うことを愛し、御身が約束し給うことを望む恵みを与え給え、そは、この世の移ろいゆくことどもの中にあって、われらの心が、まことの喜びのあるところに固定されんことを。天主として、(…)。 Léctio Epístolæ beáti Iacóbi Apóstoli. 使徒聖ヤコボの書簡の朗読 Iac. 1, 17-21. ヤコボ  1ノ17-21 Caríssimi : Omne datum óptimum, et omne donum perféctum desúrsum est, descéndens a Patre lúminum, apud quem non est transmutátio nec vicissitúdinis obumbrátio. Voluntárie enim génuit nos verbo veritátis, ut simus inítium áliquod creatúræ eius. Scitis, fratres mei dilectíssimi. Sit autem omnis homo velox ad audiéndum : tardus autem ad loquéndum et tardus ad iram. Ira enim viri iustítiam Dei non operátur. Propter quod abiiciéntes omnem immundítiam et abundántiam malítiæ, in mansuetúdine suscípite ínsitum verbum, quod potest salváre ánimas vestras. 愛する者よ、すべての最高の賜物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から降り、上からのものである。彼は御旨のままに、われわれを被造物の初穂とするために、真理の言葉をもってわれわれを生み給うた。愛する兄弟たちよ、すべての人は、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあらねばならないことを知れ。人間の怒りは、天主の義を果たし得ない。であるから、すべての汚れとあふれる悪とを捨て、あなたたちのうちに植えられていて、あなたたちの霊魂を救う力のある言葉を素直に受け入れよ。 Allelúia, allelúia. V/. Ps. 117, 16. Déxtera Dómini fecit virtútem : déxtera Dómini exaltávit me. アレルヤ、アレルヤ、 V/. 117ノ16 主の御右手は力【ある業】をなした、主の御右手は私を高め給うた。 Allelúia. V/. Rom. 6, 9. Christus resúrgens ex mórtuis iam non móritur : mors illi ultra non dominábitur. Allelúia. アレルヤ、V/. ローマ 6ノ9 キリストは死者からよみがえり給い、もはや死に給わない。死は、彼に対して、もはや支配することはないだろう、アレルヤ。 + Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。 Ioann. 16, 5-14. ヨハネ  16ノ5-14 In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Vado ad eum, qui misit me : et nemo ex vobis intérrogat me : Quo vadis ? Sed quia hæc locútus sum vobis, tristítia implévit cor vestrum. Sed ego veritátem dico vobis : expédit vobis, ut ego vadam : si enim non abíero, Paráclitus non véniet ad vos : si autem abíero, mittam eum ad vos. Et cum vénerit ille. árguet mundum de peccáto et de iustítia et de iudício. De peccáto quidem, quia non credidérunt in me : de iustítia vero, quia ad Patrem vado, et iam non vidébitis me : de iudício autem, quia princeps huius mundi iam iudicátus est. Adhuc multa hábeo vobis dícere : sed non potéstis portáre modo. Cum autem vénerit ille Spíritus veritátis, docébit vos omnem veritátem. Non enim loquétur a semetípso : sed quæcúmque áudiet, loquétur, et quæ ventúra sunt, annuntiábit vobis. Ille me clarificábit : quia de meo accípiet et annuntiábit vobis. そのとき、イエズスは、弟子らに向かって言い給うた。「いま私は、私をおつかわしになったお方のもとに行くのに、あなたたちの中には"どこに行かれるのですか?"と聞く人もない。こう話したので、あなたたちの心は悲しみにあふれた。しかし、私はあなたたちに真実をいう。私が去るのはあなたたちにとってよいことである。私が去らないなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去ればそれを送る。そして彼が来るとき、罪について、義について、審判について、この世のあやまちを指し示すであろう。罪についてとは、彼らが私を信じないからであり、義についてとは、私が父のもとに行き、あなたたちは、もう私を見ないからであり、審判についてとは、この世のかしらが審判されるからである。私にはまだあなたたちに話したいことがたくさんあるが、いまあなたたちは、それにたえられない。しかし、彼、つまり真理の霊が来るとき、彼はあなたたちをあらゆる真理にみちびくであろう。それは、みずから語るのではなく、聞いたことを語って、未来のことを示すであろう。また彼は私に光栄を与える。なぜなら、彼は、私のものを受け、それをあなたたちに知らせるからである。」。 Credo 信経 Ant. ad Offertorium. Ps. 65, 1-2 et 16. 奉献文 詩篇 65ノ1,2,16 Iubiláte Deo, univérsa terra, psalmum dícite nómini eius : veníte et audíte, et narrábo vobis, omnes qui timétis Deum, quanta fecit Dóminus ánimæ meæ, allelúia. 全地よ、天主に喜び歌え、その御名に詩を歌えよ。天主を畏れる全ての者らよ、来て、聞け、私はあなたたちに語ろう、どれほどのことを主が私の霊魂に行い給うたかを、アレルヤ。 Secreta. 密誦 Deus, qui nos, per huius sacrificii veneránda commércia, uníus summæ divinitátis partícipes effecísti : præsta, quǽsumus ; ut, sicut tuam cognóscimus veritátem, sic eam dignis móribus assequámur. Per Dóminum. 天主よ、御身はこのいけにえの尊い交換により、われらを御身の唯一・最高の神性にあずからせ給うた。願わくは、我らが御身の真理を知るように、ふさわしい生活によって、その真理に我らが至らんことを。天主として(…)。 Præfatio paschalis, in qua dicitur : in hoc potíssimum. 御復活の序誦 VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, te quidem,  Dómine, omni témpore, sed in hoc potíssimum gloriósius prædicáre, cum Pascha nostrum immolátus est Christus. Ipse enim verus est Agnus qui ábstulit peccáta mundi. Qui mortem nostram moriéndo destrúxit et vitam resurgéndo reparávit. Et ídeo cum Angelis et Archángelis, cum Thronis et Dominatiónibus, cumque omni milítia cœléstis exércitus, hymnum glóriæ tuæ cánimus, sine fine dicéntes: Sanctus... 主よ、われらがいつも、どこにても、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。特にこの聖節において、より大いなる光栄を盛大に讃えることは。なぜなら、われらの過ぎ越しなるキリストが、屠られ給うたからである。彼は、世の罪を除き給うたまことの小羊であって、死なれることによってわれらの死を亡ぼし、御復活されることによって、生命を取り戻し給うた。ゆえに、天使ら、大天使らと共に、座天使らと主天使らと共に、また、天の万軍と共に、われらは、御身の光栄の讃歌を終わりなく、こう言いつつ歌う。聖なるかな… Ant. ad Communionem. Ioann. 16, 8. 聖体拝領誦  ヨハネ 16ノ8 Cum vénerit Paráclitus Spíritus veritátis, ille árguet mundum de peccáto et de iustítia et de iudício, allelúia, allelúia. 真理の霊なる弁護者が来給うとき、これは、罪について、義について、審判について、世の過ちを認めさせるであろう、アレルヤ、アレルヤ。 Postcommunio. 聖体拝領後の祈 Adésto nobis, Dómine, Deus noster : ut per hæc, quæ fidéliter súmpsimus, et purgémur a vítiis et a perículis ómnibus eruámur. Per Dóminum nostrum. われらの天主なる主よ、われらの側に居給え。信仰をもって我らが受け奉ったこの秘蹟によって、われらが悪徳から浄められ、すべての危険より免れんことを。天主として、(…)。

聖ピオ十世会:日本での聖伝のミサがさらに増えます!【大阪】5月21日から5月27日まで毎日、【東京】5月26日(主日)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月は聖母聖月で、聖母からのお恵みの聖なる月です。日本では、4月28日から5月27日まで(5日間を除いて)、毎日聖伝のミサが、しかも時には2回、捧げられることになりました。つまり、4月28日から5月6日まで(サマーズ神父様)、5月12日から5月22日まで(ドモルネ神父様)日本で聖伝のミサを捧げて下さる(下さった)からです。
 さらに、5月21日から5月27日まで(ポール・キンボル神父様)が特別に日本にいらしてくださるようになったからです!次のようにミサが付け加えられます。 天主様に感謝!

天主様の祝福が、愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

5月19日(主)復活後第4主日(2級)白
【東京&大阪】 午前10時  ロザリオ及び告解
【東京&大阪】 午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)
【大阪】    聖母行列があります
【東京】    ドモルネ神父様の霊的講話があります

5月20日(月)
【大阪】    午前6時半 ミサ聖祭
【東京】    午前7時  ミサ聖祭

5月21日(火)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月22日(水)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月23日(木)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月24日(金)平日(4級)白
【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月25日(土)
【大阪】    午前10時 ロザリオ及び告解
【大阪】    午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月26日(主)復活後第5主日(2級)白
【東京】    午前10時 ロザリオ及び告解
【東京】    午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ) (ポール・キンボル神父様)

【大阪】    午後5時半 ロザリオ及び告解
【大阪】    午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)(ポール・キンボル神父様)

5月27日(月)
【大阪】    午前6時半 ミサ聖祭(ポール・キンボル神父様)

麗澤大学助教 ジェイソン・モーガンによる講演「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」の動画紹介

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

麗澤大学助教 ジェイソン・モーガンによる講演「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」の動画をご紹介いたします。

2019年4月23日、王権歴史期研究会・第2例月会にて「革命、不安定、帝国:過去500年の歴史の捉え方と秩序の取り戻し」と題して、ジェイソン・モーガン教授は、フランス革命以前の君主制の基礎について語り、何故革命はさらなる革命へと進んでいくのか、この革命的な思考回路に対してどのように対抗して秩序を回復することが出来るのかについて、考えを深めていきます。




秋田巡礼-霊的講話【1】-2019年5月1日サマーズ神父様「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」

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2019年5月1日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【1】
「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」
同時通訳:小野田圭志神父


【小野田神父】
秋田の巡礼者の皆さん、では今から講話を始めますけれども、サマース神父様が午前中の話を2回、そして最後に私が話をします。

【サマース神父様】
皆さん、この美しい秋田の巡礼に来て下さいましてありがとうございます。感謝します。

そこで私は、霊魂の生活、つまり「霊的生活」について話をする事が有益であると思います。

なぜかというと、今この現代では、物質的な、あるいは物体的な肉体的な事だけを追求する世の中に生きているからです。皆さんの国でも、汚い物や、あるいはバイ菌・細菌などについて、本当に非常に心配されています。私たちは手では、手を洗ったりあるいは殺菌消毒をしたりしますけれども、しかし同時に内側では、腐敗や罪にまみれた生活をしています。

では一体霊的な生活とは、肉体的ではなく霊的な生活とは、男性も女性も、あるいは子供たちにとっても、どのようなものか?という事を皆さん研究しましょう。もちろん私たちに与えられた時間によってですけれども、できるだけ多くの、深く、私たちの肉体ではなく、霊的な生活を正しくして、そしてそれを成長させる為にどのようにしたら良いか、という事を考察しましょう。

そして私たちの霊的な生活が強められて、そして養われて、成長していくならば、この地上でどのようなものも、私たちを恐れさせたり、心配させたりする事はなくなります。

なぜかというと、私たちが申し上げている「霊的生活」とは、実は天主様へのその命自身、生命自身に参与する事だからです。天主様が私たちの内にお住まいになり、生活され、そして私たちも天主の中に生活する、生きる、という事だからです。

もしも私たちの中に天主の命が生きているならば、そしてそれを分かち合っているならば、一体この地上で誰が私たちに心配や、恐れなどを与える事ができるでしょうか。私たちの内に天主様が功徳を積ませて下さり、そして報いを下さり、成聖の恩寵のみならず助力の恩寵を以て、私たちを瞬間、瞬間に助けて下さる、という運動があります。この天主の命を分かち合って、それに参与するという事が、天主様の三位一体の命に与る事です。

マリア様の霊的生活こそ、成聖の聖寵の命であって、生活であって、それへの参与の生活でした。私たちの主が生活された通りに、それと同じ命をマリア様も、御霊魂の中に生きていました。

そしてマリア様がイエズス様の御母であったと同じく、イエズス様はマリア様が私たちの母となるという事を御望みであります、それを意図されています。

そこで今回は、
まず第1に、「聖三位一体の神秘について、命について」

第2に、「マリア様の霊的な命について、生活について」

最後に第3に、「諸聖人の通功について、諸聖人との霊的な交わりについて」話します。
天国にいる聖人たちとの命の交わりと共に、煉獄にいる霊魂たちと私たちの関係についても話します。そしてこの地上における全て、霊的生活において成聖の恩寵を保っている人たちとの一致も話します。この地上に生きている、成聖の恩寵にいるすべてのカトリック信者と皆さんは、夫婦が一緒にいるよりも更に緊密な関係を持っています。

この真理は、カトリックの教える事実・真理は、私たちの生活を本当に慰めに満たして、そして強めてくれます。これを知る事は天主からの特別の御恵みであります。なぜかというと、この地上での生活というのは難しいものであって、戦いであるからです。なぜかというと、私たちは地獄の勢力に対して戦わなければなりません。そして地獄の同盟者、つまりこの世の精神に対して戦い、また私たち自身にある三重の肉欲、目の欲、生活の傲りなどに対して戦わなければならないからです。私たちの周囲を見ると、私たちはもう落胆しかねてしまう、その誘惑もあります。

ところで、私たちの受ける慰めというのは、この真理を知る事によって、天主の命を分かち合って、そして天主が全てにおいてコントロールをしている、全て天主の御手の下にある、という事を知る事ができるからです。もしも天主の御摂理に、そして御計画に信頼するならば、私たちは最後の勝利を収める、凱旋をする、という信頼があります、慰めがあります。そうする事によって私たちは、霊的な生活を健康に、そしてますます成長させて、そして養われて送る事ができて、そうすると毎日の生活が喜びに満たされたものになります。

ちょうどこの事を言うと、ロヨラの聖イグナチオが求めたある1つの質問に答える事ができると思います。多くの困難と難しい問題が立ち上がった時、イエズス会の創立者聖イグナチオはこういう質問を受けました、「もしも、イエズス会の敵がイエズス会を廃止させたらどうしますか?」すると答えて、「それは大きな悲劇だけれども、私はもしもそのような事が起こったら、御聖体の前に行って、数分お祈りします。そうすれば、もう心の平和を受ける事ができるだろう。」

なぜかというと、聖イグナチオは、「霊的な生活というのは、私たちが何を選ぶか、どのような成功を収めるか、どのような事をするか、という事ではなくて、天主との一致にある」という事を知っていたからです。「そして天主との一致は、天主様によって色々な道が与えられる。そしてその天主に従う事である」と知っていたからです。

もちろん自由意志、自由決定能力という選択もありますけれども、この私たちが選ぶ、「自由に決定する、選択する」のは、「全てを、私たちにとって全て最高の事をよく知っておられる天主様の御旨を選ぶ」という事です。

それはちょうど、マリア様が受けた美しい驚きと似ています。まずそれは、大天使聖ガブリエルがマリア様に、「天主様は、あなたが天主の御母となる事を御望みだ」と告げた時に起こりました。マリア様が大天使聖ガブリエルからの御告げを受けた時に、少し当惑してしまいました。なぜかというと、天主様が自分に、この「天主の母となるという事を、どう思いますか?同意されますか?」という風に、アドバイスを求めてきたかのように思われるからです。

そこでマリア様は美しく答えました、「私は主の婢女です。もちろん、天主様の御望みの事だけを、御望みのままにします。」


今申し上げたのが導入で、これから入る主題についてのこの原理について申し上げました。


まずこの主題について話す時に、よく正しく理解する事ができる為に、それに反対するような間違った考え方についてまず見ると、それがどこが間違っているかを知る事によって、正しい理解が求められます。

まず、カトリック信者の方々が普通に持っている間違いというのは、「霊的生活というのは、偉大な霊魂たちだけのものであって、修道院に閉ざされた奥深い霊魂たちだけの特別なものであって、私たちには関係ない」という考えです。「キリスト教の完徳というのは、修道服を着た1%のみのエリートだけのものである」と考えています。

そしてこのよくある間違いは、「カトリック生活というのは、天主の十戒を守る、そして主日にミサに与って、そして大罪を犯さないようにそのギリギリの所までには行かないで、それだけをやっていれば良いのだ」という間違いです。

しかし、私たちはまず知らなければならないのは、「キリスト教的な完徳を目指すというのは、全てのキリスト教信者のためのもの、全ての信徒が完徳を目指さなければならない」という事です。

私たちの過去にも、どのような時代においても、どのような階級の人々でも、男性も、女性も、大人も、子供も、どのような身分の人も、聖人がいました。聖人になっています。どのような状況にあっても、何百万という多くの聖人たちが、どの時代にも居たという事は、聖徳というのは完徳というのは、一部の人の為だけのものであるというのは間違いである、という事が分かります。

第2の間違いは、「完徳というのは、あるいは聖徳というのは、どれだけお祈りの数を増やすか、どのようなたくさんのお祈りの種類をするか、という事にかかっている」という間違いです。「霊的生活というのは、その度合いは、お祈りのその量にかかっている」と考える人です。あるいは「霊的生活というのは、断食をする事にある、あるいは苦業をする事にある、それだけだ」と考える人です。あるいは「お祈りをした時に、どのようなこの感情を受けるかという、その感情の度合いこそが、その霊的生活である」と誤解する人もいます。

ところで過去偉大な聖人であればあるほど、お祈りをするのに難しかったり、それをするのが苦痛であったり、という事がありました。

あるいはある人は、「霊的生活というのは、使徒職をする事であって、多くの人に色んな話をしたり、多くの人に活動をする事にある、それだけだ」と誤解する事です。

ところで、どこが間違っているかというと、もちろんそれらの事は素晴らしい事ですけれども、お祈り、多くのお祈り、あるいは苦業、あるいは愛徳の業、あるいは使徒職などは素晴らしい業ですけれども、しかしそれは「手段」であって、究極の目的に到達する為の「道具」に過ぎないという事です。

例えば、これはある国での例ですけれども、ある人は、「神父様、ある御出現で、『このお祈りをしなさい』と言ったのですけれども、もしもこのお祈りをしないのならば、それはとても悪いものです。神父様はしていないので、このお祈りを唱えるようにして下さい。」別の言葉で言い換えますと、その人の言いたかった事は、このお祈りはとても自分にとって気に入ってるので、それをするのはとても良いのであって、それをしなければならないけれども、それをしないと駄目だ、霊的な効果が無くなってしまう、という誤解です。

そこで私が答えたのは、「もちろん、このお祈りもとても良いお祈りですけれども、しかし他にもマリア様の御出現で良いお祈りがあるので、それを全部唱えたらどうですか?」例えばマリア様はエクアドルのキトという所に現れて、とても美しいお祈りを教えて下さったのですけれども、しかし他のそれの事を知らない人が、そのお祈りを唱えなかったからといって、完徳に到達する事ができない、という事はありません、お祈りは手段でしかありません。

私たちの霊魂が求めている「完徳」というのは、一体何なのでしょうか?
私たちは、「完徳」というのは、「完成された」という事で、「霊的な完成」を求めています。

「完成された」というのはどういう事でしょうか?
「完成された」というのは、その「人」が、あるいはその「物」が、「その為に創られた、その究極のゴールに到達した、目的に、終点に到達した」という事です。

桜は、この芽を出したばっかりでは、まだ完成されていません。その桜が満開で綺麗に咲いた時に、あるいはもしもそれが木の実をもたらすものでしたら、そのさくらんぼの実が実って、人間が食べるようになったら、その熟された時に、「完成された」と言います。

完成された、徳に「完徳に到達する」という事は、私たちがその創られた創造の目的に、創られた私たちの目的に到達する事です。私たちは天主によって、天主と共に完璧な幸せに、至福に至る為に創造されました、創られました。ですから私たちが天主に近付けば近付いて、そして天主に一致すれば一致するほど、完徳に近付くという事です。

完徳というのはつまり、究極の目的に到達すればするほど近付くので、この世においては見出す事ができません。ですからこの世ではその幸せが欠如しています。

「では、この地上で見出す事ができる完徳の、完成の本質というのは何なのでしょうか?」と、聖トマス・アクィナスは自問しています。聖トマス・アクィナスによれば、「本質的に完成されたという事は、天主の愛にあって、そして天主の為に隣人を愛する事である」と言います。

しかし、この「天主を愛する」という事は難しい事であって、私たちにとって犠牲を要求するものであります。ですから霊的生活について、これをよく知らなければなりません。私たちは霊的生活を求めなければなりません。

では、私たちが霊的生活を送り、完徳を求めるという義務は持っているのでしょうか?

川で泳ぐ事を考えて下さい。もしもちょっとこう流れに抵抗するように泳ごうと努力しない限り、流されてしまいます。ところでこの川というのは、私たちの持っている原罪の結果の霊魂にある弱さの事を表します。私たちはともすると簡単な方に、悪に流されがちです。私たちは洗礼の水を受けて浄められましたが、原罪を持っているので、川の流れがあるので、もしも何もしないでじっとしていれば、悪の方へと流されてしまいます。

そればかりか、イエズス様は私たちに実定的に命令をされました、私たちにこう仰いました、「天の聖父が完全であるように、あなたたちも完全でありなさい。」

そしてこの完徳を求める、完全であるという事を求めるには、犠牲の心や、あるいは放棄の心が必要です。イエズス様はこんな事も仰います、「もしも私に従って、そして自分の父や、母や、妻や、子供や、自分自身さえも憎まないならば、私の弟子にはふさわしくない」とさえ仰いました。もちろんイエズス様は私たちの家族の一員をですね、憎悪する憎むという事を教えているのではなくて、イエズス様の仰りたい事は、「もしも天主の御旨に反するならば、そのようなものであっても家族の一員であっても、それを放棄しなければならない」という事です。

イエズス様は私たちに、全て同じレベルの聖徳に達するようにとは求めていません。色々な段階があります。3歳の子供が洗礼を受けて間もなく病気で亡くなってしまった、もちろん聖なる霊魂で天国にいますが、それは洗者聖ヨハネの到達した聖徳と全く同じではありません。

イエズス様は、「狭い門から入るように努めよ」と、私たちに努力するように求めました。全ての人が同じ聖徳ではありません。私たちは常に霊的生活を進歩させるように努力する務めがあります。

聖パウロは肉体的な完成と比較します。私たちは、肉体的に完成された人々に対して賞賛の声をあげます。スポーツとか、あるいは競技とかで格闘とかで、優勝したらものすごい大金が栄誉が与えられます。聖パウロは少し象徴したような言い方で、「このような格闘をする人たちは、きっと訓練して、自制して、激しい練習をして、そしてその栄冠を勝ち取ろうとするけれども、その栄冠というのはこのたかがちょっとした飾りで、一体何の価値もないようなものの為にこれほどの努力をしている。」しかし私たちの目指している完徳というのは、この肉体的なその栄誉よりも更にものすごい価値のあるものであるので、私たちはより多くの努力をしなければなりません。

ところで、私たちの霊的な生活は、辛い事や悲しい事だけではありません。それどころか多くの良いものが待っています。

まず第1に、霊魂は不死であって、決して死ぬ事がなくて、そして永遠のものであるからです。私たちの霊魂を救う為に、イエズス様は天主は人となって、苦しみを受けて、そして死の苦しみさえも受けたのです。なぜかというと、私たちの霊魂がそれほどの価値があるからです。

第2の理由は、副次的なものですけれども、この私たちが霊的生活をする為に、その動機付けをするのは、霊魂の価値のみならず、この地上における最高の、この地上で受ける事のできる最高の幸せを、霊的生活が私たちに与えてくれるからです。天主との一致の喜び、幸せ、霊魂の清さの幸せ、喜び、あるいはその霊的生活の平和、というのは、この地上の誰も、どのようなものでさえも、私たちから奪い取る事ができないものです。

そして隣人の為に、最も価値のある長く永続する善をもたらす為に、私たちがまずその永続する善を持っている事ができるからです。私たちが苦しむ人や罪に陥っている人、あるいは弱い人々にする事のできる最高の善は、「天主様にますます近付ける」という事です。もちろんこう貧しい人を助けるとか、こう人類愛の為に医療活動をする等という事は、それ自体は悪い事ではありません。しかしその私たちの隣人に永遠の命を与える、永遠の癒しを与えるという事ほどの善はありません。そしてこれこそ、人類の求めている問題の最高の解決です。

では10分休憩を取ります。

聖ピオ十世会:日本での聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告2019年5月19日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

 聖母聖月は、聖母からのお恵みの聖なる月です。

 ドモルネ神父様は、大阪で5月12日(主日)から5月17日まで、東京の「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」では5月18日、19日、20日の三日間、聖伝のミサを捧げて下さいました!

 さらに愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、大阪の「聖母の汚れなき聖心聖堂」で5月18日、19日、20日の三日間、聖伝のミサを御捧げいたしました。大阪では、聖母聖月の主日ミサの後で、特に5月13日のファチマの聖母の最初の御出現の日を記念して、ファチマの聖母行列を行い、聖母マリア様に大阪と大阪の人々を、日本と日本に住む人々を守って下さるようにお願いいたしました。

また、【大阪】では5月21日から5月27日まで毎日、【東京】では5月26日(主日)にも聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が、愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

写真は2019年 秋田巡礼

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
簡単ですが、ミサの報告をお送り致します。

12日の主日からデモルネ神父様が休暇に日本に来られたので、大阪で12日から17日まで毎日デモルネ神父様が歌ミサを捧げてくださいました。
また、ミサの後には毎晩終課を皆で唱え、木曜日には御聖体降福式をして下さったのも大きなお恵みでした。
デモルネ神父様の御ミサは所作が大変美しく、小野田神父様のミサと似ている印象を受けました。良き先輩をまねていらっしゃるのではないでしょうか?
大阪では聖エリザベトの「主のおん母が私を訪問してくださったのですか!これほどのことが、どうして私にめぐまれたのでしょう!」ということばを真似て、「我が主が私を訪問してくださるとは、どうしてこのようなお恵みが与えられたのでしょう!!」というのが流行っていますが、この度の連日のミサでも全く同じ気持ちを私達は持つことが出来ました。天主様に感謝します!!

休暇に来られていたのに、色々とハードなスケジュールをこなしていただいてしまったのですが、これに懲りずにまた日本へ来て頂きたいと願っています。

土曜日、主日にはデモルネ神父様と入れ替わりに小野田神父様が来て下さり、連日の大きなお恵みに聖母行列を通して感謝を捧げました。
御ミサが終わってすぐに行列に出発したので、御聖体 のイエズス様が一緒にマリア様の行列をして下さっているようで、マリア様がとっても喜んで下さっているように思いました。

日本の為に翻弄してくださる小野田神父様、日本に早く修道院ができて神父様が常駐されることを沢山のミサの中、ミサのノヴェナでお願いしています。

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。

キンボル神父様は無事に大阪にご到着されました。
小野田神父様が仰るように、レネー神父様に色々な意味でよく似てらっしゃいますね。・・・ 秋田についてお詳しいことにびっくりしました。
キンボル神父様を日本にお誘い下さって、本当にありがとうございます。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日5月19日(土)はエチエンヌ・ドモルネ神父の東京での初めてのミサでした。

御説教では、聖母マリアの三つの言葉、「ecce」、「fiat」、「magnificat」に沿って、その一つ一つがいかにして私たちのこの地上での見本となるのか、なぜそれらを真似ることが私たちが天国に行けることに繋がるのが、についてお話ししてくださいました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 11人(内、子供1人)
女: 9人(内、子供1人)
計: 20人(内、子供2人)

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はエチエンヌ・ドモルネ神父の主日のミサ、霊的講話、そして晩課がありました。

ミサの御説教では、旧約の預言者ヨナがとった行動、そのために天主が彼になさったこと、そして彼を船に乗せた水夫たちがとった行動などについて、それらがどのようにイエズスの死と、埋葬、復活の前表であったかを詳しく説明していただきました。

また霊的講話では、現代の教会の危機に関して私たちがどのような考えを持ち、どのような行動をとるべきかについてお話し頂きました。とくに天主がラザロのよみがえりにおいてなさった手順に着目して、私たちもまず自分の信仰を守ること、祈りと犠牲を捧げ続けること、そして決して落胆したり絶望したりせず、また逆に慢心することなく、私たちが具体的にできる信心、信仰を広めるための活動などを続け、栄光を天主に帰すことが大事である、ということを教えていただきました。

最後に復活節の晩課を歌って解散しました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 29人(内、子供5人)
女: 27人(内、子供6人)
計: 56人(内、子供11人)

霊的講話の参加者数
男: 13人(内、子供4人)
女: 12人(内、子供3人)
計: 25人(内、子供7人)

晩課の参加者数
男: 6人(内、子供1人)
女: 6人(内、子供1人)
計: 12人(内、子供2人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ドモルネ神父様のご復活後第五の主日のミサをありがとうございました。

前日には、殉教者・聖ヴェナンツイオのごミサをしていただきました。
土曜日の夕方――聖母の土曜日でもあり――、聖母マリア様の聖性のことをお話してくださいました。

印象に残ったことは、『(天国に行くために大切なことは・・、成聖への道を歩むとは・・・、聖人になるには・・・、)天主様が私たちに働きかけてくださることに同意することであり、私たちの霊魂の中に働いてくださる天主様の働きに同意することだ』ということでした。

自分が聖性に達しようとして何かをすることができるのではないこと、ただ自分の中で働かれている“天主様が私達を聖化してくださろうとすること”に抵抗しないことが大事だと教えていただきました。
抵抗しないだけでよいという、そのことこそ難しいことだと思いました。自分の霊魂の中で行われる天主様からの働きかけがあったから、私はカトリック信仰をいただくことができて、そしてこの聖伝の御ミサに与っていることをあらためて思いました。

けれどここまで来るにはあまりにひどい遠回りをしなければなりませんでした。ようやく本来のカトリック信仰に導いていただいたことは、感謝でしかありません。それはひとえに聖母マリア様の御助けのおかげとも感じられるものでした。やはり同じように聖母によってこちらのごミサに来られるようになった方から、その体験を伺ったばかりです。私たちは何もわからなかったけれど、ただロザリオを通してマリア様に助けていただいたのだと思います。

今回ドモルネ神父様が教えてくださったマリア様の三つの「Ecce ancilla Domini.」「Fiat」「 Magnificat 」という強力な具体的な方法で、これからもいつもマリア様に助けていただけますようにと思いました。

“マリア様の真似をすること”つまり「天主様のなさりたいように、どうぞ私になさってください。」というようにいつも申し上げていこうと思います。続くミサの中でマリア様の真似をする秘訣を実行する恵みを願い求めました。私たちを天国へ導いてくださるためにいつも熱心にご指導してくださいます聖ピオ十世会の司祭様達に感謝申し上げます。

それから、翌日の主日のミサではニネヴェのヨナのお話をしていただきました。旧約聖書のこのヨナのお話は興味深いものでした。

私はイエズス様に対するユダヤ人の態度は、旧約聖書における水夫たちのヨナに対する態度と違うという説明のことが、印象に残りました。もしも、イエズス様が自分たちの救いのために犠牲になってくださることに対してユダヤ人たちがもっと違うふうに対処していたら・・・これが天主様の救いの御業として与えてくださったみ旨であることをしっかりとらえていたら・・・、ユダヤ人たちの救いのことは今と違っているのでは、と思われます。イエズス様は何といってもますユダヤ人の救いのために遣わされた方だから。
(水夫たちは、「主よ、この男の命のために、私達を死なせないでください。罪のないものの血を、私たちのせいにしないでください。罪のないものの血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです。」と天主様に希ったから。)

でも、ユダヤ人は、イエズス様が贖罪の業をなさいますときに、これとは違う態度を取られました。(ユダヤ人は、十字架につけられるイエズス様にひどいことばと態度で侮辱や虐待や怒声を浴びせ、まして自分たちがその血の責任を負うなどと叫んだ。)

どのようなことが起ころうとも、理解が難しい思いがけないことが起ころうとも、み旨のままにおこなわれますようにという、清い心で祈る生活をすることが大切だと感じました。

そして私は自分の罪の悔い改めがどれほど難しいかを感じさせられ、イエズス様の御言葉によってまことの悔い改めがいつもしっかりとできますようにと祈りました。

午後の霊的講話は、たくさんの方が参加されました。
ドモルネ神父様のお話は、とても広い見地から述べられていて、いま自分の置かれている状況を客観的にみる助けとなりました。フランスのジロン・ワキエという方の神学をもとにしているとのことでしたがこの素晴らしい講話をありがとうございました。

ドモルネ神父様は、2つのレベルの戦いについてまず触れられました。一つの戦いは「注意しなさい、死ぬ準備をしなさい。」ということであり、もう一つの戦いは「敵の存在にもかかわらず、私が治める。」ということである、という表現で。

それは、自分たち自身の個人的な信仰を守るためにする私たちが参与している戦いと、信仰をもって地上を天国に向かって歩もうとする人たちを欺くものに対する天主様がなさる悪魔との戦いについてのように思われました。それぞれ、低いレベルでの戦いと高いレベルでの戦いともいえるものであって、私達はいまこの二つの次元での戦いに臨んでいるとの前置きで講話が進められて行きました。

低いレベルの戦いのことでは、私達はイエズス様から伝えられたものを保持しなければならない、モラルはカトリック信仰から出ている、次の世代にカトリック信仰を伝えるために学校をつくらなければならないことなどをお話しくださいました。そして私たちのできる範囲でカトリック信仰を広める務めをすることだ、と。本当の信仰について学ぶ機会を与えられなかった善い人たちがいて、このような知識のない善い人たちに誰かがどうにかして知識を伝えることの大切さなどお話しいただきました。

高いレベルの戦いのことでは、王たる主イエズス・キリストと悪魔の間での戦いがあるが、主イエズスは世界の終りまで私たちと共にいると約束してくださったのだし、地獄の門は教会に勝たなかった、最後の勝利は私たちのものであるとわかっているが、ではそうやってその勝利が起こるのだろうか、と。

講話をお聞きしながらあらためて、この聖ピオ十世会の東京の信徒たちは本当の信仰について学ぶ機会を与えられている恵まれたグループであることを、理解できました。(善い人かどうかは全然別としてですが、恵まれているのだけは本当だと思いました。)

そしてそういう恵まれた者であるというなら、どうしてこんなに少数のグループでしかないのかということの理由を説明していただいたことがとてもよかったです。ドモルネ神父様は、「天主様は小さい信者のグループを使ってその業を始められる」ということを紹介してくださったからです。私達が(人数が)少ないというだけで恐れてはいけないと励ましてくださいました。デオ・グラチアス!

天主様がそのように小さいグループを使われるのは、すべての仕事の栄光は天主様にあるということを示すためだということでした。自分たちの自己満足のためではなく、天主様の栄光のためにこそ働きたいものだとあらためて思いました。

それから、この危機状態にあるカトリック教会の状況が生き返るためには、ラザロの復活を見るのがよいのですと、その見方(解読)を4つのステップに分けて詳しくお話しくださいました。これはとても興味深いお話でした。

ドモルネ神父様は、近代主義に毒されたまま運営されている今の教会の危機に対してこの混乱に引きずられてしまうのを避けるためにどのような見方をすればよいか、低いレベル・高いレベルにおける具体的なことに言及されて、たくさんのことをお話しくださいました。ありがとうございました。

この主日には、新しい方たちもたくさん見えられていて子供たちもたくさん来ていて、聖堂として使わせていただいている会場はいっぱいでした。神父様はごミサの後も告解の秘蹟を授けてくださっておりました。霊的講話の後は、晩課も皆で一緒にいたしました。

ドモルネ神父様はまだ若い方でとても素晴らしい神父様でした。今回は休暇で日本を訪問されているということでしたが、初めての東京でもこのような素晴らしいミッションをありがとうございます。


Invitation to the March for Life 2019: 4 PM, July 15th, 2019, Tsukiji Catholic Church

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Ave Maria Immaculata!

Invitation to the March for Life 2019

Time and Date: 16:00, Monday July 15th, 2019
Departure: Tsukiji Catholic Church
End: Hibiya Park
Every one is invited!









ウォンダー司教とパリャラーニ神父の共同コミュニケ: SSPX Joint communiqué of Bishop Huonder and Father Pagliarani

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Joint communiqué of Bishop Huonder and Father Pagliarani

ウォンダー司教とパリャラーニ神父の共同コミュニケ

2019年5月20日  FSSPX.NEWSサイト

2019年5月20日の月曜日、教皇フランシスコは、ヴィトゥス・ウォンダー司教をクール司教区 Chur [仏 Coire, 伊 Coira](スイス)の司教としての義務を解き、後継者の選出を視野に入れて(教区)管理者を指名した。

以前から既に司教が言明していた意向に従って、ウォンダー司教は聖ピオ十世会の修道院で引退生活を送る。このことの唯一の目的は、祈りと沈黙に専念すること、聖伝のミサのみを捧げること、そして教会を刷新する唯一の方法である聖伝のために働くことである。


聖ピオ十世会はウォンダー司教の勇気ある決断に感謝し、彼が非常に深く希求している霊的かつ司祭としての環境を彼に提供できることを喜ぶものである。「キリストにおいてすべてを復興する」ために、願わくは他の方々がこの模範に倣われんことを。

2019年5月20日

ヴィトゥス・ウォンダー司教         ダヴィデ・パリャラーニ神父

クールの引退司教              聖ピオ十世会総長


Photo credit

2019年5月 復活節の説教 ドモルネ神父様「預言者ヨナについて」

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復活節の説教「預言者ヨナについて」
2019年5月12日(大阪)・19日(東京)
エティエンヌ・ドモルネ神父(聖ピオ十世会)

はじめに

旧約は、新約についての予告であり準備、私たちの主イエズス・キリストとその教会が行ったり言ったりするであろうことについての予告であり準備であったのは、皆さんご存じの通りです。今は復活節で、イエズス・キリストがご受難ののち死者の中から復活されたことをお祝いしています。イエズスのご受難とご復活は、旧約において予告されたのでしょうか? そうです、預言者ヨナによって予告されました。私たちの主イエズスは、御自らご自分とヨナとの関係を立証されました。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」(マテオ12章40節)。

本日は、預言者ヨナの話を考察し、それによってご受難とご復活における私たちの主をもっと深く理解できるようにしましょう。


1.ヨナの不従順:話の要約

ヨナは、エリアやエリゼオに続くまことの預言者でした。しかし、大きな違いが一つあります。エリアとエリゼオは、イスラエルで自分たちの民の回心のために活動しましたが、ヨナは、異邦人すなわちニネべの町に住む人々の回心のために活動するよう天主によって遣わされました。天主はなぜ、この異邦人に彼を遣わされたのでしょうか? それは、ユダヤ人を恥じ入らせるためでした。異邦人が天主の警告と掟を聞き入れようとする素直さをもっていることを、 天主にひどく反逆していたユダヤ人が見るようにするためでした。それは、天主が預言者エゼキエルに言われたことでした。「もしおまえが異邦人に送られたら、彼らはおまえの言うことを聞くだろう。だが、イスラエルの家は、私の言うことを聞かないのであるから、おまえの言うことを聞かない。なぜなら、イスラエルの家はみな、固い額と強情な心を持っているからである」(エゼキエル3章6-7節)。

ヨナは、この使命、役割をまったくうれしく思いませんでした。第一に、ヨナはすべての異教徒に対して、その偶像崇拝や不道徳に対して、強い嫌悪を持っていたからです。さらにヨナは、異邦人の回心がイスラエルの使命の終わりを意味することを預言書から知っていました。ヨナは自分の民を愛していましたから、その没落に繋がることにはまったく手を貸したくはなかったのです。そして最終的に、ヨナがのちに言ったように、天主がニネべの人々を御あわれみによってお赦しになるであろうこと、ニネべの破滅という彼の預言が実現しないこと、そのため自分が自分の言うことが分かっていない愚か者のようにみなされるであろうことを、ヨナは予見しました。そこで、ヨナは、イスラエルから遠く離れて行く船に乗って、天主から逃げ出そうと試みました。ここで私たちは驚くのです。ヨナはいったい、どうして天主から逃げ出すことができるなどと思ったのでしょうか? 彼は天主がどこにでもおられることを知らなかったのでしょうか? 彼は、天主がどこにでもおられること、そしてすべては天主の支配下にあることを知ってはいましたが、天主が通常イスラエルの外では目に見える形で介入されることはないことも知っており、イスラエルから遠く離れたところに逃げ出すことによって、ヨナは天主が自分に対して何もなさることはないことを望んだのです。

実際には、天主は彼に対して介入されました。大あらしが海の上に起こりましたが、ヨナの乗った船の上だけにとどまりました。水夫たちは、このあらしが自然のあらしではなく、乗客のうちの一人のせいだと、すぐに理解しました。彼らはヨナこそがその乗客だと突き止め、ヨナもそれを告白しました。そこで水夫たちは、自分たちのいのちを脅かしているこのあらしを鎮めるために何をすればよいかを丁重にヨナに尋ねました。するとヨナは自らを犠牲にしようとして、勇敢に言いました。「私を捕らえて、海に投げ込んでください。そうすれば、海は鎮まるでしょう」(ヨナ1章12節)。しかし水夫たちは良き人々だったので、乗客の一人を海に投げ込むという考えを受け入れることはできませんでした。そこで、懸命にこいで、岸に戻ろうとしました。しかし、あらしはあまりにも強かったため、無駄でした。ついに、ヨナが海に投げ込まれることが天主のご意志だと分かり、彼らは次の見事な祈りを唱えました。「主よ、この男のいのちのために、私たちを死なせないでください。罪のない者の血を、私たちのせいにしないでください。主よ、あなたがこう行われたのは、み旨によることだからです」(ヨナ1章14節)。彼らはヨナを捕らえて、聖伝によると、丁重に、海に投げ込みました。すると、海は怒りを鎮めました。水夫たちはまことの天主を信じ、天主にいけにえを捧げました。


2.ヨナの不従順:神秘的な意味

さて、この箇所において、どのようにヨナが私たちの主イエズスの象徴であったかを見てみましょう。

ヨナは、自分の民を愛していましたから、異邦人に対して宣教したくはありませんでした。私たちの主イエズスも、ユダヤ人を愛していましたから、ユダヤ人に対する宣教に限定しておられました。例えば、主は、自分の娘の癒やしを求めたカナンの女に対して、こう言われました。「私は、イスラエルの家の迷える羊以外に対しては遣わされていない」(マテオ15章24節)。主は使徒たちにはっきりとこう言われました。「あなたたちは異邦人の国への道には行ってはならぬ。サマリア人の町にも入るな」(マテオ10章5節)。私たちの主イエズスはご自分の民を愛しておられ、例えばエルザレムについて嘆かれたとき、それを示されました。主は、ご自分の宣教と死のあと、ユダヤ人たちが世界中で軽蔑され、天主の御子、いとも美しい人の子、人類のほまれと栄光である主を十字架につけたという恥ずべき汚名を背負う民となるであろうことを完全にご存じでした。それゆえに、私たちの主イエズスは、ユダヤ人に対して回心するためのさらなる時間と最後の機会をお与えになるため、あたかも異邦人への宣教を遅らせたいと思っておられたかのようです。

船の上のヨナは、聖ペトロの船におられるイエズスのかたどりであり、その船は、主の使命を継続するために主が創立された教会の象徴です。海のあらしは、ユダヤ人のイエズスに対するあらゆる憎しみ、嫉妬とおそろしい迫害を意味します。ヨナが水夫たちに、あらしを鎮めて自分たちを救う唯一の方法は、彼を海に投げ込むことだと言ったように、私たちの主イエズスは、世を救うためにご自分の死が必要であることについて使徒たちに何度も言われました。水夫たちが最初はヨナを海に投げ込むことを拒否したように、使徒たちはイエズスの死という天主のご計画を拒否しました。聖ペトロははっきりと、それに反対しました。ついには、自分たちの死という緊急の危険に直面し、自分たちが強いられて行ったことの罪を自分たちに負わせないように天主に祈り、丁重にヨナを海に下ろした水夫たちは、キリストの死とはどうあるべきだったのかということのかたどりでした。それは、罪の赦しに必要な天主のご意志であったため、なさなくてはいけないことでしたが、天主に対する深い敬意とけんそんな祈りが伴うべきだったのです。その反対に、ユダヤ人たちは、信じられないほどの残酷さをもってイエズスを辱めて扱い、高慢にも自分たちと自分たちの子孫に主の無実の血を流した責任を望んだのです。


3.クジラに飲み込まれるヨナ:話の要約

ヨナの話に戻りましょう。ヨナが海に捨てられるやいなや、天主は、聖書がクジラと言っている巨大な魚を送られて、ヨナを生きたまま飲み込ませました。明らかな天主の奇蹟によって、ヨナは生きたまま三日三晩、深い海にいるそのクジラの腹にとどまりました。ヨナは三日間祈り続けていました。そののち、クジラはヨナをイスラエルの海岸に吐き出しました。それは、ニネベの民に宣教するよう天主によって彼に与えられた使命を、彼が行って果たすためでした。


4.クジラに飲み込まれるヨナ:神秘的な意味

このヨナがクジラの腹にとどまったことは、私たちの主イエズスの埋葬と復活の予告でした。「ヨナは三日三晩、クジラの腹の中にいたが、同様に人の子は三日三晩、地の中にいる」。

しかし、ここで私たちは不思議に思います。イエズスは三日三晩、墓の中におられたのではなく、約36時間に過ぎません。聖アウグスティノは、この疑問を次のように説明しました。ユダヤ人は全体のものをその一部によって名付けるのが普通であった。それゆえに、この場合、実際には一日のうちの数時間であったものを「一日」と呼び、あるいは実際には一晩のうちの数時間であったものを「一晩」と呼んだのである。イエズスは、聖金曜日の一日の昼間にあたる最後の数時間と、真夜中までの晩の間、墓の中におられた。これが最初の一日と最初の一晩であった。その後、イエズスは土曜日の一日中、墓の中におられた。これが二日目と二晩目であった。最後に、イエズスは日曜日の朝、晩の最後の数時間と朝の最初の数時間、墓におられた。これが三晩目と三日目であった。

行ってニネべの民に宣教し、彼らに罪を悔い改めるよう告げたヨナは、教会を通じて人々に宣教し、あがないの実を授けようとする私たちの主イエズスのかたどりです。


結論

では結論として言うべきことは何でしょうか? 私たちの主イエズスの警告を知っておきましょう。「裁きの日、ニネべの人は今の代の人とともに立ち上がり、今の代を罪に定めるだろう。彼らはヨナの言葉を聞いて悔い改めたからである。しかもヨナにまさる者がここにいる」(マテオ12章41節)。ですから、キリストとその教会の言うことを注意して聞き、私たちの罪を悔い改めましょう。天主がニネべの民を赦されたように、御あわれみによって私たちを赦し、死者の中から復活された私たちの主イエズスの功徳を私たちに授けてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいますように。アーメン。

Sermon on Easter about Jonas the Prophet Fr Etienne Demornex, SSPX

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Sermon on Easter about Jonas the Prophet
Fr Etienne Demornex, SSPX

Introduction


You know that the Old Testament was the announcement and the preparation to the New Testament, to what Our Lord Jesus Christ and His Church would do and say. We are in Easter Time, celebrating the Resurrection of Our Lord Jesus from the dead after His Passion. Were Jesus’ Passion and Resurrection announced in the Old Testament? Yes, by the prophet Jonas. Our Lord Jesus Himself established a link between Himself and Jonas: “As Jonas was in the whale’s belly three days and three nights: so shall the Son of man be in the heart of the earth three days and three nights”. (Mt 12;40).

Today let us consider the story of the prophet Jonas through which we can get a deeper understanding of Our Lord Jesus in His Passion and Resurrection.



1. Disobedience of Jonas: summary of the story

Jonas was a true prophet in the continuity of Elias and Eliseus. But with one big difference: Elias and Eliseus worked in Israel for the conversion of their own race, but Jonas was sent by God to work for the conversion of pagans, namely the inhabitants of the city of Ninive. Why did God send him to these pagans? In order to make ashamed the Jews who, being themselves so rebellious to God, would see the docility with which the Gentiles would listen to God’s warnings and commandments. It is what God told the Prophet Ezechiel: “If you were sent to the gentiles, they would hearken to you, but the house of Israel will not hearken to you because they will not hearken to Me, for the all the house of Israel are of a hard forehead and an obstinate heart.” (Ez 3;6-7).

Jonas was not happy at all with this mission. First of all because he had a strong aversion against all the pagans, their idolatry and immoralities. Then Jonas knew from the Prophecies that the conversion of the Gentiles would mean the end of the mission of Israel: since he loved his people, he did not want to help in anyway for its decline. And at last, as he said it later, Jonas foresaw that God would forgive in His mercy the people of Ninive, that his prophecy of the destruction of the city would not happen and therefore that he would look like a fool who does not know what he says. So, Jonas tried to escape God by boarding on a boat going far from Israel. We can wonder: how could Jonas think that he would escape God? Did he not know that God is everywhere? He knew perfectly that God is everywhere and that everything is under his control, but he knew also that God usually did not intervene visibly outside Israel, and so by running away far from Israel, Jonas hoped that God would not do anything against him.

Actually, God did intervene against him. A big storm came on the sea but only localised on the boat where Jonas was. The sailors understood quickly that this storm was not a natural one but was due to the fault of one of the passengers. They discovered that Jonas was the guilty one, and Jonas confessed it. The sailors then asked him respectfully what was to be done to calm down the storm threatening their lives. And Jonas sacrificing himself said courageously: “Take me up, and cast me into the sea and the sea shall be calm to you”. But the sailors, being good men, could not accept this idea of throwing into the sea one of their passengers, and so they tried to reach back the seashore rowing very hard. But in vain, the storm was too strong. Finally, seeing that it was definitively the will of God that Jonas be cast into the sea, they said this admirable prayer: “We beseech Thee, O Lord, let us not perish for this man’s life, and lay not upon us innocent blood: for Thou O Lord, hast done as it pleased Thee.” (Jonas 1;14) They took Jonas and respectfully, says the tradition, cast him into the sea, and the sea ceased from raging. And the sailors believed in the true God and offered to Him sacrifices.


2. Disobedience of Jonas: the mystical meaning

Let us see now how Jonas was a figure of Our Lord Jesus in this part of the story.

Jonas did not want to preach to the Gentiles out of his love for his own race. Our Lord Jesus as well restricted his preaching to the Jews, out of love for them. He told for example the woman from Canaan asking for the cure of her daughter: “I was not sent but to the sheep that are lost of the house of Israel” (Mt 15;24). He told His Apostles explicitly: “Go ye not into the ways of the Gentiles and into the city of the Samaritans enter ye not” (Mt 10;5). Our Lord Jesus loved his own nation, he showed it for example when He cried over Jerusalem. He knew perfectly that after his preaching and death, the Jews would become the race universally despised, carrying the shameful stigmata of having crucified Him, the Son of God, the most beautiful Son of man, the honor and the glory of mankind. Our Lord Jesus was like delaying therefore the preaching to the Gentiles in order to give more time and a last chance to the Jews to convert.

Jonas on the boat was the image of Jesus in the boat of St Peter, symbol of the Church He founded to continue His Mission. The storm on the sea means all the hatred, jealousy and awful persecution of the Jews against Jesus. As Jonas told the sailors that the only way to calm down the storm and for them to be saved was to cast him into the sea, so Our Lord Jesus spoke many times to His Apostles of the necessity of His death for the salvation of the world. As the sailors refused at first to cast Jonas in the sea, so the Apostles refuse God’s plan of Jesus’ death: St Peter explicitly spoke against it. At last the sailors facing the imminent danger of their own death, praying to God not to hold them guilty of what they were forced to do, and respectfully lowering Jonas in the sea, were the image of what should have been the death of Christ: to be done since it was the will of God for the remission of sins, but with deep respect and humble prayers offered to God. On the contrary, the Jews treated Jesus shamefully with an incredible cruelty, and proudly they called upon themselves and their children the responsibility of shedding His innocent blood.


3. Jonas swallowed by the whale: summary of the story

Let us come back to the story of Jonas. As soon as Jonas was abandoned in the sea, God sent a huge fish, a whale says the Holy Scripture, to swallow Jonas alive. And by an obvious miracle of God, Jonas stayed alive three days and three nights in the belly of that whale in the depths of the sea. Jonas kept on praying during these days. And after this time, the whale vomited him on the seashore of Israel, for him to go and accomplish the mission given him by God to preach to the people of Ninive.


4. Jonas swallowed by the whale: mystical meaning

This stay of Jonas in the belly of the whale was an announcement of the burial and resurrection of Our Lord Jesus: “For as Jonas was in the whale’s belly three days and three nights: so shall the Son of man be in the heart of the earth three days and three nights”.

But here we may wonder: Jesus was not 3 days and 3 nights in the sepulchre, but only for around 36 hours. St Augustine explained this difficulty: it was common for the Jews to name the whole thing by one of its part, so in our case to call “one day” what was in reality only a few hours of the day, or to call “night” what was in reality only a few hours of the night. Jesus was in the sepulchre for the last hours of the day of Good Friday and then for the night up to midnight: these were the first day and the first night. Jesus was then in the sepulchre for the whole Saturday: these were the 2nd day and the 2nd night. At last He was in the sepulchre for the last hours of the night on Sunday morning and the first hours of the day: these were the 3rd night and the 3rd day.

Jonas going to preach the Ninevites and to tell them to do penance for their sins is the image of Our Lord Jesus through His Church preaching to people and applying the fruits of the Redemption.


Conclusion

What to say to conclude? Let us beware of the warning of Our Lord Jesus: “The men of Nineveh shall rise in judgment with this generation and shall condemn it: because they did penance at the preaching of Jonas. And behold a greater than Jonas here.” Let us therefore listen attentively to Christ and His Church and let us do penance for our sins. As God spared the Ninevites, so He will spare us in His mercy and applying to us the merits of Our Lord Jesus risen from the dead, He will grant us the eternal life. Amen.

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)5月の報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では4月28日の主日から毎主日に御ミサがありました。聖ピオ十世会が日本での活動の歴史の仲で初めてのことでした。
 東京では、4月28日から(5月12日を除いて)毎週主日に聖伝のミサがありました。これらを可能にしてくれた、天主様の御恵みと、日本でミサを捧げて下さったサマース神父様とドモルネ神父様とキンボル神父様に感謝します!

 ずっとこういう状態になるように、日本に司祭が常駐するようになることを祈ります!

 ドモルネ神父様も、キンボル神父様も、お二人とも日本の修道院設立のためにとおっしゃって日本のために寛大な献金をしてくださいました!ありがとうございます!

 聖伝のミサのご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア!
キンボル神父様のミサに毎日与りました。

火曜日は聖マリアの汚れなき御心の歌ミサ、終課でした。
水曜日は聖ヨゼフの読誦ミサ、SSPXアフリカのスラドショー、終課でした。
木曜日は御聖体の読誦ミサ、御聖体降福式、終課、でした。
金曜日、イエズスの御心ミサ読誦、講話、終課、でした。
土曜日、教皇聖グレゴリオミサ読誦、講話でした。deogratias!!!
日曜日は歌ミサでした!deogratias!!!

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、ポール・キンボル神父様のミサにあずかりました。

なお、聖ピオ十世会の残り二人のキンボル神父様、ウィリアム、パトリック各神父様は、二人ともポール・キンボル神父様の甥御さんだそうです。
ポール・キンボル神父様は、小野田神父様と同い年です。
27日の月曜日は、朝のミサのあと、関空発で出発、マニラ、シンガポール、エチオピア、ザンビア経由でジンバブエだそうです。大変です。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はポール・キンボル神父の主日のミサがありました。

ミサの御説教は茶色のスカプラリオについてのお話しでした。このスカプラリオは古くはカルメル山の隠修士たちの衣にその起源をもち、その後十字軍の後にイギリスに移り住んだカルメル会の当時の総長であった聖シモン・ストックに聖母がお現れになって、その衣の色のスカプラリオをお授けになったことが始まりであること、また、このスカプラリオには土曜日の特権という非常に重要な特権がついており、それがいくつかの奇蹟によっても証明されてきたこと、などを説明していただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供4人)
計: 53人(内、子供8人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ご復活後第五主日のミサの報告をさせていただきます。

先月にはまだ予定がないことだったのですが、もう一回多く今月は主日のミサをしていただくことができました。

キンボル神父様、素晴らしいごミサをありがとうございました。
とても背が高くいらして、そういえば大阪の信徒の方が書いておられたようにどことなくレネー神父様に雰囲気が似ていらっしゃるように思いました。

お説教ではファチマのマリア様が、「スカプラリオとロザリオを通してこの世を救われる」という約束のこの2つの信心をしなさいと言われたことに触れられました。スカプラリオの信心そのものは二番目に古い信心ということで、その由来やカルメル会との関係や実際にどういった恵みがあったかということ、などいろいろなことをたくさんお話しくださいました。これは迷信ではなく、聖母にずっと信心をもち続けることができるなら霊魂を天国に持って行けるということだとお話しくださいました。

「エリヤが干ばつのために祈り続け7度目にようやく白い雲が足の形で海の方からやってきたこと」を話された時、なぜこれ(足の形をした白い雲)がマリア様をあらわしているかというと、旧約聖書にマリア様の足が悪魔の頭を砕くと書かれていることと関係あるからだとお話しくださったことで、私の持っていた謎が解けました。

薄い夏服から、周りの人もスカプラリオの信心をしていることが目につくようになりました。秋田巡礼ではスカプラリオの授与式も行われていました。私もいつも身から離すことなく着ているので、スカプラリオのお話を聞くことができてうれしく思いました。最後までマリア様に信心をもち続けることができますようにと願いました。

キンボル神父様は、今日は、主日のミサがもう一度大阪の聖堂でもあるとのこと、東京でのミサの終わった後はすぐ東京駅に向かわれました。この暑さの中でのごミサだけでも大変と思いますのに、新幹線での長距離の移動を経て続けてのごミサをしてくださいますこと、どんなにかお疲れになられますことでしょう。本当に感謝申し上げます。キンボル神父様ありがとうございました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに
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