アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか(後半) をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか の後半
そこで、ドン・セバスチャン大修道院長(Dom Sébastien)は、次のように結論している。
「内的生活をいとなむ熱心な修道者、修道女たちが、のらくら者である、――ほんとうに内的で、奮発心にもえている司祭たちが、怠け者である、とあなたは言い張るのか。よろしい。そんなら、世の中でいちばんいそがしい実業家たちを、ここにつれてきて、かれらの苦労ばなしをきいてみようじゃないか。われわれ内生をいとなむ人間の心労にくらべて、かれらの苦労がいったいなんだろう!」
誰しも、次のことは、経験によって、身におぼえがあるにちがいない。すなわち、タッタ半時間、まじめに黙想するよりも、タッタ半時間、信心ぶかくミサ聖祭にあずかり、または熱心に注意ぶかく聖務日課をとなえるよりも、むしろ自分は、どんなに時間がかかってもいい、どんなに骨が折れてもいい、シャバっ気のある仕事のほうが、よっぽど好きだ――。[1]
フェーバー師(Father Faber)は、この事実をつきとめて、次のようにぐちっている。
「ある信者たちにとって、聖体拝領後の十五分は、一日じゅうで、いちばん退屈な、いちばん不愉快な十五分である!」(«le quart d’heure qui suit la communion est le quart d’heure le plus ennuyeux de la journée.»)
まして、三日間の黙想は、なおさらのこと。たとえ、それは短い日数であっても、ある信者たちにとっては、どんなにいやなものだろうか。――これまで送っていた、だらしのない、しかし多忙をきわめた生活を、三日間もおあずけして、その代わりに、純然たる超自然的生活、いっさいのシャバっ気をしめだした、清浄そのものの生活をする。黙想のあいだは、自分の生活のすべての領域に、超自然の空気をただよわせねばならぬ。精神の目を大きくひらいて、いっさいの事物を、ただ信仰の光りだけでもってながめる。いやがる心を無理にしいて、いっさいの俗事を忘れさせ、ただイエズスとそのご生涯とにだけあこがれさせねばならぬ。赤裸な“自己”と対決して、霊魂の病まいと弱さを、白日のもとにさらけだす。自分の霊魂を、厳しい試練にかける。心の中の不平不満に、耳をかさない。――こういう内性のプログラムを予想しただけで、たいがいの人は、しりごみする。純然たる自然界の活動や事業にかけては、どんなつらい労苦でも、平気でやってのけようと、手ぐすねひいて待ちかまえている人たちにしてからが、こんな調子である。
たかが三日間の黙想ですら、かれらにとっては、こんなに苦しい仕事だと思われるのなら、まして内的生活の修業が、一生涯もかかる仕事だときかされては、どんな気持ちがするだろうか。むろん、すべての被造物からの離脱の仕事において、天主の恩寵は大部分のはたらきをし、主のクビキをこころよく、荷をかるくしてはくれるだろう。それでも霊魂は、どれほど努力しなければならぬことか。――いつも気をはりつめていて、天国への直線コースをふみはずさないように、天主から心の目をはなさないように、ややともすれば空想の世界にさ迷いがちな精神を、聖パウロが「わたしたちの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)といったその思想に呼びもどすように、つねに精をださねばならぬ。これらのことを説明して、聖トマスがこういっている。
「人間は、現世的善と精神的善との間に、立たされている。精神的善にこそ、永遠の幸福は存するのだ。さて人間は、現世的善に愛着すればするほど、それだけいっそう精神的善から離れ去る。反対に、精神的善に愛着すればするほど、それだけいっそう現世的善から離脱していくのである」(『神学大全』(Ⅰa 2 ae, q. 108, a. 4 )[2]
はかりの一方の皿が下がれば、それだけ他方の皿が上がるのは、当然である。
さて、原罪の悲劇が、人間性の秩序をみだしていらい、精神的善への愛着と、現世的善からの離脱との、この二つの仕事は、われわれの霊魂に、非常に苦しい努力を要求するようになった。人間は“小宇宙”と呼ばれているが、この小宇宙に、失われた秩序と調和を回復し、持続するためには、いたって烈しい精神活動が必要である。労苦と犠牲が必要である。霊魂の殿堂は、倒壊している。新たに建てなおさねばならぬ。次に、もう二度と倒れないように、いろいろ工夫しておかねばならぬ。
おのれを警戒し、おのれを捨て、おのれにつらい制欲のわざを課して、俗っぽい考え、みだらな思いを、霊魂から駆逐しなければならぬ。心は、だらくした天性の重圧に、あえいでいる。じぶんのまがった性質を、ためなおす。とりわけ、主イエズス・キリストのご性格とあまりにかけ離れている欠点――たとえば、放心、怒りっぽい、ウヌぼれ、物質への愛着、高慢な態度、あまりに自然の感情に流される、頑固な心、利己心、不親切――など、そういった欠点をためなおす。現在の、そして感覚を刺激してやまない、官能的快楽の魅惑に抵抗する。そのためには、長く待った後にやっと、手に入れることのできる精神的幸福を、熱烈に希望し、かつこれにあこがれる。われわれに、この世を愛させることのできる一切の事物から、霊魂を離脱させる。一切の事物――被造物も、願望も、渇望も、地上的善も、自分の意志も判断も、すべてこれらをひとまとめにして、燔祭のいけにえにする。ああ、そのためには、どれほどつらい努力が、要求されることか!
これはただ、内的生活の消極的方面を、いったまでにすぎない。なおそのうえ、霊魂は、聖パウロが熱烈な調子でいっているように、救霊の敵と、肉弾につぐ肉弾で、死闘を演じなければならぬ。
「わたしは、内なる人としては、天主の律法を喜んでいるが、私の肢体には、別の律法があって、わたしの心の法則に対して、戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則のなかに、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7・22~24)
霊魂のこの浄化のくるしみは、かの有名なラビニャン師(Père de Ravignan)も、したしく経験した。
「修練院で、なにをしたか、とおたずねですか。――そうですね。わたしたちは、二人でした。そしてわたしは、一人の“わたし”を、窓から外へ投げ飛ばし、もう一人のわたしが、タッタ一人残ったのです……」
(« Vous me demandez ce que j'ai fait pendant mon noviciat? Nous étions deux, j'en ai jeté un par la fenêtre et je suis resté seul.»)
救霊の敵は、いつもあらたに、勢力を増そう増そうとしている。この敵にたいして、息するひまもなく、戦わねばならぬ。ひとたび放逐した世間の精神が、すこしでもまた再び帰ってこないように、心をよく警戒していなければならぬ。さらに、悔いあらための苦業できよめられたこの心を、天主にくわえた非礼のつぐないをせねばならぬ、という烈しい望みで、もえたたせねばならぬ。イエズス・キリストの御徳を模倣するためには、自分が獲得したいと思うこれこれの善徳の永遠美に、まず心を愛着させねばならぬのだが、そのためには、霊魂の全精力をかたむけて、修業にとりかからねばならぬ。天主のみ摂理にたいする絶対不動の信頼を、日常生活の最も小さないとなみにいたるまで、浸透させねばならぬ。
以上が、だいたい、内的生活の積極的方面である。しなければならぬ仕事は、山ほどある。戦いの分野は、はてしもなく、眼前に展開している。
さらに、内的生活を、積極的に推進する仕事――それは霊魂の秘奥で、しつこく、そして絶え間なく、続けられていく。苦しいだろう。しかし、この苦しい仕事をしおえてこそ、霊魂はほんとうに、使徒職をりっぱにやっていくための、ふしぎな容易さと、実施にさいしての驚くべき迅速さを習得するのではないか。この秘密を解明してくれるものは、ただ内的生活のみである。
この秘訣を習得した者だけが、めぐまれない健康にもかかわらず、病弱なからだにムチうって、目をみはらせるような、偉大な使徒職を、次から次へと、やってのけたのである。聖アウグスチノ、聖ヨハネ・クリゾストム、聖ベルナルド、聖トマス・アクィナス、聖ビンセンシオ・ア・パウロが、そうだった。その他、枚挙にいとまないほどである。そのうえ、われわれが驚嘆の念を禁じえないのは、これらの人が、ほとんど息つくひまもないほどの激務にたずさわっていながら、天主との絶え間ない一致のうちに、内的生活をいとなんでいた一事である。
聖人たちはみなこのように、祈りと観想によって、天主という生命の源泉からじかに飲んで、たましいのかわきをいやしていたればこそ、他の凡俗な人びとにくらべて、いっそう広範な活動の分野と、それに要するエネルギーを、そこから汲みとっていたのである。
右の事実をうらがきする、ひとつのエピソードがある。フランスが近代に誇りうる一司教の話だが、かれは山積みする教会事務に忙殺さていながら、それでも余裕しゃくしゃく、いつも青空のごとき心境である。
ここに、かれのようにいそがしい、政府要路の一高官があった。かれは、国家の繁忙な政務に、身も心も消耗し、スッカリ心のおちつきを失っていた。高官は司教に、その心のゆとりと、事業の驚嘆すべき成果の秘訣を、たずねた。
「友よ――」司教は、答えていった。「これまでのいそがしいお仕事にくわえて、いまひとつ、朝早く、半時間の黙想をいたしなさい。毎朝、いちども欠かさないで。そういたしましたら、どんなにいそがしいお仕事でも、朝めしまえには、きちんと片づきましょう。そのうえ、時間に余裕ができて、新たないくつもの仕事に、手をだすことができましょう……」
(« A toutes vos occupations, cher ami, ajoutez encore une demi-heure de méditation chaque matin. Non seulement vos affaires seront expédiées mais vous trouverez encore le loisir d’en réaliser de nouvelles. »)
最後に、フランスの聖王ルイ九世のお手本が、ここにある。聖王は、一日も欠かさず、日に八、九時間を、内的生活のいとなみに費やされた。聖王ルイが、国家の政務と国民の福祉事業に、いかばかり精魂をしぼりつくして活動されたかは、万人周知の事実だが、さて聖王は、ご自分の内的生活の中にこそ、その成功の秘訣を見いだしておられたのであり、同時に、その絶倫の活動エネルギーを汲みとっておられたのである。
じっさい、現代の一社会主義者の雄弁家がいっているとおり、このごろフランス政府が、労働者階層のために、どんなに熱心に働いているとはいえ、これを聖王ルイ九世治下になされた、同様の事業に比較するなら、じつに足もとにも寄りつけないほど微々たるものである。
[1] Texte à citer de D. Festugière, 0. S. B.: “Quelles que soient les difficultés de la vie active, Il n'y a que les inexpérimentés qui osent nier les épreuves de la vie intérieure. Beaucoup d'actifs, d'ailleurs sincèrement pieux, avouent que, bien souvent, ce qui leur coûte le plus dans leur vie, ce n'est pas l'action, c’est la part obligatoire de l'oraison. Us sont comme soulagés quand l'heure de l’action sonne”.
[2] Est homo constitutus inter res mundi hujus et bona spiritualia in quibus aeterna beatitudo consistit, ita quod, quanto plus inhaeret uniforum, tanto plus recedit ab altero, et e contrario (la, 2ae, q. 108, a. 4).
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか(後半) をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか の後半
そこで、ドン・セバスチャン大修道院長(Dom Sébastien)は、次のように結論している。
「内的生活をいとなむ熱心な修道者、修道女たちが、のらくら者である、――ほんとうに内的で、奮発心にもえている司祭たちが、怠け者である、とあなたは言い張るのか。よろしい。そんなら、世の中でいちばんいそがしい実業家たちを、ここにつれてきて、かれらの苦労ばなしをきいてみようじゃないか。われわれ内生をいとなむ人間の心労にくらべて、かれらの苦労がいったいなんだろう!」
誰しも、次のことは、経験によって、身におぼえがあるにちがいない。すなわち、タッタ半時間、まじめに黙想するよりも、タッタ半時間、信心ぶかくミサ聖祭にあずかり、または熱心に注意ぶかく聖務日課をとなえるよりも、むしろ自分は、どんなに時間がかかってもいい、どんなに骨が折れてもいい、シャバっ気のある仕事のほうが、よっぽど好きだ――。[1]
フェーバー師(Father Faber)は、この事実をつきとめて、次のようにぐちっている。
「ある信者たちにとって、聖体拝領後の十五分は、一日じゅうで、いちばん退屈な、いちばん不愉快な十五分である!」(«le quart d’heure qui suit la communion est le quart d’heure le plus ennuyeux de la journée.»)
まして、三日間の黙想は、なおさらのこと。たとえ、それは短い日数であっても、ある信者たちにとっては、どんなにいやなものだろうか。――これまで送っていた、だらしのない、しかし多忙をきわめた生活を、三日間もおあずけして、その代わりに、純然たる超自然的生活、いっさいのシャバっ気をしめだした、清浄そのものの生活をする。黙想のあいだは、自分の生活のすべての領域に、超自然の空気をただよわせねばならぬ。精神の目を大きくひらいて、いっさいの事物を、ただ信仰の光りだけでもってながめる。いやがる心を無理にしいて、いっさいの俗事を忘れさせ、ただイエズスとそのご生涯とにだけあこがれさせねばならぬ。赤裸な“自己”と対決して、霊魂の病まいと弱さを、白日のもとにさらけだす。自分の霊魂を、厳しい試練にかける。心の中の不平不満に、耳をかさない。――こういう内性のプログラムを予想しただけで、たいがいの人は、しりごみする。純然たる自然界の活動や事業にかけては、どんなつらい労苦でも、平気でやってのけようと、手ぐすねひいて待ちかまえている人たちにしてからが、こんな調子である。
たかが三日間の黙想ですら、かれらにとっては、こんなに苦しい仕事だと思われるのなら、まして内的生活の修業が、一生涯もかかる仕事だときかされては、どんな気持ちがするだろうか。むろん、すべての被造物からの離脱の仕事において、天主の恩寵は大部分のはたらきをし、主のクビキをこころよく、荷をかるくしてはくれるだろう。それでも霊魂は、どれほど努力しなければならぬことか。――いつも気をはりつめていて、天国への直線コースをふみはずさないように、天主から心の目をはなさないように、ややともすれば空想の世界にさ迷いがちな精神を、聖パウロが「わたしたちの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)といったその思想に呼びもどすように、つねに精をださねばならぬ。これらのことを説明して、聖トマスがこういっている。
「人間は、現世的善と精神的善との間に、立たされている。精神的善にこそ、永遠の幸福は存するのだ。さて人間は、現世的善に愛着すればするほど、それだけいっそう精神的善から離れ去る。反対に、精神的善に愛着すればするほど、それだけいっそう現世的善から離脱していくのである」(『神学大全』(Ⅰa 2 ae, q. 108, a. 4 )[2]
はかりの一方の皿が下がれば、それだけ他方の皿が上がるのは、当然である。
さて、原罪の悲劇が、人間性の秩序をみだしていらい、精神的善への愛着と、現世的善からの離脱との、この二つの仕事は、われわれの霊魂に、非常に苦しい努力を要求するようになった。人間は“小宇宙”と呼ばれているが、この小宇宙に、失われた秩序と調和を回復し、持続するためには、いたって烈しい精神活動が必要である。労苦と犠牲が必要である。霊魂の殿堂は、倒壊している。新たに建てなおさねばならぬ。次に、もう二度と倒れないように、いろいろ工夫しておかねばならぬ。
おのれを警戒し、おのれを捨て、おのれにつらい制欲のわざを課して、俗っぽい考え、みだらな思いを、霊魂から駆逐しなければならぬ。心は、だらくした天性の重圧に、あえいでいる。じぶんのまがった性質を、ためなおす。とりわけ、主イエズス・キリストのご性格とあまりにかけ離れている欠点――たとえば、放心、怒りっぽい、ウヌぼれ、物質への愛着、高慢な態度、あまりに自然の感情に流される、頑固な心、利己心、不親切――など、そういった欠点をためなおす。現在の、そして感覚を刺激してやまない、官能的快楽の魅惑に抵抗する。そのためには、長く待った後にやっと、手に入れることのできる精神的幸福を、熱烈に希望し、かつこれにあこがれる。われわれに、この世を愛させることのできる一切の事物から、霊魂を離脱させる。一切の事物――被造物も、願望も、渇望も、地上的善も、自分の意志も判断も、すべてこれらをひとまとめにして、燔祭のいけにえにする。ああ、そのためには、どれほどつらい努力が、要求されることか!
これはただ、内的生活の消極的方面を、いったまでにすぎない。なおそのうえ、霊魂は、聖パウロが熱烈な調子でいっているように、救霊の敵と、肉弾につぐ肉弾で、死闘を演じなければならぬ。
「わたしは、内なる人としては、天主の律法を喜んでいるが、私の肢体には、別の律法があって、わたしの心の法則に対して、戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則のなかに、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7・22~24)
霊魂のこの浄化のくるしみは、かの有名なラビニャン師(Père de Ravignan)も、したしく経験した。
「修練院で、なにをしたか、とおたずねですか。――そうですね。わたしたちは、二人でした。そしてわたしは、一人の“わたし”を、窓から外へ投げ飛ばし、もう一人のわたしが、タッタ一人残ったのです……」
(« Vous me demandez ce que j'ai fait pendant mon noviciat? Nous étions deux, j'en ai jeté un par la fenêtre et je suis resté seul.»)
救霊の敵は、いつもあらたに、勢力を増そう増そうとしている。この敵にたいして、息するひまもなく、戦わねばならぬ。ひとたび放逐した世間の精神が、すこしでもまた再び帰ってこないように、心をよく警戒していなければならぬ。さらに、悔いあらための苦業できよめられたこの心を、天主にくわえた非礼のつぐないをせねばならぬ、という烈しい望みで、もえたたせねばならぬ。イエズス・キリストの御徳を模倣するためには、自分が獲得したいと思うこれこれの善徳の永遠美に、まず心を愛着させねばならぬのだが、そのためには、霊魂の全精力をかたむけて、修業にとりかからねばならぬ。天主のみ摂理にたいする絶対不動の信頼を、日常生活の最も小さないとなみにいたるまで、浸透させねばならぬ。
以上が、だいたい、内的生活の積極的方面である。しなければならぬ仕事は、山ほどある。戦いの分野は、はてしもなく、眼前に展開している。
さらに、内的生活を、積極的に推進する仕事――それは霊魂の秘奥で、しつこく、そして絶え間なく、続けられていく。苦しいだろう。しかし、この苦しい仕事をしおえてこそ、霊魂はほんとうに、使徒職をりっぱにやっていくための、ふしぎな容易さと、実施にさいしての驚くべき迅速さを習得するのではないか。この秘密を解明してくれるものは、ただ内的生活のみである。
この秘訣を習得した者だけが、めぐまれない健康にもかかわらず、病弱なからだにムチうって、目をみはらせるような、偉大な使徒職を、次から次へと、やってのけたのである。聖アウグスチノ、聖ヨハネ・クリゾストム、聖ベルナルド、聖トマス・アクィナス、聖ビンセンシオ・ア・パウロが、そうだった。その他、枚挙にいとまないほどである。そのうえ、われわれが驚嘆の念を禁じえないのは、これらの人が、ほとんど息つくひまもないほどの激務にたずさわっていながら、天主との絶え間ない一致のうちに、内的生活をいとなんでいた一事である。
聖人たちはみなこのように、祈りと観想によって、天主という生命の源泉からじかに飲んで、たましいのかわきをいやしていたればこそ、他の凡俗な人びとにくらべて、いっそう広範な活動の分野と、それに要するエネルギーを、そこから汲みとっていたのである。
右の事実をうらがきする、ひとつのエピソードがある。フランスが近代に誇りうる一司教の話だが、かれは山積みする教会事務に忙殺さていながら、それでも余裕しゃくしゃく、いつも青空のごとき心境である。
ここに、かれのようにいそがしい、政府要路の一高官があった。かれは、国家の繁忙な政務に、身も心も消耗し、スッカリ心のおちつきを失っていた。高官は司教に、その心のゆとりと、事業の驚嘆すべき成果の秘訣を、たずねた。
「友よ――」司教は、答えていった。「これまでのいそがしいお仕事にくわえて、いまひとつ、朝早く、半時間の黙想をいたしなさい。毎朝、いちども欠かさないで。そういたしましたら、どんなにいそがしいお仕事でも、朝めしまえには、きちんと片づきましょう。そのうえ、時間に余裕ができて、新たないくつもの仕事に、手をだすことができましょう……」
(« A toutes vos occupations, cher ami, ajoutez encore une demi-heure de méditation chaque matin. Non seulement vos affaires seront expédiées mais vous trouverez encore le loisir d’en réaliser de nouvelles. »)
最後に、フランスの聖王ルイ九世のお手本が、ここにある。聖王は、一日も欠かさず、日に八、九時間を、内的生活のいとなみに費やされた。聖王ルイが、国家の政務と国民の福祉事業に、いかばかり精魂をしぼりつくして活動されたかは、万人周知の事実だが、さて聖王は、ご自分の内的生活の中にこそ、その成功の秘訣を見いだしておられたのであり、同時に、その絶倫の活動エネルギーを汲みとっておられたのである。
じっさい、現代の一社会主義者の雄弁家がいっているとおり、このごろフランス政府が、労働者階層のために、どんなに熱心に働いているとはいえ、これを聖王ルイ九世治下になされた、同様の事業に比較するなら、じつに足もとにも寄りつけないほど微々たるものである。
[1] Texte à citer de D. Festugière, 0. S. B.: “Quelles que soient les difficultés de la vie active, Il n'y a que les inexpérimentés qui osent nier les épreuves de la vie intérieure. Beaucoup d'actifs, d'ailleurs sincèrement pieux, avouent que, bien souvent, ce qui leur coûte le plus dans leur vie, ce n'est pas l'action, c’est la part obligatoire de l'oraison. Us sont comme soulagés quand l'heure de l’action sonne”.
[2] Est homo constitutus inter res mundi hujus et bona spiritualia in quibus aeterna beatitudo consistit, ita quod, quanto plus inhaeret uniforum, tanto plus recedit ab altero, et e contrario (la, 2ae, q. 108, a. 4).