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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

 六、反対論に答える(つづき)
(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか

 内的生活が、無為閑散の静寂を楽しむことに存する、と考えている人は、精神的に怠け者である。
 内的生活に、なぐさめの天主よりも、天主のなぐさめをさがしている人は、精神的にどん欲である。
 双方とも、まちがった信心におちこんでいる。かれらについては、なにもいうまい。
 だが、ここに、だれかがいて、軽率にもせよ、わざとにもせよ、内的生活は利己主義である、というなら、この人は、前のふたりにもまして、内的生活を誤解しているのである。
 内的生活こそは、隣人への最も寛大な、最も没我的な愛の事業を霊感する、きよい豊かな源泉である。涙の谷に泣きさけぶ人の子らの苦悩を軽減する隣人愛は、その源流を、内的生活に発している。このことは、前にもすこしいっておいた。で、こんどは、他の視点からながめた内的生活の利益を、考察してみよう。

 聖母マリアと聖ヨゼフは、内的生活の典型だといっても、さしつかえなかろう。それなのに、この偉大なおふたりの内的生活が、利己主義である、不毛である、といったら、いったい、どういうことになるのか。
 それは、なんと冒涜、バカバカしいことか。なるほど、おふたりは、はなばなしい外面的事業には全然、手をつけられなかった。それでいて、、聖母マリアは「使徒の元后」に、聖ヨゼフは「全教会の保護者」に、それぞれまつりあげられている。どうしておふたりは、このような栄位を、かちえられたのだろうか。
 ――かれらの深い内的生活の熱と光が、おのずから外面の世界に照射し、流露したからである。かれらのかくれた祈りと犠牲の功徳が、救世の恩恵を、あまねく世の人びとにほどこすうえにおいて、大きな寄与をしたからである。
 「わたしの妹は、わたしだけに接待をさせている」(ルカ10・40)

 おのれの外的事業とその成果のほかは、なにも眼中にない、愚かな、ウヌぼれの強い活動家たちは、マルタの右の言葉を引き合いにだして、おのれ自身の不信心を弁護しようとする。だが、かれらがどんなに愚かで、また、天主のやりかたについての認識にどれほど欠けてはいても、それでもまだ、天主は自分たちをさしおいて、単独では何もできぬ、と信じこむほど、のぼせてはいまい。すくなくとも、善意にそう解釈したい。
 しかし残念なことに、マリア・マグダラの観想の優越性を高く評価できなかったマルタの口ぶりをまねて、かれらはよくいいたがるものだ。「わたしの手伝いをするように、妹におっしゃってください」(ルカ10・40)と。あるいはまた、救世主を銀貨三十枚で、敵どもに売りとばしたユダのように、「なんのために、こんなむだづかいをするのか」(マテオ26・8)と……。

 かれらは、同じ使徒職にたずさわっている、自分たちよりも内的な同僚たちが、天主との親しい一致の生活を確保するために、しばしば仕事の手を休めて、祈りにあてる数刻を、時間つぶしだと、といって非難する。
 「わたしは、かれらが真理によって聖別されるように、かれらのため、わたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17・19)
 聖主のこの祈りの意味を、よくさとっている内的な同僚たちは、こういって、かれらの非難に答えるだろう。――われわれは、われわれの事業の対象となっている人びとを、聖ならしめるためにこそ、まずわれわれ自身が聖となるように、努力するのである。そのためにこそ、あなたがたのおっしゃる“時間つぶし”をするのである、と。
 じじつ、この人たちこそは、祈りのねうちを、犠牲のねうちを、最もよくさとっているのだ。自分たちの涙を、救世主のお涙に、自分たちの日ましに浄化されていく心のくるしみをの血を、救世主の尊い御血にあわせるすべを、すなわち、救世事業の秘訣を、よく心得ているのだ。

 内的な魂は、イエズスとともに、全世界のおびただしい罪が天に向かってあげている烈しい怒号を、心の耳できいている。それは、罪びとのうえに、天主の復讐をよびくだす怒号である。だが、天主の宣告は、内的な霊魂の全能の嘆願によって、猶予されるのだ。天主は、罪びとらに、復讐の矢を放とうとしている。内的な霊魂だけが、天主のこの怒れるみ手を、制止することができるのだ。

 著名な政治家であったドノソ・コルテス(Donoso Cortès)は、その回心の後、こんなことをいった。

 「祈る人は、戦う人よりも、世界に、はるかに多く寄与している。もし世界が、さらに悪化の一途をたどるなら、それは祈りよりも、戦いが多いからだ……」
Ceux qui prient font plus pour le monde que ceux qui combattent, et si le monde va de mal en pis, c’est qu’il y a plus de batailles que de prières.

 ボスエ司教も、同じことをいっている。
 「祈る人の、天に向かってあげられた二本の腕は、剣をとって戦う人びとの、幾万本の腕にもまして、はるかに多くの敵をたおす!」

 テバイデの苦業者たちは、人跡絶えたサハラ砂漠の秘境にいても、東洋の大使徒聖フランシスコ・ザベリオの心にもえさかっていた布教熱の炎を、同じように持っていた。聖アウグスチノがいっているとおり、「かれらは、必要以上に、世間を捨てたように思われる」。だが、聖人がいそいで、つけ加えていっているように、「かれらの祈りは、この徹底した世間からの離脱によって、いっそう純粋になり、これあるがためにこそ、当時の腐敗しきった社会にたいしては、いっそう大きな感化をおよぼし、世人の教化にとっては、いっそう切実な必要とさえなっていったのである。残念なことに、世の人びとは、この事実に、あまり気をとめないでいる……」

 みじかくて、熱心な祈りのほうが、長い議論や美しい説教にもまして、罪びとの回心を促進するものだ。 
 祈る人は、第一原因者と直接に、交渉する者である。
 祈る人は、直接に、天主に働きかける。
 祈る人は、このようにして、あらゆる第二原因(被造物)の運命を、自分の手の中に、おさめている。第二原因は、第一原因の天主からそれをもらわなければ、おのが運命をアレンジするうえにおいて、いかなる権限も持っていないからである。
 そんなわけで、祈る人は、自分の望んでいることはなんでも、いっそう確実に、いっそう迅速に、なしとげることができるのである。

 信頼できる黙示によれば、大聖テレジアの、タッタ一回の、もえるような祈りによって、何万人もの異端者が回心している。聖女の霊魂は、キリストへの愛にもえさかっていたので、人びとの霊魂を救おうとの、救い主の火のようなご熱情に無感覚な人たちの内的生活・観想的生活なるものを、ほんものとして受け取ることができなかった。聖女はいっている。
 「わたしは、タッタひとりの霊魂でも、煉獄から救いだすことができますなら、よろこんで世の終わりまで、煉獄の火の苦しみを、あまんじて受けましょう。苦しみの長さがなんでしょう。もしこの苦しみのおかげで、天主さまのご光栄のために、タッタひとりの霊魂でも、救いだすことができましたら!まして、たくさんの霊魂が救いだせるのでしたら……」

 そして、その娘たちに、こうおっしゃるのだった。
 「娘たちよ、この一点に――純然たる使徒的事業であるこの一点に、あなたがたのすべてのお仕事を、集中させなさい。すべてのお仕事を――念禱も、ムチうちも、大斉も、ねがいごとも……」

 じじつ、これが、カルメル会修道女の仕事なのだ。これが、トラピスト会修道女の、クララ会修道女の仕事なのだ。彼女たちこそは、あるく宣教師たちの足あとをたどる者だ。彼女たちこそはまた、自分らの念禱と苦行のあふれから、宣教師たちの霊生をはぐくみ育てる、尊い母性なのだ。

 彼女らの祈りの声は、いまだかつて宣教師らが、十字架の木をうちたてることもなく、福音の光りをかがやかせたこともない、未開の国々にまでこだまして、救世主のとうとい獲物なる、異教のやみにとざされた人びとの心に達する。もっと適切にいえば、彼女らの心奥に秘められている神愛のたえなる調べこそは、いかなる大使徒の雄弁にもまさって力づよく、全世界いたるところで、天主のご慈悲のみこえを、罪びとらの耳につたえている。

 なぜ、とおい異教の国々で、やみの子らがくびすを接して、まことの宗教に立ちかえるのか。なぜ。信仰の迫害のきびしい国々で、信者たちが、初代教会の殉教者たちに劣らず、英雄的忍耐を示しているのか。なぜ、殉教の責苦にもひとしい、ひどい苦しみのさなかにあって、宣教師たちがいつも、天上のよろこびに酔いしれているのか。
 その理由を知っているものは、そうたくさんはいまい。――修道院の奥ふかく身をかくし、人に知られず、世にうずもれて、天主にささげる彼女らの謙遜な祈りと犠牲にこそ、この霊界のすべての奇跡はつながっているのである。
 彼女らの祈りの指は、天主の恩寵の鍵盤の上を、玉あられのように乱舞し、罪のゆるしと永遠の光明のたえなる交響楽をかなでながら、人類の救済と教会の征服事業を、みごとに指揮する。――こころ静かに、そして孤独のうちに!
   (この章 続く)


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