アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
ここにいっている事業とは、“真に使徒的”と呼ばれるにあたいする事業であるべきことは、もちろんである。なぜなら、こんにち、この名称にあたいしないカトリック事業が、あちこちにあるからだ。ある種の事業は、うまく信心の仮面をつけて、うわべだけはりっぱな使徒的事業のようにみえるが、そのじつ、経営者がもくろんでいるのは、正直いって、なんだろうか。――世間からの称賛である。世間の人から、名事業家として、慈善家として、社会事業家として、名声をうたわれたいのである。それで事業の成功のためには、どんな手段でも、最も不正な手段さえも、必要とあらば平気で用いる。
ここにいま一つの事業がある。
前者にくらべて、たしかに“使徒的”である。したがって、尊敬にもあたいする。ほんとうの善をねらっている。目的も、手段も、ともにりっぱで、非難の余地はない。
だが、事業にたずさわっている人たちが、ごく薄っぺらな信仰しかもっていない。内的生活が、人びとの霊魂に、どれほど強い、深い影響力を及ぼすかについての確信が、ごくうすく弱いため、かれらの超人的努力にもかかわらず、事業の成果はほとんどゼロにひとしい。
使徒的事業は、いったい、どんなものでなければならないのか。――それをハッキリ理解するためには、同じ使徒的事業に異彩をはなっている、一人の人物の登場をおねがいして、口ずから、かれの体験談をきくのが一番早道だ。
筆者は、司祭職の初めごろ、直接その人からうけたまわった教訓を、左に書きしるしてみたいと思う。
そのころ、筆者は、青年のための事業を、はじめてみたいと思っていた。そのために、パリのカトリック諸事業を視察したり、フランスの諸都市にあるカトリック青年会をおとずれたり、また、バル・デ・ボア(Val-des-Bois)にある事業を見学したりしたのち、マルセイユに行った。そこには、聖徳のほまれ高いアルマン師(abbé Allemand)と、尊敬すべき教会参事チモン・ダビド師(chanoine Timon-David)が、共同で経営している、青年のための事業があったからである。
チモン・ダビド師の体験談に、青年司祭の筆者は、どれほど感動しながら耳をそばだてたことだろう。かれは筆者に、こういうのだった。
「……音楽とか、映画とか、演劇とか、ハイキングとか、スポーツとか――こんなものが、みんないけないとは、けっして申しません。わたし自身にしてからが、事業をはじめたころ、こういうものがどうしても必要である、なくてはならぬものである、とさえ思っていたんですからね。だがしかし、よく考えてみますと、こんなものは、他にもっとすぐれてよいものがないときに限って使われる、いわば道楽みたいなものである、ということがわかってきたんです。
事業をだんだん進めていくうち、わたしの目的も手段も、いっそう超自然化されていきました。なぜなら、わたしは、むろん少しずつですが、すべて人間的なもののうえの土台をすえた事業は、しょせん廃滅の運命をせおっているということ、内的生活によって、天主と人をたがいに近づけ、密接に一致させることをねらっている事業だけが、天主に祝福されるということ、このようなことを、いっそうハッキリ理解するようになったからです。
ラッパや、太鼓や、サクソホンのような楽器は、ずっと以前から、物置にしまいこみ、演劇なんかもやらなくなりましたが、事業のほうは以前にもまして、ぐんぐん盛んになっていきました。なぜでしょうか。
ああ、天主さまに感謝いたします。わたしの司祭たちも、またこのわたし自身も、事業をはじめたころは、まだほんとうに赤ん坊でしたが、いまでは目がいっそう肥えてまいりまして、ものごとの真相をハッキリ、見究めることができるようになったからです。そして、“かくれたままに”お働きになるイエズス様のご活動にたいして、恩寵のお働きにたいして、わたしどもがいっそう大きな信仰をもつようになったからです。
わたしを、信じていただきたいんです。予想される困難の前にたじろがず、理想はできるだけ高くおもちなさい。できるだけ高い所を、おねらいなさい。そういたしましたら、きっと結果のすばらしいのにビックリされるでしょう。
それを、これから具体的に説明します。
青年たちを、禁じられた娯楽や、危険な遊びから遠ざけようとして、なにか罪のないレジャーを、えりにえって、あたえてやる。または、かれらを、形ばかりでもいい、とにかくミサ聖祭にあずからせる。たまには、秘跡にも、やっと及第するぐらいの心の準備をさせて、あずからせる。それで表面だけは、キリスト信者としての体面を保たせる。――こんなことを、かれらに“理想”として提議するようでは、情けない限りです。
「沖へ乗りだしなさい!」(ルカ5・4)
高尚な、聖なる野心を、おもちなさい。まず、青年たちの中から、ある人びとをえらんで、かれらに、熱心な信者として生活しようとの強固な決心を、取らせるように努力しなさい。どんなぎせいを支払っても。熱心な信者として――これを別な言葉で申せば、かれらが毎朝、黙想をしますように。もしできることなら、毎朝ミサ聖祭にあずかりますように。わずかの時間でもいい、霊的読書をしますように。
その結果は、ひんぱんな、そして熱心な、聖体拝領となってあらわれることは、疑いありません。精鋭のこの小さき群れに、イエズス・キリストへの熱烈な愛を、祈りの精神を、自己放棄を、おのれの行為のきびしい取り締まりを、一言で申せば、かれらの心に強固な、堅実なキリスト教的善徳をあたえるために、あらゆる努力を、おかたむけなさい。また、かれらの霊魂が、ご聖体にたいして、ますます激しい渇きを感じますように、前者におとらぬ努力を、お支払いなさい。この基本的な、内心の修業に成功いたしましたら、次にはかれらが、自分たちの周囲の人びとに、自分たちの友人らに、積極的に働きかけることができるように、かれらの奮発心を刺激しておやりなさい。
かれらを、りっぱな“使徒”に、仕上げなさい。単純で、質朴で、善良で、ぎせいの精神がつよく、そのうえ熱烈で、男らしい使徒――狭量な信心家ではなく、超自然の機知にも富み、けっして熱心の口実のもとに、くらい目で、友人たちのあらをさがしまわるような、ファリザイ人でない使徒に。
これらをまず、実行してごらんなさい。そういたしましたら、きっと二か年を出ないで、あなたは再びわたしを訪ねて、ここにおいでになるでしょう。そして、わたしに申されるでしょう。――こんなにすばらしい成果を収めました。もう音楽も演劇も、ちっとも必要ではありません、と……」
« — Fanfare, théâtre, projections, cinémas, etc., je ne blâme point tout cela. Au début, moi aussi, je les avais crus indispensables; ce ne sont que des
béquilles qui s’emploient faute de mieux. Mais plus je vais, plus mon but et mes moyens se surnaturalisent, car je vois de plus en plus clairement que toute œuvre bâtie sur l’humain est appelée à périr et que seule l’œuvre qui vise le rapprochement de Dieu et des hommes par la vie intérieure est bénie par la Providence.
« Les instruments de musique sont au grenier depuis longtemps, le théâtre m’est devenu inutile, cependant l’œuvre prospère plus que jamais. Pourquoi? C’est que mes prêtres et moi voyons, Dieu merci, bien plus juste qu’au début, et que notre foi dans l’action de Jésus et de la grâce s’est centuplée.
« Croyez-moi, n’hésitez pas à viser le plus haut possible, et vous serez étonné des résultats. Je m’explique: N’ayez pas seulement comme idéal d’offrir aux jeunes gens un choix de distractions honnêtes qui détournent des plaisirs défendus et des relations dangereuses, ni de simplement les vernir de christianisme par une assistance machinale à la messe ou par la réception très distancée et à peine passable des sacrements.
« Duc in altum. Ayez d’abord la noble ambition d’obtenir à tout prix qu’un certain nombre d’entre eux prennent l’énergique résolution de vivre en chrétiens fervents, c’est-à-dire avec la pratique de l’oraison du matin, l’habitude quotidienne de la messe si cela se peut, une courte lecture spirituelle, et, cela va de soi, fréquentes et fructueuses communions. Appliquez toutes vos sollicitudes à donner à ce troupeau choisi un grand amour de Jésus-Christ, l’esprit de prière, d’abnégation, de vigilance sur soi-même, de solides vertus en un mot. Développez avec non moins de soin dans leurs âmes la faim de l’Eucharistie. Puis excitez peu à peu ces jeunes gens à l’action sur leurs compagnons. Façonnez des apôtres francs, dévoués, bons, ardents, virils, sans étroite dévotion, pleins de tact, ne donnant jamais, sous prétexte de zèle, dans le triste travers d’épier leurs camarades. Avant deux ans, vous me direz s’il est encore besoin de cuivres ou de décor de théâtre pour obtenir une pêche fructueuse.
「よくわかりました――」それまで、だまってきいていた筆者は、このへんで先方の話をさえぎり、そしてたずねた。「たしかに、この精鋭の小さき群れは、パン全体をふくらますパンダネのようなものです。ですが、この精鋭の群れにぞくしていない他の人びと――たとえばです、わたしが計画している“会”にぞくすべき、あらゆる年令層の青少年たち、また、結婚している人たちにたいしては、いったいどのようにすればいいのでしょうか。こういうひとたちの霊魂を、前に申されました精鋭のグループの水準まで高めることは、とうていできない相談だと思うのですが……」
「いや、かれらにはまた、別な方法がありますよ。かれらに、強い強い信仰をあたえてやることです。かれらに、宗教のお話を、たびたびしてきかせることです。宗教のお話は、よく準備されたもの、興味が深くて、滋味に富んだものでなければなりません。それを、例えば冬の夕方などにされるといい。できるだけしばしば、おやりなさい。効果は、てきめんです。あなたの信者たちは、信仰の敵にたいして十分の備えをなし、世間に出なおしてまいります。会社や工場の仲間たちが、どんなに宗教をバカにしようと、かれらはみごとに敵どもをやっつけます。そればかりではありません。さらに恐るべきわるい新聞や、悪い書物の害毒にたいしても、十分に抵抗ができるでしょう。
確固たる宗教的信念を、信者の心にうえつける。もし必要とあれば、だれも恐れず、それを堂々と人まえに宣言できる、信仰のつよい信者をつくる。――これだけでも、すでに大成功ではありませんか。しかし、これだけで満足してはなりません。かれらを、もっと高い処までみちびく。かれらを、信心に――ほんとうの信心、あたたかい、確信のある、そして神学の教えに基づいた、あかるい信心にまでみちびいてやらなければならないんです。」
「では、最初から、どんな人でも、会に入れてよろしいのでしょうか」
「えりぬきの会員が、すこしでもできましたら、あとの数はたいして問題にはなりません。あなたの会が、大きくなるかならないかは、とりわけ、会の核心をなすこれらエリートの会員が、他におよぼす影響力のいかんにかかっています。さらに、エリートの会員たちの中心となるべき人物は、イエズスとマリアと、それにこのおふた方の道具ともなる、あなた自身なのです」
「会場は、それこそ貧弱だと思うのですが、もっと大きなのを造ることができるように、カネの集まるのを待たなければならないものでしょうか」
「とんでもない! りっぱな部屋とか豪壮な建物は、そりゃ初めのころ、生まれたばかりの事業のうえに、人びとの注意をひきつけるために、すこしぐらいは役に立つでしょう。チンドン屋の役ぐらいにはね。……だが、わたしはくり返して申します。もしあなたが、事業の根底に、内的生活を――熱烈で、完全で、積極的で、使徒的奮発心に富む内的生活をおきますなら、なあに、会の仕事をふだんやってのけるのに必要なだけの場所は、ちゃんとありますよ。いままで舞台や、楽器の置場や、その他、なにやかにやに使っていた、余分の場所が浮いてきますからね。そうこしているうち、騒々しい音響は、べつに大してよい効果もないということ、反対に、よい効果を収めるためには、騒々しい音響をたてる必要は、すこしもないということを、あなたはご自分でさとってまいりますよ。そのうえ、福音の精神をよく理解してまいりますと、会の出費もすくなくなり、反対に成績のほうはぐっとあがっていきますよ。
だが、何よりさきに、あなたは、あなた自身のからだを張って、支払いしなければなりません。といっても誤解してはいけませんよ。骨身をくだいて、芝居や運動会の準備をしなさい、とは申しません。いっそう骨を折って、あなた自身の霊魂に、祈りの生活を確保しなさい。内的生活をゆたかにしなさい、と申しているんです。なぜなら、次の点を、心に銘記してほしいからです。――あなたは、あなたがまず、イエズス・キリストをお愛しする、その愛の生活の強さに応じて、ただその愛の強さの度合いに応じてのみ、他人のうえにも、愛の炎を放射することができるんです。」
「結局、あなたは、内的生活のうえに、事業の土台をすえろ、とおっしゃるのですね」
「まさにそのとおり! わたしは、千たびもくり返して、そうだ、とお答えします。そうしなければ、せっかくの金山から、純金はとれませんからね。いつも、まぜ物ばかりですよ。とにかく、わたしを信用してください。長い年月をついやし、にがい失敗をいくたびも重ねて、ようやっと獲得した、貴重な体験ですからね。わたしが、青少年相手の事業にかんしていっていることは、同時にすべての使徒的事業にも、あてはめることができると思うんです。小教区の事業にも、神学校の養成事業にも、カトリック要理の授業にも、学校経営の事業にも、兵隊さんあいての事業にも、その他すべての会の事業にも。
ほんとうに超自然的精神に生かされている、ほんとうに内的生活に生かされている会は、どれほど大きな善を、世間の人びとに施すことができることでしょう。こういう会こそ、全能のちからをもったパンダネです。それが、世の救いの仕事に、人びとの救霊の事業に、どれほどみごとな成果を収めるかは、天使たちでなければわかりません。……。
ああ、布教事業にたずさわっている司祭、修道者たち、またいわゆるカトリック“事業家”たちが、自分らの手にしている、テコの偉力を知ることができましたら!そして、このテコの支点に、イエズスの聖心と、聖心との一致の生活をおくように、いっそう努力しさえしましたら!
ああ、そのとき、かれらは全国を、いや、全世界さえも、もちあげることができましょうに! そうですとも。悪魔とその加担者らの勢力にかかわらず、りっぱにそれをやってのけますとも!」
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
三、使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
ここにいっている事業とは、“真に使徒的”と呼ばれるにあたいする事業であるべきことは、もちろんである。なぜなら、こんにち、この名称にあたいしないカトリック事業が、あちこちにあるからだ。ある種の事業は、うまく信心の仮面をつけて、うわべだけはりっぱな使徒的事業のようにみえるが、そのじつ、経営者がもくろんでいるのは、正直いって、なんだろうか。――世間からの称賛である。世間の人から、名事業家として、慈善家として、社会事業家として、名声をうたわれたいのである。それで事業の成功のためには、どんな手段でも、最も不正な手段さえも、必要とあらば平気で用いる。
ここにいま一つの事業がある。
前者にくらべて、たしかに“使徒的”である。したがって、尊敬にもあたいする。ほんとうの善をねらっている。目的も、手段も、ともにりっぱで、非難の余地はない。
だが、事業にたずさわっている人たちが、ごく薄っぺらな信仰しかもっていない。内的生活が、人びとの霊魂に、どれほど強い、深い影響力を及ぼすかについての確信が、ごくうすく弱いため、かれらの超人的努力にもかかわらず、事業の成果はほとんどゼロにひとしい。
使徒的事業は、いったい、どんなものでなければならないのか。――それをハッキリ理解するためには、同じ使徒的事業に異彩をはなっている、一人の人物の登場をおねがいして、口ずから、かれの体験談をきくのが一番早道だ。
筆者は、司祭職の初めごろ、直接その人からうけたまわった教訓を、左に書きしるしてみたいと思う。
そのころ、筆者は、青年のための事業を、はじめてみたいと思っていた。そのために、パリのカトリック諸事業を視察したり、フランスの諸都市にあるカトリック青年会をおとずれたり、また、バル・デ・ボア(Val-des-Bois)にある事業を見学したりしたのち、マルセイユに行った。そこには、聖徳のほまれ高いアルマン師(abbé Allemand)と、尊敬すべき教会参事チモン・ダビド師(chanoine Timon-David)が、共同で経営している、青年のための事業があったからである。
チモン・ダビド師の体験談に、青年司祭の筆者は、どれほど感動しながら耳をそばだてたことだろう。かれは筆者に、こういうのだった。
「……音楽とか、映画とか、演劇とか、ハイキングとか、スポーツとか――こんなものが、みんないけないとは、けっして申しません。わたし自身にしてからが、事業をはじめたころ、こういうものがどうしても必要である、なくてはならぬものである、とさえ思っていたんですからね。だがしかし、よく考えてみますと、こんなものは、他にもっとすぐれてよいものがないときに限って使われる、いわば道楽みたいなものである、ということがわかってきたんです。
事業をだんだん進めていくうち、わたしの目的も手段も、いっそう超自然化されていきました。なぜなら、わたしは、むろん少しずつですが、すべて人間的なもののうえの土台をすえた事業は、しょせん廃滅の運命をせおっているということ、内的生活によって、天主と人をたがいに近づけ、密接に一致させることをねらっている事業だけが、天主に祝福されるということ、このようなことを、いっそうハッキリ理解するようになったからです。
ラッパや、太鼓や、サクソホンのような楽器は、ずっと以前から、物置にしまいこみ、演劇なんかもやらなくなりましたが、事業のほうは以前にもまして、ぐんぐん盛んになっていきました。なぜでしょうか。
ああ、天主さまに感謝いたします。わたしの司祭たちも、またこのわたし自身も、事業をはじめたころは、まだほんとうに赤ん坊でしたが、いまでは目がいっそう肥えてまいりまして、ものごとの真相をハッキリ、見究めることができるようになったからです。そして、“かくれたままに”お働きになるイエズス様のご活動にたいして、恩寵のお働きにたいして、わたしどもがいっそう大きな信仰をもつようになったからです。
わたしを、信じていただきたいんです。予想される困難の前にたじろがず、理想はできるだけ高くおもちなさい。できるだけ高い所を、おねらいなさい。そういたしましたら、きっと結果のすばらしいのにビックリされるでしょう。
それを、これから具体的に説明します。
青年たちを、禁じられた娯楽や、危険な遊びから遠ざけようとして、なにか罪のないレジャーを、えりにえって、あたえてやる。または、かれらを、形ばかりでもいい、とにかくミサ聖祭にあずからせる。たまには、秘跡にも、やっと及第するぐらいの心の準備をさせて、あずからせる。それで表面だけは、キリスト信者としての体面を保たせる。――こんなことを、かれらに“理想”として提議するようでは、情けない限りです。
「沖へ乗りだしなさい!」(ルカ5・4)
高尚な、聖なる野心を、おもちなさい。まず、青年たちの中から、ある人びとをえらんで、かれらに、熱心な信者として生活しようとの強固な決心を、取らせるように努力しなさい。どんなぎせいを支払っても。熱心な信者として――これを別な言葉で申せば、かれらが毎朝、黙想をしますように。もしできることなら、毎朝ミサ聖祭にあずかりますように。わずかの時間でもいい、霊的読書をしますように。
その結果は、ひんぱんな、そして熱心な、聖体拝領となってあらわれることは、疑いありません。精鋭のこの小さき群れに、イエズス・キリストへの熱烈な愛を、祈りの精神を、自己放棄を、おのれの行為のきびしい取り締まりを、一言で申せば、かれらの心に強固な、堅実なキリスト教的善徳をあたえるために、あらゆる努力を、おかたむけなさい。また、かれらの霊魂が、ご聖体にたいして、ますます激しい渇きを感じますように、前者におとらぬ努力を、お支払いなさい。この基本的な、内心の修業に成功いたしましたら、次にはかれらが、自分たちの周囲の人びとに、自分たちの友人らに、積極的に働きかけることができるように、かれらの奮発心を刺激しておやりなさい。
かれらを、りっぱな“使徒”に、仕上げなさい。単純で、質朴で、善良で、ぎせいの精神がつよく、そのうえ熱烈で、男らしい使徒――狭量な信心家ではなく、超自然の機知にも富み、けっして熱心の口実のもとに、くらい目で、友人たちのあらをさがしまわるような、ファリザイ人でない使徒に。
これらをまず、実行してごらんなさい。そういたしましたら、きっと二か年を出ないで、あなたは再びわたしを訪ねて、ここにおいでになるでしょう。そして、わたしに申されるでしょう。――こんなにすばらしい成果を収めました。もう音楽も演劇も、ちっとも必要ではありません、と……」
« — Fanfare, théâtre, projections, cinémas, etc., je ne blâme point tout cela. Au début, moi aussi, je les avais crus indispensables; ce ne sont que des
béquilles qui s’emploient faute de mieux. Mais plus je vais, plus mon but et mes moyens se surnaturalisent, car je vois de plus en plus clairement que toute œuvre bâtie sur l’humain est appelée à périr et que seule l’œuvre qui vise le rapprochement de Dieu et des hommes par la vie intérieure est bénie par la Providence.
« Les instruments de musique sont au grenier depuis longtemps, le théâtre m’est devenu inutile, cependant l’œuvre prospère plus que jamais. Pourquoi? C’est que mes prêtres et moi voyons, Dieu merci, bien plus juste qu’au début, et que notre foi dans l’action de Jésus et de la grâce s’est centuplée.
« Croyez-moi, n’hésitez pas à viser le plus haut possible, et vous serez étonné des résultats. Je m’explique: N’ayez pas seulement comme idéal d’offrir aux jeunes gens un choix de distractions honnêtes qui détournent des plaisirs défendus et des relations dangereuses, ni de simplement les vernir de christianisme par une assistance machinale à la messe ou par la réception très distancée et à peine passable des sacrements.
« Duc in altum. Ayez d’abord la noble ambition d’obtenir à tout prix qu’un certain nombre d’entre eux prennent l’énergique résolution de vivre en chrétiens fervents, c’est-à-dire avec la pratique de l’oraison du matin, l’habitude quotidienne de la messe si cela se peut, une courte lecture spirituelle, et, cela va de soi, fréquentes et fructueuses communions. Appliquez toutes vos sollicitudes à donner à ce troupeau choisi un grand amour de Jésus-Christ, l’esprit de prière, d’abnégation, de vigilance sur soi-même, de solides vertus en un mot. Développez avec non moins de soin dans leurs âmes la faim de l’Eucharistie. Puis excitez peu à peu ces jeunes gens à l’action sur leurs compagnons. Façonnez des apôtres francs, dévoués, bons, ardents, virils, sans étroite dévotion, pleins de tact, ne donnant jamais, sous prétexte de zèle, dans le triste travers d’épier leurs camarades. Avant deux ans, vous me direz s’il est encore besoin de cuivres ou de décor de théâtre pour obtenir une pêche fructueuse.
「よくわかりました――」それまで、だまってきいていた筆者は、このへんで先方の話をさえぎり、そしてたずねた。「たしかに、この精鋭の小さき群れは、パン全体をふくらますパンダネのようなものです。ですが、この精鋭の群れにぞくしていない他の人びと――たとえばです、わたしが計画している“会”にぞくすべき、あらゆる年令層の青少年たち、また、結婚している人たちにたいしては、いったいどのようにすればいいのでしょうか。こういうひとたちの霊魂を、前に申されました精鋭のグループの水準まで高めることは、とうていできない相談だと思うのですが……」
「いや、かれらにはまた、別な方法がありますよ。かれらに、強い強い信仰をあたえてやることです。かれらに、宗教のお話を、たびたびしてきかせることです。宗教のお話は、よく準備されたもの、興味が深くて、滋味に富んだものでなければなりません。それを、例えば冬の夕方などにされるといい。できるだけしばしば、おやりなさい。効果は、てきめんです。あなたの信者たちは、信仰の敵にたいして十分の備えをなし、世間に出なおしてまいります。会社や工場の仲間たちが、どんなに宗教をバカにしようと、かれらはみごとに敵どもをやっつけます。そればかりではありません。さらに恐るべきわるい新聞や、悪い書物の害毒にたいしても、十分に抵抗ができるでしょう。
確固たる宗教的信念を、信者の心にうえつける。もし必要とあれば、だれも恐れず、それを堂々と人まえに宣言できる、信仰のつよい信者をつくる。――これだけでも、すでに大成功ではありませんか。しかし、これだけで満足してはなりません。かれらを、もっと高い処までみちびく。かれらを、信心に――ほんとうの信心、あたたかい、確信のある、そして神学の教えに基づいた、あかるい信心にまでみちびいてやらなければならないんです。」
「では、最初から、どんな人でも、会に入れてよろしいのでしょうか」
「えりぬきの会員が、すこしでもできましたら、あとの数はたいして問題にはなりません。あなたの会が、大きくなるかならないかは、とりわけ、会の核心をなすこれらエリートの会員が、他におよぼす影響力のいかんにかかっています。さらに、エリートの会員たちの中心となるべき人物は、イエズスとマリアと、それにこのおふた方の道具ともなる、あなた自身なのです」
「会場は、それこそ貧弱だと思うのですが、もっと大きなのを造ることができるように、カネの集まるのを待たなければならないものでしょうか」
「とんでもない! りっぱな部屋とか豪壮な建物は、そりゃ初めのころ、生まれたばかりの事業のうえに、人びとの注意をひきつけるために、すこしぐらいは役に立つでしょう。チンドン屋の役ぐらいにはね。……だが、わたしはくり返して申します。もしあなたが、事業の根底に、内的生活を――熱烈で、完全で、積極的で、使徒的奮発心に富む内的生活をおきますなら、なあに、会の仕事をふだんやってのけるのに必要なだけの場所は、ちゃんとありますよ。いままで舞台や、楽器の置場や、その他、なにやかにやに使っていた、余分の場所が浮いてきますからね。そうこしているうち、騒々しい音響は、べつに大してよい効果もないということ、反対に、よい効果を収めるためには、騒々しい音響をたてる必要は、すこしもないということを、あなたはご自分でさとってまいりますよ。そのうえ、福音の精神をよく理解してまいりますと、会の出費もすくなくなり、反対に成績のほうはぐっとあがっていきますよ。
だが、何よりさきに、あなたは、あなた自身のからだを張って、支払いしなければなりません。といっても誤解してはいけませんよ。骨身をくだいて、芝居や運動会の準備をしなさい、とは申しません。いっそう骨を折って、あなた自身の霊魂に、祈りの生活を確保しなさい。内的生活をゆたかにしなさい、と申しているんです。なぜなら、次の点を、心に銘記してほしいからです。――あなたは、あなたがまず、イエズス・キリストをお愛しする、その愛の生活の強さに応じて、ただその愛の強さの度合いに応じてのみ、他人のうえにも、愛の炎を放射することができるんです。」
「結局、あなたは、内的生活のうえに、事業の土台をすえろ、とおっしゃるのですね」
「まさにそのとおり! わたしは、千たびもくり返して、そうだ、とお答えします。そうしなければ、せっかくの金山から、純金はとれませんからね。いつも、まぜ物ばかりですよ。とにかく、わたしを信用してください。長い年月をついやし、にがい失敗をいくたびも重ねて、ようやっと獲得した、貴重な体験ですからね。わたしが、青少年相手の事業にかんしていっていることは、同時にすべての使徒的事業にも、あてはめることができると思うんです。小教区の事業にも、神学校の養成事業にも、カトリック要理の授業にも、学校経営の事業にも、兵隊さんあいての事業にも、その他すべての会の事業にも。
ほんとうに超自然的精神に生かされている、ほんとうに内的生活に生かされている会は、どれほど大きな善を、世間の人びとに施すことができることでしょう。こういう会こそ、全能のちからをもったパンダネです。それが、世の救いの仕事に、人びとの救霊の事業に、どれほどみごとな成果を収めるかは、天使たちでなければわかりません。……。
ああ、布教事業にたずさわっている司祭、修道者たち、またいわゆるカトリック“事業家”たちが、自分らの手にしている、テコの偉力を知ることができましたら!そして、このテコの支点に、イエズスの聖心と、聖心との一致の生活をおくように、いっそう努力しさえしましたら!
ああ、そのとき、かれらは全国を、いや、全世界さえも、もちあげることができましょうに! そうですとも。悪魔とその加担者らの勢力にかかわらず、りっぱにそれをやってのけますとも!」