2017年9月30日(土)教会博士証聖者司祭聖ヒエロニモのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は2017年9月30日、聖ヒエロニモの祝日のミサを行なっています。教会博士、司祭、そして証聖者聖ヒエロニモです。
今日このミサの後には、この前の続きの公教要理があります。今日は衆議所について、あるいはできれば会堂、ユダヤの会堂とは何か、皆さんと一緒に学んでみたいと思います。
それから簡単な休憩を挟んで、15時からファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会があります。今日は皆さんのしもべがその会に参加する事ができるので、非常に楽しみにしています。
レネー神父様が10月15日主日にいらっしゃいますので、その聖歌の準備を皆さんと一緒にしようと思っています。ぜひ皆さん一緒に歌の練習をなさって下さい。
今回は音楽のプロの聖歌隊の方のなさるというよりは、むしろその歌の意味とか、そのどんなメッセージが含まれているのか、という事を主に黙想しながら、歌の練習をしたいと思っています。
“In medio ecclesiae aperuit os ejus,et implevit eum Dominus spiritu sapientiae et intellectus.”
「主は教会の中で彼の口を開き、彼を知恵で満たした。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヒエロニモの祝日で、私たちは皆さんの内の何名かは聖マリア大聖堂、ローマの大聖堂に行って、聖ヒエロニモの聖遺物がお墓があるそのまぐさ桶のすぐ近くに参りました。
聖ヒエロニモは教皇ダマソから命令を受けて、聖ダマソから命令を受けて、聖書をラテン語に翻訳する為に、聖書の研究の為に、その翻訳の為にベトレヘムで自分の居を備えて、そこで日夜、朝昼夜と聖書を勉強しながら訳しながら、一生を翻訳と聖書の解説に、その解釈と黙想に使いました。非常に頭の良い、恵まれた、主からの知恵と特別な恵みと知恵に満たされた聖人で、多くの影響をカトリック教会は受けています。その当時の生きていた聖アウグスティヌスも、その聖ヒエロニモを非常に尊敬していました。
聖ヒエロニモについて私たちは色々黙想する事ができますが、今日提案するのは、聖ヒエロニモがマテオの福音の18章の中でこう解説している時に、守護の天使について詳しい話を書き残しています。そしてこの聖ヒエロニモの権威ある証言はもちろん、教会の伝統聖伝をそのまま表明しているその教えは、カトリック教会の守護の天使に関する教えとして私たちに伝えられています。そして聖ヒエロニモの教えを聖トマス・アクィナスが非常にうまくまとめているので、私たちも聖ヒエロニモに従って今日はその記念日ですから、守護の天使について聖ヒエロニモの話を聞く事を提案します。
ちょうど昨日は大天使聖ミカエル、日本の守護の天使、そして10月2日明後日は守護の天使の祝日なので、聖ヒエロニモの話を聞くのはとてもふさわしい事だと思うのです。
では今回2点、聖ヒエロニモによれば、守護の天使というのは一体何で私たちに付けられたのか?不必要じゃないか?いや、必要なのだ。
また、守護の天使というのは一体どれだけ、どのような守護の天使が一体いつから、どうやって私たちに与えられているのか?という事を少し見て、
最後に私たちは、そこからどのような遷善の決心を立てなければならないかを黙想する事にします。
聖ヒエロニモの言った事を聖トマス・アクィナスがうまくまとめているので、それに従う事を許して下さい。
まず第1点は、守護の天使というのは私たちに与えられているのですけれども、それは聖書の、旧約の聖書から、あるいは詩編から、あるいは新約のイエズス様の言葉から分かるのですけれども、でもある人は守護の天使の事を全く忘れていたり、現代の人や、あるいは「守護の天使などいらないんじゃないか」と言う人もいます。
なぜかというと、「保護者がいるというのは小さな子供とか、まだ理性も分からないような赤ちゃんとか、あるいは体が弱い人とかで、でも人間はちゃんと天主様から理性が与えられていて、何が善であるか何が悪であるか分かるし、ちゃんと自分で行動する事ができるようにできているので、天使などはいらないんじゃないか」とか、あるいは「人間には天主様が直接守って下さるから、何で天使が必要なのか、余分じゃないか」とか、あるいは「天使がもしもいたとしたら、何で人間は天使が付いているにもかかわらず、永遠の滅びを受けてしまうのか。」そういう多くの人が地獄に落ちているという事を私たちは知っているので、「守護の天使というのはいないのではないか」という疑問を出す人がいます。
すると、「そうではない。守護の天使というのは私たちに必ず必要なのだ。なぜかというと、私たちは永遠の命の為に善を求めなければならない、善を愛さなければならない。でも残念ながら私たちは、情欲の為に、あるいはその強烈な感情の為に、動物的な感情の為に、その善への愛というものがかき乱されてしまう、あるいは見えなくなってしまう時があり得るし、また確かに、善というものが何かという事は理論では知っていても、具体的にそれをするという時になると、そこから外れてしまう危険性がある。だから私たちがその時に助けられるように、どうしても天主様は、守護の天使をも私たちに送って下さっている。」
「私たちが善を求める、善を愛する為には2つがある」と。これは聖トマス・アクィナスによると。
「1つは、私たちが善をするようにと傾いている、いつもそのように習慣付いている、いつもそうするのが好きだ、善をするのに慣れている。これは『善徳』と言われていて、徳である。」
「もう1つは、私たちが善を行う為に一番良い道を探す事ができる、という事である。この善をする為に一番良い道を見つける事ができるというのは、『賢明』である」と、2つを分けます。
善を良い事をするのが好きだという「習慣」と、良い事をどうやったら見い出す事ができるかという「賢明」の2つです。
「ところで、『良い事をするのが好きだ』というのは、それは天主様から直接に超自然の徳を与えられたり、あるいは聖霊の賜を与えられたりして助けられているけれども、『善の道を見い出す』というのは、これは天使によって委ねられている。天使が、『さぁ、この道を行ったらどうか』と私たちのガイドとして、道案内をしてくれるものが与えられている。」
「ですから、天主様が確かに私たちを守ってくれているけれども、更に守護の天使さえも与えられて、私たちの道が逸れないように天主様はして下さったのだ。もしも私たちが多くの人が地獄に落ちてしまっている事を知っていたとしても、だから天使たちが私たちに与えられていないとは限らない、その事の証明にはならない。なぜかというと私たちには『善を選ぶ』という本能が与えられて、『善が好きだ』というようなものが与えられているにもかかわらず、それを聞かないで『NO!』と言う事ができるのであるし、それと同じように、天使が私たちに特別に、『こうしたら良い』という事を目に見えない形で気付かせてくれたとしても、それを私たちが拒む事ができるから。そして多くの人々がそれを無視しているから。だから聖書の言う通り、私たちには天使が与えられているのだ。」
話はもっと進みます。「では天使が与えられているのは、一体どのような天使がどれだけ与えられているのか?」
「私たち一人一人に、一位の天使が与えられている。しかも、」聖ヒエロニモによれば、「洗礼を受けた時ではなくて、生まれた時から既に一位の天使が与えられている」と教えています。「そして確かにこれは正しい。なぜかというと、洗礼を受けた時には超自然の天主の賜が与えられ、あるいは御聖体が与えられるけれども、生まれた時にお母さんの胎内の外に出た時からは、天主様は私たちに特別の守護者を与えて下さる、保護者を与えて下さる。たとえまだ理性を使う事ができなかったとしても、生まれたその瞬間から、守護の天使が与えられる。」
「そして人間は『永遠』というものに向けられて創られているので、天主様の御摂理の中のその最も究極的な目的の為に向かっているので、他の永遠へと向かっていない者には与えられていないものが、永遠へと向かうように与えられている、守護の天使が与えられる。」
「更にそれだけでなく、その守護の天使というのは、9つの階級の一番下の天使が与えられるけれども、しかしもしも人間がグループを作った場合には、その団体にも守護の天使が与えられる。全ての人間に、例え洗礼を受けていなくても未信者であっても、あるいは反キリストであっても、あるいはイエズス様御自身も人間として、アダムとエヴァでも罪を犯す前から、守護の天使が与えられている」と教えています。
ではそれらは見て、私たちはどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
「私たちを創造して下さった天主様は、私たちが永遠の命に導かれるように全てを整えて、全てを準備して下さった。その為にあれも、これも、あれも、あれもして下さった。私たちをはるかに超える、知性も意思も力も能力もはるかにすぐれた天使が一位、私たち一人一人の為に与えられている、私たちの団体の為にも与えられている。何とかして天国に導こうと、天主様のみならず、守護の天使たちも一生懸命応援して下さって、お祈りしてくれて守ってくれている。たとえ私たちの目には見えなくても、私たちには特別の保護者がいる、擁護者がいる」という事を教会は教えています。
何というお恵み、何というプレゼントを私たちは、一人一人が生まれた時から頂いている事でしょうか。それにもかかわらず私たちは、守護の天使の事を知ってはいてもあまり気にせず、あるいは祈りもせず、あるいはこの主から天主様から頂いたお恵みを感謝もせずに、私たちはあたかも私たちだけでしかないように、動物のように、野獣のように生活しているのではないでしょうか。
今日は聖ヒエロニモの祝日、特に守護の天使たちも私たちをいつも守ってくれている、私たち一人一人に与えられている、という事を感謝致しましょう。そしてそのような事を教えてくれる教会の博士たちに感謝致しましょう。願わくは守護の天使が、あるいは日本の守護の天使が、私たち一人一人を導いて天国へと引導して下さいますように、天使たちの元后であるマリア様に特にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心教会にようこそ。
今日は2017年9月30日、聖ヒエロニモの祝日のミサを行なっています。教会博士、司祭、そして証聖者聖ヒエロニモです。
今日このミサの後には、この前の続きの公教要理があります。今日は衆議所について、あるいはできれば会堂、ユダヤの会堂とは何か、皆さんと一緒に学んでみたいと思います。
それから簡単な休憩を挟んで、15時からファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会があります。今日は皆さんのしもべがその会に参加する事ができるので、非常に楽しみにしています。
レネー神父様が10月15日主日にいらっしゃいますので、その聖歌の準備を皆さんと一緒にしようと思っています。ぜひ皆さん一緒に歌の練習をなさって下さい。
今回は音楽のプロの聖歌隊の方のなさるというよりは、むしろその歌の意味とか、そのどんなメッセージが含まれているのか、という事を主に黙想しながら、歌の練習をしたいと思っています。
“In medio ecclesiae aperuit os ejus,et implevit eum Dominus spiritu sapientiae et intellectus.”
「主は教会の中で彼の口を開き、彼を知恵で満たした。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヒエロニモの祝日で、私たちは皆さんの内の何名かは聖マリア大聖堂、ローマの大聖堂に行って、聖ヒエロニモの聖遺物がお墓があるそのまぐさ桶のすぐ近くに参りました。
聖ヒエロニモは教皇ダマソから命令を受けて、聖ダマソから命令を受けて、聖書をラテン語に翻訳する為に、聖書の研究の為に、その翻訳の為にベトレヘムで自分の居を備えて、そこで日夜、朝昼夜と聖書を勉強しながら訳しながら、一生を翻訳と聖書の解説に、その解釈と黙想に使いました。非常に頭の良い、恵まれた、主からの知恵と特別な恵みと知恵に満たされた聖人で、多くの影響をカトリック教会は受けています。その当時の生きていた聖アウグスティヌスも、その聖ヒエロニモを非常に尊敬していました。
聖ヒエロニモについて私たちは色々黙想する事ができますが、今日提案するのは、聖ヒエロニモがマテオの福音の18章の中でこう解説している時に、守護の天使について詳しい話を書き残しています。そしてこの聖ヒエロニモの権威ある証言はもちろん、教会の伝統聖伝をそのまま表明しているその教えは、カトリック教会の守護の天使に関する教えとして私たちに伝えられています。そして聖ヒエロニモの教えを聖トマス・アクィナスが非常にうまくまとめているので、私たちも聖ヒエロニモに従って今日はその記念日ですから、守護の天使について聖ヒエロニモの話を聞く事を提案します。
ちょうど昨日は大天使聖ミカエル、日本の守護の天使、そして10月2日明後日は守護の天使の祝日なので、聖ヒエロニモの話を聞くのはとてもふさわしい事だと思うのです。
では今回2点、聖ヒエロニモによれば、守護の天使というのは一体何で私たちに付けられたのか?不必要じゃないか?いや、必要なのだ。
また、守護の天使というのは一体どれだけ、どのような守護の天使が一体いつから、どうやって私たちに与えられているのか?という事を少し見て、
最後に私たちは、そこからどのような遷善の決心を立てなければならないかを黙想する事にします。
聖ヒエロニモの言った事を聖トマス・アクィナスがうまくまとめているので、それに従う事を許して下さい。
まず第1点は、守護の天使というのは私たちに与えられているのですけれども、それは聖書の、旧約の聖書から、あるいは詩編から、あるいは新約のイエズス様の言葉から分かるのですけれども、でもある人は守護の天使の事を全く忘れていたり、現代の人や、あるいは「守護の天使などいらないんじゃないか」と言う人もいます。
なぜかというと、「保護者がいるというのは小さな子供とか、まだ理性も分からないような赤ちゃんとか、あるいは体が弱い人とかで、でも人間はちゃんと天主様から理性が与えられていて、何が善であるか何が悪であるか分かるし、ちゃんと自分で行動する事ができるようにできているので、天使などはいらないんじゃないか」とか、あるいは「人間には天主様が直接守って下さるから、何で天使が必要なのか、余分じゃないか」とか、あるいは「天使がもしもいたとしたら、何で人間は天使が付いているにもかかわらず、永遠の滅びを受けてしまうのか。」そういう多くの人が地獄に落ちているという事を私たちは知っているので、「守護の天使というのはいないのではないか」という疑問を出す人がいます。
すると、「そうではない。守護の天使というのは私たちに必ず必要なのだ。なぜかというと、私たちは永遠の命の為に善を求めなければならない、善を愛さなければならない。でも残念ながら私たちは、情欲の為に、あるいはその強烈な感情の為に、動物的な感情の為に、その善への愛というものがかき乱されてしまう、あるいは見えなくなってしまう時があり得るし、また確かに、善というものが何かという事は理論では知っていても、具体的にそれをするという時になると、そこから外れてしまう危険性がある。だから私たちがその時に助けられるように、どうしても天主様は、守護の天使をも私たちに送って下さっている。」
「私たちが善を求める、善を愛する為には2つがある」と。これは聖トマス・アクィナスによると。
「1つは、私たちが善をするようにと傾いている、いつもそのように習慣付いている、いつもそうするのが好きだ、善をするのに慣れている。これは『善徳』と言われていて、徳である。」
「もう1つは、私たちが善を行う為に一番良い道を探す事ができる、という事である。この善をする為に一番良い道を見つける事ができるというのは、『賢明』である」と、2つを分けます。
善を良い事をするのが好きだという「習慣」と、良い事をどうやったら見い出す事ができるかという「賢明」の2つです。
「ところで、『良い事をするのが好きだ』というのは、それは天主様から直接に超自然の徳を与えられたり、あるいは聖霊の賜を与えられたりして助けられているけれども、『善の道を見い出す』というのは、これは天使によって委ねられている。天使が、『さぁ、この道を行ったらどうか』と私たちのガイドとして、道案内をしてくれるものが与えられている。」
「ですから、天主様が確かに私たちを守ってくれているけれども、更に守護の天使さえも与えられて、私たちの道が逸れないように天主様はして下さったのだ。もしも私たちが多くの人が地獄に落ちてしまっている事を知っていたとしても、だから天使たちが私たちに与えられていないとは限らない、その事の証明にはならない。なぜかというと私たちには『善を選ぶ』という本能が与えられて、『善が好きだ』というようなものが与えられているにもかかわらず、それを聞かないで『NO!』と言う事ができるのであるし、それと同じように、天使が私たちに特別に、『こうしたら良い』という事を目に見えない形で気付かせてくれたとしても、それを私たちが拒む事ができるから。そして多くの人々がそれを無視しているから。だから聖書の言う通り、私たちには天使が与えられているのだ。」
話はもっと進みます。「では天使が与えられているのは、一体どのような天使がどれだけ与えられているのか?」
「私たち一人一人に、一位の天使が与えられている。しかも、」聖ヒエロニモによれば、「洗礼を受けた時ではなくて、生まれた時から既に一位の天使が与えられている」と教えています。「そして確かにこれは正しい。なぜかというと、洗礼を受けた時には超自然の天主の賜が与えられ、あるいは御聖体が与えられるけれども、生まれた時にお母さんの胎内の外に出た時からは、天主様は私たちに特別の守護者を与えて下さる、保護者を与えて下さる。たとえまだ理性を使う事ができなかったとしても、生まれたその瞬間から、守護の天使が与えられる。」
「そして人間は『永遠』というものに向けられて創られているので、天主様の御摂理の中のその最も究極的な目的の為に向かっているので、他の永遠へと向かっていない者には与えられていないものが、永遠へと向かうように与えられている、守護の天使が与えられる。」
「更にそれだけでなく、その守護の天使というのは、9つの階級の一番下の天使が与えられるけれども、しかしもしも人間がグループを作った場合には、その団体にも守護の天使が与えられる。全ての人間に、例え洗礼を受けていなくても未信者であっても、あるいは反キリストであっても、あるいはイエズス様御自身も人間として、アダムとエヴァでも罪を犯す前から、守護の天使が与えられている」と教えています。
ではそれらは見て、私たちはどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?
「私たちを創造して下さった天主様は、私たちが永遠の命に導かれるように全てを整えて、全てを準備して下さった。その為にあれも、これも、あれも、あれもして下さった。私たちをはるかに超える、知性も意思も力も能力もはるかにすぐれた天使が一位、私たち一人一人の為に与えられている、私たちの団体の為にも与えられている。何とかして天国に導こうと、天主様のみならず、守護の天使たちも一生懸命応援して下さって、お祈りしてくれて守ってくれている。たとえ私たちの目には見えなくても、私たちには特別の保護者がいる、擁護者がいる」という事を教会は教えています。
何というお恵み、何というプレゼントを私たちは、一人一人が生まれた時から頂いている事でしょうか。それにもかかわらず私たちは、守護の天使の事を知ってはいてもあまり気にせず、あるいは祈りもせず、あるいはこの主から天主様から頂いたお恵みを感謝もせずに、私たちはあたかも私たちだけでしかないように、動物のように、野獣のように生活しているのではないでしょうか。
今日は聖ヒエロニモの祝日、特に守護の天使たちも私たちをいつも守ってくれている、私たち一人一人に与えられている、という事を感謝致しましょう。そしてそのような事を教えてくれる教会の博士たちに感謝致しましょう。願わくは守護の天使が、あるいは日本の守護の天使が、私たち一人一人を導いて天国へと引導して下さいますように、天使たちの元后であるマリア様に特にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。