アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様
聖金曜日です。予定が遅れてしまいましたが、枝の主日のレネー神父様がなさったお説教の日本語訳をご紹介します。お説教を日本語にすばらしく訳してくださる信徒会長様には、心から感謝します。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
+++++
キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京)
親愛なる兄弟のみなさん、
今日群衆は「ダヴィドの子にホザンナ」(マテオ21章9節)と叫んで、私たちの主イエズス・キリストが王であることを歓喜の声で宣言します。しかし私たちの主は謙遜な方で、驢馬にまたがっておられます。ご自分を守る軍隊を持っていらっしゃる訳でもありません。私たちは、私たちの主イエズス・キリストが卑下(ひげ)されたこと、とくに御受難の際にお示しになった驚くべき卑下(ひげ)、すなわち「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人2章8節)ことを、いつも考えることには慣れています。しかし私たちの主の偉大さの方を忘れてしまいがちではないでしょうか。聖パウロはその節の冒頭で、「かれは、本性として神であった」(フィリッピ人2章6節)と言っているのです。この本性という言葉は哲学の用語で、本質のことを意味しています。キリストは天主の本質をもっておられるのです!
天主の偉大さについて、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で美しい描写をしています。このヘブライ人への手紙の書き方が聖パウロの他の手紙と違うところは、おそらく聖パウロが自分と同じヘブライ人達に対して話しかけているということ、つまりヘブライ人達が異教からの改宗者達よりも旧約聖書のことについてずっとよく知っていることを意識して書いていることです。ここでの聖パウロは、ガマリエルの下で学び(使徒行録22章3節)、「先祖の伝えにたいして非常に熱心で、同族の同年輩の多くの人々よりも、ユダヤ教の教えにすすんでいた」(ガラツィア人1章14節)ユダヤ人の律法学者サウロとして語っています。このヘブライ人への手紙では、聖パウロは他のどの手紙よりも多くの旧約からの引用を行ないますが、それは手紙を読む人達が自分の引用する聖書の箇所の背景に通じていることを前提として書いているからです。
聖パウロは長さの異なる三つの論を述べますが、それは全て新約が旧約にまさっていることの証明をするためのものです。聖パウロはまずイエズスを旧約での仲介者であった天使と比較してこう言います:「神はどんな天使にむかって、『あなたは私の子である、私は今日あなたを産んだ』、また『私はかれの父となり、かれは私の子となる』とおおせられたことがあろうか。」(ヘブライ人1章5節)と。聖パウロはここで詩編の第2篇と第88篇とを引用していますが、共にメシアがまさに天主の御子であることを明確に預言しているものです!彼こそが本性において子であり、それゆえに父と同じ天主の本性、即ち神性をもっているのです。なぜなら父から生まれる子は父と同じ本性を持っているからであって、そうでなければその子は怪物ということになってしまうでしょう。これによってメシアが全ての天使にまさるものであることが示されます。
聖パウロは続けます。「そして神は、長子をこの世に入れられたとき、『神のすべての天使は、かれを礼拝せよ』とおおせられた。」(ヘブライ人1章6節)と。ここで聖パウロは詩編第96篇を引用しています。もし全ての天使がメシアを礼拝せねばならないのであれば、メシアは全ての天使にまさるものであって、造られたものではなく、また天使達は創造物の中で至高のものであるから、メシアは創造主ご自身である、と言います。天使達は最初に次のように試されました。すなわち天主は天使達を創造されるとすぐ、天使達に御托身の計画を明かされました。良い天使達は、私たちの主イエズス・キリストにお仕えするため、すぐさま自分自身をお捧げしました。このような天使達が実際に主にお仕えするところを福音の中に見ることができます。例えば大天使ガブリエル、あるいは砂漠での試みの後、また十字架上でのお苦しみの間などです。良い天使達は、メシアが真の天主、真の人であることを信じ、自分たちがメシアにお仕えしてメシアを礼拝することに同意したと同時にその報いを受け、直接天国に行きました。悪い天使達はキリストを礼拝せよとの天主の命を拒み、悪魔とともに「ノーン・セルビアム―もうお仕えしない。」(エレミア2章20節)と言って、直ちに地獄に送られるという罰を受けました。
次に聖パウロは、王と王妃、花婿と花嫁、王たるキリストと王妃である教会、王妃であるマリアについて書かれた詩編第44篇を引用しています。この詩編はユダヤ人達によってメシアのことについて書かれていると広く認められていた大変美しい詩編です。この詩編では、王のことについて、「神よ、あなたの王座は世々とこしえにあり、あなたの王国の笏(しゃく)は正義の笏(しゃく)である。」(ヘブライ人1章8節)と書かれています。この詩編の作者は王に対して、『神よ』と呼びかけるのです!
異教徒の人達がキリストの神性を否定するのは無知によるものです。私たちには、彼らが真の知識を得るのを助ける義務があります。しかし、いわゆるキリスト教徒、例えばエホバの証人の人達がキリストの神性を否定するのはずっと深刻なことであって、冒涜にあたります。私たちが今見たように、聖書には明らかにキリストの神性、すなわちキリストが真の天主であり、真の人であることの証明が載っており、彼らはこれを知っているべきであるからです。
このように、私たちの主イエズス・キリストは天主の御子であり、真の天主であって、至高の天使に無限にまさるお方です。ヘブライ人への手紙の続く章で聖パウロは次の結論を導きます。即ち、天使によって命じられていた古い律法の下でそれに反抗する者達がその場で罰を受けたのであれば、真の天主、真の人である私たちの主イエズス・キリストによって命じられる新しい律法に、どれほどより忠実に従わねばならないであろうか、と。
聖パウロはさらに続けて、キリストと、天主の古い律法をヘブライ人達に伝えたモイゼとを比べます。モイゼは天主の家の「忠実なしもべ」でした。天主の家というのは当時のイスラエルの民のことであり、現在ではカトリック教会のことです。しかし、私たちの主イエズス・キリストがこの家におられるのは子として、さらにはこの家の造り主としてです。聖パウロは「キリストが私たちを造られたから」と言うのです!まことに聖ヨハネは「万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1章3節)と言っています。また聖パウロ自身もヘブライ人への手紙の冒頭でこう言っています。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの[神の]みいつの右にすわられた。」(ヘブライ人1章2-3節)ですから、家の造り主が家のしもべにまさっているように、キリストはモイゼにまさっておられるのです。
そしてこのヘブライ人への手紙の残りの部分では、私たちの主イエズス・キリストと、旧約の最初の大司祭であったアアロンとが比べられています。まず聖パウロは、司祭の定義をして、イエズスが司祭であることを示します。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、神に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものといけにえとをささげるためである。かれも弱さに包まれているのだから、無知な者と迷う人々とに同情することができる。そのために、かれは、人々のため、自分のために、罪について犠(いけに)えをささげる義務がある。そして、アアロンのように神に召されたもの以外は、この誉れを自分でうけることができない。キリストも大司祭となる誉れを自分でうけられたのではなく、こうかれにおおせられたお方によって立てられた、『あなたは私の子である。私は今日あなたを生んだ』。他のところでは、『あなたはメルキセデクの位(くらい)にひとしく、永遠の司祭である』といわれている。」(ヘブライ人5章1-6節)これは詩編第109篇からの引用で、主日や全ての祝日の晩課に含まれているものです。メルキセデクの名は旧約聖書全体の中で、ただ2度しか登場しません!一度目はアブラハムの勝利の後、メルキセデクは感謝の生け贄を捧げ、アブラハムを祝福し、アブラハムからすべてのものの十分の一を受け取りました。二度目はこの詩編の中で、メシアは「メルキセデクの位に等し」い永遠の祭司であるとダヴィドが預言した箇所です。そして聖パウロはヘブライ人への手紙の中で、この二つの短い記述から全く驚くべき結論を導き出すのです!
人類が始まった時、長男は父から王権、司祭職と倍の相続権を引き継ぎました。しかしモイゼから後、古い律法が与えられてからは司祭職と王権とは切り離されました。王はユダ族から(例えばダヴィドが)、司祭はレヴィ族から(例えばアアロンが)選ばれました。ダヴィド王は、メシアが再びこの二つを結びつけ、メシアが至高の王であるばかりでなく大司祭でもあることを、預言の光の中に見るのです!
次に聖パウロはキリストがアアロンよりもずっとまさっていることを示します。アブラハムがメルキセデクに十分の一を払い、メルキセデクから祝福をうけた時、アアロンや全てのレヴィ族の人々は「まだ生まれていなかったから」です。十分の一を受ける者は十分の一を払う者よりもまさっており、祝福を与える者は祝福を受ける者よりもまさっています(第7章)。司祭職が変われば、儀式に関する法や司法に関する法も変わらなくてはなりません。なぜなら旧約における司祭の義務は儀式や司法に関するものだったからです。このようにして、聖パウロは旧約の儀式や司法に関する法は新約の下ではもう適用されないことを示します(ただ倫理に関する法、例えば十戒やその他倫理的な教えはそのまま適用され、旧約の下よりも新約の下ではより高い聖性が求められます)。まことに、古い律法によって定めされた旧約はキリストと共に終わりを告げ、新しい永遠の契約が私たちの主イエズス・キリストによって定められました。この契約はずっと完全な契約、即ち、新しいものを告げるかたどりや将来起こることの前触れに過ぎないものではなく、赦しと救いという事実そのものなのです。
聖トマスは、御聖体におけるキリストの現存を次のように証明します:聖トマスは、犠牲のいけにえ、即ちキリストご自身の御体と御血が単なるかたどりではなく、現実に存在するということは、旧約に対する新約の完成による、とします。御聖体にキリストが現存するという事実を否定するプロテスタント教徒達は、旧約に戻ってしまい、事実上新約を否定してしまっています。
事実、聖パウロはこのヘブライ人への手紙の続きで、もしキリストが司祭であるならば、キリストは何かを捧げている筈だ、と説明します。キリストは何を捧げるのでしょうか?キリストご自身の御体と御血です(第9章・第10章)。パウロの結論は次の通りです。「山羊と牡牛(おうし)の血、牝牛(めうし)の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。そのためにかれは、新しい契約の仲立ちであって、前の契約のときの違反をあがなうために死なれた。それは、選ばれた人々に、約束された永遠の遺産をうけつがせるためである。」(ヘブライ人9章13-15節)
キリストの犠牲は完全なものです。それ以外の犠牲は必要ありません。これこそが唯一かつ完全な犠牲です。私たちはみなこの犠牲を必要としています。そこで私たちの主イエズス・キリストは御聖体を制定され、キリストの唯一の犠牲が全ての新約の祭壇の上に存在し、奉献されるようにしてくださいました。主はご自分の犠牲をご自分の教会に与えられ、いやむしろ、ご自分の司祭達の奉仕を通して、選ばれた者のうち最後の者があがなわれるまで、ご自分の唯一の犠牲を捧げ続けていらっしゃるのです。
聖パウロは主日の礼拝―ミサのこと―について第10章で取り上げています。「約束されたお方は忠実であるから、私たちは、宣言した希望にしっかりとふみとどまり、愛と善とをたがいにはげましあうように、注意しよう。ある人々の習慣をまねて、集会をおろそかにすることなく、たがいにすすめあおう。かの日が近づくのを見て、なおさらそうせよ。私たちが、もし、真理を深く知ってのち、故意に罪をおかすなら、罪のためのいけにえはもうのこらない。ただ、審判のおそるべき待期(たいき)と、反逆者をやきつくす復讐の火だけがのこる。」(ヘブライ人10章23-27節)聖パウロが「集会をおろそかにすることなく」と言っているのは、信者に主日のミサの義務について注意しているのです。聖パウロはまた、主日の義務を果たさない「習慣」のある人々は「真理を深く知ってのち、故意に罪をおかす」のだと言っています。そのような人々には「罪のためのいけにえはもうのこらない」、つまり自分たちが捨ててしまっている唯一の犠牲以外の犠牲はない、と言っているのです。実際それに続いて、聖パウロはこのような人々はキリストの御血そのものを見くびってしまったとします:「それならなおさら考えよ。神の子をふみつけ、自分が聖とされた契約の血をけがし、恩寵の霊を侮(あなど)った者の罰は、どれほどひどかろうかと。『仇(あだ)は私がとる。報いるのは私である』、また『主はその民を裁く』とおおせられたお方を私たちは知っている。生きる神のおん手におちるのは、おそろしいことである。」(ヘブライ人10章29-31節)この節は簡単ではありませんが、これがミサの犠牲としての性質とキリストの御血の現存を教えていることはおわかりいただけるでしょう。しかし警告されていることは明らかです:罪は恐ろしいことであり、御聖体への不敬も恐るべきことで、恐ろしい罰が下されるということです。
このヘブライ人への手紙の最後の箇所で―その前には大変重要な教えが沢山あるのですが、今日全てについてお話しすることはできませんので―聖パウロはミサが犠牲であると非常に明白に言っています:「私たちは祭壇をもっているが、幕屋に奉仕する人々は、祭壇のものを食べる権利がない。」(ヘブライ人13章10節)今犠牲が捧げられる「祭壇」とは何でしょうか?旧約の「幕屋」では何が行なわれたのでしょうか:様々な犠牲の奉献です。私たちは祭壇を持っており、これが教会の中心です。プロテスタント教徒は祭壇を持っていません。したがって彼らはキリストに忠実ではないのです。しかし、近代主義者達はこの教会の中心そのものを攻撃し、ミサの犠牲としての性質を隠したり、否定したりもしてきました。こうしてみると、教会の中心自体が攻撃されたのですから、教会に沢山の問題があっても驚くにはあたりません。
これらすべてのことを考え、私たちの主イエズス・キリストの偉大さを、よりうやまうようにいたしましょう。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、御父の独り子、真の天主かつ真の人であり、また仲介者、救い主、大祭司、至高の王でもあるのですから。
私たちが主の偉大さを知ると、主の謙遜について黙想するとき、より大きな驚きを感じます。そして私たちがこの大祭司、汚れなき生け贄になられたお方について知るとき、十字架とミサの犠牲の価値をもっとよく理解することができるようになるのです!
私たちが私たちの主イエズス・キリストをさらによく知り、愛し、忠実にお仕えし、聖父と聖霊と共に永遠に統治しておられる天国で私たちが主を目の当たりにすることができるよう、私たちの主イエズス・キリストの偉大さと謙遜とを共に完全に知っておられた童貞聖マリアが、いつも私たちを助けてくださいますように。アーメン。
============
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい
============
사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
임시 웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA
聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。
今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。
愛する兄弟姉妹の皆様
聖金曜日です。予定が遅れてしまいましたが、枝の主日のレネー神父様がなさったお説教の日本語訳をご紹介します。お説教を日本語にすばらしく訳してくださる信徒会長様には、心から感謝します。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
+++++
キリストの偉大さについて(4月12日土曜日―大阪、枝の主日―東京)
親愛なる兄弟のみなさん、
今日群衆は「ダヴィドの子にホザンナ」(マテオ21章9節)と叫んで、私たちの主イエズス・キリストが王であることを歓喜の声で宣言します。しかし私たちの主は謙遜な方で、驢馬にまたがっておられます。ご自分を守る軍隊を持っていらっしゃる訳でもありません。私たちは、私たちの主イエズス・キリストが卑下(ひげ)されたこと、とくに御受難の際にお示しになった驚くべき卑下(ひげ)、すなわち「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人2章8節)ことを、いつも考えることには慣れています。しかし私たちの主の偉大さの方を忘れてしまいがちではないでしょうか。聖パウロはその節の冒頭で、「かれは、本性として神であった」(フィリッピ人2章6節)と言っているのです。この本性という言葉は哲学の用語で、本質のことを意味しています。キリストは天主の本質をもっておられるのです!
天主の偉大さについて、聖パウロはヘブライ人への手紙の中で美しい描写をしています。このヘブライ人への手紙の書き方が聖パウロの他の手紙と違うところは、おそらく聖パウロが自分と同じヘブライ人達に対して話しかけているということ、つまりヘブライ人達が異教からの改宗者達よりも旧約聖書のことについてずっとよく知っていることを意識して書いていることです。ここでの聖パウロは、ガマリエルの下で学び(使徒行録22章3節)、「先祖の伝えにたいして非常に熱心で、同族の同年輩の多くの人々よりも、ユダヤ教の教えにすすんでいた」(ガラツィア人1章14節)ユダヤ人の律法学者サウロとして語っています。このヘブライ人への手紙では、聖パウロは他のどの手紙よりも多くの旧約からの引用を行ないますが、それは手紙を読む人達が自分の引用する聖書の箇所の背景に通じていることを前提として書いているからです。
聖パウロは長さの異なる三つの論を述べますが、それは全て新約が旧約にまさっていることの証明をするためのものです。聖パウロはまずイエズスを旧約での仲介者であった天使と比較してこう言います:「神はどんな天使にむかって、『あなたは私の子である、私は今日あなたを産んだ』、また『私はかれの父となり、かれは私の子となる』とおおせられたことがあろうか。」(ヘブライ人1章5節)と。聖パウロはここで詩編の第2篇と第88篇とを引用していますが、共にメシアがまさに天主の御子であることを明確に預言しているものです!彼こそが本性において子であり、それゆえに父と同じ天主の本性、即ち神性をもっているのです。なぜなら父から生まれる子は父と同じ本性を持っているからであって、そうでなければその子は怪物ということになってしまうでしょう。これによってメシアが全ての天使にまさるものであることが示されます。
聖パウロは続けます。「そして神は、長子をこの世に入れられたとき、『神のすべての天使は、かれを礼拝せよ』とおおせられた。」(ヘブライ人1章6節)と。ここで聖パウロは詩編第96篇を引用しています。もし全ての天使がメシアを礼拝せねばならないのであれば、メシアは全ての天使にまさるものであって、造られたものではなく、また天使達は創造物の中で至高のものであるから、メシアは創造主ご自身である、と言います。天使達は最初に次のように試されました。すなわち天主は天使達を創造されるとすぐ、天使達に御托身の計画を明かされました。良い天使達は、私たちの主イエズス・キリストにお仕えするため、すぐさま自分自身をお捧げしました。このような天使達が実際に主にお仕えするところを福音の中に見ることができます。例えば大天使ガブリエル、あるいは砂漠での試みの後、また十字架上でのお苦しみの間などです。良い天使達は、メシアが真の天主、真の人であることを信じ、自分たちがメシアにお仕えしてメシアを礼拝することに同意したと同時にその報いを受け、直接天国に行きました。悪い天使達はキリストを礼拝せよとの天主の命を拒み、悪魔とともに「ノーン・セルビアム―もうお仕えしない。」(エレミア2章20節)と言って、直ちに地獄に送られるという罰を受けました。
次に聖パウロは、王と王妃、花婿と花嫁、王たるキリストと王妃である教会、王妃であるマリアについて書かれた詩編第44篇を引用しています。この詩編はユダヤ人達によってメシアのことについて書かれていると広く認められていた大変美しい詩編です。この詩編では、王のことについて、「神よ、あなたの王座は世々とこしえにあり、あなたの王国の笏(しゃく)は正義の笏(しゃく)である。」(ヘブライ人1章8節)と書かれています。この詩編の作者は王に対して、『神よ』と呼びかけるのです!
異教徒の人達がキリストの神性を否定するのは無知によるものです。私たちには、彼らが真の知識を得るのを助ける義務があります。しかし、いわゆるキリスト教徒、例えばエホバの証人の人達がキリストの神性を否定するのはずっと深刻なことであって、冒涜にあたります。私たちが今見たように、聖書には明らかにキリストの神性、すなわちキリストが真の天主であり、真の人であることの証明が載っており、彼らはこれを知っているべきであるからです。
このように、私たちの主イエズス・キリストは天主の御子であり、真の天主であって、至高の天使に無限にまさるお方です。ヘブライ人への手紙の続く章で聖パウロは次の結論を導きます。即ち、天使によって命じられていた古い律法の下でそれに反抗する者達がその場で罰を受けたのであれば、真の天主、真の人である私たちの主イエズス・キリストによって命じられる新しい律法に、どれほどより忠実に従わねばならないであろうか、と。
聖パウロはさらに続けて、キリストと、天主の古い律法をヘブライ人達に伝えたモイゼとを比べます。モイゼは天主の家の「忠実なしもべ」でした。天主の家というのは当時のイスラエルの民のことであり、現在ではカトリック教会のことです。しかし、私たちの主イエズス・キリストがこの家におられるのは子として、さらにはこの家の造り主としてです。聖パウロは「キリストが私たちを造られたから」と言うのです!まことに聖ヨハネは「万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。」(ヨハネ1章3節)と言っています。また聖パウロ自身もヘブライ人への手紙の冒頭でこう言っています。「このおわりの日々には、子を万物の世つぎと定め、また、よってもって万物をつくられたその子を通じて語られた。神の光栄のかがやき、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪のきよめをおこなって、高いところの[神の]みいつの右にすわられた。」(ヘブライ人1章2-3節)ですから、家の造り主が家のしもべにまさっているように、キリストはモイゼにまさっておられるのです。
そしてこのヘブライ人への手紙の残りの部分では、私たちの主イエズス・キリストと、旧約の最初の大司祭であったアアロンとが比べられています。まず聖パウロは、司祭の定義をして、イエズスが司祭であることを示します。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、神に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものといけにえとをささげるためである。かれも弱さに包まれているのだから、無知な者と迷う人々とに同情することができる。そのために、かれは、人々のため、自分のために、罪について犠(いけに)えをささげる義務がある。そして、アアロンのように神に召されたもの以外は、この誉れを自分でうけることができない。キリストも大司祭となる誉れを自分でうけられたのではなく、こうかれにおおせられたお方によって立てられた、『あなたは私の子である。私は今日あなたを生んだ』。他のところでは、『あなたはメルキセデクの位(くらい)にひとしく、永遠の司祭である』といわれている。」(ヘブライ人5章1-6節)これは詩編第109篇からの引用で、主日や全ての祝日の晩課に含まれているものです。メルキセデクの名は旧約聖書全体の中で、ただ2度しか登場しません!一度目はアブラハムの勝利の後、メルキセデクは感謝の生け贄を捧げ、アブラハムを祝福し、アブラハムからすべてのものの十分の一を受け取りました。二度目はこの詩編の中で、メシアは「メルキセデクの位に等し」い永遠の祭司であるとダヴィドが預言した箇所です。そして聖パウロはヘブライ人への手紙の中で、この二つの短い記述から全く驚くべき結論を導き出すのです!
人類が始まった時、長男は父から王権、司祭職と倍の相続権を引き継ぎました。しかしモイゼから後、古い律法が与えられてからは司祭職と王権とは切り離されました。王はユダ族から(例えばダヴィドが)、司祭はレヴィ族から(例えばアアロンが)選ばれました。ダヴィド王は、メシアが再びこの二つを結びつけ、メシアが至高の王であるばかりでなく大司祭でもあることを、預言の光の中に見るのです!
次に聖パウロはキリストがアアロンよりもずっとまさっていることを示します。アブラハムがメルキセデクに十分の一を払い、メルキセデクから祝福をうけた時、アアロンや全てのレヴィ族の人々は「まだ生まれていなかったから」です。十分の一を受ける者は十分の一を払う者よりもまさっており、祝福を与える者は祝福を受ける者よりもまさっています(第7章)。司祭職が変われば、儀式に関する法や司法に関する法も変わらなくてはなりません。なぜなら旧約における司祭の義務は儀式や司法に関するものだったからです。このようにして、聖パウロは旧約の儀式や司法に関する法は新約の下ではもう適用されないことを示します(ただ倫理に関する法、例えば十戒やその他倫理的な教えはそのまま適用され、旧約の下よりも新約の下ではより高い聖性が求められます)。まことに、古い律法によって定めされた旧約はキリストと共に終わりを告げ、新しい永遠の契約が私たちの主イエズス・キリストによって定められました。この契約はずっと完全な契約、即ち、新しいものを告げるかたどりや将来起こることの前触れに過ぎないものではなく、赦しと救いという事実そのものなのです。
聖トマスは、御聖体におけるキリストの現存を次のように証明します:聖トマスは、犠牲のいけにえ、即ちキリストご自身の御体と御血が単なるかたどりではなく、現実に存在するということは、旧約に対する新約の完成による、とします。御聖体にキリストが現存するという事実を否定するプロテスタント教徒達は、旧約に戻ってしまい、事実上新約を否定してしまっています。
事実、聖パウロはこのヘブライ人への手紙の続きで、もしキリストが司祭であるならば、キリストは何かを捧げている筈だ、と説明します。キリストは何を捧げるのでしょうか?キリストご自身の御体と御血です(第9章・第10章)。パウロの結論は次の通りです。「山羊と牡牛(おうし)の血、牝牛(めうし)の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。そのためにかれは、新しい契約の仲立ちであって、前の契約のときの違反をあがなうために死なれた。それは、選ばれた人々に、約束された永遠の遺産をうけつがせるためである。」(ヘブライ人9章13-15節)
キリストの犠牲は完全なものです。それ以外の犠牲は必要ありません。これこそが唯一かつ完全な犠牲です。私たちはみなこの犠牲を必要としています。そこで私たちの主イエズス・キリストは御聖体を制定され、キリストの唯一の犠牲が全ての新約の祭壇の上に存在し、奉献されるようにしてくださいました。主はご自分の犠牲をご自分の教会に与えられ、いやむしろ、ご自分の司祭達の奉仕を通して、選ばれた者のうち最後の者があがなわれるまで、ご自分の唯一の犠牲を捧げ続けていらっしゃるのです。
聖パウロは主日の礼拝―ミサのこと―について第10章で取り上げています。「約束されたお方は忠実であるから、私たちは、宣言した希望にしっかりとふみとどまり、愛と善とをたがいにはげましあうように、注意しよう。ある人々の習慣をまねて、集会をおろそかにすることなく、たがいにすすめあおう。かの日が近づくのを見て、なおさらそうせよ。私たちが、もし、真理を深く知ってのち、故意に罪をおかすなら、罪のためのいけにえはもうのこらない。ただ、審判のおそるべき待期(たいき)と、反逆者をやきつくす復讐の火だけがのこる。」(ヘブライ人10章23-27節)聖パウロが「集会をおろそかにすることなく」と言っているのは、信者に主日のミサの義務について注意しているのです。聖パウロはまた、主日の義務を果たさない「習慣」のある人々は「真理を深く知ってのち、故意に罪をおかす」のだと言っています。そのような人々には「罪のためのいけにえはもうのこらない」、つまり自分たちが捨ててしまっている唯一の犠牲以外の犠牲はない、と言っているのです。実際それに続いて、聖パウロはこのような人々はキリストの御血そのものを見くびってしまったとします:「それならなおさら考えよ。神の子をふみつけ、自分が聖とされた契約の血をけがし、恩寵の霊を侮(あなど)った者の罰は、どれほどひどかろうかと。『仇(あだ)は私がとる。報いるのは私である』、また『主はその民を裁く』とおおせられたお方を私たちは知っている。生きる神のおん手におちるのは、おそろしいことである。」(ヘブライ人10章29-31節)この節は簡単ではありませんが、これがミサの犠牲としての性質とキリストの御血の現存を教えていることはおわかりいただけるでしょう。しかし警告されていることは明らかです:罪は恐ろしいことであり、御聖体への不敬も恐るべきことで、恐ろしい罰が下されるということです。
このヘブライ人への手紙の最後の箇所で―その前には大変重要な教えが沢山あるのですが、今日全てについてお話しすることはできませんので―聖パウロはミサが犠牲であると非常に明白に言っています:「私たちは祭壇をもっているが、幕屋に奉仕する人々は、祭壇のものを食べる権利がない。」(ヘブライ人13章10節)今犠牲が捧げられる「祭壇」とは何でしょうか?旧約の「幕屋」では何が行なわれたのでしょうか:様々な犠牲の奉献です。私たちは祭壇を持っており、これが教会の中心です。プロテスタント教徒は祭壇を持っていません。したがって彼らはキリストに忠実ではないのです。しかし、近代主義者達はこの教会の中心そのものを攻撃し、ミサの犠牲としての性質を隠したり、否定したりもしてきました。こうしてみると、教会の中心自体が攻撃されたのですから、教会に沢山の問題があっても驚くにはあたりません。
これらすべてのことを考え、私たちの主イエズス・キリストの偉大さを、よりうやまうようにいたしましょう。私たちの主イエズス・キリストは真の天主、御父の独り子、真の天主かつ真の人であり、また仲介者、救い主、大祭司、至高の王でもあるのですから。
私たちが主の偉大さを知ると、主の謙遜について黙想するとき、より大きな驚きを感じます。そして私たちがこの大祭司、汚れなき生け贄になられたお方について知るとき、十字架とミサの犠牲の価値をもっとよく理解することができるようになるのです!
私たちが私たちの主イエズス・キリストをさらによく知り、愛し、忠実にお仕えし、聖父と聖霊と共に永遠に統治しておられる天国で私たちが主を目の当たりにすることができるよう、私たちの主イエズス・キリストの偉大さと謙遜とを共に完全に知っておられた童貞聖マリアが、いつも私たちを助けてくださいますように。アーメン。
============
にほんブログ村のランキングです。クリックで応援して下さい
============
사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
임시 웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA
聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。
今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。