アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
イエズス・キリストの使徒職に参加する人は、ただおのれを聖性のうちに、安全に確保するだけでは足りない。なお一歩すすんで、聖性に進歩しなければならぬ。これは、聖主のあきらかなご要求である。それを実証する聖書の言葉はおおい。ティトや、ティモテオにあてた聖パウロの書簡にも、アジアの諸司教にあてた聖ヨハネの黙示録にも、そのことが、うらがきされている。
他方において、天主は使徒たちに、“事業”を、お望みになる。
このことは、本書の初めにも書いておいた。
であるから、ここに一人の使徒職専従者がいて、「使徒的事業は、それ自体、われわれの聖性達成に、障害となる。なるほどそれは、天主のみ旨から出るにはちがいなかろうが、同時に、完徳の頂きにむかってのわれわれの行進を、必然的にゆるやかにするものだ」などというなら、それは天主の知恵にたいして、天主の善良にたいして、天主の摂理にたいして、たいへんな侮辱をくわえ、ひじょうな冒瀆をあびせるものであることを、覚悟しなければならぬ。
相互に矛盾し、衝突する二箇の命題が、ここにある。
その一つは、こうだ。
「およそ、使徒職に専従する人は、いつも、おのれの救霊と霊的進歩を、気にかけていなければならぬ。さて、使徒職は、それがどんな形式のものであれ、もし天主のみ旨から出るものであれば、それ自体、使徒職にたずさわっている人が、常時にひたっていなければならぬ堅実な聖性のふんい気を、絶対に悪化させるものではない。そればかりか、活動に要求される条件を具備していとなまれるとき、それは当人にとって、聖性を達成するための、最も有力な手段でさえある」
命題の他の一つは、こうだ。
「自分は、天主の協力者となるように、天主から選ばれた。したがって、天主のこの召し出しに応ずる義務がある。さて、天主から命ぜられた、これこれの事業を遂行するためには、これこれの活動をしなければならぬ。これこれの苦悩をしのび、これこれの心配をしなければならぬ。だから、自分はりっぱに、正当に、申しひらきができるのだ。――私はとうてい、自分自身の聖性達成に、没頭している余裕なんかないのだ、と」
つまり、一方では、使徒的事業は、聖性達成への手段であるといい、他方では、このおなじ事業が、聖性達成の放棄への、正しい理由になるという。
さて、天主のご計画が、りっぱに実現するためには、右のジレンマをみごとに解決してくれる、なにかすばらしい結論がなければならぬ。その結論というのは、こうである。
「天主は、そのお選びになった使徒たちに、必要な恩寵をお与えになり、この恩寵によって、かれらが、その多忙をきわめた活動のさなかにあっても、ただおのれの救霊を安全に確保することができるばかりでなく、なおそのうえ、おのれの聖性を達成することもできるほど、善徳の獲得を可能にしてやらなければならない義務を、ご自分のうえに、おせおいにならなければならぬ」
天主は、聖ベルナルドや、聖フランシスコ・ザベリオのような大聖人に、かれらの使命を完全に遂行するために必要な恩寵はみんな、おあたえになった。このおなじ恩寵、同じ天主の助けをこそ、たとえ程度の差はあっても、しかし必要なだけは、どんな使徒的人物にも、天主はおあたえにならなければならないのである。いちばん貧弱な、福音の働き手にも。いちばんつまらない、修道者の教師にも。いちばんお粗末な、病人看護の修道女にも……。
これこそは、天主が、そのお選びになった”道具“、その使徒職に参与する人びとに、お支払いにならねばならない、天主ご自身の”負債“なのだ。このことは、いくたびくり返しいっても、けっしていいすぎることはない。
そんなわけで、すべて使徒たる者は、事業の遂行において具備すべき条件を、もし果たしさえいれば、おのれの事業にどうしてもなくてはならぬ天主のお助けと恩寵を、当然、天主に要求できる権利があるのだから、この権利に、全幅の信頼を、おいていなければならない。「召し出しによって与えられた事業」――これが、天主のお助けと恩寵の無限のたからを、おのれに要求するための、“抵当”物件なのである。
パスのアルバレス師(Alvarez de Paz)は、こういっている。
「愛徳の事業にたずさわっている人は、事業が自分に、観想の門戸をとざすのではなかろうか、観想に身をゆだねることが、以前よりむずかしくなる、いや、不可能にさえなるのではなかろうか、などと心配してはならぬ。事実はこれと逆である。かえって、みごとな仕方で、霊魂は、観想へ、観想へとさそわれていく。
理論的にいってもそうだし、権威ある教父たちもまた、それが真理である、と断言している。そればかりではない。実際の話、隣人にたいする愛の事業――聴罪や、説教や、カトリック要理の教授や、病人の訪問――にたずさわっている人たちのなかで、いにしえの砂漠の隠者にも比べることのできるほど、観想の高い度合いに達している人びとを、よく見かけるではないか」(同師『全集』三巻、四五章)
「観想の度合い」« degré de contemplation »――という言葉によって、この有名なイエズス会員もまた、他の霊生の大家たちのように、天主の愛にみなぎりあふれた霊魂の特長をなす“念禱の恩寵”を、さしているのである。
事業をやっていくには、多くのぎせいが要求される。このぎせいこそは、天主の光栄と人びとの霊魂の聖化のために、なくてはならぬものである。このぎせいのおかげで、活動的生活に従事する人は、大きな超自然的価値とゆたかな功徳を、自分のものにすることができ、もし当人さえその気持ちなら、天主への愛と天主との一致の段階を、毎日、すこしずつ登っていく ―― 一言で申せば、聖性の度合いを、日に日に、すこしずつ高めていくことができるのである。
いうまでもなく、ある場合――たとえば、とりわけ信徳にたいして、貞徳にたいして、ほんとうに罪となるような重い、しかも直接の危険がある場合、天主は、当人が、その従事している事業から離れることを、お望みになる。しかし、それが出来ない場合、天主は福音の働き手を、内的生活によって、この危険から予防し、かつ善徳に進歩するための手段を、お与えになるはずである。
「善徳に進歩するための手段」――と、いまさっきいったが、さてこの進歩が、何に存するか、それをハッキリ見究めることが大切である。良識に富み、いたって超自然的な大聖テレジアの、一見矛盾したような次の言葉が、筆者の議論をわかりやすく説明してくれると思うから、下にこれを引用する。
「院長の職務について、たくさんの用務をおび、しばしば旅行しなければならないようになりますと、わたしは以前にもまして、多くの過ちにおちいるようになりました。しかし、過ちにむかって必死にたたかい、また天主さまのためにだけ仕事をしますので、かえってそのために、前よりもいっそう、天主さまに近づいていくように感じられるのです」
修道院の静寂と沈黙のさなかにいるときにくらべて、外にでればいっそう自分のよわさを知り、過ちにもしばしばおちいる。聖女はそれを、身にしみてさとる。だが、心はみだれない。こうなったら、心戦あるのみ! 聖女は、以前に倍加して、努力をつみかさねる。だから、それはかえって、勝利のチャンスとなり、以前には霊魂の奥に潜伏して、外部には現れなかった弱さのために、心ならずもおちいっていた突発的な過誤を、十二分にうめあわせてくれるのだった。
十字架の聖ヨハネがいっているように、天主との一致は、人間の意志と天主のみ旨との合致に存する。そして、天主のみ旨だけが、この一致を可能にし、その度合いを規定するのである。
霊的生活にかんして、あやまった考えをしてはならない。天主との一致の問題を、間違った観点から眺めてはならない。天主との一致に進歩するためには、ただ静寂と孤独のうちに身をおけばよい、などと考えてはならない。むしろ、大聖テレジアがいっているように、召し出しによって、従順によって、天主から命じられた仕事の中に、そして天主がお望みになる条件を具備していとなまれる活動の中にこそ、犠牲の精神、謙遜、自己放棄、天主の国をますますひろめたいとの熱烈な奮発心が、つちかわれるのであるから、これらの活動の中にこそ、霊魂と天主との親密な一致ははぐくまれ、かつ成長していくのである。聖主は、こういう霊魂の内にこそお生きになるのであり、かれの仕事をいのちづけ、このようにしてついに、当人を聖性にまで到達させてくださるのである。
じじつ、聖性というものは、なによりもまず、天主にたいする愛のなかに宿る。そして、使徒的事業こそは、天主にたいするこの愛を、実行にうつしたものにほかならぬ。「愛の証拠は、業(わざ)の提示である」と、大聖グレゴリオ教皇もいっておられる。愛は、自己を否定する犠牲のわざによって、証拠だてられる。この奮発心の証拠をこそ、天主はそのお選びになった働き手から、要求されるのである。
ペトロは、いくたびもくり返して、「主よ、わたしは、あなたを愛します」と宣言した。この愛の宣言が、真実なものであるかどうか、ほんとうに使徒の真心から出たものであるかどうか、を証拠だてるために、聖主がペトロに要求された業は、何であったか。
「わたしの羊を牧しなさい。わたしの子羊を養いなさい」――これであった。
「イエズス・キリストにたいする愛が、人びとの霊魂の救いのために、おのれをささげつくさせるほど熱烈でないなら、だれも、イエズス・キリストの友としての資格がない Non se amicum Christi reputabat, nisi animas foveret quas ille redemit, ――とは、いつも、アシジの聖フランシスコの頭にあった考えだった」(聖ボナヴェントゥラ『聖フランシスコ伝』)
「わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マテオ25・40)と仰せられた聖主は、われわれが身体面でか物質面で、博愛と慈悲のわざを、他人にほどこすとき、それをあたかもご自分にたいしてなされたかのごとくに、お取りになるのである。これらの業の一つ一つのなかに、ご自分にたいする愛の反映を、お見いだしになるのだからである。
げに、キリストにたいするこの愛こそは、宣教師たちをいのちづけるエネルギー源なのだ。この愛こそが、砂漠の苦業者たちを、隠棲と孤独と欠乏と心戦において、力づよくささえてくれるのだ。
活動的生活は、なやめる人類への献身的奉仕の事業に使われる。
活動的生活は、けわしい、まがりくねった犠牲の小みちをたどりながら、イエズスのみあとについていく。――ナザレトの労働者、霊魂の司牧者、御父の宣教師、奇跡をおこなう天主の人、霊魂と身体のあらゆる病いをいやす医師、世の人々のあらゆる必要に救援の手をさしのべるため、わが身の疲れもしらずに全世界をかけめぐる、心やさしい“人の子”イエズスのみあとに……。
「わたしは、あなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」(ルカ22・27)
「人の子がきたのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マテオ20・28)
活動的生活にたずさわっている人は、キリストの右のお言葉を、いつも記憶している。
記憶して、これを実行にうつしている。
活動的生活にたずさわっている人は、不幸というこの世の旅路をたどる巡礼である。みちすがら、真理の言葉に霊感されては、そのつど、この世の悲惨に泣く不幸な人びとを、天主の光りで照明する。天主の恩寵のタネを、周囲の人の心にまいては、そこからあらゆる種類のゆたかな収穫をあげる。
活動的生活にたずさわっている人たちの信仰は、真昼の太陽のように、光かがやいている。その愛は、溶鉱炉のように、灼熱している。
この信仰の光りと愛の直観によって、かれらは最も悲惨な人びとの中に、最も痛ましい苦悩にのたうつ人びとの中に、天主の人イエズス・キリストを、――裸で、悲嘆にあえぐイエズス・キリストを、見いだしているのだ。
すべての人に嘲けられ、見捨てられ、そのおからだはらい病人のそれのように、傷つきただれたイエズスを。
天父の正義によって、死の宣告を受け、天主のムチでうち砕かれた不思議な人物イエズスを。
イザヤ預言者が、まぼろしのうちにみた、あの苦悩の天主の人イエズス――全身、打ち傷におおわれ、血潮は滝のように流れている。ムチうちにより、十字架の処刑によって、やつれ、衰えはてた天主の人、道ゆく人の土足でふみにじられ、地上をはいまわる虫けらのようにみじめなイエズス――このイエズスをこそ、かれらは不幸な人びとの中に、見いだしているのだ。多くの人が、このイエズスを、自分らの目で、ちゃんと眺めていながら、一向にそれを“見知り”えない世の中に……。et vidimus eum et non erat aspectus et desideravimus eum despectum et novissimum virorum virum dolorum et scientem infirmitatem et quasi absconditus vultus eius et despectus unde nec reputavimus eum(イザヤ53参照)
ああ、活動的生活よ、あなたは、あなたこそは、このイエズスを、よく“見知る”者である。
見知るばかりではない、あなたこそは両ひざを地につけ、両眼に涙をたたえて、このイエズス――貧しい人々に中にいますこのイエズスに、お仕えする者である。
活動的生活は、人類社会を、改善する。
その博愛をもって、その事業をもって、その汗をもって、砂漠のような人の世を、住みごこちのよい世界にする。
活動的生活のおかげで、地上に天国が建設されるのだ。
活動的生活は、天主の報酬を呼ばずにはいない。
貧しい人びとにあたえる一ぱいの冷水に、天国を約束された天主は、まして病める人びとを看護する者に、まして汗だくになって福音のために働く使徒に、どうしてそれ以上にすばらしい天国を、おあたえにならないだろうか。
ああ、活動的生活! ああ、活動的生活!
世界終末の夕べ、天主は天と地の面前で、愛の事業を、いとも荘厳に、列聖されるであろう。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
イエズス・キリストの使徒職に参加する人は、ただおのれを聖性のうちに、安全に確保するだけでは足りない。なお一歩すすんで、聖性に進歩しなければならぬ。これは、聖主のあきらかなご要求である。それを実証する聖書の言葉はおおい。ティトや、ティモテオにあてた聖パウロの書簡にも、アジアの諸司教にあてた聖ヨハネの黙示録にも、そのことが、うらがきされている。
他方において、天主は使徒たちに、“事業”を、お望みになる。
このことは、本書の初めにも書いておいた。
であるから、ここに一人の使徒職専従者がいて、「使徒的事業は、それ自体、われわれの聖性達成に、障害となる。なるほどそれは、天主のみ旨から出るにはちがいなかろうが、同時に、完徳の頂きにむかってのわれわれの行進を、必然的にゆるやかにするものだ」などというなら、それは天主の知恵にたいして、天主の善良にたいして、天主の摂理にたいして、たいへんな侮辱をくわえ、ひじょうな冒瀆をあびせるものであることを、覚悟しなければならぬ。
相互に矛盾し、衝突する二箇の命題が、ここにある。
その一つは、こうだ。
「およそ、使徒職に専従する人は、いつも、おのれの救霊と霊的進歩を、気にかけていなければならぬ。さて、使徒職は、それがどんな形式のものであれ、もし天主のみ旨から出るものであれば、それ自体、使徒職にたずさわっている人が、常時にひたっていなければならぬ堅実な聖性のふんい気を、絶対に悪化させるものではない。そればかりか、活動に要求される条件を具備していとなまれるとき、それは当人にとって、聖性を達成するための、最も有力な手段でさえある」
命題の他の一つは、こうだ。
「自分は、天主の協力者となるように、天主から選ばれた。したがって、天主のこの召し出しに応ずる義務がある。さて、天主から命ぜられた、これこれの事業を遂行するためには、これこれの活動をしなければならぬ。これこれの苦悩をしのび、これこれの心配をしなければならぬ。だから、自分はりっぱに、正当に、申しひらきができるのだ。――私はとうてい、自分自身の聖性達成に、没頭している余裕なんかないのだ、と」
つまり、一方では、使徒的事業は、聖性達成への手段であるといい、他方では、このおなじ事業が、聖性達成の放棄への、正しい理由になるという。
さて、天主のご計画が、りっぱに実現するためには、右のジレンマをみごとに解決してくれる、なにかすばらしい結論がなければならぬ。その結論というのは、こうである。
「天主は、そのお選びになった使徒たちに、必要な恩寵をお与えになり、この恩寵によって、かれらが、その多忙をきわめた活動のさなかにあっても、ただおのれの救霊を安全に確保することができるばかりでなく、なおそのうえ、おのれの聖性を達成することもできるほど、善徳の獲得を可能にしてやらなければならない義務を、ご自分のうえに、おせおいにならなければならぬ」
天主は、聖ベルナルドや、聖フランシスコ・ザベリオのような大聖人に、かれらの使命を完全に遂行するために必要な恩寵はみんな、おあたえになった。このおなじ恩寵、同じ天主の助けをこそ、たとえ程度の差はあっても、しかし必要なだけは、どんな使徒的人物にも、天主はおあたえにならなければならないのである。いちばん貧弱な、福音の働き手にも。いちばんつまらない、修道者の教師にも。いちばんお粗末な、病人看護の修道女にも……。
これこそは、天主が、そのお選びになった”道具“、その使徒職に参与する人びとに、お支払いにならねばならない、天主ご自身の”負債“なのだ。このことは、いくたびくり返しいっても、けっしていいすぎることはない。
そんなわけで、すべて使徒たる者は、事業の遂行において具備すべき条件を、もし果たしさえいれば、おのれの事業にどうしてもなくてはならぬ天主のお助けと恩寵を、当然、天主に要求できる権利があるのだから、この権利に、全幅の信頼を、おいていなければならない。「召し出しによって与えられた事業」――これが、天主のお助けと恩寵の無限のたからを、おのれに要求するための、“抵当”物件なのである。
パスのアルバレス師(Alvarez de Paz)は、こういっている。
「愛徳の事業にたずさわっている人は、事業が自分に、観想の門戸をとざすのではなかろうか、観想に身をゆだねることが、以前よりむずかしくなる、いや、不可能にさえなるのではなかろうか、などと心配してはならぬ。事実はこれと逆である。かえって、みごとな仕方で、霊魂は、観想へ、観想へとさそわれていく。
理論的にいってもそうだし、権威ある教父たちもまた、それが真理である、と断言している。そればかりではない。実際の話、隣人にたいする愛の事業――聴罪や、説教や、カトリック要理の教授や、病人の訪問――にたずさわっている人たちのなかで、いにしえの砂漠の隠者にも比べることのできるほど、観想の高い度合いに達している人びとを、よく見かけるではないか」(同師『全集』三巻、四五章)
「観想の度合い」« degré de contemplation »――という言葉によって、この有名なイエズス会員もまた、他の霊生の大家たちのように、天主の愛にみなぎりあふれた霊魂の特長をなす“念禱の恩寵”を、さしているのである。
事業をやっていくには、多くのぎせいが要求される。このぎせいこそは、天主の光栄と人びとの霊魂の聖化のために、なくてはならぬものである。このぎせいのおかげで、活動的生活に従事する人は、大きな超自然的価値とゆたかな功徳を、自分のものにすることができ、もし当人さえその気持ちなら、天主への愛と天主との一致の段階を、毎日、すこしずつ登っていく ―― 一言で申せば、聖性の度合いを、日に日に、すこしずつ高めていくことができるのである。
いうまでもなく、ある場合――たとえば、とりわけ信徳にたいして、貞徳にたいして、ほんとうに罪となるような重い、しかも直接の危険がある場合、天主は、当人が、その従事している事業から離れることを、お望みになる。しかし、それが出来ない場合、天主は福音の働き手を、内的生活によって、この危険から予防し、かつ善徳に進歩するための手段を、お与えになるはずである。
「善徳に進歩するための手段」――と、いまさっきいったが、さてこの進歩が、何に存するか、それをハッキリ見究めることが大切である。良識に富み、いたって超自然的な大聖テレジアの、一見矛盾したような次の言葉が、筆者の議論をわかりやすく説明してくれると思うから、下にこれを引用する。
「院長の職務について、たくさんの用務をおび、しばしば旅行しなければならないようになりますと、わたしは以前にもまして、多くの過ちにおちいるようになりました。しかし、過ちにむかって必死にたたかい、また天主さまのためにだけ仕事をしますので、かえってそのために、前よりもいっそう、天主さまに近づいていくように感じられるのです」
修道院の静寂と沈黙のさなかにいるときにくらべて、外にでればいっそう自分のよわさを知り、過ちにもしばしばおちいる。聖女はそれを、身にしみてさとる。だが、心はみだれない。こうなったら、心戦あるのみ! 聖女は、以前に倍加して、努力をつみかさねる。だから、それはかえって、勝利のチャンスとなり、以前には霊魂の奥に潜伏して、外部には現れなかった弱さのために、心ならずもおちいっていた突発的な過誤を、十二分にうめあわせてくれるのだった。
十字架の聖ヨハネがいっているように、天主との一致は、人間の意志と天主のみ旨との合致に存する。そして、天主のみ旨だけが、この一致を可能にし、その度合いを規定するのである。
霊的生活にかんして、あやまった考えをしてはならない。天主との一致の問題を、間違った観点から眺めてはならない。天主との一致に進歩するためには、ただ静寂と孤独のうちに身をおけばよい、などと考えてはならない。むしろ、大聖テレジアがいっているように、召し出しによって、従順によって、天主から命じられた仕事の中に、そして天主がお望みになる条件を具備していとなまれる活動の中にこそ、犠牲の精神、謙遜、自己放棄、天主の国をますますひろめたいとの熱烈な奮発心が、つちかわれるのであるから、これらの活動の中にこそ、霊魂と天主との親密な一致ははぐくまれ、かつ成長していくのである。聖主は、こういう霊魂の内にこそお生きになるのであり、かれの仕事をいのちづけ、このようにしてついに、当人を聖性にまで到達させてくださるのである。
じじつ、聖性というものは、なによりもまず、天主にたいする愛のなかに宿る。そして、使徒的事業こそは、天主にたいするこの愛を、実行にうつしたものにほかならぬ。「愛の証拠は、業(わざ)の提示である」と、大聖グレゴリオ教皇もいっておられる。愛は、自己を否定する犠牲のわざによって、証拠だてられる。この奮発心の証拠をこそ、天主はそのお選びになった働き手から、要求されるのである。
ペトロは、いくたびもくり返して、「主よ、わたしは、あなたを愛します」と宣言した。この愛の宣言が、真実なものであるかどうか、ほんとうに使徒の真心から出たものであるかどうか、を証拠だてるために、聖主がペトロに要求された業は、何であったか。
「わたしの羊を牧しなさい。わたしの子羊を養いなさい」――これであった。
「イエズス・キリストにたいする愛が、人びとの霊魂の救いのために、おのれをささげつくさせるほど熱烈でないなら、だれも、イエズス・キリストの友としての資格がない Non se amicum Christi reputabat, nisi animas foveret quas ille redemit, ――とは、いつも、アシジの聖フランシスコの頭にあった考えだった」(聖ボナヴェントゥラ『聖フランシスコ伝』)
「わたしの兄弟である、これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マテオ25・40)と仰せられた聖主は、われわれが身体面でか物質面で、博愛と慈悲のわざを、他人にほどこすとき、それをあたかもご自分にたいしてなされたかのごとくに、お取りになるのである。これらの業の一つ一つのなかに、ご自分にたいする愛の反映を、お見いだしになるのだからである。
げに、キリストにたいするこの愛こそは、宣教師たちをいのちづけるエネルギー源なのだ。この愛こそが、砂漠の苦業者たちを、隠棲と孤独と欠乏と心戦において、力づよくささえてくれるのだ。
活動的生活は、なやめる人類への献身的奉仕の事業に使われる。
活動的生活は、けわしい、まがりくねった犠牲の小みちをたどりながら、イエズスのみあとについていく。――ナザレトの労働者、霊魂の司牧者、御父の宣教師、奇跡をおこなう天主の人、霊魂と身体のあらゆる病いをいやす医師、世の人々のあらゆる必要に救援の手をさしのべるため、わが身の疲れもしらずに全世界をかけめぐる、心やさしい“人の子”イエズスのみあとに……。
「わたしは、あなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」(ルカ22・27)
「人の子がきたのは、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マテオ20・28)
活動的生活にたずさわっている人は、キリストの右のお言葉を、いつも記憶している。
記憶して、これを実行にうつしている。
活動的生活にたずさわっている人は、不幸というこの世の旅路をたどる巡礼である。みちすがら、真理の言葉に霊感されては、そのつど、この世の悲惨に泣く不幸な人びとを、天主の光りで照明する。天主の恩寵のタネを、周囲の人の心にまいては、そこからあらゆる種類のゆたかな収穫をあげる。
活動的生活にたずさわっている人たちの信仰は、真昼の太陽のように、光かがやいている。その愛は、溶鉱炉のように、灼熱している。
この信仰の光りと愛の直観によって、かれらは最も悲惨な人びとの中に、最も痛ましい苦悩にのたうつ人びとの中に、天主の人イエズス・キリストを、――裸で、悲嘆にあえぐイエズス・キリストを、見いだしているのだ。
すべての人に嘲けられ、見捨てられ、そのおからだはらい病人のそれのように、傷つきただれたイエズスを。
天父の正義によって、死の宣告を受け、天主のムチでうち砕かれた不思議な人物イエズスを。
イザヤ預言者が、まぼろしのうちにみた、あの苦悩の天主の人イエズス――全身、打ち傷におおわれ、血潮は滝のように流れている。ムチうちにより、十字架の処刑によって、やつれ、衰えはてた天主の人、道ゆく人の土足でふみにじられ、地上をはいまわる虫けらのようにみじめなイエズス――このイエズスをこそ、かれらは不幸な人びとの中に、見いだしているのだ。多くの人が、このイエズスを、自分らの目で、ちゃんと眺めていながら、一向にそれを“見知り”えない世の中に……。et vidimus eum et non erat aspectus et desideravimus eum despectum et novissimum virorum virum dolorum et scientem infirmitatem et quasi absconditus vultus eius et despectus unde nec reputavimus eum(イザヤ53参照)
ああ、活動的生活よ、あなたは、あなたこそは、このイエズスを、よく“見知る”者である。
見知るばかりではない、あなたこそは両ひざを地につけ、両眼に涙をたたえて、このイエズス――貧しい人々に中にいますこのイエズスに、お仕えする者である。
活動的生活は、人類社会を、改善する。
その博愛をもって、その事業をもって、その汗をもって、砂漠のような人の世を、住みごこちのよい世界にする。
活動的生活のおかげで、地上に天国が建設されるのだ。
活動的生活は、天主の報酬を呼ばずにはいない。
貧しい人びとにあたえる一ぱいの冷水に、天国を約束された天主は、まして病める人びとを看護する者に、まして汗だくになって福音のために働く使徒に、どうしてそれ以上にすばらしい天国を、おあたえにならないだろうか。
ああ、活動的生活! ああ、活動的生活!
世界終末の夕べ、天主は天と地の面前で、愛の事業を、いとも荘厳に、列聖されるであろう。