アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ジェンダー論に関するマルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)と Zenit 報道局とのインタビューをご紹介いたします。
【要旨】
ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実。
革命によって、個人と人格(ペルソナ)、市民と父親、世俗と信仰、権利と無償の愛、理性と信仰、国家と教会が分離した。
世俗化した「市民」とは、性別もなく、自分の利益を求めない贈与や愛がない。
個人の平等な権利と選択の自由が、父親、家族、愛を分断し、個人・市民を作り上げた。
私たちはジェンダー論のバベルの塔に住んでいる。
現代、理性を否定する非合理主義のと、様々なイデオロギーを生み出す合理主義とは「信仰と理性の分離」において繋がる。
ジェンダー革命は、「理論」ではない。人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。
ジェンダー論に対するのは議論ではない。これは光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いだ。
人類は愛の文明を望んでいる。人間は天主の似姿に創られている。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿だ。
【マルグリット・ペタースとは?】
マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)は、1963年ニューヨークで生まれ、冷戦後の新世界コンセンサスが国連のもとにどのように構築されていったかを研究するジャーナリストとなりました。
2003年、彼女は文化間対話動態研究所(Institute for Intercultural Dialogue Dynamics)を創立し、グローバル化の鍵となる概念や価値やメカニズムの道具を識別する教育用教材を作りました。数々の本も書き、その中には
『民主主義を乗っ取る -- 選挙されない人々への権力の移行』(Hijacking democracy, the power shift to the unelected)
『新しい世界倫理 -- 教会への挑戦』(The new global ethic, challenges for the Church)
『ジェンダー革命』(The gender revolution)
その他があります。
彼女は、教皇庁立「信徒評議会」および「文化評議会」の顧問(consultor)の一人でもある。
ジェンダー論の核心とは?
1950年代にジェンダー論をねつ造した社会エンジニアらによると「女性と男性のアイデンティティーも、妻としての女性、母としての女性教育者としての女性の存在論的な構造も、文化人類学的な男女の相互補完性も、父性も、異性間のセクシュアリティも、婚姻も、伝統的な家庭も、それ自体としては存在しないし、それ自体で良いものではない。それらは社会的虚構に過ぎず、社会学的現象であり、時間をかけて作られた社会的機能であり、ステレオタイプ(判で押したような固定観念)で、差別的であり平等と反対なので教育と文化によって破壊されなければならないもの」とされます。
何故、今このことが話題になるのか?
西洋文化は過去数世紀の間、革命を体験しましたが、最近50年は革命が劇的に加速しました。その論理的な結果としてジェンダー論が提案されました。ジェンダー論は、歴史から離れた孤立的な現象ではありません。これは「父親」「母親」「夫婦」というものの文化的死へと進歩的に導かれた、長い世俗化(聖なる天主をこの世界から無くそうとすること)の過程の実り(結果)です。世俗化は、愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)の代わりに、世俗の「自律の」「個人市民」を入れ替えました。
人間の死を望む人々によって導かれたこの過程で、さらにその目的を追求しようとします。この過程は効果的に進んでいますが、静かに進んでいます。これは、言語的操作、同意の構築、科学者による義論、教育改革、「対話」などのソフトな社会変革のテクニックを使っています。
西洋のキリスト者たちは、しばしば遠くにいる受動的な傍観者として振る舞ってきました。多くの人々が過去40年間にしてきた妥協について何も発言しようとしませんでした。彼らは「進歩的」で「開放的」な革命の提案と革命のダイナミズムに魅惑されたかのようでした。革命の先鋭的なイデオロギーに対して「批判的な一般大衆」が抵抗しなくなったとき、しかも彼らがそれに全面的に賛成する時、革命は完成します。
ジェンダー論とは、この世俗化という革命の木になる実として熟れたとき落ちてきます。ジェンダー論を聞いて私たちはショックを受けますが、これは私たちがどれほどイデオロギーの進化に注意を払ってきていなかったかを物語っています。ちょうどカール・マルクスが「共産党宣言」を1848年に最初に発表した時と、1917年のボルシェヴィキ革命との間には70年の年月があったことを忘れないで下さい。
このジェンダー論のアジェンダ(行動計画)はどんなものか?
ジェンダー論が1950年代に最初に現れて、フランスとアメリカの大学で1968年5月のあたりにイデオロギー的なジェンダー論のプロジェクトが形を見せ始めました。西洋のフェミニストと性革命の波に乗って、ジェンダー論はますます社会変革の力を得ていきます。
1960年代、西洋のポスト・モダンの知識人たちと、国際組織とのパートナーシップの結果、ジェンダー論は1995年北京会議でグローバルな政治規範として採用されました。
ジェンダーの平等は、国際協力の効果的な優先課題となりました。発展途上国における発展援助を受ける条件としてジェンダー論が強制されました。しかも、カトリックの愛徳事業の多くが発展途上国の司教様たちやキリスト者たちに対してもこの条件が課せられました。
ジェンダー論というのは不可避的にイデオロギー的なのか?
グローバル文化および政治的規範としてのジェンダーの平等は、女性の平等な尊厳がかならずしも尊重されていなかった国々では、一般大衆にとっても指導者たちにとっても魅力的です。しかし、ジェンダーの平等というのは、ピンからキリまである様々な解釈の余地のある概念です。それらは全て一つの源から始まっています。それは女性を「市民としてだけ」見て、「天主と家族の関係(娘・妻・母親)とから自律・独立した者」、「避妊・堕胎・人工授精・自発的不妊手術の権利を持つ者」、「男として性的傾向への権利を持つ者」と考えることです。これらの見解には、はっきりとした区別の線がありません。
西洋の歴史は、世俗主義のドアをひとたび開けると、一つのことからその他の多くのことへと引き起こされていることを証明しています。すべてはフランスで18世紀にフランス革命で始まりました。個人と人格(ペルソナ)の分離があり、市民と父親の分離、世俗と信仰の分離、権利と無償の愛の分離、理性と信仰の分離、国家と教会の分離が始まりです。ジャン・ジャック・ルソーは「父親であるとは、平等とは反対の社会的特権である」と宣言したではないでしょうか?
平等と自由の名前でフランス革命は「父親・母親・夫・妻・息子・娘」に弁証論的に対立する用語として「市民・個人」を促進しました。「父親・母親・夫・妻・息子・娘」という言葉は、人格をもったペルソナとしての人間と置き換えることができます。しかし、世俗化した概念である平等の「市民」というのは根本的に誰も全く同じです。市民とは性別もなく、いわば「中性」です。「市民」には、無私の奉仕や自分の利益を求めない贈与、愛、というものがありません。
過去数世紀にわたって、個人の平等な権利と選択の自由とは、社会的に・司法的に・政治的に、父親であること、家族、愛、を乗っ取ってしまいました。粉々に分断された個人・市民は、まったく世俗的な新しい土台の上に人間を再構築することができるようになりました。それがジェンダー論です。
非西洋文化は、西洋の世俗化・ライシテ(laïcité)とはよそ者であるのですが、これらを自由に選びました。非西洋は、西洋を生かしてきた霊魂を再発見することができるように西洋を助けることができます。西洋が市民と父親とを和解させ、市民とキリスト者との和解、権利と無償の愛とを和解させることができます。さらに家族に社会の基礎細胞であるという正しい地位を戻させることが。
ジェンダー論の挑戦に合理的な義論をして答えるべきか?
確かにジェンダー論とその展開 --- 例えばクィア理論(Queer theory, 퀴어 이론)で、これは男性や女性の肉体は社会的構築であるとする --- は、理性に大きな抑制を与えます。また、ジェンダー論の理論家たちは、自分たちの間で自分たちの作り出した用語の意味について論争しています。例えば、性的アイデンティティー、ジェンダー・アイデンティティー、性的規範、性的傾向、性的嗜好、性的役割、ジェンダーの役割、性的行動、ジェンダーのステレオタイプ、性的多様性、などなどです。彼らの主張は互いに矛盾し合っており、私たちはバベルの塔に住んでいます。
ポスト・モダンの非合理主義は「哲学の終焉」を宣言し、近代の合理主義は一連のイデオロギーを絶え間なく生み出し続けていますが、この二つはつながっています。相互に関係している「理性の歪曲」の根本に、信仰と理性の分離が横たわっています。
理性をそのあるべき位置に戻さなければなりません。理性を元通りにするためには、人間的な行為の課程に「良心」と「こころ」の役割に光を当てなければなりません。
西洋では、理性を信仰から切り離して「自律」させました。そこで西洋は数世紀にわたって理性に絶対的な首位権を与え続けてきました。そのために良心とこころが犠牲になりました。理性を否定することを選んだ人々は、合理的な義論を受け入れません、聞きもしません。ところでジェンダー革命は、何よりもまず、「理論」ではありません。これは、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという課程です。これはこの否定を個人的にも、文化的にもやり遂げることです。
この「悪の神秘」と自由選択の神秘が考察されなければなりません。従って教育の分野においても私たちは良心の概念を再導入しなければなりません。良いもの、真理であるもの、愛を誠実に探し求めなければなりません。ジェンダー危機は、私たちが更に進むようにと招いています。 Duc in Altum.沖に乗り出せ!
私たちにとっては、知的な義論をするのが第一ではありません。これは光と闇の戦いです。命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。
この戦いにおいて私たちは一人ぼっちではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。
私たちは理性だけではなく、良心とこころを持っています。そして天主はすべての人々にご自分を啓示することをお望みです。人類は愛の文明を望んでいるのではないでしょうか?男も女も、天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。父の愛、子供の愛、兄弟愛、そして夫婦の交わりです。私たちの人類学がなぜ三位一体的でないわけがあるでしょうか?
愛する兄弟姉妹の皆様、
ジェンダー論に関するマルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)と Zenit 報道局とのインタビューをご紹介いたします。
【要旨】
ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実。
革命によって、個人と人格(ペルソナ)、市民と父親、世俗と信仰、権利と無償の愛、理性と信仰、国家と教会が分離した。
世俗化した「市民」とは、性別もなく、自分の利益を求めない贈与や愛がない。
個人の平等な権利と選択の自由が、父親、家族、愛を分断し、個人・市民を作り上げた。
私たちはジェンダー論のバベルの塔に住んでいる。
現代、理性を否定する非合理主義のと、様々なイデオロギーを生み出す合理主義とは「信仰と理性の分離」において繋がる。
ジェンダー革命は、「理論」ではない。人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。
ジェンダー論に対するのは議論ではない。これは光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いだ。
人類は愛の文明を望んでいる。人間は天主の似姿に創られている。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿だ。
【マルグリット・ペタースとは?】
マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters)は、1963年ニューヨークで生まれ、冷戦後の新世界コンセンサスが国連のもとにどのように構築されていったかを研究するジャーナリストとなりました。
2003年、彼女は文化間対話動態研究所(Institute for Intercultural Dialogue Dynamics)を創立し、グローバル化の鍵となる概念や価値やメカニズムの道具を識別する教育用教材を作りました。数々の本も書き、その中には
『民主主義を乗っ取る -- 選挙されない人々への権力の移行』(Hijacking democracy, the power shift to the unelected)
『新しい世界倫理 -- 教会への挑戦』(The new global ethic, challenges for the Church)
『ジェンダー革命』(The gender revolution)
その他があります。
彼女は、教皇庁立「信徒評議会」および「文化評議会」の顧問(consultor)の一人でもある。
ジェンダー論の核心とは?
1950年代にジェンダー論をねつ造した社会エンジニアらによると「女性と男性のアイデンティティーも、妻としての女性、母としての女性教育者としての女性の存在論的な構造も、文化人類学的な男女の相互補完性も、父性も、異性間のセクシュアリティも、婚姻も、伝統的な家庭も、それ自体としては存在しないし、それ自体で良いものではない。それらは社会的虚構に過ぎず、社会学的現象であり、時間をかけて作られた社会的機能であり、ステレオタイプ(判で押したような固定観念)で、差別的であり平等と反対なので教育と文化によって破壊されなければならないもの」とされます。
何故、今このことが話題になるのか?
西洋文化は過去数世紀の間、革命を体験しましたが、最近50年は革命が劇的に加速しました。その論理的な結果としてジェンダー論が提案されました。ジェンダー論は、歴史から離れた孤立的な現象ではありません。これは「父親」「母親」「夫婦」というものの文化的死へと進歩的に導かれた、長い世俗化(聖なる天主をこの世界から無くそうとすること)の過程の実り(結果)です。世俗化は、愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)の代わりに、世俗の「自律の」「個人市民」を入れ替えました。
人間の死を望む人々によって導かれたこの過程で、さらにその目的を追求しようとします。この過程は効果的に進んでいますが、静かに進んでいます。これは、言語的操作、同意の構築、科学者による義論、教育改革、「対話」などのソフトな社会変革のテクニックを使っています。
西洋のキリスト者たちは、しばしば遠くにいる受動的な傍観者として振る舞ってきました。多くの人々が過去40年間にしてきた妥協について何も発言しようとしませんでした。彼らは「進歩的」で「開放的」な革命の提案と革命のダイナミズムに魅惑されたかのようでした。革命の先鋭的なイデオロギーに対して「批判的な一般大衆」が抵抗しなくなったとき、しかも彼らがそれに全面的に賛成する時、革命は完成します。
ジェンダー論とは、この世俗化という革命の木になる実として熟れたとき落ちてきます。ジェンダー論を聞いて私たちはショックを受けますが、これは私たちがどれほどイデオロギーの進化に注意を払ってきていなかったかを物語っています。ちょうどカール・マルクスが「共産党宣言」を1848年に最初に発表した時と、1917年のボルシェヴィキ革命との間には70年の年月があったことを忘れないで下さい。
このジェンダー論のアジェンダ(行動計画)はどんなものか?
ジェンダー論が1950年代に最初に現れて、フランスとアメリカの大学で1968年5月のあたりにイデオロギー的なジェンダー論のプロジェクトが形を見せ始めました。西洋のフェミニストと性革命の波に乗って、ジェンダー論はますます社会変革の力を得ていきます。
1960年代、西洋のポスト・モダンの知識人たちと、国際組織とのパートナーシップの結果、ジェンダー論は1995年北京会議でグローバルな政治規範として採用されました。
ジェンダーの平等は、国際協力の効果的な優先課題となりました。発展途上国における発展援助を受ける条件としてジェンダー論が強制されました。しかも、カトリックの愛徳事業の多くが発展途上国の司教様たちやキリスト者たちに対してもこの条件が課せられました。
ジェンダー論というのは不可避的にイデオロギー的なのか?
グローバル文化および政治的規範としてのジェンダーの平等は、女性の平等な尊厳がかならずしも尊重されていなかった国々では、一般大衆にとっても指導者たちにとっても魅力的です。しかし、ジェンダーの平等というのは、ピンからキリまである様々な解釈の余地のある概念です。それらは全て一つの源から始まっています。それは女性を「市民としてだけ」見て、「天主と家族の関係(娘・妻・母親)とから自律・独立した者」、「避妊・堕胎・人工授精・自発的不妊手術の権利を持つ者」、「男として性的傾向への権利を持つ者」と考えることです。これらの見解には、はっきりとした区別の線がありません。
西洋の歴史は、世俗主義のドアをひとたび開けると、一つのことからその他の多くのことへと引き起こされていることを証明しています。すべてはフランスで18世紀にフランス革命で始まりました。個人と人格(ペルソナ)の分離があり、市民と父親の分離、世俗と信仰の分離、権利と無償の愛の分離、理性と信仰の分離、国家と教会の分離が始まりです。ジャン・ジャック・ルソーは「父親であるとは、平等とは反対の社会的特権である」と宣言したではないでしょうか?
平等と自由の名前でフランス革命は「父親・母親・夫・妻・息子・娘」に弁証論的に対立する用語として「市民・個人」を促進しました。「父親・母親・夫・妻・息子・娘」という言葉は、人格をもったペルソナとしての人間と置き換えることができます。しかし、世俗化した概念である平等の「市民」というのは根本的に誰も全く同じです。市民とは性別もなく、いわば「中性」です。「市民」には、無私の奉仕や自分の利益を求めない贈与、愛、というものがありません。
過去数世紀にわたって、個人の平等な権利と選択の自由とは、社会的に・司法的に・政治的に、父親であること、家族、愛、を乗っ取ってしまいました。粉々に分断された個人・市民は、まったく世俗的な新しい土台の上に人間を再構築することができるようになりました。それがジェンダー論です。
非西洋文化は、西洋の世俗化・ライシテ(laïcité)とはよそ者であるのですが、これらを自由に選びました。非西洋は、西洋を生かしてきた霊魂を再発見することができるように西洋を助けることができます。西洋が市民と父親とを和解させ、市民とキリスト者との和解、権利と無償の愛とを和解させることができます。さらに家族に社会の基礎細胞であるという正しい地位を戻させることが。
ジェンダー論の挑戦に合理的な義論をして答えるべきか?
確かにジェンダー論とその展開 --- 例えばクィア理論(Queer theory, 퀴어 이론)で、これは男性や女性の肉体は社会的構築であるとする --- は、理性に大きな抑制を与えます。また、ジェンダー論の理論家たちは、自分たちの間で自分たちの作り出した用語の意味について論争しています。例えば、性的アイデンティティー、ジェンダー・アイデンティティー、性的規範、性的傾向、性的嗜好、性的役割、ジェンダーの役割、性的行動、ジェンダーのステレオタイプ、性的多様性、などなどです。彼らの主張は互いに矛盾し合っており、私たちはバベルの塔に住んでいます。
ポスト・モダンの非合理主義は「哲学の終焉」を宣言し、近代の合理主義は一連のイデオロギーを絶え間なく生み出し続けていますが、この二つはつながっています。相互に関係している「理性の歪曲」の根本に、信仰と理性の分離が横たわっています。
理性をそのあるべき位置に戻さなければなりません。理性を元通りにするためには、人間的な行為の課程に「良心」と「こころ」の役割に光を当てなければなりません。
西洋では、理性を信仰から切り離して「自律」させました。そこで西洋は数世紀にわたって理性に絶対的な首位権を与え続けてきました。そのために良心とこころが犠牲になりました。理性を否定することを選んだ人々は、合理的な義論を受け入れません、聞きもしません。ところでジェンダー革命は、何よりもまず、「理論」ではありません。これは、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという課程です。これはこの否定を個人的にも、文化的にもやり遂げることです。
この「悪の神秘」と自由選択の神秘が考察されなければなりません。従って教育の分野においても私たちは良心の概念を再導入しなければなりません。良いもの、真理であるもの、愛を誠実に探し求めなければなりません。ジェンダー危機は、私たちが更に進むようにと招いています。 Duc in Altum.沖に乗り出せ!
私たちにとっては、知的な義論をするのが第一ではありません。これは光と闇の戦いです。命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。
この戦いにおいて私たちは一人ぼっちではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。
私たちは理性だけではなく、良心とこころを持っています。そして天主はすべての人々にご自分を啓示することをお望みです。人類は愛の文明を望んでいるのではないでしょうか?男も女も、天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。父の愛、子供の愛、兄弟愛、そして夫婦の交わりです。私たちの人類学がなぜ三位一体的でないわけがあるでしょうか?