アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(B)内的生活を放棄するとき活動的生活は当人にとって救霊の敵となる
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
一、 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(B)内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
だが、ここに悲しい事実がある。
自分で指導した心霊修業の折り、筆者自身、この事実を確認したのである。すなわち、使徒的事業が、当人にとって、霊的進歩の手段となるべきはずなのに、かえって当人の霊的建物を破壊にみちびく道具にさえなっている、という事実である。
使徒的事業家の一司祭が、黙想会に参加した。
かれは、おのれの良心をよく糾明し、そのみじめな、不幸な状態にあきれはて、いったい何がこの不幸の原因なのかをさぐり、正確にそれをつきとめた末、筆者にむかって、一見不可解に思われる、次のようなざんげ話をするのだった。
「わたしを、堕落させたのは、実は、わたしの奮発心そのものだったことに、気がついたんです。思うにわたしは、あまりに人間的な、あまりに自然的な感情に流されていたんです。一生懸命に働くことそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、自然の幸福を見いだし、それを楽しんでいたんです。
事業は、どんどん成功する。それが、うわッつらな成功だということに気がつかない。スッカリ有頂天になる。――このときです、魔がつきましたのは。長い年月のあいだ、悪魔はわたしのうちに、働いていました。わたしに錯覚をおこさせ、わたしを迷わせました。で、わたしは、活動自体のなかに、前後不覚におちいるような、物ぐるわしい快感をおぼえるようになりました。これと並行して、あらゆる内的生活の修業が、たまらなく嫌になりました。最後にこのとおり、とうとう悪魔はわたしを、断崖のほうへ引きずっていき、そこから、目もくらむような深い堕落の谷底へ、投げこんでしまったんです……」
« C'est le dévouement qui m'a perdu! Mes dispositions naturelles me faisaient éprouver de la joie à me dépenser, du bonheur à rendre service. Le succès apparent de mes entreprises aidant, Satan a tout su mettre en oeuvre, durant de longues années, pour m’illusionner, exciter en moi le délire de l’action, me dégoûter de tout travail intérieur, et finalement m’attirer dans le précipice. »
なんという深刻な、しかし真実なざんげだろう!
この司祭の精神状態は、奇怪とまではいわないが、たしかに異常である。
かれのざんげ話が、なによりも雄弁に、それを実証している。
天主の働き手は、自然的活動のなかに、あまりに人間的な満足だけを、追求していた。あげくの果ては、おのれのうちにある、なにものにもかえがたい“天主的生命”を、枯渇させ、死滅させてしまったのである。この天主的生命こそは、いわば天主的カロリーであり、それはまず、かれ自身の霊魂の内部に充満して、それを生かし、あたため、次にかれの従事する使徒職を実りゆたかにし、自然的精神という暗黒の冷気にたいして、かれの霊魂を保護してくれる尊いたからであるはずなのに……。
なるほど、かれは一生懸命に働きはした。しかし、万物をいのちづける義の太陽なるイエズスから、遠く離れさっていたのである。
「千里の馬にまたがり、可能な限りの力をだして走ってはいたものの、あわれにも道なき道を、ただメクラめっぽうに暴走していた」Magnae vires et cursus celerrimus, sed praeter viam.(聖アウグスチノ『詩編注解』三一)
使徒的事業は、たとえそれ自体、神聖であっても、同時に、それにたずさわっている使徒を傷つけた。事業は、扱いにくい剣のようなもの、扱い方を知らない人を傷つける両刃(もろは)の剣のようなものだ。
活動的生活が、このように危険なシロ物であればこそ、これにたいしては、おさおさ用心を怠りなさるな、と聖ベルナルドは、時の教皇エウジェニオ三世に警告したのではないか。聖人は、教皇へ捧呈した『反省録』のなかに、こう書きおくっている。
「仕事が、山のように積もっている。いつになったら、片づいてしまうのだろう。-それを思って、聖下は失望に見舞われていらっしゃる。ついに聖下は、そのために、お心をかたくなにしてしまわれるのではなかろうか、とわたしは心配しているのでございます。このような仕事は、たとえ一時的にせよ、おやめになったほうが、聖下にとりましては、むしろ賢明の策かと存じます。それは、仕事の奴隷となるよりも、または、聖下がそこに行くのをいやがっていらっしゃる魔の場所へ、徐々にしかし確実に、ずるずる引っぱり込まれていくよりも、聖下にとりましては、よほどましなのでございます。
『わたしが、そこに行くことをいやがっている魔の場所とは、いったいどこのことですか』と、おたずねになるのでございますか。――それは、“心の頑固さ”という場所なのです。この魔の場所へ、聖下をずるずる引きずっていくことでございましょう、この“呪われた仕事”のかずかずは! もし聖下が、当初のそうなさっていらっしゃいましたように、これからもなお引き続いて、こんな仕事に身も心もうち込み、それがために、ご自身のために、ご自身のものを、すこしもお取り置きにならないようでございましたら……」(『反省録』二部二章)
"Je crains qu'au milieu de vos occupations qui sont innombrables, désespérant d'en voir jamais la fin, vous ne laissiez s'endurcir votre âme. Vous feriez bien plus prudemment de vous soustraire a. ces occupations, ne fût-ce que pour un temps, que de permettre qu'elles vous dominent et que peu à peu elles vous mènent infailliblement là où vous ne voulez point aller. Où donc? direz-vous peut-être. A Rendurcissement du coeur.
Voilà où peuvent vous entraîner ces occupations maudites, hae occupationes maledictae, si toutefois vous continuez comme vous l'avez fait d'abord à vous y livrer tout entier, ne vous réservant rien de vous pour vous-même."
さて、教会の統治という仕事より、いっそうすぐれて高貴な仕事、いっそうすぐれて聖なる仕事が、ほかにあるだろうか。
天主の光栄のため、霊魂の利益のために、これよりいっそうすぐれてためになる仕事が、ほかに一つでもあるだろうか。
それなのに、聖ベルナルドはこれを、“呪われた仕事”だといっているのだ。もしこの仕事が、それにたずさわっている人の内的生活を妨害せねばならぬとしたら、それはあきらかに、“呪われた仕事”となるのである。
“呪われた仕事”――なんという強い表現だろう!
なんという恐ろしい言葉だろう!
それは、われわれに、反省をうながしてやまない。この言葉の真の意味を究めつくすためには、まさに一巻の書物が必要だ。もしこの言葉が、聖ベルナルドのような大聖人の口から出なかったとしたら、この偉大な教会博士の筆先からほとばしり出なかったとしたら、われわれはこのような表現にたいして、大いに抗議しなければならないだろう!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
一、使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である。
(B)内的生活を放棄するとき活動的生活は当人にとって救霊の敵となる
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
一、 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(B)内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
だが、ここに悲しい事実がある。
自分で指導した心霊修業の折り、筆者自身、この事実を確認したのである。すなわち、使徒的事業が、当人にとって、霊的進歩の手段となるべきはずなのに、かえって当人の霊的建物を破壊にみちびく道具にさえなっている、という事実である。
使徒的事業家の一司祭が、黙想会に参加した。
かれは、おのれの良心をよく糾明し、そのみじめな、不幸な状態にあきれはて、いったい何がこの不幸の原因なのかをさぐり、正確にそれをつきとめた末、筆者にむかって、一見不可解に思われる、次のようなざんげ話をするのだった。
「わたしを、堕落させたのは、実は、わたしの奮発心そのものだったことに、気がついたんです。思うにわたしは、あまりに人間的な、あまりに自然的な感情に流されていたんです。一生懸命に働くことそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、生の歓喜を味わっていたんです。他人に奉仕することそれ自体に、自然の幸福を見いだし、それを楽しんでいたんです。
事業は、どんどん成功する。それが、うわッつらな成功だということに気がつかない。スッカリ有頂天になる。――このときです、魔がつきましたのは。長い年月のあいだ、悪魔はわたしのうちに、働いていました。わたしに錯覚をおこさせ、わたしを迷わせました。で、わたしは、活動自体のなかに、前後不覚におちいるような、物ぐるわしい快感をおぼえるようになりました。これと並行して、あらゆる内的生活の修業が、たまらなく嫌になりました。最後にこのとおり、とうとう悪魔はわたしを、断崖のほうへ引きずっていき、そこから、目もくらむような深い堕落の谷底へ、投げこんでしまったんです……」
« C'est le dévouement qui m'a perdu! Mes dispositions naturelles me faisaient éprouver de la joie à me dépenser, du bonheur à rendre service. Le succès apparent de mes entreprises aidant, Satan a tout su mettre en oeuvre, durant de longues années, pour m’illusionner, exciter en moi le délire de l’action, me dégoûter de tout travail intérieur, et finalement m’attirer dans le précipice. »
なんという深刻な、しかし真実なざんげだろう!
この司祭の精神状態は、奇怪とまではいわないが、たしかに異常である。
かれのざんげ話が、なによりも雄弁に、それを実証している。
天主の働き手は、自然的活動のなかに、あまりに人間的な満足だけを、追求していた。あげくの果ては、おのれのうちにある、なにものにもかえがたい“天主的生命”を、枯渇させ、死滅させてしまったのである。この天主的生命こそは、いわば天主的カロリーであり、それはまず、かれ自身の霊魂の内部に充満して、それを生かし、あたため、次にかれの従事する使徒職を実りゆたかにし、自然的精神という暗黒の冷気にたいして、かれの霊魂を保護してくれる尊いたからであるはずなのに……。
なるほど、かれは一生懸命に働きはした。しかし、万物をいのちづける義の太陽なるイエズスから、遠く離れさっていたのである。
「千里の馬にまたがり、可能な限りの力をだして走ってはいたものの、あわれにも道なき道を、ただメクラめっぽうに暴走していた」Magnae vires et cursus celerrimus, sed praeter viam.(聖アウグスチノ『詩編注解』三一)
使徒的事業は、たとえそれ自体、神聖であっても、同時に、それにたずさわっている使徒を傷つけた。事業は、扱いにくい剣のようなもの、扱い方を知らない人を傷つける両刃(もろは)の剣のようなものだ。
活動的生活が、このように危険なシロ物であればこそ、これにたいしては、おさおさ用心を怠りなさるな、と聖ベルナルドは、時の教皇エウジェニオ三世に警告したのではないか。聖人は、教皇へ捧呈した『反省録』のなかに、こう書きおくっている。
「仕事が、山のように積もっている。いつになったら、片づいてしまうのだろう。-それを思って、聖下は失望に見舞われていらっしゃる。ついに聖下は、そのために、お心をかたくなにしてしまわれるのではなかろうか、とわたしは心配しているのでございます。このような仕事は、たとえ一時的にせよ、おやめになったほうが、聖下にとりましては、むしろ賢明の策かと存じます。それは、仕事の奴隷となるよりも、または、聖下がそこに行くのをいやがっていらっしゃる魔の場所へ、徐々にしかし確実に、ずるずる引っぱり込まれていくよりも、聖下にとりましては、よほどましなのでございます。
『わたしが、そこに行くことをいやがっている魔の場所とは、いったいどこのことですか』と、おたずねになるのでございますか。――それは、“心の頑固さ”という場所なのです。この魔の場所へ、聖下をずるずる引きずっていくことでございましょう、この“呪われた仕事”のかずかずは! もし聖下が、当初のそうなさっていらっしゃいましたように、これからもなお引き続いて、こんな仕事に身も心もうち込み、それがために、ご自身のために、ご自身のものを、すこしもお取り置きにならないようでございましたら……」(『反省録』二部二章)
"Je crains qu'au milieu de vos occupations qui sont innombrables, désespérant d'en voir jamais la fin, vous ne laissiez s'endurcir votre âme. Vous feriez bien plus prudemment de vous soustraire a. ces occupations, ne fût-ce que pour un temps, que de permettre qu'elles vous dominent et que peu à peu elles vous mènent infailliblement là où vous ne voulez point aller. Où donc? direz-vous peut-être. A Rendurcissement du coeur.
Voilà où peuvent vous entraîner ces occupations maudites, hae occupationes maledictae, si toutefois vous continuez comme vous l'avez fait d'abord à vous y livrer tout entier, ne vous réservant rien de vous pour vous-même."
さて、教会の統治という仕事より、いっそうすぐれて高貴な仕事、いっそうすぐれて聖なる仕事が、ほかにあるだろうか。
天主の光栄のため、霊魂の利益のために、これよりいっそうすぐれてためになる仕事が、ほかに一つでもあるだろうか。
それなのに、聖ベルナルドはこれを、“呪われた仕事”だといっているのだ。もしこの仕事が、それにたずさわっている人の内的生活を妨害せねばならぬとしたら、それはあきらかに、“呪われた仕事”となるのである。
“呪われた仕事”――なんという強い表現だろう!
なんという恐ろしい言葉だろう!
それは、われわれに、反省をうながしてやまない。この言葉の真の意味を究めつくすためには、まさに一巻の書物が必要だ。もしこの言葉が、聖ベルナルドのような大聖人の口から出なかったとしたら、この偉大な教会博士の筆先からほとばしり出なかったとしたら、われわれはこのような表現にたいして、大いに抗議しなければならないだろう!