2017年10月20日(金)証聖者ケンティの聖ヨハネのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年10月20日、ケンティの聖ヨハネの祝日です。
今日のこの御ミサの後に、感謝の祈りの後に、いつものように一緒に終課を唱える事に致しましょう。明日も10時30分からミサがあります。
「憐れみのある人は、羊の牧者がその群れにするように教えて、道を示す。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はケンティの聖ヨハネの祝日です。ポーランドの守護の聖人です。
そこで今日、ケンティの聖ヨハネという人はどういう人だったのかという事を黙想して、その人生を垣間見て、
私たちはその聖ヨハネの一体、人生の中心の原理は何に基づいて生活していたのかを見る事に致しましょう。
最後に、私たちは聖ヨハネに倣ってどうすれば良いか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖フランシスコ・ザヴェリオが日本に到着して、まだ数年経つか経たないか、20年経つか経たないか、ポーランドのクラクフという街のケンティという村で、聖ヨハネは生まれました。
お父さんはスタニスラオ、お母さんはアンナという、とても敬虔な家族に生まれました。子供の頃から敬虔で、とても落ち着いていて、軽薄な所がなく、罪を知らない子供で、とても優しい良い子で、「きっとこの子は大きくなったら大聖人になるだろう」という事を思わせる子供でした。
頭が非常に良かったので、学校で学んだ後には、クラクフの大学まで進んで、哲学と神学を勉強しました。大学では勧められて教授になり、聴講生たちをその教えと、模範と、実際の生活態度や、あるいはその話す内容で、イエズス様への愛と信心で、聞いた人の心は必ず燃え立たせるようなものでした。
学徳も聖徳も認められて、ついに司祭に叙階されます。司祭になると、ますます司祭としての務めとして、天主様に対して罪の償いと、イエズス様、これほどまで私たちを愛するイエズス様、十字架の苦しみ、御血を流し、御聖体に留まり、私たちを日々、日夜愛して待っておられるイエズス様があまりにも愛されていないので、その罪の償いの為に聖務日課や、あるいはミサ聖祭、祈りと犠牲をたくさん捧げて、罪の償いをしていました。特にミサ聖祭を一生懸命真剣に立てて、罪の償いの為に、天主聖父にイエズス様のいけにえを捧げていました。
イクシーという所の小教区の主任司祭を数年していたのですけれども、あまりにも人々がイエズス様への愛から遠ざかっているという事を嘆いて、それを見るあまりに、そこでの主任司祭を続ける事ができなくなってしまいました。また学校からの要請があり、「ぜひ教授として、学生たちを指導してもらいたい」というひたすらのお願いを受けたので、そこに天主の御摂理を見て、愛の為に、この教授の職務を受け取りました。
もちろん授業を一生懸命準備して、講義して、神学・哲学を教えたのみならず、余った時間には燃え立たせるような火の付くような御説教をして、人々にイエズス様への愛を訴えて、あるいは燃え立つような祈りをいつもして、人々が天主様に立ち返るように、イエズス様をお愛しするように、イエズス様の愛がどれほど素晴らしいか、イエズス様を知るというのがどれほどの事か、という事をいつも訴えて、祈っていました。
聖ヨハネはおそらく、イエズス様と親しい、緊密な祈りを会話をしていたに違いありません。聖ヨハネがお祈りをする時にはきっと間近に、王であるイエズス様の現存を思い浮かべて、その現存の中に、全能の王の前に御前に出て、目と目を合わせて、天主様のその愛の深い眼差しに、ヨハネの愛の眼差しをもって、イエズス様に懇願して、特にイエズス様の御受難を黙想してそれに、イエズス様に祈りを捧げていた、との事です。特にイエズス様の御受難を黙想すると、ついつい時間を忘れて、夜通し黙想し、お祈りし、気が付くと朝になっていた、という事がよくあったそうです。
言い伝えによると、聖務日課によると、聖ヨハネの伝記によると、イエズス様を時々ビジョンで見たり、あるいは親しい会話を、天上の会話をしていた、との事です。天主様の御前にこうやって出て、霊魂の為に、「この霊魂を救ってください」「あの苦しい霊魂を助けてください」「あの私の友のあの霊魂を」「あの霊魂の為にこれを御捧げします」「あぁ、この霊魂を」と、イエズス様にお願いしていたのだと思います。
遂に、「イエズス様のこの御受難をぜひもっとよく知りたい、もっと黙想したい、もっとどうだったろうか」というその情熱のあまりに、エルサレムに巡礼さえもします。イエズス様の巡礼の地に詣でて、その血が流されたその聖なる地に行って、イエズス様の事だけに浸っていました。その情熱のあまりに、本当は非常に危険だったのですけれども、イスラム教徒たちに、イエズス様の十字架に付けられた事、その私たちに対する愛、その価値の尊さ、その真のいけにえについて、説教して回ったそうです。
エルサレムに行った後にはローマにも、エルサレムに行った他にもローマにも4回ポーランドから巡礼に行きました。使徒たちのお墓を巡り、きっと私たちがローマに行った時に受けたその感動を、更に大きなものを、大きな感謝と讃美のうちに、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人のお墓のもとに行って、取り次ぎをお祈りされたのだと思います。
特にそのような巡礼を、自分の愛する隣人や煉獄の霊魂たちの為に捧げた、と言います、煉獄の霊魂たちがその苦しみが短くなりますように。
ある時には、ローマで泥棒に遭いました。身ぐるみを剥がれてしまうのですけれども、その時に盗賊はヨハネに「さぁ、お金はまだあるか!?」「ない。」「そうか」と言って帰ったそうです。すると、いざという時の為に金貨を隠して縫ってあったのを思い出して、「あれ?あ、ここにある、あった!」という事で、盗賊を呼び戻して、「おーい!友よ、ここにまだあった!あげる」と言ったら、その盗賊が、あまりにもこのヨハネが単純で、憐れに満ちた事を言うので、それにびっくりして、「そこまでしたら、本当にお前がかわいそうだ」という事で、自分の取ったものを全部返して、「お前、これで行け。ありがとう」とそのまま自分の取ったものを返した、という逸話があります。
あるいは聖ヨハネは、特に罪人、あるいは貧しい人、病の人に対する、あるいは弱い人に対する特別の優しさがあったので、自分の部屋にはあるいは食卓には、聖アウグスティヌスの部屋に食卓にあった格言と同じものが書かれてあったそうです、「ここでは他人の悪口を言わない。」聖ヨハネは決して他人の悪口を陰口を言わなかったそうです。貧しい人がいれば自分の食べ物を与えて、あるいは服がない人がいればその人に服を買ってあげたり、あるいは自分の持っている服をあげたり、ある時には必要なものをあげてしまったので、その隠す為にマントを覆って足を隠して家に帰ってきて、善行をしたという事が分からないように帰ってきた、とても控えめだった。
自分については非常に厳しくて、いつも床に、寝台も使わずに床にそのまま地べたに寝ていて、食べ物も着る物も、最低限だけで非常に満足していた。それだけではなく、いつも身に荒々しい毛皮のようなチクチクする物を着ていて、体には鞭打ちをしたり、非常にしばしば断食をしていて、特にこのような肉体での苦行は、貞潔を守る為に非常に熱心に行った。それから最後の死ぬ前の35年間は肉を絶って、小斎をずっと守っていた。いつも「この人生は短い」という事を知っていて、「この儚い、短い人生の後に、永遠の巨大な、長い長い終わる事のない幸せが待っている」という事をよく知っていたので、長い間人生のすべてを使って、良い死を迎えるように準備をしていた。
準備をしていて、準備をして準備をして、良い死を迎える事ができるように、いつも成聖の状態を保っていたのですけれども、自分の健康が衰えてきて、「あぁ、死期が近付いた」と分かると、自分の持ち物を全部貧しい人に配ってしまった。「いつもイエズス様と一致していたい」という願いだけしか持っていなかった。そこで聖ヨハネは1473年の12月24日、クリスマス・イブに亡くなりました。
聖ヨハネの取り次ぎによって、生きていた時もそうだったのですが、死後ものすごい多くの奇跡が起こって、そのお墓にお参りする来る人の数がますます増えていったのです。遂には、教皇様クレメンテ十三世は1767年に列聖して、ポーランドとリトアニアの守護の聖人と定めました。
では聖ヨハネの関心事というのは何だったのでしょうか?
それは、「天主様の憐れみ」であって、「天主がこれほども私たちを愛して下さってるのもかかわらず、愛されていない。だからその天主をお慰めしたい。その罪を償いたい」という願いでした。その為に、祈りと犠牲と苦行の一生を送りました。
もう1つは、「天主様のこの御望みは、霊魂の救いだ」という事で、「多くの隣人が、この霊魂が救われるように、特に弱い人や、かわいそうな人や、貧しい人を助けたい。無知の人、知らない人に、イエズス様の事を教えたい」という憐れみで燃えていました。特に「隣人の霊魂を救いたい、その隣人を助けたい」という事によって、隣人に接しておられました。この2つは結局は1つでした、「天主への愛」と、「天主を愛するが為に、多くの隣人を救いたい」という事でした。
ケンティの聖ヨハネの生涯を見ると、ちょうどファチマの二人の子供たちの生涯や、ファチマでマリア様が私たちにお願いした事とぴったり重なってきます。ケンティの聖ヨハネもマリア様も、私たちに同じ事を教えているようです。
「天主様は私たちを救いたい、永遠の命を与えたいと思っている。その為に全てをしたのだけれども、その愛は愛されていない。全く無視されて、それどころかもう既に極限まで侮辱され続けている。人類はこれ以上、罪を犯してはいけない。誰かがその罪の償いをしなければならない。その罪の償いというのは、単なるお祈りの口先だけで唱えるだけではなく、私たちがイエズス様の御前に行って、目と目を合わせて、イエズス様の天主の御稜威の前に、『マリア様と共に出ることができる』という特別の特権を使って、ぜひマリア様を通して、イエズス様に御憐れみと御赦しとを乞い求めて償いを果たす。天主に対する罪の償いを果たすと同時に、多くの霊魂が救われるように私たちが祈る、犠牲をする」という事ではないでしょうか。
では私たちも、マリア様の御心に入る事ができますように、ケンティの聖ヨハネの真似をする事ができますように、御取り次ぎを求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年10月20日、ケンティの聖ヨハネの祝日です。
今日のこの御ミサの後に、感謝の祈りの後に、いつものように一緒に終課を唱える事に致しましょう。明日も10時30分からミサがあります。
「憐れみのある人は、羊の牧者がその群れにするように教えて、道を示す。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はケンティの聖ヨハネの祝日です。ポーランドの守護の聖人です。
そこで今日、ケンティの聖ヨハネという人はどういう人だったのかという事を黙想して、その人生を垣間見て、
私たちはその聖ヨハネの一体、人生の中心の原理は何に基づいて生活していたのかを見る事に致しましょう。
最後に、私たちは聖ヨハネに倣ってどうすれば良いか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖フランシスコ・ザヴェリオが日本に到着して、まだ数年経つか経たないか、20年経つか経たないか、ポーランドのクラクフという街のケンティという村で、聖ヨハネは生まれました。
お父さんはスタニスラオ、お母さんはアンナという、とても敬虔な家族に生まれました。子供の頃から敬虔で、とても落ち着いていて、軽薄な所がなく、罪を知らない子供で、とても優しい良い子で、「きっとこの子は大きくなったら大聖人になるだろう」という事を思わせる子供でした。
頭が非常に良かったので、学校で学んだ後には、クラクフの大学まで進んで、哲学と神学を勉強しました。大学では勧められて教授になり、聴講生たちをその教えと、模範と、実際の生活態度や、あるいはその話す内容で、イエズス様への愛と信心で、聞いた人の心は必ず燃え立たせるようなものでした。
学徳も聖徳も認められて、ついに司祭に叙階されます。司祭になると、ますます司祭としての務めとして、天主様に対して罪の償いと、イエズス様、これほどまで私たちを愛するイエズス様、十字架の苦しみ、御血を流し、御聖体に留まり、私たちを日々、日夜愛して待っておられるイエズス様があまりにも愛されていないので、その罪の償いの為に聖務日課や、あるいはミサ聖祭、祈りと犠牲をたくさん捧げて、罪の償いをしていました。特にミサ聖祭を一生懸命真剣に立てて、罪の償いの為に、天主聖父にイエズス様のいけにえを捧げていました。
イクシーという所の小教区の主任司祭を数年していたのですけれども、あまりにも人々がイエズス様への愛から遠ざかっているという事を嘆いて、それを見るあまりに、そこでの主任司祭を続ける事ができなくなってしまいました。また学校からの要請があり、「ぜひ教授として、学生たちを指導してもらいたい」というひたすらのお願いを受けたので、そこに天主の御摂理を見て、愛の為に、この教授の職務を受け取りました。
もちろん授業を一生懸命準備して、講義して、神学・哲学を教えたのみならず、余った時間には燃え立たせるような火の付くような御説教をして、人々にイエズス様への愛を訴えて、あるいは燃え立つような祈りをいつもして、人々が天主様に立ち返るように、イエズス様をお愛しするように、イエズス様の愛がどれほど素晴らしいか、イエズス様を知るというのがどれほどの事か、という事をいつも訴えて、祈っていました。
聖ヨハネはおそらく、イエズス様と親しい、緊密な祈りを会話をしていたに違いありません。聖ヨハネがお祈りをする時にはきっと間近に、王であるイエズス様の現存を思い浮かべて、その現存の中に、全能の王の前に御前に出て、目と目を合わせて、天主様のその愛の深い眼差しに、ヨハネの愛の眼差しをもって、イエズス様に懇願して、特にイエズス様の御受難を黙想してそれに、イエズス様に祈りを捧げていた、との事です。特にイエズス様の御受難を黙想すると、ついつい時間を忘れて、夜通し黙想し、お祈りし、気が付くと朝になっていた、という事がよくあったそうです。
言い伝えによると、聖務日課によると、聖ヨハネの伝記によると、イエズス様を時々ビジョンで見たり、あるいは親しい会話を、天上の会話をしていた、との事です。天主様の御前にこうやって出て、霊魂の為に、「この霊魂を救ってください」「あの苦しい霊魂を助けてください」「あの私の友のあの霊魂を」「あの霊魂の為にこれを御捧げします」「あぁ、この霊魂を」と、イエズス様にお願いしていたのだと思います。
遂に、「イエズス様のこの御受難をぜひもっとよく知りたい、もっと黙想したい、もっとどうだったろうか」というその情熱のあまりに、エルサレムに巡礼さえもします。イエズス様の巡礼の地に詣でて、その血が流されたその聖なる地に行って、イエズス様の事だけに浸っていました。その情熱のあまりに、本当は非常に危険だったのですけれども、イスラム教徒たちに、イエズス様の十字架に付けられた事、その私たちに対する愛、その価値の尊さ、その真のいけにえについて、説教して回ったそうです。
エルサレムに行った後にはローマにも、エルサレムに行った他にもローマにも4回ポーランドから巡礼に行きました。使徒たちのお墓を巡り、きっと私たちがローマに行った時に受けたその感動を、更に大きなものを、大きな感謝と讃美のうちに、使徒聖ペトロ、聖パウロ、諸聖人のお墓のもとに行って、取り次ぎをお祈りされたのだと思います。
特にそのような巡礼を、自分の愛する隣人や煉獄の霊魂たちの為に捧げた、と言います、煉獄の霊魂たちがその苦しみが短くなりますように。
ある時には、ローマで泥棒に遭いました。身ぐるみを剥がれてしまうのですけれども、その時に盗賊はヨハネに「さぁ、お金はまだあるか!?」「ない。」「そうか」と言って帰ったそうです。すると、いざという時の為に金貨を隠して縫ってあったのを思い出して、「あれ?あ、ここにある、あった!」という事で、盗賊を呼び戻して、「おーい!友よ、ここにまだあった!あげる」と言ったら、その盗賊が、あまりにもこのヨハネが単純で、憐れに満ちた事を言うので、それにびっくりして、「そこまでしたら、本当にお前がかわいそうだ」という事で、自分の取ったものを全部返して、「お前、これで行け。ありがとう」とそのまま自分の取ったものを返した、という逸話があります。
あるいは聖ヨハネは、特に罪人、あるいは貧しい人、病の人に対する、あるいは弱い人に対する特別の優しさがあったので、自分の部屋にはあるいは食卓には、聖アウグスティヌスの部屋に食卓にあった格言と同じものが書かれてあったそうです、「ここでは他人の悪口を言わない。」聖ヨハネは決して他人の悪口を陰口を言わなかったそうです。貧しい人がいれば自分の食べ物を与えて、あるいは服がない人がいればその人に服を買ってあげたり、あるいは自分の持っている服をあげたり、ある時には必要なものをあげてしまったので、その隠す為にマントを覆って足を隠して家に帰ってきて、善行をしたという事が分からないように帰ってきた、とても控えめだった。
自分については非常に厳しくて、いつも床に、寝台も使わずに床にそのまま地べたに寝ていて、食べ物も着る物も、最低限だけで非常に満足していた。それだけではなく、いつも身に荒々しい毛皮のようなチクチクする物を着ていて、体には鞭打ちをしたり、非常にしばしば断食をしていて、特にこのような肉体での苦行は、貞潔を守る為に非常に熱心に行った。それから最後の死ぬ前の35年間は肉を絶って、小斎をずっと守っていた。いつも「この人生は短い」という事を知っていて、「この儚い、短い人生の後に、永遠の巨大な、長い長い終わる事のない幸せが待っている」という事をよく知っていたので、長い間人生のすべてを使って、良い死を迎えるように準備をしていた。
準備をしていて、準備をして準備をして、良い死を迎える事ができるように、いつも成聖の状態を保っていたのですけれども、自分の健康が衰えてきて、「あぁ、死期が近付いた」と分かると、自分の持ち物を全部貧しい人に配ってしまった。「いつもイエズス様と一致していたい」という願いだけしか持っていなかった。そこで聖ヨハネは1473年の12月24日、クリスマス・イブに亡くなりました。
聖ヨハネの取り次ぎによって、生きていた時もそうだったのですが、死後ものすごい多くの奇跡が起こって、そのお墓にお参りする来る人の数がますます増えていったのです。遂には、教皇様クレメンテ十三世は1767年に列聖して、ポーランドとリトアニアの守護の聖人と定めました。
では聖ヨハネの関心事というのは何だったのでしょうか?
それは、「天主様の憐れみ」であって、「天主がこれほども私たちを愛して下さってるのもかかわらず、愛されていない。だからその天主をお慰めしたい。その罪を償いたい」という願いでした。その為に、祈りと犠牲と苦行の一生を送りました。
もう1つは、「天主様のこの御望みは、霊魂の救いだ」という事で、「多くの隣人が、この霊魂が救われるように、特に弱い人や、かわいそうな人や、貧しい人を助けたい。無知の人、知らない人に、イエズス様の事を教えたい」という憐れみで燃えていました。特に「隣人の霊魂を救いたい、その隣人を助けたい」という事によって、隣人に接しておられました。この2つは結局は1つでした、「天主への愛」と、「天主を愛するが為に、多くの隣人を救いたい」という事でした。
ケンティの聖ヨハネの生涯を見ると、ちょうどファチマの二人の子供たちの生涯や、ファチマでマリア様が私たちにお願いした事とぴったり重なってきます。ケンティの聖ヨハネもマリア様も、私たちに同じ事を教えているようです。
「天主様は私たちを救いたい、永遠の命を与えたいと思っている。その為に全てをしたのだけれども、その愛は愛されていない。全く無視されて、それどころかもう既に極限まで侮辱され続けている。人類はこれ以上、罪を犯してはいけない。誰かがその罪の償いをしなければならない。その罪の償いというのは、単なるお祈りの口先だけで唱えるだけではなく、私たちがイエズス様の御前に行って、目と目を合わせて、イエズス様の天主の御稜威の前に、『マリア様と共に出ることができる』という特別の特権を使って、ぜひマリア様を通して、イエズス様に御憐れみと御赦しとを乞い求めて償いを果たす。天主に対する罪の償いを果たすと同時に、多くの霊魂が救われるように私たちが祈る、犠牲をする」という事ではないでしょうか。
では私たちも、マリア様の御心に入る事ができますように、ケンティの聖ヨハネの真似をする事ができますように、御取り次ぎを求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。