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第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である その二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命 (続き)


どのようにして、この霊魂は、これほど嘆かわしい状態におちていったのだろうか。
 無経験だったからである。
 あんまりおのれに、頼みすぎたからである。
 向こう見ずだったからである。
 虚栄心が強かったからである。
 臆病だったからである。
 持っている霊的資産は、ごくわずかだった。かまうものか!
 かれはただメクラめっぽう、危険にむかって突進していった。
 こうして、内的生活のたくわえは、みんな使い果たした。霊魂は、ちょうど、あまり泳げないくせに、激流に身をおどらせた、無鉄砲な人のようだ。激流に抗して泳ぐちからは、自分には全然ない。ものすごいうず巻きにまかれて、おぼれ死んでしまうのがオチである。
 いったい、かれはどのような経路をたどって、こんなにひどい堕落におちていったのか。
 今しばらく、ふりかえって、それを眺めてみよう。順序を追って、堕落の過程を、しらべてみよう。

第一の過程――霊魂は、福音の働き手の内的生活と、そのたずさわっている事業との関係において、超自然の生命が、超自然の世界が、天主の摂理が、イエズス・キリストのご活動が、どんなに重要な役割を果たすか、という点にかんして、ハッキリした、力づよい信念を、だんだんに失っていった。(もし初めに、それを持っていたとすれば!)
 おのれの事業を、信仰の目でみないで、欺むかれやすい世間的な目でみる。虚栄心そのものが、かれのいわゆるりっぱな目的を、たくみにおだてる。「どんな話を、お望みですか。天主さまはわたしに、雄弁の賜ものを、おあたえくださったんです。ほんとにありがたいことです」――ウヌぼれで、スッカリ世間的になった、ある説教師は、自分にへつらう人たちに、傲然とこう言い放ったものである。
 かれが求めるものは、天主よりむしろ、自分自身である。自分の名声を、自分の光栄を、自分自身の利益を、第一にしているのだ。「もしわたしが、今もなお、人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストのしもべではあるまい」(ガラツィヤ1・10)という聖パウロの言葉は、かれにとって、もはやなんの意味もないのだ。
 内的生活の諸原理を知らない、ということのほかに、いまひとつ、この堕落行の第一の過程を特徴づけるのは、かれの内的生活に、超自然的土台がない、ということである。超自然的土台がないからこそ、それが直接の原因となって、霊魂は、この過程にみられるような状態にまで堕落したのである。また、この土台がないためにこそ、その直接の結果として、放心におちいるとか、天主の現存を忘れ果てるとか、射禱を放棄してしまうとか、心の取り締まりを投げだしてしまうとか、良心の鋭敏さを欠くとか、規則正しい生活を捨ててしまうとか、とにかくこんなみじめな状態におちこむのである。
 ここから、冷淡は、もう近い。まだ始まってはいないが。
 
 第二の過程――内的な人は、自分の義務を、きちょうめんに果たす。それで、時間をひじょうに惜しむ。きちんと時間割をつくり、日課表をもうけて、それを正確にまもる。そうしないなら、朝起きてから晩寝るまでの一日は、ただ浮雲の生活にすぎない。らくな生活、気ままな生活、失われた生活にすぎない――と、かれは考えている。
 活動的生活にたずさわる人で、その活動に超自然的土台がないなら、遠からず、右にいった浮雲のような生活をするようになる。時間の使い分けに、信仰の精神がないものだから、じきに霊的読書をやめてしまう。たとえ読んだにしても、ちっとも勉強にはならない。――教会博士たちだったら、主日の福音の解説に、まる一週間もかけて準備してもよかったろう。だが、自分は、この忙しさではね……。

 偉い人たちが見えていないときには、好んでインスタント説教をする。インスタント説教だったら、お手のものだ、と独りぎめにして得意になっている。まじめな書物より雑誌のほうが好きである。固定した、長続きのする考えなど、かれにはない。蝶蝶のように、目は雑誌の口絵から、講談物へと飛びまわっている。
 まじめな知的仕事――すなわち、勉強は、人間に課せられた、天主のおきてである。小人だって、勉強もすれば閑居しないのだから、したがって不善をなさない。勉強は、徳にもなるし、苦業にもなる。それなのに、かれは時間がありあまるほどあっても、つまらぬことに費してしまう。気晴らしの時間を、できるだけたくさん都合しようと、くだらぬ心配ばかりしている。――何をやろうと、こっちの勝手だ! 手足まで縛られる法はない。自分には、これほど神聖な事業がある。これほどの社会的義務がある。時間はいくらあっても足りはしない。健康のため、気晴らしのために、これだけはどうしても必要だと思うのだが、その最小限の時間さえ、容易に見いだせない。それなのに、信心業に消費される時間ときたら、あまりに長すぎる。黙想、聖務日課、ミサ聖祭、信徒司牧、などなど――なんとかして、これをけずらなければならぬ!

 さっそく、かれは黙想を、短縮してかかる。黙想の時間も、不規則がちになる。すこしずつ短縮していったのが、あとでは全然やめてしまう。黙想を忠実にするためには、どうしても早起きしなければならない。かれは夜ふかしをする。それで、朝寝坊をする。早く起きるためには、早く寝なければならぬ。ところが、りっぱな理由があるので、夜おそくまで起きている。

 さて、活動的生活に従事する人で、黙想を全然やめてしまうか、または十分ないしは十五分に短縮してしまうなら、それは敵の前で武装を解除するにひとしい。「奇跡でもおきないかぎり、黙想をしない人は、大罪におちこむようになります」とは、聖アルフォンソの言葉である。
« A moins d’un miracle, dit saint Alphonse, sans oraison, on finit par tomber dans le péché mortel. »



「黙想をしない人は、超自然的に、なにもできません。どんなことにおいても、おのれにうち勝つことができません。黙想をしない人の生活は、純然たる動物的生活です」
« Un homme sans oraison n'est capable de rien, pas même de se renoncer en quoi que ce soit : c’est la vie animale toute pure. »
これは、聖ビンセンチオ・ア・パウロの言葉である。


 「一日に、タッタ十分間しか、黙想をしない者がありましたら、わたしはかれの救霊について、ハッキリしたことを、いいきることができます。黙想をしない人は、まもなく、けだものか、悪魔かになってしまいます。もしあなたが、黙想をしませんなら、あなたを地獄に投げこむために、悪魔は必要ではありません。あなた自身が、あなたを地獄に投げこむのです。これに反して、世界最大の罪人が、ここにいます。もしかれが、一日にタッタ十五分の黙想をしましたら、きっと天主さまから、回心の恵みをいただくでしょう。もしかれが、一日に十五分の黙想を、最後までつづけますなら――わたしは断言します――かれはまちがいなく天国にいくでしょう」 
« Sans oraison, on devient bientôt une brute ou un démon. Si vous ne faites pas oraison, vous n’avez pas besoin du démon pour vous jeter en enfer, vous vous y jetez de vous-même. Au contraire, donnez-moi le plus grand pécheur, s’il fait oraison seulement un quart d’heure par jour, il se convertira; s’il persévère, il est sûr de son salut éternel. »

 これは、大聖テレジアの言葉だといわれているが、これらの言葉の理論的当否は別として、本書の著者のわたしは、活動的生活に従事する司祭、修道者たちの霊魂についての、自分自身の経験から割りだして、次の一事を、自信をもって断言できると思う。すなわち、もし福音の働き手が、一日にせめて半時間の黙想をしないなら――様式にしたがった、まじめな黙想、――おのれに全然信頼をおかず、ただ祈りのみに信頼をおく、という土台のうえにすえられた、真実な決心をとらせる黙想をしないなら、――これこれの悪徳と戦わねばならぬ、これこれの善徳を獲得しなければならぬ、そのためには明日をたのまず、きょうこの日、これこれのことを――ずいぶん骨の折れる努力を要するこれこれの修業をしなければならぬ、というふうに、実生活にまでその効果をおよぼす、まじめな黙想をしないなら、わたしは断言する、このような福音の働き手は、必然的に、意志の冷淡へと落ち込んでいく。
 そうなると、不完全を避けることなど、眼中にはない。平気で、小罪をおかす。
 ちょうど水でも飲むように、小罪をおかすのである。
 注意して、心の取り締まり(la garde du coeur)を実行しないものだから、どんなに過ちをおかしても、良心は一向それに気がつかない。

 霊魂は、もはや何も見えない、メクラの状態である。
 過ちと思っていないものを避けるために、どうして戦う必要があるだろうか。
 霊魂は、わずらっている。病勢は、もうずいぶん進んでいる。
 黙想を捨てるから、いっさいの規則正しい生活を捨てるから(そして、これこそは、第二の過程の特長である)、当然の結果として、こんな憂慮すべき状態におちこんでしまうのである。

(この章 続く)


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