アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
第三の過程――この過程の病状は、聖務日課を、おろそかにとなえることである。
教会の公式祈禱である聖務日課は、キリストの兵士に、かれがときどき戦場で倒れるさい、すぐに立ちあがるための、喜びと力をあたえる特効薬である。聖務日課はまた、霊魂にとっては、感覚の世界を超越して、高く天主の生命のいとなみにまで雄飛し、そこで静かにいこうためのツバサともなる。
それなのに、こんなにありがたい聖務日課が、かれにとっては、やまらなくいやな重荷となる。典礼生活こそは、かれにとっても、信者たちにとっても、光りと喜び、気力と功徳、および天主の恩寵の源泉であるはずなのに、あわれかれ自身にとっては、いやで仕方のない義務でしかなくなる。そして、いやいやながら、この義務を果たすのである。――それは、敬神徳に抵触している、というだけでは足りないのだ。事業熱が、この美しい善徳を枯渇させてしまったのである。かれが、典礼のなかに見るものは、天主への礼拝、崇敬よりはむしろ、人目をひく祭典美であり、芸術美である。
世に知られず、ただ独りでする、しかし誠意のこもった「くちびるのいけにえ」(聖パウロの言葉)である、聖務日課の祈りは、かれの心に、なんの反響も呼ばない。――賛美も、嘆願も、感謝も、赦罪も、祈願も、かれにとっては全く無意味である。
つい最近までは、まじめに、聖務日課をとなえていたかれである。そのころ、よくかれは心のなかで、誇らしげにいったものだ。「自分だって、聖務日課を専門にとなえる、修道院の歌隊修道者におとらず、『天主よ、わたしは天使たちの前で、あなたをほめ歌います』(詩編137・2)と、天主さまに申し上げることができるのだ」と。それは正しい誇りであったにちがいない。むかしは、かぐわしい典礼生活の芳香で、かれの霊魂の聖所は、かんばしい香りをただよわせていたのに、いまはもう騒々しい、町のちまたと化してしまった。
事業への余計な心配と、ふだんにふけっている放心が、かれの雑念を倍加して、心をからっぽにしてしまったのである。そのうえ、かれはこの憂慮すべき状態から救われようと、すこしも努力しない。心の戦いをあえてしない。
「天主は、激動のなかには、いらっしゃらない」Non in commotions Dominus.(列王の書19・11)
心が、激しくゆれ動いているとき、ほんとうの祈りができるはずがない。大いそぎでとなえる。わけもないのに、途中でやめて、ほかの仕事をする。なおざりにとなえる。いねむりをする。あとまわしにする。そんなことをすれば睡魔におそわれて、とうていとなえきれないと知りながら、いちばん最後の時間まで持ち越す。……たぶん、ときどきは、省略することもあろう。
こうなれば、せっかくの霊薬も、毒になるだけ。賛美のいけにえも、罪の連禱になるだけだ。
しかも、おそらく、小罪だけではすまないようになるだろう。
第四の過程――前のと、つながっている。
ふちは、ふちを呼ぶ!
こんどは、聖務日課どころではない。
大切な秘跡にまで、堕落の手をのばす。
むろん、聖物だと思って、受けもし、授けもするだろう。
だが、秘跡に含まれ、そこに鼓動している超自然の生命は、すこしも実感できない。
イエズスが、聖櫃の中に現存しておいでになる、告解場にも臨在しておいでになる、とはタダ書物のなかの知識であって、この信仰が、かれの霊魂の深奥までしみとおっていないのである。
カルワリオのいけにえたるミサ聖祭までが、かれにとっては、“閉ざされた園”である。たしかにまだ、汚聖にまでは行っていないだろう。すくなくとも、そう信じたい。だが、かれはもはやキリストの生ける御血の愛熱を、すこしも実感しない。聖変化のときも、心は氷のようにつめたい。聖体拝領も、冷淡で、気を散らしたまま、そして上べだけである。聖の聖なる儀式とスッカリ慣れっこになって、尊敬心などみじんもない。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしに執行している。おそらくいやがってさえいるのではなかろうか。
こうまで格好悪い使徒の生活は、あきらかに、イエズスのご生命から遠く、かけはなれている。したがって、イエズスが、その親しい、ほんとうの友にでなければおささやきにならない内的なお言葉も、かれにとってはなんの興味もない。
それでも、天主なる友のイエズスは、この不信の弟子に呼びかけることを、かたときもおやめにならない。かれの良心の空に、あるときは、おしかりのカミナリをとどろかし、あるときは、照明の稲妻を、お放ちになる。
イエズスは、反響を待っておいでになる。心のとびらを、たたいておいでになる。
内に入れてくれ、と願っておいでになる。
「わたしのもとにおいで、傷ついたあわれな霊魂よ、ただわたしのもとに来なさい。来さえすれば、なおしてあげよう。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マテオ11・28)……『わたしこそは、あなたの救いである』(詩編34篇)……『わたしのもとに来なさい。人の子が来たのは、失われたものをたずねだして、救うためである』(ルカ19・10)……」
イエズスは、こういっておいでになる。
ああ、そのお言葉の、心にも耳にも、甘美なこと!
やさしくも哀切なこと! それは、涙なしにはききえない。
ああ、そのお言葉の、迫力にみちてること!
「心を入れかえなければならぬ。もっとりっぱにならなければならぬ!」
かれは、スッカリ感激して、心にこう誓うのである。
ああ、しかし、心のとびらが、わずかしか開かれていないので、イエズスはおはいりになれない。冷えきった霊魂の園には、あたたかい良い考えのタネがたくさんまかれたが、明日の収穫はとうてい期待できない。天主の恩寵はいたずらに通りすぎて、霊魂にもたらしたものは、ただ忘恩という負債だけだ。
それでも、イエズスは憐れみ深い。霊魂が天主の復しゅうを呼ばないために、その心に語り続けられるだろう。「イエズスを、おそれなさい。イエズスは、ひとたび通りすぎたら、二度とは帰ってこられないのだから」Time Jesum transeuntem et non revertentem と。
(この章 続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
二、内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命(続き2)
第三の過程――この過程の病状は、聖務日課を、おろそかにとなえることである。
教会の公式祈禱である聖務日課は、キリストの兵士に、かれがときどき戦場で倒れるさい、すぐに立ちあがるための、喜びと力をあたえる特効薬である。聖務日課はまた、霊魂にとっては、感覚の世界を超越して、高く天主の生命のいとなみにまで雄飛し、そこで静かにいこうためのツバサともなる。
それなのに、こんなにありがたい聖務日課が、かれにとっては、やまらなくいやな重荷となる。典礼生活こそは、かれにとっても、信者たちにとっても、光りと喜び、気力と功徳、および天主の恩寵の源泉であるはずなのに、あわれかれ自身にとっては、いやで仕方のない義務でしかなくなる。そして、いやいやながら、この義務を果たすのである。――それは、敬神徳に抵触している、というだけでは足りないのだ。事業熱が、この美しい善徳を枯渇させてしまったのである。かれが、典礼のなかに見るものは、天主への礼拝、崇敬よりはむしろ、人目をひく祭典美であり、芸術美である。
世に知られず、ただ独りでする、しかし誠意のこもった「くちびるのいけにえ」(聖パウロの言葉)である、聖務日課の祈りは、かれの心に、なんの反響も呼ばない。――賛美も、嘆願も、感謝も、赦罪も、祈願も、かれにとっては全く無意味である。
つい最近までは、まじめに、聖務日課をとなえていたかれである。そのころ、よくかれは心のなかで、誇らしげにいったものだ。「自分だって、聖務日課を専門にとなえる、修道院の歌隊修道者におとらず、『天主よ、わたしは天使たちの前で、あなたをほめ歌います』(詩編137・2)と、天主さまに申し上げることができるのだ」と。それは正しい誇りであったにちがいない。むかしは、かぐわしい典礼生活の芳香で、かれの霊魂の聖所は、かんばしい香りをただよわせていたのに、いまはもう騒々しい、町のちまたと化してしまった。
事業への余計な心配と、ふだんにふけっている放心が、かれの雑念を倍加して、心をからっぽにしてしまったのである。そのうえ、かれはこの憂慮すべき状態から救われようと、すこしも努力しない。心の戦いをあえてしない。
「天主は、激動のなかには、いらっしゃらない」Non in commotions Dominus.(列王の書19・11)
心が、激しくゆれ動いているとき、ほんとうの祈りができるはずがない。大いそぎでとなえる。わけもないのに、途中でやめて、ほかの仕事をする。なおざりにとなえる。いねむりをする。あとまわしにする。そんなことをすれば睡魔におそわれて、とうていとなえきれないと知りながら、いちばん最後の時間まで持ち越す。……たぶん、ときどきは、省略することもあろう。
こうなれば、せっかくの霊薬も、毒になるだけ。賛美のいけにえも、罪の連禱になるだけだ。
しかも、おそらく、小罪だけではすまないようになるだろう。
第四の過程――前のと、つながっている。
ふちは、ふちを呼ぶ!
こんどは、聖務日課どころではない。
大切な秘跡にまで、堕落の手をのばす。
むろん、聖物だと思って、受けもし、授けもするだろう。
だが、秘跡に含まれ、そこに鼓動している超自然の生命は、すこしも実感できない。
イエズスが、聖櫃の中に現存しておいでになる、告解場にも臨在しておいでになる、とはタダ書物のなかの知識であって、この信仰が、かれの霊魂の深奥までしみとおっていないのである。
カルワリオのいけにえたるミサ聖祭までが、かれにとっては、“閉ざされた園”である。たしかにまだ、汚聖にまでは行っていないだろう。すくなくとも、そう信じたい。だが、かれはもはやキリストの生ける御血の愛熱を、すこしも実感しない。聖変化のときも、心は氷のようにつめたい。聖体拝領も、冷淡で、気を散らしたまま、そして上べだけである。聖の聖なる儀式とスッカリ慣れっこになって、尊敬心などみじんもない。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしに執行している。おそらくいやがってさえいるのではなかろうか。
こうまで格好悪い使徒の生活は、あきらかに、イエズスのご生命から遠く、かけはなれている。したがって、イエズスが、その親しい、ほんとうの友にでなければおささやきにならない内的なお言葉も、かれにとってはなんの興味もない。
それでも、天主なる友のイエズスは、この不信の弟子に呼びかけることを、かたときもおやめにならない。かれの良心の空に、あるときは、おしかりのカミナリをとどろかし、あるときは、照明の稲妻を、お放ちになる。
イエズスは、反響を待っておいでになる。心のとびらを、たたいておいでになる。
内に入れてくれ、と願っておいでになる。
「わたしのもとにおいで、傷ついたあわれな霊魂よ、ただわたしのもとに来なさい。来さえすれば、なおしてあげよう。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』(マテオ11・28)……『わたしこそは、あなたの救いである』(詩編34篇)……『わたしのもとに来なさい。人の子が来たのは、失われたものをたずねだして、救うためである』(ルカ19・10)……」
イエズスは、こういっておいでになる。
ああ、そのお言葉の、心にも耳にも、甘美なこと!
やさしくも哀切なこと! それは、涙なしにはききえない。
ああ、そのお言葉の、迫力にみちてること!
「心を入れかえなければならぬ。もっとりっぱにならなければならぬ!」
かれは、スッカリ感激して、心にこう誓うのである。
ああ、しかし、心のとびらが、わずかしか開かれていないので、イエズスはおはいりになれない。冷えきった霊魂の園には、あたたかい良い考えのタネがたくさんまかれたが、明日の収穫はとうてい期待できない。天主の恩寵はいたずらに通りすぎて、霊魂にもたらしたものは、ただ忘恩という負債だけだ。
それでも、イエズスは憐れみ深い。霊魂が天主の復しゅうを呼ばないために、その心に語り続けられるだろう。「イエズスを、おそれなさい。イエズスは、ひとたび通りすぎたら、二度とは帰ってこられないのだから」Time Jesum transeuntem et non revertentem と。
(この章 続く)