アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
聖性とは、人間の意志が天主のみ旨と極めて密接に一致合体するまでにおし進められた内的生活、これ以外のなにものでもないのだから、恩寵の奇跡でもないかぎり、一般には、霊魂はこの内的生活の絶頂に、多くの苦しい努力をはらって、浄化の道と照明の道との段階を全て通ってでなければたどり着かない。
La sainteté n’étant autre chose que la vie intérieure poussée jusqu’à l’union très étroite de la volonté avec celle de Dieu, d’ordinaire et sauf un miracle de la grâce, l’âme n’arrive à ce terme qu’après avoir parcouru au milieu de multiples et pénibles efforts, toutes les étapes de la vie purgative et illuminative.
霊魂の聖化の過程において、これは霊生の常則としてとおっていることだが、天主のお働きと霊魂の働きは、逆比例して進行する。天主のお働きが、霊魂の聖化の役割において、日に日に、勢力をましていくにつれ、霊魂の働きは逆に、聖化のイニシャチブをとる役割においては、日に日に、すこしずつ減少していく。それも、初心者の聖化において、また完全者の聖化において、天主のお働きはそれぞれちがってくる。
初心者の聖化において、天主のお働きは、そんなに目にみえて明らかではない。それは、とりわけ、霊魂に、被造物への“警戒”(la vigilance)と、天主の探求の“嘆願”(la supplication)をしげきし、これを支え、確保させる、恩寵のすすめの形であらわれる。このようにして、天主は、霊魂に、新たな努力をさそう恩寵を獲得させるための手段を、お与えになる。
完全者の聖化において、天主はより強く、より深く、より広範囲に、お働きになる。そして、ときとしては、霊魂を、ご自分のお働きに一致させるために、霊魂にはただごく簡単な、内心の承諾しかお求めにならない。
初心者も、冷淡者も、そして罪びとまでも、聖主がこれをご自分にお近づけになろうとする時には、まず、天主を求めるように仕向けられる衝動を、心のなかに実感する。次に、天主をおよろこばせしたいとの誠意を、すこしずつ証拠だてようとする。最後に、自愛心の偶像をほふって、その代わりに、イエズス・キリストだけを、おのれの心に君臨させるために、天主からおくられるいっさいの出来ごとを、心から歓迎する。このばあい、天主のお働きは、霊魂をはげますことに、霊魂を助けることに、限定されている。
“聖人”の内的生活において、天主のお働きは、前記の二者よりも、いっそうはるかに強い。そして、いっそうはるかに全面的である。あらゆる疲労、あらゆる苦悩のさなかにあっても、あらゆる屈辱のさかずきを飲み、あらゆる病苦の重圧のもとにあっても、聖人は、ただ天主のお働きにおのれを打ちまかせ、天主からされるままになっている。このおまかせの精神がないなら、死の苦しみにもひとしい毎日の十字架をたえしのぶことは、とうていできない。そして、この十字架こそは、天主が彼の霊魂を、超自然の生命に成熟させるおぼし召しから、み摂理の計画として与えられる。
完全者の霊魂においてこそ、「天主は万物を、キリストの足もとに従わせた。それは、天主がすべての者にあって、すべてとなられるためである」Deus subjicit sibi omnia, ut sit Deus omnia in omnibus(コリント前15・28)という聖パウロの言葉が、みごとに実現する。
この霊魂は、ただイエズス・キリストによって生きる。「生きているのは、もはや、私ではない。キリストこそ、私のうちに生きておられるのである」Vivo autem jam non ego; vivit vero in me Christus(ガラツィヤ2・20)という聖パウロの証言を、かれもまた、おのが一身に、実現している。かれにおいて、考え、判断し、行動するものは、ただイエズスのご精神だけであって、かれ自身ではない。むろん、栄光の生命なる天国で、はじめて達成される完全天主化の境地には、まだ達してはいないだろう。だが、霊魂はすでに、至福直観による天主との一致の性格を、おのれのうちに、ほかのに反映している。
いうまでもないことだが、初心者や冷淡者、さらにただの信心家は、こんなに高い、天主との一致にとどまっている者ではない。かれらの霊生の状態には、それにあてはまる独特の、一連の手段があるのだから、この手段を用いて、霊生をいとなめばよい。しかし、初心者は、なんといっても、内的生活の見習者であるから、つらい苦労をする。進歩も、いたって緩慢である。おぼつかない手つきでやるものだから、内的生活の仕事も、きわめてお粗末である。
これに反して、完全者はすでに、内的生活の熟練工なのだから、仕事も手っとり早く、そして立派にやってのける。困難も、ないことはないが、あってもわずかで、とにかくすばらしいものを作りあげる。天主との一致の殿堂を、やすやすと築きあげるのである。
しかし、使徒的事業にたずさわる人たちが、その内的生活の深い浅いによって、右に述べた種類に区別されはしても、その各自にたいする天主のご意図に変化はないのだ。天主は、かれらのだれにたいしても、そしていつも、そのたずさわる事業が、当人にとって、聖化の手段であることを、お望みになるのである。
だが、使徒職というものは、すでに聖性の域に達している人びとにとっては、なんの危険もない。その心身のエネルギーを無駄に消耗させることもない。かえって善徳に進歩し、功徳をます機会をゆたかに提供する一方において、前にも述べたように、天主との一致の度合いがまだ弱く浅い人たち――念禱にさしたる興味もなく、犠牲の精神も、とりわけ、心の取り締まりの習慣もさほど発達していないひとたちにとっては、かえって、たやすく霊的貧血症をおこす原因となる、したがって、完徳修業の道程において、くじけ折れる機縁ともなる、という悲しむべき事実が厳存するということを、心に銘記していただきたい。
心をよく取り締まる――という、この立派な習慣は、これを熱心に祈り、切に願いさえすれば、天主から与えられる。機会あるごとに、天主におのが奉仕の忠実さを、証拠だてさえしたら、天主もきっとこのよい習性を、お与えになるであろう。天主への奉仕に、いかなる犠牲も惜しまぬ大きな心の持ち主だったら、天主はこの霊魂に、心の取り締まりのよい習慣を、あふれるほどお与えになるであろう。
かくて、霊魂は、幾度となく努力を重ね、何度も失敗をくりかえしたのち、彼の能力をすこしずつ刷新して、キリストのそれに変容させ、かようにして、聖霊のインスピレーションによくなびくもの、よくきき従うものとなす。したがって、いかなる反対も、不成功も、失敗も、幻滅も、これをよろこんで天主のみ手から、受けとることができるようになる。
内的生活が、霊魂の深部に根ざしたとき、いかようにして、彼をまことの善徳に定着させるか――以下にそれを、六つの項目にわけて、説明することにしよう。
(この章 続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
聖性とは、人間の意志が天主のみ旨と極めて密接に一致合体するまでにおし進められた内的生活、これ以外のなにものでもないのだから、恩寵の奇跡でもないかぎり、一般には、霊魂はこの内的生活の絶頂に、多くの苦しい努力をはらって、浄化の道と照明の道との段階を全て通ってでなければたどり着かない。
La sainteté n’étant autre chose que la vie intérieure poussée jusqu’à l’union très étroite de la volonté avec celle de Dieu, d’ordinaire et sauf un miracle de la grâce, l’âme n’arrive à ce terme qu’après avoir parcouru au milieu de multiples et pénibles efforts, toutes les étapes de la vie purgative et illuminative.
霊魂の聖化の過程において、これは霊生の常則としてとおっていることだが、天主のお働きと霊魂の働きは、逆比例して進行する。天主のお働きが、霊魂の聖化の役割において、日に日に、勢力をましていくにつれ、霊魂の働きは逆に、聖化のイニシャチブをとる役割においては、日に日に、すこしずつ減少していく。それも、初心者の聖化において、また完全者の聖化において、天主のお働きはそれぞれちがってくる。
初心者の聖化において、天主のお働きは、そんなに目にみえて明らかではない。それは、とりわけ、霊魂に、被造物への“警戒”(la vigilance)と、天主の探求の“嘆願”(la supplication)をしげきし、これを支え、確保させる、恩寵のすすめの形であらわれる。このようにして、天主は、霊魂に、新たな努力をさそう恩寵を獲得させるための手段を、お与えになる。
完全者の聖化において、天主はより強く、より深く、より広範囲に、お働きになる。そして、ときとしては、霊魂を、ご自分のお働きに一致させるために、霊魂にはただごく簡単な、内心の承諾しかお求めにならない。
初心者も、冷淡者も、そして罪びとまでも、聖主がこれをご自分にお近づけになろうとする時には、まず、天主を求めるように仕向けられる衝動を、心のなかに実感する。次に、天主をおよろこばせしたいとの誠意を、すこしずつ証拠だてようとする。最後に、自愛心の偶像をほふって、その代わりに、イエズス・キリストだけを、おのれの心に君臨させるために、天主からおくられるいっさいの出来ごとを、心から歓迎する。このばあい、天主のお働きは、霊魂をはげますことに、霊魂を助けることに、限定されている。
“聖人”の内的生活において、天主のお働きは、前記の二者よりも、いっそうはるかに強い。そして、いっそうはるかに全面的である。あらゆる疲労、あらゆる苦悩のさなかにあっても、あらゆる屈辱のさかずきを飲み、あらゆる病苦の重圧のもとにあっても、聖人は、ただ天主のお働きにおのれを打ちまかせ、天主からされるままになっている。このおまかせの精神がないなら、死の苦しみにもひとしい毎日の十字架をたえしのぶことは、とうていできない。そして、この十字架こそは、天主が彼の霊魂を、超自然の生命に成熟させるおぼし召しから、み摂理の計画として与えられる。
完全者の霊魂においてこそ、「天主は万物を、キリストの足もとに従わせた。それは、天主がすべての者にあって、すべてとなられるためである」Deus subjicit sibi omnia, ut sit Deus omnia in omnibus(コリント前15・28)という聖パウロの言葉が、みごとに実現する。
この霊魂は、ただイエズス・キリストによって生きる。「生きているのは、もはや、私ではない。キリストこそ、私のうちに生きておられるのである」Vivo autem jam non ego; vivit vero in me Christus(ガラツィヤ2・20)という聖パウロの証言を、かれもまた、おのが一身に、実現している。かれにおいて、考え、判断し、行動するものは、ただイエズスのご精神だけであって、かれ自身ではない。むろん、栄光の生命なる天国で、はじめて達成される完全天主化の境地には、まだ達してはいないだろう。だが、霊魂はすでに、至福直観による天主との一致の性格を、おのれのうちに、ほかのに反映している。
いうまでもないことだが、初心者や冷淡者、さらにただの信心家は、こんなに高い、天主との一致にとどまっている者ではない。かれらの霊生の状態には、それにあてはまる独特の、一連の手段があるのだから、この手段を用いて、霊生をいとなめばよい。しかし、初心者は、なんといっても、内的生活の見習者であるから、つらい苦労をする。進歩も、いたって緩慢である。おぼつかない手つきでやるものだから、内的生活の仕事も、きわめてお粗末である。
これに反して、完全者はすでに、内的生活の熟練工なのだから、仕事も手っとり早く、そして立派にやってのける。困難も、ないことはないが、あってもわずかで、とにかくすばらしいものを作りあげる。天主との一致の殿堂を、やすやすと築きあげるのである。
しかし、使徒的事業にたずさわる人たちが、その内的生活の深い浅いによって、右に述べた種類に区別されはしても、その各自にたいする天主のご意図に変化はないのだ。天主は、かれらのだれにたいしても、そしていつも、そのたずさわる事業が、当人にとって、聖化の手段であることを、お望みになるのである。
だが、使徒職というものは、すでに聖性の域に達している人びとにとっては、なんの危険もない。その心身のエネルギーを無駄に消耗させることもない。かえって善徳に進歩し、功徳をます機会をゆたかに提供する一方において、前にも述べたように、天主との一致の度合いがまだ弱く浅い人たち――念禱にさしたる興味もなく、犠牲の精神も、とりわけ、心の取り締まりの習慣もさほど発達していないひとたちにとっては、かえって、たやすく霊的貧血症をおこす原因となる、したがって、完徳修業の道程において、くじけ折れる機縁ともなる、という悲しむべき事実が厳存するということを、心に銘記していただきたい。
心をよく取り締まる――という、この立派な習慣は、これを熱心に祈り、切に願いさえすれば、天主から与えられる。機会あるごとに、天主におのが奉仕の忠実さを、証拠だてさえしたら、天主もきっとこのよい習性を、お与えになるであろう。天主への奉仕に、いかなる犠牲も惜しまぬ大きな心の持ち主だったら、天主はこの霊魂に、心の取り締まりのよい習慣を、あふれるほどお与えになるであろう。
かくて、霊魂は、幾度となく努力を重ね、何度も失敗をくりかえしたのち、彼の能力をすこしずつ刷新して、キリストのそれに変容させ、かようにして、聖霊のインスピレーションによくなびくもの、よくきき従うものとなす。したがって、いかなる反対も、不成功も、失敗も、幻滅も、これをよろこんで天主のみ手から、受けとることができるようになる。
内的生活が、霊魂の深部に根ざしたとき、いかようにして、彼をまことの善徳に定着させるか――以下にそれを、六つの項目にわけて、説明することにしよう。
(この章 続く)