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2017年12月3日(主) 待降節第1主日説教  「マリア様と共にこの待降節を過ごす」

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2017年12月3日(主日)待降節第1主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年12月3日、待降節第1主日のミサをしています。

今日はミサの時間が午後となって、少し都合の悪い時間となってしまいました、どうぞご了承下さい。

このミサの後に短い公教要理を予定しています。できればこの前する事ができなかった、マリア様の御告げと御訪問の芸術作品を、特にフラ・アンジェリコを元に黙想の縁となればと思って、スライドショーを準備してきました。もしよろしかったらいらして下さい。16時からは第2晩課があります。明日は7時からミサがあります。

それからレネー神父様ですが、神父様に特別の感謝の霊的花束をしたいと思っています。12月から来年の復活祭までに、レネー神父様の為にどれだけお祈りと犠牲を捧げる事ができるか、そのつもりかという事を書いて、その約束を書いてお渡し下されば幸いに思います。もしもできれば今日、できなければ次の17日にお渡し下さい。それをクリスマスの日に神父様に渡そうと思っています。

次の主日のミサは12月17日と24日、10時30分からレネー神父様がいらっしゃいます。特にレネー神父様は17日には、聖母の無原罪の騎士会についてのお話と、それの入会式をなさって下さる予定です。24日は聖骸布をお持ちになって、聖骸布を展示して、それについてのお話をして下さる予定です。クリスマスにもミサがここであります、夕方の18時からあります。


“Ad te levavi animam meam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ついに待降節がやって来ました。教会は私たちを代表して、ミサの時にこうやって歌わせています、「主よ、我が霊魂を御身に上げ奉る」と。そして今日の指定巡礼教会は、マリア大聖堂、特にベトレヘムの馬草桶が聖遺物として保存されている聖マリア大聖堂です。そこで教会は、私たちの心をマリア様へと向けるように、そしてマリア様と共にこの待降節を過ごすように、と招いているかのようです。

そこで今日、この御ミサの時にこの説教で提案したい事は、このミサの構造をよく見る事によって、一体教会はどのようにミサを作っているのか?

そしてこれがマリア様とどのような関係があるのか?

そして最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。その遷善の決心というのは、ぜひこの今年のクリスマス、2017年ファチマ100周年のこの待降節は、マリア様と共に過ごす待降節となるように決心を立てる、という風になれば私の今日のお話の目的は達成されます。そのようになるようにできるだけ話を進めたいと思っています。

旧約聖書は、特にイザヤの預言者の最初を見ると、非常に厳しい事が書かれています、
「あぁ天よ、聞きなさい。地よ、話を聞け。なぜならば天主がこのように語っているからだ、『私は、子供たちをこうやって養ったけれども、そして子供たちを成長させたけれども、彼らは私を軽蔑した。牛でさえもその主人を知っている。そしてロバでさえも主人の家を知っている。しかしイスラエルは私の事を知らない。私の事を認めない。我が民は私の事を認めてくれていない。罪を犯した国、お前は何と不幸な事か。不正に満ちたこの民は何と不幸な事か。不敬なこの民は、お前たちは何と不幸な事か。お前は主を捨て去ってしまった。そしてイスラエルの聖なるものを軽蔑してしまった。』」

それから今度は、その同じヤーウェの言葉をイザヤは預言して、救い主について突然語り出します、「『私はだから罰を与える。でもお前の一体どこを打ったらよいだろうか。なぜかというと、お前の頭から足の先まで傷だらけである。お前の全身には健全な所がない。すべて打たかれている。』」

これは、そのイスラエルが罪を犯したにもかかわらず、その罰を、救い主が受け取ろうとされる、その姿をすぐにイザヤに見せたのでした。そして天主に対して罪を犯した私たちは、どれほど私たちを救って下さる救世主が必要なのか、という事を私たちに思い出させます。

そこで教会はすぐにミサの最初に、「心を天主にあげるように」と招きます。なぜかというと、私たちには救い主が贖い主が必要であるからです。私たちは罪を犯したからです。「主よ、憐れみ給え。キリスト、憐れみ給え」と。そこで教会は、今日からクリスマスの真夜中のミサまで、グロリアは歌いません。このグロリアは、ついに天使たちがイエズス様の御降誕を告げる時に、羊飼いたちに歌った歌であるからです。

教会は私たちにこのように祈らせます、「主よ、さぁ早く力を起こして下さい。“Excita”エキサイトして下さい。さぁ力んで下さい。力を出して下さい。早く来て下さい。すぐに来て下さい」と。

待降節の間によく繰り返されるお祈りがこの言葉です、“Excita”そして“Veni”こうする事によって、人類はどうしても救い主が必要である、このその惨めな状態である、という事を私たちに思い出させます、マリア様の口を通して。マリア様のもとに私たちを連れて行って思い出させます。

しかしそれと同時に、マリア様の口を通してあたかも教会は聖パウロの書簡を読ませて、希望の光を見せているかのようです。確かに人類はまだ主を見捨てて、主に対して罪を犯して、そしてまだ罪の着物を着て、夜の業を闇の業を行っているかのように見えるのですけれども、「しかしもう明け方が近付いた、地平線が薄らと白々として、太陽の光が昇るのが見える。救い主がやって来られている。光が見えている。救い主はもう近い。もう最早これからは罪の闇の服ではなくて、光の武器を着けなければならない。イエズス・キリストを着なければならない」と。

最初に光の武器を着けて、聖寵の充ち満ちをあふれて、そしてイエズス・キリストを身に着けたのは、一体どなたでしょうか?マリア様でした。マリア様が私たちに、「そのイエズス・キリストを着るように、イエズス・キリストを私たちの身に帯びるように」と招いているかのようです。

そこで教会は福音を私たちに聞かせます、「イエズス・キリストの到来にはしるしが現れる。そのしるしを見たら私たちは頭を上にあげよ。心を我が霊魂を上にあげよ」と言っているかのようです。でも「しるしが現れる」という事は、「まだはっきりと分からない」という事です。つまりイエズス・キリストの到来は隠れて、そしてベールを被せられたかのように、ちょっと見では分からないように、露が滴るかのように来られるという事です。

確かに、イエズス・キリストの到来は3つあります。非常に有名な事ですから何度も皆さん聞いた事だと思います。

イエズス・キリストは私たちを、第1には、肉をもってやって来られた。隠れてやって来られた。私たちの為に、不正に正義にもとって裁かれる為にやって来られた。

第2の到来は、私たちの霊魂において、私たちを義とする為に、そして愛をもって神秘的にやって来られ、

将来第3には、イエズス・キリストは私たちに裁きを行う為に、恐るべきものとして、獅子のように、栄光に満ちてやって来られる。

最初に来られた時には、子羊としてやって来られた。第2には、私たちの霊魂に友としてやって来られる。しかし最後には、恐るべき裁判官としてやって来られる。

このイエズス・キリストの到来について語ります。でもその時には私たちは頭を上にあげて、霊魂を上にあげなければなりません。

そして第2の点は、イエズス・キリストの御降誕を待ち望ませる為に、まずマリア様の口を通して、私たちにそのような言葉を聞かせた教会は、今度は実際に何をなさるかという事を見ます。

今日灌水式の時に、司祭の祈りの言葉を唱えながら、非常に私の心を打ったのが、“Ostende nobis, Domine, misericordiam tuam.”という言葉でした。今日はこの同じ言葉を灌水式の時に1回、そしてアレルヤの時にも歌いました、「主よ、私たちに御身の憐れみを示して下さい。」

実はもはや教会は行動として、言葉としては「さぁ、イエズス・キリストの来るのを準備しなさい」とは言うものの、でも私たちの待ち望むその心の忍耐を、我慢しきれないような忍耐を抑えるかのように、沈めるかのように、つまり既に御聖体において、イエズス様をこの地上に、この祭壇の前に、私たちの前に、聖変化を起こさせて、そして私たちの胸に、霊魂に、既ににお生まれになるようにされます。

そこで第2の点は、実際に教会は私たちに既に救い主を与えて、御聖体拝領の時に、「主よ、御身の憐れみを私たちは受け奉る。御身の神殿のど真ん中で、御身の憐れみを受け奉る」と、あたかもシメオンが言ったかのような言葉をお祈りの時に、御聖体拝領の祈りで言わせています。

これはちょうど灌水式の時も、そしてアレルヤの時も、「私たちに主の憐れみを見せて下さい」と祈らせたのに、すでに教会は、「私たちは既に受けた」と、それを確認させるかのようです。つまり、「マリア様のように、すでに私たちの体内に、私たちの霊魂に、イエズス様が来られているのだ」という事を思い起こさせます。

すると教会は聖体拝領誦で、「主は親切を、善良さを下さるだろう。そして私たちの地はその実りを出すだろう」と歌っています。「一体何の事だろうか?」

「主が私たちにその親切を下さる、良さを下さる」というのはつまり、「救い主を下さる」という事です。「私たちの土地が実りをもたらす」というのは、「確かに御聖体拝領を受けて主を受けた私たちが、クリスマスの時に良い実りをもたらす事ができるように」という祈りでもあります。

それと同時に、これはマリア様の事でもあって、なぜかというと、マリア様というのは最高の実り豊かな土地でありますから、その「マリア様の御胎内の実りが、私たちに豊かに与えられる、クリスマスに与えられる」という事でもあります。

これを見ると、待降節のミサはいつも、マリア様の事を私たちに思い出させる事でいっぱいです。そして待降節は四旬節と違って、すでに喜びに満ちています。主がすでに来られる、という事で“Gaude”とか“laetare”とか、喜びでいっぱいの期節です。

その事を、マリア様とその喜びの事を考えて、また私たちの霊魂を主に上げるという事を考えると、最後にこの玄義がどうしても私の頭に連想されてきます。それはマリア様の御訪問の玄義です。マリア様がイエズス様をご胎内に受けたまま、その後に3日間山を歩いて、聖エリザベトを訪問されました。マリア様の御言葉を聞いただけで聖エリザベトは聖霊に満たされて声をあげました。先駆者を聖化しました。イエズス・キリストの誕生の先駆となる者を聖化させました。待降節は洗者聖ヨハネが重要な登場人物です。また聖エリザベトはマリア様の事を、「あぁ、あなたは女の、色々な様々な女性の内で真に更に祝福された方であり、あなたの胎内の御子も祝されています。一体、主の母が私の所に来て下さったのはどうした事でしょうか!」とマリア様の事を褒めると、マリア様は、私の霊魂は主に上げられる、と似たような言葉を、「我が霊魂は主を崇め奉る。そして私の精神は救い主である主に喜び踊る」と喜びの声をあげました。

考えてもみて下さい。もしも私たちがニュースを聞いて、「え!?横田めぐみさんが日本に帰って来た!」「え!?」としたら、日本中が喜ぶではないでしょうか。もう「あれほど待ち望んだ方がやって来た!」

ところで、マリア様の喜びはどれほどだった事でしょうか。「我が精神は、我が救い主に喜び踊る」と。宝くじが当たったので気絶して、もうそれで息を絶えてしまったという人さえもいると聞きます。マリア様はどれほどの喜びだった事でしょうか。このクリスマスの喜びと待降節の喜びと非常に似たものがあります。ではどうぞこの待降節を、マリア様と共に、喜びの内で過ごすようになさって下さい。

“Ad te levavi animam meam.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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