アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかに実を結ぶための条件――それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
「わたしは、多くのささげ物で、司祭らの心を飽かせ、わたしの良き物で、わたしの民を満ち足らせる」(イエレミア31・14)
天主は、いにしえ、イエレミア預言者に向かって、こう仰せられた。
この聖書のテキストは、二つの部分から成り、それはたがいに補足し関連し合っている。
天主は、「わたしは、司祭らに、より多くの奮発心を、より多くの才能をあたえよう」とは仰せられないで、「司祭らの霊魂を飽かせよう」と仰せられている点に、注目していただきたい。
いったい、どんな意味だろうか。
「わたしは、司祭らの霊魂を、わたし自身の精神をもって満たそう。わたしは、かれらのうえに、特選の恩寵を雨ふらそう。そうしてこそはじめて、わたしの民は、わたしの恩寵で満たされよう……」
これ以外に、解釈の方法はないと思う。
天主は、恩寵の与え主でいらっしゃるのだから、恩寵授与の触媒となる教役者の個人的聖性がどんなだろうと、また、それを受ける信者の心がまえがどんなだろうと、そんなことにはちっともおかまいなく、全く独断で、おぼし召しのままに、それをわけ与えることがおできになったろう。ちょうど、幼児の洗礼の場合に、そうなされるように。
だが、摂理の常則として、この二つの要素――天主の恩寵の触媒なる司祭たちの聖性と、恩寵を受けるためにふさわしい信者たちの心がまえ――が、恩寵の授与において、多い少ないを分かつメドになる。
「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
いっさいは、この原理から出発する。
世を救うキリストの御血は、カルワリオの丘から流れでた。
この救世の御血が、最初の実を結ぶために、天主はいかなる手段をおとりになったか。
内的生活を、あたかも大河のように、人びとの霊魂にそそぎ入れる、聖霊降臨の奇跡を、お行いになったのである。
聖霊降臨以前の使徒たちは、その理想といい、奮発心といい、まことに貧弱なものだった。そのおこなった奇跡も、微々たるものだった。聖霊が、一瞬にして、かれらを内的な人に一変させたのである。だからして、かれらの説教は、ただちに回心の奇跡をおこなった。しかし、天主はよほどのことがないかぎり、もう二度と、この“高間”の奇跡を、くり返されることはないだろう。これからは、人びとの霊魂を聖化するために必要な恩寵は、すべて、人間のずいぶん骨の折れる、自由の協力におゆだねになるのである。
聖霊降臨の日を、教会の誕生日ときめた天主は、この事実によって、なにをわれわれにおさとしになったのだろうか。――すべて教役者たるものは、まず、おのれ自身の聖化をもって、イエズスと“共同の救い主”という、このたぐいなき使徒職を開始しなければならぬ、ということではないだろうか。だから、ほんとうに使徒職にたずさわっている人たちはみんな、事業の成果を、かれらの活動の実施にもまして、まず何よりも、祈りと犠牲に、より多く期待しなければならないのである。
ラコルデール神父(Le Père Lacordaire)といえば、すぐにフランスの有名な説教家をおもいだすが、かれはノートルダム大聖堂の説教壇に登るまえには、かならず、まず長いあいだ、祈っていたものである。祈りばかりでは足りない、と思ったのだろう、自分のへやにはいって、わが身をひどくムチうっていた。
ラコルデール神父とならび称される、いま一人の大説教家モンサブレ神父(Le Père Monsabré)も、おなじく、ノートルダム大聖堂の説教壇に登るまえには、まずひざまずいて、ロザリオを全部となえていたものである。
「なぜ、お説教のまえに、そんなご修行をなされるのですか」とたずねた、ひとりの友人に向かって、かれは笑いながら、
「いいや、わたしは聖霊から、最後の仕上げをしていただいているんですよ」と答えたとか。
このドミニコ会員らは、ふたりとも、聖ボナヴェントゥラによって公式化された次の伝道原理を、おのれの生活信条にしていたのである。いわく、
「すべて、使徒職が、ゆたかな実を結ぶための秘訣は、どこにあるのか。――それは、花々しい才能の活躍よりも、むしろ十字架像のもとにある!」
Les secrets d’un apostolat fécond se puisent bien plus au pied du Crucifix que dans le déploiement de brillantes qualités.
さらに、同じことをいった聖ベルナルドの言葉が、ここにある。
「いつまでも存続するものは、言葉、模範、祈り――この三つである。このうちで最も大いなるものは、祈りである」
Manent tria haec : verbum, exemplum et oratio; major autem his, est oratio.
聖ベルナルドの右の一句は、まさに千ぎんの重さをもっている。そしてそれは、十二使徒がとったあの態度を、ただしく解釈したものにほかならない。
使徒たちは、まず“祈り”に専念することができるように、そして次に、“宣教”に身をゆだねることができるように、それまで信者の物質的方面にたずさわっていたある仕事を、キッパリやめてしまおうと決心した。
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちから、ヘブレオ語を使うユダヤ人らに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ、と苦情を申したてた。そこで、十二使徒らは、弟子全体をよび集めていった。『わたしたちが、天主の言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、聖霊と知恵に満ちた、評判のよい人たち七人をさがしだしてほしい。この人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら、祈りと宣教に身をゆだねることにしよう』」(使徒行録6・1~4)
この点、きわめて重大である。
はたして、われわれは、この点に十分注意をはらってきたろうか。
救世主は、祈りの精神が、いちばん大切だ、と仰せられる。
公生活のある日、聖主は、はるかに目をあげて、全世界をおながめになった。
来たるべき世代を、福音の恩寵に浴すべき無数の霊魂を、おながめになった。
そして、悲しげに、こう仰せられた。
「収穫は多いが、働く人が少ない」(マテオ9・37)
しからば、その教えのタネを、最も迅速に、全世界にまくため、あまねく世の人びとの霊魂の畑にまくために、かれがわれわれに提案される手段は、どんなものか。――アテネの学校へ通え。ローマに行って、シーザー皇帝から、世界征服の秘訣を学べ、国家経綸の理法をおそわれ、と弟子たちに仰せられるのだろうか。
福音伝道の奮発心にもえる人びとよ、きくがよい。
救世主のお言葉に、耳をかたむけるがよい。
いまや聖主は、福音伝道のプログラムを、その秘訣のかがやかしい根本原理を、われわれに啓示しようとしておられる。聖主は、こう仰せられるのだ。
「だから、収穫の主に願って、その収穫のために働く人を、送りだすようにしてもらいなさい」(マテオ9・38)
右の一句のなかに、なにがいわれているか、よく吟味してほしい。
大学者たちを会員にして、伝道組合を組織せよ、大金持らに伝道資金を寄付させよ、教会を建てよ、学校をつくれ。――こんなことには、聖主はひとことも触れておられない。
“だから、願いなさない!”Rogate ergo!
まず、祈りなさい。まず、念禱の精神を養いなさい。
聖主は、この根本精神を説いてやまない。
“まず、祈りなさい!”Rogate ergo!
そうしたら、他のすべては、――伝道組合も、伝道資金も、みんな“祈り”から、自然に出てくるだろう。
だから、願いなさい! だから、祈りなさい!Rogate ergo!
聖なる霊魂の胸中からほとばしりでる、嘆願の秘めたる叫び、その祈るくちびるのかすかな動きは、使徒の軍団をつくりだすうえにおいて、天主の精神にじゅうぶん浸りきっていない、洗礼志願者募集人の大雄弁にもまして、はるかに効力がある。はたしてそうなら、これからどんな結論が生まれるのか。――祈りの精神は、まことの使徒においては、奮発心とも、活動とも、共存共栄する。そして、祈りこそは、かれらの労苦をゆたかに実らせる根本要因である。この結論に達せざるをえない。
「だから、まず、祈りなさい!」こうお命じになったのちに、はじめて聖主は、「行って……教えなさい」「述べ伝えなさい……」(マテオ10・7)と仰せられた。
いうまでもなく、天主はこの手段も、すなわち、説教とか伝道とかの手段も、お使いにはなろう。だが、教役者の事業に、ゆたかな実りをあたえてくれるものは、ただ天主の祝福である。しかも、この祝福は、ただ祈る人に、ただ念禱の人の祈りにだけ留保されているのだ。
念禱の人の祈りは、きわめて力がある。
それは、ほとんど不可抗力をもって、天主のふところから、恩寵の大河を、人びとの心にそそぎ入れる。
聖ピオ十世教皇が、一九〇五年六月一日、イタリアの司教団にむかって叫ばれた、かの偉大なお声が、本書の説くところを浮きぼりにしていると思うから、左にその一部分をかかげる。
「……事業の使徒職によって、いっさいをキリストにおいて回復するためには、どうしても、天主の恩寵がなければならない。そして、使徒は、ほんとうにキリストに一致してとどまっていなければ、この恩寵を受けることができない。
われわれが、まずわれわれの内に、イエズス・キリストをかたち造ってこそ、そのときはじめて、われわれの家庭に、われわれの社会に、キリストをかたち造ることができる、しかも容易にかたち造ることができるのではないか。
だからして、使徒職にたずさわる人はみな、まことの信心を持っていなければならない、というのである」
祈りについていわれていることは、内的生活の他の要素なる“苦しみ”についても、そのままあてはまろう。ここにいう、“苦しみ”とは、人間自然の性情を、あるいは外部において、あるいは内部において、不快にし、痛め、そこなう、いっさいのものをさす。
苦しみを耐えしのぶ態度にも、いろいろある。
キリスト信者であっても、天主を知らない異教者のような、苦しみ方をする者がある。
他方、聖人たちのように、喜び勇んで、苦しむ者もある。
さて、ほんとうにキリストとともに苦しみたいなら、苦しみを“神聖に”苦しむように、努力しなければならない。キリストとともに苦しむとき、この苦しみは、だいいち、自分自身のためにもなるし、同時に、キリストのご受難の功徳を、神秘的に、人びとの霊魂にも通じることができる。聖パウロが、「わたしは、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみの欠けているところを、わたしの肉体をもって、おぎなっている」(コロサイ1・24)といっているのは、このへんの消息を、みごとに伝えたものである。
聖パウロの右の語句を解説して、聖アウグスチノは、こういっている。
「キリストの苦しみは、円満完全なもの、なにひとつ欠けているところはなかった。だが、ただ頭(かしら)においてだけ、そうだった。その肢体において、キリストのお苦しみは、まだまだ欠けたままである」
なるほど、キリストは、お苦しみになった。
だが、それはただ頭としてのみ、お苦しみになった。
いま苦しまなければならない者は、キリストのおからだなる信者、すなわち、神秘体である。
キリストのご苦難が、量においても、激しさにおいても、十分でなかった、不足していた、という意味ではない。そのまだ実現しない効果を、わが身において完成する、という意味である。“欠けているところ”とは、実現されるために“残されたもの”との意味である。
それで、各自は、こういうことができよう。
「キリストの体とは、すなわち、わたし自身のことである。わたしは、キリストの肢体である。で、わたしは、キリストのお苦しみの欠けたところを、おからだなる教会のために、わが身において、おぎなわねばならないのだ」
「苦しみは、秘跡のなかの最も偉大な秘跡である」と、フェーバー師はいっている。この深遠な神学者は、これによって、苦しみの必要と、苦しみから生まれる永遠の光栄を、われわれに示してくれる。福音の働き手が、おのれの苦しみを、カルワリオのいけにえにあわせるとき、その事業はゆたかな実を結ぶにきまっている。なぜなら、それによってかれは、救世主の御血のかぎりなく豊かな結実性に参与するのだからである。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかに実を結ぶための条件――それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
「わたしは、多くのささげ物で、司祭らの心を飽かせ、わたしの良き物で、わたしの民を満ち足らせる」(イエレミア31・14)
天主は、いにしえ、イエレミア預言者に向かって、こう仰せられた。
この聖書のテキストは、二つの部分から成り、それはたがいに補足し関連し合っている。
天主は、「わたしは、司祭らに、より多くの奮発心を、より多くの才能をあたえよう」とは仰せられないで、「司祭らの霊魂を飽かせよう」と仰せられている点に、注目していただきたい。
いったい、どんな意味だろうか。
「わたしは、司祭らの霊魂を、わたし自身の精神をもって満たそう。わたしは、かれらのうえに、特選の恩寵を雨ふらそう。そうしてこそはじめて、わたしの民は、わたしの恩寵で満たされよう……」
これ以外に、解釈の方法はないと思う。
天主は、恩寵の与え主でいらっしゃるのだから、恩寵授与の触媒となる教役者の個人的聖性がどんなだろうと、また、それを受ける信者の心がまえがどんなだろうと、そんなことにはちっともおかまいなく、全く独断で、おぼし召しのままに、それをわけ与えることがおできになったろう。ちょうど、幼児の洗礼の場合に、そうなされるように。
だが、摂理の常則として、この二つの要素――天主の恩寵の触媒なる司祭たちの聖性と、恩寵を受けるためにふさわしい信者たちの心がまえ――が、恩寵の授与において、多い少ないを分かつメドになる。
「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
いっさいは、この原理から出発する。
世を救うキリストの御血は、カルワリオの丘から流れでた。
この救世の御血が、最初の実を結ぶために、天主はいかなる手段をおとりになったか。
内的生活を、あたかも大河のように、人びとの霊魂にそそぎ入れる、聖霊降臨の奇跡を、お行いになったのである。
聖霊降臨以前の使徒たちは、その理想といい、奮発心といい、まことに貧弱なものだった。そのおこなった奇跡も、微々たるものだった。聖霊が、一瞬にして、かれらを内的な人に一変させたのである。だからして、かれらの説教は、ただちに回心の奇跡をおこなった。しかし、天主はよほどのことがないかぎり、もう二度と、この“高間”の奇跡を、くり返されることはないだろう。これからは、人びとの霊魂を聖化するために必要な恩寵は、すべて、人間のずいぶん骨の折れる、自由の協力におゆだねになるのである。
聖霊降臨の日を、教会の誕生日ときめた天主は、この事実によって、なにをわれわれにおさとしになったのだろうか。――すべて教役者たるものは、まず、おのれ自身の聖化をもって、イエズスと“共同の救い主”という、このたぐいなき使徒職を開始しなければならぬ、ということではないだろうか。だから、ほんとうに使徒職にたずさわっている人たちはみんな、事業の成果を、かれらの活動の実施にもまして、まず何よりも、祈りと犠牲に、より多く期待しなければならないのである。
ラコルデール神父(Le Père Lacordaire)といえば、すぐにフランスの有名な説教家をおもいだすが、かれはノートルダム大聖堂の説教壇に登るまえには、かならず、まず長いあいだ、祈っていたものである。祈りばかりでは足りない、と思ったのだろう、自分のへやにはいって、わが身をひどくムチうっていた。
ラコルデール神父とならび称される、いま一人の大説教家モンサブレ神父(Le Père Monsabré)も、おなじく、ノートルダム大聖堂の説教壇に登るまえには、まずひざまずいて、ロザリオを全部となえていたものである。
「なぜ、お説教のまえに、そんなご修行をなされるのですか」とたずねた、ひとりの友人に向かって、かれは笑いながら、
「いいや、わたしは聖霊から、最後の仕上げをしていただいているんですよ」と答えたとか。
このドミニコ会員らは、ふたりとも、聖ボナヴェントゥラによって公式化された次の伝道原理を、おのれの生活信条にしていたのである。いわく、
「すべて、使徒職が、ゆたかな実を結ぶための秘訣は、どこにあるのか。――それは、花々しい才能の活躍よりも、むしろ十字架像のもとにある!」
Les secrets d’un apostolat fécond se puisent bien plus au pied du Crucifix que dans le déploiement de brillantes qualités.
さらに、同じことをいった聖ベルナルドの言葉が、ここにある。
「いつまでも存続するものは、言葉、模範、祈り――この三つである。このうちで最も大いなるものは、祈りである」
Manent tria haec : verbum, exemplum et oratio; major autem his, est oratio.
聖ベルナルドの右の一句は、まさに千ぎんの重さをもっている。そしてそれは、十二使徒がとったあの態度を、ただしく解釈したものにほかならない。
使徒たちは、まず“祈り”に専念することができるように、そして次に、“宣教”に身をゆだねることができるように、それまで信者の物質的方面にたずさわっていたある仕事を、キッパリやめてしまおうと決心した。
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちから、ヘブレオ語を使うユダヤ人らに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ、と苦情を申したてた。そこで、十二使徒らは、弟子全体をよび集めていった。『わたしたちが、天主の言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、聖霊と知恵に満ちた、評判のよい人たち七人をさがしだしてほしい。この人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら、祈りと宣教に身をゆだねることにしよう』」(使徒行録6・1~4)
この点、きわめて重大である。
はたして、われわれは、この点に十分注意をはらってきたろうか。
救世主は、祈りの精神が、いちばん大切だ、と仰せられる。
公生活のある日、聖主は、はるかに目をあげて、全世界をおながめになった。
来たるべき世代を、福音の恩寵に浴すべき無数の霊魂を、おながめになった。
そして、悲しげに、こう仰せられた。
「収穫は多いが、働く人が少ない」(マテオ9・37)
しからば、その教えのタネを、最も迅速に、全世界にまくため、あまねく世の人びとの霊魂の畑にまくために、かれがわれわれに提案される手段は、どんなものか。――アテネの学校へ通え。ローマに行って、シーザー皇帝から、世界征服の秘訣を学べ、国家経綸の理法をおそわれ、と弟子たちに仰せられるのだろうか。
福音伝道の奮発心にもえる人びとよ、きくがよい。
救世主のお言葉に、耳をかたむけるがよい。
いまや聖主は、福音伝道のプログラムを、その秘訣のかがやかしい根本原理を、われわれに啓示しようとしておられる。聖主は、こう仰せられるのだ。
「だから、収穫の主に願って、その収穫のために働く人を、送りだすようにしてもらいなさい」(マテオ9・38)
右の一句のなかに、なにがいわれているか、よく吟味してほしい。
大学者たちを会員にして、伝道組合を組織せよ、大金持らに伝道資金を寄付させよ、教会を建てよ、学校をつくれ。――こんなことには、聖主はひとことも触れておられない。
“だから、願いなさない!”Rogate ergo!
まず、祈りなさい。まず、念禱の精神を養いなさい。
聖主は、この根本精神を説いてやまない。
“まず、祈りなさい!”Rogate ergo!
そうしたら、他のすべては、――伝道組合も、伝道資金も、みんな“祈り”から、自然に出てくるだろう。
だから、願いなさい! だから、祈りなさい!Rogate ergo!
聖なる霊魂の胸中からほとばしりでる、嘆願の秘めたる叫び、その祈るくちびるのかすかな動きは、使徒の軍団をつくりだすうえにおいて、天主の精神にじゅうぶん浸りきっていない、洗礼志願者募集人の大雄弁にもまして、はるかに効力がある。はたしてそうなら、これからどんな結論が生まれるのか。――祈りの精神は、まことの使徒においては、奮発心とも、活動とも、共存共栄する。そして、祈りこそは、かれらの労苦をゆたかに実らせる根本要因である。この結論に達せざるをえない。
「だから、まず、祈りなさい!」こうお命じになったのちに、はじめて聖主は、「行って……教えなさい」「述べ伝えなさい……」(マテオ10・7)と仰せられた。
いうまでもなく、天主はこの手段も、すなわち、説教とか伝道とかの手段も、お使いにはなろう。だが、教役者の事業に、ゆたかな実りをあたえてくれるものは、ただ天主の祝福である。しかも、この祝福は、ただ祈る人に、ただ念禱の人の祈りにだけ留保されているのだ。
念禱の人の祈りは、きわめて力がある。
それは、ほとんど不可抗力をもって、天主のふところから、恩寵の大河を、人びとの心にそそぎ入れる。
聖ピオ十世教皇が、一九〇五年六月一日、イタリアの司教団にむかって叫ばれた、かの偉大なお声が、本書の説くところを浮きぼりにしていると思うから、左にその一部分をかかげる。
「……事業の使徒職によって、いっさいをキリストにおいて回復するためには、どうしても、天主の恩寵がなければならない。そして、使徒は、ほんとうにキリストに一致してとどまっていなければ、この恩寵を受けることができない。
われわれが、まずわれわれの内に、イエズス・キリストをかたち造ってこそ、そのときはじめて、われわれの家庭に、われわれの社会に、キリストをかたち造ることができる、しかも容易にかたち造ることができるのではないか。
だからして、使徒職にたずさわる人はみな、まことの信心を持っていなければならない、というのである」
祈りについていわれていることは、内的生活の他の要素なる“苦しみ”についても、そのままあてはまろう。ここにいう、“苦しみ”とは、人間自然の性情を、あるいは外部において、あるいは内部において、不快にし、痛め、そこなう、いっさいのものをさす。
苦しみを耐えしのぶ態度にも、いろいろある。
キリスト信者であっても、天主を知らない異教者のような、苦しみ方をする者がある。
他方、聖人たちのように、喜び勇んで、苦しむ者もある。
さて、ほんとうにキリストとともに苦しみたいなら、苦しみを“神聖に”苦しむように、努力しなければならない。キリストとともに苦しむとき、この苦しみは、だいいち、自分自身のためにもなるし、同時に、キリストのご受難の功徳を、神秘的に、人びとの霊魂にも通じることができる。聖パウロが、「わたしは、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみの欠けているところを、わたしの肉体をもって、おぎなっている」(コロサイ1・24)といっているのは、このへんの消息を、みごとに伝えたものである。
聖パウロの右の語句を解説して、聖アウグスチノは、こういっている。
「キリストの苦しみは、円満完全なもの、なにひとつ欠けているところはなかった。だが、ただ頭(かしら)においてだけ、そうだった。その肢体において、キリストのお苦しみは、まだまだ欠けたままである」
なるほど、キリストは、お苦しみになった。
だが、それはただ頭としてのみ、お苦しみになった。
いま苦しまなければならない者は、キリストのおからだなる信者、すなわち、神秘体である。
キリストのご苦難が、量においても、激しさにおいても、十分でなかった、不足していた、という意味ではない。そのまだ実現しない効果を、わが身において完成する、という意味である。“欠けているところ”とは、実現されるために“残されたもの”との意味である。
それで、各自は、こういうことができよう。
「キリストの体とは、すなわち、わたし自身のことである。わたしは、キリストの肢体である。で、わたしは、キリストのお苦しみの欠けたところを、おからだなる教会のために、わが身において、おぎなわねばならないのだ」
「苦しみは、秘跡のなかの最も偉大な秘跡である」と、フェーバー師はいっている。この深遠な神学者は、これによって、苦しみの必要と、苦しみから生まれる永遠の光栄を、われわれに示してくれる。福音の働き手が、おのれの苦しみを、カルワリオのいけにえにあわせるとき、その事業はゆたかな実を結ぶにきまっている。なぜなら、それによってかれは、救世主の御血のかぎりなく豊かな結実性に参与するのだからである。
(続く)