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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き2)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


(b)内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化するものとなす

 山の上のお説教の中で、イエズスはその使徒たちを“地の塩”とか“世の光り”とお呼びになった。(マテオ5・3)
 われわれは、聖人となる度合いに応じて、“地の塩”となる。
 もし塩が、その味をうしなったら、もはやなんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人びとにふみつけられるだけである。
 「汚れた泉から、どんな清い水が出るというのか」(集会の書34・4)
 これに反して、内的な使徒は、ほんとうに“地の塩”なのだから、人類社会の腐敗に対して、防腐的の役目を果たすだろう。かれはまた“世の光り”、暗夜の大海原に光かがやく灯台なのだから、その良い模範の光芒(こうぼう)は、言葉の威力にもまして、世俗の精神にひたされてますます濃くなった人びとの霊魂の闇を、くまなく照破するだろう。そして、イエズスが、「八つの真の幸福」のなかでお示しになっている、まことの幸福のありかを、世の人びとに知らせることができよう。
 キリスト信者を、ほんとうのキリスト教的生活にみちびき入れるための、最も有力な手段は何だろうか。――それは、信者を教えみちびく使命をもつ人たちの、有徳の生活である。これは、あまりに明白な真理だ。これに反して、教えを説く人びとの不徳は、せっかく天主に結ばれている熱心な信者たちをさえ、ほとんど不可抗力的に、天主から遠ざけてしまう。「あなたがたの〔不徳〕ゆえに、天主の名は、異邦人のあいだで汚されている」(ローマ2・24)

 だから、いやしくも使徒たる者は、なるほど美しい教えの言葉を、いつもくちびるにのせておくのも結構だが、それにもまして、いっそうしばしば、おのれのよい模範のともしびを、高々とかかげていなければならぬ。そして、他人にその実行を教える善徳は、まず自分自身がこれを実行し、しかも完全に実行したのちはじめて、他人にもそれを実行するようにと説教するのでなければならぬ。大聖グレゴリオ教皇がいっているように、「偉大なことを、人まえにいう使命を授かっている者は、この使命自体によって、おのれ自身がまず、それを実行しなければならぬ義務を、わが身に負うているのである」(『牧者について』第二部第三章)
からだの医者だったら、自分のからだの具合いがあまりよくなくても、他人の病気はりっぱになおせるだろう。これは、日常の経験でも、あきらかだ。しかし、他人の霊魂の病気だと、そうはいかぬ。霊魂の医者は、まず自分自身の霊魂が、健全でなければ、他人の霊魂の病気はなおせない。なぜなら、この場合、人は自分の持っているものの中から、他人にわけ与えなければならない。しかも、人は自分の持たないものを、他人にわけ与えることはできないからである。
「あなたがたは、自分自身を改革しなければならぬ。わたしはそれを、あなたがたに教える権利がある」と、偉そうにいっている説教師にたいして、聴衆もかれに、あることを要求する権利があろう。すなわち、かれの説く所と行なう所が、はたしてピッタリ一致しているかどうか、かれが外部に装っている道徳なるものが、はたして本物かどうか、いつわりの仮面にすぎないのではないかどうか、ということを調査し識別する権利だ。調査の結果いかんによって、教役者を信用したり、しなかったりするのは、理の当然だ。
そんなわけで、もし司祭が、あまりに人びとからなおざりにされている聖ヒツのそばで、ご聖体のイエズスと差し向かいになって、お話ししているのを、信者が目撃するなら、この司祭が、たとえば祈りについて説教するとき、その説教はどれほど、力づよいものだろうか。司祭が、自分でよく働く。よく苦業をする。この一事だけでも、いざこの司祭が、制欲や犠牲について説教する段になると、いかに多くの信者が、かれの言葉に耳を傾けることだろう。兄弟愛の熱心な主張者であり、実行者である司祭が、ここにいる。かれは、信者のあいだに、できるだけイエズス・キリストの良い香りをまくようにと、常々心がけている。ただそれだけでも、聖主がおん自ら模範をたれて、お示しになった柔和・謙遜の美徳は、すでにかれの一挙一動にも反映している。この司祭が、兄弟愛について説教するなら、信者はみな、注意をかたむけて、かれの説教にききほれるだろう。
「心から、群れの模範となるべきである」(ペトロ前5・3)
キリストの最高牧者たる聖ペトロは、こういっている。

内的生活をもたない学校教師は、生徒をただ試験に及第させることができさえしたら、それで自分の義務はりっぱに果たした、わがこと成れり、と信じこんでいる。
これに反して、かれがもし内的生活をもっているなら、かれの一挙手一投足は、生徒にとって、良い模範である。 ――かれのくちびるから、ひとこと洩れでる。かれの顔に、ある神々しい感動が波うつ。ある仕ぐさをする。たとえば、十字架のしるしをするとか、授業の前後に祈りをするとか、ただそれだけでもいい、たとえそれが数学の授業のような、およそ霊生とは何の関係もないものであったにしても、生徒の心にあたえるりっぱな影響や感化は、いかめしい訓話にもまさって、はるかに大きな迫力をもっている。
病院や孤児院に働く修道女たちは、ただ自らの修道生活を忠実に実践するだけですでに、あいての人の心の中に、イエズス・キリストにたいする深い愛とか、自分らの教えにたいする深い尊敬心を、芽ばえさせるための超自然的能力と効果的手段を持っている。
だが、もし内的生活をもちあわせていないなら、実はたからのもちぐされで、せっかくの能力も手段も、なんの役にも立たない。それどころか、こんなにすばらしいたからを持っている事実にさえ気がつかない。ただ、外面的の信心さえやっていけば、それでよいではないか、と考えている。そして、それ以上のことは、何もしない。

キリスト教を、異教徒の間にひろめていくためには、長い議論をしばしばたたかわす戦法ではダメだ。そのためには、なによりもまず、キリスト信者の善良な行状を――すなわち、異教徒の利己主義とか、不正義とか、不道徳に、歯に衣をきせぬまでに、真っ向から反対するキリスト教的美風を、かれらに示すに限る。

読者は、ワイズマン枢機卿の筆による『ファビオラ Fabiola 』を、ごぞんじだろう。
キリスト教が、はじめてローマ帝国に進出したころ、異教徒はみな、この新らしい宗教にたいして、まちがった先入観から、はげしい憎悪をいだいたものである。
こういう異教徒の心に、初代キリスト教徒の良い模範が、どれほど有力な感化を及ぼしたか――それを、ワイズマン枢機卿は『ファビオラ』のなかで、うきぼりにしている。
一つの魂が、漸進的に、しかも不可抗力的に、光明にむかって開花していく過程が、そこに描かれている。ファビウスの娘は、あらゆる身分、あらゆる階級のキリスト信者の中にみられる。高尚な感情とか、謙遜でしかも英雄的な善徳とか、そういったものに深く感激している。だが、この人たち――博愛心の深い、正直で、謙遜で、柔和で、節制の美徳に富み、正義感が強く、貞操観念の強いこの人たちはみんな、いつもどこでも、毒蛇のように忌み嫌われている、キリスト教という邪宗門の信者である。これは不思議だ。これらの美徳をうみだす宗教が、邪宗門であるはずがない。こう考えた刹那、彼女は目がさめた。心機一転した。天のあかしを頂いたのだ。
 彼女はキリスト教徒になった。
 『フォビオラ』の読後感として、だれしも次のように、叫びたくなろう。――ああ、もしカトリック教徒が、せめて使徒的事業にたずさわっている人たちが、ワイズマン枢機卿が描いているような、キリスト教的生活のかがやきを、すこしでも持ち合わせていたなら! しかも、それは、なにも難しいことではない。ただ福音書の簡単な実践にほかならないのに! もしそうだったら、かれらの使徒職が、こんにちの異教徒のうえに及ぼす影響力は、どんなにすばらしいだろうか!
 なにも、こんにちの異教徒ばかりが、わるいのではない。もしかれらが今なお、カトリック教会にたいして、まちがった先入観にとらわれているとするなら、それは反カトリック主義の諸教会が、カトリック教会にたいして放つ悪口雑言をきいたからである。われわれカトリック者の内輪ゲンカに、わざわいされたからである。あるいはまた、われわれカトリック者が、たがいに、自分の権利を主張するとき、その方法に何かまずい点がなかったろうか。それは、イエズス・キリストの利益を擁護しようとの、まじめな熱情からよりはむしろ、おのれの傲慢から、傷ついたけもののような傲慢心から、吹き込まれたものではなかったろうか。とにかく、こんな不祥事にわざわいされて、今なお異教の闇に沈んでいるかれらではないだろうか。
 ああ、天主と一致している霊魂の、外部に照射する神秘のかがやきよ!
 あなたは、どれほど強烈な、影響力を持っていることか!
 若きデシュルモンが、いよいよ世俗を捨てて、至聖贖罪修道会に入会しようと決意したのは、同会のパッセラ神父が信心ぶかく、ミサ聖祭をささげている光景を目撃した、その刹那ではなかったか。あとで、デシュルモン神父は、同会にとって偉大な光栄となった。
 良い模範は、人をひきつける!
 民衆はみな、良い模範に心をひきつけられる、自然の本能をもっている。
 良い模範を識別する、みごとな直観力をもっているのだ。
 天主の人が、説教する。
 民衆は群れをなして、その周囲に馳せあつまる。
 だが、不幸にして、使徒的事業にたずさわっている人が、その不徳のために、民衆のこの本能的要求に応じえないなら、たとえかれが、どんなにすばらしい手腕家だろうと、どんなにかれの事業が発展しようと、それが何であろう。つまるところ、事業はいつも崩壊の危険を内包している。いや、早かれおそかれ、とり返しのつかぬ壊滅さえまねく。
 「あなたがたの光りを、人びとのまえにかがやかし、そして、人びとが、あなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの御父を、あがめるようにしなさい」(マテオ5・16)と、イエズスは仰せられた。
 聖パウロが、その二人の愛弟子、ティトとティモテオに、極力すすめているのは、この良い模範である。
 「万事につけ、あなた自身を、良いわざの模範として示しなさい」(ティト2・7)
 「あなたは、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」(ティモテオ前4・12)
 聖パウロ自身、「あなたがたが、わたしから見たことは、これを実行しなさい」(フィリッピ4・9)と、信者に命じている。さらに、「わたしが、キリストにならう者であるように、あなたがたも、わたしにならう者になりなさい」(コリント前11・1)ともいっている。
 これは、真理の言葉であって、けっして聖パウロの思い上がりではない。それはまた、けっして謙遜の徳を疎外しない。イエズスも、ユダヤ人に向かって、「あなたがたのうち、だれが、わたしに罪があると責めうるのか」(ヨハネ8・46)と仰せられたではないか。聖パウロは、聖主のこのご信念、このご奮発心に鼓吹されたからこそ、右のような言葉を口走ったのだ。
 聖ルカ福音記者は、イエズスにかんして、「かれは、教えるまえに、まず実行された」(使徒行録1・1)と、書きしるしている。このイエズスのみあとをたどるのが使徒である以上、使徒もまた師のように、言葉をもって教えるにさきだって、まずおのれ自身の模範をもって、民衆を強化しなければならぬのは当然ではないか。この条件を満たしてこそはじめて、聖パウロがいったように、かれは「恥じるところのない働き手」(ティモテオ後2・15)になることができるのではないか。
 「愛子らよ、なによりもまず、心に銘記していなければならぬことは、これである。すなわち、ほんとうの奮発心の必要欠くべからざる条件となるもの、また、成功への最も確実な保証となるもの――それは、生活の純潔さと神聖さである」
 これは、一八九九年九月八日、教皇レオ十三世が、全世界の聖職者にあたえた回勅の一節である。
 「聖なる人、完全な人、有徳な人――こういう人が、ひとりでもおりましたら、ただ学問があって、そのうえいっそう恵まれた才能しか持たない多数の人たちよりも、はるかに多くの善を、人びとの霊魂にほどこすことができます。これは、事実です」
 大聖テレジアは、こういっている。さらに、聖ピオ十世教皇は、一九〇五年六月一日、イタリアの司教団にあてた教書のなかで、次のように仰せられている。
 「もし福音伝道者の精神が、ほんとうにキリスト教的な、ほんとうに神聖な行状によって律せられていないなら、他の人びとを善徳に進歩させることは、むずかしいであろう……すべて、カトリック教会の事業にたずさわっている人たちの生活には、一点の非のうちどころもあってはならぬ。それは、万人にちから強い模範を提供しうるほどに、純潔でなければならぬ」


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