アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)
(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか (2/6)
内的生活によって、使徒は“信仰”のかがやきを、周囲に照射する
内的生活をいとなんでいる使徒が、なにか話をする。きく人は、すぐに、この使徒のうちに、天主が臨在しておいでになることを、直覚する。
聖ベルナルドについて、誰かがこんなことをいっている。「かれは、心の孤独にとりかこまれていたので、どこにいても、ひとりぼっちだった」
この聖人のように、まことの使徒は、他人から遠ざかる。孤独の境地に身をおく。
だからこそ、内心の孤独境を、おのれのうちにつくりだすことができるのだ。
しかし、見る人は、かれがけっして、ひとりぼっちだとは思わない。――かれの心の中には、誰やらひじょうにむつましい、ふしぎなお客さんがいるようだ。そのお客さんと、かれはしょっちゅう親しいお話をしている。お客さんのさしずがない限り、かれはだれともお話をしない。しても、それはお客さんの指導のもとにおかれている。内心のお客さんの意見や命令によらないでは、絶対に人に話しかけない……。
事実、かれは、内心のお客さんに支えられ、手ずから指導されている。だから、かれの口からもれでる一語一語は、かれの心の中に現存しておいでになる天主の聖言の、忠実な反響でしかない。「語る者は、天主の聖言を語る者にふさわしく語る」(ペトロ前4・11)
その話に、すじがとおっているとか、熱がこもっているとか、ということよりむしろ、かれの話には、内心にいます天主の聖言の気配が感じられる、被造物を通じてお語りになる“教える聖言”の呼吸がかよっている、という点が、特に歴然としている。「わたしが、あなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。御父が、わたしのうちにおられて、ご自分で、みわざをなさっていられるのである」(ヨハネ14・10)
かれの話は、聴衆に、深い、いつまでたっても消えない、印象をあたえる。
なるほど、内的精神をもたない人でも、その雄弁によって、その一時的の信心によって、聴衆から、ごくうわべだけの称賛はかちえよう。したがって、ある程度の深い印象を、あたえることもできよう。だが、こういう説教家の話をきいて、人びとはいうにきまっている。「なるほど、かれはうまいことをしゃべる。はなしぶりも、なかなか堂に入ったものだ!」と。
しかし、それはあくまで、一時的の感激であって、ただそれだけでは、人びとを超自然の信仰にまでみちびくことは、絶対にできないのだ。まして、人びとをうながして、この信仰に生きるように仕向けることは、とうていできっこないのである。
フランスのトラピスト修道院にガブリエル助修士(F. Gabriel, convers trappiste)という修道士がいた。かれの務めは、接客係の助手であった。多くの訪問客に、話をするのだが、きく人はみな、生き生きと信仰が呼びさまされる。その技能にかけては、学者の司祭でも、とうていかなわない。そして、かれの語る言葉は、あいての頭よりも、いっそう心に、反響を呼びおこすのである。ミリビエル将軍(Le général de Miribiel)は、この貧しい謙遜な助修士と話をするために、よく修道院にやってきたものだが、人をつかまえては、好んでこんなことをいったものである。「わたしは、信仰にひたるためくるのですよ」(Je viens me retremper dans la foi.)と。
今日ほど、えらい説教のはんらんしている時代はあるまい。今日ほど、宗教について、むずかしい議論がたたかわされ、護教論のすばらしい書物が、続々刊行されている時代もあるまい。だが、同時に、少なくとも信徒大衆を例にとってみてもわかるとおり、おそらく今日ほど、信仰が活気を呈していない時代もなかろう。
何が、その原因なのか。――信仰を教えみちびく使命をおびている人たちが、あまりにしばしば、信仰の行為のなかに、ただ理性の行為だけをみている、そのためではなかろうか。信仰の行為が、理性の行為とおなじように、理知からばかり出ると思って、意志からも出るものだということを忘れている、そのためではなかろうか。
信ずるということは、超自然の行為であって、純然たる天主の賜ものである。
このことを、忘却しているのだ。――これこれのことは、信じていもいいような気がする。そこには、ちゃんと確実な理由がある。自分はそれをハッキリさとることができる。……だが、いよいよ決定的に“信ずる”となると、前者(知性)の心がまえと、後者(信仰)の決意とのあいだには、人力のいかんともしがたい深淵がよこたわっている。この深淵を埋めることのできるものは、ただ天主のちからと教えられる人の善意との合成である。
さて、この深淵を埋めるのに、たいへん役に立つものがある。――教える人の聖徳によって、超自然の光明が、周囲に照射される。この天主的光明に照らしだされて、教えられる人は、深く自己を反省する。つまり、内的生活によって、使徒の信仰のかがやきが、人びとの霊魂に照射されるとき、それが天主と人のあいだによこたわる無限の淵を埋めてくれる、というのである。
内的生活によって、使徒は“望徳”のかがやきを、周囲に照射する
どうして念禱の人が、望徳のかがやきを、周囲に照射しないだろうか。
まことの幸福は、天主のうちにある、ただ天主のうちにだけある。――この信念が、信仰によって、かれの心に深く根ざしている。だからして、かれが天国について語るとき、その言葉には、どれほど強い説得力がこもっていることだろう。永遠の幸福を模索して、迷いなやむ人びとをなぐさめるために、かれはどれほど豊富な、幸福の資源を提示することだろう。自分のいうことを、他人にきいてもらえるために、最もすぐれた方法は、人間の宿命なる毎日の十字架を、どうすればよろこんでになっていけるか、その秘訣を授けてやることである。
この秘訣は、天国の希望にある。同時に、聖体の秘跡にもある。
聖パウロのように、「われわれの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)と、真実にいい得る人が、なやめる人びとをなぐさめるとき、その語る言葉はどれほど、生き生きとしていることだろうか。どれほど希望に波うっていることだろうか。
内的生活をもたない人でも、天国の幸福については語ることができよう。大げさに、美辞麗句をならべたてて!
だが、その演説は、なんの実も結ばない。
鳴る鐘、ひびくドラの音である。
まことの使徒、内的生活に生かされている使徒の語る言葉は、そんなものではない。
それは、迫力に富んだ言葉である。だれもが承服せざるをえない言葉である。
語る人の霊魂の、天主の生命に躍動する姿を、明るみにだす言葉である。
だから、かれの話をきけば、心のあらしは一瞬にして静まる。
たましいのなやみは、立ちどころに消え去る。
どんなはげしい苦しみでも、よろこんで耐えしのぶ。
内的な人の身からは、生命の希望が、天主の霊能が、ながれでて、あいての霊魂に交流される。かくて、人の世の冷酷さに泣く人びとの心をあたためてくれる。また、それがなければ、絶望のふちに飛び込んだにちがいない霊魂を救ってくれるのである。
内的生活によって、使徒は“愛徳”の炎を、周囲に照射する
愛徳を修得し、これをいつまでも確保しておくこと――これこそは、おのれを聖化しようと望んでいる霊魂が、万事にこえてあこがれている、聖なる野心である。
「あなたがたは、わたしにつながっていなさい。わたしもまた、あなたがたにつながっていよう」(ヨハネ15・4) イエズスは、霊魂を浸透し、霊魂もまたイエズスに浸透される――これこそはすべて、内的生活をいとなむ霊魂にとって、最終の目的であり、最高の境地なのだ。
経験に富んだ説教家だったら、次の真理をよく知っていよう。すなわち、黙想会の説教のとき、初めにはきまって、死、審判、天国、地獄など、いわゆる四終について、話をせねばならぬ。それはどうしても、なくてはならぬものとして通ってきているのだが、しかしイエズス・キリストにたいする愛について、信者によく話してきかせると、前者にもましていっそう有益な、いっそう深い印象を彼らにあたえるのが通例である。ましてイエズス・キリストにたいする愛を説く者が、おのれもまた回心をした者であるとき、そのかたる一語一語によって、自分の心にもえさかっている愛熱の炎を、聴衆の心にもそそぎ入れることができるのだから、その話は必ず、成功を期待することができる。そして聴く人も、ほんとうに回心させることができるのである。
霊魂を、罪悪の生活から、立ちかえらせたい。さらに、熱心な霊魂を、完徳の生活へみちびいてやりたい。――こんなとき、イエズス・キリストにたいする愛こそは、恩寵の奇跡をおこなう上において、最も有力な手段となる。
罪悪のドロ沼に、身をもだえている、一人の信者がここにいる。イエズス・キリストの愛を説教できいた。ひどい罪をたくさんおかしてはいても、かれの心の中にはまだ、良心がかすかに余喘(よぜん)を保っている。――自分とおなじ人間であるこの説教師は、このように天主の愛にもえている。心も、顔も、天主の愛に光かがやいている。その愛の対象は、目にこそみえないが、しかし現実のものである。……こんなふうに、心の中で考える。
他方において、この罪びとは、地上愛のはかなく、頼みがたいのを痛切に感じる。愛人に裏切られたことを思っては後悔する。あれやこれやを考えるにつけ。罪というものにたいして、憎悪を感じはじめる。天主について、いくらかさとり始めた。人びとにたいするイエズス・キリストの永遠の愛が、すこしわかり始めたのだ。心はいいようのない感傷にとざされて、おさなごのむかしにかえる。なつかしい洗礼の日を、たのしかった初聖体の日を思いだす。心の奥のどこかに潜んでいた恩寵が、急に躍動するのをおぼえる。
そのとき、かれの心の目に、イエズスがそのお姿を、あざやかにお現わしになる。イエズスの聖心のやさしい愛の息吹が、説教師の容姿をとおして、その音声をとおして、生き生きと感受される。今まであざむかれどうしであった地上愛のほかに、いまひとつの愛が――けだかい、聖純な、熱烈な愛があるのだ。いっさいの被造物の愛に君臨する最高の愛が、天主の愛があるのだ。そして自分は、この世ながらに、この愛を愛することができるのだ。……心の中で、かれはこうつぶやく。
このとき天主の愛が、このとき愛の天主が、その代理者なる説教師の話によって、いますこしいっそうあざやかに姿をあらわすなら、そのときこそ霊魂は、罪悪のドロ沼からぬけでるのだ。そして、これまでは何も知らなかった、天主愛の珠玉を手に入れるために、もし必要とあれば、どんなぎせいでも払おうと決心する。
愛に感激した霊魂は、天主を愛し、また愛しつらぬくために、苦しみを恐れないようになる。罪びとにしてすでにこの通りなら、ましてすでに罪悪の生活からぬけでている霊魂、すでに熱心な霊魂に、イエズス・キリストの愛を説く真の牧者は、かれらをしてどれほど天主愛に、成長させることができるだろうか。どれほど善徳に、進歩させることができるだろうか。
使徒的事業にたずさわっている人が、たとえ司祭の位階はもっていなくても、もしイエズスの聖心にたいして熱烈な愛をもっていさえしたら、この一事によって、かれらはこの同じ愛を、対神徳の中でいちばんすぐれたこの愛徳を、周囲の人びとの魂にも、そそぎ入れることができるのである。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き4)
(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか (2/6)
内的生活によって、使徒は“信仰”のかがやきを、周囲に照射する
内的生活をいとなんでいる使徒が、なにか話をする。きく人は、すぐに、この使徒のうちに、天主が臨在しておいでになることを、直覚する。
聖ベルナルドについて、誰かがこんなことをいっている。「かれは、心の孤独にとりかこまれていたので、どこにいても、ひとりぼっちだった」
この聖人のように、まことの使徒は、他人から遠ざかる。孤独の境地に身をおく。
だからこそ、内心の孤独境を、おのれのうちにつくりだすことができるのだ。
しかし、見る人は、かれがけっして、ひとりぼっちだとは思わない。――かれの心の中には、誰やらひじょうにむつましい、ふしぎなお客さんがいるようだ。そのお客さんと、かれはしょっちゅう親しいお話をしている。お客さんのさしずがない限り、かれはだれともお話をしない。しても、それはお客さんの指導のもとにおかれている。内心のお客さんの意見や命令によらないでは、絶対に人に話しかけない……。
事実、かれは、内心のお客さんに支えられ、手ずから指導されている。だから、かれの口からもれでる一語一語は、かれの心の中に現存しておいでになる天主の聖言の、忠実な反響でしかない。「語る者は、天主の聖言を語る者にふさわしく語る」(ペトロ前4・11)
その話に、すじがとおっているとか、熱がこもっているとか、ということよりむしろ、かれの話には、内心にいます天主の聖言の気配が感じられる、被造物を通じてお語りになる“教える聖言”の呼吸がかよっている、という点が、特に歴然としている。「わたしが、あなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。御父が、わたしのうちにおられて、ご自分で、みわざをなさっていられるのである」(ヨハネ14・10)
かれの話は、聴衆に、深い、いつまでたっても消えない、印象をあたえる。
なるほど、内的精神をもたない人でも、その雄弁によって、その一時的の信心によって、聴衆から、ごくうわべだけの称賛はかちえよう。したがって、ある程度の深い印象を、あたえることもできよう。だが、こういう説教家の話をきいて、人びとはいうにきまっている。「なるほど、かれはうまいことをしゃべる。はなしぶりも、なかなか堂に入ったものだ!」と。
しかし、それはあくまで、一時的の感激であって、ただそれだけでは、人びとを超自然の信仰にまでみちびくことは、絶対にできないのだ。まして、人びとをうながして、この信仰に生きるように仕向けることは、とうていできっこないのである。
フランスのトラピスト修道院にガブリエル助修士(F. Gabriel, convers trappiste)という修道士がいた。かれの務めは、接客係の助手であった。多くの訪問客に、話をするのだが、きく人はみな、生き生きと信仰が呼びさまされる。その技能にかけては、学者の司祭でも、とうていかなわない。そして、かれの語る言葉は、あいての頭よりも、いっそう心に、反響を呼びおこすのである。ミリビエル将軍(Le général de Miribiel)は、この貧しい謙遜な助修士と話をするために、よく修道院にやってきたものだが、人をつかまえては、好んでこんなことをいったものである。「わたしは、信仰にひたるためくるのですよ」(Je viens me retremper dans la foi.)と。
今日ほど、えらい説教のはんらんしている時代はあるまい。今日ほど、宗教について、むずかしい議論がたたかわされ、護教論のすばらしい書物が、続々刊行されている時代もあるまい。だが、同時に、少なくとも信徒大衆を例にとってみてもわかるとおり、おそらく今日ほど、信仰が活気を呈していない時代もなかろう。
何が、その原因なのか。――信仰を教えみちびく使命をおびている人たちが、あまりにしばしば、信仰の行為のなかに、ただ理性の行為だけをみている、そのためではなかろうか。信仰の行為が、理性の行為とおなじように、理知からばかり出ると思って、意志からも出るものだということを忘れている、そのためではなかろうか。
信ずるということは、超自然の行為であって、純然たる天主の賜ものである。
このことを、忘却しているのだ。――これこれのことは、信じていもいいような気がする。そこには、ちゃんと確実な理由がある。自分はそれをハッキリさとることができる。……だが、いよいよ決定的に“信ずる”となると、前者(知性)の心がまえと、後者(信仰)の決意とのあいだには、人力のいかんともしがたい深淵がよこたわっている。この深淵を埋めることのできるものは、ただ天主のちからと教えられる人の善意との合成である。
さて、この深淵を埋めるのに、たいへん役に立つものがある。――教える人の聖徳によって、超自然の光明が、周囲に照射される。この天主的光明に照らしだされて、教えられる人は、深く自己を反省する。つまり、内的生活によって、使徒の信仰のかがやきが、人びとの霊魂に照射されるとき、それが天主と人のあいだによこたわる無限の淵を埋めてくれる、というのである。
内的生活によって、使徒は“望徳”のかがやきを、周囲に照射する
どうして念禱の人が、望徳のかがやきを、周囲に照射しないだろうか。
まことの幸福は、天主のうちにある、ただ天主のうちにだけある。――この信念が、信仰によって、かれの心に深く根ざしている。だからして、かれが天国について語るとき、その言葉には、どれほど強い説得力がこもっていることだろう。永遠の幸福を模索して、迷いなやむ人びとをなぐさめるために、かれはどれほど豊富な、幸福の資源を提示することだろう。自分のいうことを、他人にきいてもらえるために、最もすぐれた方法は、人間の宿命なる毎日の十字架を、どうすればよろこんでになっていけるか、その秘訣を授けてやることである。
この秘訣は、天国の希望にある。同時に、聖体の秘跡にもある。
聖パウロのように、「われわれの国籍は天にある」(フィリッピ3・20)と、真実にいい得る人が、なやめる人びとをなぐさめるとき、その語る言葉はどれほど、生き生きとしていることだろうか。どれほど希望に波うっていることだろうか。
内的生活をもたない人でも、天国の幸福については語ることができよう。大げさに、美辞麗句をならべたてて!
だが、その演説は、なんの実も結ばない。
鳴る鐘、ひびくドラの音である。
まことの使徒、内的生活に生かされている使徒の語る言葉は、そんなものではない。
それは、迫力に富んだ言葉である。だれもが承服せざるをえない言葉である。
語る人の霊魂の、天主の生命に躍動する姿を、明るみにだす言葉である。
だから、かれの話をきけば、心のあらしは一瞬にして静まる。
たましいのなやみは、立ちどころに消え去る。
どんなはげしい苦しみでも、よろこんで耐えしのぶ。
内的な人の身からは、生命の希望が、天主の霊能が、ながれでて、あいての霊魂に交流される。かくて、人の世の冷酷さに泣く人びとの心をあたためてくれる。また、それがなければ、絶望のふちに飛び込んだにちがいない霊魂を救ってくれるのである。
内的生活によって、使徒は“愛徳”の炎を、周囲に照射する
愛徳を修得し、これをいつまでも確保しておくこと――これこそは、おのれを聖化しようと望んでいる霊魂が、万事にこえてあこがれている、聖なる野心である。
「あなたがたは、わたしにつながっていなさい。わたしもまた、あなたがたにつながっていよう」(ヨハネ15・4) イエズスは、霊魂を浸透し、霊魂もまたイエズスに浸透される――これこそはすべて、内的生活をいとなむ霊魂にとって、最終の目的であり、最高の境地なのだ。
経験に富んだ説教家だったら、次の真理をよく知っていよう。すなわち、黙想会の説教のとき、初めにはきまって、死、審判、天国、地獄など、いわゆる四終について、話をせねばならぬ。それはどうしても、なくてはならぬものとして通ってきているのだが、しかしイエズス・キリストにたいする愛について、信者によく話してきかせると、前者にもましていっそう有益な、いっそう深い印象を彼らにあたえるのが通例である。ましてイエズス・キリストにたいする愛を説く者が、おのれもまた回心をした者であるとき、そのかたる一語一語によって、自分の心にもえさかっている愛熱の炎を、聴衆の心にもそそぎ入れることができるのだから、その話は必ず、成功を期待することができる。そして聴く人も、ほんとうに回心させることができるのである。
霊魂を、罪悪の生活から、立ちかえらせたい。さらに、熱心な霊魂を、完徳の生活へみちびいてやりたい。――こんなとき、イエズス・キリストにたいする愛こそは、恩寵の奇跡をおこなう上において、最も有力な手段となる。
罪悪のドロ沼に、身をもだえている、一人の信者がここにいる。イエズス・キリストの愛を説教できいた。ひどい罪をたくさんおかしてはいても、かれの心の中にはまだ、良心がかすかに余喘(よぜん)を保っている。――自分とおなじ人間であるこの説教師は、このように天主の愛にもえている。心も、顔も、天主の愛に光かがやいている。その愛の対象は、目にこそみえないが、しかし現実のものである。……こんなふうに、心の中で考える。
他方において、この罪びとは、地上愛のはかなく、頼みがたいのを痛切に感じる。愛人に裏切られたことを思っては後悔する。あれやこれやを考えるにつけ。罪というものにたいして、憎悪を感じはじめる。天主について、いくらかさとり始めた。人びとにたいするイエズス・キリストの永遠の愛が、すこしわかり始めたのだ。心はいいようのない感傷にとざされて、おさなごのむかしにかえる。なつかしい洗礼の日を、たのしかった初聖体の日を思いだす。心の奥のどこかに潜んでいた恩寵が、急に躍動するのをおぼえる。
そのとき、かれの心の目に、イエズスがそのお姿を、あざやかにお現わしになる。イエズスの聖心のやさしい愛の息吹が、説教師の容姿をとおして、その音声をとおして、生き生きと感受される。今まであざむかれどうしであった地上愛のほかに、いまひとつの愛が――けだかい、聖純な、熱烈な愛があるのだ。いっさいの被造物の愛に君臨する最高の愛が、天主の愛があるのだ。そして自分は、この世ながらに、この愛を愛することができるのだ。……心の中で、かれはこうつぶやく。
このとき天主の愛が、このとき愛の天主が、その代理者なる説教師の話によって、いますこしいっそうあざやかに姿をあらわすなら、そのときこそ霊魂は、罪悪のドロ沼からぬけでるのだ。そして、これまでは何も知らなかった、天主愛の珠玉を手に入れるために、もし必要とあれば、どんなぎせいでも払おうと決心する。
愛に感激した霊魂は、天主を愛し、また愛しつらぬくために、苦しみを恐れないようになる。罪びとにしてすでにこの通りなら、ましてすでに罪悪の生活からぬけでている霊魂、すでに熱心な霊魂に、イエズス・キリストの愛を説く真の牧者は、かれらをしてどれほど天主愛に、成長させることができるだろうか。どれほど善徳に、進歩させることができるだろうか。
使徒的事業にたずさわっている人が、たとえ司祭の位階はもっていなくても、もしイエズスの聖心にたいして熱烈な愛をもっていさえしたら、この一事によって、かれらはこの同じ愛を、対神徳の中でいちばんすぐれたこの愛徳を、周囲の人びとの魂にも、そそぎ入れることができるのである。
(続く)