アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力(le rayonnement surnaturel)をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか(1/6)
霊魂の回心への障害となるものは、たくさんあろう。だが、その最もおおきな障害の一つは、天主が、「かくれた天主 Deus absconditus」(イザヤ45・15)であるということだ。しかし、天主は、善良そのものでいらっしゃるから、ご自分のかくれた本性を、その人目にかくれた完徳を、ある仕方で、おあらわしになる。
このかくれた天主を、人目にあらわす者として登場するのが、聖人たちであり、熱心な霊魂たちである。このようにして、目にみえない超自然は、信者たちの眼前に、神秘の姿をあらわす。これによって信者たちは、天主の秘めたる本性、その完徳、その奥義にかんして、いくらかの理念をつかむことができる。
それなら、超自然のこの顕示は、聖人たちの持っているどんなものによって、おこなわれるのであろうか。――かれらの聖徳のかがやきによってである。神学者たちが普通に、成聖の恩寵と呼んでいる、天主性の流露(l'influx divin)によってである。さらにもっと適切にいえば、かれらの霊魂の深奥に臨在して、かれらを聖化する。至聖なる三位一体の現存によって、その現存の霊妙な成果によってである。
聖バジリオの説明も、これと全く同じ。かれはいっている。
「聖霊が、その恩寵によって浄化した霊魂に、ご自分をあたえて、これと親密に一致するとき、その目的とするところは、この霊魂をますます純化し、ますます霊化するにある。太陽の光線が、水晶にふれてこれをつらぬくと、水晶はひとしお、かがやきを増す。これと同じように、霊魂の聖化をその主な使命としてもつ聖霊も、その内にお住まいになる霊魂を、ご自分の臨在をもって、ひとしお光輝あるものとなす。かくて、聖霊の臨在の結果、この霊魂はおのれの周囲に、恩寵と神愛のかがやきを照射するカマドのようなものとなる」(『聖霊論』9・23)
Lorsque l'Esprit-Saint s'unit aux âmes que sa grâce a purifiées, c'est pour les spiritualiser davantage. Pareil au soleil qui rend plus étincelant le cristal qu'il touche et pénètre de son rayon, l'Esprit sanctificateur rend plus lumineuses les âmes qu'il habite, et, par l'effet de sa présence, elles deviennent comme autant de foyers qui répandent autour d'elles la grâce et la charité.
さて、この“天主性の流露”、この“天主的なるものの顕示”(Manifestation du Divin)は、天主の人イエズス・キリストのあらゆるお仕ぐさのなかに、はてはそのご睡眠のなかにさえも、ただよっていた。それはまた、深い内的生活をいとなんでいる霊魂たちにおいても、同様にみとめることができる。ある聖人たちは、その聖徳のほまれによって、おどろくべき回心をおこなった。完全な生活にあこがれる人びとは、群れをなして、かれらのあとにつき従いたいと乞いねがい、その周囲に馳せ集まった。これらの事実は、いったい、なにを物語るのか。――聖人たちは、無言のうちに、りっぱに使徒職を発揮している、ということだ。そしてその秘訣は、右にいった“天主性の流露”、“天主的なるものの顕示”にある、ということだ。
そんなわけで、聖アントニオは、おのれのもとに群れつどう隠修士たちをもって、エジプトの砂漠をいっぱいにした。
聖ベネディクトによって、聖なる修道者たちの大集団が編成され、ヨーロッパの未開の国々は開発され、文明化されていった。
聖ベルナルドが、当時のカトリック教会内に投じた影響力は、たぐいないものだった。王侯らも、人民らも、みんなかれの恩沢に浴した。
聖ビンセンシオ・フェリエは、その通過する道々で、無数の群衆を、熱烈な信仰に立ちかえらせ、かれらの回心を、決定的にするのだった。
聖イグナチオのあとからは、教会の霊戦の第一線で働く精鋭部隊が、ひっきりなしについていく。いずれも一騎当千の勇士ぞろいで、その優秀さは、ただ一人の聖フランシスコ・ザベリオだけでも、ゆうに数百万の異教徒を回心させることができるほどである。
天主の全能のかがやきは、よわい人間の聖徳を触媒として、人びとの霊魂に働きかけるのだ。
この聖徳のかがやきだけが、右にいった霊界の奇跡を解明する、最終的カギなのである。
たいせつな使徒的事業をいとなんでいる上長たちの中に、ほんとうに内的生活を全然持っていない者がたくさんいる。なんと大きな不幸だろう。そのために、超自然の太陽は、日蝕にあって光りを発しない。したがって、天主の全能は、あたかもしばられたようで、なんの働きもできない。なんの効果も発揮できない。こういう時にこそ、―― 聖人たちの教えの通り ――ある一つの国は精神的に堕落し、天主の摂理は悪人どもに思うぞんぶん暴威をふるうことをお許しになる。[こういう悪に直面しても、天主の全能は、教役者の不徳のために、なんの働きもできない。だから悪が、暴虐をほしいままにするのだ!]
次の事実を忘れないでほしい。すなわち、民衆は、使徒の人物から発せられるこの“超自然の照射”を、ほとんど本能的に、実感するものだ。この実感の正体がどんなものだか、それについてハッキリした定義はくだせないが、とにかく聖なる使徒が発散する霊的磁気に、敏感だということは確実だ。
早い話、ここに大きな罪人がいる。告解場にきた。聴罪師は、聖徳の人である。罪びとは、聴罪師のなかに、かれがその代理をつとめる天主ご自身をみとめる。そうなれば、もうしめたもの。罪びとは、一も二もなく、司祭の足もとにひれふして、罪を告白し、ゆるしを願う。これと正反対な、いま一つの事実がある。
ある信者たちの組織する信心会が、ここにある。ところが、会の指導司祭が、おのれの教役を果たすために必要な理想としての、聖徳について、適確な考えをもちあわせていない。つまり聖徳に達したいとの理想を、もっていない。さて、指導司祭が、聖徳の理想達成を放棄したその日から、どんな変化が目にみえて、会のなかに起こるだろうか。――会員はみな嫌がって、告解をしないようになろう。
「ヨハネは、なんの奇跡もおこなわなかった Joannes quidem signum fecit nullum」(ヨハネ10・41)。けれど、そのたぐいない聖徳のゆえに、無数の群衆を、おのれのもとにひきよせたのではなかったか。
アルスの聖司祭ビアンネー神父の声は、あまりに低かったので、説教のとき、彼の周囲におしよせる群衆には、よくききとれなかった。しかし、人びとには、ビヤンネー神父のいうことは全然きこえなくても、かれの姿は見えた。天主の霊に乗りうつられたような、かれの姿はみえた。かれの姿をひと目みただけで、群衆はみな感動し、心服し、そして回心した。
アルスの巡礼から帰ってきた一人の弁護士に、ある人が、
「アルスでどんな印象を受けましたか」と、たずねてみた。
「わたしは、人間のなかに“天主さま”をみましたよ!」« J'ai vu Dieu dans un homme. »
これが弁護士の答えだった。
前まで述べてきたことを、そのよりよき理解のため、一つの平凡な事例に集約することを、おゆるし願いたい。
電気について、こんな実験がある。絶縁台の上に、一人乗せておく。かれに電気を通じる。電流の流れているかれの身体に、他の一人が触わる。火花がでる。触わった人のからだは、ピリピリッと電撃を感じる。
内的生活をいとなんでいる人についても、おなじことがいえる。ひとたび、あらゆる被造物と絶縁すれば、直ちにかれとイエズスとのあいだに、たえまない生命の交流がおこなわれる。かくて、使徒は、超自然生命の蓄電池となる。かれの内部には、天主的生命の電流が蓄積されている。そしてそれは、その時どきの情勢により、また、かれが仕事をする場所のあらゆる事態に応じて、とりどりに強度を増減し、かつこれにピッタリ合うように調整される。
地上遍歴ちゅうのイエズスにかんして、福音記者は、「ちからが、イエズスの身から出て、みんなの者を次々にいやしていた Virtus de illo exibat et sanabat omnes.」(ルカ6・19)と書きしるしているが、このことは、どの使徒にもあてはまろう。使徒にとって、言葉とか行いとかいうものはみな、内に蓄積されている超自然的電流の放電にほかならない。この電流は、人目にこそみえないが、きわめて強烈な力であって、霊生の途上によこたわる障害物を打破し、人びとを回心にみちびき、または人びとの熱心を助長してくれる。
対神徳が、超自然的蓄電池なる使徒の心に、充満すればするほど、かれは霊的放電によって、他の人の心にも、同じ徳を増進させることができるのだ。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き3)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力(le rayonnement surnaturel)をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか(1/6)
霊魂の回心への障害となるものは、たくさんあろう。だが、その最もおおきな障害の一つは、天主が、「かくれた天主 Deus absconditus」(イザヤ45・15)であるということだ。しかし、天主は、善良そのものでいらっしゃるから、ご自分のかくれた本性を、その人目にかくれた完徳を、ある仕方で、おあらわしになる。
このかくれた天主を、人目にあらわす者として登場するのが、聖人たちであり、熱心な霊魂たちである。このようにして、目にみえない超自然は、信者たちの眼前に、神秘の姿をあらわす。これによって信者たちは、天主の秘めたる本性、その完徳、その奥義にかんして、いくらかの理念をつかむことができる。
それなら、超自然のこの顕示は、聖人たちの持っているどんなものによって、おこなわれるのであろうか。――かれらの聖徳のかがやきによってである。神学者たちが普通に、成聖の恩寵と呼んでいる、天主性の流露(l'influx divin)によってである。さらにもっと適切にいえば、かれらの霊魂の深奥に臨在して、かれらを聖化する。至聖なる三位一体の現存によって、その現存の霊妙な成果によってである。
聖バジリオの説明も、これと全く同じ。かれはいっている。
「聖霊が、その恩寵によって浄化した霊魂に、ご自分をあたえて、これと親密に一致するとき、その目的とするところは、この霊魂をますます純化し、ますます霊化するにある。太陽の光線が、水晶にふれてこれをつらぬくと、水晶はひとしお、かがやきを増す。これと同じように、霊魂の聖化をその主な使命としてもつ聖霊も、その内にお住まいになる霊魂を、ご自分の臨在をもって、ひとしお光輝あるものとなす。かくて、聖霊の臨在の結果、この霊魂はおのれの周囲に、恩寵と神愛のかがやきを照射するカマドのようなものとなる」(『聖霊論』9・23)
Lorsque l'Esprit-Saint s'unit aux âmes que sa grâce a purifiées, c'est pour les spiritualiser davantage. Pareil au soleil qui rend plus étincelant le cristal qu'il touche et pénètre de son rayon, l'Esprit sanctificateur rend plus lumineuses les âmes qu'il habite, et, par l'effet de sa présence, elles deviennent comme autant de foyers qui répandent autour d'elles la grâce et la charité.
さて、この“天主性の流露”、この“天主的なるものの顕示”(Manifestation du Divin)は、天主の人イエズス・キリストのあらゆるお仕ぐさのなかに、はてはそのご睡眠のなかにさえも、ただよっていた。それはまた、深い内的生活をいとなんでいる霊魂たちにおいても、同様にみとめることができる。ある聖人たちは、その聖徳のほまれによって、おどろくべき回心をおこなった。完全な生活にあこがれる人びとは、群れをなして、かれらのあとにつき従いたいと乞いねがい、その周囲に馳せ集まった。これらの事実は、いったい、なにを物語るのか。――聖人たちは、無言のうちに、りっぱに使徒職を発揮している、ということだ。そしてその秘訣は、右にいった“天主性の流露”、“天主的なるものの顕示”にある、ということだ。
そんなわけで、聖アントニオは、おのれのもとに群れつどう隠修士たちをもって、エジプトの砂漠をいっぱいにした。
聖ベネディクトによって、聖なる修道者たちの大集団が編成され、ヨーロッパの未開の国々は開発され、文明化されていった。
聖ベルナルドが、当時のカトリック教会内に投じた影響力は、たぐいないものだった。王侯らも、人民らも、みんなかれの恩沢に浴した。
聖ビンセンシオ・フェリエは、その通過する道々で、無数の群衆を、熱烈な信仰に立ちかえらせ、かれらの回心を、決定的にするのだった。
聖イグナチオのあとからは、教会の霊戦の第一線で働く精鋭部隊が、ひっきりなしについていく。いずれも一騎当千の勇士ぞろいで、その優秀さは、ただ一人の聖フランシスコ・ザベリオだけでも、ゆうに数百万の異教徒を回心させることができるほどである。
天主の全能のかがやきは、よわい人間の聖徳を触媒として、人びとの霊魂に働きかけるのだ。
この聖徳のかがやきだけが、右にいった霊界の奇跡を解明する、最終的カギなのである。
たいせつな使徒的事業をいとなんでいる上長たちの中に、ほんとうに内的生活を全然持っていない者がたくさんいる。なんと大きな不幸だろう。そのために、超自然の太陽は、日蝕にあって光りを発しない。したがって、天主の全能は、あたかもしばられたようで、なんの働きもできない。なんの効果も発揮できない。こういう時にこそ、―― 聖人たちの教えの通り ――ある一つの国は精神的に堕落し、天主の摂理は悪人どもに思うぞんぶん暴威をふるうことをお許しになる。[こういう悪に直面しても、天主の全能は、教役者の不徳のために、なんの働きもできない。だから悪が、暴虐をほしいままにするのだ!]
次の事実を忘れないでほしい。すなわち、民衆は、使徒の人物から発せられるこの“超自然の照射”を、ほとんど本能的に、実感するものだ。この実感の正体がどんなものだか、それについてハッキリした定義はくだせないが、とにかく聖なる使徒が発散する霊的磁気に、敏感だということは確実だ。
早い話、ここに大きな罪人がいる。告解場にきた。聴罪師は、聖徳の人である。罪びとは、聴罪師のなかに、かれがその代理をつとめる天主ご自身をみとめる。そうなれば、もうしめたもの。罪びとは、一も二もなく、司祭の足もとにひれふして、罪を告白し、ゆるしを願う。これと正反対な、いま一つの事実がある。
ある信者たちの組織する信心会が、ここにある。ところが、会の指導司祭が、おのれの教役を果たすために必要な理想としての、聖徳について、適確な考えをもちあわせていない。つまり聖徳に達したいとの理想を、もっていない。さて、指導司祭が、聖徳の理想達成を放棄したその日から、どんな変化が目にみえて、会のなかに起こるだろうか。――会員はみな嫌がって、告解をしないようになろう。
「ヨハネは、なんの奇跡もおこなわなかった Joannes quidem signum fecit nullum」(ヨハネ10・41)。けれど、そのたぐいない聖徳のゆえに、無数の群衆を、おのれのもとにひきよせたのではなかったか。
アルスの聖司祭ビアンネー神父の声は、あまりに低かったので、説教のとき、彼の周囲におしよせる群衆には、よくききとれなかった。しかし、人びとには、ビヤンネー神父のいうことは全然きこえなくても、かれの姿は見えた。天主の霊に乗りうつられたような、かれの姿はみえた。かれの姿をひと目みただけで、群衆はみな感動し、心服し、そして回心した。
アルスの巡礼から帰ってきた一人の弁護士に、ある人が、
「アルスでどんな印象を受けましたか」と、たずねてみた。
「わたしは、人間のなかに“天主さま”をみましたよ!」« J'ai vu Dieu dans un homme. »
これが弁護士の答えだった。
前まで述べてきたことを、そのよりよき理解のため、一つの平凡な事例に集約することを、おゆるし願いたい。
電気について、こんな実験がある。絶縁台の上に、一人乗せておく。かれに電気を通じる。電流の流れているかれの身体に、他の一人が触わる。火花がでる。触わった人のからだは、ピリピリッと電撃を感じる。
内的生活をいとなんでいる人についても、おなじことがいえる。ひとたび、あらゆる被造物と絶縁すれば、直ちにかれとイエズスとのあいだに、たえまない生命の交流がおこなわれる。かくて、使徒は、超自然生命の蓄電池となる。かれの内部には、天主的生命の電流が蓄積されている。そしてそれは、その時どきの情勢により、また、かれが仕事をする場所のあらゆる事態に応じて、とりどりに強度を増減し、かつこれにピッタリ合うように調整される。
地上遍歴ちゅうのイエズスにかんして、福音記者は、「ちからが、イエズスの身から出て、みんなの者を次々にいやしていた Virtus de illo exibat et sanabat omnes.」(ルカ6・19)と書きしるしているが、このことは、どの使徒にもあてはまろう。使徒にとって、言葉とか行いとかいうものはみな、内に蓄積されている超自然的電流の放電にほかならない。この電流は、人目にこそみえないが、きわめて強烈な力であって、霊生の途上によこたわる障害物を打破し、人びとを回心にみちびき、または人びとの熱心を助長してくれる。
対神徳が、超自然的蓄電池なる使徒の心に、充満すればするほど、かれは霊的放電によって、他の人の心にも、同じ徳を増進させることができるのだ。
(続く)