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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き7)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き7)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き7)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (5/6)

 内的生活によって、使徒は”剛毅“と”柔和“の美徳を、周囲に照射する

 道徳的過誤、悪の感染、偽善などの悪徳にたいして、聖人たちはしばしば、歯に衣をきせぬまでに、激烈な態度を示した。
 聖ベルナルドは、当世一流の説教家であったが、その熱誠が最も大きな剛毅を、周囲に放射した聖人たちの一人にかぞえられよう。
 だが、かれの伝記を注意して読むと、その内的生活が、この“天主の人”を、どれほど徹底的に、没我的な人物にしたかを、読者はさとることができよう。かれは手を代え品を代えて、可能ないっさいの手段をつくしても、とうてい駄目だとわかったときに初めて、激烈な態度に出るのだった。かれはしばしば、剛と柔をあわせ用いた。
かれは、人間にたいして、熱烈な愛をもっていたので、ふみにじられた正義の報復をする場合でも、まずあいての人に聖なるいきどおりを発し、謝罪や、弁償や、将来の保証や、約束などを要求するきびしい審判者の威をあらわすけれども、それがすめば、あとはガラリと人間が変わったように、やさしい母ごころをもって、これまでは良心の命令にしたがって敵対し、攻撃してきた人たちを、回心へとみちびく。
 [エロイーズの恋人]アベラルド(Abailard)の誤説にたいしては、なさけ容赦もなく論破してこれに勝ち、あいてを沈黙させたが、しかしすぐにこれを、自分の親友にする手ぎわは、また格別である。
 手段の行使にかんして、聖ベルナルドの態度は "愛" そのものである。
 主義が問題になっていない場合、かれは政府の役人どもが、粗暴な仕打ちにでないようにと、みずから破防者の役を買って出る。
 ドイツ在中のユダヤ人を虐殺しよう、絶滅しようと計画しているのを聞知したかれは、一刻も猶余せず、修道院のかこいを飛びこえて、かれらの救援にでかける。平和の十字軍をつくれ、と遊説してまわる。それは、ユダヤ教の大ラビをすら、感嘆おく能わざらしめた美挙だった。「聖ベルナルドがいなかったら、われわれのうち一人も、ドイツ国内に生き残った者はいなかったろう!」le moine de Clairvaux sans lequel aucun de nous ne serait resté vivant en Allemagne. とは、かの大ラビの述懐談であって、ラチスボンヌ師(P. Ratisbonne)は、その有名な『聖ベルナルド伝』のなかに、このエピソードを収録している。大教師はまた、イスラエル民族は、子々孫々にいたるまで、聖ベルナルドの恩を忘れてはならぬ、と後代の人びとをいましめている。
 この事件があったとき、聖ベルナルドはよくこういっていたものだ。
 「われわれは、平和の戦士である。われわれは“平和をつくりだす者”の軍隊である。説得、良い模範、奮発が、福音の子らにふさわしい唯一の武器だ!」
« Nous sommes les soldats de la paix, nous sommes l'armée des Pacifiques. Deo et paci militantibus. La persuasion, l'exemple, le dévouement sont les seules armes dignes des fils de l'Evangile. »

 あらゆる聖人たちの奮発を特徴づける、この没我的精神を身につけるためには、内的生活のほかに、いかなる手段もないのである。

 聖フランシスコ・サレジオの到着以前のシャブレ町は、まことに物情騒然たるものだった。あらゆる努力も水泡に帰した。プロテスタントの首領たちは、聖人にたいして、激しい戦いを準備している。聖フランシスコ・サレジオを殺さなければ、腹の虫がおさまらぬ。
 聖司教が、到着した。
 柔和と謙遜の美徳が、真昼の太陽のように、かれの身からかがやきそめる。
 人びとはかれの身に、なにを見たか。――“自我”の全く死滅した人間、天主と隣人への愛にもえさかり、その愛のかがやきを周囲に照射する、ひとりの天主のような人間を見たのである。かれの使徒職が、いかにすばやく、りっぱな実を生じたか、ほとんど信じられないくらいである。
 だが、かれとても――柔和な聖人サレジオの聖フランシスコとても、時には一歩もゆずらぬ強固な態度を、示さねばならぬ場合があるものだ、ということは、ちゃんと心得ていた。かれは、おのれの柔和な言葉と、おのれの善徳の模範によって、かちえたりっぱな成果を、いつまでも確保しておくために、国法の力をかりることすら、ちゅうちょしなかった。
 そんなわけで、聖司教は、サボア侯に、異端者らの背信行為にたいしては、きびしい態度で臨むように、と勧告したものである。
 聖人たちのこのやり方は、聖主のそれを模倣したものにほかならない。福音書の中で、われわれの眼底に映ずる聖主のお姿は、どんなものだろうか。――かれは、慈悲のかいなをひろげて、罪びとたちを受ける。収税吏ザケオの友となり、罪びとらの友となる。病める人びと、悩める人びと、小さき人びとにたいしては、とりわけ涙ぐましいまでに同情深くなる。
 だがしかし、受肉せる慈悲と柔和そのものなるイエズス・キリストではあっても、神殿から不正な商人たちを追いだすためには、ムチをとることすら辞されない。ヘロデ王の不義を糾弾するとき、偽善なるファリザイ人、律法学士らの罪悪を弾劾(だんがい)するとき、かれの態度はどれほど厳烈、かれの言葉はどれほど瞬辣(しゅんらつ)であることか!
 だが、こういうことは、ごくごくまれな場合にのみかぎられている。使徒は、いっさいの手段をつくしても、なんの効果もないとき、またどんなに努力を傾けても、それが無駄であるとハッキリわかったときに初めて、不本意ながら、悪が他に伝染しないために、つまり愛徳の要求にしたがって、このように一見苛酷と思われるような挙動に走るのである。
 こういう例外にぞくする場合を除けば、宗教の原則が問題になっていないとき、柔和こそは、福音の働き手の行動に君臨せねばならぬ美徳なのである。
 「一樽(たる)の酢(す)よりも、わずかばかりの蜂蜜で、もっとたくさん、ハエを捕えることができます」On prend plus de mouches avec un peu de miel qu'avec un tonneau de vinaigre.と、聖フランシスコ・サレジオはいっているが、まさにそのとおりである。
 聖主が、使徒たちをおとがめになった、福音書の記事をごぞんじであろう。
 サマリアの町びとが、使徒たちを受けない。かれらに門前払いをくわせる。使徒たちは、これでは自分たちの顔がつぶれた、自分たちの人格がすごく傷つけられた、面目がない、と大へんに怒る。そしてイエズスに向かって、「主よ、いかがでしょう。かれらを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」と、お願いする。
 それは、不純な、利己的な奮発心からであった。イエズスのお答えは、きびしい。
「あなたがたは、どんな精神の持ち主だか、自分では知っていない」(ルカ9・55)

 フランスのある司教が、第一次世界大戦のまだたけなわであったころ、自分の司教座の所在する都市で、戦没者の家庭を訪問したことがあった。この司教は、宗教道徳の原則にかけては、きわめてきびしく、頑固一徹である、というので有名であり、この点がまた、模範とするに足りる人物であった。
 司教は、一軒残らず訪問したのち、むすこの戦死をいたんで悲しんでいるカルビン教徒の一家族を慰問するために、その家のしきいをまたいだ。そして、心からの、感動にみちた、なぐさめの言葉をかけるのだった。そのことのあったのち、司教の謙虚な博愛心にいたく感激したこのプロテスタントは、しんみりとした調子でこういうのだった。
「こんなことが、いったい、ありうるのでしょうか。カトリック教会の、名門出の司教さまが、あんなに教養の高い司教さまが、わざわざ、ちがった宗派にぞくする、みすぼらしいわたしの家のしきいを、またいでくださったんです。司教さまのお態度といい、お言葉といい、それはいちいちわたしの心に、ぐさりぐさりとはいっていったんです……」
 この人をやとっていた工場の主人は、筆者に右の話をしてきかせたのち、次のように付言したものである。
「わたしにいわせれば、このプロテスタントは、もう半分はカトリックに改宗していますね。とにかく、司教さまは、その柔和の美徳で、どんなに長いりっぱな議論にもまして、かれの改宗を早めてくださいました」
 霊魂の牧者なるこの司教は、イエズス・キリストに柔和を、まずおのれの身に実現して、そののち初めてそれを、ほかの人の目のまえにもあらわしたのだった。このプロテスタントは、いわば、自分の面前に、救世主イエズス・キリストを見たのだった。そして思わず叫ばないではいられなかった。
 「こんなりっぱな司教を、――わたしが福音書のなかで、感嘆している天主の人イエズス・キリストを、こんなにみごとに反映している司教を、たくさん持っているカトリック教会こそ、キリストのほんとうの教会にちがいあるまい」Une Eglise qui a des Pontifes qui reflètent si exceptionnellement Celui que j'admire dans l'Evangile doit être la véritable Eglise.

 内的生活は、福音への奉仕に、精神と意志を同時に確保してくれる。そのおかげで、イエズスの聖心にしたがって物を見、事をおこなう人は、自分の怠慢によっても、他人からの不義の暴力によっても、霊魂の進路をあやまることはない。イエズスの聖心から霊感されて初めて、かれは思慮深い人になり、奮発心にもえる人となるのではないか。そして、ここにこそ、かれの成功の秘訣があるのだ。
 これに反して、内的生活を持たない、したがって野生の情熱から左右される日になると、多くの失敗をしでかすのである。

  (続く)

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