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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き8)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き8)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き8)


(c)内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか  (6/6)

  内的生活によって、使徒は“苦業”の精神を、周囲に照射する

 使徒的事業を、みのりゆたかにする、いま一つの要因――それは、苦業の精神である。
 なぜ、使徒が、人びとの霊魂を、まだ征服しきれずにいるのか。なぜ、救われるべくして救われない霊魂が、まだこんなにたくさんいるのか。――十字架の奥義を、かれらの心に浸透させることに成功しない、そのためではないのか。そんなら、人間性にかくも本質的な苦痛、かくも本能的な嫌気にうちかたせる十字架の奥義を、かれらによろこんで受けいれさせることのできる者は誰だろうか。――使徒聖パウロとともに、「わたしは、キリストとともに、十字架のつけられた」(ガラツィヤ2・19)と、真実にいいきれる人、ただこの人だけである。こういう人だけが、十字架にくぎづけられたイエズス・キリストを、おのれの身におびることができる。「わたしはいつも、イエズスの死を、この身におびている。それはまた、イエズスの生命が、この身に現われるためである」(コリント後4・10)
 苦業をするとは、「キリストは、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ15・3)と聖パウロがいった、このキリストを、おのが一身に、具現することである。
 それは、あらゆる機会に、おのれを捨てることである。おのれの気にくわないことを、おのれの自然の感情にいやなことを、キリストへの愛のために、愛好することである。
 最後に、苦業をするとは、自分はたえまなく、ほふられるべきいけにえになるのだ、というこの理想に向かって、たえず精進努力することである。
 これは確かに、われわれの本性に最も執拗な、最も頑強な本能の衝動の、全面的破砕である。内的生活なしに、この境地に達しうるものではない。
 アシジの貧者聖フランシスコは、黙々と町の通りをあるきながら、群衆にかれの姿をひと目みせただけで、りっぱに十字架の奥義を人びとに教えた。
 苦業をしない使徒は、どんなに美辞麗句をならべたてて、かの有名なボスエのカルワリオについての名説教をしてみたところで、群衆には何の感激もあたえることができない。十字架の奥義について、どんなに雄弁をふるってみたところで、それがなんになろう。
 世間は、肉の快楽に、おぼれている。楽しみたい欲望で、頭はいっぱいになっている。それは金城鉄壁にも比すべき、肉欲の牙城なのだ。これを陥落させるためには、月なみの議論では駄目だ。その議論がどんなにりっぱで、どんなに偉大な雄弁で説かれようと。どうしても、カルワリオの悲劇を、まざまざと聴衆の眼前に、再現しなければならぬ。聖主のご受難を、聴衆の心に、実感させなければならぬ。それができるのは、ただ説教師じしんの苦業と、被造物からの離脱だけである。
 「キリストの十字架の敵として歩いている者が多い」(フィリッピ3・18)
 聖パウロは、こういって嘆いている。
 十字架の敵 Inimicos crucis Christi!じじつ、どれほど多くのキリスト信者が、それであることだろう。
 かれらにとって、宗教はただ一種のうわッつらなお祭り騒ぎ une forme de «snobisme» にすぎない。ただ習慣的な、祖先から伝承した信仰の、外面的行事にすぎない。なるほど、一時的な信心は、心にもってはいるだろう。尊敬をもって、宗教の儀式に参列するでもあろう。だがしかし、それはただ、感情の遊戯にすぎないのであって、自分の生活をまじめに改善するとか、欲情に向かって激しく戦うとか、福音の精神を自分の行為にまで導入するとか、すべてこういう方面とは何のつながりもないのである。
 このような信者たちに向かって、聖主は仰せられるであろう。「この民は、口さきでは、わたしをうやまうが、その心は、わたしから遠く離れている」(マテオ15・8)と。
 十字架の敵 Inimicos crucis Christi! そうだ、かれらこそは、“十字架の敵”なのだ。
 女々しい、退歩的な、すこしも活気のない信者――世俗のあらゆる娯楽にとりかこまれていなければ、暮らしていけない、と考えている信者。
 世間が、こうせねばならぬ、といえば、すぐにそれに従う。禁じられた楽しみには、平気で手をだす。そこに足をふみ入れる。世間の流行を追うことでは、日もなお足りない。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13・3)との、聖主のご警告の言葉を耳にしても、いっこうにさとらない。聖パウロがいっているように、かれらにとって、十字架はただ、「つまずき」(コリント前1・23)でしかない。
 だが、内的生活なしに、そうではない信徒たちを使徒は生み出すことができるだろうか?

 教会の典礼の儀式に、信者がひんぱんにあずかるのは、まことに結構なことだ。これを見て、ほんとうの司祭であれば、心から満足をおぼえるだろう。
 だが、信者にしてみれば、こういう信心も、ただかれらの家庭のしきたりを尊重して、これを忠実に守っているにすぎない。もしくは、いっそうくわしく、その動機を探ってみると、教会の儀式には、よい音楽や聖歌があって面白いからだとか、祭服の美がすばらしいからだとか、説教がりっぱで、雄弁で、魅力があるからだとか、とにかくそういった調子で、あずかっているにすぎないのだ。かれらは徒らに、聖なる儀式の形骸をいだいて、かんじんな精神を逸し去っている。

 少なくとも信者たちのひんぱんな聖体拝領の熱心さには自然に頭がさがるようにも思える。

 筆者は、はからずも、北米合衆国巡遊の途次、見聞したことを記憶によびおこす。
 いくつかの小教区を見てまわったおり、月の第一金曜日の聖体拝領を忠実に、実行する信者がひじょうに多いことをきいて、筆者はずいぶん感激したものである。ところが、ニューヨークのある神父が、筆者に、次のような打ち明け話をした。
 「Homo videt in facie, Deus autem in corde 人は表面を見るけれど、天主は心を見る。あなたは、自分がアメリカにいる、ということを、お忘れになってはいけませんよ。ここでは、人目をはばかる、ということがない。なんでも大っぴらにやる。これ見よがしにやる。そういう処ですよ、アメリカという国は! あなたは、たいへん、感激していらっしゃるようだが、まあまあ感激するのは、ちょっとお待ちなさい。――ここに、良識に富んだ観察者がいて、こういうことを、いったとします。
 『この小教区では、信者たちがひんぱんに、聖体拝領をする。その結果であるのだろう、かれらは自分たちの生活を、むろん全面的には改善しおおせないながら、しかしすくなくとも、りっぱなキリスト信者としての生活をしたいと、まじめに努力している。放縦な、無軌道な生活とはキッパリ手を切りたい、あくことを知らぬ金銭欲なんかには、絶対に引きずり込まれたくない――このようにまじめな念願を、心にもっている……』こんなことを、もしこの良識に富んだ観察者がいいましたら、そのときはじめて、この小教区の信者たちにたいして、感激の涙をながしてください。……」

 こんなことを書いたからとて、誤解しないでいただきたい。筆者はけっして、信者たちの外面的信心の行事――たとえそれがどんなものであったにせよ――を、頭からけなしてかかるような量見なぞ、露ほどもないのだ。むしろ、筆者がいいたいのは、われわれ使徒職にたずさわる者が、もし内的生活に欠けるようなことでもあれば、その結果、信者たちにたいして、全然つまらぬとまではいわないが、ごくごく平凡な仕事しかできない、そういう無能な人間になってしまう、それがいかにも残念だ、ということである。

 聖主がお望みになるのは、ただわれわれの“心”だけなのだ。かれが“人の子”となって、地上に現われ、人びとに信仰の真理を啓示されたそもそもの理由は、ほかでもない。われわれの心を征服し、われわれの心をご自分のものにして、ご自分の後にしたがって、自己放棄――苦業――の血ぞめの道を、われわれにも、たどらせるためであった。
 この自己放棄こそは、いっさいの完徳の土台である、といっても過言ではない。
 さて、もし使徒が、内的生活にあこがれているなら、もし「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架をせおって、わたしにしがってきなさい」(マテオ16・24)との、イエズスのお言葉に基づいている内的生活を、常時にいとなんでいるなら、信者たちにも、この自己放棄の精神を修得させることは、けっして難事ではない。だが、たとえ内的生活はいとなんでいても、たとえ自分の十字架はかついでいても、もし“遠くから”だけ、イエズスにしたがっているなら、かれはいつまでたっても、信者たちに、自己放棄の精神を体得させることはできないだろう。人は、自分の持たないものを、他人にあたえることはできないからである。
 十字架にくぎづけられたイエズスを模倣するのに、どうも自分自身が、だらしのない、いいかげんな者である。それでいて、どうして信者たちに、イエズスがそこにわれわれを召集しておいでになる、わるい欲情にむかっての聖なる戦いを、説教する資格があるだろうか。
 ただ、自分を捨て、自分を全く忘れ去った使徒だけが――謙遜で、貞潔で、清貧な使徒だけが、いつも人の心に増長してやまない、物欲と傲慢と肉欲の暴威にたいして戦いをいどむため、自分のあとから、信者たちもぐんぐん、引っ張っていくことができるのではないか。ただ、十字架の学問を知っている使徒だけが、信者をして、その絶えまない安楽生活の追求にたいして、いっさいの良きものを溺らせ、死滅させる肉的快楽にたいして、肉欲の崇拝にたいして、堤防を築いて抵抗させることができるのではないか。
 十字架にくぎづけられた、イエズス・キリストを述べ伝えること――聖パウロの使徒職はこの一事につきる。
 かれはイエズス――しかも十字架にくぎづけられたイエズス――のご生命に溶け入って、生きていたからこそ、あれほど力づよく、十字架の奥義を、人びとにも説教することができたのだ。あれほどみごとに、十字架の奥義を、人びとにも味わわせることができた。十字架の奥義に生きるようにと、人びとにも教えることができたのだ。
 当世の使徒たちは、数こそ掃いてすてるほど多いのだが、人霊を活気づけるこの十字架の奥義を、自らも深め、これに浸透し、そのかがやきを人びとの上にも照射するほど、じゅうぶん深みのある、内的生活をいとなんでいる者は、ごくごくすくない。失礼ないいぶんだが、当世の使徒たちは、宗教のなかに、ただ哲学的な、ただ社会的な側面だけを見ている。自分たちの知性を楽しませ、官能や想像を興奮させる、美的要素だけを見ている。宗教のなかに、ただ崇高な詩歌だけを、たぐいない芸術だけを追求する傾向を、ますます助長している。
 なるほど、キリスト教は、こういう要素も持ってはいるだろう。だが、それは、どこまでいっても、ただ第二次的の要素でしかない。宗教のなかに、ただそれだけを見るのは、物の本末をとりちがえることであって、ひっきょう、福音書の全内容を、変質させることになる。
 ゲッセマニの園で、血涙をしぼるキリスト――ピラトのやかたで、ムチうたれ、赤い衣をきせられるキリスト――カルワリオの丘で、血ぞめの十字架にはりつけにされるキリスト――この凄惨なキリストを、かわいいキリスト Christ « au muguet » にするのは、それこそ罪ふかい冒瀆ではなかろうか。
 人祖が罪をおかして以来、苦業や償いや心戦は、人生のさくべからず運命になってしまった。このことをいつも、イエズス・キリストの十字架は、われわれに思いおこさせる。
 天にいます御父の栄光を、発揚しようとの熱心の火にもえて、カルワリオの血ぞめの道をたどるイエズス・キリストを、賛美する者は多い。
 だが、イエズスに必要なのは、十字架の賛美者ではない。十字架の模倣者なのだ。
 一九一四年十一月一日付の回勅(Ad Beatissimi Apostolorum)のなかで、ベネディクト十五世教皇は、なにを叫んでおられるのか。――まことの使徒であるなら、人びとを、快楽への愛着から奪いとるために、利己主義から、軽薄な趣味から、永遠善の忘却から、こういうものの魔手からもぎとるために、努力を倍加しなければならぬ、ということではないのか。これこそは、十字架にくぎつけられた御者に仕えるその教役者たちに向かって、内的生活の実行をうながし、かつ呼びかけるお言葉ではないのか。
 天にいます御父は、われわれキリスト信者に、数えつくせぬほどのお恵みを、お与えになったが、それでもわれわれが物ごころのつくや否や、直ちにおのれ自身の幾分かをさいて、御子イエズス・キリストの血ぞめのご受難に参加することを、つよくお求めになる。すなわち、われわれが“霊魂の血”le sang de son âme と呼んでいるものを、別のことばで申せば、天主のおきてを守るために、どうしても支払わねばならぬ犠牲を、お求めになるのである。
 それなのに、霊魂の指導にあたる人たちが、まず自分で犠牲の精神に富み、身をもって手本を示さないなら、どうして信者が、おのれの財産、快楽、名誉までも、よろこんで犠牲にするという、雄々しい気持ちになれるだろうか。
Comment le fidèle sera-t-il entraîné à faire générensement ces sacrifices de biens, de plaisirs, d'honneurs, sinon par l'exemple du conducteur d'âmes familiarisé lui-même avec l'esprit de sacrifice ?

 さて、いまや地獄の勢力は、世界いたる処に暴威をふるい、勝利をしめている。悪は、いくたびも、善に勝っている。これでは、いったい、現代社会はどうなるのだろうか。――心ある人のひたいをくもらせる、深刻な疑問である。
 だが、解答は、いたって簡単だ。聖主とともに、われわれは答えていおう。
 「この種類の悪魔は、祈りと断食によらなければ、追いだすことはできない」(マテオ17・21)
 もし司祭団や、修道団の中から、一群の“苦業の人たち”une pléiade d'hommes mortifiés がでて、この人たちが、十字架の奥義を周囲に照りかがやかすなら、そのとき世の人びとは、なまなましい苦業のあとを身におびているこの司祭、この修道者をみて、かれらの身の上に、世の罪のためにささげられている償いを読みとることができる。苦業でやせほそったかれらの身において、イエズス・キリストの御血によって成就される、人類救済の奥義を理解することができる。

 そのときはじめて、地獄の勢力は粉砕されるのだ。悪魔の軍隊は敗北する。そしてこのとき、世の人びとの罪によって、ののしりはずかしめられておいでになる救世主の、はらわたを断つお嘆きの声は、共に世の罪をつぐなう一群の伴侶をお見いだしになることによって、もはや恐るべき反響を呼ぶことはないだろう。
 「共に世の罪をつぐなう一群の伴侶」――しかし、キリストはこれをたやすく、お見いだしになることができるだろうか。天主は、遠い旧約の昔から、預言者の口をおかりになって、ご自分でこれにお答えになっておられる。
 「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、かれらのうちにたずねたが、ひとりも得られなかった」(エゼキエル22・30)

 ド・ラヴィニヤン神父(Père de Ravignan)が、たった一度、身に十字架のしるしをしただけで、どうしてそれは、ただの好奇心から、かれの説教をききにきた宗教無頓着者はいうに及ばず、悪人どもの上にさえ、ほとんど信じられないほど、りっぱな影響を及ぼすことができたのか、その原因をつきとめたい、と願いでた人があった。かれはそのことを、多くの聴聞者に、いちいちたずねてみた。結論は、こうである。――説教者ド・ラビニヤン神父の難業苦業の生活が、カルワリオの奥義にかれを結びつける、この十字架のしるしによって、まざまざと、かれの態度に反映しているからであると。

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