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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年1月21日(土)  御公現後第3主日「イエズス様は私たちを救う方、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方。謙遜と信頼を持って近寄れ。」

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2018年1月21日(主日)御公現後第3主日のミサ
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年1月21日、御公現後第3主日のミサをしております。今日御ミサの後には、いつもの通りにミサの後の祈りを致しましょう。その後に、1月の後半に恒例の踏絵の償いの儀式を行いたいと思っています。

新しく来た方の為にも説明を申し上げますと、毎年1月には特に長崎の方面では、250年間に渡って踏み絵というものが行われていました。キリスト教徒を探し出す為にされたもので、特にマリア様の御像が使われて、そのマリア様を足踏みにされていました。それが公式の行事でした。それで私たちはそのマリア様の受けたその屈辱を、その悲しみをお慰めする為に、1月にはその代わりに踏み絵に接吻をして差し上げたいと思っています。ですから皆さんも、洗礼を受けている方も受けていない方もどうぞいらして、マリア様のその踏まれた御影に、イエズス様と共に苦しんだマリア様にそれをお捧げして下さい。

今日は事情があり、公教要理を今週もお休みしなければならなくなりました。そこで晩課を14時30分頃から始めたいと思っています。どうぞご理解ご了承下さい。

明日も朝の7時からミサがあります。次の主日のミサは、2月4日です。



“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”
「全能の永遠の天主よ、私たちの弱さを快く顧みて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日御公現後第3主日のミサで、教会は今引用したように、集祷文をもって全教会の名前で祈りました。一体なぜなのでしょうか?一体このミサは何を私たちに教えたいと思っているのでしょうか?

そこで今日のこのミサにおいて、御公現の後のミサという事で、登場人物が3グループあります。3種類の人々が出てきて、御公現の時には3人の博士たちが東からやって来ましたが、特に御公現の後のミサでは、この3つの種類の方々が登場してきて私たちに何かを教えようとしています。

特にこの第3主日では、イエズス様は私たちを救う方として、特に異邦人と罪人たちを招いて癒す方として現れます。それをぜひ知って下さい、その黙想を提案します。このミサはどうなっているのか?

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日のこのミサの入祭誦を見ると、あるいは昇階誦とアレルヤ誦を見ると、3つのグループが登場するという事が分かります。

まず入祭誦では、“Adorate Deum omnes angeli ejus. ”「主を、天主を礼拝せよ。全ての主の天使たちよ。」

ここでまず現れてくるのが、天主の御稜威に満ちた、何千何万何億何兆何京という数かぞえきれないほどの、天の星々よりもはるかに多い天使たちからの礼拝を受けて、その上に燦然と支配している永遠の栄光の天主の御稜威。この主を礼拝せよ。「王たるキリスト」が現れます。昇階誦でも同じです。

次に出て来るのが、「シオン」という名前で言われる単語です。このシオンというのは昇階誦でも出てきます。聖書の考古学的な話によれば、エルサレムにそのある山をシオンの山と言って、特にエルサレムの城壁のこの砦をシオンと言ったのです。遂には山全体がシオンとなって、エルサレムの事をシオンと言うようになりました。

でもこれは典礼においては、実は「イエズス・キリストの教会」の事であって、新しいイスラエルであって、新しいシオン、カトリック教会の事です。第2に出てくるのは、つまり「教会」の事なのです。この王である方キリストは、昇階誦によると、シオンを立てる方であって、そのシオンを訪問する方であって、この第2に出てくるのはつまり教会です。

第3に出てくるのは、「ユダの娘たち」。これはもう皆さんすぐお分かりのように、「教会の子供たち」です。新しいユダであるカトリック教会のシンボルたちの事です。この昇階誦やアレルヤで歌われるような、「この地上の王、全ての王たちは、その主を礼拝せよ。」あるいは「多くの島たちは喜べ」と言った時も、やはり将来教会に属するべき異邦人たちの事です。

ではまず第1に中心に現れるのが、全能の力を持った、私たちに全ての善を施して、私たちの弱さを憐れむ力ある天主イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの御姿ですけれども、第2に出てくるのが、そのイエズス・キリストの立てる教会、シオンです。

ところで教会はこのシオンに、「喜べ。この主の話した言葉を聞いたシオンよ、喜べ」と言います。なぜ「喜べ」かというと、それはすなわち福音書や書簡で読まれる教会での生活、教会でこれから1年私たちが行なわされようとする事について予告があるので、「喜べ」と言います。

では一体何があるかというと、福音では、癩病の人が癒されます。それを司祭に見せに行けと言います、報告せよと言います。あるいは百夫長のしもべが癒されます。これは教会の生活でいえば、「洗礼」や、あるいは「悔悛の秘跡」の事を表しています。イエズス様はまた更に、特に百夫長の信仰を非常に褒め讃えて、「私は言う、東の国からも西の国からも多くの人々が宴席に与って来た。アブラハムとヤコブとイサクの宴席に与るだろう。」その宴席というのは何かというと、つまり「御聖体の秘跡」の事です。また聖パウロは書簡の中で「愛徳」について語っています。

このような事がこれから行われるので、「シオンよ、教会よ、喜べ」と言います。

ではそれだけなのでしょうか?教会が一番私たちに教えたい、説得したい、ぜひそこから学んでもらいたい、というのはこの次のところです。第3の、信徒たちの事です。ユダの娘たちはどうするべきか、という事です。

「ユダの娘たちは喜んだ。喜びに踊った。地は喜びに踊った。多くの島々は喜びに踊った。」そこで教会は私たちに、「喜ぶように」と。なぜかというと、「私たちはこの栄光永遠の天主聖父によって、王たるキリストによって特別の恵みを受けるから。」特に印象的なのが奉献誦です、「天主の右の手は、私に力ある事を行った。私はもう死なない」とさえも言います。

では一体、私たちはどのように、シオンの娘としてどのような態度を取らなければならないのでしょうか?「キリストに近寄る罪人、異邦人として学べ」と教会は教えています。

聖マテオの福音の第8章です。まず癩病の人をご覧になって下さい。非常に慎ましくて、お願いではない提案をします、「もしも、主よ、もしもあなたがそういう事をお望みならば、そうする事ができるのですが。」私は何を望んでいるかとか、私は何をしてほしいとか、私はこう思うとかいう事は一切言いません。「もしもあなたがお望みであるならば、きっとそうする事ができるのです。私は知っています。」何という信頼、何という深い信仰を持って近付いた事でしょうか。どれほど癩病に苦しんで辛い思いをしていた事でしょう。どれほどもうズケズケとお願いしたかった事でしょうか。しかしこの男はそうはしませんでした。

それと同じように教会は、私たちに対して主に近寄ってお祈りをしなさい、と招いています。ですから集祷文も私たちにこうやって祈らせます、「主よ、私たちの弱さを憐れみを持って御覧下さい。もしもお望みならば。」

次に私たちに提案するのは、百夫長です。百夫長は非常に愛深い男で、自分の部下が苦しんでるのを見て助けようとします。しかし非常に謙遜に、兵士として従順を知っている者として、決して従順に背かない男として、かといってこの位階秩序をよく知っているので、その上の目上に対しては徹底的な尊敬を持つ者として、やって来ます。

「私のしもべが苦しんでおります。でも私はあなたが家に来て下さるというほどの者ではありません。どうぞ一言さえ言って下されば大丈夫です。それで私のしもべは癒されるでしょう。」

何というこれも深い信仰と信頼を持っていた事でしょうか。イエズス様は、「このユダヤの、この全イスラエルの中でこれほどの男を見た事がない、これほどの信仰を見た事がない」とさえも宣言します。

同じように、私たちもこのイエズス様に近付くように、特に御聖体拝領の時に近付くように、と教えています。ですから私たちも御聖体拝領の前に、百夫長が言った同じ言葉を繰り返すように言います、「主よ、我不肖にして、我、霊魂の我が家に迎え奉るに足らず。」

では今日このミサの黙想として、一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

まず教会は、この最初の御公現の直後のミサとして、この1年私たちがどのような態度でイエズス様に近付かなければならないのか、祈ならなければならないか、どれほどの信頼と、信仰と、謙遜を持って近寄らなければならないか、という事をそのマインドをセットして、教えてくれます。

「さぁ、これから1年こうしていけば良いぞ」と。私たちをユダの娘として、癩病を負う者として、異邦人として、「しかし、信頼して近付くように」と招いています。ですから私たちもどれほどの罪深い者であったとしても、どれほど弱い者であったとしても、どれほど値しない者であったとしても、安心して慎ましく主に近寄る事に致しましょう。謙遜と信頼を持って近寄る事に致しましょう。これが第1の遷善の決心の提案です。

第2は最後は、これをこのますます良くする為には、マリア様です。なぜかというと、マリア様はイエズス様に、イエズス様がお望みになるように、イエズス様に提案するからです。最初の奇跡も、カナでの奇跡もそうでした、「彼らにはもうブドウ酒がありません。」イエズス様は一体、一度拒否さえするような態度を取ります。マリア様は決してお願いしませんでした、しかしイエズス様はそれをお望みになります、あまりにもご謙遜で慎ましいので。

またある人は、「マリア様などいらない。私はイエズス様と直接関係すればそれで良いのだ」と言うのですけれども、しかしそれはあまりにも私たちの立場をよくわきまえていない態度です。私たちが一体どのような者であるかを知れば知るほど、どうしても近寄る事ができなくなりますが、イエズス様にあまりにも近寄るのが畏れ多くなってしまいますけれども、それでもマリア様と一緒に行く事によって信頼を、ますます信頼と信仰を持って近寄る事ができるようになります。

ですから今日最後の提案は、「マリア様をもって近寄る」という事です。この1年、ぜひこの態度でミサに、また御聖体拝領に与って下さい。

“Omnipotens sempiterne Deus, infirmitatem nostram propitius respice.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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