アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
(d)内的生活は、使徒に、まことの“雄弁”をあたえる
ここにいう“雄弁”l'éloquence とは、人びとを回心させ、善徳にみちびくために、じゅうぶん力をもっている、天主の“恩寵を運ぶ者”porte-grâce ともいうべき、弁舌のことである。
これについてはすでに、それとなく語ってきたから、ここでは、ただそれに数語を加えるのみにとどめよう。
福音記者聖ヨハネの聖務日課の答唱に、こんな文句がある。
主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖なる泉より飲みぬ、かくて
天主のみ言葉の恩寵を、全世界にそそぎいだせり
この短い一句のなかに、どれほど深い教訓が、 ――説教をする人、著述をする人、カトリック要理を教える人など、すべて天主のお言葉を人びとにわけあたえるべき使命をおびている人たちにとって、どれほど深い教訓が秘められていることだろう。これらの特に目立つ表現をもって、教会はその福音の働き手に、まことの雄弁の泉がどこにあるか、それを克明に教示しているのではなかろうか。
福音記者はみな、同じように、聖霊のインスピレーションをこうむって、自分らの福音を書いた。
各自は、それぞれ異なった、摂理的使命をもっている。だが、各自は、それぞれ独特の雄弁をもっている。わけても、聖ヨハネの雄弁は、他にぬきんでている。聖ヨハネの雄弁は、読む人の心に、“天主のみ言葉の恩寵”verbi Dei gratiam をそそぎ入れる。そして、その恩寵は、人の精神から意志の深奥に、流れこんでいく。聖パウロの書簡とともに、聖ヨハネ福音書は、イエズス・キリストとの一致なくしては、この世の人生には意味がないとする霊魂たちの愛読書である。
人の心を魅了せずにはおかないこの雄弁はどこから聖ヨハネに来るのだろうか?その恵みゆたかな水をもって全世界をうるおすこの大河 Fluenta in toto terrarum orbe diffudit は、どんな山に、その源を発しているのだろうか?
それは、地上の楽園の河の一つである、と典礼はいう。Quasi unus ex Paradisi fluminibus Evangelista Joannes.
多くの高い山々や氷河が、なんの役に立つのか。無知な人はこう言うかもしれない。はてしもなく連なるこれらの山々が、もし一面に広々とした平野だったら、もっと人びとの役に立ったのではないか?と。だが、これらの高い山々がなかったら、平野や谷間はサハラ砂漠同様の不毛の地となってしまうとは、彼は疑わないだろう。
実に高い山々こそは、そこから流れくだる水の流れによって、平野をうるおし、これを肥沃な土地にするのだ。山こそは、河の流れの貯水池である。
聖ヨハネの福音書をはぐくむ、恩寵の流れの泉が、そこからほとばしる、という地上楽園の高い峰――それは、イエズスの聖心でなくて何であろう。Evangelii fluenta de ipso sacro Dominici pectoris fonte potavit. 聖ヨハネ福音記者は、内的生活によって、人類にたいするその果てしなき愛に鼓動する、天主の人イエズス・キリストの聖心の調べを、心の耳でききとったればこそ、かれの綴る文章の一語一語は、天主のお言葉の“恩寵を運ぶ者”となったのではないか。Verbi Dei gratiam diffudit.
これと同じく、内的生活をいとなむ人々も、ある程度において、地上楽園の河の流れといえよう。かれらは、その祈りと犠牲によって、恩寵の生ける水を、天国の楽園から、地上の涙の谷へと雨ふらせる。かくて、罪ふかき大地が当然、こうむらねばならぬ天主の罰を、未然に防ぎ、またはごく短く軽いものにする。
そればかりではない。かれらの祈りと犠牲のこころよき香煙は、天のいと高き処まで――そこに天主の内的生命がお住まいになるイエズスの聖心まで、のぼっていく。そこには、天主的生命の泉が、こんこんと湧きでている。そして、この泉の流れをこそ、かれらは人びとの霊魂に、ゆたかにそそぎ入れるのである。「あなたがたは喜びをもって、救いぬしの泉から、生ける水を汲み取れ」Haurietis aquas de fontibus Salvatoris.(イザヤ12・3)との、イザヤ預言書の言葉そのままに。
彼らは、天主のお言葉を、人びとにわけあたえる使命をおびている。
そして、この使命を、かれらは雄弁をもって遂行するのである。
なにが、かれらの言葉に、雄弁のちからをあたえるのか。
その秘訣を知る者は、かれらだけである。
かれらは、地上の人びとに、天主のことを語る。
かれらが口を開くと、闇に沈んでいる人は、光りをみる。
冷えた人は、あたためられる。泣く人は、なぐさめられる。
弱い人、くじけた人は、強められる。
これらの特長を、具備していないなら、かれらの雄弁も完全ではない。そして、イエズスのご生命に生きていないなら、これらの特長を、具備することはできない。かれらの雄弁に、生き生きとした力をあたえるもの――それは、念禱であり、聖体訪問であり、ミサ聖祭、わけても聖体拝領である。このことをよくさとっているかれらは、これらの信心業にこそ、雄弁のちからを期待しているのである。
わたしも果たして、こういう人たちの中の一人だろうか。もしそうでなかったら、わたしの弁舌は“ひびくドラの音”cymbalum tinniens のようにやかましい。わたしの弁舌は“鳴る音” velut aes sonans のように、騒々しい音だけは立てることができよう。だが、それはけっして、愛の運河ではない。天主の友たる福音伝道者の雄弁をして、不可抗力的効果を発揮させる、天主の愛の運河ではない。
学問はあるが、信心は至って平凡な説教師が、キリスト教の真理をうきぼりにして、人びとに提示する。かれの弁舌は、人びとの霊魂を、ゆり動かすことはできよう。人びとを天主に近づけ、人びとの信仰を増すこともできよう。だが、世の人びとに、善徳の芳香を味わわせるためには、どうしてもまず自分自身が、体験的に、福音の精神を味わいつくしていなければならぬ。そして使徒は、念禱の生活によってこそ、福音の精神を、おのれの生命の本質に同化するのだ。
これにひとこと、つけ加えたい。いっさいの霊的結実性の源なる聖霊だけが、人びとの回心を実現させることが、おできになる。聖霊だけが、人びとの霊魂に恩寵をそそいで、かれらに悪をさけさせ、善をおこなわせることがおできなる。はたしてそうであるなら、人びとの聖化を第一義的使命としてもつ、この聖霊の恵みゆたかな息吹に浸透されるときにはじめて、福音伝道者の言葉は、恩寵の生ける運河となるのではないか。そしてこの運河をとおしてこそ、天主のお働きは、意のままに、成就されていくのではないか。
論より証拠、聖霊降臨いぜんに、使徒たちはどんなに説教しても、これという効果はあがらなかった。だが、内的生活に充実した十日間の黙想ののち、聖霊はかれらの霊魂をくまなく浸透し、かれらの全人格を一変し、革新したのである。かれらの説教は、最初のテストにおいてすでに、霊魂の奇跡的大漁というすばらしい成績を収めた。
福音のタネをまく者はみな、このような段階的拡大の過程をふまなければならない。
内的生活によって、かれらはほんとうに“キリスト保持者”となる。
かれらはいつも、効果的に植え、かつ水をそそぐ。
聖霊は、かれらの植え、かつ水をそそいだものに、いつも“発育”をお与えになる。
かれらの語る言葉こそは、霊魂の畑にまかれるタネであり、同時に、それを実らせる恵みの雨でもある。それを発育させ、実らせる義の太陽は、瞬時も、くもることはない。
聖ベルナルドが、こういっている。
“光輝く”だけでは、空しい。
“熱く燃える”だけでは、小さい。
“熱く燃えて、光輝く”それが完成だ。
Est tantum lucere vanum
tantum ardere parvum
ardere et lucere perfectum.
『あなたがたの光りを、人びとの前にかがやかせなさい』(マテオ5・16)とは、とりわけ使徒たち、および使徒職にたずさわる人たちにいわれている。かれらは、燃えていなければならない。熱烈に燃えていなければならない」
Singulariter apostolis et apostolicis viris dicitur : Luceat lux vestra coram hominibus, nimirum tanquam accensis et vehementer accensis.
(『先駆者聖ヨハネの祝日の記録』)
使徒が“燃えて、かがやく”とき、その語るや、必らず福音的雄弁である。
さて、使徒は、この福音的雄弁を、どこから汲みとるのか。念禱による、イエズスとの一致の生活、心の取り締まり、聖書の熱心な考究と味読――これらのうちにこそ、それを汲みとるのである。
天主が人間に、お語りになったお言葉、イエズスのおくちびるから洩れでたすべてのお言葉――それはかれにとって、ダイヤモンドのように貴重だ。天主のお言葉のどんなに小さなかけらの中にも、無限に尊いものが凝縮されていることを、英知の賜ものによって、かれはさとっている。さとって感嘆する。
しかしかれは、まず熱心に祈って、聖霊の光りをねがい求めた後でなければ聖書を開かない。そこにしるされている天主の教訓を、ただ感嘆するだけでなく、しみじみと心に味わう。あたかも聖霊が、自分ひとりのために、これらの教訓を物語っておられるかのように、思われてならない。
そんなわけで、かれがひとたび説教壇に立つと、天主のお言葉の引用にさいしては、どれほど大きな感動をもって語ることだろう。ほかの説教師だったら、ただ理性の自然の光りと、無味乾燥な、ほとんど死にかかった信仰の助けによって、なんとかその場かぎりの説教はできよう。たくみな、学者らしい適用もできよう。だが、これらの小細工は、前者が聴衆の心に投げかける超自然的光りとは、くらべものにならない。
前者は、生ける真理を、聴衆に示す。生き生きとした一つの現実をもって、聴衆の心をとらえる。このようにして、聴衆の頭を啓発するばかりでなく、その心までも生かすのである。
後者も、真理を語りはする。だが、かれの語る真理は、ちょうど数学の方程式のようなもので、味も素っ気もない。なるほど、たしかな真理ではある。だが、なんの滋味もない。現実の生活に直結していない。かれは徒らに、宗教の真理を、抽象的にする。真理を、いわば棒暗記式のものにする。俗にいうキリスト教の審美的要素からのみ、人びとの心を感動させようとする。感傷家のジャン・ジャック・ルソーが告白している、「福音書の荘厳美は、わたしを驚倒させる。福音書の単純美は、わたしの心に語る」と。
« La majesté des Ecritures m'étonne. La simplicité de l'Evangile parle à mon coeur », avouait le sentimentaliste J.-J. Rousseau.
だが、この漠然としてつかみどころのない、現実の生活になんの影響も及ぼさない、瞬間的な感動がなんになろう。天主の栄光のために、なんの役に立とう。
まことの使徒は、福音書を、そのあるがままの姿において示す、秘訣を心得ている。
その姿は、いつも現実の効果を、聴く人の心に生ずるばかりでなく、それは天主的であるから、いつも生きている姿である。たえまなく、新たにされていく姿である。
まことの使徒が、福音書を語るとき、かれは聴く人のもろい、はかない感情なんかにこだわってはいない。聴衆が、安価な随喜(ずいき)の涙をながしたからとて、それに満足しきれない。天主的生命の言葉を語ることによって、かれは聴衆の“意志”に、じかに触れるのだ。意志にこそ、まことの生命なる“恩寵の生命”への協力が、宿っている。そのことを、かれはよく知っているからである。かくて、聴衆の心に、つよい確信を生じる。つよい確信は、愛と決心を生む。――こういう使徒だけが、ほんとうの福音的雄弁をもっているのだ。
だがしかし、聖母マリアにたいするまことの、孝子のような信心がなければ、内的生活はけっして、完全ではありえない。聖母は、いっさいの恩寵、とりわけ特選の恩寵の運河であられるからである。聖母のみもとにいつも、馳せていって助けを求めないキリスト信者は、聖母のほんとうの子どもではない、と聖ベルナルドはいっているが、じじつ、こういう孝子的信心になれている使徒は、天主の母であって同時に、人類の母でもある聖母マリアにかんする、教会の信条を説き明かしているあいだに、聴衆の心をいたく喜ばせ、感動させるばかりでなく、なにか困難が起こった場合にはいつも、キリストの御血の功徳の分配者なる、聖母のみもとに馳せていって助けを求める、というりっぱな習慣を、かれらにも、つけさせてやることができる。
それも、ただ自分の体験したことを語るだけで、それだけでりっぱに、人びとの霊魂を、天の元后のためにかち得ることができる。また、かちえた霊魂を、彼女によって、イエズスの聖心の愛の火中に投ずることができるのである。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き9)
(d)内的生活は、使徒に、まことの“雄弁”をあたえる
ここにいう“雄弁”l'éloquence とは、人びとを回心させ、善徳にみちびくために、じゅうぶん力をもっている、天主の“恩寵を運ぶ者”porte-grâce ともいうべき、弁舌のことである。
これについてはすでに、それとなく語ってきたから、ここでは、ただそれに数語を加えるのみにとどめよう。
福音記者聖ヨハネの聖務日課の答唱に、こんな文句がある。
主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、主の
御胸の聖なる泉より飲みぬ、かくて
天主のみ言葉の恩寵を、全世界にそそぎいだせり
この短い一句のなかに、どれほど深い教訓が、 ――説教をする人、著述をする人、カトリック要理を教える人など、すべて天主のお言葉を人びとにわけあたえるべき使命をおびている人たちにとって、どれほど深い教訓が秘められていることだろう。これらの特に目立つ表現をもって、教会はその福音の働き手に、まことの雄弁の泉がどこにあるか、それを克明に教示しているのではなかろうか。
福音記者はみな、同じように、聖霊のインスピレーションをこうむって、自分らの福音を書いた。
各自は、それぞれ異なった、摂理的使命をもっている。だが、各自は、それぞれ独特の雄弁をもっている。わけても、聖ヨハネの雄弁は、他にぬきんでている。聖ヨハネの雄弁は、読む人の心に、“天主のみ言葉の恩寵”verbi Dei gratiam をそそぎ入れる。そして、その恩寵は、人の精神から意志の深奥に、流れこんでいく。聖パウロの書簡とともに、聖ヨハネ福音書は、イエズス・キリストとの一致なくしては、この世の人生には意味がないとする霊魂たちの愛読書である。
人の心を魅了せずにはおかないこの雄弁はどこから聖ヨハネに来るのだろうか?その恵みゆたかな水をもって全世界をうるおすこの大河 Fluenta in toto terrarum orbe diffudit は、どんな山に、その源を発しているのだろうか?
それは、地上の楽園の河の一つである、と典礼はいう。Quasi unus ex Paradisi fluminibus Evangelista Joannes.
多くの高い山々や氷河が、なんの役に立つのか。無知な人はこう言うかもしれない。はてしもなく連なるこれらの山々が、もし一面に広々とした平野だったら、もっと人びとの役に立ったのではないか?と。だが、これらの高い山々がなかったら、平野や谷間はサハラ砂漠同様の不毛の地となってしまうとは、彼は疑わないだろう。
実に高い山々こそは、そこから流れくだる水の流れによって、平野をうるおし、これを肥沃な土地にするのだ。山こそは、河の流れの貯水池である。
聖ヨハネの福音書をはぐくむ、恩寵の流れの泉が、そこからほとばしる、という地上楽園の高い峰――それは、イエズスの聖心でなくて何であろう。Evangelii fluenta de ipso sacro Dominici pectoris fonte potavit. 聖ヨハネ福音記者は、内的生活によって、人類にたいするその果てしなき愛に鼓動する、天主の人イエズス・キリストの聖心の調べを、心の耳でききとったればこそ、かれの綴る文章の一語一語は、天主のお言葉の“恩寵を運ぶ者”となったのではないか。Verbi Dei gratiam diffudit.
これと同じく、内的生活をいとなむ人々も、ある程度において、地上楽園の河の流れといえよう。かれらは、その祈りと犠牲によって、恩寵の生ける水を、天国の楽園から、地上の涙の谷へと雨ふらせる。かくて、罪ふかき大地が当然、こうむらねばならぬ天主の罰を、未然に防ぎ、またはごく短く軽いものにする。
そればかりではない。かれらの祈りと犠牲のこころよき香煙は、天のいと高き処まで――そこに天主の内的生命がお住まいになるイエズスの聖心まで、のぼっていく。そこには、天主的生命の泉が、こんこんと湧きでている。そして、この泉の流れをこそ、かれらは人びとの霊魂に、ゆたかにそそぎ入れるのである。「あなたがたは喜びをもって、救いぬしの泉から、生ける水を汲み取れ」Haurietis aquas de fontibus Salvatoris.(イザヤ12・3)との、イザヤ預言書の言葉そのままに。
彼らは、天主のお言葉を、人びとにわけあたえる使命をおびている。
そして、この使命を、かれらは雄弁をもって遂行するのである。
なにが、かれらの言葉に、雄弁のちからをあたえるのか。
その秘訣を知る者は、かれらだけである。
かれらは、地上の人びとに、天主のことを語る。
かれらが口を開くと、闇に沈んでいる人は、光りをみる。
冷えた人は、あたためられる。泣く人は、なぐさめられる。
弱い人、くじけた人は、強められる。
これらの特長を、具備していないなら、かれらの雄弁も完全ではない。そして、イエズスのご生命に生きていないなら、これらの特長を、具備することはできない。かれらの雄弁に、生き生きとした力をあたえるもの――それは、念禱であり、聖体訪問であり、ミサ聖祭、わけても聖体拝領である。このことをよくさとっているかれらは、これらの信心業にこそ、雄弁のちからを期待しているのである。
わたしも果たして、こういう人たちの中の一人だろうか。もしそうでなかったら、わたしの弁舌は“ひびくドラの音”cymbalum tinniens のようにやかましい。わたしの弁舌は“鳴る音” velut aes sonans のように、騒々しい音だけは立てることができよう。だが、それはけっして、愛の運河ではない。天主の友たる福音伝道者の雄弁をして、不可抗力的効果を発揮させる、天主の愛の運河ではない。
学問はあるが、信心は至って平凡な説教師が、キリスト教の真理をうきぼりにして、人びとに提示する。かれの弁舌は、人びとの霊魂を、ゆり動かすことはできよう。人びとを天主に近づけ、人びとの信仰を増すこともできよう。だが、世の人びとに、善徳の芳香を味わわせるためには、どうしてもまず自分自身が、体験的に、福音の精神を味わいつくしていなければならぬ。そして使徒は、念禱の生活によってこそ、福音の精神を、おのれの生命の本質に同化するのだ。
これにひとこと、つけ加えたい。いっさいの霊的結実性の源なる聖霊だけが、人びとの回心を実現させることが、おできになる。聖霊だけが、人びとの霊魂に恩寵をそそいで、かれらに悪をさけさせ、善をおこなわせることがおできなる。はたしてそうであるなら、人びとの聖化を第一義的使命としてもつ、この聖霊の恵みゆたかな息吹に浸透されるときにはじめて、福音伝道者の言葉は、恩寵の生ける運河となるのではないか。そしてこの運河をとおしてこそ、天主のお働きは、意のままに、成就されていくのではないか。
論より証拠、聖霊降臨いぜんに、使徒たちはどんなに説教しても、これという効果はあがらなかった。だが、内的生活に充実した十日間の黙想ののち、聖霊はかれらの霊魂をくまなく浸透し、かれらの全人格を一変し、革新したのである。かれらの説教は、最初のテストにおいてすでに、霊魂の奇跡的大漁というすばらしい成績を収めた。
福音のタネをまく者はみな、このような段階的拡大の過程をふまなければならない。
内的生活によって、かれらはほんとうに“キリスト保持者”となる。
かれらはいつも、効果的に植え、かつ水をそそぐ。
聖霊は、かれらの植え、かつ水をそそいだものに、いつも“発育”をお与えになる。
かれらの語る言葉こそは、霊魂の畑にまかれるタネであり、同時に、それを実らせる恵みの雨でもある。それを発育させ、実らせる義の太陽は、瞬時も、くもることはない。
聖ベルナルドが、こういっている。
“光輝く”だけでは、空しい。
“熱く燃える”だけでは、小さい。
“熱く燃えて、光輝く”それが完成だ。
Est tantum lucere vanum
tantum ardere parvum
ardere et lucere perfectum.
『あなたがたの光りを、人びとの前にかがやかせなさい』(マテオ5・16)とは、とりわけ使徒たち、および使徒職にたずさわる人たちにいわれている。かれらは、燃えていなければならない。熱烈に燃えていなければならない」
Singulariter apostolis et apostolicis viris dicitur : Luceat lux vestra coram hominibus, nimirum tanquam accensis et vehementer accensis.
(『先駆者聖ヨハネの祝日の記録』)
使徒が“燃えて、かがやく”とき、その語るや、必らず福音的雄弁である。
さて、使徒は、この福音的雄弁を、どこから汲みとるのか。念禱による、イエズスとの一致の生活、心の取り締まり、聖書の熱心な考究と味読――これらのうちにこそ、それを汲みとるのである。
天主が人間に、お語りになったお言葉、イエズスのおくちびるから洩れでたすべてのお言葉――それはかれにとって、ダイヤモンドのように貴重だ。天主のお言葉のどんなに小さなかけらの中にも、無限に尊いものが凝縮されていることを、英知の賜ものによって、かれはさとっている。さとって感嘆する。
しかしかれは、まず熱心に祈って、聖霊の光りをねがい求めた後でなければ聖書を開かない。そこにしるされている天主の教訓を、ただ感嘆するだけでなく、しみじみと心に味わう。あたかも聖霊が、自分ひとりのために、これらの教訓を物語っておられるかのように、思われてならない。
そんなわけで、かれがひとたび説教壇に立つと、天主のお言葉の引用にさいしては、どれほど大きな感動をもって語ることだろう。ほかの説教師だったら、ただ理性の自然の光りと、無味乾燥な、ほとんど死にかかった信仰の助けによって、なんとかその場かぎりの説教はできよう。たくみな、学者らしい適用もできよう。だが、これらの小細工は、前者が聴衆の心に投げかける超自然的光りとは、くらべものにならない。
前者は、生ける真理を、聴衆に示す。生き生きとした一つの現実をもって、聴衆の心をとらえる。このようにして、聴衆の頭を啓発するばかりでなく、その心までも生かすのである。
後者も、真理を語りはする。だが、かれの語る真理は、ちょうど数学の方程式のようなもので、味も素っ気もない。なるほど、たしかな真理ではある。だが、なんの滋味もない。現実の生活に直結していない。かれは徒らに、宗教の真理を、抽象的にする。真理を、いわば棒暗記式のものにする。俗にいうキリスト教の審美的要素からのみ、人びとの心を感動させようとする。感傷家のジャン・ジャック・ルソーが告白している、「福音書の荘厳美は、わたしを驚倒させる。福音書の単純美は、わたしの心に語る」と。
« La majesté des Ecritures m'étonne. La simplicité de l'Evangile parle à mon coeur », avouait le sentimentaliste J.-J. Rousseau.
だが、この漠然としてつかみどころのない、現実の生活になんの影響も及ぼさない、瞬間的な感動がなんになろう。天主の栄光のために、なんの役に立とう。
まことの使徒は、福音書を、そのあるがままの姿において示す、秘訣を心得ている。
その姿は、いつも現実の効果を、聴く人の心に生ずるばかりでなく、それは天主的であるから、いつも生きている姿である。たえまなく、新たにされていく姿である。
まことの使徒が、福音書を語るとき、かれは聴く人のもろい、はかない感情なんかにこだわってはいない。聴衆が、安価な随喜(ずいき)の涙をながしたからとて、それに満足しきれない。天主的生命の言葉を語ることによって、かれは聴衆の“意志”に、じかに触れるのだ。意志にこそ、まことの生命なる“恩寵の生命”への協力が、宿っている。そのことを、かれはよく知っているからである。かくて、聴衆の心に、つよい確信を生じる。つよい確信は、愛と決心を生む。――こういう使徒だけが、ほんとうの福音的雄弁をもっているのだ。
だがしかし、聖母マリアにたいするまことの、孝子のような信心がなければ、内的生活はけっして、完全ではありえない。聖母は、いっさいの恩寵、とりわけ特選の恩寵の運河であられるからである。聖母のみもとにいつも、馳せていって助けを求めないキリスト信者は、聖母のほんとうの子どもではない、と聖ベルナルドはいっているが、じじつ、こういう孝子的信心になれている使徒は、天主の母であって同時に、人類の母でもある聖母マリアにかんする、教会の信条を説き明かしているあいだに、聴衆の心をいたく喜ばせ、感動させるばかりでなく、なにか困難が起こった場合にはいつも、キリストの御血の功徳の分配者なる、聖母のみもとに馳せていって助けを求める、というりっぱな習慣を、かれらにも、つけさせてやることができる。
それも、ただ自分の体験したことを語るだけで、それだけでりっぱに、人びとの霊魂を、天の元后のためにかち得ることができる。また、かちえた霊魂を、彼女によって、イエズスの聖心の愛の火中に投ずることができるのである。