苦しみの玄義 第1玄義の黙想
(2018年2月17日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)
苦しみの第一玄義は私たちの主イエズスのゲッセマネの園での苦悩でした。
この苦悩・苦難には三つの種類がありました。
第1の苦難は、これから受けようとされる肉体的な苦しみをすでにご存じだったことです。
イエズス様の第2の苦難は、肉体の苦しみよりも、更に霊的な苦しみを受けていた、という事でした。
つまり、イエズス様は罪の、人類の罪の醜さと、恐ろしさと、その邪悪さを、まざまざと御覧になります。マリア様は罪の汚れのない御方であり、清い方であればあるほど、その罪の醜さがますますとよく分かりました。天主の目にとって罪がどれほど醜いものであるか、という事をよく理解されました。イエズス様が理解されたようにほぼマリア様も、その罪の恐ろしさを、醜さを理解されました。そしてそれに打ちのめされようとされていました。
1つの罪でさえもそうであるにもかかわらず、数えきれないほどの、世の始めから終りまでの無数の罪が、イエズス様とマリア様を襲います。天主に対する反逆、冒瀆、瀆聖、不潔、暴力、憎しみ、殺人、天に復讐を求めるような様々の罪、盗み、悪口、嘘。それらはイエズス様とマリア様を打ちのめそうとしています。
罪の汚さ、その邪悪さを、誰が正確に知る事ができるでしょうか。イエズス様とマリア様はそれをよく御存知でした。その汚い中に、イエズス様もマリア様も、あたかも溺れてしまうほど、その中に入らなければなりませんでした。何という辛い、嫌な、おぞましい事だったでしょうか。
「聖父よ、願わくは、もしも御旨ならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。」
かつて聖父は、イエズス様の御洗礼の時に、「これは我が愛する子」と宣言されました。タボル山の時に御変容の時にも、「これは我が愛する子。彼に聞け。」しかし今回は、ゲッセマネの園では、あたかも聖父はイエズス様の事を憎んでいるかのように、呪われたかのように、全く打ち捨てて、あたかも、聖父は捨て物のようにイエズス様を取り扱いました。あたかもイエズス様は聖父の敵であるかのように、イエズス様は私たちの罪を全て身に負われました。
イエズス様は聖父の御旨を果たす為に、愛する母親を残して12歳の時に神殿に残られました。「私が聖父の家に、仕事をしなければならない事を知らなかったのですか。」聖父の御旨を果たす事だけを考えてきたイエズス様。33年間、その事だけに時間を使った、生涯を尽くしたイエズス様は、その聖父からあたかも捨てられたかのように、憎まれているかのように取り扱われます。
「聖父よ、もしもできるならこのカリスを遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、あなたの御旨のようになりますように。」
第3の苦難は、肉体の苦難と、そして霊的な苦悩の更に大きな苦悩は、それを超える大きな苦悩は、イエズス様がこうして苦しみを受けて贖おうとした霊魂たちが、この苦しみを全く無益とする事でした。
イエズス様はこれほどの苦しみの値を払って助けようとした人々が、無関心と、冒瀆と、忘恩で、それに応えようとしないのを見て、ますます御苦しみを深めます。せっかくの苦しみ、せっかくの苦悩、御血の無限の値が、無益になる。彼らを救う為に、これほど死ぬばかりの苦しみを耐え忍んでも、全くの無理解、全くの忘恩。却ってあるのは、屈辱と、馬鹿にする言葉だけ。
イエズス様はマリア様は、多くの人々がイエズス様の御受難を無益にする事をご覧になります。イエズス様からの恵みを受けたにもかかわらず、この御受難を無益にする人は、更に深い大きな罰が待っている事を、永遠の苦しみが待っている事を知っているが為に、更に苦しみます。何百万という霊魂がイエズス様の御血の功徳を無駄にしているのを、そして地獄の底に落ちるのをご覧になります。霊魂を救おうと望んでいるイエズス様とマリア様の聖心は、失われる霊魂たちを見てどれほど苦しまなければならなかった事でしょうか。自分の子供が、子供たちが地獄に落ちなければならないのを見て、どれほど苦悩で苦しまれた事でしょう。
「女よ、これ汝の子なり。」マリア様はこれらの霊魂の救いの為に、命を与えます。しかしこの霊魂たちは、このマリア様の心を理解しません。永遠にイエズス様とマリア様を冒瀆して、呪って、地獄にいなければなりません。
聖アウグスティヌスを救う為に聖モニカは、18年間祈りと償いをしました。マリア様の心はどれほどでしょうか。イエズス様の御血が救おうとしたこの霊魂たち、あるいは一度は御血によって洗われて、洗礼の恵みを受けた霊魂たちが永遠に失われる。マリア様の御悲しみはどれほど深かった事でしょうか。
「聖父よ、願わくは、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。しかし私の意図ではなく、聖父の御旨がなされますように。“Ecce ancilla Domini.” 我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」
(2018年2月17日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)
苦しみの第一玄義は私たちの主イエズスのゲッセマネの園での苦悩でした。
この苦悩・苦難には三つの種類がありました。
第1の苦難は、これから受けようとされる肉体的な苦しみをすでにご存じだったことです。
イエズス様の第2の苦難は、肉体の苦しみよりも、更に霊的な苦しみを受けていた、という事でした。
つまり、イエズス様は罪の、人類の罪の醜さと、恐ろしさと、その邪悪さを、まざまざと御覧になります。マリア様は罪の汚れのない御方であり、清い方であればあるほど、その罪の醜さがますますとよく分かりました。天主の目にとって罪がどれほど醜いものであるか、という事をよく理解されました。イエズス様が理解されたようにほぼマリア様も、その罪の恐ろしさを、醜さを理解されました。そしてそれに打ちのめされようとされていました。
1つの罪でさえもそうであるにもかかわらず、数えきれないほどの、世の始めから終りまでの無数の罪が、イエズス様とマリア様を襲います。天主に対する反逆、冒瀆、瀆聖、不潔、暴力、憎しみ、殺人、天に復讐を求めるような様々の罪、盗み、悪口、嘘。それらはイエズス様とマリア様を打ちのめそうとしています。
罪の汚さ、その邪悪さを、誰が正確に知る事ができるでしょうか。イエズス様とマリア様はそれをよく御存知でした。その汚い中に、イエズス様もマリア様も、あたかも溺れてしまうほど、その中に入らなければなりませんでした。何という辛い、嫌な、おぞましい事だったでしょうか。
「聖父よ、願わくは、もしも御旨ならば、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。」
かつて聖父は、イエズス様の御洗礼の時に、「これは我が愛する子」と宣言されました。タボル山の時に御変容の時にも、「これは我が愛する子。彼に聞け。」しかし今回は、ゲッセマネの園では、あたかも聖父はイエズス様の事を憎んでいるかのように、呪われたかのように、全く打ち捨てて、あたかも、聖父は捨て物のようにイエズス様を取り扱いました。あたかもイエズス様は聖父の敵であるかのように、イエズス様は私たちの罪を全て身に負われました。
イエズス様は聖父の御旨を果たす為に、愛する母親を残して12歳の時に神殿に残られました。「私が聖父の家に、仕事をしなければならない事を知らなかったのですか。」聖父の御旨を果たす事だけを考えてきたイエズス様。33年間、その事だけに時間を使った、生涯を尽くしたイエズス様は、その聖父からあたかも捨てられたかのように、憎まれているかのように取り扱われます。
「聖父よ、もしもできるならこのカリスを遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、あなたの御旨のようになりますように。」
第3の苦難は、肉体の苦難と、そして霊的な苦悩の更に大きな苦悩は、それを超える大きな苦悩は、イエズス様がこうして苦しみを受けて贖おうとした霊魂たちが、この苦しみを全く無益とする事でした。
イエズス様はこれほどの苦しみの値を払って助けようとした人々が、無関心と、冒瀆と、忘恩で、それに応えようとしないのを見て、ますます御苦しみを深めます。せっかくの苦しみ、せっかくの苦悩、御血の無限の値が、無益になる。彼らを救う為に、これほど死ぬばかりの苦しみを耐え忍んでも、全くの無理解、全くの忘恩。却ってあるのは、屈辱と、馬鹿にする言葉だけ。
イエズス様はマリア様は、多くの人々がイエズス様の御受難を無益にする事をご覧になります。イエズス様からの恵みを受けたにもかかわらず、この御受難を無益にする人は、更に深い大きな罰が待っている事を、永遠の苦しみが待っている事を知っているが為に、更に苦しみます。何百万という霊魂がイエズス様の御血の功徳を無駄にしているのを、そして地獄の底に落ちるのをご覧になります。霊魂を救おうと望んでいるイエズス様とマリア様の聖心は、失われる霊魂たちを見てどれほど苦しまなければならなかった事でしょうか。自分の子供が、子供たちが地獄に落ちなければならないのを見て、どれほど苦悩で苦しまれた事でしょう。
「女よ、これ汝の子なり。」マリア様はこれらの霊魂の救いの為に、命を与えます。しかしこの霊魂たちは、このマリア様の心を理解しません。永遠にイエズス様とマリア様を冒瀆して、呪って、地獄にいなければなりません。
聖アウグスティヌスを救う為に聖モニカは、18年間祈りと償いをしました。マリア様の心はどれほどでしょうか。イエズス様の御血が救おうとしたこの霊魂たち、あるいは一度は御血によって洗われて、洗礼の恵みを受けた霊魂たちが永遠に失われる。マリア様の御悲しみはどれほど深かった事でしょうか。
「聖父よ、願わくは、このカリスを私から遠ざけて下さい。そしてマリア様からも遠ざけて下さい。しかし私の意図ではなく、聖父の御旨がなされますように。“Ecce ancilla Domini.” 我、主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」