2018年3月25日(主日)枝の祝別式の前にお知らせ
小野田神父
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ!
この枝の主日には、ミサの前に棕櫚の枝を持って行列をする、という行事があります。これは、この日、イエズス様がエルサレムに、オリベトの山から入城されたその時にヘブライの子供たちが、「ダヴィドの子にホザンナ!」と言ってイエズス様を歓迎した、という歴史の事実を記念することにあります。しかし私たちにとってもっと重要な意味があります。
それは、私たちがイエズス様と共に、霊的にお供することです。そこで聖伝によれば、私たちも3つの場所に行かなければなりません。
1つは、オリベト山を象徴する、このいつもの教会とは別の教会、あるいは教会の庭。
第2は、イエズス様がオリベト山から入城されたその道、それは私たちの枝の行列によって表わされます。
そして第3にエルサレム。エルサレムはこの御聖堂です、このいつもの御聖堂です。霊的には指定巡礼教会といって、聖ラテラノ教会に私たちは向かいます。
司祭が、外にあるオリベト山を象徴する別の祭壇に入堂する時、これはイエズス様がオリベト山から来られたという意味です。そこで聖歌隊は、「ダヴィドの子にホザンナ!」と歌い始めます。
聖伝によれば、ピオ十二世教皇様の典礼改革の前によれば、今日の典礼は非常に長くて、ミサがほぼ2回あるようなものでした。
なぜかというと、最初の枝の祝別では、ミサと同じような儀式があったからです。ただ聖変化と御聖体拝領だけがなく、聖変化の代わりに枝の祝別、そして御聖体拝領の代わりに枝の配布が行なわれていました。
なぜかというと、「私たちがイエズス様と共に霊的にお供する、最後までお供する、天国までお供する為には、私たちはヘブライの子供として、またイエズス様の兵士として、騎士として、あるいはイエズス様の証人として、殉教者として、特別な授与式を叙勲式を受けなければならない」と教会は考えてきたからです。
棕櫚の枝というのは、勝利のシンボルではありますけれども、これを叙勲するかのように私たちに教会は授与して下さり、そして私たちを騎士として、イエズス様の兵士として、聖別して下さいます。また勝利の棕櫚の枝を既に受けるという事は、「イエズス・キリストと共に殉教者として、イエズス・キリストの後に従え。イエズス・キリストの殉教に従え」という意味です。
その勝利の棕櫚の枝を持った私たちは、キリストと共にキリストの後に従って、行列に出ます。今回私たちは2階を廻るにはあまりにも手狭なので、2階からすぐに1階に降りて、外に一度出ます。外に出て、皆さんが一旦外に出ましたら、またこの元に戻ります。この中に入りますが、この教会は、行列が終わった時には、「天国」を意味しています。「天のエルサレム」を意味します。
そこで、侍者が本来ならば、十字架を以てドアを、十字架の足を以てドアを叩くのですけれども、3回ノックします。そして初めて天国の門が開けられて、キリストと共に私たちが天のエルサレムに入る、という行事があります。
その前に、枝の配布の間には、詩編の23番が歌われます。
Attóllite portas, príncipes vestras, et elevámini, portæ æternáles : et introíbit Rex glóriæ.
Quis est iste Rex glóriæ ? Dóminus fortis et potens : Dóminus potens in prǽlio.「さぁ門よ、扉を開け。框を上げよ。永遠の王が入る。」
「永遠の王とは誰か?」
「永遠の王とは、イエズス・キリストである。」
その詩編を歌い、私たちは入るのです。
聖歌隊はこの入堂と同時にこう歌います。“Ingrediénte Dómino in sanctam civitátem, Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes, Cum ramis palmárum : Hosánna, clamábant, in excélsis.”
「主が聖なる町エルサレムに入る時には、ヘブライの子供たちが命の復活を告げ Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes」と。
私たちが永遠のエルサレムに入る、天国の栄光の中にイエズス様と共に入る時に、ヘブライの子供たちは、私たちの命の復活をも告げています。ですから私たちがこのイエズス様の後に従って、十字架の後に従って、この御聖堂に一緒に入るという事は非常に深い意味があります。
でも教会は、「その命に入る為には何をしなければならないか。」「イエズス様の御受難に従わなければならない」と教えています。そこで、御受難の朗読がミサでは読まれます。
では、今から儀式を始めます。
小野田神父
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ!
この枝の主日には、ミサの前に棕櫚の枝を持って行列をする、という行事があります。これは、この日、イエズス様がエルサレムに、オリベトの山から入城されたその時にヘブライの子供たちが、「ダヴィドの子にホザンナ!」と言ってイエズス様を歓迎した、という歴史の事実を記念することにあります。しかし私たちにとってもっと重要な意味があります。
それは、私たちがイエズス様と共に、霊的にお供することです。そこで聖伝によれば、私たちも3つの場所に行かなければなりません。
1つは、オリベト山を象徴する、このいつもの教会とは別の教会、あるいは教会の庭。
第2は、イエズス様がオリベト山から入城されたその道、それは私たちの枝の行列によって表わされます。
そして第3にエルサレム。エルサレムはこの御聖堂です、このいつもの御聖堂です。霊的には指定巡礼教会といって、聖ラテラノ教会に私たちは向かいます。
司祭が、外にあるオリベト山を象徴する別の祭壇に入堂する時、これはイエズス様がオリベト山から来られたという意味です。そこで聖歌隊は、「ダヴィドの子にホザンナ!」と歌い始めます。
聖伝によれば、ピオ十二世教皇様の典礼改革の前によれば、今日の典礼は非常に長くて、ミサがほぼ2回あるようなものでした。
なぜかというと、最初の枝の祝別では、ミサと同じような儀式があったからです。ただ聖変化と御聖体拝領だけがなく、聖変化の代わりに枝の祝別、そして御聖体拝領の代わりに枝の配布が行なわれていました。
なぜかというと、「私たちがイエズス様と共に霊的にお供する、最後までお供する、天国までお供する為には、私たちはヘブライの子供として、またイエズス様の兵士として、騎士として、あるいはイエズス様の証人として、殉教者として、特別な授与式を叙勲式を受けなければならない」と教会は考えてきたからです。
棕櫚の枝というのは、勝利のシンボルではありますけれども、これを叙勲するかのように私たちに教会は授与して下さり、そして私たちを騎士として、イエズス様の兵士として、聖別して下さいます。また勝利の棕櫚の枝を既に受けるという事は、「イエズス・キリストと共に殉教者として、イエズス・キリストの後に従え。イエズス・キリストの殉教に従え」という意味です。
その勝利の棕櫚の枝を持った私たちは、キリストと共にキリストの後に従って、行列に出ます。今回私たちは2階を廻るにはあまりにも手狭なので、2階からすぐに1階に降りて、外に一度出ます。外に出て、皆さんが一旦外に出ましたら、またこの元に戻ります。この中に入りますが、この教会は、行列が終わった時には、「天国」を意味しています。「天のエルサレム」を意味します。
そこで、侍者が本来ならば、十字架を以てドアを、十字架の足を以てドアを叩くのですけれども、3回ノックします。そして初めて天国の門が開けられて、キリストと共に私たちが天のエルサレムに入る、という行事があります。
その前に、枝の配布の間には、詩編の23番が歌われます。
Attóllite portas, príncipes vestras, et elevámini, portæ æternáles : et introíbit Rex glóriæ.
Quis est iste Rex glóriæ ? Dóminus fortis et potens : Dóminus potens in prǽlio.「さぁ門よ、扉を開け。框を上げよ。永遠の王が入る。」
「永遠の王とは誰か?」
「永遠の王とは、イエズス・キリストである。」
その詩編を歌い、私たちは入るのです。
聖歌隊はこの入堂と同時にこう歌います。“Ingrediénte Dómino in sanctam civitátem, Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes, Cum ramis palmárum : Hosánna, clamábant, in excélsis.”
「主が聖なる町エルサレムに入る時には、ヘブライの子供たちが命の復活を告げ Hebræórum púeri resurrectiónem vitæ pronuntiántes」と。
私たちが永遠のエルサレムに入る、天国の栄光の中にイエズス様と共に入る時に、ヘブライの子供たちは、私たちの命の復活をも告げています。ですから私たちがこのイエズス様の後に従って、十字架の後に従って、この御聖堂に一緒に入るという事は非常に深い意味があります。
でも教会は、「その命に入る為には何をしなければならないか。」「イエズス様の御受難に従わなければならない」と教えています。そこで、御受難の朗読がミサでは読まれます。
では、今から儀式を始めます。