アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(2/3)
(Ⅲ) どのように黙想しなければならないか
黙想の定義と目的を実現するために、わたしは次のような論理的歩みをたどろう。
わたしは、自分の理性――わけても、自分の信仰と自分の心を、聖主のみまえにおこう。
聖主は、一つの真理、もしくは一つの善徳を、わたしに教えようとしておられる。
わたしがいま、いだいている理想に、霊魂がうまく順応するように、とわたしは烈しく望む。
わたしの心のなかには、この理想からあまりにかけはなれたこれこれの欠点、いや、この理想に反しているこれこれの悪習がある。これを見て、心からなげく。
理想の達成の途上に、これこれの障害がよこたわっている。
これを粉砕しようと、固く決心する。
しかし、自分の力では、どうにもできない。それを確信して、理想の達成にどうしても必要な恩寵を、熱心に聖主にこい求める。
道中で疲れあぐみ、息たえだえになっている、あわれな巡礼の姿――
これが、わたしだ。
渇きをいやす水を、しきりに求めている。
その水を、ついに見いだす。
Video「わたしは、見る」――わたしは、泉をみつけたのである。
Sitio「わたしは、渇く」――こんこんと湧きでる、清澄な岩清水!この水こそは、わたしに、巡礼の道をつづけさせてくれるのだ。わたしは、この澄みきった水をながめればながめるほど、ますます渇きをいやしたい望みが烈しくなる。そこにいくためには、まだ多くの障害があるにかかわらず……。
Volo「わたしは、望む」――どんなぎせいを払っても、わたしはこの救いの泉に、到着しなければならぬ。一生懸命に、そこに到着しようと努力する。ああ、しかし、わたしは自分の無能を痛感する。
Volo tecum「わたしは、あなたと共に望む」――一人の案内者が現われる。わたしを助けてくれるために、わたしからはただ切ない嘆願のさけびしか、要求しない。かれは、わたしを抱きかかえて、けわしい道、いばらの道さえも通りすぎる。かれのおかげで、まもなく、わたしは泉に到着し、心ゆくまで飲んで、たましいの渇きをいやすことができる。イエズスの聖心からほとばしりでる、恩寵の生ける水を飲んで……。
夕方の信心読書こそは、わたしにとって、内的生活の貴重な要素であって、これが翌日の黙想への食欲を、はげしく刺激してくれる。
寝につくまえに、翌日の黙想の題目を、あらまし心に思い浮かべる。
それも、いいかげんでにではなく、はっきりと、そしてまじめに。
題目ばかりではない、この黙想から、どんな成果をおさめようか、それも考える。
そして、翌日の黙想を、よく利用したい、という望みを、はげしく起こす。
黙想の時刻が、きた。
地上の事物から、離脱することに、精をだす。
黙想しようとする一つの場面を、生き生きと、手にとるように現出するために、想像力をしずかに駆使する。それによって、仕事や雑念から、考えを引き離す。場面の現出は、手っとり早く、大ざっぱでもよいが、まざまざと、あたかも眼前にうちながめるように、精彩を放っていなければならぬ。そして、わたしの魂をとらえ、わたしを天主のみまえにぬかずかせるほど、強い迫力をもっていなければならぬ。その活動のいっさいが愛である天主は、わたしの魂をつつみ、わたしの魂を浸透しようとしておいでになる。
このようにして、わたしは、話あいての天主と、心おきなく語ることができるのだ。――永遠にお生きになるおん者と。永遠に拝むべき、永遠に愛すべきおん者と。
すぐに、わたしは、深く天主を礼拝する。自然にそうせざるをえない。心は、天主のみまえに、消えいるばかり。おかした罪の思い出に、たましいは痛悔する。自分は、天主に絶対に依存するものだ、ということを、心から認める。そして、天主に、そう告白する。
謙遜で、信頼にみちた祈りが、心にも、くちびるにも、上ぼる。
天主との語らいが、祝福にみたされてあるためには、こういう要領を心得ていなければならない。
VIDEO「わたしは見る」
ああ、イエズスよ、わたしはあなたの、生き生きとした現存の意識にとらえられ、そしてこれによって、純然たる自然界のもろもろの、現象の圧制からおのれを解放し、“信仰”の言葉を用いて、あなたとの語らいなるこの黙想を、始めさせていただきます。信仰の言葉こそは、理性のあらゆる理屈にもまさって、あなたとお話をするのに、いっそうりっぱな効果があるからです。
この目的をめざして、わたしは黙想の諸点を注意してよみ、かつ記憶に思い浮かべます。それを集約し、その上にわたしの注意の焦点をしぼります。
ああ、イエズスよ、この真理を、わたしに語り、わたしに教えてくださるお方は、あなたです。あなたが、わたしにお示しになることは、絶対に確実な真理として、わたしは信じます。それは、あなたの天主的信用性に基づいているからです。この信仰を、ますます新たにし、ますますふやしていこうと、わたしは思うのです。
されば、わが霊魂よ、たえまなくくり返して、「わたしは、この真理を信じます」というがよい。いっそう大きな力をもって、それをくり返すがよい。あたかも学生が、その課業をくり返し、くり返し復習するように、おまえもしばしば、くり返していうがよい。――わたしは、この教義を信じる。わたしは、この教義から出るすべての結論を信じる。永遠に、永遠に、と。
ああ、イエズスよ、これは真理です。絶対に確実な真理です。どうか天啓のこの真理、この義の太陽のかがやきが、わたしの一日をくまなく、照明する灯台でありますように。
どうぞ、わたしの信仰を、いっそう熱烈にしてください。どうぞ、この理想にしたがって生きる強い望みを、この理想に反するものへの聖なる怒りを、わたしの心に吹き込んでください。わたしは“真理”という、この霊への食物を、むさぼるように食べ、それをわたしの血となし、肉としたいのです。
とはいえ、わたしが自分の信仰を奮いおこそうと、数分間努力いたしましても、その甲斐がなく、空しくおのれに提示された真理の前に、ただぬかずくばかりで、心にはなんの感激もおぼえませんとき、主よ、わたしは無理してまでも、この感激を手に入れようとは思いません。主よ、そういう場合には、わたしはただ子供のように、おのれの無能が生みだすこの心の苦しみを、あなたに披歴するだけです。そしてあなたに、どうぞわたしの無能をあわれみ、わたしの不足をおぎなってください、と嘆願に及ぶことでしょう。
SITIO「わたしは渇く」
この信仰の行為は、ほんとうにわたしを、天主の知恵にあずからせる。だから、この信仰の行為を、しばしば、とりわけ精力的に、なさなければならぬ。情念的愛の言葉なる、わたしの心の歓喜は、ひとえに、この信仰の度合いに依存しているのだから。
天主にたいする情念的愛は、げに信仰の行為から、意志に刺激されて生じるのである。
この愛こそは、わたしが、イエズスに、お捧げする霊的花束である。
それは、礼拝であり、喜びであり、感謝であろう。
天主のみ旨への愛着であり、いっさいの被造物からの離脱であろう。
罪悪への憎みであり、それからの逃避であろう。
あるいは、恐れ、怒り、希望、あるいは天主のみ旨への委託であろう。
わたしの心は、そういう感情の一つ、もしくは幾つかを選んで、心ゆくまで、これに浸る。これをそのまま、イエズスに披歴する。これをしばしば、くり返す。――心やさしく、忠実に、そしてありのままに。
ああ、イエズスよ、もしわたしの感情が、黙想の助けとなりますなら、わたしは喜んでこれを利用いたします。感情はほんとうに、役には立ちますが、しかし決して必要ではありません。うわべだけの、瞬間的の感情よりも、静かな、そして深い愛情は、もっと安全で、もとゆたかな実を結びます。瞬間的の感動は、わたしにとって、どうにもならないことです。それはまた、ほんとうの、そして実りゆたかな黙想の、バロメーターとなるものでもありません。
わたし一人の力で、いつでもできること、わたしの権限にいつもぞくしてい、そしてわたしにとっていちばん大切なことは、ただわたし自身の努力だけです。わたしは努力することによってこそ、心を惰眠から呼びさまし、あなたにこう申し上げるのです。――わが天主よ、わたしはあなたと一致したい、わたしはあなたのみまえに、消えてなくなりたい。わたしはあなたに、感謝のほぎ歌をうたい、あなたのみ旨を成就する喜びをうたいたい。
わたしはあなたを愛し、また愛すればこそ、あなたをお悲しませする、いっさいの悪を憎むのです。こう申しあげるわたしの言葉に、すこしもウソはございません。
時にはしかし、わたしの努力が、どんなに誠実でございましても、心は依然として冷ややかで、蛍火のように、あるかないかの愛情の炎しか、出さない場合もございますでしょう。そんな場合には、ああ、イエズスよ、わたしはありていに、わたし自身の無能と、愛したい望みを、おうちあけいたしましょう。よろこんで、わたしの嘆きをくり返し、長く長く泣きつづけましょう。わたしは確信しております、このようにあなたのみまえに、わたしの無能をなげいておりますなら、いつかはあなたの聖心のご愛情に、わたしの愛情も溶け入って、たがいに一つになりきる特別の権利を、授けていただくことでしょう。それは、何の実感も伴わない、盲目的な、冷静な仕方で実現されますが、しかしその仕方は、最も効果的です。
ああ、イエズスよ、わたしがあなたの内に見つめている理想は、なんと美しいものでしょう。しかし、わたしの現実の生活は、この理想の完全なお手本であるあなたのご生活と、うまく調和がとれているのでしょうか。あなたのおまなざしのもとで、わたしはこの点を、よく糾明いたします。
ああ、わたしのお話あいてのイエズスよ、あなたは今こそ、限りない慈悲の天主でいらっしゃいますが、審判のときには、情け容赦もない、いかめしい裁判官であられ、わたしの一生涯の行為の、どんなに小さな動機までも、ちゃんとごぞんじになっておられます。わたしは果たして、この理念に生きているのでしょうか。もし私が只今突然、死にでもいたしましたら、ああ、イエズスよ、はたしてわたしは、自分の行動が、この理念と矛盾していないことを発見するのでしょうか。
善き師よ、わたしはどんな点を改めねばならないのでしょうか。どうぞ、わたしを助けて、あなたを模倣することに邪魔となる障害物を発見させてください。わたしは、よく過ちをおかしますが、その内的および外的原因はなんでしょうか。わたしがおかす過ちの、遠いまたは近い機会はなんでしょうか。それを、わたしに、発見させてください。
わたしは、わたし自身の惨めさに目をそそぐにつけ、わたしが出あいまするいろいろな困難に、思いを馳せますにつけ、ああ、拝むべき救い主よ、わたしの心はあなたになにか、お打ち明けしないではいられません。――はずかしさと嘆きを。悲しみと苦い悔恨を。もっとりっぱになろうとの激しい望みを。わたし自身の惜しみなき、制限なき奉献を。
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き2)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(2/3)
(Ⅲ) どのように黙想しなければならないか
黙想の定義と目的を実現するために、わたしは次のような論理的歩みをたどろう。
わたしは、自分の理性――わけても、自分の信仰と自分の心を、聖主のみまえにおこう。
聖主は、一つの真理、もしくは一つの善徳を、わたしに教えようとしておられる。
わたしがいま、いだいている理想に、霊魂がうまく順応するように、とわたしは烈しく望む。
わたしの心のなかには、この理想からあまりにかけはなれたこれこれの欠点、いや、この理想に反しているこれこれの悪習がある。これを見て、心からなげく。
理想の達成の途上に、これこれの障害がよこたわっている。
これを粉砕しようと、固く決心する。
しかし、自分の力では、どうにもできない。それを確信して、理想の達成にどうしても必要な恩寵を、熱心に聖主にこい求める。
道中で疲れあぐみ、息たえだえになっている、あわれな巡礼の姿――
これが、わたしだ。
渇きをいやす水を、しきりに求めている。
その水を、ついに見いだす。
Video「わたしは、見る」――わたしは、泉をみつけたのである。
Sitio「わたしは、渇く」――こんこんと湧きでる、清澄な岩清水!この水こそは、わたしに、巡礼の道をつづけさせてくれるのだ。わたしは、この澄みきった水をながめればながめるほど、ますます渇きをいやしたい望みが烈しくなる。そこにいくためには、まだ多くの障害があるにかかわらず……。
Volo「わたしは、望む」――どんなぎせいを払っても、わたしはこの救いの泉に、到着しなければならぬ。一生懸命に、そこに到着しようと努力する。ああ、しかし、わたしは自分の無能を痛感する。
Volo tecum「わたしは、あなたと共に望む」――一人の案内者が現われる。わたしを助けてくれるために、わたしからはただ切ない嘆願のさけびしか、要求しない。かれは、わたしを抱きかかえて、けわしい道、いばらの道さえも通りすぎる。かれのおかげで、まもなく、わたしは泉に到着し、心ゆくまで飲んで、たましいの渇きをいやすことができる。イエズスの聖心からほとばしりでる、恩寵の生ける水を飲んで……。
夕方の信心読書こそは、わたしにとって、内的生活の貴重な要素であって、これが翌日の黙想への食欲を、はげしく刺激してくれる。
寝につくまえに、翌日の黙想の題目を、あらまし心に思い浮かべる。
それも、いいかげんでにではなく、はっきりと、そしてまじめに。
題目ばかりではない、この黙想から、どんな成果をおさめようか、それも考える。
そして、翌日の黙想を、よく利用したい、という望みを、はげしく起こす。
黙想の時刻が、きた。
地上の事物から、離脱することに、精をだす。
黙想しようとする一つの場面を、生き生きと、手にとるように現出するために、想像力をしずかに駆使する。それによって、仕事や雑念から、考えを引き離す。場面の現出は、手っとり早く、大ざっぱでもよいが、まざまざと、あたかも眼前にうちながめるように、精彩を放っていなければならぬ。そして、わたしの魂をとらえ、わたしを天主のみまえにぬかずかせるほど、強い迫力をもっていなければならぬ。その活動のいっさいが愛である天主は、わたしの魂をつつみ、わたしの魂を浸透しようとしておいでになる。
このようにして、わたしは、話あいての天主と、心おきなく語ることができるのだ。――永遠にお生きになるおん者と。永遠に拝むべき、永遠に愛すべきおん者と。
すぐに、わたしは、深く天主を礼拝する。自然にそうせざるをえない。心は、天主のみまえに、消えいるばかり。おかした罪の思い出に、たましいは痛悔する。自分は、天主に絶対に依存するものだ、ということを、心から認める。そして、天主に、そう告白する。
謙遜で、信頼にみちた祈りが、心にも、くちびるにも、上ぼる。
天主との語らいが、祝福にみたされてあるためには、こういう要領を心得ていなければならない。
VIDEO「わたしは見る」
ああ、イエズスよ、わたしはあなたの、生き生きとした現存の意識にとらえられ、そしてこれによって、純然たる自然界のもろもろの、現象の圧制からおのれを解放し、“信仰”の言葉を用いて、あなたとの語らいなるこの黙想を、始めさせていただきます。信仰の言葉こそは、理性のあらゆる理屈にもまさって、あなたとお話をするのに、いっそうりっぱな効果があるからです。
この目的をめざして、わたしは黙想の諸点を注意してよみ、かつ記憶に思い浮かべます。それを集約し、その上にわたしの注意の焦点をしぼります。
ああ、イエズスよ、この真理を、わたしに語り、わたしに教えてくださるお方は、あなたです。あなたが、わたしにお示しになることは、絶対に確実な真理として、わたしは信じます。それは、あなたの天主的信用性に基づいているからです。この信仰を、ますます新たにし、ますますふやしていこうと、わたしは思うのです。
されば、わが霊魂よ、たえまなくくり返して、「わたしは、この真理を信じます」というがよい。いっそう大きな力をもって、それをくり返すがよい。あたかも学生が、その課業をくり返し、くり返し復習するように、おまえもしばしば、くり返していうがよい。――わたしは、この教義を信じる。わたしは、この教義から出るすべての結論を信じる。永遠に、永遠に、と。
ああ、イエズスよ、これは真理です。絶対に確実な真理です。どうか天啓のこの真理、この義の太陽のかがやきが、わたしの一日をくまなく、照明する灯台でありますように。
どうぞ、わたしの信仰を、いっそう熱烈にしてください。どうぞ、この理想にしたがって生きる強い望みを、この理想に反するものへの聖なる怒りを、わたしの心に吹き込んでください。わたしは“真理”という、この霊への食物を、むさぼるように食べ、それをわたしの血となし、肉としたいのです。
とはいえ、わたしが自分の信仰を奮いおこそうと、数分間努力いたしましても、その甲斐がなく、空しくおのれに提示された真理の前に、ただぬかずくばかりで、心にはなんの感激もおぼえませんとき、主よ、わたしは無理してまでも、この感激を手に入れようとは思いません。主よ、そういう場合には、わたしはただ子供のように、おのれの無能が生みだすこの心の苦しみを、あなたに披歴するだけです。そしてあなたに、どうぞわたしの無能をあわれみ、わたしの不足をおぎなってください、と嘆願に及ぶことでしょう。
SITIO「わたしは渇く」
この信仰の行為は、ほんとうにわたしを、天主の知恵にあずからせる。だから、この信仰の行為を、しばしば、とりわけ精力的に、なさなければならぬ。情念的愛の言葉なる、わたしの心の歓喜は、ひとえに、この信仰の度合いに依存しているのだから。
天主にたいする情念的愛は、げに信仰の行為から、意志に刺激されて生じるのである。
この愛こそは、わたしが、イエズスに、お捧げする霊的花束である。
それは、礼拝であり、喜びであり、感謝であろう。
天主のみ旨への愛着であり、いっさいの被造物からの離脱であろう。
罪悪への憎みであり、それからの逃避であろう。
あるいは、恐れ、怒り、希望、あるいは天主のみ旨への委託であろう。
わたしの心は、そういう感情の一つ、もしくは幾つかを選んで、心ゆくまで、これに浸る。これをそのまま、イエズスに披歴する。これをしばしば、くり返す。――心やさしく、忠実に、そしてありのままに。
ああ、イエズスよ、もしわたしの感情が、黙想の助けとなりますなら、わたしは喜んでこれを利用いたします。感情はほんとうに、役には立ちますが、しかし決して必要ではありません。うわべだけの、瞬間的の感情よりも、静かな、そして深い愛情は、もっと安全で、もとゆたかな実を結びます。瞬間的の感動は、わたしにとって、どうにもならないことです。それはまた、ほんとうの、そして実りゆたかな黙想の、バロメーターとなるものでもありません。
わたし一人の力で、いつでもできること、わたしの権限にいつもぞくしてい、そしてわたしにとっていちばん大切なことは、ただわたし自身の努力だけです。わたしは努力することによってこそ、心を惰眠から呼びさまし、あなたにこう申し上げるのです。――わが天主よ、わたしはあなたと一致したい、わたしはあなたのみまえに、消えてなくなりたい。わたしはあなたに、感謝のほぎ歌をうたい、あなたのみ旨を成就する喜びをうたいたい。
わたしはあなたを愛し、また愛すればこそ、あなたをお悲しませする、いっさいの悪を憎むのです。こう申しあげるわたしの言葉に、すこしもウソはございません。
時にはしかし、わたしの努力が、どんなに誠実でございましても、心は依然として冷ややかで、蛍火のように、あるかないかの愛情の炎しか、出さない場合もございますでしょう。そんな場合には、ああ、イエズスよ、わたしはありていに、わたし自身の無能と、愛したい望みを、おうちあけいたしましょう。よろこんで、わたしの嘆きをくり返し、長く長く泣きつづけましょう。わたしは確信しております、このようにあなたのみまえに、わたしの無能をなげいておりますなら、いつかはあなたの聖心のご愛情に、わたしの愛情も溶け入って、たがいに一つになりきる特別の権利を、授けていただくことでしょう。それは、何の実感も伴わない、盲目的な、冷静な仕方で実現されますが、しかしその仕方は、最も効果的です。
ああ、イエズスよ、わたしがあなたの内に見つめている理想は、なんと美しいものでしょう。しかし、わたしの現実の生活は、この理想の完全なお手本であるあなたのご生活と、うまく調和がとれているのでしょうか。あなたのおまなざしのもとで、わたしはこの点を、よく糾明いたします。
ああ、わたしのお話あいてのイエズスよ、あなたは今こそ、限りない慈悲の天主でいらっしゃいますが、審判のときには、情け容赦もない、いかめしい裁判官であられ、わたしの一生涯の行為の、どんなに小さな動機までも、ちゃんとごぞんじになっておられます。わたしは果たして、この理念に生きているのでしょうか。もし私が只今突然、死にでもいたしましたら、ああ、イエズスよ、はたしてわたしは、自分の行動が、この理念と矛盾していないことを発見するのでしょうか。
善き師よ、わたしはどんな点を改めねばならないのでしょうか。どうぞ、わたしを助けて、あなたを模倣することに邪魔となる障害物を発見させてください。わたしは、よく過ちをおかしますが、その内的および外的原因はなんでしょうか。わたしがおかす過ちの、遠いまたは近い機会はなんでしょうか。それを、わたしに、発見させてください。
わたしは、わたし自身の惨めさに目をそそぐにつけ、わたしが出あいまするいろいろな困難に、思いを馳せますにつけ、ああ、拝むべき救い主よ、わたしの心はあなたになにか、お打ち明けしないではいられません。――はずかしさと嘆きを。悲しみと苦い悔恨を。もっとりっぱになろうとの激しい望みを。わたし自身の惜しみなき、制限なき奉献を。
(続く)