アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(1/3)
大いそぎで、信心の書物をよむ。よんだのち、内的生活への、漠然とした思慕を心に感ずる。
だが、この思慕だけでは、内的生活をいとなむ上においては、なんの役にも立たないのだ。
内的生活への起因となるためには、この思慕が、断固として一つの決心――明確で、熱情的で、実行性のある決心を、霊魂にとらせるほど烈しいものでなければならない。
使徒的事業にたずさわっている多くの人たちから、自分は内的生活を真剣にいとなみたい計画を立てているのだが、さてどんな方法を用いれば、それがうまく実現できるだろうか、そのためには一般的に、どんな決心をとればよいのだろうか、という質問を受けたことが、筆者は再三あった。
かれらへの解答にもと思って、以下に、本書の付録のようなつもりで、ひとことつけ加えてみようと思う。
筆者はよろこんでこの問いに答えるが、一方において、使徒的事業に従事する人は、司祭であれ、信徒であれ、もしも毎朝少しの間念禱のために取っておく良い決心をするなら、その時初めて本書に既に書いた事から本当の利益を得ることができる、また、他方において、司祭がもし内的生活に進歩したいと思うのなら、典礼生活をよく利用してかつ心の取り締まりの修業をすることを無視することはできない、と筆者は確信している。
Nous y répondons néanmoins volontiers, persuadé d'un côté que l'homme d'oeuvres, prêtre ou laïque, n'aura vraiment profité de la lecture de ce qui précède que s'il est bien déterminé à consacrer chaque matin un instant à l'oraison mentale; et d'un autre côté que le prêtre, s'il veut progresser dans la vie intérieure, ne peut négliger d'utiliser la Vie liturgique et de s'exercer à la Garde du coeur.
この三つの点(念禱、典礼生活、心の取り締まり)を実行するためには、各人の決心という形をとるのがより実際に役だつと筆者は信ずる。
Nous croyons plus pratique d'adopter pour ces trois points la forme de résolution personnelle.
むろん、それによって、新しい黙想法を、読者に伝授しようなどと、大それた野心なぞ、毛頭ないのだが。ただ、すでに行われている最良の黙想法の精髄を、左に略記するまでである。
黙想の決心
“わたしは朝の黙想を、忠実に実行したい”
(Ⅰ)朝の黙想に忠実であること――これは、わたしにとって義務なのか
わたしは“司祭”である。
わたしは、司祭叙階式のとき、“司祭は第二のキリストである”Sacerdos alter Christus!という、いかめしい言葉を、耳にしたのだった。
そして、そのときわたしは、もし自分が特別な仕方で、イエズスのご生命に生きないなら、自分はほんとうにイエズスの聖心にかなった司祭ではないのだ、自分は司祭的霊魂ではないのだ、ということを、しんから悟ったのだった。
わたしは、司祭である。わたしは、イエズスとの親しい、むつまじい交際に生きなければならない者である。
それを、イエズスは、わたしから要求しておいでになる。
「わたしはもう、あなたがたを、しもべとは呼ばない。わたしは、あなたがたを、友と呼んだ Jam non dicam vos servos... Vos autem dixi amicos.」(ヨハネ15・15)
使徒職の本源であり、手段であり、目的でもあられるイエズス――このイエズスと共なるわたしの生活は、次の条件をみたす度合いに応じて、ますます深く、ますますゆたかになっていく。――イエズス・キリストが、わたしの理性の光りとなり、わたしの内的・外的のそれを問わず、いっさいの行為の光りとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしの心のすべての愛情に君臨する、至上愛そのものとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしのあらゆる試練、心戦、事業において、わたし自身の力となるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしをして天主のご生命そのものに参与させる、この超自然的生命を養う食物となるにしたがって。
さて、イエズスと共なるこの生活は、わたしが黙想に忠実であれば、との条件によって確保されるものだからして、もしわたしが黙想をしないなら、当然この生活が不可能になるのは、自然の論理である。
イエズスは、わたしがご自分との親しさに生きるようにと、その手段までもお授けになる。わたしはこのお申し出を拒否して、聖心をお悲ませする勇気があるだろうか。
いま一つ、わたしが黙想をしなければならぬ至って大切な理由が、ここにある。たとえそれが、消極的な理由だったにしても。それは、天主のみ摂理のご計画により、黙想が、わたしの弱い人間性につきものの種々の危険にたいして、わたしが世間としなければならぬ交際にたいして、わたしが果たさねばならぬこれこれの義務にたいして、ひじょうに有効適切な助けを提供してくれる、ということである。
もしわたしが、黙想をするなら、わたしはあたかも、鋼鉄のヨロイを着たような者で、救霊の敵どもが放つ毒矢にあたっても、傷をうけないですむ。黙想をしないなら、かれらの放つ毒矢は、きっとわたしの霊魂に突きささる。したがって、わたしの全然気づかない、もしくはちょっとばかりしか気づかない、たくさんの過ちにたいしても、その原因において、すなわち、黙想を怠ったことにおいて、わたしは有罪の宣告を、受けなければならない。
「世間と交わる司祭にとっては、黙想か、それとも、永遠のほろびをおかす極めて大きな危険か、そのいずれかである!」となんのためらいもなく、こういい放った人は、あの敬けんで、博学で、賢明なデシュルモン神父である。司祭黙想会の説教師として、最もすぐれた、最も経験に富んだ司祭の一人――デシュルモン神父その人である。
« Oraison ou très grand risque de damnation pour le Prêtre en contact avec le monde », déclarait sans hésiter le pieux, docte et prudent P. Desurmont, l'un des plus expérimentés prédicateurs de retraites ecclésiastiques.
「使徒職に従事する者にとっては、獲得された聖徳(少なくとも日々の黙想によって願われ追求された聖徳)か、それとも、だんだんに身をもちくずしていく、とりかえしのつかぬ堕落か、そのいずれかであり、中間はありえない!」と、こんどは、ラビジェリ枢機卿がいっている。
« Pour l'apôtre, pas de milieu entre la sainteté sinon acquise, du moins désirée et poursuivie (surtout par l'oraison quotidienne), et la perversion progressive », dit à son tour le Card. Lavïgerie.
聖霊が、詩篇作者に霊感した、左の意味深長な一句を、司祭はめいめい、自分の黙想にあてはめて、反省するがいい。
「天主よ、あなたのおきてが、わたしの心の黙想(おもい)でないならば、その時、おそらくわたしは卑しさのうちに滅びていただろう」(詩篇118・92)
Nisi quod LEX TUA meditatio mea est, tunc forte periissem in humilitate mea.
さて、天主のこのおきてが、司祭たちに要望する最後の目的は、かれらがイエズス・キリストの精神を、わが身に実現することである。
司祭の価値は、かれの黙想の価値
二種類の司祭
(一) ――A級の司祭
かれらにとって、黙想の決心は、かたい。どんないいわけがあっても、朝の黙想を、他の時間にのばさない。――お客が待っている。礼儀だ。すぐに面会しなければならぬ。ひじょうに忙しい仕事がある、……などなど。こんなことは、かれらにとって、黙想を、規定の時間以外にのばす口実とはならない。
やむにやまれぬ緊急な場合――しかも、それは、ごくごくまれだが――は、致し方ないとして、黙想のために、朝の他の時間をとらなければならないが、全然よしてしまうことは絶対にない。
これが、ほんとうの司祭であって、かれらは黙想のきわめて高価な成果を獲得しようと、常に心がけている。
黙想を、ミサの感謝の代わりにするようなことはない。信心読書とごっちゃにするようなことはない。まして、説教の準備の代わりにするようなことはない。
かれらはすでに、一つの聖徳に、有効に望んだ聖徳に達している、といえるだろう。
そして、このようにかれらが、聖徳を追求し、望みにおいてすでにこれを所有している限り、かれらの救霊は、十ちゅう八・九までは保証されているといえるだろう。
(二) ――B級の司祭
黙想の決心が、半端である司祭は、きまって、黙想を他の時間にのばす。したがって、たやすくこれをオミットするようになる。黙想の目的を変えてしまう。黙想に成功するために、実のいった努力はちっともしない。
このことから、どんな結果が予想されるだろうか。――かれは、とりかえしのつかない冷淡におちいるだろう。精神は、しらずしらずのうちに、迷ってしまうだろう。良心は眠ってしまうか、または誤まったもの、善悪の区別もできないものになってしまうだろう。……まさに、破滅への第一歩だ!
この二種類の司祭のうち、そのいずれに、わたしは属したいのか。もしわたしが、A級への帰属をためらっているのなら、それはわたしが朝の黙想を怠っている証拠なのである。
朝の黙想に、一日のすべての勤行は糸をひいている。
わたしが朝、半時間の黙想を怠るなら、やがてはミサ聖祭そのものも、したがって聖体拝領も、個人的にはすこしも、効果のないものになるに決まっている。そして、わたしは、罪の責任をのがれることはできないだろう。典礼生活の楽しい表現であり、同時に、霊の歓喜であるべきはずの聖務日課は、わたしにとって、耐えがたい重荷となる。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしにとなえるから、ほんとうにいやになってくる。
わが身には、なんの警戒も施さない。ちっとも潜心をしない。したがって、射禱などはすこしもとなえない。最もなげかわしいのは、信心読書さえも、やめてしまうことだ。せっかくの使徒職も、だんだん実を結ばないようになる。自分の過ちについて、まじめに糾明をしようともしない。まして特別糾明などは、とっくにやめてしまう。告解も、習慣的に、機械的になっていく。ときには、罪がゆるされたのやら、ゆるされなかったのやら、ちっともわからないような、あやふやな告解をする場合も、たびかさなってくる。
それがつもりつもるとき、最後にかれを待っているものはなにか――
あわれ、汚聖の告解である!
意志の要塞は、だんだん防御が薄くなっていく。
救霊の敵が、大軍をくりだして、襲いかかってくる。
朝に一塁を抜かれ、昼には数塁、夕べには完全に陥落してしまうのである。
(Ⅱ) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
「黙想とは、天主に向かって、精神を高く挙げることである。」Ascensio mentis in Deum.それは、純理論的行為ではなく、実践的理性行為であるから、意志の種々の行為を想定する、と聖トマス・アクィナスは、黙想に説明をあたえている。
だから、黙想は、とりわけ初心者にとっては、ほんとうに骨の折れる仕事である。
天主でないものから、しばし離脱するための仕事、
半時間の間、霊魂のまなざしを、じーっと天主にそそいでいる仕事、
つぎに、善にむかって新たな飛躍を試みるまでに、精神を向上させる仕事、
初めには、ほんとうに骨が折れるが、よろこんでそれを受諾しなければならぬ仕事、
この世ながらに、すでに大きな慰め、すなわち、イエズスとの親しい交わりと深い一致から生じる心の平安をもって、じきにその労苦が報いられる仕事、――これが、黙想というものだ。
大聖テレジアは、「黙想とは、霊魂が、自分がほんとうに愛されている、と知っているその御者と、心から心へと語る、親しい語らいである」といっている。
« L'oraison, dit sainte Thérèse, n'est qu'un Entretien d'amitié où l'âme parle coeur à coeur avec Celui dont elle se sait aimée. »
黙想とは、天主と霊魂とのあいだにかわされる、心から心への語らいである。
天主は、この語らいの必要を、わたしの心に痛感させてくださった。この語らいに向かって、わたしの心は強くひかれた。天主はそれをわたしに、お命じになってさえくださった。
はたしてそうだったら、天主とのこの語らいを、容易にしてくださるおぼし召しである。こう信じないならウソだ。
わたしが長いあいだ、この語らいをうち捨てていたのに、イエズスはやさしくわたしを、それにお呼びくださったではないか。そのとき語るべき言葉までも、わたしに霊感してくださったではないか。――信と望と愛の言葉を。
そして、これこそは、ボスエ司教がいったようにわたしの黙想そのものではないのか。
わたしは、この慈愛ふかき父のお招きを、ことわることができるだろうか。放とう息子にさえ、わたしの言葉をききにいらっしゃい、子供の心をもってわたしとお語りなさい、わたしにあなたの心の秘密をうちあけなさい、わたしの心の鼓動をきき取りなさい……と、いともやさしく仰せになる、この慈父のお招きを。
黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、いとも簡単な語らいである。わたしは、現在あるがままの姿で、天父のみまえに出てよろしいのだ。現在、冷淡であってもいい。放とう息子であってもいい。信心深い者であってもいい。とにかく、どんな姿であっても、天主とお話しするためには、ちっともさしつかえないのだ。子供のような無邪気な心もちで、わたしは天父に、わたしの霊魂のありさまを披歴しよう。わたしの現在あるがままの姿を、なんのウソもいつわりもなく、ありのままに表現した言葉で、お話ししよう。
黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、実益に富む語らいである。かじ屋が、鉄片を火中に投ずるのは、これをきたえあげるためである。そのように、黙想も、天主との語らいによって、わたしのくらい知性を照明し、わたしの冷たい意志をもえたたせる。それは、霊魂を、おとなしく、柔順にするためである。霊魂をきたえあげ、霊魂から欠点を除き去り、“古き人”を追放し、その代わりに、イエズス・キリストの御徳と御姿を、霊魂にきざみつけ、焼きつけるためである。
従って、私の天主との語らいは、その結果として、わたしの霊魂を、イエズス・キリストのご聖徳にまで、向上させるものでなければならない。(パズのアルバレス Alvarez de Paz 師の言葉)――イエズスご自身、わたしの霊魂を、ご自分のお姿に似せて、きたえあげることができるように。
Mon entretien aura donc pour résultat de hausser mon âme jusqu'à la sainteté de Jésus 1 afin qu'il puisse la façonner à son image.
「主イエズスよ、それは、あなたご自身でございます。――そのいともやさしく、いとも憐れみ深い、けれどいとも強いおん手をもって、わたしの心をつくり、きたえあげてくださいますお方は、主イエズスよ、それはあなたご自身でございます」Tu, Domine Jesu, Tu Ipse, Manu mitissima, misericordissima, sed tamen fortissima formans ac pertractans cor meum.(聖アウグスチノの祈り)
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
二、黙想は、内的生活の、したがって、使徒職の必要欠くべからざる要素である(1/3)
大いそぎで、信心の書物をよむ。よんだのち、内的生活への、漠然とした思慕を心に感ずる。
だが、この思慕だけでは、内的生活をいとなむ上においては、なんの役にも立たないのだ。
内的生活への起因となるためには、この思慕が、断固として一つの決心――明確で、熱情的で、実行性のある決心を、霊魂にとらせるほど烈しいものでなければならない。
使徒的事業にたずさわっている多くの人たちから、自分は内的生活を真剣にいとなみたい計画を立てているのだが、さてどんな方法を用いれば、それがうまく実現できるだろうか、そのためには一般的に、どんな決心をとればよいのだろうか、という質問を受けたことが、筆者は再三あった。
かれらへの解答にもと思って、以下に、本書の付録のようなつもりで、ひとことつけ加えてみようと思う。
筆者はよろこんでこの問いに答えるが、一方において、使徒的事業に従事する人は、司祭であれ、信徒であれ、もしも毎朝少しの間念禱のために取っておく良い決心をするなら、その時初めて本書に既に書いた事から本当の利益を得ることができる、また、他方において、司祭がもし内的生活に進歩したいと思うのなら、典礼生活をよく利用してかつ心の取り締まりの修業をすることを無視することはできない、と筆者は確信している。
Nous y répondons néanmoins volontiers, persuadé d'un côté que l'homme d'oeuvres, prêtre ou laïque, n'aura vraiment profité de la lecture de ce qui précède que s'il est bien déterminé à consacrer chaque matin un instant à l'oraison mentale; et d'un autre côté que le prêtre, s'il veut progresser dans la vie intérieure, ne peut négliger d'utiliser la Vie liturgique et de s'exercer à la Garde du coeur.
この三つの点(念禱、典礼生活、心の取り締まり)を実行するためには、各人の決心という形をとるのがより実際に役だつと筆者は信ずる。
Nous croyons plus pratique d'adopter pour ces trois points la forme de résolution personnelle.
むろん、それによって、新しい黙想法を、読者に伝授しようなどと、大それた野心なぞ、毛頭ないのだが。ただ、すでに行われている最良の黙想法の精髄を、左に略記するまでである。
黙想の決心
“わたしは朝の黙想を、忠実に実行したい”
(Ⅰ)朝の黙想に忠実であること――これは、わたしにとって義務なのか
わたしは“司祭”である。
わたしは、司祭叙階式のとき、“司祭は第二のキリストである”Sacerdos alter Christus!という、いかめしい言葉を、耳にしたのだった。
そして、そのときわたしは、もし自分が特別な仕方で、イエズスのご生命に生きないなら、自分はほんとうにイエズスの聖心にかなった司祭ではないのだ、自分は司祭的霊魂ではないのだ、ということを、しんから悟ったのだった。
わたしは、司祭である。わたしは、イエズスとの親しい、むつまじい交際に生きなければならない者である。
それを、イエズスは、わたしから要求しておいでになる。
「わたしはもう、あなたがたを、しもべとは呼ばない。わたしは、あなたがたを、友と呼んだ Jam non dicam vos servos... Vos autem dixi amicos.」(ヨハネ15・15)
使徒職の本源であり、手段であり、目的でもあられるイエズス――このイエズスと共なるわたしの生活は、次の条件をみたす度合いに応じて、ますます深く、ますますゆたかになっていく。――イエズス・キリストが、わたしの理性の光りとなり、わたしの内的・外的のそれを問わず、いっさいの行為の光りとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしの心のすべての愛情に君臨する、至上愛そのものとなるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしのあらゆる試練、心戦、事業において、わたし自身の力となるにしたがって。イエズス・キリストが、わたしをして天主のご生命そのものに参与させる、この超自然的生命を養う食物となるにしたがって。
さて、イエズスと共なるこの生活は、わたしが黙想に忠実であれば、との条件によって確保されるものだからして、もしわたしが黙想をしないなら、当然この生活が不可能になるのは、自然の論理である。
イエズスは、わたしがご自分との親しさに生きるようにと、その手段までもお授けになる。わたしはこのお申し出を拒否して、聖心をお悲ませする勇気があるだろうか。
いま一つ、わたしが黙想をしなければならぬ至って大切な理由が、ここにある。たとえそれが、消極的な理由だったにしても。それは、天主のみ摂理のご計画により、黙想が、わたしの弱い人間性につきものの種々の危険にたいして、わたしが世間としなければならぬ交際にたいして、わたしが果たさねばならぬこれこれの義務にたいして、ひじょうに有効適切な助けを提供してくれる、ということである。
もしわたしが、黙想をするなら、わたしはあたかも、鋼鉄のヨロイを着たような者で、救霊の敵どもが放つ毒矢にあたっても、傷をうけないですむ。黙想をしないなら、かれらの放つ毒矢は、きっとわたしの霊魂に突きささる。したがって、わたしの全然気づかない、もしくはちょっとばかりしか気づかない、たくさんの過ちにたいしても、その原因において、すなわち、黙想を怠ったことにおいて、わたしは有罪の宣告を、受けなければならない。
「世間と交わる司祭にとっては、黙想か、それとも、永遠のほろびをおかす極めて大きな危険か、そのいずれかである!」となんのためらいもなく、こういい放った人は、あの敬けんで、博学で、賢明なデシュルモン神父である。司祭黙想会の説教師として、最もすぐれた、最も経験に富んだ司祭の一人――デシュルモン神父その人である。
« Oraison ou très grand risque de damnation pour le Prêtre en contact avec le monde », déclarait sans hésiter le pieux, docte et prudent P. Desurmont, l'un des plus expérimentés prédicateurs de retraites ecclésiastiques.
「使徒職に従事する者にとっては、獲得された聖徳(少なくとも日々の黙想によって願われ追求された聖徳)か、それとも、だんだんに身をもちくずしていく、とりかえしのつかぬ堕落か、そのいずれかであり、中間はありえない!」と、こんどは、ラビジェリ枢機卿がいっている。
« Pour l'apôtre, pas de milieu entre la sainteté sinon acquise, du moins désirée et poursuivie (surtout par l'oraison quotidienne), et la perversion progressive », dit à son tour le Card. Lavïgerie.
聖霊が、詩篇作者に霊感した、左の意味深長な一句を、司祭はめいめい、自分の黙想にあてはめて、反省するがいい。
「天主よ、あなたのおきてが、わたしの心の黙想(おもい)でないならば、その時、おそらくわたしは卑しさのうちに滅びていただろう」(詩篇118・92)
Nisi quod LEX TUA meditatio mea est, tunc forte periissem in humilitate mea.
さて、天主のこのおきてが、司祭たちに要望する最後の目的は、かれらがイエズス・キリストの精神を、わが身に実現することである。
司祭の価値は、かれの黙想の価値
二種類の司祭
(一) ――A級の司祭
かれらにとって、黙想の決心は、かたい。どんないいわけがあっても、朝の黙想を、他の時間にのばさない。――お客が待っている。礼儀だ。すぐに面会しなければならぬ。ひじょうに忙しい仕事がある、……などなど。こんなことは、かれらにとって、黙想を、規定の時間以外にのばす口実とはならない。
やむにやまれぬ緊急な場合――しかも、それは、ごくごくまれだが――は、致し方ないとして、黙想のために、朝の他の時間をとらなければならないが、全然よしてしまうことは絶対にない。
これが、ほんとうの司祭であって、かれらは黙想のきわめて高価な成果を獲得しようと、常に心がけている。
黙想を、ミサの感謝の代わりにするようなことはない。信心読書とごっちゃにするようなことはない。まして、説教の準備の代わりにするようなことはない。
かれらはすでに、一つの聖徳に、有効に望んだ聖徳に達している、といえるだろう。
そして、このようにかれらが、聖徳を追求し、望みにおいてすでにこれを所有している限り、かれらの救霊は、十ちゅう八・九までは保証されているといえるだろう。
(二) ――B級の司祭
黙想の決心が、半端である司祭は、きまって、黙想を他の時間にのばす。したがって、たやすくこれをオミットするようになる。黙想の目的を変えてしまう。黙想に成功するために、実のいった努力はちっともしない。
このことから、どんな結果が予想されるだろうか。――かれは、とりかえしのつかない冷淡におちいるだろう。精神は、しらずしらずのうちに、迷ってしまうだろう。良心は眠ってしまうか、または誤まったもの、善悪の区別もできないものになってしまうだろう。……まさに、破滅への第一歩だ!
この二種類の司祭のうち、そのいずれに、わたしは属したいのか。もしわたしが、A級への帰属をためらっているのなら、それはわたしが朝の黙想を怠っている証拠なのである。
朝の黙想に、一日のすべての勤行は糸をひいている。
わたしが朝、半時間の黙想を怠るなら、やがてはミサ聖祭そのものも、したがって聖体拝領も、個人的にはすこしも、効果のないものになるに決まっている。そして、わたしは、罪の責任をのがれることはできないだろう。典礼生活の楽しい表現であり、同時に、霊の歓喜であるべきはずの聖務日課は、わたしにとって、耐えがたい重荷となる。ただ仕来たりで、なんの気乗りもなしにとなえるから、ほんとうにいやになってくる。
わが身には、なんの警戒も施さない。ちっとも潜心をしない。したがって、射禱などはすこしもとなえない。最もなげかわしいのは、信心読書さえも、やめてしまうことだ。せっかくの使徒職も、だんだん実を結ばないようになる。自分の過ちについて、まじめに糾明をしようともしない。まして特別糾明などは、とっくにやめてしまう。告解も、習慣的に、機械的になっていく。ときには、罪がゆるされたのやら、ゆるされなかったのやら、ちっともわからないような、あやふやな告解をする場合も、たびかさなってくる。
それがつもりつもるとき、最後にかれを待っているものはなにか――
あわれ、汚聖の告解である!
意志の要塞は、だんだん防御が薄くなっていく。
救霊の敵が、大軍をくりだして、襲いかかってくる。
朝に一塁を抜かれ、昼には数塁、夕べには完全に陥落してしまうのである。
(Ⅱ) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
「黙想とは、天主に向かって、精神を高く挙げることである。」Ascensio mentis in Deum.それは、純理論的行為ではなく、実践的理性行為であるから、意志の種々の行為を想定する、と聖トマス・アクィナスは、黙想に説明をあたえている。
だから、黙想は、とりわけ初心者にとっては、ほんとうに骨の折れる仕事である。
天主でないものから、しばし離脱するための仕事、
半時間の間、霊魂のまなざしを、じーっと天主にそそいでいる仕事、
つぎに、善にむかって新たな飛躍を試みるまでに、精神を向上させる仕事、
初めには、ほんとうに骨が折れるが、よろこんでそれを受諾しなければならぬ仕事、
この世ながらに、すでに大きな慰め、すなわち、イエズスとの親しい交わりと深い一致から生じる心の平安をもって、じきにその労苦が報いられる仕事、――これが、黙想というものだ。
大聖テレジアは、「黙想とは、霊魂が、自分がほんとうに愛されている、と知っているその御者と、心から心へと語る、親しい語らいである」といっている。
« L'oraison, dit sainte Thérèse, n'est qu'un Entretien d'amitié où l'âme parle coeur à coeur avec Celui dont elle se sait aimée. »
黙想とは、天主と霊魂とのあいだにかわされる、心から心への語らいである。
天主は、この語らいの必要を、わたしの心に痛感させてくださった。この語らいに向かって、わたしの心は強くひかれた。天主はそれをわたしに、お命じになってさえくださった。
はたしてそうだったら、天主とのこの語らいを、容易にしてくださるおぼし召しである。こう信じないならウソだ。
わたしが長いあいだ、この語らいをうち捨てていたのに、イエズスはやさしくわたしを、それにお呼びくださったではないか。そのとき語るべき言葉までも、わたしに霊感してくださったではないか。――信と望と愛の言葉を。
そして、これこそは、ボスエ司教がいったようにわたしの黙想そのものではないのか。
わたしは、この慈愛ふかき父のお招きを、ことわることができるだろうか。放とう息子にさえ、わたしの言葉をききにいらっしゃい、子供の心をもってわたしとお語りなさい、わたしにあなたの心の秘密をうちあけなさい、わたしの心の鼓動をきき取りなさい……と、いともやさしく仰せになる、この慈父のお招きを。
黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、いとも簡単な語らいである。わたしは、現在あるがままの姿で、天父のみまえに出てよろしいのだ。現在、冷淡であってもいい。放とう息子であってもいい。信心深い者であってもいい。とにかく、どんな姿であっても、天主とお話しするためには、ちっともさしつかえないのだ。子供のような無邪気な心もちで、わたしは天父に、わたしの霊魂のありさまを披歴しよう。わたしの現在あるがままの姿を、なんのウソもいつわりもなく、ありのままに表現した言葉で、お話ししよう。
黙想は、天主と霊魂とのあいだにかわされる、実益に富む語らいである。かじ屋が、鉄片を火中に投ずるのは、これをきたえあげるためである。そのように、黙想も、天主との語らいによって、わたしのくらい知性を照明し、わたしの冷たい意志をもえたたせる。それは、霊魂を、おとなしく、柔順にするためである。霊魂をきたえあげ、霊魂から欠点を除き去り、“古き人”を追放し、その代わりに、イエズス・キリストの御徳と御姿を、霊魂にきざみつけ、焼きつけるためである。
従って、私の天主との語らいは、その結果として、わたしの霊魂を、イエズス・キリストのご聖徳にまで、向上させるものでなければならない。(パズのアルバレス Alvarez de Paz 師の言葉)――イエズスご自身、わたしの霊魂を、ご自分のお姿に似せて、きたえあげることができるように。
Mon entretien aura donc pour résultat de hausser mon âme jusqu'à la sainteté de Jésus 1 afin qu'il puisse la façonner à son image.
「主イエズスよ、それは、あなたご自身でございます。――そのいともやさしく、いとも憐れみ深い、けれどいとも強いおん手をもって、わたしの心をつくり、きたえあげてくださいますお方は、主イエズスよ、それはあなたご自身でございます」Tu, Domine Jesu, Tu Ipse, Manu mitissima, misericordissima, sed tamen fortissima formans ac pertractans cor meum.(聖アウグスチノの祈り)
(続く)