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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年4月15日 御復活後第二主日説教 「善き牧者と善き羊」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

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2018年4月6日(初金)御復活後第二主日(善き牧者の主日)のミサ
エチエンヌ・ドモルネ神父様(聖ピオ十世会) お説教  日本語訳

はじめに
本日の主日は、一般に「善き牧者の主日」と呼ばれています。このミサの福音において、主が「私は善い牧者である」と言っておられるからです。聖ピオ十世会においては、神学校のために捧げられている主日です。ですから、聖ピオ十世会の神学校や修練院で司祭職や修道生活の準備をしているすべての若者たちのために祈ることを忘れないようにしましょう。
私は本日、主が自分自身にお与えになった、この「善き牧者」という称号について、そしてその結果として、「善き羊」としての私たちの取るべき態度がどんなものかについて、少し述べたいと思います。

1.私たちの主イエズスは善き牧者である

主にとって、善き牧者とはどんなものでしょうか? 自分の責任の下にある人々の世話をし、彼らを守り、迷ってしまった人々を探し求める人のことです。私たちの主イエズスは、私たちにとってすばらしく善き牧者なのです。

実際、主は本当に私たちの世話をしてくださいます。

◎主は私たちの幸せを望み、そして最終的には私たちの永遠の幸せを望んでおられるのであり、そういうわけで主は天から降りて来られたのです。主が病める者、貧しい者、悲しむ者、飢えた者のためにいかに多くの奇蹟をなさったかを思い出してください。

◎私たちが必要とする霊的な食べ物を私たちに与えてくださるという意味で、主は私たちの世話をしてくださいます。主は、真理と幸せを求める私たちの霊魂の渇きを満たしてくださいます。主は、私たちに天主、天国、そして天国への道について教えるために来られました。山上の垂訓を思い出してください。「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。柔和な人は幸せである、彼らは地を譲り受けるであろう・・・」(マテオ5章3-4節)。これに加えて、私たちの主イエズスは、私たちの霊的な食べ物となるご聖体において、ご自分をお与えになりました。主は、私たちの精神を真理で照らし、私たちの心を愛で燃え立たせるために、私たちの霊魂に来ることを御自らお決めになりました。

◎主は私たちの世話をしてくださいますが、それは主が私たちを霊的な道において導いてくださるという意味でもあります。例えば、主はニコデモに洗礼が必要であることについて教え、御恵みを得る手段として秘蹟を制定し、若い男に完全になるためにはどうすればよいかをお勧めになりました。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。最後の晩餐の間に、主は、弟子たちを導くために聖霊を送ると彼らに約束されました。「弁護者すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教えてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。


私たちを保護してくださるがゆえに、主は善き牧者です。では私たちをどのように保護してくださるのでしょうか?

●主は、誤謬と悪しき行いから、私たちを保護してくださいます。主は私たちを愛し、私たちの善をお望みであるがゆえに、私たちに対して罪に抵抗するよう警告なさいます。主が、エルザレムの神殿で物を売る人たちを二度にわたって追い出され、「『私の家は祈りの家である』と書かれているのに、それを盗人の巣にするのか」(マテオ21章13節)と言われたかを思い出してください。主が、ファリザイ人に対してその悪しき意思をどれほど厳しく非難され、彼らがどれほど人々を真理から離れた方向に指導していたかを思い出してください。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、・・・盲目の案内人よ、・・・おろかもの、 盲目どもよ、・・・へびよ、まむし族よ、・・・」(マテオ23章13-33節)。聖ペトロが主にご受難を受け入れることをやめさせようとしたときには、聖ペトロに対してさえも、主は非難することを躊躇なさいませんでした。「サタン、引きさがれ。私の邪魔をするな」(マテオ16章23節)。

●さらに私たちの主イエズスは、「狼」という敵から私たちを守ってくださいます。この狼とは、悪魔、この世、そして肉のことです。主は天国へ行かれましたが、ご聖体において今でも私たちと共におられ、主がいつでも私たちに与えてくださる霊的な助けによって今でも私たちと共におられます。「私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」(マテオ28章20節)。また、迫害のときには特にそうです。「私自身がどんな敵も抵抗できず、反対もできない言葉と知恵を授ける」(ルカ21章15節)。

●また、「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)のですから、私たちの主イエズスは、私たちの罪を赦すため、私たちを地獄から救うためという段階までも私たちを守ってくださいます。「私はよい牧者である。・・・こうして私は自分の羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章14-15節)。


私たちの主イエズスは、迷える羊をあわれみ深く捜されるがゆえに、善き牧者です。私たちの天主なる主人は、すべての人に救いを得させるために地上に来られたのであり、すべての人にご自分に従うよう呼び掛けておられます。使徒たちに対して主はこう言われました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。
本日の福音で主はこう言われます。「私にはこの柵内にいないほかの羊もある。私はそれらも連れて行かねばならぬ」(ヨハネ10章16節)。ルカによる福音において主はこう言われました。「あなたたちの中に、百匹の羊を持つ人がいるとする。その一匹がいなくなれば九十九匹を野原に置いて、いなくなった一匹を見つけ出すまで捜すに違いない」(ルカ15章4節)。


2.善き牧者への私たちのお応え

私たちは、私たちを世話し、私たちを保護してくださる御あわれみに満ちた完全な牧者を、私たちの主イエズス・キリストにおいて持っています。しかし、ここで問題があります。果たして私たちは、私たちの側は、主人の声に素直な善き羊なのでしょうか? こんにちの世界において私たちが知的にまた霊的に非常に貧しい理由は、単に霊的な教師たちがいないからだけでなく、それ以上に、教師たちの言うことを聞いて、それから学ぶことのできる素直な弟子たちがいないからだ、と言った人がいました。弟子に受け入れる心構えがないならば、どのような科学も教師の世話も役に立ちません。
いかにすれば、「善き羊」、主の導きの下に素直な弟子でいられるのでしょうか? 私たちに対する主の行動にお応えすることによってです。

主は私たちの世話をしてくださるのですから、このお世話を活用しましょう。

〇私たちの主イエズスは、私たちの善と永遠の幸せを望んでおられます。ですから、それを受け入れて、それに従って生きるようにしましょう。すなわち、御摂理を信頼することです。私たちは、イエズスが天主であり、すべてを支配しておられるのであり、私たちの人生におけるすべてが、私たちを霊的に成長させて天国へ到達させるように主が計らってくださる、ということを知っています。ですから、私たちは、この人生における試練に忍耐強く耐え忍び、何が起ころうとも私たちのカトリック信仰を貫くべきです。「恐れるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国を下さるのは、父のみ旨である」(ルカ12章32節)。

〇主は私たちに霊的な食べ物を与えてくださいます。それは、ご聖体にまします主ご自身、主の教えの中にある主ご自身です。「人はパンだけで生きるのではない、天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。ですから、私たちに与えられるこの霊的な食べ物を熱心にいただくよう気を付けましょう。この領域においては「食べ過ぎ」ということはあり得ません! 可能な限り頻繁にご聖体を受けましょう。定期的に聖書を読みましょう。カトリック信仰についての私たちの知識を深くし、頻繁に祈りましょう。

〇主は天国への道を知っておられ、私たちにとって何が善で何が悪かを知っておられます。ですから、進んで主の導きを受け入れましょう。それは天主の掟と教会の掟です。福音的勧告(清貧、貞潔、従順の精神)を喜んで実践に移しましょう。

主は私たちを保護してくださいます。私たちは進んで主のご保護の下に自分を置きましょう。
〇主は、私たちを誤った方向に導きそうな危険、誤謬、悪しき人々について私たちに警告なさいます。ですから、主が特に教会の教導職を通じてお与えになる、その警告を受け入れるという謙遜を持ちましょう。

〇主は、物質的にはご聖櫃の中に、霊的には成聖の恩寵によって私たちの霊魂の中に、私たちと共におられます。ですから、主の近くにとどまり、できるなら頻繁にご聖体にまします主を訪問するか、少なくとも心の中で頻繁に主と会話をするようにしましょう。

〇主は私たちのためにご自分のいのちをお捧げになりました。ですから私たちも今、主の栄光のために働き、戦い、死ぬ以外のことができるでしょうか? 使徒聖トマスが、「私たちも一緒に行こう、共に死のう」(ヨハネ11章16節)と言ったように。あるいは主ご自身が、「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう」(マテオ5章11節)と言われたように。

主の聖心は、霊魂への愛と私たちの救いへの望みで燃えています。同じように私たちも、自分の救いと自分の周りの人々の救いを求める大きな望みを持ちましょう。私たちは、宣教の精神を持たねばなりません。すなわち、私たちの祈りと犠牲によって、本当のカトリック的生活によって、機会があれば私たちの信仰を告白することによって、信仰に関する良き書物を広めることなどによって、霊魂の救いのために働かなければなりません。

おわりに
親愛なる信者の皆さん、疑いなく、私たちは善き牧者を持っています。それは、私たちの主イエズス・キリストです。でも、たぶん私たちは善き羊ではなく、私たちの主イエズス・キリストの御声に十分に素直であるとは言えません。このミサの間に、罪深い習慣を捨てて、心をすべて主に捧げるという私たちの決心を新たにしましょう。
私たちのいとも祝されし御母、童貞マリアが、私たちを、主にして天主なる御子の御声を聞き、その御声に従うようにさせてくださいますように。アーメン。

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