アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き5)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
典礼生活の決心
ミサ聖祭、聖務日課、およびその他の典礼行事によって、わたしは教会のえだとして、または全権大使として、教会の生命にますます溶け入って、これと一体になり、このようにして、ますますイエズス・キリスト――しかも、十字架につけられたイエズス・キリストを着る者となりたい。まして、わたしは、このイエズス・キリストのしもべ、そのお務めの代行者なのだから!
Par ma Messe, mon Bréviaire et mes autres fonctions liturgiques, je veux comme Membre ou Ambassadeur de l'Eglise, m'unir de plus en plus à sa Vie, et ainsi me revêtir davantage de Jésus et de Jésus crucifié, surtout si je suis son Ministre.
(Ⅰ)典礼とは何か?
I. Qu'est-ce que la Liturgie ?
ああ、イエズスよ、あなたこそは、典礼生活の中心として、わたしが礼拝するお方なのです。
あなたこそは、典礼に統一を与えられるお方なのです。
さて、わたしは、典礼を、次のように定義することができると思います。――典礼とは、教会が天主にささげる公けの、集団的の、正式の祭式行為であると。さらにまた、こんなにいうこともできましょう。――典礼とは、教会が聖三位一体にたいして、敬神行為をあらわすため、また、人びとの霊魂を教育し聖化するために、とりわけミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書のなかに指示している種々の手段を総合したものであると。
ああ、わが魂よ、拝むべき三位一体の天主のふところにこそ、おまえは永遠の典礼を観想せねばならないのだ。永遠の典礼! これによって、至聖なる三位一体は、天主のご生命を、その無限の聖性を、交互に歌いかわしていらっしゃるのだ。――御父のふところからの、聖言のご誕生と、御父と御子の相互愛からの、聖霊の発出とは、そこではいい尽くしがたい賛美をもってうたわれている。――「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを。初めにありしごとく、いまも、いつも、世々にいたるまで、アーメン」
天主は、三位一体の外でも、賛美されることを、お望みになる。
そのために、天主は天使たちを、おつくりになった。
そして、天国は、天使たちの賛美のほぎうたで、永遠にこだまする。――「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、主の栄光は天地にみてり!」Sanctus, Sanctus, Sanctus. 天主はまた、ご自分への賛美のために、見える世界も、おつくりになった。そして、見える世界は、天主の全能をあらわす。――「もろもろの天は、天主の栄光をあらわし、おおぞらは、そのみ手のわざをあらわす」Coeli enarrant gloriam Dei.(詩篇18・1)
人祖アダムが、つくられた。かれはすぐに、全被造物の代理として、永遠の典礼のこだまなる新しい讃美歌を、天主にささげた。つづいて、アベル、ノア、メルキセデク、アブラハム、モイゼ、天主の選民たるイスラエル人、ダヴィド、および旧約のすべての聖者たちは、きそって、天主の賛美をうたった。過越の祭り、各種の犠牲および燔祭、神殿でヤーウェにささげられる公の祭典――これらはみな、一定の宗教儀式の形で、天主の賛美をうたった。だが、それらはいずれも、不完全な賛美でしかなかった。わけても、人祖の堕落いらい、「罪深い人間のくちびるにのぼる天主の賛美は、美しくはない」Non est speciosa laus in ore peccatoris.(集会の書15・9)
完全な賛美を、天主にささげることのできる者――ああ、イエズスよ、それはただあなただけです。あなたは、御父の栄光そのものでいらっしゃるからです。あなたによらないでは、だれも、御父にふさわしい栄光をささげることはできません。「イエズス・キリストによって、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいて、御父なる天主御身に、すべての誉れと栄光はあるなり」Per Ipsum, et cum Ipso, et in Ipso est tibi Deo Patri ... omnis honor et gloria(カノンの祈り)。
あなたは、地上の典礼と天国の典礼を、たがいにむすびつける連結線です。あなたのご托身によって、知恵ある人間も、心なき天地自然もみな、本質的な、いきいきとした仕方で、三位一体の永遠の賛歌に参与できるようになりました。
まことに、あなたは、天主を賛美する、天主ご自身でいらっしゃいます。
あなたの賛美は、完全なもの、このうえなく充実せるもの、そしてその最高潮は、カルワリオの犠牲なのです。
天主なる救い主よ、あなたはご昇天にさきだって、あまねく世の人びとに、カルワリオの犠牲の功徳を新たに施すため、新約の犠牲なるミサ聖祭を、ご制定になりました。そして、あなたは、ご自分の花嫁なる地上の教会に、ミサ聖祭や七つの秘跡を執行するにあたって、これを表象と儀式、励ましと祈りをもって、美々しく装飾するように配慮せよ、とお命じになりました。そのわけは、こういうものによって、教会が、お贖いの奥義をいっそう尊ぶことができますように、教会の子らが、救世の奥義をますます深く理解することができますように、ますます深く理解することによって、お贖いの功徳を、いっそうよく利用することができますように、そのためにかれらの心に敬神と畏敬の念をおこすことができますように、とのおはからいだからです。
この同じ教会に、あなたはまた、あなたの聖心に、絶えまなくかなでられていた、賛美と祈りのしらべを、世の終わりまで続ける使命を、お授けになりました。このいい尽くし難いしらべをこそ、あなたはかつて地上においでになったとき、たえまなく天父にささげていられたのです。そしてご昇天後の現在もなお、あるいは聖ヒツの中で、あるいは天国の栄光のかがやきのなかで、この賛美のお務めを、続けていられるのです。
今さき申し上げました、この二つの務めを、教会は毎日、みごとに果たしています。あなたにたいして彼女がいだいている、花嫁たるの切ない愛情をもって。また、あなたが彼女の心にそそぎ入れられた、慈母たるのこまやかな心づかいをもって……。このようにして、典礼のもろもろの宝を、その中に抱合している、これらのすばらしい祈りと賛美の集成ができあがったのです。
それからというもの、教会はおのれの賛美を、天使たちや天国の聖者らが天において、天主にささげる賛美に合わせるのです。地上における教会の典礼――これぞ、教会が天国において、永遠に続けるその唯一の仕事、唯一の賛美の前奏曲にほかならないのです。教会は、おのれの賛美、おのれの祈りを、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせます。ですから、教会の賛美、教会の祈りは、天主化されて、そっくりそのまま、天主の賛美、天主の祈りとなるのです。かくて、地上の典礼は、イエズスの聖心において、天国の天使、聖人たちのそれに溶け入り、それによって、至聖なる三位一体にほかならぬ、無限愛のカマドからほとばしりでる、永遠の賛美のこだまとなるのです。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き5)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
典礼生活の決心
ミサ聖祭、聖務日課、およびその他の典礼行事によって、わたしは教会のえだとして、または全権大使として、教会の生命にますます溶け入って、これと一体になり、このようにして、ますますイエズス・キリスト――しかも、十字架につけられたイエズス・キリストを着る者となりたい。まして、わたしは、このイエズス・キリストのしもべ、そのお務めの代行者なのだから!
Par ma Messe, mon Bréviaire et mes autres fonctions liturgiques, je veux comme Membre ou Ambassadeur de l'Eglise, m'unir de plus en plus à sa Vie, et ainsi me revêtir davantage de Jésus et de Jésus crucifié, surtout si je suis son Ministre.
(Ⅰ)典礼とは何か?
I. Qu'est-ce que la Liturgie ?
ああ、イエズスよ、あなたこそは、典礼生活の中心として、わたしが礼拝するお方なのです。
あなたこそは、典礼に統一を与えられるお方なのです。
さて、わたしは、典礼を、次のように定義することができると思います。――典礼とは、教会が天主にささげる公けの、集団的の、正式の祭式行為であると。さらにまた、こんなにいうこともできましょう。――典礼とは、教会が聖三位一体にたいして、敬神行為をあらわすため、また、人びとの霊魂を教育し聖化するために、とりわけミサ典書、定式書、聖務日課祈祷書のなかに指示している種々の手段を総合したものであると。
ああ、わが魂よ、拝むべき三位一体の天主のふところにこそ、おまえは永遠の典礼を観想せねばならないのだ。永遠の典礼! これによって、至聖なる三位一体は、天主のご生命を、その無限の聖性を、交互に歌いかわしていらっしゃるのだ。――御父のふところからの、聖言のご誕生と、御父と御子の相互愛からの、聖霊の発出とは、そこではいい尽くしがたい賛美をもってうたわれている。――「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを。初めにありしごとく、いまも、いつも、世々にいたるまで、アーメン」
天主は、三位一体の外でも、賛美されることを、お望みになる。
そのために、天主は天使たちを、おつくりになった。
そして、天国は、天使たちの賛美のほぎうたで、永遠にこだまする。――「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、主の栄光は天地にみてり!」Sanctus, Sanctus, Sanctus. 天主はまた、ご自分への賛美のために、見える世界も、おつくりになった。そして、見える世界は、天主の全能をあらわす。――「もろもろの天は、天主の栄光をあらわし、おおぞらは、そのみ手のわざをあらわす」Coeli enarrant gloriam Dei.(詩篇18・1)
人祖アダムが、つくられた。かれはすぐに、全被造物の代理として、永遠の典礼のこだまなる新しい讃美歌を、天主にささげた。つづいて、アベル、ノア、メルキセデク、アブラハム、モイゼ、天主の選民たるイスラエル人、ダヴィド、および旧約のすべての聖者たちは、きそって、天主の賛美をうたった。過越の祭り、各種の犠牲および燔祭、神殿でヤーウェにささげられる公の祭典――これらはみな、一定の宗教儀式の形で、天主の賛美をうたった。だが、それらはいずれも、不完全な賛美でしかなかった。わけても、人祖の堕落いらい、「罪深い人間のくちびるにのぼる天主の賛美は、美しくはない」Non est speciosa laus in ore peccatoris.(集会の書15・9)
完全な賛美を、天主にささげることのできる者――ああ、イエズスよ、それはただあなただけです。あなたは、御父の栄光そのものでいらっしゃるからです。あなたによらないでは、だれも、御父にふさわしい栄光をささげることはできません。「イエズス・キリストによって、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいて、御父なる天主御身に、すべての誉れと栄光はあるなり」Per Ipsum, et cum Ipso, et in Ipso est tibi Deo Patri ... omnis honor et gloria(カノンの祈り)。
あなたは、地上の典礼と天国の典礼を、たがいにむすびつける連結線です。あなたのご托身によって、知恵ある人間も、心なき天地自然もみな、本質的な、いきいきとした仕方で、三位一体の永遠の賛歌に参与できるようになりました。
まことに、あなたは、天主を賛美する、天主ご自身でいらっしゃいます。
あなたの賛美は、完全なもの、このうえなく充実せるもの、そしてその最高潮は、カルワリオの犠牲なのです。
天主なる救い主よ、あなたはご昇天にさきだって、あまねく世の人びとに、カルワリオの犠牲の功徳を新たに施すため、新約の犠牲なるミサ聖祭を、ご制定になりました。そして、あなたは、ご自分の花嫁なる地上の教会に、ミサ聖祭や七つの秘跡を執行するにあたって、これを表象と儀式、励ましと祈りをもって、美々しく装飾するように配慮せよ、とお命じになりました。そのわけは、こういうものによって、教会が、お贖いの奥義をいっそう尊ぶことができますように、教会の子らが、救世の奥義をますます深く理解することができますように、ますます深く理解することによって、お贖いの功徳を、いっそうよく利用することができますように、そのためにかれらの心に敬神と畏敬の念をおこすことができますように、とのおはからいだからです。
この同じ教会に、あなたはまた、あなたの聖心に、絶えまなくかなでられていた、賛美と祈りのしらべを、世の終わりまで続ける使命を、お授けになりました。このいい尽くし難いしらべをこそ、あなたはかつて地上においでになったとき、たえまなく天父にささげていられたのです。そしてご昇天後の現在もなお、あるいは聖ヒツの中で、あるいは天国の栄光のかがやきのなかで、この賛美のお務めを、続けていられるのです。
今さき申し上げました、この二つの務めを、教会は毎日、みごとに果たしています。あなたにたいして彼女がいだいている、花嫁たるの切ない愛情をもって。また、あなたが彼女の心にそそぎ入れられた、慈母たるのこまやかな心づかいをもって……。このようにして、典礼のもろもろの宝を、その中に抱合している、これらのすばらしい祈りと賛美の集成ができあがったのです。
それからというもの、教会はおのれの賛美を、天使たちや天国の聖者らが天において、天主にささげる賛美に合わせるのです。地上における教会の典礼――これぞ、教会が天国において、永遠に続けるその唯一の仕事、唯一の賛美の前奏曲にほかならないのです。教会は、おのれの賛美、おのれの祈りを、天主の人イエズス・キリストのそれに合わせます。ですから、教会の賛美、教会の祈りは、天主化されて、そっくりそのまま、天主の賛美、天主の祈りとなるのです。かくて、地上の典礼は、イエズスの聖心において、天国の天使、聖人たちのそれに溶け入り、それによって、至聖なる三位一体にほかならぬ、無限愛のカマドからほとばしりでる、永遠の賛美のこだまとなるのです。