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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き6)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き6)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見

 三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である


(Ⅱ)典礼生活とは何か?
II Qu'est-ce que la Vie liturgique ?

 主よ、教会の規定は、きびしくわたしに、典礼の儀式を忠実に守るように、典礼の言葉を正確に発音するように、と命じています。
Seigneur, les lois de votre Eglise n'exigent strictement de moi que la fidèle observation des rites, et la prononciation exacte des paroles.

 だがしかし、あなたはわたしが、善意のありったけを傾けて、もっとたくさんのものを、あなたにおささげするように、とお望みになっていることは、疑いのないことです。あなたは、わたしが、精神をつくし、心をつくして、典礼の宝庫にかくされている無限の富を、よく利用することを、あなたの教会にわたしが、もっと深く一致することを、あなたご自身にわたしが、もっとかたく一致することを、お望みになります。
 善き師よ、わたしはあなたの忠実な、しもべたちの良い模範にしげきされて、母なる教会に招待されるままに、典礼というこのすばらしいうたげに、出席しようと決心し、また、懸命にそれを望むのです。わたしは確信しております。――聖務日課のかにこそ、その祈りの形式、その儀式、集禱文、書簡、福音書の抜粋のなかにこそ、さらにミサ聖祭、ならびにその他の、秘跡の執行のなかにこそ、わたしは自分の内的生活を、進展させるための健全な、そしてゆたかなかてを見いだすことができるのだ、ということを。

 典礼を織り成すいろいろの要素を、相互に結びつけている根本思想を、ちょっとでも考えてみますなら、また、典礼から生じる霊的効果が、どれほど自分の内的生活を進歩させるか、それをいくぶんでも考えてみますなら、この考察こそは、あらゆる信心生活の迷いから、わたしを予防してくれるにちがいありません。



 典礼の儀式の一つ一つは、高価な宝石にもくらべられよう。だが、ミサ聖祭と聖務日課の価値と光輝は、これを典礼暦年の季節にしたがって、その意味を深く味わいながら果たすとき、どれほど高く評価しても過ぎることはない。

Chacun des rites sacrés peut être comparé à une pierre précieuse. Mais à quel point la valeur et l'éclat de ceux qui se rapportent à la Messe et à l'Office se trouvent rehaussés, si je sais les enchâsser dans ce merveilleux ensemble qu'est le Cycle liturgique.

 わたしの魂は、典礼暦年の各季節ごとに、一つの大きな奥義の観想にとらえられる。聖書と聖伝は、この奥義にかんして、最もりっぱな、最も滋味ゆたかな教えをきかせてくれ、わたしの知性と心情を養ってくれる。わたしの精神は、たえまなく、典礼に盛られているあまたの思想のなかの、根本思想にむかって集中される。当然の結果として、これこれの真理、これこれの教訓にむかって、わたしの注意は凝集される。
 そればかりではない。わたしの魂は、教会が典礼の儀式において、あふれるばかりにそそいでくださる、聖なる感激にひたり、そこに自分の肉となり血となる美味な、かてを見いだし、天主が典礼の各季節、各祝日にそなえられている特別の恩寵を、自分の霊魂の利益になるように、よく利用することができる。
 典礼の奥義は、わたしの霊魂に深く、浸透する。それは単なる、抽象的真理のように、ただ漠然と浸透するのではなく、わたしの全存在をとらえて、感性能力までも動かし、これを用いてわたしの心情をしげきし、意志に確固たる決心をとらせる。典礼の儀式はけっして、生命のない過去の出来ごとの、記念行事ではない。年毎に催される、単なる記念祭ではない。それは、現在進行しつつある、一つの出来ごとのようなものを持っていて、教会はその効果を現実に、わたしの霊魂に適用してくださる。

 たとえば、ご降誕節ちゅう、祭壇のもとで、天主のみどり児のご誕生を祝う。それを祝いながら、わたしの魂は、こういうことができよう。
 「きょう、キリストはお生まれになった
  きょう、救い主は、世にお現われになった
  きょう、天使たちは、地上で讃美歌をうたう。」
Hodie Christus natus est, hodie Salvator apparuit, hodie in terra canunt Angeli.(御降誕の祝日の聖務日課より)

 典礼暦年の各季節ごとに、ミサ典書と聖務日課祈祷書は、わたしの魂に、人類にたいするキリストの愛についての、新しい光りをあたえる。この光りに照らして眺めるとき、キリストは、わたしを愛してくださる王様であり。わたしの霊魂のわずらいをいやしてくださる医者である。苦悩のときの慰め主であり、救い主であって、同時に親友でもある。ベトレヘムの馬小屋に、ナザレの仕事場に、あるいはまた、チベリアデの湖畔におけるがごとく、祭壇の上でも、イエズスは、世の人を照らす光りとして、人びとの愛をご一身にひきつける御者として、心やさしさにあふれる御者として、慈悲そのものとして、われわれの心眼に映ずる。そのなかでも、とりわけ、愛の化身として、イエズスはご自身を、お現わしになる。苦悩の化身、ゲッセマニの苦悩者、カルワリオのいけにえであられるから、当然そうなのである。

 このようにして、典礼は、聖体的生活に、究極の開花をあたえる。そして、ああ、イエズスよ、あなたのうちに、天主を見えるものとしてわれわれに示し、かつ天主をわれわれに近づけさせたご托身は、われわれが祝う奥義の一つ一つにおいて、おなじ働きをしてくれます。このような仕方で、わたしは典礼のおかげで、教会の生活とあなたのご生活に、参与するのです。典礼生活のおかげで、わたしは年ごとに、あなたのすべての奥義に、参加することができます。――ナザレトの私生活にも、公生活にも、ご受難、ご復活の奥義にも。そして、そこから、霊魂のために、ゆたかな効果を収めるのです。
 そのうえ、あなたのご生活をいちばんよく模倣した、聖母や諸聖人たちの、ときどき祝われる祝日のおかげで、わたしはあなたの諸徳を、自分お霊魂につちかうため、福音の精神を、信者の霊魂にいっそう深く浸透させるために、もっと大きな光りと力を恵まれるのです。もしわたしが、典礼の宝庫に足をふみ入れながら、そこにある驚嘆すべき珠玉に、目をとめることさえしないなら、どうしてわたしは、聖ピオ十世教皇のお望みを、わたしの使徒職に、実現することができるのでしょうか。どうしてわたしの助けによって、信者たちは、典礼の聖なる奥義、公けの祈禱、教会の祭式に、能動的に参加することができるのでしょうか。これこそは、同じ教皇様がいわれましたように、真のキリスト教的精神の流れいずる第一の、そして必要欠くべからざる源泉でありますのに。(一九〇三年十一月二二日ピオ十世『自発教令』)

 わたしの霊的生活に、もっと統一を与えるため、また、教会の生命に、もっと深く一致するために、わたしはできるだけ典礼の生活に、他の信心も加えるように精を出すでしょう。たとえば、典礼暦年の、ある季節または祝日に、関係のあることを、わたしはよろこんで、黙想の題目にするでしょう。聖体訪問のときも、典礼の奥義に応じて、あるいは幼きイエズスと、あるいは受難のイエズスと、あるいは栄光のイエズスと、よろこんで対談するでしょう。キリストの奥義にかんして、または聖人たちの生涯にかんして、かきしるされている信心読書も、わたしの典礼生活に、なんらかの助けをもたらせてくれるでしょう。



 拝むべき主よ、どうぞわたしを、まちがった、ニセものの典礼生活から救ってください。それは、あらゆる内的生活に危害を加えるもの、わけても、心戦を弱めるものですから。典礼生活を、ただ詩的興趣や宗教的考古学の、魅惑的研究のみに置く信心から、わたしを救ってください。その他、すべて静寂主義にみちびくもの、すべて内的生活を弱め、枯渇させるもの、たとえば、天主にたいする過度の恐怖、またはすべて天主への信頼、救霊と完徳への熱望、欠点との戦い、善徳を修得するための努力などを弱める、まちがった信心から、わたしを救ってください。
 多忙な、霊生に危険な、種々雑多な仕事にわずらわされながら、生きていかねばならぬ現代にあって、典礼生活は、たとえそれが完全にいとなまれていたにせよ、どうしても朝の黙想を廃してはならぬ、という強い確信を、わたしの心に与えてください。典礼生活を、ただ単なる外部からの快適な印象と瞬間的な感動におき、意志を、想像と感覚のどれいにするいっさいの甘い感傷主義から、いっさいの涙もろい子供らしい信心から、わたしを救ってください。
 むろん、あなたはわたしに、典礼のもつすべてうるわしい審美的要素にたいして、すべて詩的なものにたいして、無感覚であれ、無表情であれ、とは仰せられません。事実はこれと全く反対です。典礼の美しい讃美歌、典礼の荘厳で優雅な祭式によってこそ、教会はまず、その子らの感覚に呼びかけるのです。その目的は、典礼の意義が、その子らの魂に、もっとゆたかに浸透されますように、かれらの意志に、超自然の善をもっと鮮明に示して、それにあこがれさせるように、そのためにかれらの魂を、いっそう確実に、いっそう容易に、いっそう完全に、天主の方へ挙げるためなのです。そんなわけで、わたしは、典礼によって浮きぼりにされた教義のなかに含まれている、きわめて有益な、きわめて美しい真理を、心から味わうことができるのです。
 盛儀ミサの華麗な、荘厳な儀式をながめては、心は神々しい感動に波うちます。告解場で、罪のゆるしを与えるときの祈り、または、洗礼、終油、葬式などのときにとなえる祈り、これらの意味深い祈りを、心から味わいながら、となえることができます。しかしながら、わたしは、聖なる典礼の提供する、これらのゆたかな霊的資源が、実は内的生活の目ざす、唯一の目的にわたしをみちびく、単なる手段にすぎないのだ、という事実を見のがしてはなりません。
 その唯一の目的とは、ああ、イエズスよ、わたしの“古き人”を殺して、その代わりに、あなたがタダ一人、わたしの内に“生き、かつ統治する”この理想郷に、わたしが達することなのです。かくて、わたしが、典礼の精神に浸透されて、ミサ聖祭をよく利用し、教会との一致の生活をますます深めていくために、典礼や儀式をうまく利用し、このようにしてイエズス・キリストの内的生活に、したがってその諸徳に参与し、わたし自身の身に反映しているこの同じイエズス・キリストが、ますます鮮烈に、信者たちの目にもうつりますなら、そのときわたしは、自分はほんとうに典礼生活をいとなんでいるのだ、と言い切ることができましょう。


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