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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2018年4月8日 「白衣の主日の2つのメッセージ」

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2018年4月8日(主日)白衣の主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2018年4月8日、復活の八日間の白衣の主日のミサを行なっております。

主日のお知らせが3つほどあります。

まず予定です。今日のこのミサの後にはいつものように、14時から公教要理と、あと次の4月22日のミサの聖歌の練習もしたいと思っています。これは復活祭のお休みのような感じでいらして下さい。16時から晩課があります。

明日は朝7時からマリア様の御告げの移動された祝日があります。ちょうど枝の主日であったが為に、マリア様の祝日が明日に移動されています。

第2は、大阪の信徒の方ですが、聖木曜日に霊魂を天主様の元に帰らせました。モニカさんで、私たちの教会には約20年ほど通って、いつも必ず通って来た方です。亡くなる前には終油の秘跡も、そして最後の御聖体拝領も受け、そして大阪で昨日葬儀ミサもしてきました。そこでもしも皆さんも、何かいざという時に、あるいは病気だ、あるいは何か司祭の秘跡を必要としている、病気の方がいらっしゃる、あるいは…という時には是非、あるいは会長様か、あるいは私に直接、何か私どもに一言ぜひ連絡して下さい。21世紀ですから、もう距離は関係ありません。ですからどうぞ何も心配せずにご連絡を下さい。

第3のお知らせは、聖ピオ十世会のオブレート奉献修道女の修練院長様から連絡を受けて、私たちのミサに与っていた姉妹であるヨゼフィーナさんが、今度の6月27日に、マリア様の絶えざる御助けの聖母の日に着衣式をされるとの事です。どうぞ皆さんのお祈りと、良い儀式ができますようにお願いします。もちろん7月には聖ピオ十世会の総会もありますので、総会の為にもお祈り下さい。


「お前の手を私の釘の痕に乗せよ。そしてこの釘の痕を確かめよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日で、教会は私たちに2つの事をメッセージを伝えようと思っています。

1つは、皆さんは赤子である、赤ちゃんである、という事です。

もう1つは、皆さんは今日は聖トマスになる、使徒聖トマスになる、遅れて来たそのトマスになる、という事です。

そして赤子であって、トマスである皆さんが、今日はどのようにしなければならないかという、特に今日の御聖体拝領をどのように拝領するか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

「神父様、一体何の話をしているのですか?何で赤ちゃんであってトマスなのですか?」

これが今日の、主日に教会が私たちに思い出させようと、あるいはこのように行動するようにと望んでいる事です。

まず第1のポイントは、まず「私たちが赤子である」という事です。これは入祭誦からもはっきりしています、“Quasi modo geniti infantes.”「話す事ができない赤子のように、乳を求めよ。」

これは何を意味しているかというと、今から1週間前の復活の徹夜祭に、洗礼を受けた新しい受洗者の事です。と同時に、洗礼をすでに受けた私たちの事をも思い出させようとしています、「お前たちもそうだった。洗礼の約束を一緒に、洗礼志願者とした者たちである」という事を思い出させようとしています。「私たちも実は赤子である。」

その証拠に、今日の書簡書では聖ヨハネの言葉を使って、「洗礼を受けた者は、天主から生まれた者である」と言います。私たちは天主の子供であって、天主から生まれた者であって、イエズス・キリストと共に葬られて、新しい命に復活した者です。

教会が今日、洗礼の水によって生まれた私たちに、別の白いミルクで、あるいは赤い御血で、私たちを養おうとしています。聖ヨハネの書簡の中にも、水と血の話が出ますが、この白い乳であり、そしてイエズス様の脇から出る御血は、これは「御聖体」の事です。私たちはまだ生まれたばかりの子供であるので、教会は母として、私たちが早く強くなるように、ますますイエズス・キリストの命を生きる事ができるように、御聖体によって養われる事を望んでいます。私たちが子供である、という事です。

実際に、白衣の主日というのは実は、ローマでは昨日の土曜まで、毎日、洗礼を受けたばかりの人たちが新受洗者が、教会にミサに白い服を着て与っていました。なぜかというと、洗礼を受けた時に司祭からこう言われたのです、「白い衣を受けなさい。主の婚宴に招かれる日まで、この着物をこの服を汚れなく保ちなさい。」そこで、新しくイエズス・キリストを着て、そして教会に来る。

そしてちょうど実は昨日ミサでは、「イエズス様が復活した時に、聖骸布がたたまれて墓に置いてあったのを見た。墓は空だった。それだけが残っていた。イエズス様はそれを脱いで復活した。どこかに行かれた」という場面が読まれたのです。それと同じように新受洗者も、この白い服を昨日脱いで、今日初めて普通の服を着てミサに与かった、その事も意味します。

ただ地方によっては、毎日白い服を着てくる事ができずに、主日しか来れない人がいた所では、今日まで白い服を着ていました。

霊的に教会は、特に聖パンクラツィオ殉教者の元に呼び寄せます。なぜかというと、その聖パンクラツィオ殉教者は14歳で、自分の血をもってイエズス・キリストへの忠実さ、そして洗礼の汚れの無さを保ったまま血を流した子供だったからです。この聖パンクラツィオの元に、新しく洗礼を受けた天主の子供たちを呼び寄せます。「私たちも霊的にその聖パンクラツィオの元に行って、私たちも天主の子供として最後まで、天主から受けた洗礼の汚れの無さを保って、血を以てそれを証する事ができるように」という願いが込められています。

第2には、私たちは今日は聖トマスです。これは何かというと、イエズス様が復活した、その復活の主日には聖トマスはいませんでした、遅れて来ました。そして弟子たちは皆、「イエズス様を見た。信じている。」「見た」と言って、イエズス様が復活した事を信じているのですけれども、聖トマスは信じません。馬鹿にします、捨て台詞をします、「僕はね、信じないよ。君たちは夢を見ている。僕の手を本当に釘の痕に付けて、脇に手を入れて確かめたら、信じてやる。フンッ。」弟子たちが、「おぉ、トマス…」何度言っても、宥めても、何度言っても信じません。頑として信じません。

そして今日、ドアが閉まっていて、誰も本当なら入って来る事ができないはずなのに、その真ん中にイエズス様がやって来ます。イエズス様は叱るのではなく、憐れみと優しい言葉をいつものようにかけて下さいます、「お前たちに平和あれ。」

私たちは本当に、どれほどイエズス様と違うでしょうか。私だったら、「あぁ、何だお前。何で信じなかったのか。」嫌味を言ったり、文句を言ったり、叱ったり何かするのではないかと恐れます。しかしイエズス様はそのような事を一切触れずに、「お前たちに平和あれ。」

そしてトマスには、何も言わずに、「さぁ、私の傷跡に手を入れてごらん。さぁ脇に手を差し込んでごらん」と仰るだけなのです。にっこりと微笑んで、嫌味でも何でもないのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。

私たちも今日ミサの時に、司祭は聖変化の言葉をします。すると戸は閉じられていても、イエズス様は私たちの間に来られます。イエズス様の仰った通りに、聖トマスはこう手を、跪いて、確かに手を触って、この釘の跡を見て、脇に手を入れて、「あぁ、十字架にかかったその通りだ。このような仰り方も、このような優しい御言葉も、イエズス様しかいない。こんな優しい方はこのイエズス様しかいない。」と確信します。そこで、「我が主、我が天主なり!」と信仰告白します。ラテン語を見てもギリシャ語を見ても、これは呼格ではないのです。呼びかけではなくて、主格であって、「そうである」という断定なのです。

するとイエズス様は、「お前は見たから信じたけれども、見ないで信じる者は幸いである。」どうぞ司祭が御聖体を上に挙げる時に、皆さんも、「これこそ我が主なり、我が天主なり」と心の中で仰って下さい。イエズス様は、「見ずに信じる者は幸いである」と仰って下さいます。そして私たちは天国において、本当にイエズス様の姿をその見る時に、もっと幸せになります。

では私たちはどのように、それだけで良いのでしょうか?実際、聖トマスのように手を伸ばして下さい、といっても、御聖体拝領の時では口で聖体拝領なさって下さい。跪いて、イエズス様の御体をお受け取り下さい。皆さんが聖体拝領するのは、ただのパンではありません。復活されたイエズス・キリストです。どうぞこのイエズス・キリストを聖トマスのように、私たちの舌で感じ取って下さい、「これこそ我が主、我が天主なり。」

では、今日はどのような遷善の決心を立てたら良いのでしょうか?

私たちは子供として、天主から生まれた子供として、イエズス・キリストへの信仰によって、この世に勝った者として、どうぞ御聖体拝領に来て下さい。御聖体拝領をするのは、真にイエズス・キリスト様です。御聖体は単なる聖なる「物」ではありません。生きている、復活されたイエズス・キリスト御自身です。今天国でいらして、私たちを愛しておられる、「お前たちに平和あれ!」と仰っているイエズス・キリスト御自身です。どうぞこのイエズス様を、復活されたイエズス様でとして、聖トマスのように拝領なさって下さい。

公教会の掟によれば、「特に一年に一度告解をする事。そして一年に少なくとも一度、復活祭の頃に御聖体拝領をする事」というのがあります。そこでぜひ、この御聖体拝領を、御復活の義務を今日捧げて下さい。「イエズス・キリスト御自身である」という深い信仰の内に、礼拝と感謝の内に、御聖体拝領なさって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。「マリア様、どうぞ私に力を与えて下さい。信仰をますます深くして下さい。私は今まで、『イエズス様を確かに信じている』と言いながら、『イエズス様の為に死ぬ』と言いながら、実際の行動ではそうでなかった事が何度もありました。この復活祭の主日から、イエズス・キリストこそが真の天主であるという事を確信させて下さい。イエズス様は生きておられます。復活されておられます。いつも私たちを御覧になって、愛しておられます。これを忘れる事がなく、死ぬ日まで洗礼の約束を守り通す事ができるように、お助け下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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