アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き10)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅳ)典礼生活の利益 (1/2)
IV. Avantages de la Vie liturgique.
(a)典礼生活は、わたしのすべての行いを、いつまでも超自然的精神にひたしておく
a) Elle favorise la permanence du surnaturel dans toutes mes actions.
ああ、わが天主よ、いつも超自然的動機に霊感されて行動することは、わたしにとって、どんなにむずかしいことでしょう。わたしはいつもそれを、経験させられています。悪魔と被造物が、わたしの自愛心に加勢し、その結果、わたしの霊魂もその諸能力も、わたしの内に生きてくださるイエズスのおはたらきから、全く独立して行動するのです。
警戒が足りないため、忠実さが足りないために、純潔なる意向は、日中どれほどしばしば、そこなわれることでしょう。純潔な意向こそは、わたしの行為を功徳あるものにし、わたしの使徒職を実りゆたかにしてくれる、唯一のものでありますのに。わたしの行為を、その終局の目的なる天主にむかわせる生ける原理は、天主の恩寵であって、この恩寵によって、わたしの大部分の行為が霊感されるためには、どうしても天主のおはたらきと共に、わたし自身のたえまなき努力が必要なのです。
この努力をかちうるためには、どうしても黙想が絶対必要となってまいります。だが、典礼生活のなかに黙想をおこないますとき、それがどれほど容易に、滋味ゆたかに、そしてちがったものになることでしょう。黙想と典礼とは、あいたがいに助けあう二人の姉妹のようなものです。ミサをささげる前とか、聖務日課をとなえる前に、黙想をおこないますと、わたしの精神は、超自然の世界に雄飛します。典礼生活をいとなみますと、朝の黙想を、日中もつづけておこなうようになります。
[Je fais bien mon Oraison pour bien célébrer ma Messe; et je cétèbre ma Messe et récite pieusement mon Bréviaire pour bien faire le lendemain mon Oraison. (P. OLIVAINT.)]
*
ああ、聖なるカトリック教会よ、父であって創造主なる天主に、ささげるべき礼拝の習わしを、あなたの学校で教えていただくその課業は、なんとやさしいものでしょう。あなたの天配なるイエズスは、天主にささげるべきいともすぐれた礼拝、感謝、贖罪にいまし、天と地との仲介そのものにいます。あなたは典礼によって、天父のご光栄を発揚しようとの、もえるようなイエズスのお渇きを、わたしの霊魂にも通じてくださいます。天主に光栄を帰すること――これこそは、あなたが典礼をお定めになるとき、お心にもっておられた第一の目的なのです。
だから、わたしが典礼の生活を送りますとき、敬神徳にひたされるのは当然のことです。なぜなら、典礼はみな、この徳――対神徳――についで、最もすぐれた敬神徳を、たえまなく、そして公けに、実行にうつしたものにほかならないからです。
典礼の務めを果たすあいだ、もしわたしが信仰の光りをよく利用しますなら、わたしの霊肉のすべての能力を、まったく天主に従わせる絶対従属の誠意を、信心のまごころを、心のたたかいを、それぞれ最高度に発揮して、天主におささげすることができます。だが、永遠の善に精神を向かわせ、それを獲得しようとて、心を熱心の火でもやし、はげしくそれにあこがれさせ、意志をしげきしてこの永遠をしばしば祈求させ、たえまなく追求させるために、霊と肉から成るわれわれ複合体の人間は、どんなに大きな助けを必要とするのでしょう。
さて、典礼こそは、わたしの全身、全霊、全人格をとらえます。典礼のあいだには、儀式がある、跪拝がある。深い礼がある、表象がある、聖歌がある、聖書の章句がある。――これらは、いずれも、わたしの目に、耳に、感覚に、想像に、知性に、心に、じかに訴えて、わたしの全身全霊を、天主のみもとに運んでくれます。わたしの内にある一切のもの――口も舌も精神も、感覚も、精神力も体力も――これらはみな、天主に属し、天主にささげられるべきものである、という真理を、わたしに思いおこせます。
教会が典礼によって、わたしに提示する天主のもろもろの権利、天主にたいするわたしの子たるの崇敬と絶対従属の礼拝を要求する天主のもろもろの完徳は、わたしの霊魂に敬神徳と、したがって超自然的要素をつちかい、そして発展させないではおかない。
典礼のすべては、わたしに天主を語る。
天主のもろもろの完徳を、そのもろもろの恩恵を語る。
典礼のすべては、わたしを天主にみちびく。
典礼のすべては、わたしに、天主の摂理を物語る。――試練によって、お助けによって、おすすめによって、おはげましによって、お約束によって、お光りによって、おどかしによってさえ、たえまなく、わたしの魂にとって自己聖化の手段となる、天主の摂理を物語る。
典礼はまた、たえまなく天主と語るすべを、わたしに教える。
わたしの敬神行為を、ひじょうにちがったいろいろのかたちで、天主にあらわすすべを教える。
典礼をよく利用しよう、との望みを心にいだいて、典礼の務めに身をゆだねさえすれば、“教会人”というわたしの職務からでる、日々の勤行をくり返しているうちに、どうして敬神徳がわたしの霊魂に、深く根をはらないだろうか。どうしてわたしが、敬神の習慣に、敬神徳にひたっている霊魂の状態に、したがってほんとうの内的生活に、到達しないだろうか。
*
典礼は、天主の現存の意識を、修得する学校である。――ご托身がわれわれに示したような、人の子らの一員なる天主の現存の意識を。いっそう適切ないい方をすれば、典礼は、イエズスの現存の意識と愛を、修得する学校なのである。
愛は、愛の対象の愛らしさによって、先方がわたしに示した愛の証拠、わたしのためにした愛のわざによって、とりわけ、聖トマス・アクィナスがいっているように、愛の対象の現存によって、つちかわれ、はぐくまれていく。
さて、典礼は、われわれの間におけるイエズス・キリストのご生命、われわれと共にお住まいになったその地上生活の種々相を、われわれの内に再現し、われわれにそれを説明し、最後にそれをわれわれに適応させる。典礼は、いわば、イエズス・キリストのご生命を再現し、持続し、愛らしさとやさしさにみちた、その聖心のすべての奥義を、われわれに示すことによって、われわれを、超自然のふんい気、神秘のふんい気の中に、いつまでも、ひたしておく。
ああ、イエズスよ、典礼によって、あなたの偉大なる教訓と、あなたの大いなる愛の証拠を、いつまでもいつまでも、地上にお続けになるのは、だれでもない、あなたご自身なのです。典礼生活によって、わたしはだんだんハッキリと、あなたがよくわかってまいります。それも、たとえば、歴史家のように、世紀の幕をへだてて、あなたを観察し、理解するのではありません。または、神学者のように、はげしい議論をたたかわせて、あなたの認識に達するのでもありません。
あなたは非常に近く、ごく近く、わたしのそばにおられます。
あなたは、いつも、エンマヌエル――われわれと共にいます天主、教会と共にいます天主、それゆえ、私と共にいます天主でいらっしゃいます。あなたは、教会の各肢がそれによって生きている、そのなにものかでいらっしゃいます。典礼がわたしをさそって、あらゆる場合、まっさきに、わたしの手本として、わたしの愛の対象として示してくれる、そのなにものかでいらっしゃいます。
祝日の典礼によって、福音書や使徒たちの書簡の抜粋からなる読経によって、さらに種々の秘跡――とりわけ、聖体の秘跡が放射する霊妙な輝きによって、教会はあなたのご生活を、われわれの間に再現してくださり、そのおかげでわれわれも、あなたの聖心の鼓動を、ききとることができるのです。
イエズス・キリストが、わたしの霊魂のなかに生きていてくださる、そしてわたしさえ邪魔をしなければ、イエズスはわたしの霊魂のなかで、おはたらきになろうとしておられる――この真理を、わたしに教え込んでくれる黙想は、わたしの内的生活に、どれほど強力な支えとなることだろう。
だが、日中しばしば典礼が、わたしに提供するいろいろ違った、そして生き生きとした手段によって、恩寵にかんする真理とか、神秘体の生命であって、その補給者にいまし、同時に、各肢と共に祈り、共に働かれるイエズス・キリストにかんする黙想とか、こんな黙想をもって、わたしの霊魂を養うためには、わたしはどうしても、たえまなく、超自然の影響下に身を置いていなければならぬ。キリストとの一致に生き、キリストへの愛に、わたしを固めていなければならぬ。
満悦の愛、好意の愛、なにものにも超える愛、希望をうたう愛、――これらの愛はいずれも、典礼のりっぱな集禱文のなかに、詩篇のなかに、儀式や祈願文のなかに、美しい輝きを放っており、それはわたしの霊魂の深部にまで達する。
このようにして、典礼は、生けるイエズスを、いつも霊魂の内部に現存するイエズスを、わたしに示してくれる。そしてそれは、わたしの内的生活を、どれほど強固にし、どれほど幅広いものにしてくれることだろう。内的生活の途上には、離脱と自己否定の修業がよこたわっている。果たさねばならぬむずかしい義務が待ちかまえている。たえしのばねばならぬ苦しみが、はずかしめがある。
だが、典礼のおかげで、わたしの心戦、わたしの修得すべき善徳、わたしの忍従せねばならぬ試練――などは、それにつきものの苦しさ、いやらしさを、どれほど失うことだろう。なぜなら、わたしは救い主の十字架をながめるとき、そこにはもはやいかなる残酷さも見ない。わたしの心は、十字架のイエズスに愛着している。イエズスのゆえに、十字架を愛している。苦しみが、わたしの身の上に、雨のようにふりかかってきてもいい。イエズスが十字架の上からわたしに、そのお傷を示しながら、どうかわたしへの愛の証拠に、これらの苦悩を忍耐しておくれ、と嘆願しておいでになるそのお声が、心の耳にハッキリききとれるからである。
典礼はまた、わたしに貴重な支えをあたえる。典礼は絶えずわたしに、わたしの愛がひとりぼっちでないことを、くり返し教える。たえまなくわたしを溺らせようとする自然主義、この憎むべき主義にたいして戦うとき、わたしはけっして孤立無援ではない。
教会は、わたしをキリストに、合体させるために、いたって熱心である。そのために、母ごころのありったけを傾けて、わたしの後を追ってくださる。わたしと共同体である無数の霊魂の、功徳にもあずからせてくださる。この霊魂たちは、わたしと同じ愛の言葉を語る。天国の霊魂も、煉獄の霊魂も、わたしと共にいて、わたしを励まし、助けてくれる。このことを確信するとき、わたしの霊魂は、新しい生気にみなぎる。
*
“永遠の思い”にもまして、わたしの霊魂のすべての行為を、天主のほうへ向かわせるものはない。
Rien ne contribue plus que le souvenir de l'éternité à garder l'âme dans la direction de ses actions vers Dieu.
さて、典礼のすべては、わたしに“四終”を思わせる。永遠の生命、天国、地獄、死、世々に至るまで――その他、これに類する表現は、しばしば典礼にでてくる。
Tout dans la Liturgie me rappelle Novissima mea. Les expressions Vita aetema, Caelum, Infernum, Mors, Saeculum saeculi et autres équivalentes reviennent fréquemment.
死者のための祈り、死者の聖務日課、葬式――これらはみな、わたしの目のまえに、死、審判、天国の終わりなき報賞、地獄の終わりなき苦罰、時間の貴重さ、天国にはいるためには現世または煉獄で、どうしてもおかした罪の償いを果たさねばならぬこと――などを、ちょうどパノラマのように、くりひろげて見せる。
聖人たちの祝日は、わたしに、自分の先輩であるかれらの光栄を語る。かれらの跡をたどり、かれらの模範に従うなら、わたしのためにも、天国で大いなる光栄の冠が、用意されていることを教える。
このような教訓によって、教会は絶えずわたしに叫んでいる。「愛する子よ、永遠の天国をながめるがいい。そして“万事において、いつでも、どこでも、ただ天主のみを求める”という、あなた自身の標語に、いつまでも忠実にとどまるがいい」と。
Par ces leçons l'Eglise me crie sans cesse: Chère âme, regarde les siècles éternels afin de rester fidèle à ta devise : Dieu en tout, toujours, partout.
聖なる典礼よ、わたしはあなたのおかげで頂いた、すべてのお恵みを感謝するために、あなたがわたしにあたえてくれる、一切の善徳について語らなければ、気がすまない。あなたがわたしの目のまえに、たえまなく繰りひろげてくれる、聖書のすばらしい抜粋のおかげで、わたしに天主の奥義のかずかずを伝えてくれる、儀式や表象のおかげで、わたしの霊魂はいつも、地上の空しい事物から離脱して、高く天上に雄飛し、対神徳、天主の畏敬、罪への恐怖、世俗的精神への憎悪、被造物からの離脱、心の痛悔、天主への信頼、精神的喜悦へと、さそわれていくのである。
愛する兄弟姉妹の皆様、
恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き10)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(Ⅳ)典礼生活の利益 (1/2)
IV. Avantages de la Vie liturgique.
(a)典礼生活は、わたしのすべての行いを、いつまでも超自然的精神にひたしておく
a) Elle favorise la permanence du surnaturel dans toutes mes actions.
ああ、わが天主よ、いつも超自然的動機に霊感されて行動することは、わたしにとって、どんなにむずかしいことでしょう。わたしはいつもそれを、経験させられています。悪魔と被造物が、わたしの自愛心に加勢し、その結果、わたしの霊魂もその諸能力も、わたしの内に生きてくださるイエズスのおはたらきから、全く独立して行動するのです。
警戒が足りないため、忠実さが足りないために、純潔なる意向は、日中どれほどしばしば、そこなわれることでしょう。純潔な意向こそは、わたしの行為を功徳あるものにし、わたしの使徒職を実りゆたかにしてくれる、唯一のものでありますのに。わたしの行為を、その終局の目的なる天主にむかわせる生ける原理は、天主の恩寵であって、この恩寵によって、わたしの大部分の行為が霊感されるためには、どうしても天主のおはたらきと共に、わたし自身のたえまなき努力が必要なのです。
この努力をかちうるためには、どうしても黙想が絶対必要となってまいります。だが、典礼生活のなかに黙想をおこないますとき、それがどれほど容易に、滋味ゆたかに、そしてちがったものになることでしょう。黙想と典礼とは、あいたがいに助けあう二人の姉妹のようなものです。ミサをささげる前とか、聖務日課をとなえる前に、黙想をおこないますと、わたしの精神は、超自然の世界に雄飛します。典礼生活をいとなみますと、朝の黙想を、日中もつづけておこなうようになります。
[Je fais bien mon Oraison pour bien célébrer ma Messe; et je cétèbre ma Messe et récite pieusement mon Bréviaire pour bien faire le lendemain mon Oraison. (P. OLIVAINT.)]
*
ああ、聖なるカトリック教会よ、父であって創造主なる天主に、ささげるべき礼拝の習わしを、あなたの学校で教えていただくその課業は、なんとやさしいものでしょう。あなたの天配なるイエズスは、天主にささげるべきいともすぐれた礼拝、感謝、贖罪にいまし、天と地との仲介そのものにいます。あなたは典礼によって、天父のご光栄を発揚しようとの、もえるようなイエズスのお渇きを、わたしの霊魂にも通じてくださいます。天主に光栄を帰すること――これこそは、あなたが典礼をお定めになるとき、お心にもっておられた第一の目的なのです。
だから、わたしが典礼の生活を送りますとき、敬神徳にひたされるのは当然のことです。なぜなら、典礼はみな、この徳――対神徳――についで、最もすぐれた敬神徳を、たえまなく、そして公けに、実行にうつしたものにほかならないからです。
典礼の務めを果たすあいだ、もしわたしが信仰の光りをよく利用しますなら、わたしの霊肉のすべての能力を、まったく天主に従わせる絶対従属の誠意を、信心のまごころを、心のたたかいを、それぞれ最高度に発揮して、天主におささげすることができます。だが、永遠の善に精神を向かわせ、それを獲得しようとて、心を熱心の火でもやし、はげしくそれにあこがれさせ、意志をしげきしてこの永遠をしばしば祈求させ、たえまなく追求させるために、霊と肉から成るわれわれ複合体の人間は、どんなに大きな助けを必要とするのでしょう。
さて、典礼こそは、わたしの全身、全霊、全人格をとらえます。典礼のあいだには、儀式がある、跪拝がある。深い礼がある、表象がある、聖歌がある、聖書の章句がある。――これらは、いずれも、わたしの目に、耳に、感覚に、想像に、知性に、心に、じかに訴えて、わたしの全身全霊を、天主のみもとに運んでくれます。わたしの内にある一切のもの――口も舌も精神も、感覚も、精神力も体力も――これらはみな、天主に属し、天主にささげられるべきものである、という真理を、わたしに思いおこせます。
教会が典礼によって、わたしに提示する天主のもろもろの権利、天主にたいするわたしの子たるの崇敬と絶対従属の礼拝を要求する天主のもろもろの完徳は、わたしの霊魂に敬神徳と、したがって超自然的要素をつちかい、そして発展させないではおかない。
典礼のすべては、わたしに天主を語る。
天主のもろもろの完徳を、そのもろもろの恩恵を語る。
典礼のすべては、わたしを天主にみちびく。
典礼のすべては、わたしに、天主の摂理を物語る。――試練によって、お助けによって、おすすめによって、おはげましによって、お約束によって、お光りによって、おどかしによってさえ、たえまなく、わたしの魂にとって自己聖化の手段となる、天主の摂理を物語る。
典礼はまた、たえまなく天主と語るすべを、わたしに教える。
わたしの敬神行為を、ひじょうにちがったいろいろのかたちで、天主にあらわすすべを教える。
典礼をよく利用しよう、との望みを心にいだいて、典礼の務めに身をゆだねさえすれば、“教会人”というわたしの職務からでる、日々の勤行をくり返しているうちに、どうして敬神徳がわたしの霊魂に、深く根をはらないだろうか。どうしてわたしが、敬神の習慣に、敬神徳にひたっている霊魂の状態に、したがってほんとうの内的生活に、到達しないだろうか。
*
典礼は、天主の現存の意識を、修得する学校である。――ご托身がわれわれに示したような、人の子らの一員なる天主の現存の意識を。いっそう適切ないい方をすれば、典礼は、イエズスの現存の意識と愛を、修得する学校なのである。
愛は、愛の対象の愛らしさによって、先方がわたしに示した愛の証拠、わたしのためにした愛のわざによって、とりわけ、聖トマス・アクィナスがいっているように、愛の対象の現存によって、つちかわれ、はぐくまれていく。
さて、典礼は、われわれの間におけるイエズス・キリストのご生命、われわれと共にお住まいになったその地上生活の種々相を、われわれの内に再現し、われわれにそれを説明し、最後にそれをわれわれに適応させる。典礼は、いわば、イエズス・キリストのご生命を再現し、持続し、愛らしさとやさしさにみちた、その聖心のすべての奥義を、われわれに示すことによって、われわれを、超自然のふんい気、神秘のふんい気の中に、いつまでも、ひたしておく。
ああ、イエズスよ、典礼によって、あなたの偉大なる教訓と、あなたの大いなる愛の証拠を、いつまでもいつまでも、地上にお続けになるのは、だれでもない、あなたご自身なのです。典礼生活によって、わたしはだんだんハッキリと、あなたがよくわかってまいります。それも、たとえば、歴史家のように、世紀の幕をへだてて、あなたを観察し、理解するのではありません。または、神学者のように、はげしい議論をたたかわせて、あなたの認識に達するのでもありません。
あなたは非常に近く、ごく近く、わたしのそばにおられます。
あなたは、いつも、エンマヌエル――われわれと共にいます天主、教会と共にいます天主、それゆえ、私と共にいます天主でいらっしゃいます。あなたは、教会の各肢がそれによって生きている、そのなにものかでいらっしゃいます。典礼がわたしをさそって、あらゆる場合、まっさきに、わたしの手本として、わたしの愛の対象として示してくれる、そのなにものかでいらっしゃいます。
祝日の典礼によって、福音書や使徒たちの書簡の抜粋からなる読経によって、さらに種々の秘跡――とりわけ、聖体の秘跡が放射する霊妙な輝きによって、教会はあなたのご生活を、われわれの間に再現してくださり、そのおかげでわれわれも、あなたの聖心の鼓動を、ききとることができるのです。
イエズス・キリストが、わたしの霊魂のなかに生きていてくださる、そしてわたしさえ邪魔をしなければ、イエズスはわたしの霊魂のなかで、おはたらきになろうとしておられる――この真理を、わたしに教え込んでくれる黙想は、わたしの内的生活に、どれほど強力な支えとなることだろう。
だが、日中しばしば典礼が、わたしに提供するいろいろ違った、そして生き生きとした手段によって、恩寵にかんする真理とか、神秘体の生命であって、その補給者にいまし、同時に、各肢と共に祈り、共に働かれるイエズス・キリストにかんする黙想とか、こんな黙想をもって、わたしの霊魂を養うためには、わたしはどうしても、たえまなく、超自然の影響下に身を置いていなければならぬ。キリストとの一致に生き、キリストへの愛に、わたしを固めていなければならぬ。
満悦の愛、好意の愛、なにものにも超える愛、希望をうたう愛、――これらの愛はいずれも、典礼のりっぱな集禱文のなかに、詩篇のなかに、儀式や祈願文のなかに、美しい輝きを放っており、それはわたしの霊魂の深部にまで達する。
このようにして、典礼は、生けるイエズスを、いつも霊魂の内部に現存するイエズスを、わたしに示してくれる。そしてそれは、わたしの内的生活を、どれほど強固にし、どれほど幅広いものにしてくれることだろう。内的生活の途上には、離脱と自己否定の修業がよこたわっている。果たさねばならぬむずかしい義務が待ちかまえている。たえしのばねばならぬ苦しみが、はずかしめがある。
だが、典礼のおかげで、わたしの心戦、わたしの修得すべき善徳、わたしの忍従せねばならぬ試練――などは、それにつきものの苦しさ、いやらしさを、どれほど失うことだろう。なぜなら、わたしは救い主の十字架をながめるとき、そこにはもはやいかなる残酷さも見ない。わたしの心は、十字架のイエズスに愛着している。イエズスのゆえに、十字架を愛している。苦しみが、わたしの身の上に、雨のようにふりかかってきてもいい。イエズスが十字架の上からわたしに、そのお傷を示しながら、どうかわたしへの愛の証拠に、これらの苦悩を忍耐しておくれ、と嘆願しておいでになるそのお声が、心の耳にハッキリききとれるからである。
典礼はまた、わたしに貴重な支えをあたえる。典礼は絶えずわたしに、わたしの愛がひとりぼっちでないことを、くり返し教える。たえまなくわたしを溺らせようとする自然主義、この憎むべき主義にたいして戦うとき、わたしはけっして孤立無援ではない。
教会は、わたしをキリストに、合体させるために、いたって熱心である。そのために、母ごころのありったけを傾けて、わたしの後を追ってくださる。わたしと共同体である無数の霊魂の、功徳にもあずからせてくださる。この霊魂たちは、わたしと同じ愛の言葉を語る。天国の霊魂も、煉獄の霊魂も、わたしと共にいて、わたしを励まし、助けてくれる。このことを確信するとき、わたしの霊魂は、新しい生気にみなぎる。
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“永遠の思い”にもまして、わたしの霊魂のすべての行為を、天主のほうへ向かわせるものはない。
Rien ne contribue plus que le souvenir de l'éternité à garder l'âme dans la direction de ses actions vers Dieu.
さて、典礼のすべては、わたしに“四終”を思わせる。永遠の生命、天国、地獄、死、世々に至るまで――その他、これに類する表現は、しばしば典礼にでてくる。
Tout dans la Liturgie me rappelle Novissima mea. Les expressions Vita aetema, Caelum, Infernum, Mors, Saeculum saeculi et autres équivalentes reviennent fréquemment.
死者のための祈り、死者の聖務日課、葬式――これらはみな、わたしの目のまえに、死、審判、天国の終わりなき報賞、地獄の終わりなき苦罰、時間の貴重さ、天国にはいるためには現世または煉獄で、どうしてもおかした罪の償いを果たさねばならぬこと――などを、ちょうどパノラマのように、くりひろげて見せる。
聖人たちの祝日は、わたしに、自分の先輩であるかれらの光栄を語る。かれらの跡をたどり、かれらの模範に従うなら、わたしのためにも、天国で大いなる光栄の冠が、用意されていることを教える。
このような教訓によって、教会は絶えずわたしに叫んでいる。「愛する子よ、永遠の天国をながめるがいい。そして“万事において、いつでも、どこでも、ただ天主のみを求める”という、あなた自身の標語に、いつまでも忠実にとどまるがいい」と。
Par ces leçons l'Eglise me crie sans cesse: Chère âme, regarde les siècles éternels afin de rester fidèle à ta devise : Dieu en tout, toujours, partout.
聖なる典礼よ、わたしはあなたのおかげで頂いた、すべてのお恵みを感謝するために、あなたがわたしにあたえてくれる、一切の善徳について語らなければ、気がすまない。あなたがわたしの目のまえに、たえまなく繰りひろげてくれる、聖書のすばらしい抜粋のおかげで、わたしに天主の奥義のかずかずを伝えてくれる、儀式や表象のおかげで、わたしの霊魂はいつも、地上の空しい事物から離脱して、高く天上に雄飛し、対神徳、天主の畏敬、罪への恐怖、世俗的精神への憎悪、被造物からの離脱、心の痛悔、天主への信頼、精神的喜悦へと、さそわれていくのである。